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Beginning of the lnflux of Copper Coins made under the Sung(宋)-Dynasty into Japan.

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Beginning of the lnflux of Copper Coins made under the Sung(宋)-Dynasty into Japan.

森, 克己

https://doi.org/10.15017/2339017

出版情報:史淵. 43, pp.1-25, 1950-06-30. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

= −−− ‐ −−−− −

宋代は前後約三百年︑その間絶えず鏡役の鋳造が行はれたのみでなく︑北宋時代の鋳鏡堂は中國朧朝中妓大の数字

を示してゐるのである︒殊に建炎以來朝野雑記叩集十六には︑紳宗の熈寧年間の鋳銭並は六百餘批武と柵してゐる

が︑事挺曾我部靜雄博士のすぐれた研究の結果から見ても︑抑宗の時代には年共の銅・鐵鏡貨鋳造額は六百餘萬質を︵註ご下らす︑從ってこれより鐡鏡等を排除した銅銭鋳造額は五百萬貨篝を下らなかったのである︒

それにもかかはらず宋代を通じて常に銅銭の鰊乏に苦しみ︑所詔鏡荒といふ現象を惹き起したのは︑一つには民間

の銅銭錐蟹といふことにもよるが主としてその銅銭が多並に國外に流出したからである︒一慨宋代においてはすでに

処幽倣初より銅銭の江南・塞外及び南識諸圃に流出するのを禁じ︑その犯人に對する刑制は附出二箕に及ぶものは徒

︵確二︶一年︑三賦以上は棄市と定め︑蛍を設けて密告を奨勵してをり︑仁宗腿暦元年二○四己には︑銅銭を國外に出す

こと一世以上に及ぶものはその首謀者と死刑とし︑迩果者は悲し−世以内ならば︑河火・河北・京西・映西の人は旗

南速悪の州軍本城に配し︑腹南雨漸脈雄の人は映西に配し︑そ︑の居伸灸紬者は同罪とする︒また逮捕した外人はこれ

宋銅錐の我が國流入の鋤初

蓮、ノ

宋銅銭の我が國流入の端一初

森 克己

(3)

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宋銅錨の我が園流入の端初二

を荊湖江南に緬管し︑淡收釧銭を懸賞として朽告を艇勵し︑犯罪を兇察しなかった官吏は位二等を城渉ると規定して

︵註三︶ゐる等︑時代が下る程その刑罰が苛酷になってゐるのは︑これ等の禁令にもかかはらず︑銅銭の流出が益々盛んとな

#βって行ったことを反映するものといへよう︒

声声

しかるに釧鏡姑造の機能が北宋・南米を通じて並も発揮され︑征歳五両醐慨以上を鋪逃した川宗の時に︑王安石の

︵誰四︶政策として一時銅嬢の鬮外帯出を許し︑その代り國外栫出の細鑪には槐を洲したので︑釧銭の悶外流出はこれを契機

として拍車を加へられたのである・・そこで右識者の間には王安石の政策に批判を加へるものが現れた︒たとへぱ娠方〃

平は政府が錐禁を弛めてより以來欺年にして︑中幽の鰻従が日に日に耗散してゐる︒若しこのま上放脈して史に戯凪

を積むならば外は識く四災に入り︑内は窓に術毅してしまうであらう︒故に︑再び蒋享に復活すぺきであるといって

︵詑五︶︑をり︑蘇轍もまた元祓五年︵一○八九︶.の噸遼に使し遼り︑中倒伽鑓の透へ流出することを論じて︑

臣等蕊兇︑北界別無鎧幣︑公私交易並使本朝鋤鏡︑湫邊蕊鰻條渋雌械深亜八缶叩利之肌在勢無由止︑本朝毎歳雛竣

︑以百萬計︑Ⅶ所在常忠鏡少︑蓋散入四災︑勢術剛也︑

と述べ︑宋朝毎年の鏑銭が百寓批に上るにもかかはらず︑粥に鏡の少いのに苦しんでをるのは︑蓋したれが悶外に抗

︵注六︶出するからであると人糞の注意を喚起してゐるのである︒

しかるに從來より宋朝國庫の亜要財源となって來た外幽斑易は︑北敵の唯迫を受けて南渡し︑國家財政が急述匪に

逼迫を拷げてゐた南宋にとっては︑比較的北敵からの侭害を免れてゐた外図笠易が更に一段と遁要性を加へて来たこ

とはいふまでもない︒このことは南宋の商宗が﹁市舶の利は頗る叫川と助く︒冗しく密法に楯って以て速人を招伸す

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︵註七︶べし﹂といってとり︑海録咋蕊所收の市舶鋒にも﹁市舶は共の利憧ら歩︒金山珠海を椎しへ天子.の南叩なり﹂といつ

てゐる言葉によっても明かである︒従って南宋に至っては︑斑易招致といふ政策には蚊も力を注いでゐる︒

しかし政府の貿易奨勵によって海外市場が搬大すれば︑それに伴って鰻撰の幽外流出が激化するといふヂレンマに

陥ってしをふ︒紹興十一年︑政府は外國船が中國の港産出る際には︑迩判一員を派遜してこれと鮎械し︑釧嬢の有無︑

を取調べさせ︑若しも官吏が事惰を知りながらこれを兇遁し︑薪しくは械閲と怠った場合には︑その官吏に照刑を加

︵註ぺ︶へることとした︒そしてこの後も艇荏釧鏡持出し禁止の法令を發布したのであるが︑外幽商人の釧錐抑川しの手段は

︵註九︶巧妙を極め︑朱の不暹の徒と結託し鏡を小舟に載せて潜かに沖合に碇泊中の外幽船にまでこれを通んで獄か込み︑そ

の上にほかの貨物を重ねて役人の眼を免飢ろ工夫なし︑雑しきに至っては氷の不正官吏を舘絡してこれを持出したの

︵詮一○︶で︑銅銭は非常な勢を以て國外に流出して行ったのである︒

︵注一一︶しかるに宋朝の鋳銭能力は祁宗の煕寧年間里ハ百餘潤世を絶頂とし︑それ以後は次第に下り坂となり︑殊に南栄に

なると︑銅・鐵︒鉛︒錫等鋪銭に必要な鋤石の産出額は急激に減少して行き︑従って材料不足のため錨鎧額も減少

し︑北宋祁宗時代の一千分の一といふ有様となり︑深刻な乃賎荒に陥った︒をごで政府は桁幣の発行によって銭貨の

不足を補はうとしたのであるが︑含子溌發の結果は御子の信川を下蕗さぜ︑民州は桁幣を輕蔑してこれを擁ひ︑︑斑象

︵註一二︶は釧鐘を蓄積して出さないために悪性インフレとなって物仙雌蛍をひき起すに至った︒政府は紹理一千年︵二六○︶

には鮒鐘五画を持川しても死刑とし︑その挑行の鑓や貨物はすべて密告者に典へるといふ雄も嚴璽且つ苛酷な禁令を

定めたが︑結局これを禁じることが出来なかった︒それといふのは海洋が荒形としてなり︑出没自在で法禁の及ぶと

朱銅銭の我が閲流入の州初三︑

夕I

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朱銅轆の我が間流入の端初

.︵注一三︶ころではなかったからである︒從って南宋末期になると下海の禁を布き︑

一一

かくて朱の銅銭は外國賀易の波に乗って南洋一椿にひろく分布流通した︒︲たとへぱ髄時アラビア商人の根蝶地とな

註駐註註註,註註註註註註註涯註

一一一一一

W三二一○九八七六五四三ニー

曾我部静雄跡士﹁日宋金食幣交流史﹂第二軍

宋黒食武志下一一

統安治邇鑑長編慶勝元年五月乙卯條

同前元豊八年九月乙巳條

梁全築﹁論錨禁鋼法﹂

繁城典四十一

宋令要︑食貨三十八市舶

同前

歴代名臣奏識一毛三

文献迩考﹁市舶互市﹂

甦炎以來朝野雑記甲築十六

歴代名臣奏譲三七一

柔芹十瞼・宋左史呂午公諌草﹁透堀銅錨﹂

宋史︑食食志市舶

B

︵注一四︶一時海外との武易を禁じた程である︒

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︵注こった間婆︵爪陛︶に向けて幟出された鋤鏡は宋朝官吏の眼を眩ますため蘇吉丹といふ隠語を以て呼ばれた︒ヨリそしてこれ等の國交では宋銭の流入によって自然經濟より貨幣經濟の段階へと進み︑未銅銭の幟入のみでは滿足ぜ

ず心自ら銭食を鋳造するに至ったものもあった︒たとへぱ交趾においては天聴年間即ち十一泄紀の初期︑黎字銭が流

通し︑この地方を通過した外國商人達が多くの黎字鐘及び砂蝋鏡を魔州に持ち込み︑これが宋の貨幣と混用され︾っの

︵註二︶で︑政府はこれが淡收に努めたこともあった︒

綴って北界への銅銭流通分布の舩態は如何であるかといふに︑元耐五年二○九○︶頃遼に便し親しく北界を硯察

して來た蘇轍の筆になる﹁北使遼論北邊事荊子五首﹂によれば︑術時遼には自身端造した銭貨も有たず︑公私の貿易

︵誰二↑︶には中園の銅銭を使川してゐたのである︒從って金が遼と減して毛の葱版囲を悉く領有したのであるから︑遼時代中

園より輸入され流通してをつた中國銅鐘が金代にも流通したのは怪むに足らない︒そしてはじめは唐・宋嬢のみを便

︵詫四︶

用してゐたものが︑|金の厳帝充の正隆年間二一五七l︶には金自身の蜷貨を鋪造するようになった︒北滿阿什河

S呂一ざ︶の南郊白城村には金の上京曾準府の跡があり︑私も去る昭和二十年七月此の地を訓森し︑北宋の元豊邇賓

を手に入れたが︑.一九二三年より四年肌にわたりロシア考古學研究所のトルマチョフ氏︵貧K・弓○冒肖胃く︶が同地

を調査して發兇した古賎七酉千七個のうち︑僅に二十二個が満朝の鐘貨であった外かは殆どすべて末釧鰻であった

・・︵註五︶といふことも︑宋銅嬢が盛んに遼金へ流出し︑流通したことを示すものに外かならない︒

しからぱ次に遼金と境を接してゐた商脳の場合は如何か︒米と高腿とは渤海を隔てて相對し︑商腿より帆船を以て

︵確六︶二漸地方に達するには句逮くて二十Ⅱに過ぎず︑近ければ五七冊で到達したのである︒されば雨幽の政治的關係とは

宋銅鯉の我が剛流入の端初

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一二

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宋銅錐の我が図流入の端初六

拘りなく預易を目的とする雨國商人の往来が絶えなかった心宋代の書物に﹁鶏林類邪﹂と題するものがあり︑商蝿の

國情・風裕・産物・言語等を極あて祥細に記してゐるのも︑こうした交通・貿易閉係の密接さを物語るものである︒

從って主たこの震易關係を通して宋の銅錨が流入する機會もあったわけである︒

︵註七︶一礎高麗においては︑肌くも戒宗十五年︵九九こ四月に繊鐡が鋳られてこれが用ひられた︒矛︶して穆宗五年︵一

○○二︶には施亦を禁じて鑓貨の流通を奨勵した︒しかし商肥の一般枇會は未だ貨幣經濟の域に到達してゐなかった

ので︑次第に流通しなくなり︑絆布・銀瓶叱以て代剛貨幣とし︑また日川品類は米を以て代慨として別に不自由と感

︵註べ︶

じなかった︒その後湫宗二年︵一○九七︶政府は鋳竣官を世いて鰻街を鋳造し︑これを流通させようと企て︑同七年

︵二○二︶には鋳造した海東通蜜一甑五千箪伍宰纒文武雨班軍人に賜はり︑京城左右酒務や市街の各店舗に漣いて

︵註九︶鐵貨使用の利便と宣体させた︒そして醐宗六年簾鏡郡朧が﹁閑民はじめて銭貨使用の便利なことを知ったので︑これ

︵誰一○︶を崇廟に報告したい﹂と奏し︑許可さ鮴てゐろとしろより見れば︑毒凹は一雁政府の嬢貨奨勵錐が功を收めたかに見

えるのであるが︑しかしこれは鋳鐘都監の自己宜傳に過ぎなかったことは︑醐宗九年︵二○四︶七月政府は︑鑓貨

を鋳造しこれが流通を漿勵してより巳に三年になったが︑人民貧しく︐して鏡貨花利川することが出來ないといふの

で︑州縣に命じ︑米翠伍出して滴食店を開き︑民間の武易を許して鏡鴛の利便を認識させようと努めてゐることによ

︵註一二

っても窺はれるのである︒︑で

以上の如く高麗政府は十一泄紀末以來鎚街を奨勵しその流通に努力したのであるが︑一般耐會經濟は未だ鐙旋を流

通させる段階にまで達してゐなかった︒こうした物堂交換による自然經濟の状態が少くも二二三年まで縦いてとつ

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たことは︑同年高雌に赴いた宋の使徐純がその高雅兇剛記ともいふべき宣和木使商腿岡經の中において商蝿の貿易状

況駈

泉鴛の法なし︑惟だ絆布︒銀瓶を以て其の画に準f︑日川微物匹雨に及ばざるものに至っては︑則ち米を以て蝋銑

︵宋朝︶を計ってこれを償舎で︐然れども民久しくその僻に安んじ︑︑自ら以て便となす︒中剛朋廷鎧賓を賜予す︒今皆これを

府応に藏し︑時に出して以て官晩に示して仰玩ず︒.

︵注二一︶といってゐろところによって明かであるbしかるに︾七の後宋商船の來航朧んになるにつれて宋釧銭が次蛎に流入して

来るやうになり︑E沿嚥︵二一三二四Oには臘自紫番#に旗らっ患侭侭導くし皇る

︵註二三

意兇さへ開るやうになっ素た︒一葉の爵に繭ても鴬の時︵二六三二八九︶知輔府苑成は﹁透

漏蝿鏡﹂を論じた中において︑商腿の産物である背蕊・釧器・螺頭・径淀との取引において銅銭が商艇方耐へ流出し

︵註一噸︶/

てゐることを指摘した.また座元五年︵二九九︶七月には︑商雌・日本への釧鐘辨出を禁止してゐる︒これ等の事 涜より推測すれば商脆における宋州鎧流入のはじまったのは︑大髄十二趾紀の中幽前後といふことが出來るのであ

る︒次に﹁朝鮮銭史﹂所赦雅掘銭擬似衣中︑開城附近から出土した中悶鏡堂一手七亘一千四個について洲ぺて兄ると

漢代の竣貨五枚︑後漢の鎧貨五枚︑階の鏡堂一展︑唐の囲沁通銀座四一ハ一枚︑同睡兀飯魏皿四一ハ枚︑五代の鐘貨三ハ枚︑

宋の銭貨三○○二履︑遼の銭堂一波︑西奥の鎧堂一枚︑金の鎧侭七七枚となり︑宋の銭貨は絶對多欺を占めてゐる︒

そして未の鐡貨のうちでは北宋鐡が二九五八枚︑南堆鏡四五枚を数へ︑史に商脆へ宋鐡の流入が磯んとなり出した末

孝氷以別に錐迭された末の鎧貨は二九七六枚を蝋へ︑これまた絶對多弛を占めてゐる︒また班に北宋鐘禿五八枚に

朱銅銭の我が間流入の端初・七

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一己

朱銅銭の我が剛流入の端初八

對し南栄鏡が僅に四五枚を鯉へるに過ぎないといふのは︑己に述ぺたやうに︑南宋に至って錦鐘能力が低下してしを

ひ︑貿易により海外に流出するものは北宋鍍がその大部を尚めたといふことを證雛立ててゐる︒また史に注目すべき

ことは勾商腿においては十二泄紀中頃前後より宋銅銭の流入を見たが︑しかしその流通は餘り盛んではなく︑一般民

衆は依然として銀瓶等を鏡貨の代用としてなったといふことと︑をた金・蒙古の南宋座辿により︑朱と商腿との交通

貿易關係が不振になって来たといふことがその原因として老へられよう︒・

・駐一諾蕃志

註二宋會要禰錐三三冊食寅一三錨法・第一阿○肌食覚三八天穂二年一・一月擁︾J

註三繁城集四一

註四蹄潜志

︲註五滿洲時報一九一孟年飾一號

夕j″″〃

註六宣和宋使商麗圃經三四海迩・歴代名臣奏議三門八夷狄﹁諭金人﹂

註七商麗史七九食貨﹁貨幣﹂註八同・・前

註九伺・前 註一○同前︑.一一 註一一同前︑

註一二宣和奉使商麗岡鯉巻三斑易

︑註二一大畏國師丈築巻一二

註一W美芹十論・宋左史呂午公諌草〃

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r れが求商船の一方的往来による受動的貿易より︑日宋雨似商船が往來する能動的貿易へと展開しつつあった日本にも 栄の影響を受けて次共に自然経済より擬幣經濟へと前進してゐる︒從って同じく栄との貿易棚係が結ばれ︑しかもそ 以上眺めて來たところによって明かな如く︑南海諸國といひ︑遼・金・商雌といひ︑栄と震易陶係を結んだ國掩が

犬陣の伐幣經濟の波が押寄せて來るのは妓早時間の問題であったのである︒

・・一綴我が図に貨幣制度が布かれたのは何時頃からのことであらうか︒それは勿論大化改新以後次第に取入れられた

唐の制度によるものであらうが︑それが果して何時からはじまったかといふ問題になると文献の記述は唾交であって

︵注一︶連にいづれとも決し難い事情にある︒がしかし今日その静︑時鋳造された笈物が存在することによって文献の記述と裏

付けてゐるものは﹁和同開弥銭﹂である︒和同開弥銭は脈の開元邇喪錨を模範として製作されたものらしいことは︑

︵注二︶喜川新六氏の外形並びに亜辻に就いての比較研究によって明かにさ奴た︒.

かくして政府は唐制を棋倣して和同開弥鏡を礎行し︑これを流通させようと試みたが︑徽時の肺含経済は自給自足

状態にあり︑一般には鏡貨の必要なく︑政府の意剛に反して充分流辿しなかった︒そこで政府は先つ蓄鏡の多寡によ

︵桃一三︵註伽︶

って位階を授けることとして銭貨の貯諮を漿勵し︑或は川地の咋搦︑ヘには必ず錐食を使用させ︑或は官吏の職を鏡貨を

︵註五︶以て給することにし︑或はまた平城京の來西巾でも銭笈の使用を暁勵したので︑東西市場を通じて奈良を中心に鎧貨

は漸次各地に城っていったことは砿愈院文書中に見える造佛脈作物帳や︑田地・屋地・家屋等Q火券によって必甑ふ

宋銅錐の我が國流入の端初九

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宋銅錨の我が図流入の端初一○

ことが出来る︒をして政府は更に諸國の訓川物をも鏡伐を以て納めさせることとし︑その際の交換率を布一常に對し

へ註六︶↑て鎧五文と規定した︒この規定は畿内より次鯏に畿外の諦幽にも及ぼし︑養老六年九月には伊役・伊勢・尾張・近

︵姓七︶江・越前◇丹波・播解・紀伊等にまで樅大させた︒このことは或程晩鐘貨を流通させるのに効果があったらしく︑日

本雛異記にも︑大安寺の西里に居住した空異ハ條五坊の人柄弊鮎といふ人が︑︲聖武天泉の時大安寺の修多維分鏡三十

︵註八︶︑賀を借りて越前の敦焚津に赴いて交晶したといふ説話が兄えてゐる︒またこの流通純剛は平安時代に入っても或程度

持繊されたらしく︑延喜式の規定によれば正右京は訓を鐘納し︑縦内は湖として各國の土産物と共に鏡貨を納めるこ

・とに規定し︑畿外では紀伊園の浪人の調脳を錐納と定めてゐる︒しかも今日発処される和同開跡はじめ奈良時代銭貨

の發見地は大照以上の國糞と一致するのであ一名唯しかし例外的には繊日本紀に伊豫・長門・常陸・因幡等の速隔の○一地にまた千没・百寓の銭貨を献じて綾位にあづかつてゐる例が兇られるが︑これは銭貨流通厩域外の地方豪族がその

.財物と譜稜する場合︑鏡貨に換へてする方が便利であったところより起った現象であることは︑喜田新六氏の研究に

︵誰九︶よって明かにされた︒

かくて政府は和同開弥以後︑測年遡変・祁功開変・降平永斑・庶認加喪・承和昌蜜・長年大変・饒益祁変・斑観永

.﹄喪・寛平大礎・延喜邇從・乾元大変等の所捌泉州十二銭を鮎造した︒そしてそれが或る程度の流通を兄たであらうこ

︵註一○︶.とは︑弘仁十三年︵八二二︶七月丙申︑政脾は諦剛の缶蛎者に新鮪の術蒸祁変銭を給してなり︑貞観十五年︵八七三︶︵註一ご同十六年︑元慶二年︵八七八︶京畿両姓の調術銭を定めてをることによっても鏡はれ︑更に宝た下っては承平七年正月

・十一日右大臣家の饗に︑中務川宮と右犬臣と剛非の勝負を行った際の賭物に銭を用ひたといふことが古今蒋聞集に兄

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︵註一二︶/

えてゐることや︑或はまた俄時の文學宇碓保物語や土佐日記等に銭に脚することが艇交兇え︑銭貨使用といふことが

︵誰一三︶・常識化してゐたことが鏡はれるのである︒

しかしながら営時の京都と地方との柵には文化的にも經濟的にも非常な相違があり︑地方は自給自足の段階にあっ

て︑經濟的には京都に依存せず︑従って地方は貨幣經濟に入るべく未だ充分に熟成してゐなかったので︑鎧償は己に

述・へた如く奈良乃至京都を中心とする畿内及びその隣接諸國に流通するに過ぎず︑しかもたの流通も政府の強制と奨

勵とを背景として行はれたものであったことは上述の如くである︒然るに政府の弧制といふ支柱も政府椛威の喪失と

共に崩れて行ったcといふのは地方の國司.の悪政や︑所論権門勢家といはれる塒椛階級の樅雛や︑この特椛階級の威

を借る帳外の民や.莊凰の増加等によって租脳調は地方より中央に輸納されず︑地方において正稚を流用してしまふ

︵踵一四︶有様であったため︑國家財政は破綻を生じ︑延いては中央集植的幽家機黙に弛緩と来たし︑政府の威力と信用が失は

肌て行くに従って益迂鎚貨の流通を困難ならしめ︑政府の保謎漿勵にもかかはらず何時とはなしにその流通が鈍くな

って行き︑途には衰退的な自然經濟が支配的となり︑畿州に処られた街幣流通さへも排除され︑物共交換即ち米及び

絹の街幣化への移行となって行ったのである︒

しかし︑氷延兀年︵九八七︶政府は総貨の流迦を十五大寺に祇触してゐるところより見れば︑兎も角もこの邸までは未

だ嬢貨の流通左維持したいといふ︾葱韮だけは有ってとったひとが窺はれるのであるが︑これより以後ともなれば政府

の貨幣經濟維排の希望も次銘に失はれ︑寧ろ米や繩心俊幣化を承認せざるを得なくなって行った︒故にこの時期に幹艸︵誰一五︶り︑例へば寛治六年︵一○九二︶契丹薙経山して来航した宋商降班が銀変侭即ち南廷銀等を濁したといふやうに︑た

〆宋銅銭の我が岡流入の端初二

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宋銅蛾の我が園流入の端初一二

主たま縦商人の手によって外國の錨貨が蔚されるやうなことがあったとしても︑それは鋳貨としては流通せず︑伊勢

︵注一六︶大祁宮で南廷銀を椰変に加へてとる例に兄られるが如く︑銭貨としてではなく︑珍炎としてのみ喜ばれたのである︒

註︒一日本番紀天式天皇十二年円月壬申條に﹁紹臼︑白今以後︑必川銅錨︑莫用銀銭﹂.また側月乙亥の條に﹁紹日︑爪銀英止﹂

とあり持統天皇八年三月乙西の妹に﹁政泣炭蝉大宅朝原麻呂︽励大式姦忌寸八岫黄番迩本疵等︑奔鏑銭司﹂とありまた

緬日本紀文武天皇三年十二月鵬子の催に﹁始柾僻雌司︑以直大難中原朝臣窓美麻呂鯛長官﹂と見える呼走の始めが腿々

に記されてゐるO

註二喜田新六氏﹁奈良朝に於けぁ鏡伐の佃値と流掘とに就いて﹂︵史學雑誌四隅ノご

註三縞日本紀和銅隅年十月叩子怖

註円同上和銅六年三月壬子條.

註五同上和銅凶年十月叩子條

・註六同上和銅五年間十二月辛丑條

詮七︑同上蕊老六年九月庚寅條

註八日本脚現報善悪鐡異記問雑王使鬼得所召人之賂以免詠二鵬

註九喜田新六氏﹁奈良朝に於ける罐衡の偵依と流通とに就いて﹂︵史皐雑誌阿凹ノ二

註一○類聚國史

註二三代笈録・類聚三代稚〃〃ク①註ご一古今許聞築

註三一宇津保物語﹁藤原の君﹂の巻に卉商たゑ一葬商基の言栞として

あたら物を我が爲に塵ばか・りの業すた︒祓すとも打撤に米いるべし︒籾にて稀なさば多くなるべし︒修法せんに五万八るぺ

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ー0◎し︒塊ぬるに土入る・へしo土三寸の所より多くの物出で來︒棟の枝一つに焚心たる数あり︒菜物に食分に良き物なり︒胡麻○O○○︒○︒○○○○○○︒○Oは油に絃りて質ろに多くの錐出で来︑共の糟味噸代へつかぶに良し○・粟麥豆大角豆斯の如く雑役の物あり〜といってむり︑また紀批之の土佐日記の承平五年正月九日の條に︑土佐國香柔郡字多の松原の沖莚通った時・舟の舟子が歌っ

た舟歌を︑

はる︵春︶のLにてそれとばなく︵泣︶︑わかすすき︵薄︶にてきる︵胸︶ノ︲1つん︵摘︶たるな︵菜︶を郡や︵親︶やま

ほるらん︑︵姑︶しうとめやくふらん︑かへ︵肺︶らや︑よん・へ︵夜部︶のうたゐもかたぜに︵錨︶こは︵乞︶んそらこと

をしておき︵舩態︶のりわざをしてぜに︵鏡︶ももてこず︑おのれだにこずO

と記し︑また同十円日の侭には.

あかつき︵晩︶より雨ふ九・ぱ︑おたじ︵M︶ところ︵所︶に廷ま︵留︶れりoふたきか︵舟潜︶せちかす︒さうし物なけれ

ばむまのとき︵午時︶よりのち︵後︶にかちとり︵枇取︶の昨日つりたりしたひ︵鯛︶にぜに︵鏡︶たければ︑なれ︵米︶

をとりかけておちら九ぬoゞか坐る事な属ありぬOかちとり︵枇取︶戒た︵又︶たひ︵鯛︶もてき︵来︶たり︒kれ︵米︶さ

︑けしばしば︵腱︶く︵来︶る○かぢとり︹桝取︺けしき︵然色︶あし︵悪︶からず︒

とあり︑鏡貨使用といふことが土佐のあたりにも行はれたが︑しかし微吟は鰻蝿少く︑図守さへ思ふヤワには行かたかつたこ

と︑従って米が代川されたことが窺はれるのである︒

註一四群田新六氏同奈良朝に於ける鑑武の佃仙と流通とに就いて﹂︵史学雑捲慨凹ノこ

注一五中右記寛治六年六月一千七日係

註二︿仁治三年内宮假殿誕宮記

口︒

宋銅鋤の我が図流入口端初

1−

F

(15)

I

︐︑宋銅蛾の我一か園流入の端初一四

しかるに中央架椛的政浩機緋が弛綏し史嶋朋埋して來乃と︑それに伴って公有地の莊閲化が激化し施大し︑殆ど全

國が莊園化して行く有様であった︒そしてこの疵閲が此族逵の蒋侈生活の經濟的基盤であったことは︑滞推物譜雀二

に︑︑

かくとの御かたの宜ふこと︑腰はいがに︑心うし︒我得たらむ好波の脈は︑年に米一斗だに出で來べきならず︑

今一つは越中にて︑容易く物もはかるべきにあらず︒辨の殿の得給へろは︑一一菅石の物出で来るなり︒

といってゐるところによって哨窺ふことが出來る︒そして莊園領︑王の收取下にあった莊閥農鶴達は︑領︑壬の欲求する

ところのものと生産し年武として納めてゐたことは︑字津保物語﹁櫻の上﹂下の巻に︑

國々の御莊より︑節料に人の奉るきねへわたなどかんの殿君だち︑御許人︑下にさふらふ人パに︑例の御節料よ

り外に︑いといかめしう分ち総ふ︒

とあり︑或は榮華物語﹁衣の珠﹂の巻に

御庄糞々の絹などをすとやかに奉りはてね邪の怪しさに年返りてぞ御使遜はすぺかめる︒

といつてゐること等から窺うことが出來る︒

このやうに硴園農民の勢動力によって農業生産が哨大し︑しかも軍に農産物のみではなく︑領壬の要求に鵬じて各

種の工蕊品も發逹した︒從って上代氷期になると延喜式に躯げられた諾國産物の品口には見えないやうな新しい産物

も各地に生産されるやうになって來た︒たとへぱ藤原明衡の新渡鑿記應諸國土産として

阿波絹越前綿美泌八丈︵又柿︶糀陸綾紀伊繩甲斐班布石兄紬但馬紙淡路盤

1

(16)

■■■■■

和泉櫛播鯉針︑術中刀伊豫手浦︵又砥又鰯︑叉雛︶出巽莚︑・識岐剛座上總鰍武減錘

能登釜河内鍋︵又味噌︶安蕊柳伽後鐵握門牛陸奥駒︵又棚紙︑叉漆︶信濃梨子︵又木賊︶

丹波栗尾張繩・近江鮒︵又餅︶婿狹桃子︵又餅︶賊徒鮭︵又漆︶伽前海糠周防鮒柵勢鯛

限岐蚫山城茄子大和瓜丹後和伽飛稲餅旗西米

︵註二等を塁げてゐる︒以上の産物の殆ど大部分は延喜式の時代より以後に生産されるや一〃になったものが多い︒

かくて各地莊園内で生産された諾物産はf年武として縦盈京都に輪逢集中され︑費族階級の諮嬰を充したのである

が諺量族逵が京都に邸宅を雌へ︑多くの使用人を召使ったため︑これを對象として人口の堆中が起り︑人nの錐中は

更に文化の発達を薇らし︑そこにまた自ら市民と農娩の腫別が生じてその剰餘生産物若しくは副業の結果を交換し︑

市民との交易と需要とを充すべき商業が発達したことは︑源氏物諦.﹁玉かつら﹂の港に﹁京は自ら職き所なれば︑市

女などやうの者いとよく求めつ典率て來﹂といってをることによって哨窺はれろ︒そして京都商人壷の活動は敢初は

東西煎市を中心として行はれたのであるが︑やがて彼等は地方物旋の雌中を坐して待つばかりでは洲足しなくなり︑

京都の物我を携へて地方に下り︑これを地方の人杢に礎り付けては黎利を食り︑また地方の産物を斑ひ染めて京都に

︵批二︶運んで來ては直利を博するやうになったのである︒しかも彼等の活動恥剛は北は奥州より南は世衡烏.︵鬼界ケ島︶に

までも及んでゐたことは新猿樂記の記郡によっても窺ふことが出来るのである︒また京都商人が政溶都市水都を地盤

として發生したのに對し︑大半府︵博多︶には寵勤を韮縦として大証本を擁する豪商が控頭した︒殊に大雌との交通

が盛んになるに随ひ︑中國豪商の來桃するものも多くなって來た︒所柵綱前がこれである︑綱甘とは元来中剛では船

宋銅蛾の我が図流入の端初︑一五

1

(17)

の蚕本家にして且つ船及を兼纏たものを稲した︒九州大畢考古學研究宝には︑博多瀞海底より拾ひ上げられた天日茶 .︵推三︶

宋銅鍋の我が園流入の端初二︿ I

碗がある︒それは茶碗製作年代より兄て日宋交辿時代の末商船の使川品が海に取り藩されたか︑或は投込まれたかと

思はれるものであるが︑その絲尻のところに﹁張綱﹂の二字が鵬押されてゐる︒これは張共綱首の略で︑篭し氷商船

の船長の使用したものであったらうp日本側では綱首遊課して船頭とも呼び︑居制求人豪商を綱首或は船頭とも稲し

てゐるのである︒

兎も角も京都・大宰府︵博多︶に豪商階級が盤頭して来れば︑そこに商業盗本が蓄稜されることはいふまでもな

い︒をしてこの商業壷本をもって商人階級の全國的に且つ對外的に大規模な活動が起って来れば︑やがて耐久性・同

形性の特質を有し︑特に迩搬が容易でしかも比較的多くの交換恢値を小さな容穣で表現することの出來ろ鑓旋の必要

が生じて來るのは雄も鐡然の成り行きである︒しかるに鰻旋の流通が溌止されてより砿に年久しく︑我が園の鐙旋錐

・造の技術は退歩して用をなさなくなってゐたので︑海外の鰻愛でも使用しなければならないやうな情勢にあった︒し

かも注目すぺき酷は︑群ては政府が旋幣制度を弧制的に笈施したにも拘らず民間側にはその氣迩生じて居らなかった

ためこれを受け容れず︑從って流通が杜絶してしまった︒しかるに今は物価相場の鍾動を恐れる政府が綣旋の流通を

喜ばないのに︑反って民間においては商業的意欲に促されて恢幣經濟復活の痢運が擬頭して來たといふことである︒

註一延専式三二民部下交易雑物

註︑二本朝縦丈梓保延元年七月二十化日敦光朝臣勘丈

註三非洲可談

1

I

(18)

I

丁度この國内賦命經濟惰勢の要請に雄するが如くに流入して来たのは中國の細嬢である︒この中図釧鎭は中國との

熨易に話燃した商人の手によって輸入されたものに州逮ない︒といふのは︑日本の商人が海外に赴いて斑易する場

合︑砂金・硫黄・氷銀・板木等の日本特産物と海外の物旋とを物巻交換的に取引するのが脈則であったらうが︑きた

時には鏡旋によって珍衡と購入する必要も起ったからである︒例へば紹典七年︵二三七︶中闘淵州の豪商張悪世が

海外に斑易に出かけたところ︑其の船が大洋上で器凪に通ひ︑漂流するとと五六日︑或る烏に流れ藩いた︒その烏で

︑●

竹十本を伐って篤林にしようとした︒ところが其庭に白衣の老人が現れ︑此鹿は汝等の認まるべき所ではないから早

く立ち去れと東南の方を指して歸路を指示したので︑それによって木國に蹄満することが出来た里また艦で伐り取っ

た竹十本のうち九本までは途中で雑用に使ってしまひ.他かに一本だけ残ってゐた︒すると日本の商人と兇術の商人

とがこの竹を見て殻ひ賀はうとしたので︑張悠椎は銭二千緒より五千縛までせり上げた納果︑その竹は遂に兇箭商人

の手に落ちた︒さて飼ってしまってからその竹のことを尋ねて兇たら︑それは変伽山の聚究竹といひ︑薪しこれを亘

没の中に渡せば蒲盈の我が自然に集って來るといぶ世亟な竹であったことがわかったといふ︒これは爽堅志に戦って

︵註一︶ゐる説話で︑極めて奇性な話である︒しかしここでは話の筋の興侭は兎も角として︑竹を日本商人と皿術商人とがせ

り落そうと争ったといふ鮎から窺はれるやうに︑海外に出て外幽商人と取引する場合︑日本商人も物盈交換ばかりで

はゆかず︑時によっては鏡貨をも必要としたことがこの説話からも推測さ恥るのである︒

宋銅錨の我が図流入の端初一七︑

I

P

(19)

宋銅錨の我が図流入の端初一八︾

かくして先・つ海外での取引に鰻旋を必要とする場合が起って来れば︑自然またそれ等の貿易商人の手によって國内

に持ち込まれて来る機會も生じて来るわけである︒ところが既に述べたやうに︑淵時我が國内の肺會經濟情勢は外國

鎧憧の輸入を必要とする氣迩が起ってをつた時であるので︑中國釧鰻の流入は時機に適ったものといふべく︑そのた

め非常な勢を以て流通し出したのである︒

それでは宋釧鏡の流入し始めたのは何時頃からのことであらうか︒この問題は正確な年時を明かにするといふこと

は困難ではあるが︑しかし全く手がかりがないといふわけでもない︒といふのは南宋の拳宗の時︑知禰江府苑成が

﹁透漏銅銭﹂のことを論じた中に︑

●●●●●⑨●●⑥●●●●●●臣聞い東南恭夷舶船歳至中國︑礁止以物旋博易︑近年頗以兄鑓爲風︑臓泉四明及並海州郡︑嬢之去者不可勝計︑

︑紹典三十年嘗大立法禁︑五拭之罪死︑随行鏡物︑発給告人︑・罪黄之璽︑至此織交︑Ⅷ経岫敗罐︑蓋淡激荒泄︑客

︵ワ

稚鯛忽︑誠有法紮所不能及者︑訪聞一舶所遜.或以繭計︑般司歳課︑積聚撫辮︑而散藩異國︑絡古不遜︑誠可爲

揃幡叩深恨也︑い中且以四明論之︑蒋舶所所止於青蕊銅器螺頭松賀及板木之類而已︑皆非中閣不可無之物︑伽誘

吾糸喪以去︑利害重輕不較而判︑価群試妄議以爲︑明州一虎雑舶笠不可以椛住︑姑塞漏銭之一穴︑其喧可以類 畢︑咽下

といってゐる︒これによって兄ると︑1東南諸外國の商船は︑はじめの頃物睾父換によってその欲するところの中國の︵注二︶

物鯉を梼ち雛って藍った:あるが︑孝宗の頃︵二六三二八九︶に蔵ると物瞳より臘嬢瞳婁黛やうにな

り︑灰州・泉州・明州その他の鷲易港より縦迂と中閣釧鎧を持ち去るやうになって來た︒これは明州を例にとって兄

(20)

ると︑外鯉船が明刈に蒲ずものば背裟・銅器・螺頭・松誕及び板木の類で︑別に巾蝋にとっては無くてはならぬとい

ふものではない︒しかも外蝋船は餘り必要でもない此等の物旋と引き換へに中國の銭微を池び去って行ったのであ

る0︾﹂

ところで南海諸國からの商船は主に庶州・泉州に入港してなったのであり︑明州に主に入港するものは商蠅や日本

︵註三︶の商船であった︒故に宋朝政府箔明州を日本・商脆方面と斑易する商船の専川港として指定してゐる程である︒災に

これを明州に陸揚される輸入品の上から見ると︑苑成が﹁恭舶の吸州に街すものは青蕊・鮒器・螺頭・松武及び板木︲

に過ぎない﹂といってゐるところの所謂青蕊・釧器・螺頭・松武は商腿から帆州に演される高泌の特産であり︑板木

もまた金︒硫黄等と共に日本が海外に輸出した代表的な日本特産物である︒とすれば苑成が明州を例にとって問題と︲

してゐろ外國船は日本と商施の商船に外かならないことはいふまでもない︒以上より推して︑孝宗時代︵二六三l

二八九︶即ち西暦士一世紀の後半期に於て︑日本・商腿に流れ出す朱の釧銭が既に人荏の注硯の的となり︑政治

的問題として取上げねばならなかった程激しくなっていたことを示すものである︒こうした事備にあったからこそ慶

︵註隅︶ゞ元五年七月︵二九九︶には殊史に日本・商脆への釧鑓栫出を厳紫する法令の發布を兄るに至ったのである︒

以上のやうに中國側の史料からすると︑高腿・日本への銅鐙流出のはじまったのは大偲十二惟紀の中幽からといふ

ととが推測されるのである︒憧際士塞た高脆の場合︑右の推定と一致することは雌に第三節に於て眺めて来たところに

よって明かである︒それならば次に日本側に於て鍵伐流通が再開された時期は何時頃のことであらうか︒即ち所訓呈

朝十二銭の流通が杜絶して以後︑再び鎚旋の流通が開始されたことを窺うべき史料を求めると︑束大寺文醤に

.宋銅鏡の我が図流入の端初・一九

、〜

(21)

宋銅錨の我が図流入の端初二○

沽却敷地私領新券文瓢

合口梁間参尺七寸公奥武拾捌間二尺四寸︑帆七八川定.︐

在大和國添上郡束大寺郷今小路南顔

四至岬稗極迩離極鈎迦中垣

右件敷地者︑橘行長椰脈得相傅之私領也︑年来知行之間︑無敢他異論︑而依有要淵︑臓鐘汰拾築拭文︑限氷飛所奉

令沽却藤原織燕女寅正明白也︑但雌可相副手繼本家文等︑依有類地不興副進︑向後史不可有他妨者也︑仙爲後代

蝿鏡放新券文献如件︑

幸卜︑久安陸年郵八月廿五日

行長︵花押︶

子息減法師︵花押︶

︵註五︶とあるのがその初見である︒即ちこれによると久安六年大和國添上郡東大寺郷に於て敷地が鏡二十七世文を以て斑貞

さ虹てゐろのである︒久安六年とい一へぱ西紀二五○年に浦り︑中國側史料よりする高蝿・掴本への嬢蛍流出のはじ

めの時期の推定年代と殆ど一鼓することは︑既に述べたところによって明かである︒そしてその後鐘蛍の使川が次第

に盛んになって行ったと見え︑・東寺百合文番には

︷うりわたす田事

合者

右件田はふち井のしげょしかさうてんの所りやう也︑しか石をょ宅しあるによて︑せに七くわんもんにうま允に

J7

b公

(22)

↑なかくうりわたす所しち也︑重て本けんもんは︑るちもあろによて︑そへしするにおよはす︑よてた人のさまた

・けあろへからす︑﹄

例爲後日うり.丈の歌如件︑.

唯保二年十一月日

一しけよし︐︵花押︶.

づ﹃

︵従六︶といふ所在地不明ではあるが田地が鐙七撤丈を以て変通された沽却状が見出されるっ應保二年といへぱ久安六年より

十二年後の西紀一〃ニハニ年である︒次いで私が嘗て紹介した京都西京左衛門町の田が銀五十批文で災斑されてゐる宏

︵註七︶︸・

元二年六月七日︵二七六︶附沽却壯が束寺百合文書の中から兄出され毛︒そして論承三年六月︵二七九︶唖には

︵註八︶天下に鐘の病と無する奇病が流行し︑また同年七月には︑米穀准布を以て交換価値の標準として来た朝廷は︑その沽

便法の肋れることを恐れ︑朝議によって宋嬢を私鋳鑓の罪に擬してその流通を停止してゐるところより匙稗嘩﹀鍍蛍︲|

の流通が急速に縦がって行ったことが窺はれるのである︒

以上によって明かなやうに︑日本側に於て嬢蛍流通復活の時期を知るべき史料の示す時期と︑それを中國側史料よ・︑

り推定した時期とは殆ど符節を合せるかの如く一致してゐるのでああ︒

かくて我が國内に貨幣經濟が復活した場合︑勿論民附に死減されてゐた昔の呈朝十二銭も取出されて通川したわけ..

であるが︑それよりも流通焚幣の大部分を占めたものは謎易によって輸入した中國鑓蛍であったことは今日各地から

出土する古銭の数量から推測されるのであ万・例へぱ昭和二十二年長野縣下高井郡長丘村の農家江木雌一郎氏方の庭︾

未銅銭の我

が函流入の端初

一ザ

一一一

1

(23)

酉上

朱銅鏡の我が図流入の端初︸一二一

から發掘された古雄は木箱に入ったま上出土し︑毛の重鍬は約百五十批︑枚欺は概卯十七D八蔑枚に上る多欺のもの

で︑これについては京都大學人文科県研究所の日比野丈夫氏が調査研究中であり︑いずれ同氏の詳細な研究が發表さ

れるものと期待してゐるが︑私がざつと調謀しただけでも︑その大部分が宋鏡であり︑この外かには唐代の開元蝿蛮

や︑皇朝十二嬢中の箆年迩蛮︑隙午邇炎︑商腿の東國通礎︑金の正隆元変︑明朝の洪武邇蛮等が含まれてゐた︒そし

て宋銭のうちでも北宋雄が大部分を占め︑また北宋鐘のうちでも︑米代前後を通じて総鐘能力の絶頂期であった紳宗

の時の元塑畑斑がその絶對多数を占めてゐるのである︒これは遡り右長丘村出土古鰻の場合のみに限らず︑他の各地

から發兄される古銭にも共通する現象であることは︑入田盤三氏共他の古鑓研究家の發表に就いて観察すれば虹ぐ様

︵註一○︶氣付き得るところである︒また妓近黒田家の菩提所博多崇雁寺境内の同家墓地移鱒のため︑黒川家代々の基を發掘し

たところ︑黒田長政の采よりは︑長政の遺骨と六遁鑓としての銅銭六文が祁内より出土した︒それは処宋通蛮一枚・

天聖元礎二枚︒元塑通蛮一一枚・元耐通蛮一枚と鏡丈不明のもの一枚とである︒長政は元和九年八月二日京都で逝去し

遺骸は博多に通ばれてこ鱒蛙所に葬られたのでおるから︑これによって兄ると︑近枇に至っても宋錨が︑氷樂鏡等の明

嬢や箪永翻喪等の日本の鐘に混って通用してゐたといふことが鋭はれ︑鐙從の生命の意外に長いのに喫蕊と雛じ得な

いのである︒また宋鰻のほかに聯朝の開元邇識等が發兄されてゐるのは︑宋代に於ても宋朝自身の錐蛍のほか唐代の

︵識一ロ.︑銭伐が沢2L流通してゐたからであ一名史にまた金の正隆元笠等が兄出されぉのも︑朱と金との硬易により︑金の伐

幣が末に流入し︑それが更に日本に流入した結果であり︑このことに閉しては杵我部博士がその群﹁日求金鯉幣交流

史﹂中に詳細に論じてゐる︑また商臓炊幣の流入も半島との斑易にょおものであおことはいふまでもない︒

(24)

かくして多堂の中國釧鐘が我が園に流入したといふのは︑それが疲幣として海外より入って來たのではなく︑設易

商品として輸入さ弧たからである︑このことは先きに梁げた知溌沁府苑成の﹁透源鋤雄﹂の中に︑來南諸外幽の商船

の毎歳中國に來て貿易するものは︑以前は中圃の物旋な抑易するに止まってゐたが︑近年は頗一つ兇鰻を喜ぶやうにな

った︒港のため外國に散落した中國の伐幣は再び中國に戻って來ることがないといつてゐろことによって明かな如

く︑n本の商船は日本の特産である砂金・硫黄・水銀・板木等を載せて大陸に渡り︑州鏡と物々交換して來たのであ

り︑に治一二年︵一二四二︶歸朝した四閲寺公經派謎の謎易船は︑柏材の二而四面の屋一字を荊宋の理宗に賄った腱と

三︵註一二︶

して︑理宗より十萬笈の銭演モの他の珍旋を回賜として世って師って來たことはその一例である︒

以上の如く︑我が國内の椛圃經濟の發展は旋幣經濟展開の鋪迩を促し︑一方またこの気運に魅ずろかの如く中剛鍵

蛍の輸入を見るに至った︒そしてその時期は中園と日本側双方の史料から推して行くと大磯十二枇紀の中頃と推定さ

れるのであぉ︒しかもこの時期を示す興味ある史料として今昔物諦と宇治拾過物語とを梁げることが出來る︒即ち今︵誰一三︶︵註一帆︶昔物語と宇治拾強物語には同一物語から取材したと忠はれる説話が戦ってゐる︒との論議の筋は︑筑紫箱崎の大夫則

重の肌父にあたる大夫貞重といふものが京都に上る際︑宇治闘白噸通に唐物即ち舶来品を順らうとして︑宋商人より

太刀十本を質とふて右の庸物を借受けた︒上京中貞飛の従者が沈派で偶然手に入れた大豆大の眞珠を博多に蹄って栄

商人に兄せたところ︑朱商人は驚いて是非誰って欲しいと懇望して止まないので︑前に斑入れした十本の太刀と引替

〆ヂヘに右の混珠を采商人に典へたといふのであるoところが説話隠肋は大職Ⅲじでありながら︑平安末期に出来た今昔

●●●●釦●●物語には︑貞璽が太刀十本を質として店物ハ七千疋程のものを求人より借り愛けたといってゐるのに對巴鎌倉初期に

未銅銭の我手か脚流入の端初︑三二

劃■夕

I

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L

(25)

〆一

Ill!

亨一

出來た宇治拾遺物語には.貞戒が太刀十本を賀として七十枇程のものを借りたといってゐる︒また眞珠を見た求人

が︑今昔物語では慨十疋で別はうといったと記してゐるのに對し︑宇治拾通物語では慨十災で鷺はうといったと記し

てゐる︒このやうに一つの物詰と取扱ふにしても︑物の値段を今昔物語の方は紺を標準として記してをり︑宇治拾遺

物語の方は鏡食を以て記してゐ﹄・︑この瓢著な相迩は︑今昔物語の作者が伐幣維濟復活以前の時代に生活したのに對

し︑宇治拾遺物語の作新は旋幣雑務復活後の時代に生活したといふ經濟的に相異﹄っ時代的差異の上から起ってゐるの

である︒今昔物語の成立年代は大僻鳥羽天皇の天永年Ⅲの頃︵二一○二一二︶といふ説が有力であるが︑以

上の時代的差異はこの今背物諦成立の推定年代に祇鯛しないのみか︑宋釧銭の流入を十二世紀中甑からとする私の説

をも有力に支持してゐるのでああ︒︲︑

註一爽堅志丁築上﹁海山災竹﹂

註・二美芹十論・宋左史呂午公蝶草

註三京城集二八奏議﹁乞梁商族過外國状﹂

註凹宋史寧宗本紀

註五束大寺女書一︾一・

一註六東寺百合丈霄ミ之部宝︿至一一二

註七拙文﹁日宋愛易の旋呵﹂︵東洋学報ミニノ四︶

註八百練抄八珍

註九王葉:::玉葉.治水三年七月條

"

(26)

グジ

能一○入田睡三⁝:入川蕊三氏﹁發捌嘘に就て⑫考察﹂︵考古學雑誌二○ノ言ご

註二野詳⁝⁝野群推祥門﹁阿堺﹂

凸旱

注ご一故一品記︵經光卿記抄︶

註一三今昔物語一二︿︑鎮西貞諏従者於淀災符玉誰〆 駐一四宇滴拾迩物祇一.四︑珠の佃無荒郡︑

︵附記︶本節の考察に川ひた史料中︑ご一通趣なるものを元祁岡商等学校玉泉大梁歌授より御示教を得た︒また京都大學人文

科學研究所貝日比野丈夫氏の研究になる是野縣下海井郡長丘村出土の古餓についてのグラフを︑宮崎市.定博士の御好

ー意により拝見することが川來たoこ坐にこれ等の方含に心から感謝の言莱を搾ぐ︒︑

戸七一

一﹄

宋銅銭の我が凶流入の端初

÷

upI間lIlIIll随時局卜︒

■一

11

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