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ベトナム–カンボジア国境の越境移動をめぐるローカルな政治

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ベトナム–カンボジア国境の越境移動をめぐるローカルな政治

冷戦終結後メコンデルタのクメール人越境者とベトナム国家 下 條 尚 志

The Local Politics of Transnational Migration between Vietnam and Cambodia

Khmer Border-Crossers and Vietnamese State in the Mekong Delta after the End of Cold War

S

HIMOJO

, Hisashi

This study examines the background of the people who have circulated across the Vietnam-Cambodia border and the Vietnamese control of border- crossers after the Cold War by focusing on a local community in Soc Trang Province, Mekong Delta, Southern Vietnam. This work reveals the ways in which their migration pattern has changed and how the state has attempted to recognize and control the transnational migration from the 1990s until now.

To examine this question, this research focuses on PT village in Soc Trang Province, which has the highest population of the Khmer minority in Vietnam and has historical connections with Cambodian society.

Since Vietnam’s troops invaded Cambodia in the late 1970s, these two countries experienced isolation from international society, stagnation, disorder of the socialist economy, and produced large numbers of illegal migrants for a decade. During the decade following the invasion, a significant number of people in PT village migrated illegally to Cambodia which was under the state of anarchy in various places. The number of illegal migrants increased in the early 1990s following the end of Cold War because of social dislocation and poverty in the rural area of the Delta, which resulted from its rapid transition to a market economy and the economic boom in Phnom Penh under the governance of the United Nations. Since the late 1990s, Vietnam has gradually reentered international society, which has changed the migration pattern and prompted the return of some people to Vietnam. Although legal transnational

Keywords: Post-Cold War, Mekong Delta, Khmer, Border-Crossing Migration, National Border

キーワード : ポスト冷戦,メコンデルタ,クメール人,越境移動,国境

* 本研究は,筆者がベトナム南部ソクチャン省を中心に実施した長期滞在調査(2009年10月〜2012 年3月),およびその後繰り返してきた短期調査で得られたデータをまとめたものです。調査は,

松下幸之助国際スカラシップ,またJSPS科研費12J03147,15H06296,16H03310,17H04515,

17K13285によって可能となりました。ここに深くお礼を申し上げます。

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1. はじめに

本稿は,ベトナム南部メコンデルタにおい てクメール人口が多いソクチャン省の一地域 社会に焦点を当て,冷戦終結以降にベトナム -カンボジア国境を越えて移動してきた人々 の背景と,ベトナムの越境者管理を考察する。

この考察を通じて,1990年代から現在にか け,人々の移動傾向にどのような変化がみら れたのか,また人々の越境移動を国家がどう

捉え,管理しようとしてきたのかを明らかに する。

21世紀に入り,東南アジア大陸部5か国 と中国の雲南省,広西チワン族自治区から構 成される大メコン圏経済協力プロジェクト が急速に進展している[石田・平塚・工藤 2007]。その一環である「南部経済回廊」計 画では,道路・鉄道・電力・通信等のインフ ラが整備され,カンボジアを経由してタイの バンコクとベトナムのホーチミン市を結びつ migration is now permitted with a passport, the Vietnamese government has recently intensified its control of the border-crossers, especially the Vietnamese-born Khmer. This prompted the reemergence of several questions regarding issues of Khmer identity and Theravada Buddhism, which had been set aside during the political disorder in the two countries that began with the Vietnamese invasion of Cambodia in the late 1970s.

In this study, we consider the changing tendencies of the transnational migration in Soc Trang, which is home to the highest population of Khmer, as well as the Vietnamese state’s perception and policies toward the border- crossers. By considering this question, we show that the people maintaining tendencies of migration and spatial perception beyond the Vietnam-Cambodia border often prompt an increase in government awareness and focus on border-governance; the transnational migration becomes more inconvenient for migrants in terms of length, place, and action during a stay because of the increased regulations and institutionalization of the border-crossing.

目次 1. はじめに

2.  越境者が属する社会とベトナム-カンボジ ア国境の考察

 2-1 ソクチャン省フータン社

 2-2 国境の歴史

 2-3  ベトナム-カンボジア国境の越境を理 解するための視角

3. なぜ人々は越境したのか?

 3-1  旧土地所有者への農地返還をめぐる 混乱

 3-2 社会主義政策の残存

 3-3 経済活動の自由化と事業の失敗

 3-4  カンボジア駐留ベトナム軍の撤退と

緊張緩和

4. 越境者のオーラル・ヒストリー

 4-1 生活困窮者のカンボジアへの不法移動

 4-2 在カンボジア・ベトナム国籍者の増加

5.  新たな移動傾向とクメール人越境者への 政府の疑念増幅

 5-1 移動傾向の変化とパスポートの普及

 5-2 クメール人越境者に対する政府の疑念

 5-3 僧侶達の不満 6. 越境移動の制度化

 6-1 カンボジアへ渡る僧侶達

 6-2  俗人の越境移動をめぐる政策変化と その影響

7. おわりに

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けようと開発を進める世界各国の動きが激し くなり,ベトナム,カンボジア,タイ間の 人間の越境移動は活発化している[初鹿野 2007]。

国境を越えた経済協力やインフラ整備が 華々しく強調される一方,本稿が論じるよ うに,越境移動という行為がそれを実践す る人々と彼らを取り巻く社会,そして国家の 間で新たな緊張を再び生み出しつつあること は,いまだ十分に論じられていない。そもそ も人々の越境移動は,近年の国際プロジェク トによって始まったものではない。それは,

東南アジア大陸部諸国間で緊張が生じていた 20世紀後半においても,多くの場合非合法 的な手段で連綿と行われていた。本研究は,

こうした現実の一端を明らかにするため,ベ トナム国内で最もクメール人口が多く,カン ボジア社会とのつながりが強い,メコンデル タ,ソクチャン省フータン社(xã,行政村 に相当,図1)からの越境移動の事例を主に 取り上げて考察する。

1970年代後半にベトナムがカンボジアに 侵攻してからの10年間,この2つの国家は,

国際社会からの孤立と戦争,社会主義政策に 起因する混乱を経験し,数多くの国外脱出者 を生み出した。この侵攻を機に国家権力の空 白が各地で生じたカンボジアへ,フータン社 から非合法的な手段で越境する者が現れ始め た。非合法越境者の数は,とりわけ冷戦終結 後の1990年代前半,市場経済化を推進する ドイモイ(刷新政策)の波が急速に及び始め たフータン社の混乱と困窮,そして国連統治 下に入ったプノンペンの活況を背景に急増し た。この人の流れは,1990年代後半以降に ベトナムが国際社会への復帰と経済成長を着 実に進めてゆくなかで変化してゆき,カンボ ジアへ移動した人々のなかには度々ベトナム 側に帰郷する者も現れ始めた。パスポートが 普及し,両国間国境の合法的な越境移動が容 認され活発化する一方,ベトナム政府は近年,

主にクメール人を対象に越境者管理に本腰を

入れつつある。彼らの管理強化によって,こ れまでの混乱のなかで棚上げにされてきた,

クメール人というアイデンティティや上座仏 教への信仰に関する諸問題が,再び顕在化し ている。本稿は,冷戦終結以降,ソクチャン 省を事例にベトナムでクメール人を多く抱え る地域における人々の越境移動の傾向の変化 と,越境者に対する国家の認識や政策につい て考察する。この問題を明らかにすることで,

ベトナム-カンボジア国境を越えた範囲での 移動傾向や空間認識を持つ人々が,国境統治 の重要性を度々ベトナム政府に認識させる存 在になっていること,また近年の越境移動の 合法化,制度化によって従来よりも越境移動 が不自由になっている面があることを示し たい。

以下,冷戦終結以後の,ベトナム-カンボ ジア国境の越境移動の背景と越境者管理を次 のように説明する。まず2節では,調査地ソ クチャン省フータン社の事例を考察すること の意義を論じた上で,ベトナム-カンボジア 国境の歴史と,この国境と越境者を理解する ための視点を検討する。3節は,越境者増加 をもたらした要因として,1990年代前半の フータン社の状況を説明する。4節は,1990 年代前半にフータン社からカンボジアへ実際 に越境した経験を持つ人々のオーラル・ヒス トリーを検討する。5節は,1990年代後半 以降の移動傾向の変化とそれに対するベトナ ム政府の警戒を,6節は近年政府が進める越 境移動の制度化とその影響を検討する。

2.越境者が属する社会とベトナムカンボ ジア国境の考察

2-1 ソクチャン省フータン社

最初に,本稿で焦点を当てる,越境者を生 み出してきたフータン社について説明する。

図1に見られるとおりフータン社は,ベトナ ム南部メコンデルタ沿岸部のソクチャン省に 位置する。筆者はそこで2009年12月から

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2012年3月にかけて約1年3か月間住み込 み調査を行い,その後も短期調査を繰り返し,

住民達の個人史や地域史に関する情報を集め てきた。

表1のとおり,ベトナム最大都市ホーチミ ン市以南以西に広がるメコンデルタは,2009 年現在,ベト(キン)人が総人口の約92%

を占めるのに対し,クメール人は約7%,華

人は約1%と,統計上ベト人が圧倒的多数を

占めている。そのなかにあってソクチャン省 は,ベト人が64%,クメール人が31%,華

人が5%となっており,多民族的な特徴を有

している。同省のクメール人口約39万7,000 人はベトナム最大であり,華人人口約6万

5,000人はメコンデルタ最大である。

このソクチャン省のなかで,フータン社は 同省の多民族性を最も体現している地域の1 つである。筆者が調査していた2011年の同

1 ベトナム全土,メコンデルタ,ソクチャン省の人口

  ベトナム全土人口(2009)   メコンデルタ人口(2009)

     総数:85,846,997人(100%)      総数:17,191,470人(100%)

  クメール人:1,260,640人(1.47%)   クメール人:1,183,476人(6.88%)      華人:823,071人(0.96%)      華人:177,178人(1.03%)     ベト人:73,594,427人(85.73%)     ベト人:15,811,571人(91.97%)        ソクチャン省人口(2009)

      総数:1,292,853人(100%)        クメール人:397,014人(30.71%)       華人:64,910人(5.02%)

       ベト人:830,508人(64.24%)

(出所)Ban Chỉ Đạo Tổng Điều Tra Dân Số và Nhà ở Trung Ương(2010: 146, 223) 1 ベトナム,カンボジア地図

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社人口14,649人のうちクメール人は11,622 人(79%),華人は258人(2%),ベト人は 2,769人(19%)であった[Công Văn UBND Xã 2011]。この統計では華人は少数派となっ ているが,フータン社Q村の一角「ソムロ ン区」で行った筆者の調査では,社の人民委 員会(役場に相当)にクメール人と登録して いる390人のうち,161人は直系親族である 両親や父方,母方の祖父母,曾祖父母のなか に,少なくとも1人は華人がいた。フータン 社では,クメール人と華人の民族的混淆が顕 著に進行してきた1)

ところで「ソムロン区」とは,フータン社 において,筆者が悉皆調査を実施した一区画 を特定するため,そこの一部に残る地名に基 づき便宜的に命名した名称である。同区は,

フータン社Q村(ấp)内に形式的に存在し ている行政区画1〜3区(khu, ward)のうち,

2区の大半,3区の一部に相当し,計663人,

159世 帯(2011年12月〜2012年1月 時 点)

が居住していた。2区内のある民家に筆者は 滞在していたが,その民家周辺の地域は,ク メール語で「ソムロンの木々の外れにあるプ

ノー(

ផ្នូរ

,微高地」と呼ばれていた。そこ

から取ってこの区域を「ソムロン区」と呼ぶ ことにした。

ソクチャン省,フータン社はクメール的,

華人的要素が強く,メコンデルタのなかで も特色ある地域の1つであるが,このフー タン社はメコンデルタの他地域といかなる共 通性と特殊性を持っているのだろうか。共通 性に関して言えば,人々の歴史的経験が挙げ られる。その経験とは,すなわち,1970年 代半ばのベトナム南北統一後,社会主義改造

の一環として農業の集団化が実施されたも のの農民の反発によって失敗に終わったこ と,1980年代後半に政府主導の農地の再分 配が実施されると,集団化によって土地を奪 われた農民の土地返還要求が各地で勃発し,

結果的に土地を失った農民の他地域への移動 が活発化したことである。これらの点はす でに指摘されており(Ngo Vinh Long 1988;

Nguyễn Sinh Cúc 1995: 27-41, 60-61; 岩井 2001: 121; 岩 井・ 大 野・ 大 田2016: 31-35;

Kerkvliet 1995: 68-74),メコンデルタ全体 で生じていた事象と位置付けられよう。もっ とも従来の研究では,ベトナム国内各地から 同国メコンデルタのカンボジア国境周辺のフ ロンティアへ,政府が主導して土地なし農民 を開拓移住させた事例がもっぱら着目されて きたが,本稿では,これまでほとんど言及さ れてこなかった,1990年以降のフータン社 で顕著に見られた,カンボジアへの自発的な 非合法の出稼ぎ労働に注目する2)。なぜなら,

本稿4節で論じるように,1990年代のカン ボジアのプノンペンでベトナム系住民が増加 していたことが指摘されており,ベトナムか らカンボジアへ出稼ぎ労働に向かう傾向は,

決してフータン社に特有の事象ではなかった と考えられるからである。

一方で,ソクチャン省,フータン社の特殊 性は,この地域の多数の住民がクメール人と いうアイデンティティを持ち,クメール語や 上座仏教を介してカンボジアと強い結びつ きを維持してきた点である。2013年のソク チャン省の公式情報によれば,同省には92 のクメール系上座仏教寺院があり,1834人 の僧侶が止住している3)。そのなかでフータ 1) フータン社の民族的混淆状況に関する詳細は,[下條2016: 8-21]を参照。

2) 岩井・大野・太田の研究は,カンボジア国境と接するメコンデルタ,ロンアン省カインフン社の人々 が,日常的に越境し,出稼ぎに行くケースもあることを断片的に紹介している[岩井・大野・大田 2016: 123-124]。

3) Ủy Ban Nhân Dân Tỉnh Sóc Trăng, Số: 251/BC-UBND, Báo Cáo Tình Hình Phật Giáo Nam Tông Khmer và Các Chính Sách đối với Phật Giáo Nam Tông Khmer và Đồng Bào Dân Tộc Khmer Tỉnh Sóc Trăng[ソクチャン省人民委員会,251/BC-UBND,ソクチャン省のクメール系 上座仏教の現状とクメール系上座仏教およびクメール人に対する政策],13 December 2013。

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ン社は,カンボジア国境から最短距離でも

150 kmほど離れているが,2つのクメール

系上座仏教寺院があり,聞き取りや文献史料 で確認できるかぎり,植民地期から,それら の寺院で出家した僧侶が,より高等な仏教教 育などを求めて,プノンペンやシエムリアッ プなどの寺院へ移動する傾向があった[下條 2015: 24-33]。カンボジア側に出稼ぎに行っ た親族や知人を持つ者も多い。彼らにとって,

ベトナム-カンボジア国境の越境は慣例化さ れており,たとえパスポート不携帯でも,地 域社会においては広く容認されてきた行動で あった。少なくとも1990年代まで越境を制 御する国家権力が不安定な状態にあったた め,非合法の越境行為は横行していた。ソク チャン省のクメール語を話す上座仏教徒達に とって,ベトナム,カンボジア両地域の文化 的,社会的境界は不明瞭なままであり続けた のである。

本稿第6節で説明するように,2000年代 以降,越境者管理が制度化されつつある。

人類学者フィリップ・テイラーは,クメー ル・ルージュ時代以後のカンボジアにおいて 1990年代に仏教系学校が新設・再開され始 めると,その潮流に反応したメコンデルタの クメール人僧侶達が,より高度な教育を求め,

非合法的な手段でカンボジアへ移動し始めた こと,そしてベトナム政府は彼らとカンボジ ア社会との接触を恐れ,越境者管理を強化し ていることを論じている[Taylor 2016]。テ イラーは,越境した経験を持つ僧侶の語りに 焦点を当て,クメール人越境者に対するベト ナム政府の管理が1975年以降,一貫して厳 格であったことを強調する。一方で本稿は,

僧侶のみならず俗人も含めてクメール人越境

者の管理を考察した場合,1990年代と2000 年代以降の越境者管理に質的な差異が見られ ることについて指摘する。

2-2 国境の歴史

ベトナム-カンボジア国境がベトナム国家 にとってその主権範囲を規定する境界として 継続的,実質的に機能し始めたのは,冷戦終 結以降であると考えられる。なぜなら,植民 地化以前にベトナム,カンボジアの領域支配 の範囲が曖昧な状態のままフランス植民地と して両地域が統合されたためであり,また脱 植民地化後に国境線が敷かれたものの,国境 地域は長期にわたり政情不安定であったから である。

19世紀にベトナムのグエン朝は元々カン ボジア王国の影響下にあったメコンデルタを 版図に加え,現カンボジアの領域にも干渉し ていたが,1830年以降各地で叛乱が相次ぎ,

排他的な支配権を確立できずにいた[北川 2006: 190, 221-222]4。そのようななか,19 世紀後半にフランスがインドシナとしてベト ナムとカンボジアを超域的に統合したことに より,両地域間では行政区画線こそ設置され たが,地域横断的なインフラが整備され,人 の往来は活発化した。両地域を隔てていた行 政区画が国境線として機能するようになった のは,両地域で国民国家形成が進展し始めた 1950年代以降である[下條2015]。もっとも,

その後に激化したベトナム戦争によって,国 境地域は,当時の南ベトナム政府とカンボジ ア王国政府のみならず,それに対抗する解放 民族戦線,クメール・ルージュなど複数の政 治勢力が乱立する不安定な状態に陥っていっ た[Chandler 2008: 242-249]。

4) ただし,グエン朝時代にベトナムとカンボジアの間に境界が存在しなかったわけではない。北川香 子によれば,現在のベトナム側の国境の町チャウドックには,1865年時点でグエン朝の税関が配 置され関税が徴収されており,チャウドックを境とするカンボジアとベトナムの縄張りは,フラン スによる植民地化以前に確定していた[北川2006: 214]。ヴー・ドゥック・リエムによると,グエ ン朝は,クメール世界という同朝にとってのフロンティアを管理する上で,行政区画線と国境線こ そ区別していなかったものの,「界(giới)」を特定し地図を作成することを試みていた点を指摘し ている[Vũ Đức Liêm 2016]。

(7)

ベトナム戦争終結後に統一ベトナム政府と クメール・ルージュが対立し始めると,一 時的に国境の緊張は最高潮に達したものの,

1970年代末にベトナム軍がカンボジアに侵 攻して親ベトナム政府を擁立したことで,国 境の緊張は急速に溶解していった。1980年 代,社会主義改造が実施されていたベトナム では国内経済が行き詰まるなか,フータン社 において生活に困窮した人々は,脆弱な住 民管理,国境線管理をかいくぐって陸路で カンボジアへ,さらにはタイへと亡命して いた[下條2014: 261-264]。もちろん,当 時の政府も越境者管理を行っていた。ゴッテ スマンの研究によると,当時,ベトナム軍は 国境周辺のチェックポイントで越境者の取り 調べを行っており,カンボジア経由でタイへ 逃れようとしたベトナム住民は発見され次 第,懲罰を受け,ベトナムへ送還されていた

[Gottesman 2003: 165, 168]。しかし,フー タン社において筆者が聞き取りを行った人々 は,1980年代にチェックポイントを経ずに,

裏ルートを経由して国境を越えていたと述べ ている[下條2014: 261-264]。かれらの経 験から明らかなのは,チェックポイントを通 過しなくともカンボジアへ渡ることは可能で あったということである。前述のゴッテスマ ンによれば,ベトナム軍占領下1980年代後 半のカンボジアでは,国境間の密輸貿易はベ トナム政府と,その強い影響下にあったプノ ンペン政府によって黙認されていた。カンボ ジアからは木材やゴムがベトナムへ密輸さ れ,ベトナムからはビールや発電機がカン

ボジアへ輸送されていた[Gottesman 2003:

311-314]。ゴッテスマンの記述から当時の

国境線において警備が実施され,違反者に厳 罰が課されていたことは明らかであるが,裏 ルートの利用や密輸貿易の実態を勘案する と,国境線全体の警備,また国境を越えた後 の人,モノの追跡といった管理制度は不十分 であったと言えよう。

2-3 ベトナムカンボジア国境の越境を理解 するための視角

では,このように国境が移動を阻む「壁」

として,また住民の帰属を規定する制度とし て十分に機能しない状況の下にあった人々は,

自身の越境行為をいかに捉えてきたのか。東 南アジアでは,近代国境線が成立して以降,

その境界の現実に見合った国家の形成と国民 という観念の醸成が目指されるようになった と考えられている[Thongchai 1994]5)。移 民が増加するにつれ追放や管理といった移民 統制策が行政的に構築されてゆくとともに,

移民への不満がナショナリズムの高揚と結び つくことで,国境線が人々の意識のなかに刻 み込まれていったことが指摘されてきた[長

田2016]。その一方で,国境線が確立してい

く過程で,国家領域内外の社会経済的,制度 的差異を利用することで,戦略的に人々が越 境を行うようになってきたことも論じられて いる[Abraham & Schendel 2005; 石川2008]6。 こうした従来の議論に対し,フータン社の 越境移動の事例はいかなる特徴を有している だろうか。筆者が調査対象としたフータン社 5) このような国民国家形成論に対し,片岡は,冷戦期タイにおいて中国国民党の残党と反共山地民に 委託された国境周辺統治の実態を分析することで,国境線をめぐる言説が確立することと国境線内 の領域の支配が実際に確立することとは別問題であると指摘する[片岡2004: 189]。

6) イッティ・アブラハムとウィレム・ファン・シェンデルは,国家によって非合法とされているが,

社会的には容認されている活動が行われる空間の1つとして,国境地域を挙げる。彼らによれば,

国境地域は,競合する複数の政治権力が交わることで形成される空間である。そこでは,国境の片 方の側で社会的に認められているものが,もう一方の側では非合法として認められていないという 状況が成立している。人々が,労働規制や悪徳警官を避けるために国境を越え,戦略的に長時間労 働の工場や売春街へ働きに行くといったようなケースがあり,国境の管理者と越境者の間で,「国境 ゲーム」と呼びうるような戦略的な相互作用が生じていると指摘している[Abraham & Schendel 2005: 22-23]。

(8)

の人々は,主に農村部における生活の困窮や 労働規制を理由にベトナムからカンボジアへ 越境してきたことから,移動という行為につ いては明確に戦略的な意図をもっていたと言 える。フータン社では,1980年代から1990 年代前半までのカンボジアは,同時期のベト ナムよりもさらに過酷な貧困が存在していた にもかかわらず,特にプノンペンはベトナム よりは自由に経済活動が可能な地域であると 考えられていた。メコンデルタの農村で蔓 延っていた貧困や,国家の義務から脱するた めに,人々は自らの意志で国境を越えてプノ ンペンへ出稼ぎに向かっていた。しかしなが ら,このフータン社の事例はまた,人々がプ ノンペンという1つの経済的中心への移動に 利益を見出していたということを示唆するの みならず,人々が国境線を社会や政治を隔て る「壁」としてどれほど認識していたのかと いう問題も提起している。留意すべきは,国 境成立後も国境地帯が長期的に不安定な状態 にあったために,非合法越境が妨げられてい なかったこと,また人々が国境成立後もかれ らの居住地とカンボジアを共通の文化圏,経 済圏として認識し続けたことである。前述し たように,クメール人口が多いフータン社で は,少なくとも1990年代までベトナム-カ ンボジア国境の非合法的な越境行為は広く行 われていた。彼らの事例を考察するかぎり,

近年まで国境線は制度として十分に確立され ておらず,また人々の意識のなかに内面化さ れていなかったと考えられるのである。

とはいえ,国家はこうした人々の存在や国 境線の統治に決して無関心であったわけでは ない。とりわけベトナム政府は,次のような 歴史的背景により,ベトナム出身のクメール 人越境者に注意を払ってきた。20世紀半ば に仏領インドシナが崩壊すると,メコンデル タは南ベトナム(ベトナム共和国)の領域に なったが,新たな国民国家の建設過程で,カ ンボジア社会と結びついてきたメコンデルタ のクメール人と南ベトナム政府との間で,国

家への帰属や上座仏教をめぐって衝突が生じ ていた。当時シハヌーク政権下にあったカン ボジアは,この問題に干渉して南ベトナム政 府の対クメール政策を非難していた。背景に は,カンボジアにおいてメコンデルタが「カ ンプチア・クロム(下カンボジア)」と呼ばれ,

ベトナムによって奪われた失地であると考え られていたことがあった[下條2015]。ベト ナム南北統一直後の1970年代後半,このカ ンプチア・クロムの奪還を名目にポル・ポト 政権はベトナム側の国境地域を襲撃し,ベ トナムと対立を深めた[Chanda 1986: 96- 98]。国境地域の襲撃を背景にベトナムがカン ボジアに侵攻した後,プノンペンに親ベトナ ム政府が擁立されたことにより,メコンデル タのクメール人問題は政治的課題としては一 時的に棚上げにされることになった。ベトナ ム軍がカンボジアから撤退して以降も,ドイ モイ開始直後の1990年代は,越境者を管理 する制度が十分に整備されておらず,また国 境線の管理を差し迫って強化するほどの政治 問題は隣国との間でまだ顕在化していなかっ た。しかし,近年カンボジアからベトナムに 数多くの人,モノ,情報が流入するようにな るにつれ,クメール人とカンボジア社会が結 びつき,かつての政治問題が再燃することを,

ベトナム政府は警戒している。ソクチャン省,

フータン社は国境から遠く離れているとはい え,同社出身のクメール人越境者を管理する ことは,ベトナム-カンボジア国境の統治と 不可分に結びついているのである。

3. なぜ人々は越境したのか?

3-1 旧土地所有者への農地返還をめぐる混乱 それでは,国境の機能が不安定であった 1990年代初頭になぜ多くの人々がカンボジ アへ越境し始めたのかについて検討したい。

その要因として,土地なし農民の創出がまず 挙げられる。筆者が調査したフータン社では,

ドイモイが提唱され,集団農業が中止された

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後に地方政府主導の下,旧土地所有者への農 地返還が行われた。

農地返還とは,ベトナム戦争が終結した 1975年以降に集団農業体制に組み込まれた 農地の一部を,戦前の南ベトナム政府期の旧 土地所有者に「使用権」という形態で返還す る試みである。1988年に共産党政府は10号 決議を発布し,正式に農業の集団化を断念し た。この決議では,各世帯に役牛,農具の所 有権が承認され,それら生産手段の売買・移 譲が認められた。集団農業体制下で組織され た「生産集団(tập đoàn sản xuất)」や,生 産集団より大規模な「合作社(hợp tác xã)」 が管理していた農地の使用権は,各世帯に与 えられることになり,農地委託期限は10年 から15年と定められた。農業生産物を国家 に売却する義務も廃止された。しかし,南部 農村では社会主義改造下ですでに生産集団や 合作社が形骸化し,事実上,農地は私的に耕 作されていた。農民達は10号決議で新たに 付与されることになった土地の使用権を所 有権と同等とみなす傾向があった[Nguyễn Sinh Cúc 1995: 38-41]。社会主義改造期に 非公式に家族経営の農業生産を行ってきた 人々は,10号決議によって個々の世帯に与 えられることになった土地の「使用権」の付 与を所有権の容認,すなわち個人の農地経営 の完全な容認と解釈し,1975年以前に所有 していた農地の返還要求や,土地の勝手な取 り戻しという実力行使に乗り出した。10号 決議後の1988年8月頃の南部各省では,そ

れぞれ2,000-3,000件の土地紛争が生じてい た[木村1996: 212-215]。

他地域と同様,フータン社でも土地の権利 をめぐって住民間で激しい摩擦が生じてい た。聞き取りによれば,フータン社,また同 社と隣接するフータム社では,次のような布 告が地方政府によって下されたという。

 農地の半分を旧所有者に返還しなければ ならない。または,農地半分において1コ ン(0.13 ha)7)当たり約17ヤ(340 kg)8)

の籾米を旧所有者に譲渡する。籾米を支払 えない場合は,籾米17ヤに相当する額の 現金を旧所有者に支払う。旧所有者が農地 を求めた場合は,農地を返還しなければな らない9)

住民達によると,既に資金が底を尽いてい た者でも,何とかして農地の半分あるいはそ れに相当する籾米や現金を返還しなければな らなかった。返還を余儀なくされた人々は極 貧状態にあったが,政府が資金を負担するこ とはなかった。政府が提示した条件を受け入 れず土地を譲らなかった土地使用者,あるい は現金を受け取らずに全部の土地を要求する 旧土地所有者もいたという10)。農地返還事業 は,政府による補償が不在のまま実施された ため,同事業によって土地の返還を余儀なく された農民や土地を取り戻せなかった旧土地 所有者は,新たな市場経済の荒波のなかでさ らなる貧困に陥っていった11)

7)「コン(công)」,メコンデルタで使われる伝統的な農地面積の単位。1コンは0.13 ha程度。

8)「ヤ(giạ)」は,メコンデルタで使われる伝統的な生産物の重量単位。1ヤは20 kg程度。

9) インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2012年2月13 日;ビン,1970年生まれ,フータム社在住,フータン社中学校教員,2012年2月16日;ウアン,

1959年生まれ,男性,フータム社在住,フータン社中学校教員,2012年3月1日他。

10)インタビュー,ミン,1955年生まれ,男性,農民,2012年2月19日;ミナン,1956年生まれ,

男性,農民,2012年2月19日;ドック,1944年生まれ,男性,農民,2012年2月21日;ウアン,

1959年生まれ,男性,フータン社中学校教員,2012年3月1日他。

11)岩井が行ったメコンデルタ・ロンアン省カインハウ社での調査によれば,同社では,集団化によっ て共有化された農地は旧所有者に返還されたため,その結果として大量の土地なし世帯が出現する ことになった。そのなかには,元々の土地なし世帯だけでなく,人口の急増に家族の世代間の土地 相続が追いつかなかったため,土地なし層となった者もいたという[岩井2001: 121]。

(10)

3-2 社会主義政策の残存

もっともフータン社では,1980年代の社 会主義改造期に集団農業で割り振られた農地 があたかも私有地のように闇で売買されてお り,農地返還の実施の段階で農地を既に売っ てしまっていた人々も少なくなかった。背景 には,農業に掛かる諸経費,病気の治療費,

そして「農業税」が,人々の生活を逼迫させ ていたことがあった。当時,社会主義体制で はあったが,繁忙期に農業労働者に支払う賃 金や家族の病気の治療費は住民達の自己負担 となっており,政府がそれらの経費を補助す ることはなかった12)

農業税とは,集団農業体制下で,各人に割 り当てられた農地の農業生産物に課されてい た現物税のことである。この農業税は集団化 中止後も1990年代末頃まで住民達に課され,

農業に対するモチベーションを下げていた。

聞き取りによれば,集団化中止直後,農業税 はそれ以前と同様,籾米での物納であったが,

途中で金納に切り替えられ,2000年頃まで 続いていた13)

表2の と お り,1992年 か ら1996年 に か け,ソクチャン省の歳入のうち農業税は「国 営外」の収入と並んで最も高い割合を占めて おり,地方政府が経済的にいかに農業生産に 依存していたかがわかる。1992年当時のソ クチャン省における1人当たりの実質GDP は約111万ドン14)であったが,同年の農業 税による歳入(175億8,000万)を当時のソ クチャン省の農村総人口(約95万8,823人) で割ると,1人当たりの年間の農業税は約 1万8,000ドンである[Cục Thống Kê Tỉnh Sóc Trăng 1997: 5, 10, 15]。その額自体は決 して大きくないものの,毎年,一定の割合で 農業生産物に課される農業税は,特に貧しい 人々の農業へのモチベーションを下げる一因 になっていたと言えよう。

ドイモイ以降,農業生産や新事業に成功し 経済力をつけていったフータン社の住民は,

1980年代以降に一部の農民が農地を売却し ていた要因として,かれらの「怠惰」や「浪 費癖」,「無知」を指摘する15)。しかしながら,

農業税や農業に掛かる経費が重なり,また自 12)インタビュー,ミン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月19日;ミナン,

1956年生まれ,男性,農民,2012年2月19日他。

13)インタビュー,ミナン,1956年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月19日;ヒエン,

1962年生まれ,女性,フータン社在住,農民,2012年2月26日;ウアン,1959年生まれ,男性,

フータム社在住,フータン社中学校教員,2012年2月27日他。

14) 1992年12月末のレートは,1ドル=10,505ドンであるため[アジア経済研究所ウェブサイト,

アジア動向データベース,ベトナム基礎データ],1992年の1人当たりのGDPはおよそ106ドル。

15)インタビュー,フン,1936年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2011年12月23日;ポイ,

1966年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月21日他。

2 ソクチャン省の歳入(単位:100万ドン)

収入源 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 中央国営企業 2,052 2,954 2,547 4,283 6,637 地方国営企業 2,549 8,282 9,013 10,489 10,110

国営外 16,456 33,068 38,622 47,040 57,291

農業税 17,580 30,234 37,044 51,693 70,063

国営の宝くじ 234 708 920 629 2,389

住居税 0 705 1,066 1,567 1,999

予算外収入 4,757 7,613 25,491 46,718 11,633

手数料 不明 不明 不明 不明 24,690

総計 45,249 91,009 125,783 177,095 215,857

(出所)[Cục Thống Kê Tỉnh Sóc Trăng 1997: 10]を基に筆者作成。

(11)

作農経営を支えるための政府や民間の保障制 度が未整備であった時代状況を考えると,経 済基盤が元々盤石でなかった人々にとって,

農地の売却はやむを得ない選択であったと言 える。

社会主義改造期に導入された無償の労働義 務である労役も,1990年代後半まで続いて いた。住民に課された労役は,主に公共事業 としての運河掘削であり,ソクチャン省各地 の運河や水路の建設に,僧侶を含む成年男性 が動員されていた16)。こうした労役は,貧困 から抜け出すための自律的な経済活動の時間 を阻害していたと言える。

3-3 経済活動の自由化と事業の失敗

このように社会主義改造期の政策が一部残 存していたことに加え,ドイモイ後に農村に 押し寄せた新たな市場経済の荒波に十分に対 応できなかったことも,人々が越境を試みる 一要因になっていた。ドイモイによって,人々 は社会主義改造期に闇で展開していた経済活 動を公然と行えるようになった。私的な農業 経営が容認され,余剰米以外の商品作物生産 の多角化が進んでいた。とりわけフータン社 では,西瓜栽培が盛んに行われるようになっ ていた。当時の状況を記した地誌によると,

旧正月テト直前には,ホーチミン市やカン トー市から多数のトラックが集まり,フータ ン社で生産された西瓜を買い付けていた[Vũ Lân et al. 1988: 61]。

フータン社Q村在住のトンも,1988年か ら1990年頃まで西瓜栽培に取り組んでいた と述べる。自身の農地で生産された西瓜を,

乗り合いバスに積み込んで妻とホーチミン市 まで売りに行っていた。当初,栽培されてい た西瓜は大きめの品種で,正月に祭壇に飾る 供物として売れていた。しかし,味が悪く,

年に1回しか収穫できなかったため次第に利 益を得られなくなり,1990年にはトンは栽 培を中止した。西瓜栽培に失敗したトンは,

Q村在住のヘンという人物から2倍の利子 で籾米を借り入れ,農地を抵当に入れること になった。当時ヘンは借金の返済が困難に なった債務者の土地を差し押さえることで,

自身の農地経営を拡大させていたという17)。 このように米以外の農作物生産に挑戦する 人々がドイモイ以降に現れ始めたが,公的な 支援なしに独力で新たな事業に取り組んだた め,失敗のリスクは高かった。

3-4 カンボジア駐留ベトナム軍の撤退と緊張 緩和

ちょうどこの時期,カンボジアを取り巻く 状況が変化し始めていた。それをもたらした 出来事が,ベトナム軍のカンボジアからの撤 退である。

1978年末のカンボジア侵攻以降,ベトナ ム軍のカンボジア駐留は長期化していた。ベ トナム軍およびその支援を受けたカンボジア 人民共和国政府と,反ベトナムで利害が一致 するポル・ポト派をはじめとする三派連合政 府の戦闘は,ベトナム陣営を支持するソ連を 中心とする東側諸国と,ポル・ポト派陣営を 支持する中国や西側諸国との国際的な対立 を反映していた。しかし,中国との関係正常 化を狙うソ連による仲介もあり,1988年6 月からベトナム軍の撤退が始まり,1989年 9月には完了したとされている[木村1996:

222-232]。

ベトナム軍撤退後のカンボジアでは,政治 の劇的な変化を迎えていた。1991年に親ベト ナムの人民党政府と反ベトナムの三派連合政 府との間で,和平協定がパリで締結され,国 連カンボジア暫定統治機構(United Nations 16)インタビュー,ミン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月19日;ポイ,

1966年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月21日;トン,1955年生まれ,男性,フー タン社在住,フータン社幹部,2012年2月22日他。

17)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2012年2月22日他。

(12)

Transitional Authority in Cambodia,以下,

UNTAC)が組織・管理する制憲議会選挙が

1993年に実施され,カンボジア王国が誕生 した。これと連動してカンボジア経済も変化 した。人民党政府は,1989年に社会主義の 看板を事実上外し,1993年に誕生した王国 政府は市場経済体制を正式に採用している

[天川2004: 4-14]。

ベトナム軍撤退後の1990年代初頭にカン ボジアで生じた軍事的パワーバランスの変化,

政治の多元化,経済の市場経済化は,相対的 に政治経済の変化が緩慢であったベトナムの 住民が,現状から脱するためにカンボジアへ の越境を試みる動機になったと言えよう。

4. 越境者のオーラル・ヒストリー

4-1 生活困窮者のカンボジアへの不法移動 カンボジアの状況が激変するなか,ベトナ ム側のフータン社では,生活の困窮を背景に,

国境を越えてカンボジアへ,従来のように難 民ではなく出稼ぎ労働者として向かう住民が 現れ始めた。表3のとおり,1992年からフー タン社Q村のソムロン区では,プノンペン への出稼ぎ労働者の数(出稼ぎする両親に同 行することも含む)が増加し,その傾向は 2002年頃まで続いていた。同社では,以下 で述べるように,1990年代前半のカンボジ アはベトナムより好景気であったと考えられ ており,実際に多数のベトナム国籍者が当時 プノンペンに滞在していたと言われている。

ただし,人々は,経済的な動機のみで移動し ていたのではなく,家族・親族のつながりや,

過去の経験を頼りに,カンボジアへ出稼ぎに

行っていた。

フータン社H村在住のダンは,1990年代 の前半から後半にかけて,家族7人全員でプ ノンペンへ出稼ぎに行っているが,その経緯 について,当時のベトナムは食糧が不足して,

農業に利益がなく,当時の農業技術が貧弱で あったと述べる18)。そして,妻が病気がちで,

子供もまだ幼かったため,土地をすべて売却 してしまったと説明する19)

加えて,ダンの知人は,当時流行していた 西瓜栽培にダンが失敗したことを,彼が農地 を売却した一因として指摘する20)。ダンがプ ノンペンへ渡った要因には,メコンデルタ農 村部の賃労働者の困窮と,カンボジアの相対 的な好景気があったと考えられる。農村の貧 しい賃労働者の出稼ぎ先となる都市として,

ホーチミン市よりもUNTACの下で外国軍 が駐留し,ドルが流入していたプノンペンの 方が,経済的に魅力があった可能性がある。

ダンの妻も,当時のベトナムでは稲刈りの ような農業賃労働しかなかったと述べる。肉 体労働者の1日の平均的な給料は,カンボジ ア(プノンペン)の場合,女性は5,00021)リ エル,男性は8,000リエルであり,ベトナム

は4,000リエル程度であった。プノンペンで

は彼女は家事に専念し,ダンが1日15万ド ン22)程度の給料が得られる大工の仕事を行 い,子供達も他の肉体労働に従事していた。

当時のプノンペンは十分に食べてゆくことが できる環境であり,クメール人に限らず多数 のベト人も在住していたという23)

ダンの家族がプノンペンへ向かったもう1 つの要因には,そこがダンの姉が暮らしてい た場所であったことが挙げられる。ダンの妻 18)インタビュー,ダン,1953年生まれ,男性,フータン社在住,大工,2012年3月4日。

19)インタビュー,ダン,1953年生まれ,男性,フータン社在住,大工,2011年9月9日。

20)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2012年2月22日。

21) 1992年12月末のレートは,1ドル=2310リエル[アジア経済研究所,アジア動向データベース,

カンボジア基礎データ]。

22) 1992年12月末のレートは,1ドル=10,505ドン[アジア経済研究所ウェブサイト,アジア動向デー タベース,ベトナム基礎データ]。

23)インタビュー,ダンの妻,1954年生まれ,女性,フータン社在住,家事,2012年2月29日。

(13)

は,ホーチミン市を出稼ぎ先として選択しな かったのは,知人がいなかったからであると 述べる。彼女によれば,プノンペンにも知人 がいなかったが,ダンの姉の1人がポル・ポ

ト政権成立前にプノンペンに移住していた24)。 ダンによると,その姉はポル・ポト政権期に 亡くなっていたが25),プノンペンがかつて姉 の暮らしていた場所であり,未知の土地では 24)インタビュー,ダンの妻,1954年生まれ,女性,フータン社在住,家事,2012年2月29日。

25)インタビュー,ダン,1953年生まれ,男性,フータン社在住,大工,2012年3月4日。

31979年以降のソムロン区住民のプノンペンへの移動目的(単位:人)

年/目的 出稼ぎ(出稼ぎ両

親の同行を含む) 旅行(家族・親族

訪問を含む) 兵役 不明 総計

1979 0 0 1 0 1

1980 1 0 1 0 2

1981 1 0 1 0 2

1982 0 0 0 1 1

1983 0 0 0 1 1

1984 0 0 0 1 1

1985 1 0 0 1 2

1986 2 0 0 1 3

1987 1 0 0 0 1

1988 1 0 0 0 1

1989 1 0 0 0 1

1990 2 1 0 0 3

1991 2 1 0 0 3

1992 9 0 0 0 9

1993 7 0 0 0 7

1994 7 0 0 0 7

1995 7 0 0 0 7

1996 7 0 0 0 7

1997 7 0 0 0 7

1998 7 0 0 0 7

2000 6 0 0 0 6

2001 7 2 0 0 9

2002 7 2 0 0 9

2003 4 0 0 0 4

2004 4 1 0 0 5

2005 4 1 0 0 5

2006 3 3 0 0 6

2007 3 0 0 1 4

2008 3 2 0 0 5

2009 3 2 0 0 5

2010 4 7 0 0 11

2011 3 0 0 0 3

(出所)筆者調査(2011年11月〜2012年1月)

※ 表のデータの対象者はソムロン区の計37人。各人がプノンペンに行っていた年とその目的を基準に作 成した。

(14)

なかったゆえに,ダン達はプノンペンへの出 稼ぎを選好したと理解することもできる。

ダンと同様に,1980年代末に流行した西 瓜栽培に失敗したフータン社Q村のトンも,

1991年から1992年まで約1年半,妻と幼い 末娘とともにプノンペンへ出稼ぎに行ってい たと述べる。前述のとおり彼は,自身の農地 を抵当に入れ,2倍の利子で籾米100 kgを 借り入れ,プノンペンへ向かった。パスポー トを所持していなかったため,国境ゲートで はなく,裏ルートを使って国境を越え,プノ ンペンに辿り着いた。プノンペンでは,近郊 の町の船着場で積荷作業員として働き,船に 商品を積み込み,そのまま乗船してサイゴン で下ろす肉体労働を行っていたという26)

トンによれば,当時のプノンペンには,

1982年に出稼ぎに行っていた義兄(両親の 養子)が滞在しており,その義兄を頼ってト ンはプノンペンへ向かった。義兄は瓶蓋を製 造する職人をしていたが,当時のカンボジア には瓶蓋製造の技術がなかったため,義兄は 経済的に潤っていた。トンがプノンペンに滞 在していた当時,仕事の少ないベトナムから カンボジアへ渡ったベト人が多数暮らしてい たと述べる27)

フータン社H村在住のカンは,当時のベ トナムでは仕事がなく,最大都市ホーチミ ン市でさえ薄給であったと証言する。彼は,

1992年から1993年まで,カンボジアとベト ナムの国境付近を往復していた。カンの父ラ ターは,ポル・ポト政権崩壊直後の1979年 頃にカンボジアで故人の写真を遺族から集 め,フータン社在住の絵描きのところに持ち 帰り,写真を基にして故人の遺影を描いても らい,再びカンボジアに戻って遺族に遺影を 手渡すという仕事をしていた。カンも父の仕

事を引き継ぎ,カンボジアのベトナム国境付 近タケオ州に月に2回ほど乗りあいバスで 赴き,1軒1軒周って遺影を収集していたと いう。パスポートは所持しておらず,アンザ ン省ティンビエン県のカム山やチャウドック 市のサム山付近の国境を越えていた。タケオ 州では,母方の叔父が暮らしており,カンは そこで寝泊りしていた。叔父は1980年代に カンボジアに移住し,タケオ州で金銀細工職 人をしていたという28)

このように,家族・親族関係を伝ってカン ボジアへ向かった者は少なくなかったが,過 去の経験に基づいてカンボジアへ向かう者も いた。フータン社在住のトゥーンは,ベトナ ム戦争中の1968年から1973,4年頃まで夫 とともにプノンペンに住んでいたことがあっ た。ドイモイ以降,生活に困窮して農地を売 却してしまい,5人の子供達とともに1992 年に再びプノンペンへ行き,2010年まで滞 在していた。上述の人々と同様,トゥーンも パスポートを所持せず,なけなしの金で乗り あいバスに乗り,ティンビエン県の裏道を 通ってカンボジア国境を越えた。彼女がプノ ンペンに着いた時,1975年以前から住んで いた夫の兄弟は,既に全員ポル・ポト時代に 死亡しており,知人は誰もいなかった。トゥー ンによれば,1990年代のカンボジアの物価は ベトナムより高かったが,自由主義(សេរី) で収入が良かった。国連がUNTACを設立 した1993年になって初めて,ドルが普及し 始めたという。トゥーンは,雑貨屋を開業し て食べ物や果物を売り,子供達は労働者とし て働いていた。彼女もまた当時のプノンペン にはベト人が多数居住していたと証言する。

ベトナム出身のクメール人よりもむしろベト 人の方が多数派であり,クメール語を流暢に

26)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2012年2月22日他。

27)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2012年3月1日。

28)インタビュー,ラター,1948年生まれ,男性,フータン社在住,農民,2012年2月28日;カン,

1973年生まれ,男性,中学校の警備員,2012年3月4日。

(15)

話し,屋台を出して商売していたという29)。 写真1はベトナム側アンザン省ティンビ エン県の国境付近にある米酒製造工場からカ ンボジア方面へ筆者が写真を撮ったものであ る。見てのとおり,越境を妨げるような自然 環境や設備は見当たらない。

4-2 在カンボジア・ベトナム国籍者の増加 上述のインフォーマント達は,当時のプノ ンペンにベト人が多く居住していたと指摘し ており,当時はベトナムから多くの住民がカ ンボジアへ出稼ぎに行っていたと考えられ る。インフォーマントが「ベト人」と認識し た人々が実際にエスニシティや出生地という 点においてどのような背景を持った人々で あったのかは明らかではないが,1980年代 から1990年代にかけ,生活上の理由により,

メコンデルタからプノンペンへ人口が流出す る傾向があったことはわかる。

植民地期,下級官吏,職人,プランテーショ ン労働者としてベトナムからカンボジアへ移 民が流入したことはよく知られている。カン ボジア独立後もかれらは同国にとどまってい たものの,1970年代のカンボジアにおける 迫害,内戦,動乱によってその多くが国外へ

脱出した。1979年以降,その一部は帰還し,

また新たにベトナムからカンボジアに移住す る人々も増加しているという[松井2009: 2]。

統計によれば,カンボジアで内戦が始まっ た1970年には,カンボジア在住のベトナム 国 籍 者 は 前 年 の40万 人 か ら21万 人 に 激 減した[Việt Nam Cộng Hòa, Bộ Kế Hoạch Phát Triển Quốc Gia 1973: 38]。 ベ ト ナ ム 軍が駐留していた1981年には「ベトナム 人」の人口はわずか約8,200人であったが,

1995年には9万5,600人に増加していた[薄 2013: 26-28]。当時の統計で分類される「ベ トナム人」は,民族的に「ベト人」であるの か,あるいは「ベトナム国籍者」でありベト ナム出身のクメール人も含まれるのかどうか は不明である。さらに,ベトナムから出稼ぎ にやってきた,パスポートを所持しない人々 が統計に含められたのかどうかも定かではな いが,全体的に「ベトナム人」の範疇に含ま れうる住民が増加傾向にあったことは確かで あろう。

1990年代前半は主に経済的な要因により ベトナムからカンボジアへ向かう人々の移動 の流れがあったが,その傾向は家族・親族関 係や,かつて自身やその家族がプノンペンに 29)インタビュー,トゥーン,1947年生まれ,女性,フータン社在住,駄菓子売り,2011年2月24日他。

写真1 アンザン省ティンビエン県におけるベトナムカンボジア国境

(出所)左の衛星写真はGoogle Mapから取得。右写真は,左の衛星写真において白丸の地点からカンボ ジア方面へ向けて筆者が撮影した。

(16)

滞在したという個々人の経験が関わってい た。そして当時の政府の国境線管理が不十分 であったために,裏ルートを通って国境を越 えてゆく人々の動きが統制されていなかった ことも,プノンペンへの移動が活発化してい た背景となっていたと考えられる。

5. 新たな移動傾向とクメール人越境者への 政府の疑念増幅

5-1 移動傾向の変化とパスポートの普及 一方,1990年代後半になると,ベトナム 国内の政治経済の変化も顕著に表れてきた。

ベトナムは,1995年以降,ASEANに加盟 し,その後,次々と外国企業のベトナムへの 参入に関する大幅な規制緩和を実施していた

[坂田2009: 13-18]。この経済改革の背後に は,1991年のカンボジア和平協定調印以降,

アメリカがベトナムへの経済制裁を解除して ゆき,ASEAN加盟半月前には国交を正常化 するという国際政治の変動があった[木村 1996: 283-285]。ベトナムは国際社会に開か

れてゆき,かつてカンボジアを含む国外へ逃 れた人々が帰郷することが可能な環境が築か れていった。

フータン社を基点に据えた場合,この大き な国際政治の変化のなかで人々の移動の流れ は明らかに変化していたことがわかる。たと えば,フータン社の人々の出稼ぎ先は,プノ ンペンからベトナム最大の経済都市である ホーチミン市へと徐々に推移し始め,プノン ペンの経済的インセンティブは弱まりつつ あった。表4は,フータン社Q村のソムロ ン区からベトナム最大都市ホーチミン市への 出稼ぎ労働者が,2000年代になって顕著に 増加していることを示している。木材加工会 社や果物加工会社の工場が出稼ぎ先のリスト に含まれているように,ホーチミン市周辺で 近年急成長する産業が農村の人口を吸収して いる。

一方で前掲の表3を見ると,2003年から プノンペンへの出稼ぎ労働者の数は減少して いる。そのかわり,2001年から旅行,主に 家族・親族宅の訪問を目的にプノンペンへ移

41990年代以降のソムロン区住民のホーチミン市近郊への出稼ぎ(単位:人)

年/出稼ぎ業種 農業 木材加工会社 果物加工会社 レンガ造り 運転手 その他の賃労働 総計

1997 0 0 0 0 1 0 1

1998 0 2 0 0 1 1 4

1999 1 3 0 0 2 0 6

2000 0 3 0 0 2 1 6

2001 0 3 0 1 2 4 10

2002 0 4 0 2 2 2 10

2003 0 4 0 0 2 2 8

2004 2 4 0 0 3 3 12

2005 0 4 0 0 3 3 10

2006 0 7 0 0 2 2 11

2007 0 5 0 2 2 3 12

2008 0 7 0 2 2 4 15

2009 0 4 1 2 1 2 10

2010 0 6 1 2 1 5 15

2011 0 5 0 2 1 2 10

(出所)筆者調査(2011年11月〜2012年1月)。

※ 表のデータの対象者はソムロン区の計57人。各人がホーチミン市近郊に行っていた年とその目的(先) を基準に作成した。

(17)

動する者が現れ始めており,国境を越えた人 間関係の結びつきは途切れていないものの,

経済的理由で移動する者が減少していること が見てとれる。カンボジアへの旅行者が増え ている背景には,パスポートを作成する住民 が増え始め,一定の期間,合法的な手段で国 外へ移動することが可能になったことも関係 している。筆者が長期フィールドワーク中に 滞在していたフータン社ソムロン区トンの自 宅には,カンボジアからの帰郷者や,これか らカンボジアへ移動する住民がトンの家にし ばしば訪れ,パスポートや身分証明書など住 民登録にかかる行政文書の作成を依頼してい た。トンは,調査中当時,社人民委員会の幹 部であり,また1998〜2008年までは社の公 安警察に勤めていたため,住民登録にかかる 行政文書の作成に関する知識を持っていた。

それに加え,フータン社にある上座仏教寺院 ブオン寺で出家経験があり,還俗後も同寺の 俗人役職者で構成される寺管理委員会の書記 係を長年務め,クメール語,ベトナム語両方 に精通していた。特に高齢層を中心に公教育 を受けておらずベトナム語の読み書きが十分 でない住民が多いフータン社において30),カ ンボジアからの帰郷者らのパスポートなどの 作成代行を副業として,トンは月に50ドル ほど稼いでいた31)

では,以前は非合法的な越境を行ってい た人々が,2000年代以降,なぜ敢えてパス ポートを取得するようになったのか。そもそ も国際社会への復帰がまだ十分に達成されて いなかった1990年代までは,民間人がパス ポートを取得し国外出国することは,制度的 に容易ではなかったと考えられる。しかし,

2000年代以降,パスポートを取得して国籍 を明確化することが,越境者にとって利益に なっていた。たとえば,ベトナムとカンボジ アの間を行き交い,フータン社に一時滞在し ていた住民の1人サンは,次のように述べる。

 1983年から1990年まで,生活のために カンボジアで暮らしていた。最初はプノン ペン,その後はバッタンバン,スヴァイリ エン,コンポンチャム,最後にラタナキリ へ移動した。カンボジアでは,日雇い労働 者として働き,パンなどを売り歩いてい た。その後ベトナムに帰国したが,現在で も4〜5カ月ごとにカンボジアに渡ってい る。今は,パスポートの更新手続きのため にフータン社に帰郷していて,3〜4日後 には再びカンボジアへ戻るつもりである。

カンボジア国境はティンビエン県経由で越 えている。

 ラタナキリにはカジノが3つあり,その うち1つはカンボジアの首相フン・センが 経営している。カジノを利用する外国人客 はほとんどがベトナムから来ているため,

ベトナム語を話せる自分の娘はそこで従業 員として働いている。

 自分はベトナムでは貧困世帯に指定され ているため,医療費は無料になっている。

病気になったらベトナムに戻ることにして いる。お金がなくなったら娘に電話して,

200〜300ドルを送金してもらっている32)

サンは明らかに1980年代までは非合法的 な手段でカンボジアへ渡り,出稼ぎ労働に従 事していた。しかし,近年はパスポートを取 30)筆者が悉皆調査(2011年11月〜2012年1月)を行ったフータン社Q村ソムロン区では,20歳以 上の男女419名中,公立学校に通った経験がない住民は89名,小学校(ベトナムでは5年制)ま で通った者は172名,中学校(ベトナムでは4年制)まで通った者は111名であった。公教育を 受けていない者と小学校のみ通った者で過半数を占めていた。

31)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2011年1月23日;

2012年2月8日他。このトンに関する説明については,[下條2016: 56-58]でも言及している。

32)インタビュー,サン,1952年生まれ,男性,フータン社一時滞在,賃労働者,2011年8月11日。

この証言は,[下條2016: 47-48]でも取り上げている。

(18)

得し,ベトナム国籍を証明することで,フー タン社において貧困世帯への優遇制度を享受 する一方,頻繁にカンボジアへ渡り,カンボ ジア側の国境付近で建設が進んでいるカジノ で働く娘の支援に依拠して生計を維持して いる。

5-2 クメール人越境者に対する政府の疑念 なぜサンはベトナム側で貧困世帯に指定さ れ,無料での医療サービスなどベトナム政府 による手厚い社会保障制度を享受しているの だろうか。2001年以降,政府は貧しい少数 民族を対象とした貧困削減政策を,メコンデ ルタにおいて実施するようになった33)。ソク チャン省フータン社では,2000年頃から貧 しいクメール人世帯を対象に学費・医療費の 免除や生活費補助,家屋の建設といった社会 保障政策が行われている34)

これら政策の背後には,ベトナム政府が同 国領内のクメール人に対して長年抱いてきた ステレオタイプと,それに起因する疑念があ る。クメール人は政府によって概して「貧し い」とみなされてきた。1991年にベトナム 共産党中央執行委員会が出した「クメール人 地域での任務に関する指示」という文書に は,クメール人の「貧しさ」とそれによる 社会問題が指摘されている。同文書によれ ば,1991年当時の多くのクメール人居住地 域において,水利工事が行われず,稲の単作 が残存し,多数の農民世帯が土地や原資,生

活用水の不足に陥っていた。彼らは高利の借 金を背負い込み,土地を売ったり抵当に入れ たりして,未成育の籾を購入せざるを得なく なっていた。米を消費し尽くし,新米が出回 らない時期や自然災害時に飢饉が生じて,生 活が困窮していたという。不十分な教育整備 による識字率の低さ,高学歴者の不足,さら には幹部の質の悪さと人数不足が指摘されて いる。クメール人居住地域では,党・国家の 民族・宗教政策が十分に理解されていないた め,民族・宗教政策に関して重大に違反した ケースが見られ,そのことは,クメール人の 社会,経済,感情,思想,政治に重大な悪影 響を及ぼしていることが指摘されている35)。 さらに同文書には次のことも言及されている。

 歴史問題や宗教民族問題,幹部の些細な 誤りを利用し,歪曲を企て,分裂を引き起 こし,民族的憎悪を掻き立て,人民のなか に悪い噂を騒がしく吹聴し,党・国家の主 張と政策の実現を破壊しようとする敵対勢 力の陰謀と手段に対抗する必要がある。

 親戚・知人訪問でベトナム-カンボジア 国境の往来を求める南部のクメール人を,

法律の範囲内で組織・支援すると同時に両 国間の国境の往来を規制する。住民の利便 に配慮しつつ,自国や隣国の治安にも配慮 する36)

政府は,このような見解に基づき,クメー 33) Thủ Tướng Chính Phủ, Số: 74/2008/QĐ-TTg, Quyết Định về Một Số Chính Sách Hỗ Trợ Giải

Quyết Đất Ở, Đất Sản Xuất và Giải Quyết Việc Làm cho Đồng Bào Dân Tộc Thiếu Số Nghèo, Đời Sống Khó Khăn Vùng Đồng Bằng Sống Cửu Long Giai Đoạn 2008-2010[政府首相,首相決定

74/2008号,2008-2010年期メコンデルタにおける住居と生産地の解決および少数民族の貧困と生

活困難問題の解決のためのいくつかの支援政策に関する決定],9 June 2008。

34)インタビュー,トン,1955年生まれ,男性,フータン社在住,フータン社幹部,2011年1月13日;

2012年3月7日;サン,1952年生まれ,男性,フータン社一時滞在,賃労働者,2011年8月11日;

コン,1950年生まれ,男性,フータン社在住,伝統医,2011年8月18日他。

35)Đảng Cộng Sản Việt Nam Ban Chấp Hành Trung Ương, Số: 680T/TW, Chỉ Thị về Công Tác ở Vùng Đồng Bào Dân Tộc Khơ-mer[ベトナム共産党中央執行委員会,680T/TW号,クメール人 地域での任務に関する指示],18 April 1991。

36)Đảng Cộng Sản Việt Nam Ban Chấp Hành Trung Ương, Số: 680T/TW, Chỉ Thị về Công Tác ở Vùng Đồng Bào Dân Tộc Khơ-mer[ベトナム共産党中央執行委員会,680T/TW号,クメール人 地域での任務に関する指示],18 April 1991。

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