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<追 悼> 嶋昭紘先生 嶋昭紘先生を偲ぶ

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<追 悼> 嶋昭紘先生

嶋昭紘先生を偲ぶ

東京大学大学院新領域創成科学研究科 三谷 啓志

嶋 昭紘先生は,2019 年9 月22 日に肺炎で入院され、その後病態が急変され25 日にご逝去されました。亨年 78 歳でした。あまりにも突然のことであり、もう嶋先生の笑顔と叱咤激励をうけることができないと考えると寂 しさは尽きません。今回本誌の場をお借りして、嶋先生の御業績とお人柄を忍ぶ追悼記事を掲載させていただく ことができたことを感謝します。

嶋先生は、昭和16 年 1 月9 日、京都市に生まれ、東京大学理学部(動物学課程)を卒業後に昭和42 年7 月に 東京大学理学部放射線生物学講座の助手となりました。昭和 51 年 4 月に滋賀医科大学医学部に助教授として赴 任され、昭和 58 年 9 月から東京大学理学部助教授、昭和 60 年 12 月から理学部動物学教室放射線生物学講座を 担当されました。平成 15 年 3 月に東京大学を退官後、平成 17 年 4 月から平成 25 年 7 月までは、環境科学技術 研究所の所長を務められました。

東京大学理学部放射線生物学講座秋田康一教授のもとでラットを使った放射線生物学の研究を開始され、その 後メダカ化学発癌等の研究、化学発がん物質によるメダカ肝がん誘発過程での肝細胞の増殖についての研究を行 ない、当時開発期にあったDNA 顕微蛍光測光法を駆使した定量的な解析を行うことで老化とゲノムの倍数化の関 係をマウスと魚類とで比較されました。また、DNA 修復の研究に関しては、自家樹立したキンギョ培養細胞と紫 外線を使ったDNA 修復の研究に従事され、DNA 修復現象の発見者であるRichard B. Setlow 博士のもとで1982 年 から米国Brookhaven National Laboratory 客員研究員を兼務され、長きにわたる信頼関係を築かれました。

昭和 60 年から、秋田康一教授、江上信雄教授の後任として放射線生物学講座を主宰され、メダカを新世代の モデル動物として確立する海外を含めて研究グループを主導する立場でそのリーダーシップを発揮されました。

ライフワークである「メダカ特定座位法」を島田敦子(当時技官)とともにテスター系統の作製から開発し、メ ダカの生殖細胞突然変異の研究を可能にされました。メダカが卵生動物であり、しかも透明な卵膜を持つことを 活かすことで、Russell らのメガマウス実験に匹敵する規模である約480 万の遺伝子座を調べることを可能にし ました。結果に基づき提唱した孵化前に死亡する個体に高い頻度で観察される「総突然変異」は、マウスでは得 られない高感度の遺伝指標となりました。さらに生殖細胞突然変異の分子機構の解析へと研究を進め、AP-PCR DNA フィンガープリント法をメダカゲノム解析に応用し、放射線照射個体の精子由来の発生異常胚には、広範囲 にわたるゲノム変異があることを明らかにしました。また、ゲノム全般を網羅した遺伝子連鎖地図をメダカで初 めて作製して、分子遺伝学・分子生物学に基づくメダカゲノム研究の端緒を開きました。化学発がん物質(ENU)

による誘発突然変異での処理条件などを検討した先生のデーターは、その後に開始されたゼブラフィッシュでの

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大規模な突然変異体スクリーニングの研究に活用されました。Nüsslein-Volhard 博士(1995 年度のノーベル生 理学・医学賞を受賞)をはじめゼブラフィッシュ研究の創成期の大御所達が嶋先生の教えを受け、彼らを支援し、

我が国のメダカ研究を発信することにも尽力されました。これらの功績により、平成 17 年 5 月 比較腫瘍学常 陸宮賞(財団法人 癌研究会)を「メダカの腫瘍とゲノムの研究」で受賞し、平成20 年10 月には、日本放射線 影響学会功労賞を受賞されています。

大学院教育にも尽力し、多くの学部生、大学院生の教育指導を行う一方で、動物学教室主任、東京大学総長補 佐を勤め、平成 8 年 12 月から東京大学柏キャンパス新大学院研究科創設および推進プロデューサーとして先端 生命科学領域の創設にあたり、現在の東京大学柏キャンパスの創成に尽力されました。

平成 4 年 1 月から平成 7 年 12 月まで日本放射線影響学会会長として学会運営に尽力され。放射線影響協会理 事、国際放射線研究連合日本代表をはじめ多くの役職で社会的貢献を果たされました。

私と嶋先生との出会いは、修士課程で江上先生の研究室に配属された時でもう40 年前に遡ります。嶋先生は、

当時滋賀医科大学で魚類培養細胞の紫外線照射後の修復に関する研究をされていました。嶋先生には、研究室の 大先輩として多くの指導、助言をいただきました。例えば、滋賀医大から古くなった顕微蛍光測定装置を貸し出 していただくことがありました。東京駅の新幹線ホームで人混みをかき分けて大きな荷物を運んで手を振る嶋先 生の嬉しそうな笑顔を見て本当に研究が好きな先生だと思ってことを今も思い出します。その後、東大に戻られ たのと前後して、私が学振DC、助手として京都大学の武部啓研究室にお世話になっている間も京都に来られるた びに声をかけていただき、教授昇任後には、研究室の助手として迎えていただきました。研究室では、毎日大量 の胚を自ら観察されていました。飼育状態のよいメダカを確保すること、大量の胚の記録を孵化まで記録しつづ けた労力は嶋先生の研究への熱意の表れで、同じ規模の実験はもはや再現できないであろうと思います。

嶋先生は、正義感が強く、誠実さと努力を大事にされる方でしたが、その一方で支援すべき人には支援を惜し まない方でもありました。柏キャンパスに新研究科を創設する際には、部局自治の意識が特に高い東京大学のな かで全学協力の合意を形成して、新組織を立ち上げるという難行を完成されました。激務の中、奥様のご病気が 判明するとその看護を何事にも優先され、周りがそれを支援したのもそうした嶋先生のお人柄ゆえでした。嶋先 生の後任として研究室を引き継ぐことができましたが、退職後もメダカ研究の行く末を心配されて、歯痒い思い をされていました。任期残り1 年となり、嶋先生の思いをどれだけ引き継げたのか不安に思っていた矢先のこと で、もっと先生とお話しすることがあったのではないかと後悔しますがどうすることもできません。

新研究科構想の広報パンフレットの見開きには、新組織を象徴する文章として大きく「花が咲く、鳥がさえず る、ヒトは考える」という嶋先生の考案した言葉が採用されていますが、先生が本当に書きたかったのは、「花 が咲く、鳥がさえずる、ヒトは死ぬ」であったとのことでした。先生が何を伝えたかったのか、当時伺っても自 分で考えなさいと答えられたことを思い出します。

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「恩師 嶋 昭紘 先生」

東北医科薬科大学 医学部 放射線基礎医学教室 桑原 義和

2019 年 9 月25 日、癌学会に参加中、嶋先生が亡くなったという連絡を三谷先生から頂いた。調べてみると、

嶋先生から最後の連絡をいただいたのは、2018 年4 月 3 日だった。それ以降は、先生の家の近所で一杯やりまし ようと連絡を入れても返事は無かった。

拝復 桑原義和君

お知らせをありがとう。浅香さんは、新しい職場で張り切って仕事をすることでしょう。

健康に留意し、お励みあれ。

嶋 昭紘

私に呼びかけるときはいつも「桑原君」ではなく「桑原義和君」と呼びかけるのが嶋先生らしいなと感じてい た。そして、いつも健康を気遣ってくれた。

私が嶋先生の研究室の一員になったのは、魚類の脳の発生を分子生物学的に解明したかったからだ。大学院の 試験を受ける前の面接では、メダカを使えば何をやっても良いという事だった。しかし、大学院に入学してから 与えられたテーマは「雄生殖細胞の細胞死」の研究であった。生殖細胞や細胞死には全く興味の無かった私は、

やりませんとも言えず渋々このテーマに取り組むことになった。もちろん、博士課程は他の研究室で脳の発生を 研究するつもりであった。嶋先生は出張ばかりでほとんど研究室にはいなかったと思う。まずは、γ線を照射し たメダカの精巣の組織構築を調べるようにと言われたものの、周囲には組織切片を作製している人は一人もおら ず、同期の院生はいなかったので、しばらくは途方に暮れた。嶋先生のよからぬ噂も耳に入ってきて、早く研究 室から抜け出したい気分だったものの、島田敦子先生に大変お世話になり、何とか修士号を得ることができた。

ぎりぎりだったと思う。そもそも、私は修士論文の提出日を勘違いしており、嶋先生から「前代未聞」と怒られ たのを記憶している。ただ、嶋先生は体調を崩して休んでいたにもかかわらず、さらにはかなり怒っているにも かかわらず、Fax で何度もやり取りしながら原稿を添削して下さったのは今でも覚えている。頼りにすれば、決 して見捨てない人であった。また、出張が無い時はわざわざ私の席までやって来て、隣の椅子に腰かけて色々話 をしてくれたのを記憶している。このころから、なんとなく嶋先生は頼りにすれば、こたえてくれる先生だと思 い始め、博士課程に進んだ。Revised の論文を投稿する際、私は真面目に「受理されないと就職できない」と reviewer への手紙に書いたところ、嶋先生が教授室で桑原義和君らしいと言って、大笑いしていたのを思い出 す。

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本郷から柏に引っ越すと、嶋先生と接する機会はかなり増えた。放射線を照射する装置がまだなかったため、

「わしはうだつの上がらないタクシーの運転手じゃ」と言いながら、本郷まで何度も車で連れて行ってくれた。

休日に実験をしていると、「昼飯は食ったか」とよく誘ってくれて、いつもご馳走になった。私は肉が嫌いな事 を既に知っているにも関わらず、「桑原義和君は肉を食べないんだったな」と毎回笑顔で確認してくるのを覚え ている。

大学院時代は、指導教官と学生という関係を抜け出せなかったと思う。私の方も学生という身分だったので、

嶋先生を信頼していたものの、薄い壁があったと思う。嶋先生と緊張せずに心からお付き合いさせていただいた のは大学院卒業後からである。私が就職した理化学研究所の研究室は非常に閉鎖的であり捏造・パワハラは当た り前であった。先輩のポスドクはデータが出ないと数時間非難され、泣いていたのを覚えている。そのことを嶋 先生にメールで連絡したところ、君が言うなら本当だろうと返信が来た。それだけだろうと思っていたところ、

数日後、突然理研に現れ、ボスに「よろしく頼む」と言って帰って行ったのには驚いた。

私は嶋先生によく連絡していたと思う。嶋先生とは年に2 回くらい東京駅付近の居酒屋で一杯やりながら色々 な話もした。嶋先生の若い時の話や今読んでいる本の話をしてくれた。読んでいる本を見せてくれたこともあり、

書き込みがびっしりだった。私が東北大学に行くことが決まった時は、「壮行会じゃ」と言い大変喜んでくれ、

知り合いの先生をたくさん紹介して下さった。環境研をもっと活性化したいといつも言っていた。最後に嶋先生 と一杯やったのは、2015 年5 月 30 日である。東京大学出版会の「生きものと放射線」に解題を書いたという事 で、本をプレゼントしてくれた。表紙裏には、

謹呈 桑原義和君 2015/5/30 嶋昭紘

といつもの青インクのボールペンでサインがしたためられている。私の宝物である。

この日が嶋先生と会った最後の日であった。いつも、嶋先生がご馳走してくれたのだが、この日はなぜか私と 遺伝研の近藤君が嶋先生にご馳走することができた。いつもは、給料をもらっているので、払います!と言って も「いいから、いいから」と言っていたのに。この日は、「桑原義和君と、近藤周君にご馳走になった」と嬉しそ うに言いつつ丸の内線の改札口へゆっくり歩いて行ったのを今でも覚えている。

嶋先生と最後に話したのは、2018 年のお正月である。漢字の変換ができないので教えてほしいという内容の電 話だった。

今、私が放射線教育に従事しつつ細胞死の研究を行っているのは嶋先生のおかげである。分子生物学が主流で ある今、細胞死の形態にこだわって解析しているのも嶋先生の影響である。嶋先生からは研究以外のこともたく

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最後に、私の結婚式に嶋先生をご招待したところ、返事は無く、とても失望し心に引っかかるものがあった。

5 月 30 日に会った時、行かなかった理由を嶋先生が話してくれた。嶋先生の方でも、心にずっと引っかかってい たのだと思う。会うのはこれが最後と思い、話してくれたのかもしれない。今でも嶋先生の笑顔が忘れられない。

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拝啓、嶋先生

日本放射線影響学会理事長 島田義也

私の大学・大学院時代の恩師は、江上信雄先生と嶋昭紘先生です。江上先生にとっては退官直前の最後の、そ して嶋先生にとっては東大に戻ってこられてからの最初のPh.D 学生でした。

大学院に進学するとき、どの教授の講座にいくか、学生は選択し、Ph.D になるまで、ある意味、人生を預けま す。即ち、落語や将棋の世界で言えば、師弟関係です。

「師と弟子の関係は、信頼で結ばれ、お互い認め合う礎の上に成り立つ。」といわれます。その点、私は嶋先生 に認めてもらえるような学生では決してなかったと思います。夏は山中湖畔の大学寮に入り浸り、時間にもルー ズ。研究テーマも、先輩の実験を安直にまねしていただけ。時間をかけた電子顕微鏡の結果も結局論文にできず しまい。なんとか書いた最初の論文はレフェリーにけちょんけちょんにダメ出し。そんなわけで、指導教官の江 上先生は、私の研究者としての将来を心配され、修士のときにいくつか就職先を紹介してくれるという危機的状 況でした。

そんなとき、嶋先生が滋賀医科大学から移ってこられ、私の支離滅裂の原稿を丁寧にみてくださり、我慢強く 論文を仕上げる指導をしてくれました。(だめな論文を活字にするのが嶋先生の特技、趣味で、多くの学生が恩 恵を受けました。)お陰さまで、なんとか、Ph.D に。嶋先生は、研究者は論文を仕上げること、そして人として 基本的な行動ができることが重要であることを繰り返しきびしくおっしゃってました。(でも、人はそんなに簡 単に変われたら私も苦労はしません。)その結果、卒業後もどこからか「島田はけしからん」と嶋先生が言って いることを耳にしました。でも、あるときから(きっかけは全く想像できません。お聞きするチャンスを失って しまいました)「島田義也は私の弟子である」といってくれるようになりました。同時に必ず「放医研の鈴木(神 田)玲子、Wang Bin、今岡達彦の3人も私の弟子である。」とも。放射線の影響分野に残ってくれた弟子をかわい いと思っていてくれていた気がします。とにかくある時を契機に私は嶋先生の弟子として認められたようです。

東京電力福島原発事故では、「御用学者」と誹謗中傷されている私の記事をネットでみて、心配のメールをくれ ました。事故時にぶれずに科学的エビデンスを発信できたのは、ラボの仲間、放医研の仲間、学会の仲間が近く にいてくれたのはもちろんですが、私をけしからん奴だと言っていた嶋先生が、私の活動を理解してくれている と感じた時は、大きな力が、私の背中を押してくれた気がしました。

嶋先生は、ずるい、利己的、いい加減、無責任、ごまかし、公私混同などを許しませんでした。一方、困った ヒトがいれば手を差し伸べ、頼られると決して見捨てない、裏切らないやさしい面も持っていました。「先生を 尊敬しているか」の質問に「はい」と答えた割合が、韓国、アメリカ、EU(欧州連合)の80%以上に対して、

日本はわずか21%だそうです。私にとって尊敬できる師がいたことは大変ありがたいと思っています。

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拝命し、嶋先生の切り開いてこられた道を歩いています。放射線科学という学問が社会に貢献し、また香り高い サイエンスとしての発信が問われている今、学会員や研究所員といっしょに、その存在意義を示さなくてはなり ません。嶋先生の師としての背中を思い出すと、ここまで研究者人生を支えてくれたことに感謝するとともに、

「自分は若き研究者にきちんと背中を示せているだろうか。」という自問と緊張感を感じずにはいれません。今 後は、嶋先生からいただいた恩を、若い研究者に返していくことが嶋先生が私に望んでいることだと信じ、まだ まだ未熟な自分を反省しつつ、日々、修行していきたいと思います。

先生のお葬式で流れた送別の賛美歌405 番「かみともにいまして」は、Goodbye の語源であるGod be with you であると知りました。Aki be with us でお願いします。近いうちにまた近況報告いたします。

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嶋先生の思い出

田ノ岡 宏(国立がん研究センター客員研究員)

嶋先生のお若い頃から晩年まで、私はずっとお付き合いさせていただいた。

滋賀医大におられた頃、嶋先生と共同実験を行なった。枯草菌胞子は放射線抵抗性であるが、その光生成物の 構造から見て、DNA は Z 型の conformation になっているのではないかということをじかに見ようとして、私が チオグリコール酸法で胞子の皮むきをして胞子の中の状態を崩さないように用意し、嶋先生がそれをアクリジン オレンジで染色して色調の変化を測定するという野心的な実験に打ち込んだことがある。休眠状態にある胞子の 中で折りたたまれたDNA の姿をありのままに捉えたいという夢であった。結果は決定的とは言えず、学会にも論 文にも発表されなかったのは残念であったが、この夢は嶋先生の思い出の中で今でも続いている。

嶋先生とは楽しい旅行の思い出がある。1989 年 5 月、ローマのMicrodosimetry シンポジウムで嶋先生と合流 し,その後の国際放射線研究会議(IARR)の理事会に二人で出席した。嶋先生は東京大学教授に赴任されて間もな いころで、将来日本放射線研究連合(JARR)の代表を私から引き継ぐという意味合いもあった。この会議では日 本で2 回目の国際放射線研究会議(ICRR)を行う意志があるかどうかUpton 会長から打診があり、私たちはこの時 即答を避けたが、この懸案は2015 年になって京都で実現された。

ローマ会議の後、二人でバーゼルへ向かう予定だったが、列車のストに遭ってチューリッヒに飛び、そこで空 いた時間を利用して、二人でチューリッヒ湖に行ってボート遊びをし少年時代の気分になった。湖のそばのコン サートホールを覗いていると、チケットを持っていないのに中に招じ入れられて音楽会を聴いた。バイオリニス トは日本人の女性だった。さらに足を伸ばしてツエルマットへ行ったが、ホテルを予約していなかったので空室 がなかなか見つからず、街はずれまで荷物を引きずりながら歩いて、そこでやっと改修中のホテルをみつけ、無 理に頼みこんでまるでお化け屋敷のような部屋に二人だけ泊めてもらった。夕食をとるために嶋先生と夜の街へ 出てみたが、この街の雰囲気は日本の温泉町の感じとそっくりだなと二人で感心しながら、湯の町エレジーを歌 いながら街を歩いた。名物のチーズホンデユーを食べ、電気自動車で二人だけのホテルへ戻った。次の夜明け方 にマッターホルンが見えて大満足したが、昼になるとひどい曇天になってしまって再び姿を現さなかった。バー ゼルではロッシェ免疫学研究所を訪ねたが、二人が泊めてもらったのが研究所の実験室に挟まれた真ん中の部屋 だったのが印象に残っている。

1991 年、大きな事件があった。それは科学研究費の項目の中から、それまでの旧体制の中で家政学、体育学と 雑居して新興領域として分子生物学、細胞生物学、放射線生物学が一緒に含まれていたものが、新しい編成計画 では放射線生物学が消されていて驚いたことであった。当時私は日本放射線影響学会長で、学会の中に急遽科研 費対策委員会が編成され、嶋先生が委員長を務められた。正式には文部省科学研究費”放射線生物学”対策会議

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放射線生物研究者が東大理学部の動物学教室に集まって熱気のある討論を行い、研究費復活対策を練った。嶋先 生は真正面から正攻法で日本の放射線生物学研究の歴史と業績を詳しく分析して大冊の立派な報告書としてま とめられ、放射線生物学が科研費の対象として正当に評価されるべきであるということを文部省に訴えられた。

この報告書は教科書としても次世代のために出版したいほどの出来栄えであった。一方では、国会議員に働きか けて、国会の予算委員会に持ち込んだ。その中の答弁で鳩山大臣は、放射線生物学は重要な学問領域であると明 言し、この記録は官報に残されたが、嶋先生はこのような政治的駆け引きは好まれなかった。結果として放射線 生物学という名前だけは科研費項目の中でかろうじて残り、大学の講座増も後に認められた。嶋先生の回顧録に はこの頃の御苦労が記されている(放射線影響学会ニュース No.108, 1991)

さらに嶋先生とは、晩年になって再び、東京神田にある公益財団法人放射線影響協会の理事会で同席すること になった。嶋先生は辛口の意見を忌憚なく述べられ、私はむしろその宥め役に回ることが多かった。嶋先生が体 調を崩されて理事を辞められることになり、私も同調してこの役を退かさせていただいた。

嶋先生は東京大学総長補佐として御活躍されたが、研究者として御生涯の集大成メダカ研究の総集編をNature Reviews Genetics 誌に出版され、日本固有のメダカを世界に発信された。このことはさぞ最も御本望であったと 思う。

スイス車中にて(1989 年5 月)

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チューリッヒ湖畔にて 下、同じく

参照

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