第1章 戦前の日本時間
1. 1 ブラジルのラジオ事始
ブラジルでラジオの実験放送が開始されたのは1922年のことである。翌年4月には俚 リオデジャネイロ・ラジオ会社(Sociedade Rádio do Rio de Janeiro)により出力100Wで 第一号の「ラジオ放送」が始まった。(ラジオ放送一番乗りの争いはブラジルにもあり、
1919年にレシーフェで行われたラジオ・クルービ(Rádio Club)の無線送信を第一号とす る者もいる。)ブラジルでラジオの父と称されるのはロケテ・ピント博士である。その功 績を称え、博士の名を冠したラジオ・ロケテ・ピント(Rádio Roquette-Pinto)という放送 局もリオデジャネイロにある。同博士は1934年10月に新移民法起草委員会の5人の委 員の一人に任命された。日本移民排斥に傾きがちな雰囲気の中、博士は常に公平な立場 から意見を述べていたという。ラジオに加えて、間接的にではあるが「日本時間」の発展 の素地を作ったという点でも博士の名前は忘れることが出来ない。
ここでサンパウロ市でのラジオ放送の歴史をおさらいしておく。サンパウロ市では 1923年にラジオ・エドゥカドーラ・パウリスタ(Sociedade Rádio Educadora Paulista)が、
出力10W、PRA-Eの仮コールサインで放送を開始した。続いてラジオ・クルービ・ヂ・
サンパウロ(Rádio Clube de São Paulo)の名前で非公式に放送を行っていた局が、1924年 にラジオ・サンパウロ(PRA5 Sociedade Rádio São Paulo)として開局した。1930年代に 入ってからは局数が飛躍的に増えて、1937年時点で11局を数えるに到った。
放送開始 周波数 コールサインおよび局名
1923年11月 800 PRA6 Rádio Educadora Paulista(後のRádio Gazeta)
1924年6月 1260 PRA5 Sociedade Rádio São Paulo(前Rádio Clube de São Paulo)
1927年5月 1200 PRB6 Rádio Cruzeiro do Sul(後のRádio Piratininga)
1931年5月 1200 PRB6 Rádio Pitatininga(後のRádio Cruzeiro do Sul)
1931年6月 1000 PRB9 Rádio Sociedade Record
1933年7月 1410 PRE7 Rádio América(後のRádio Kosmos)
1934年6月 1340 PRE4 Rádio Cultura “A Voz do Espaço”
1934年11月 960 PRF3 Rádio Difusora 1934年11月 1100 PRG9 Rádio Excelsior
1934年8月 1410 PRE7 Rádio Kosmos(後のRádio América)
1937年5月 840 PRH9 Rádio Bandeirantes 1937年9月 1040 PRG2 Rádio Tupi
1943年3月 PRA6 Rádio Gazeta 1944年5月 620 PRH7 Rádio Panamericana
出所:Reynaldo C. Tavares, “História que o Rádio Não Contou” 他
1. 2 日本の夕べとインタビュー番組
サンパウロ市で4局体制が出来上がって1年を経過した1932年のことである。4局も あれば 1 局ぐらいは少し毛色の変わった企画に飛びつくところも出てくる、という好例 であろうか、1932年7月7日の21:10-22:00に「聖市ラヂオ会社」で「日本の夕」が放送 された。これは地質学者である田中舘秀三博士の企画により実現したものである。田中 舘博士は同年 3 月よりブラジルに滞在しており、学術研究に加え日伯親善に力を入れた 各種活動を行っていた。その一環として日本を紹介するラジオ番組を放送することした。
伯剌西爾時報(1932/7/11)によると、番組内容は以下の通りであった。
1.挨拶(ポルトガル語) 矢崎聖市日会長 2.伯国の皆様へ(日本語) 鈴木章子嬢 3.講演(ポルトガル語) 田中舘秀三博士 4.童謡(虫の楽隊、流れ星、照々坊主) 大正小学校生徒達 5.三絃(二曲) 内畑、明二女史
6.尺八三絃合奏 三絃:内畑・明二女史、尺八:明夢庵剛(?)氏 7.美しい日本(ポルトガル語) ドロリーゲス女史〔原文通り〕
「聖市ラヂオ会社」は、名前からすると、ラジオ・サンパウロ(Sociedade Rádio São Paulo)
と推定される。当時ラジオは都会における最先端の娯楽であり、ラジオ受信機を保有す る日本人家庭も少なかったと推測されることから、日本語新聞における事前の放送予告 は望むべくもなかったものと思われる。それでも日本人社会にとっては新聞記事として 記録に残されるべき画期的な出来事であったことは確かである。
1933年9月に日伯国際陸上競技大会に参加するため、日本陸上界を代表する選手団が ブラジルを訪問した。聖州新報によると、到着初日の歓迎行事の締めくくりとして、9月 2 日の夜に二つのラジオ局で関連番組が放送された。選手団を率いる福井行雄監督はラ ジオ・エドゥカドーラ・パウリスタ(PRA6 Rádio Educadora Paulista)で日本語の挨拶を し、鈴木武夫がポルトガル語に通訳した。(ここで「鈴木武夫」の名が出てくるが、ある いは「鈴木威(たけし)」の間違えなのかもしれない。)一方、他の選手はラジオ・レコル ジ(PRB9 Rádio Sociedade Record)に向かい、住吉耕作選手が流暢な英語で挨拶をし、局 員が通訳を行ったという。
1.3 日本時間の出現
1934年には定期番組としてはブラジル初の「日本時間」が出現した。1934年6月頃に 開始された「日本の夕」であ
る。サンパウロのラジオ・エ ドゥカドーラ・パウリスタ
( PRA6 Rádio Educadora Paulista: 800kHz)からの放送 で、日本音楽、日伯新聞のポ ルトガル語欄提供の日本ニ ュース、広告等を、毎週水曜 日 17:00~18:00 および日曜 日 17:30~18:30 の 枠内で 15分から30 分放送した。8 月中旬には毎日15分間の放 送となったという。番組は
「案外好評で奥地商店など
店頭のラヂオを利用して邦人顧客を誘引してゐる有様」(日伯1934/8/15)と報道された。
因みにどの程度の「奥地」で聞こえるのか、という点であるが、1933年9月27日の伯剌 西爾時報に、同局が10kWに増力するという記事が出ている。それによると、「10kWで はバウルー、リンス、リベイロンプレトでも四球位できこえる」としている。これはサン パウロから半径約300kmの距離に相当し、その時点では多くの日本人移住地を充分にカ バーするものであったと考えられる。
この番組では、サンパウロのマッケンジー大学を卒業して建築技師の肩書きを持つ鈴 木威(東京都出身)が編成を、サンパウロ領事館勧業部の根本市五郎(石川県出身)がア ナウンスを担当した。ラジオで宣伝をして客を集めるということの経験のない日系企業 に通常の半額での広告を募ったりもした。しかし、当時はサンパウロ市における日系企 業の数もまだまだ少なく、日系人の大多数がサンパウロ州奥地にいたことから、商業ベ ースには乗らなかったのか半年ほどで消えてしまったそうである。
なお、この番組に限らず、番組の終了時期を特定するのは非常に困難である。番組を開 始するときには新聞記事や広告で大々的に宣伝されるが、終了時はよほどのことがない 限り、活字で記録されることがないためである。
(日伯 1934/6/27)
日語放送の草分け物語 ―― 第一号は鈴木威さん ――
ブラジルの日語放送は――戦後始まったものとばかり思い込んでいたのだが、極く 最近ヒョンな機会から戦前も戦前、1934年に既に聖市に於てPRH6〔原文どおり〕ラ ジオ・エデゥカドーラ・パウリスタに三十分間の日語放送があった事が判明したので ある。
コロニアの古いスポーツ愛好者ならご記憶の事と思うが、1934 年福井選手を団長 とする大島、大江、藤枝、住吉と言う、当時日本陸上界の一流のメンバーで組織され た五名だけの陸上派遣団が親善試合を目的として来伯した時の事である。
濃紺のユニフォームに日の丸も鮮やかに五選手の活躍は大変な評判となり日系コ ロニアは言うに及ばず、ブラジルのスポーツ界にも大きな話題を呼び現在聖州体育局 長のバジリア少佐も現役のハードル選手時代で盛んに選手団とその技を競ったもの である。
丁度この時、選手団を放送局へ連れて行ってインタービュを計画した鈴木威さん
(現教授)達の間に、日本語で色々な伝達機関を兼ねて一層の事日本語の時間を持と うでは無いかと言うわけで、前記の放送局に三十分の日語時間を始めたわけである。
アナウンサー第一号は、総領事館の勧業部に居た根本市五郎さんがその美声を買わ れて活躍したらしいのである。歌謡曲なども当時は流行歌と言った、あの一曲毎に掛 ける 78 廻転盤だけであまり新しいものもなくジャージャーと雑音のひどいものであ ったが、聴く側にとっては正に天来の妙音とばかり三拝九拝して聴かせて頂いたらし いのである。
さあーこの日系コロニアの草分け放送がそのまま無事に続いていたらば、コロニア 放送界も随分違ったものに成長して居たのだろうが、何せ素人の余技程度ではどうし ても商業ベースに乗せる事が出来ず、約半年間の放送で終止符を打ったわけである。
それから約十四年間を経過して戦後の第一号放送が聖州のアラサツーバ市に生れた 事を付け加えておこう。
(南俊夫、聖市友の会便り 第26号 1972年9月)
1.4 日本からの短波放送
短波は遠くまで電波が届きやすいという特性から、外国向け通信や放送に使用されて いた。日本からの短波放送は千葉県の東京無線電信局検見川送信所の短波送信機を使用 して1930年に開始された。当初は「番組交換」という形で不定期に特定の受信地点に向 けて、相手国(主にアメリカ)における録音中継を目的としたごく短時間の番組送出を行 なっていた。1932年6月からは「対満州国定期交換中継放送」として、日本放送協会の 番組素材を満州の放送局に提供するため、検見川送信所からの定時の短波放送が開始さ れた。毎日3時間(07:00-10:00JST)に加え、日曜日の00:05-00:40 JST、水曜日の00:50-
01:20 JSTに放送が行われた。これもあくまでも満州の放送局による番組中継を目的とし
たものである。しかし有線中継とは違って、目的としない人・地域でも受信装置さえあれ ば傍受出来てしまうのが無線中継の欠点でもあり、利点でもある。
サンパウロ州バウルー市で発行されていた日本語新聞、聖州新報では1934 年5 月 25 日から8回にわたり、「日本が聞える。圓球半周の電波で肉聲の日本語が!」と題して第 一面でラジオに関する記事が連載された。「三年此方聖市〔サンパウロ市〕近郊外に引込 んで日本から放送してる短波長ラヂオ放送を聞かうとて夢中になつている或邦人無線研 究家」を雑誌記者が訪ねて話を聞くという設定で、検見川送信所と台北間の試験放送お よびその合間に流される JOAK の番組中継が受信できること、検見川より台北の電波が 強いことを始め、欧米の短波局との比較も交えた短波受信談義がなされている。最終回
(1934/7/19)の記事で、記者に放送局に対する希望を聞かれた「無線家のラヂオ狂」は、
「日本の對外放送の任にあらるる當局並に當事者が、伯國〔ブラジル〕といふ日本からの 最遠地点で十六万同胞が朝夕故國のニュース音曲、文化に憬れを抱きつつ淋しいロビン ソンクルーソーの状況下に奮闘して居ることを常に其の念頭から離さずに居ていたゞき 度いことです...」と答えている。
一方、日本放送協会は茨城県名崎に完成した国際電話株式会社の 10kW 短波送信設備 を利用して1934年6月1日より定時の台湾・満州向け短波中継放送を開始した。(07:20-
21:40JST に断続的に放送。)この電波もブラジルまで飛んでゆき、「地球の裏から日本を
聽く!ラヂオ短波長放送開始 なつかしい肉聲がはつきりと―大成功」(日伯1934/6/20)、
「ラヂオ 居乍らに日本を聽く 近ごろは殆んど完全」(日伯1934/7/25)などのタイトル がブラジルの日本語新聞に並ぶようになる。受信状況については「東京夜の放送で六時 五十五分のカーレント・トピックから七時より七時半までのニュースは當地の同日の朝 同時刻に聽きとれる。勿論天候の都合に支配され毎日完全とは稱し難く雑音ひどく或は 波状の抑揚甚だしく意味の判別に苦しむこともあるが昨今の好晴では毎朝大概完全に聽 くを得、日によればその後引き續いて行はれる講演、落語、レヴイユーなどまで大した苦 勞なくきかれることもある」(日伯1934/7/25)、あるいは「本社編輯部のここ數ヶ月に亘 る聽取試驗の結果では、現在のところで、天候、空中雑音等に阻害されていまだ充分に キャッチ出来ないが大體に於てご前三時から同八時頃迄の間(日本のご後三時より八時)
が幾分良好に聽取出来る状態である。」(BJ 1934/10/17)と伝えている。時には聴取に苦労 しながらも、ブラジルの日本語新聞は故国の動静を伝える貴重な情報源としてこの短波 放送を活用することになる。
また、日伯新聞社は アメリカ製ラジオ受 信機の代理店となっ て、「JOAK こちらは 東京放送局でありま す。聞えます、聞えま す」と、日本語による 娯楽が少なかった当 時の移民に向けての ラジオ販売の宣伝を 行なった。日本放送協 会も海外での受信に 関心を持ち、サンパウ ロ総領事館宛に受信 状況や各種要望を知 らせてほしい旨の連 絡をしてきた。
1934年10月9日からは「日本電波の受聽室の一隅で」と題して短波受信に関する新た な連載が聖州新報で始まった。ただし、時局を反映してか、回を重ねるごとにラジオ聴取 から電波兵器へと話題が変わっていった。また、年末には「歳暮のご進物にアナタはこれ を!!!...短波長を通じて聞ゆるなつかしい母國のニュースや音楽…」と日本からの放送 を聞くためのビクターラジオ受信機の総取次店の新聞広告が日本語新聞紙上に掲載され た。
1908 年の第一回移民から約四半世紀を経た 1934 年は、まさに日本移民の間でのラジ オ元年といってもよい年であった。日本からの短波放送受信ブーム、サンパウロからの 日本語放送開始のみならず、日本とブラジルとの間で番組交換放送を行うための電波伝 播試験が1934年2月26日から2週間行われた。(東京朝日新聞1934/3/1)これは、リオ デジャネイロのラジオ・クルービ(Rádio Clube)の電波を日本の門司市在住のDXerがキ ャッチして、受信報告書を送付したことがきっかけとなったものであった。加えて、趣旨 の良く分からない「中継放送局」の広告が日伯新聞に掲載されたのもこの年であった。
(日伯 1934/9/5)
(日伯1934/10/10)
1.5 サンパウロ市での日本音楽番組
ラジオ・エドゥカドーラ・パウリスタ(Rádio Educadora Paulista)での日本時間が消滅 してからしばらくの間は空白期間が続いた模様である。しかし、上述の「ラジオブーム」
のおかげでラジオ受信機を持つサンパウロ市の日本人家庭が飛躍的に増大したというこ とは想像に難くない。このような「入れ物」(ラジオ)があってこそ、「中身」(番組)が 出てくるものである。
ところで、伯剌西爾時報(1936年4月8日)に、「一昨年來ブラジルの放送局では特に
『日本時間』を設け日本の童謠民謠等のレコード放送をしてゐるが、これは在留同胞の 慰安と音樂を通じて國際親善になるものとて母國に在る文化振興會では大喜びで証成寺 の狸、兎のダンス、黒ニヤゴ、僕の青春、濡つばめ、赤城の子守唄、丹下左善、出船の唄、
伊那節、東京行進曲、燃ゆる御神火、佐渡おけさ等々の童謠民謠流行歌等々とりまぜて放 送局宛送附して來た。」とある。これはラジオ・エドゥカドーラ・パウリスタの番組が続 いているとも読めないことはない。
しかし、同局での番組は短命であったとされており、後述のリオデジャネイロでの童 謡放送も含め、ブラジルでの一般的な動きをさすものと捕らえた方が自然であると思わ れる。
(1)1936年
1936年11月5日の20:45-21:15にロテリア・パウリスタ〔Loteria Paulista:宝くじ会社〕
の提供で在留邦人慰安の音楽番組がラジオ・クルツーラ(PRE4 Rádio Cultura: 1300kHz)
で放送された。「君が代」のあと、小齋マリオの挨拶、「夢の大島」、無題歌「我等の相識 る日」、「あの日から」、「港の別れ」、「緑の廣野」、「日本軍隊行進曲」、「大島しづく」、「島 の唄」等の日本歌曲、そして最後に「君が代」が再度流された。
(2)1937年
1937年9月3日にラジオ・ツピー(PRG2 Rádio Tupi: 1040kHz)が開局した。それに先 立つ1937年8月31日付日伯新聞に、「聖市ラヂオ・ツピーでは総領事館から本社發賣の コロンビア日本盤を貰い受け毎夜放送して一般に日本情緒をまき散らしてゐる。更に聽 取者からの注文で放送する前に歌詞を飜譯して氣分の上に拍車をかけることになった。」
とある。ラジオ・ツピーが試験放送の段階から日本音楽を流していたことになる。開局後 には定時番組をすぐに開始したようで、新聞に掲載された9 月4日の放送番組表には、
10:00-10:30に“Música Oriental”〔東洋音楽〕とある。(Histórias que o Rádio Não Contouより)
1937年11 月~12 月にかけてテノール歌手藤原義江のブラジル公演が行われた。藤原 は大都市のみならず日本人の多く住むサンパウロ州奥地にも足を伸ばし、日本の曲を多 数取り入れたプログラムを編成し、多くの聴衆を魅了したという。11月27日に行われた リオデジャネイロ公演の模様がサンパウロのラジオ・ツピーで中継されたのを始め、
12月8日のリンス公演もラジオ電波に乗せられた模様である。
(3)1938年
一時中断されていたラジオ・ツピー(Rádio Tupi)からの日本音楽番組が、日本総領事 館の尽力により1938年3月17日(木曜日)に10:00からの15分番組として再開された。
この番組のために、お人形ダイナ、山寺の和尚さん、證城寺の狸囃、おしゃれ仔狐、桜お どり、日本橋から、曠野を行く、米山三里、花見おどり、東京万歳、春の海、軍艦マーチ、
吉原雀、爪さきおどり、私の青空、六段、新内流し、かっぽれ、賤機帯、潮来出島のレコ ードが準備された。(SS 1938/3/16)
その後、聞きやすい日曜日の放送を、という聴取者からの要望を受け、4 月(3 日?)
より放送時間が日曜日の10:00-10:15に変更された。
この定期番組に加えて、1938年に入り、ラジオ・ツピーにおいては日本音楽の特別番 組が幾つか編成された。まずは4月29日の天長節奉祝として、15:00-15:15に日本の音楽 レコードを放送した。また、6月16日の22:30には、東京万博への参加を勧誘するため の使節のブラジル訪問を歓迎する番組が放送された。折しもサンパウロ市立劇場専属指 揮者のソウザ・リマが日本領事館を通じて送付を依頼していた日本楽曲の楽譜が到着し、
この中から、「君が代」、「パストラール」(松平信博)、「台湾舞曲」(江文也)の3曲が選 ばれて演奏された。
さらに、9月3日には開局 1 周年記念番組として、遠藤一雄の奔走により16:40-17:00 に日本音楽の時間が組み入れられた。「千鳥の曲」(尺八 三好良雄・鈴木一雄、琴 鈴木菊 江)および「六段」(三味線 三好三和子、琴 鈴木菊江)の2曲が放送され、「千鳥の曲、
六段の調、尺八、三味線、琴の合奏は非常な成功で、内外人に多大の感動を与えた。殊に 千鳥の曲後半における千鳥の鳴き声に通う尺八の美音、六段の調における本手、替手の 二部合奏の妙味は聽衆をして仙境に遊ばしむるの感があった」と報道された。(BJ 1938/9/8)
(4)1939年
1939年1月には日本の国際文化振興会がラジオ・ツピー(Rádio Tupi)のリーマ音楽部 長に対して、日本文化を宣伝してくれたお礼として金一封を贈った。しかし、皮肉なこと にその月のうちに日本音楽番組は中止となってしまった。
5月6日には22:30より村松俊明指揮による弦楽団「童夢クラブ」がラジオ・ツピーに
て「瀬戸の風景」、「国境の町」、「影を慕ひて」を放送し、「放送局でビックリする位の出 來榮えにブラジル人の絶賛を浴びた」(日伯 1939/5/9)と報道された。因みに童夢クラブ はサンパウロ南のキロンボ植民地の小学生による音楽グループで、前日サンパウロ市内 で演奏会を行い、現地紙で絶賛されており、6日の放送も局よりの招請で行われており、
ラジオ中継は数ヵ月前から予定されていた。
9月には國井商店(Casa Comercial
Kunii:國井五郎)の協力によりラジ
オ・バンデイランテス(PRH9 Rádio Bandeirantes: 840kHz)で日本レコー ド音楽の時間が開始された。國井商 店は日本およびドイツ商品の輸入 販売商で、日本のレコードも取り扱 っていた。番組担当はサイアニ・ネ ットで毎日 09:30-09:45 に放送され た。同番組は好評につき 10月より 09:00-09:30に拡大された。國井商店 にはサン・ジョゼ・ドス・カンポス の結核療養所の患者から、毎朝の
“日本レコードの時間”は私達にと って唯一の楽しみであり、今後とも 良いレコードをかけてほしい、とい
う趣旨の感謝の手紙が届いた。(BJ 1939/10/27)
(5)1941年
1941年3月23日(日)の21:00-22:00にラジオ・ピラチニンガ(PRB6 Rádio Piratininga:
1200kHz?)で「日本音楽の夕」が放送された。これは日本音楽研究会筝曲部指導者の鈴 木菊枝が生花と日本音楽研究のために一年の予定で訪日することとなり、同研究会がそ の送別記念放送を行ったものである。この研究会を主宰するのは三好および鈴木夫妻で あり、その名前は1938年9月のラジオ・ツピー(Rádio Tupi)番組の演奏者としても見 られる。当日は、愛国行進曲、筝曲 千鳥の曲、長唄 岸の柳、小唄 唐人お吉、地唄 黒髪、
尺八独奏 秋の調、そして最後に再び愛国行進曲が流された。
「出演者は三好、鈴木、安田、林、黒石、徳岸、八幡諸氏並びに夫人、令嬢で演奏曲目は 琴、尺八、三味線等の合奏を主とし、前記の通り一般大衆向けに選ばれてあるから誰が聽 いても面白く滿足出來るものばかりである。邦人最初の試みとして當夜の成功が期待さ れてゐる。」(BJ 1941/3/20)、「當夜は東京の放送を聽いてるやうな錯覚を起こさせる程の 出來榮えで非常に好評を博した」(BJ 1941/3/23)、と伝えられている。
また、4月7日(月)からはブラジル人の日本語歌手テレヂンニャ・ゼンチール嬢が歌 う日本音楽番組がラジオ・ピラチニンガで開始された。毎週月・水・金曜日の 19:00 から 15分間の番組であった。初日の番組では山田耕作の「この道」、「からたちの花」、エレア ヂッチの「口吻」の 3 曲が「お馴染みの甘ったるい日本語で」歌われる、としている。
(BJ 1941/4/6)
(SS 1939/10/4)
1.6 日本人のラジオ出演
音楽番組に加えて、日本人がマイクを通じてリスナーに話しかける機会も幾つか設け られた。必ずしも日本語によるものではなかったが、ここに記録しておく。
1935年5月16日に日本経済使節団がリオに到着した。翌17日夜に平生釟三郎団長が 全国ネットのラジオ番組に出演し、「日本經濟使節團の來伯使命を説明し、十年前の來伯 当時の懐舊感より現在のリオ発展の状態に感嘆せる旨を述べ國都上下市民の懇篤なる歓 迎に謝意を表した。」(SS 1935/5/22)。また、同年6月10日19:45-20:00に同使節の一人で ある三井物産の岩井尊人が10分間の日本語挨拶を行い、残りの5分で公認通訳の粟津金 六がポルトガル語に通訳を行った。
1936年にはサンパウロ総領事館の市毛孝三総領事がマイクの前に立った。同氏はスポ ーツ総領事の異名をとるほどのスポーツ好きであった。
そのひとつは8月17日の20:30からラジオ・ジフゾーラ(PRF3 Rádio Difusora: 960kHz)
からの放送である。(21:00からという報道もある。)ベルリン・オリンピックが間もなく 終了し、次回は東京開催が決まっている。決定に当たっては東京開催に投票してくれた ブラジル・オリンピック委員会の協力に感謝する、というような話がポルトガル語で放 送された。
もうひとつは、9月13日にサンパウロ市パウリスターノ競技場で開催される第3回日 伯対抗陸上競技会を前にして、9月10日の19:30からラジオ・ジフゾーラ、および翌11
日の19:30にはラジオ・レコルジ(PRB9 Rádio Record)で、こちらでは日本語による放送
が行われた。
テニスの藤倉と間違はれた市毛さん 名調子〝コロニヤは燃えてゐる″
市毛總領事は十日午後七時半より聖市ヂフゾーラ放送局のマイクを通じて日伯對 抗陸上競技開催について日本語放送を行つたが、いざスイッチが切られ、市毛さんを 紹介する段になってアナウンサー君どう勘違ひしたのかテニスの藤倉君と間違へて 紹介して聞いてゐるものをオヤオヤと思はせたが、翌十一日午後七時半から今度はレ コード放送局から再び日本語放送を行つた。
この方はコンスル・ゼラール・ド・ジャポン・イチゲ〔Consul Geral do Japão Ichige:
市毛日本国総領事〕と放送する。
昨夜以來私には二つのことが起りました。その一つは
と冒頭、前回のヂフゾーラに於てアナ君が紹介を間違えた一件を説明する。
これはアナウンサーが放送する時間が切迫した処へ急いで行つたため間違はれた ので、藤倉と云つたのか藤平といつたのか、とつさの場合で聽きとれなかつたが要 するに藤倉といひ藤平といへ、いづれもスポーツマンとしてブラジル人間に名を止 めてゐる人達である。かくの如く對伯的には日本人の眞價を知らせる事はスポーツ による事が如何に近道であるか・・・・・・
と市毛さんは仲々うまいことを云ふ。更に第一回の放送後市長と會つて日伯對抗競技 について話し會つたことを述べ、語をつゞける。
若くして英雄となるにはスポーツによるのが一番良い方法である。個人生活上有益 なることはこゝでは申しますまい・・・・・・
今度はスポーツ英雄待望論を一席。例の噛んで含めるような調子が出る。
又民間外交の一つとしてスポーツは一番よい事である。對伯的には現在の處柔剣道 も水泳もその域には達せず目下の處何んといつてもコロニヤとしては陸上競技が代 表的なものである。この意味から云つて諸君は日伯對抗にはしっかりやつてもらひ たい・・・・・・選手諸君よ何をやつてもたやすいものはない
と日本の陸上界が今日世界の日本として輝くまでには如何なる努力の道を歩いて來 たか、オリムピック出場の歴史を細々と述べる。
諸君!邦人コロニヤは僅か三十年の歴史しか持たないが一路躍進の道をたどつて 來てゐる!コロニヤは燃えている!このコロニヤの名譽にかけても日伯對抗競技に はしつかりやつてもらひたい・・・・・・
これで市毛さんの放送も終つたが、最後の「コロニヤは燃えてゐる」なんかはどう して仲々名調子だった。
(聖州新報1936年9月12日)
1937年9月に第4回日伯対抗陸上競技会がサンパウロのチエテ競技場で開催された時 にも、日本語放送が行われたという。「市毛総領事は日伯対對競技奨励の意味で昨夜夜八 時葡語でラヂオ・レコードのマイクを通じて全伯市民へ放送した。尚又今夜は君塚陸連 会長か市毛総領事のうち一氏はジフゾーラ放送局から日本語で日伯對抗競技について放 送する筈」(SS 1937/9/11)。一方、同日付日伯新聞記事によると、市毛総領事が10日夜に ラジオ・レコルジで日本語放送を行い一般の人気を博したとしている。
1938年7月30日の21:00からカトリック使節の山本信次郎海軍少将がラジオ・バンデ
イランテス(Rádio Bandeirantes)で放送を行い、「日本カトリック教徒のメッセージを…
在伯四十万カトリック教徒に對し、世界親和のため信教を通じて鞏固な握手を呼びかけ 東亜の盟主としての日本の地位を理解せしむることとなった。」(日伯1938/7/30)
1939年1月に駐ブラジル日本大使として着任した桑島主計が同年3月にサンパウロ州 を公式訪問した。その締めくくりとして3月31日の19:00からラジオ・クルゼイロ・ド・
スウ(Rádio Cruzeiro do Sul)から日本語で放送した。日本語新聞で事前の放送予告があ ったためラジオの前で期待して待ち構えていた。ところが、「...大使の放送はホンのあ いさつだけだった。二分間だったのに、受信機に獅噛みついた連中『なアんだ、こんな事 か』とがっかり。がっかりした事は是のみに止まらない。直ぐその後で葡語に譯して大使 館員だと紹介された男が放送したが、ヘタクソの発音で明瞭を欠き然も低くおろおろ聲 と來てゐるので、聽ゐて居る方がはらはらさせられたが、之を聽いてゐたブラジル人達
『コイタードオ、セクレタリオ、エスター、トレメンド』〔coitado secretário está tremendo: 気の毒な書記官、ひどいもんだ〕と苦笑した。日本人たる吾々は冷汗が流れました。」(南 米新報1939/4/13)
1939年7月24日の全伯向け番組 “Hora do Brasil” でブラジル訪問中の学術使節田中耕 太郎東京帝国大学教授がポルトガル語で挨拶を行った。また、9月9日の同番組では藤原 義江によるブラジルの歌 “Canções de Saudade” の放送が予定された。
1940年2月に大阪商船のぶらじる丸が処女航海の途中サントスに寄港した。2月24日 夜に船上でレセプションが行われたが、その模様をラジオ・ツピ(Rádio Tupi)が実況中 継した。また21:00から30分にわたり文化使節としてブラジル滞在中のピアニストであ る井上園子がベートーベンとバッハの曲を演奏した。なお、井上は前日にもリオデジャ ネイロの放送局で演奏をし、サンパウロでも中継されたという。
1.7 リオデジャネイロ市での番組
当時ブラジルの首都であったリオデジャネイロでの番組も幾つか伝えられている。
1933年9月に日伯国際陸上競技大会に参加した選手団はサンパウロでの試合を終えた 後、リオデジャネイロに場所を移して対抗試合を行った。9月15日の21:30にはラジオ・
クルービ・ド・ブラジウ(PRA3 Rádio Clube do Brasil)より、「驚嘆すべき美港に来て著 名な選手と技を競うことに無常の満足を感じる...1940年の東京オリンピックではブラ ジル選手と相まみえることができれば幸いだ」、という趣旨の福井団長の日本語演説が放 送され、三浦文雄によりポルトガル語に通訳された。
1935年11月にリオの放送局から日本の童謡レコードを放送したい、との依頼があり、
サンパウロの総領事館が 49 枚送付したところ、12 月に放送されているとの報道があっ た。
1936年9月12日に行われたラジオ・ナシオナウ(PRE8 Rádio Nacional de Rio de Janeiro)
の開局式に澤田節蔵大使が出席し、フランス語で挨拶をした。
日伯中央協会リオ事務所がラジオ・トランスミソーラ・ブラジレイラ(PRE3 Sociedade Rádio Transmissora Brasileira: 1180kHz)の電波を使い、1937年10月25日より22:00-22:15 のうちの約 5 分間「支那事變に關する正確なるニュースを放送させて支那側のデマ電排 擊に乗り出し...伯人の支那事變に對する認識を改めさせ」る動きに出た。(日伯 1937/10/30)これはポルトガル語番組である。その後、短波放送局としても有名なラジオ・
マイリンキ・ヴェイガ(PRA9 Rádio Mayrink Veiga: 1120kHz)と契約しPRE3局とあわせ、
毎日18:00と22:10より2回5分間の放送を行うことになった。この番組は翌年3月初め
までには中止された。
これに代わるものとして、日伯中央協会ではリオデジャネイロでも日本音楽番組を放 送する交渉を進めていた。「リオ市ラジオ・ベラクルスでは來る 24 日頃日伯中央協會伯 國支部の後援で日本時間を設け約30分に亙り童謠、流行歌、琴、三味線、尺八等の日本 音曲を放送することになった。」(日伯1938/3/15)しかしその後放送局より「難条件」が もちだされ、交渉が打ち切られた。このため、他局に話を持ちかけたというが、実現の報 には接していない。
1939年12月11日の18:40には大阪商船の村田省三社長がぶらじる丸就航を記念して
日本の海外向け放送ラジオ・トウキョウを通じてブラジル向けの放送を行い、これをラ ジオ・マイリンキ・ヴェイガが中継することになった。ただし、同日のラジオ・トウキョ ウの受信状況は芳しくなく、中継が実現したのかどうかは不明である。翌12日の 18:45 に同放送内容を三浦参事官がポルトガル語に通訳して放送された。両日とも講演の前後 には日本音楽が流されたという。
1937年の支那事変以降、日本認識の波に乗って日本音楽熱が世界に昂ぶっている、と いう表現が当時の新聞によく見られる。日本を知るために先ずは音楽から、ということ で国策として世界各国にレコードが送付された。その一環として、この時期にラジオ・ツ ピー(Rádio Tupi)での日本音楽番組に気を良くした日本の国際文化振興会がリオの大使 館やサンパウロの総領事館宛にレコードの送付を行っている。新聞報道によれば、「長唄、
常磐津、清元をはじめ新日本音樂や日本人の作曲した交響樂等の古典、近代音樂をば十 二インチのレコードに吹き込み、ポルトガル語スペイン語等の解説をつけ日本音樂の持 ち味を端的に紹介普及することゝなり近く製作の上リオ大使館を通じ各大学文化團體、
音樂關係者に送る由」(日伯 1938/7/22)、「...民謠、ダンス曲のレコード二百枚、國定小 學讀本レコード一年用より六年用まで二組...を至急発送する事になった。此の中で小 學讀本レコードは『日本の時間』に放送し日本の音樂を聽きながら日本語の勉強をラヂ オで廣くブラジル全國へ普及させる」(東京朝日新聞1938/11/16)とのことである。しか し、特に後者の実現のほどは極めて疑問である。
出典略号
BJ: 伯剌西爾時報
SS: 聖州新報
日伯: 日伯新聞