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『脱領域・脱構築・脱半球 ─ 二一世紀人文学のために』

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Academic year: 2022

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本書は特徴的な形式をとっており、19 本の寄稿論文からなる前半のパート と、批評家を紹介する後半のパートに大きく分けることができる。前半のパー トを構成する論文集は五つの部に分けられており、後半に関してはI・A・リ チャーズからワイ・チー・ディモックまで「代表的批評家」として 30 人の批 評家が年代順に、それぞれ異なる研究者によって紹介されている。本書は、構 成的に見て以上のような多声的広がりを持っている。こうした構成の問題にま ず触れるのは、それが本書の出版に深くかかわっているためである。「あとがき」

で説明されているように、本書は巽孝之慶應義塾大学名誉教授の退職記念とし て企画・出版された経緯を持ち、とりわけ「声」は本書を特徴付けるキーワー ドとして機能している。「あとがき」を執筆した下河辺美知子によれば、企画・

構想段階において「交響」や「ハーモニー」という語がキーワードとして考え られていたという。このキーワードは、巽氏と所縁のある多数の研究者の「声」

が一冊にまとめられたという本書の特徴的な形式を言い表すのと同時に、「は じめに」おいて四つの言語が織りなす四福音書、そして神が人間の言語を分裂 させたバベルの塔の神話に巽氏が言及しているように、「声」に耳を傾けるこ とが批評という人間的な営みの始点となりうるという点において重要性をも つ。以下では前半のパートを構成する 19 の論文を簡潔に概観していくが、各

横 山   晃

巽孝之 監修、下河辺美知子・越智博美・後藤和彦・原田範行 編著

『脱領域・脱構築・脱半球─二一世紀人文学のために』

(小鳥遊書房、2021 年)

〈書評〉

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論文はあらかじめ決められたテーマに沿って執筆されたわけではないため、相 互的な連関性よりも各執筆者による批評がいかなる想像力によって実践されて いるか、という点が読みどころになる。ちなみに、巽氏は自身の批評的想像力 が立ち上がる瞬間については、高校三年生のとき「ゴドーを待ちながら」を観 劇したときであったと述べている。

「特異点としてのアメリカ」と題された第一部ではアメリカという地理的空 間と結びついた想像力、あるいは創造力が論じられている。舌津智之はアメリ カにおいてサムソンとデリラの物語が 19 世紀から 20 世紀にかけて作家や音楽 家たちに与えた文学的影響力を検証し、脱異性愛的な想像力と結びついてきた ことを確認する。古井義昭は未来志向の倫理、「世代間正義」の観点からアメ リカの国家像と家族像との間のアナロジーを詳細に分析することで、ナサニエ ル・ホーソーンの作品『七破風の屋敷』の再評価を試みる。圓月勝博はW・H・ オーデンの詩「見るまえに跳べ」がニューヨークを拠点とする芸術家コミュー ンで創作された意味に焦点を合わせる。さらに「見るまえに跳べ」の日本語訳 を読み込んだ大江健三郎にも言及することで、トランス・アトランティックな 影響力についても論じている。原田範行はサミュエル・ジョンソンのトランス・

アトランティックな交流を追うことで、アメリカという理念の輪郭を外からと らえる視座を提示している。

続く第二部「感受性の在りかとしての身体」は身体、そして身体と結びつい た自意識の問題を検証している。まず水野尚之はヘンリー・ジェイムズによる 超自然小説群を 3 つに分類し、英米間のトランス・アトランティックな想像力 に光をあてている。渡邉克昭は、スティーブン・ミルハウザーの『マーティン・

ドレスラー』において、ホテルと一体化するマーティンのポスト・ヒューマン 的な身体がどのように表象されているのかを読み取る。小川公代はウィリアム・

ゴドウィンの著作『ケイレブ・ウィリアムズ』と『セントレオン』を分析し、

理性主義者として捉えられがちなゴドウィンが感受性の働きにも着目していた 可能性を探る。阿部公彦はジェイムズ・ジョイスの「イーヴリン」における身 体的「気持ちの悪さ」に着目することで、身体と自己意識の空間的・時間的ず れが持つ意味を問う。

第三部「人文科学が戦争にむきあうとき」は、非人道的な破壊行為である戦 争をとおして作家が人間的な営みである執筆活動をどのように続けたのか、と いう点が論じられている。諏訪部浩一はカート・ヴォネガットの『スローター ハウス 5』をとりあげ、ドレスデン爆撃を経験したヴォネガットが加害者とし

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て罪の意識を、ポストモダン的スタイルを用いながら作品へと落とし込んだと いう点に焦点を合わせている。新田啓子は、第一次世界大戦がアメリカ人であ るイーディス・ウォートンに与えた影響について論証する。自身の認識を揺る がす戦争にウォートンが作家として関心を寄せていたという点を掘り下げ、知 の外部あるいは外部の知へと向けられたウォートンの想像力が、「ブラック・

アトランティック」という空間へと接近している可能性に触れる。渡邉真理子 はジェイ・マキナニーによるポスト 9.11 小説『グッド・ライフ』をとりあげ、

同作はイスラムに対する視点の欠如により低い評価を受けているものの、文化 的他者が見えない状態に置かれていること、そしてニューヨーカーにとってツ インタワーの存在が当然であるがゆえに不可視であったことを関連付け、作品 内における「対」のイメージを分析している。越智博美は、南部史研究者であ るC・ヴァン・ウッドワードが第二次世界大戦中に書いた『レイテ沖海戦』に 着目し、アメリカの勝利ではなく日本の敗北に目を向けるウッドワードのアイ ロニーが、南部史の記述におけるアイロニーへと接続していった経緯に光をあ てる。

第四部「批評というパフォーマンス」において、池末陽子はエドガー・アラ ン・ポーの人生と作品の関係について「幸福」をキーワードに、伝記的な批評 の読み直しを行う。妻ヴァージニア・クレム・ポーの死後、ポーは鬱状態にな りながらも幸福を目指したという可能性を作品に見出す。遠藤不比人は、イブ・

K・セジウィック以降「ポスト批評」と称される批評動向を厳しく批判しつつ、

ポール・ド・マンを参照することで 21 世紀の文学批評の可能性を探る。大河 内昌は文学研究の存在意義を論じるにあたり、「文学性」をキーワードにド・

マンの修辞的読みを再確認する。中井亜佐子は一人称のポリティクス(「わた し」あるいは「わたしたち」)に着目し、南半球における解釈共同体を形成す る想像力が、J・M・クッツェーの一人称を通じた呼びかけに宿っていることを、

翻訳の問題を交えながら論じる。

第五部「限りなく地球的な交響」において、黒崎政男は地球規模での自然災 害に関して、これまで哲学者たちが各々の科学的・宗教的世界観に基づき解釈 してきたという点を確認しつつ、人間を中心に据える科学中心主義的発想をわ れわれは持ち続けるべきか否か、という問をなげかけている。後藤和彦は、あ る女性の人生が性体験によって不可逆な形で変転するという、「いかにも」小 説的な屈曲が小説の歴史的文脈とどのように連関しているのかを問う。特に戦 争における敗北によって、全く異なる生活様式や美学へと一変してしまう状況

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を、小説における女性キャラクターに訪れる不可逆な屈曲のなかに見出す。下 河辺美知子はハーマン・メルヴィルの『ピエール』における「場所」の問題を 論じる。生まれ育ったサドル・メドウズを離れるピエールは地理的位置感覚を 喪失するが、姉と思しきイザベルとともにピエールの「心理的地形」が最終的 にいかなる地図上への場所へと彼らを導くのか、という点を検証している。

本書のタイトルに着目すると、その副題には「人文学」という語が入っている。

「あとがき」で語られているように企画段階においては、より分野限定的に「英 米文学」という語が候補として考えられていたという。英語では「ヒューマニ ティーズ」と呼ばれるように、また「人文学」という文字からも明らかなよう に「英米文学」から「人文学」への変化でうかびあがるのは「人」がもつ重要 性である。より具体的に言うなら作家や批評家を含む、人と人との間─つな がり─であろう。各執筆者の批評的想像力に基づいた実践がまとめられた本 書は、その性質ゆえ一つの主題に還元することは不可能である。しかし既に述 べたように、各論文と「代表的批評家」の紹介は巽氏への応答として発せられ た「声」という点で共通している。最終的に「交響」というキーワードは第五 部「限りなく地球的な交響」、そして「交響する理論」と題された後半部のタ イトルに採用されている。なお 19 本の論文に関していえば、偶然かも知れな いが第 1 章の著者である舌津は『白鯨』の一三二章のタイトル「交響楽」に言 及し、第 19 章の著者である下河辺は「多声的・多言語的」というバフチンの 用語に触れている。文学批評とは基本的に個人的な営為・実践であるが、その 個人的な批評行為を特定の誰かに向けて発することが本書を貫く人文学的営み である。それだけにはとどまらず、本書の「声」は読者という第三者にも届け られ、刺激された読者の批評的想像力がさらなる声となって響くことで、未来 に託された人文学の可能性は音の波紋のように広がっていくのであろう。

参照

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