九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
アメリカ統治下の沖縄における発送電と配電の分離 について
宮地, 英敏
九州大学
https://doi.org/10.15017/26285
出版情報:エネルギー史研究 : 石炭を中心として. 28, pp.123-140, 2013-03-22. Manuscript Library, Business and Economics Section, Kyushu University
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はじめに一九七二(昭和四十七)年五月十五日、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還された。それと時を同じくして設立された沖縄電力は、一九七六(昭和五十一)年四月一日をもって沖縄地域における発送配電の一貫供給体制を確立し、さらには一九八八(昭和六十三)年十月一日をもって民営化された。これにより本土の9電体制とあわせて日本国内の 10電体制ができあがった。その特色が、
①民営、②発送配電一貫経営、③地域別分割、④地域独占であることはよく知られている。しかし、本土復帰以前の沖縄においては、9電体制とは少々異なった電力供給システムが構築されていた。本稿ではそのメカニズムの創設について考察していくこととしたい。さて、日本本土において9電体制が発足したのは一九五一(昭和二十六)年五月一日のことであった。それから一年四ヶ月程たった一九五二(昭和二十七)年九月二十九日に、立法第三十九号として沖縄 ( ) 1
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で電気事業法が公布された。戦後沖縄における公益事業としての電力業を統括するための法律であった。そして、この電気事業法に基づいて一九五三(昭和二十八)年二月二日に電気委員会規則が制定され、その規則に則って設置された電気委員会によって詳細なメカニズムが取り決められていった。発送電と配電の分離、配電会社の地域独占、複数の配電会社の認可などもこの過程で決められていった。そこで形作られた一九七六年以前の戦後沖縄、言い換えるならばアメリカ統治下の沖縄における電力供給システムのうち最大の特徴は、発送電部門と配電部門が分離されるという、戦後日本の電力供給システムとは全く異なっている点である。日本本土において9電体制ができあがったわずか一年四ヶ月後に、アメリカ統治下の沖縄では、発送電と配電の分離というメカニズムが出来あがったのである。沖縄の電力事業についての通史を描いた古竪哲をはじめとして、従来の見解はこの本土との大きな違いが誕生した理由を看過してきている。本稿ではこの点に着目しながら、沖縄における発送電と配電の分離について考察していくことと (
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【論説】アメリカ統治下の沖縄における発送電と配電の分離について
宮 地 英 敏
したい。さらには本稿の副次的な目的として、この戦後沖縄における発送電と配電の分離という事象を取り上げることにより、戦後沖縄の在り方を問いかける一助になればと考えている。第一節では、アメリカが主体となって牧港発電所が建設され、それが発送電を担った琉球電力公社の設立へと繋がっていく経緯を確認していく。続く第二節では、電気委員会に集った面々をはじめとして、複数の配電会社が鼎立していく様子をみていく。そして最後に第三節では、発送電部門である琉球電力公社の電力料金について簡単に説明した上で、それを受けて配電会社の料金設定がどのようになっていたのかを明らかにする。以上の三節を検証していく際には、アメリカ(アメリカ軍)と琉球政府と沖縄の民間人たちという、それぞれの意図が交錯していくところに焦点を当てていくことで、戦後沖縄について考える材料と出来ればと思っている。
第一節 牧港発電所の建設から琉球電力公社の設立へ 敗戦後の沖縄では住民らによって、アメリカ軍から払い下げられた小型発電機や、アメリカからの援助資金を用いて購入した小型発電機などを用いながら、「準電(準電気事業者)」と後に呼ばれることとなる小規模な電気系統がつくりあげられていった。それらの電気系統は非常に細かく分立しており、最終的には百三十四もの事業者数を数えていたという。各業者とも非能率的な高コスト体質であり、電圧が低くてサービスも悪く、点灯時間は日没から深夜十二時までという状況であった。一方でアメリカ軍側は、占領直後から始めた基地内への電力供給用ディーゼ (
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ル発電所がいくつかあったが、嘉手納基地をはじめとする恒久基地の建設に伴って、さらに大規模なディーゼル発電所を設置して、基地ごとの電力供給を行うようになっていた(表1)。
そのような中、一九四八(昭和二十三)年頃よりアメリカ軍によって沖縄全島電化計画がうちだされ、ガリオア資金を利用して牧港発電所および送電系統などが建設されることとなった。その全容を表2に掲げた。同年から三年間かけて、浦添市牧港に総工費約四五〇万ドルを費やして火力発電所(一一、五〇〇
kw
ターボ発電機×四基、合計四六、〇〇〇kw
)を建設するほか、一三、八〇〇Vを六九、〇〇〇Vに逓昇する変電所や送電線網などを構築する、予算総額約七一〇万ドルをもかけた巨大プロジェクトであった。プロジェクトは、アプリゲート陸軍中佐が建設最高責任者を務めるとともに、アメリカ軍工兵地区指揮官(District Engineer
、通称DE)が管理監督した。この牧港発電所は、当初からアメリカ軍と民間の双方への電力供給を目的として設立されている。こうして、沖縄における電力供給システムをどのように構築するかという点は、牧港発電所および各ディーゼル発電変電所等による電力系統を前提として進められていくこととなったのである。 ( ) 10(
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表1 アメリカ軍によるディーゼル発電所建設 総発電力 発電機
那覇 3,750kw 750kw×3基 500kw×3基 牧港 2,700kw 500kw×3基 300kw×4基 瑞慶覧 3,500kw 500kw×7基
桑江 1,600kw 500kw×2基 300kw×2基 嘉手納K 3,500kw 1,000kw×1基 500kw×5基 嘉手納AAA 2,000kw 500kw×4基
比謝川 900kw 300kw×3基 天願 2,500kw 500kw×5基 出典)古竪哲(1980)254頁より作成。
電力供給システムの候補としては次の三案があったと言われてきた。(一)全電力系統を民間企業が運営する。(二)全電力系統を米国民政府が運営する。(三)発送電部門を米国民政府が運営し、配電部門は民間企業が運営する。従来、(一)~(三)の三案が提示されてきたのは、琉球電力公社によっ (
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て刊行された最初の年次報告書(一九六〇年版)に依拠しているためと考えられる。しかしこの年次報告書をよくよく確認すると、重大な誤読が含まれていることに気付く。まずは少々長文になるが、年次報告書の該当箇所を引用してみることとしよう。この問題(配電の問題
・・・
引用者)は、勿論、発電所(牧港発電所・・・
引用者)が完成する前、いや建設が始まる前に検討されていた。すべての解決案、すなわち全系統を一つの個人会社で運営する案等、が検討された。その結果、次の2案が実現可能と見做された。まず、全系統を政府が運営すること。この場合、政府としては、民間用の配電施設のため、追加資金が必要である。次に、政府は基本的な施設だけを運営し、琉球の個人会社が配電施設の所有と運営をすること。(中略)結局、後者の案が採用されたのである。以上の内容に基づき、古竪哲(一九八〇)が(一)~(三)へと整理し、沖縄電力の社史編纂委員会編(一九八八)もそれを踏襲したのである。ところが、琉球電力公社の年次報告書は、日本語版とともに英語版も作られており、そちらを参照にすると不可思議な点に気が付く。英語版によると、該当部分の「政府」が「government
」になっているのである。米国民政府(正式には琉球列島米国民政府)の訳語は「United States Civil Administration of the Ryukyu Islands
」であり、USCAR(ユースカー)と呼ばれていた。そして英語版の年次報告書では、他の箇所の「米国民政府」の訳語として「U.S. Civil Administration
」が用いられている。つまり、この年次報告書の「政府」を「米国民政府」と読み取るのは誤読なのである。それでは、「政府」「government
」とは何を意味するのであろうか。 () 18
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表2 ガリオア資金により建設された電力施設
主な設備
a 11,500KVタービン発電機 4基
b 13.8/69KV
c
(1) 那覇 1,250KVA変圧器 3基
(2) 瑞慶覧 1,250KVA変圧器 3基
(3) 嘉手納 ステーションK 1,250KVA変圧器 3基
(4) 牧港 833KVA変圧器 3基
d 4インチおよび2インチ銅線
e f g
(1) 那覇‐牧港 三相変圧器 2,500KVA 2基
(2) 那覇 三相変圧器 5,000KVA 3基
(3) 瑞慶覧 三相変圧器 7,500KVA 2基 (4) 嘉手納 三相変圧器 7,500KVA 2基 h
(1) 天願 (2) 牧港兵站部 (3) 大山陸軍病院 出典)琉球電力公社(1960)52頁。
注)那覇-牧港間の逓下変電所は後に平野に設置すると決められた。
地下送電線(ケーブル) 10.6マイル 逓下変電所 69/13.8KV
配電開閉所 13.8KV 施設名 牧港火力発電所
牧港火力発電所逓昇変電所 ディーゼル発電変電所
69KV送電線 15マイル 13.8KV高架送電線 23.2マイル
一九五〇(昭和二十五)年に米国民政府が成立する以前、アメリカによって琉球列島米国軍政府が置かれていた。この英語名は「
United States Military Government of Ryukyu Islands
」である。しかし、牧港発電所の建設工事が着手されたのが一九五二(昭和二十七)年であることと、年次報告書内の他の箇所に米国軍政府が登場しないことから、「政府」が米国軍政府のことであるとは考え難い。また、年次報告書には「government
」の呼称がつかわれている機関が存在する。それは、琉球政府である。琉球政府の英訳は「the Government of Ryukyu Islands
」であり、年次報告書の中にもしばしば登場する。しかしこちらも、琉球政府を指したい場合に「government
」と省略された箇所はなく、また省略する場合には「the Government
」とされるはずであり、ここでの「政府」に該当するとは思われない。それでは「政府」および「government
」とは何を指し示しているのであろうか。ここで再び、年次報告書が日本語版と英語版の双方で作成されていることに着目したい。この二つの言語で作成された報告書は、その内容が全く同一である。つまりは、どちらかの言語でまずは年次報告書が作成され、もう一方の言語に翻訳されるという手順で作成されたものである。明示的に日本語と英語どちらの言語で先に作成されたのかという記述はないが、日本語のつたなさ、不自然さからみるに、英語版の年次報告書が先に作成され、それが日本語に翻訳されて日本語版になったと推察される。この作業手順に則って、「government
」もまた「政府」と翻訳されたのである。しかしこの日本語版における「政府」という翻訳にこそ問題があった。テキスト分析的に理解するならば、「the
」のつかない小文字の () 21
「
government
」とは、米国民政府なり琉球政府なりという個別具体的な政府を指し示すのではなく、一般名詞としての「行政」として翻訳する方がより適切である。つまりは、「全系統を政府が運営すること」と日本語版に書かれた元の英文である「government operation of the entire system
」は、直訳すれば「全系統についての行政による運営(全系統を行政が運営すること)」となる。ここでの「行政」は、具体的な組織を指している訳ではないから、公営・非民営であること以上の内容は含んでいないのである。以上の点から鑑みるに、電力システムに関する当時の議論をまとめなおすならば、(一)全電力系統を民営とする。(二)全電力系統を公営とする。(三)発送電部門を公営とし、配電部門を民営とする。という三つの選択肢が用意されていたというべきであろう。その傍証として、一九五三(昭和二十八)年当時、後述する沖縄配電株式会社の担当者が記した文章に次のようなものがある。「琉球政府は年間三千万キロワットの電力の供給を受け、本社(沖縄配電・・・
引用者)は適正値段で琉球政府よりこれを買い受け、一般民需に供給する訳である。琉球政府は之に依り莫大な収入となり、住民には廉価に電気が供給される訳で、琉球の事業界は本社の創立と共に新紀元を画するものと大きく期待されている」と。ここでは、アメリカ軍なり米国民政府なりから供給された電力を、琉球政府が仲介して配電会社へと販売し、さらにそれを消費者へと届ける構想が描かれている。「government
」とは様々な可能性を含んだ、非常に曖昧な表現であったといえる。 () 22
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しかしその後の歴史的な推移をみると、現実の発送電部門の運営は、米国民政府が担うこととなった。だからこそ、古竪哲も年次報告書日本語版で誤訳された「政府」を「米国民政府」と読み取り、沖縄電力によって編纂された社史もそれに追随した。この点にも、アメリカ統治下の沖縄における発送電部門の特徴およびアメリカによる沖縄統治の特徴の一端がよく表れているので、続いて米国民政府による発送電部門の運営の様子をみていくこととしよう。はじめにで述べたように、一九五二(昭和二十七)年九月二十七日に電気事業法が定められ、発送電と配電を分離することが決められている。これは次節で検証するように、配電会社の設立が先行したために、それを追認するという役割を果たした。そして、発送電部門としては、一九五四(昭和二十九)年二月二十六日の米国民政府令第一二九号に基づいて琉球電力公社が設立された。琉球電力公社の定款の第一条には「琉球住民の需要と利益、農工業の発展とその他の用途に必要な発電、送電、配電及び電力の販売にあたる琉球における電力系統を取得し、維持し及び運営するために、琉球列島米国民政府の一機関として、琉球電力公社と称する法人団体を設立する」と謳われている。琉球電力公社は「米国民政府の一機関」であると明確に定められており、法的にそうであることは間違いない。しかしその内情を見ていくと、アメリカ側によって配慮された少々曖昧な様相を看取することができる。琉球電力公社は、米国民政府の首席民政官によって五名の理事(うち一名は総裁を兼任する理事長)が任命され、五名によって開かれる理事会に強大な権限が与えられた。定款の第三条四において「理事会は、公 (
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社の業務、庶務及び財務の運営、管理一般にあたるものとし、かつ、この定款及び関係法令に基き、公社の遂行しうるすべての権限を行使することができる」と定められている。公社のトップである総裁については、定款第四条二において「総裁は、理事会の決議に基き公社の業務を執行し、指揮し、公社の名義で、かつ、公社を代表して、契約書、譲渡証書、賃貸借契約その他法人財産に係る証書を作成し、交付する」として、その権限が理事会の決定の範囲内に制約されていた。ここで、琉球電力公社の理事会メンバーを表3に掲げた。一九六四(昭和三十九)年に総裁がアメリカ側の手から琉球側の手へと移るなどの大転換が行われるので、ここでは一九六三(昭和三十八)年度以前についてみておくこととしよう。理事は先ほど述べたように米国民政府の首席民政官によって任命されるが、誰を任命するかに関する規定は存在しない。しかし表3からは、公社創立から一九六三(昭和三十八)年度までは慣例として、米国民政府から二名、琉球政府から二名(琉球政府の副主席一名と局長級一名)、琉球の金融機関から一名の理事が任命されていたことが分かる。しかもこのうちの琉球政府からの二名は、琉球政府行政主席から推薦される慣例が出来ていた。要するに、理事会五名のうち過半数の三名は琉球側であり、そのうち二名は琉球政府行政主席が推薦できたのである。このように米国民政府が琉球側へと配慮している様子が窺える。その証左として、琉球電力公社の第二代総裁(一九五七︱一九六〇)を務めたギリス(
Roderick M.Gilles
)が、「琉球電力公社は、米国民政府及び琉球政府の機関として存在する」と述べていることを挙げることができる。このような特徴を持つ琉球電力公社の設立は、アメリカによる沖縄 () 27
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占領政策の一環として理解しなければならない。一九五二(昭和二十七)年二月二十九日には琉球政府章典がだされ、同年四月一日には琉球政府が設立された。これは、朝鮮戦争の休戦協定の調印を前にして、沖縄の長期的安定的な支配の基礎固めをするために、米国民政府の下に行政主席や立法院などを設置して、三権分立のような民主的にみえる装いをこらして、軍政を支えるための「自治」制度を創出したと評価されている。その二年後に設立された琉球電力公社も、当然その政策の延長線上に位置付けられるものだからである。しかしいくら「自治」を装ったとはいえ、やはり琉球電力公社の実態は、「米国民政府の一機関」以上の何物でもなかった。定款第三条七には、「いずれの役員、職員または代理人も琉球列島首席民政官またはその正式後任者の指示及び自由裁量により免職することができる」という規定がある。琉球側が過半数を占める理事会の権限を強くし、アメリカ側から任命される理事長兼総裁の権限を理事会決定事項の範囲にせばめようとも、理事そのものの罷免権を米国民政府が掌握していたのである。電力業に携わっていた古竪哲や、琉球電力公社を引き継いだ沖縄電力の社史編纂委員会は、当時の実態をよくよく知っていたからこそ、年次報告書(一九六〇)にあっ (
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表3 琉球電力公社の理事会メンバー
理事長(アメリカ側) 理事(アメリカ側) 理事(琉球側) 理事(琉球側) 理事(琉球金融機関)
L.A.Westenberger S.T.Baron 神村孝太郎 宮里勝 富原守保
USCAR公益事業部長 USCAR経済財政部長 琉球政府副主席 琉球政府内政局長 琉球銀行総裁
Roderick M.Gillies E.R.Moss
USCAR副民政官 USCAR公益施設課長 Samuel C.Oglesby
USCAR経済開発部長代行
瀬長浩 新里善福 宝村信雄
琉球政府副主席 琉球政府工務局長 琉球開発金融公社総裁 Edward K.Shultz
USCAR副民政官
志村恵
琉球政府工務局長 Williame J.Andrewe Walter F.Pinckert 金城清輝 久手堅憲次
USCAR副民政官付特別補佐官 USARYISエンジニアグループ発電部長 琉球電力公社総裁 琉球政府経済局長 Peter J..Accorti
USCAR公益事業局長
Harrington W.Cocran Katsuyoshi Kadoda 屋田甚助
USCAR公益事業局長FBポストエンジニア施設課長 琉球電力公社総裁
照屋照男
琉球開発金融公社総裁
〃 砂川恵勝
USARYISファシリティエンジニア施設課長 琉球政府通商産業局長
Harry W. Lombard USCAR公益事業局長
喜久川宏
琉球政府通商産業局長 出典)琉球電力公社(1972a)120-124頁;琉球電力公社(1972b)34頁;REPC(1972)120-124頁より作成。
注1)USCARは琉球列島米国民政府、USARYISは在琉球列島アメリカ陸軍、FBはフォート・バクナーの略称である。
注2)日系アメリカ人のKatsuyoshi Kadodaは、理事就任中に所属の変更があった。
1965 1961 1962 1963 1955 1956 1957 1958
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た「政府」「
government
」を米国民政府と理解してしまったといえよう。何はともあれ、このようにして琉球電力公社は誕生したのである。さて、ここにおいて一つの大きな論点が浮上する。「公営」が標榜されたなかで、どうして米国民政府が強大な権限を持つ琉球電力公社ができあがったのかという点である。琉球政府による公営や、米国民政府と琉球政府による共同経営という選択肢が除外された理由が焦点になる。この問題を考える際に考慮すべきことに、当時の沖縄における電力需要の急増という問題がある。先述したように、アメリカ軍(後には米国民政府)によって沖縄全島電化計画が打ち出されていた時期である「会計年度一九五四年及びそれ以前では、民間使用量の殆んど全部が単なる屋内電灯とか小規模の小売店で使用される」だけであり、「当時の工場とか、かなり大規模な業者は個人の発電機から電気を得ていた」。公社発足時の電力供給量一.五一億kw
に対して、非米軍用(沖縄民間用)に割り当てられたのはわずか八%の一、二六〇kw
に過ぎなかった。つまりガリオア資金で作られた牧港発電所だけでは、沖縄の電力需要すべては満たせなかったのである。そのため琉球電力公社発足後には、「商業、工業及び他の非住宅用に使用される電力」までもを、一つの電力系統に新たに組み込んでいく必要があったといえる。この追加での発電設備の準備という問題において、琉球政府は財政的にも方法的にも何等の目途も持ち合わせていなかった。これに対してアメリカ側は、韓国に係留してあった発電船ジャコナ船(二万kw
)を一九五五(昭和三〇)年十二月に那覇へと曳航することで需要を満たすこととなる。ジャコナ船は一九一九(大正八)年に米国ワシントン州タコマ市にあるトッド造船会社(Todd Ship-building Company
)で貨物 () 30
船として建造され、一九二九(昭和四)年に発電船に改造されたものであった。GE社製のターボ発電機(出力二万
kw
)を二基備えていた。しかしそれでも電力供給不足は収まらず、翌一九五六(昭和三十一)には同じく韓国から発電船インピーダンス号(三万kw
)を曳航してきた。インピーダンス号は、太平洋戦争真っ最中にアメリカ軍のDefense Plant Corporation
によって建造された比較的新しい発電船であり、GE社製のターボ発電機(出力三万kw
)を一基備えていた。こうして、供給力はようやくと十万kw
を超えたのである。「公社は、急増を続けている民間関係の電力需要に対処するために、これまであらゆる努力を傾注してきた」と回顧されるように、その後も、需要の拡大に伴った電力供給量の拡大は、常に琉球電力公社にとって重要な問題であり続ける。こうした資金負担を伴う発電能力の拡充という問題を前にして、「公営」に琉球政府が携わることは難しく、米国民政府による経営へと収斂していったのである。第二節 配電会社計画と電気委員会
戦後の沖縄において発送電部門がプロジェクトとして先行する様子は第一節にてみてきたが、その中核である牧港発電所の建設中に配電会社が企画され、発送電と配電の分離が既成事実として進められていくこととなる。牧港発電所の余剰電力が民間へと解放されるという情報を得ていた当間重 じゅうみん民那覇市長(市長在任期間:一九四九年十二月~一九五二年二月)によって、那覇市直営の配電会社を創立したいと考えられていたためである。そのような中、一九五一(昭和二十六)年十一月に、キーパー (
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ソンとなる高良嘉 か永 えいが、沖縄群島政府工務部の公共施設課長であった瀬底正盛を訪ねている。高良嘉永は、一九〇七(明治四〇)年に那覇市牧志に生れ、沖縄県立第一中学を卒業後に東京電気学校(現東京電気大学)の高等工業科に進学した。在学中には電気事業主任技術者資格第二種の免許を取得している。一九三〇(昭和五)年に卒業すると沖縄電気株式会社に採用され、久茂地発電所や美栄橋発電所の発電・充電・配電関係の業務などを担い、電気事業主任技術者資格を取得したこともあって社内で順調に昇給していった。その後、一九四二(昭和十七)年二月の第一次配電統合では沖縄電気株式会社は統合の対象とならなかったが、翌一九四三(昭和十八)年四月の第二次配電統合ではその対象となった。この際の沖縄電気株式会社の九州配電株式会社への統合に伴い、高良嘉永も九州配電の社員となっている。一九四五(昭和二〇)年三月には戦局の悪化を受けて、高良嘉永をはじめとする九州配電沖縄支店の社員は熊本県八代市へと疎開し、彼が再び沖縄へと戻ることになったのは一九五一(昭和二十六)年十月のことであった。高良嘉永が瀬底正盛と面談したのは、沖縄に戻った翌月早々のことである。その際に、沖縄電気および九州配電時代の電気事情を説明すると瀬底正盛は大いに関心を示し、沖縄群島政府工務部長の渡嘉敷真 しん睦 ぼくを紹介された。牧港発電所から受電をして民間需要に供給する、配電会社の設立構想も話題に上ったようである。そしてその三ヶ月後の一九五二(昭和二十七)年二月に布令六十四号によって沖縄群島政府が廃止されると、解任された渡嘉敷真睦は部下の瀬底正盛に加え、松岡政 せい保 ほ(元沖縄民政府工務部長)や久保田盛春(元宜野湾村長)らとともに配電会社設立へ (
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と始動したのである。高良嘉永はこのプロジェクトには招聘されなかった。その後、松岡政保も計画から離脱するが、渡嘉敷真睦らは沖縄電 ・気 ・
株式会社設立委員会を設置して着々と準備を整えていた。一方で、癌により急死した当間重民の跡を継いで市長に就任した又吉康 こう和 わ(市長在任期間:一九五二年二月~一九五三年九月)は、その直後の一九五二(昭和二十七)年四月中旬、沖縄電気から九州配電へと二十年以上の電力会社勤務経験がある高良嘉永に対して、配電会社を設立するために協力を依頼した。高良嘉永はこれを引き受け、牧港発電所から受電する電気を供給するにあたっての、需要動向や住民の居住状況に関するデータを蒐集しつつ、変電所の数・位置・出力、配電線のルートなどの計画を作り上げる会議を、那覇市公共施設課長の亀島入徳らとともに重ねていった。那覇市の計画が完成するに先立ち、渡嘉敷真睦らの沖縄電 ・気 ・株式会社設立委員会より米国民政府へと認可申請書等が提出されることとなったが、米国民政府側は関係市町村長の承認を要求した。これに対して那覇市の又吉康和市長は、「那覇市を中心とする電気事業計画について、目下独自の構想を練っているので、貴会社(沖縄電気株式会社
・・・
引用者)の申請を認めるわけにはいかない」として拒絶した。松岡政保に近しい古竪哲は、又吉康和市長の行動を、「具体的な計画があったわけでもないが、渡嘉敷に先を越されたことで、その対抗措置として、ひとまず申請書を差し押え、その間に緊急対策を立てる考えがあった」と述べているが、本稿で確認しているように、那覇市の計画は高良嘉永を実務者として据えることにより、既に具体的に動き出していたのであった。しかし渡嘉敷真睦らの動きを受けて、又吉康和市長らは () 45
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那覇市が独自に行う市営の配電会社という計画を放棄することとした。電気事業は多額の設備投資資金が必要であるという性質を踏まえ、出資者として国場幸太郎に白羽の矢を立てることにより、プロジェクトの推進を急ぐこととなったのである 国場幸太郎は一九〇〇(明治三十三)年に沖縄県北部の国頭村に生まれ、大工として那覇市や宮古島で腕を磨いた。徴兵期間を終えた後、関東大震災からの復興でにぎわう東京にでて資金を蓄えた。その後、沖縄に戻って一九三一(昭和六)年には兄弟らとともに国場組を設立している。戦前・戦時にあっては橋架橋や飛行場などの工事に携わり、戦後にも橋梁工事や軍民諸工場、さらにはアメリカ人住宅工事なども手掛けている。又吉康和市長とは、又吉の副知事時代にはじまった国場組による琉球政府行政府ビル建設に際して懇意になったのではないかと推察される。こうして、又吉康和市長に協力を仰がれた国場幸太郎を中心に、沖縄配 ・電 ・株式会社設立委員会が設立されたのである。この結果、渡嘉敷真睦らによる沖縄電 ・気 ・株式会社設立委員会と、国場幸太郎らによる沖縄配 ・電 ・株式会社設立委員会が並立してしまった。その後の経緯はよく知られているところであるが、琉球銀行総裁と琉球商工会議所会頭を兼ねていた池畑嶺里の仲介により、一九五二(昭和二十七)年七月七日に両プロジェクトは合併され、後継として沖縄配電株式会社設立発起人会が開かれた。代表には国場幸太郎が、副代表には渡嘉敷真睦が就任している。その後、同年九月には国場組の一室を借用して創立事務所が開かれ、高良嘉永、瀬底正盛ら双方のメンバーもそこに詰めかけたのである。さて、このような最中、「はじめに」で述べたように、一九五二(昭 (
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和二十七)年九月二十九日に沖縄の電気事業法が公布され、一九五三(昭和二十八)年二月二日に電気委員会が始動することとなる。第一節で確認したように、発送配電については(三)発送電部門を公営とし、配電部門を民営とする、という全体像は出来あがっていた。しかし依然として、民間部門とされた配電会社について(A)沖縄内を一社独占とするか、(B)複数社を設立して地域独占とするか、という二つの選択肢が存在した。これを選択する役割を与えられたのが電気委員会であった。琉球政府行政主席の諮問機関である電気委員会は、比嘉秀平行政主席の指名によって松岡政 せい保 ほを委員長に、高良嘉永・中山興忠・上間長和・安田善治
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神村幸太郎・
佐藤富夫の六名を委員とした。比嘉秀平は一九五二(昭和二十七)年八月に結成された琉球民主党の初代総裁も務めた人物であるが、松岡政保はその立党に尽力していた。他の委員は、神村幸太郎は琉球政府の工務交通局長、高良嘉永・
中山興忠・
上間長和の三名は沖縄配電株式会社の関係者、安田善治は沖縄中部にある具志川村(現うるま市)の酒造家、佐藤富夫は宮古島の砂糖商であった。三名の委員を電気委員会へと送りこんでいた沖縄配電株式会社は、当初は沖縄中部の石川市(現うるま市)以南すべてを供給区域とする構想であった。その後、事業計画を詰めていくに従って、まずは「第一次計画として那覇、首里、真和志、小祿村を手始めに、漸次範囲を拡大する計画」が立てられた。この「範囲を拡大する」のが、最終的にどの程度のエリアにまで及ぶことを意図していたかは不明であるが、取り敢えずは逐次南部町村へと拡張していく方針であった。つまり少なくとも沖縄本島の中部以南については、沖縄配電株式会社は一社独占で配電を行うつもりであったといえよう。 () 55
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ところが、このような沖縄配電株式会社の意図に反して、二つの方面から配電会社の複数社設立が促されることとなる。一つは、米国民政府の工務部長であったウェスタンバーガー(
L.A.Westenberger
)から、神村幸太郎工務交通局長に対して話が持ちかけられたことである。仮に配電会社を一社のみとすると、経営的に有利な地域は先行して整備が進行していくが人口のまばらな地域は電気が普及しないで取り残されてしまうという懸念を、米国民政府では持ちあわせていた。そのため、配電会社を分散していくつか設立し、各社の区域を決めて同時並行的に進めていくのが望ましいということであった。もう一つのアプローチは、ウェスタンバーガーの部下であったホーマン工務課長より、電気委員会委員長であった松岡政保に対して行われた。ホーマンは松岡政保へ配電会社の設立を勧めたのである。松岡政保とホーマン工務課長とは、たまたま米国インディアナ州にあるトライステート大学の同窓の関係にあり、両者は沖縄における電気事業についても意気投合をした。一日も早く沖縄全土に電力を供給するためには、地域を分割して各社ごとに競争させる事が最も良い方法であると話し合ったのであった。こうして松岡政保は、沖縄配電の当初計画に入っていなかった地域(浦添、宜野湾)を供給範囲とする合資会社松岡配電を設立することとなった。米国民政府からは、「事業をする場合の電源は必ず保障する」との確約が松岡政保にはもたらされていた。さらには、松岡政保から電気委員会の委員であった安田善治らにも働きかけが行われたことにより、中部地域の七ヶ村を供給範囲とする中央配電株式会社も設立されることとなった。このようにして、沖縄配電株式会社以外の配電会社が、電気委員会の () 62
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メンバーによって設立される状況になっていくと、民間部門とされた配電会社をどのようにするかという問題は自然に解決していくこととなった。ウェスタンバーガーが神村幸太郎に対して持ちかけたように、複数の配電会社を設立させて地域分割することと取り決められた。そして、地域分割をして設立された配電会社は、多額の投資をして送電のための各種施設を準備していくこととなるのである。日本本土の電力業再編成については、GHQも発送配電一貫経営を促しつつも、ブロック案などではあまり主体性を発揮しなかったことはよく知られている。しかし、米国民政府は沖縄の実情を踏まえた上で、発送電部門と配電部門の分離を是認しつつ配電会社の複数設立をかなり積極的に促していた。このようにアメリカの占領方針は、日本本土と沖縄とでそれぞれ全く別個に企図されていたことを看取できるのである。
第三節 琉球電力公社および配電会社の経営
琉球電力公社から電力の供給を受けた各配電会社については、古竪哲(一九八〇)、社史編纂委員会編(一九八八)などによって、その設立経緯や紹介がなされてきた。そこで本稿では、各社の紹介は先行研究に基づいて簡単にとどめておくこととし、琉球電力公社および配電会社の経営について、電気料金に着目することで考察していくこととしたい。前節で一九五三(昭和二十八)年に設立された沖縄配電、松岡配電、中央配電について触れたが、その後、一九五五(昭和三〇)年に比謝川配電と与那原配電(後に東部配電と名称変更)が、一九五七(昭和三十二)年に名護配電が設立され、沖縄本島における6配電会社体制ができあ (
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がっている。その関連年月日を表4に、創業時の経営陣を表5に掲げた。さて次に、発送電部門である琉球電力公社の経営の根幹をなす電力料金についてみていきたい。琉球電力公社とアメリカ合衆国との間で、一九五五(昭和三〇)年八月十二日付で「米国合衆国より琉球電力公社への施設の譲渡に関する契約書」が交わされている。この契約書では、「琉 (
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球住民の経済の向上を計るため」に、ガリオア資金によって建設・設置された牧港発電所他の「施設に対するすべての権利、権限及び権益を」、一九五四年時点にまで遡って「放棄し、琉球の民間経済に譲渡し、引き渡すべきである」と、アメリカ合衆国政府が決定したことが説明される。これを受け、先に表2に掲げた諸施設は公社所有のものとされた。その際、琉球電力公社が「琉球の民間経済」などではなく米国民政府の一機関であることは全く問題視されなかった。こうして、琉球電力公社は公社が所有する牧港発電所等からの発電電力を供給することが可能となったのであるが、それと同時に、先述のように電力供給の不足分を補うためのジャコナ船やインピーダンス号等からの電力供給も利用した。つまり琉球電力公社は、公社独自の電力源と、アメリカ軍から供給される電力の双方の発送電業務を担うこととなったのである。このうち最初の四年間程は、アメリカ軍から公社に供給される電力は無料とされており、公社に譲渡された牧港発電所他の諸施設により発電される電力の費用のみを負担するだけで良かった。しかし次第にアメリカ軍から供給される電力量が増加していったため、一九五八(昭和三十三)年九月一日付で「沖縄における全島総合電力施設の管理運営維持に関する琉球列島米国陸軍と琉球列島米国民政府民政官室琉球電力公社との契約書」が結ばれ、アメリカ軍からの供給分についてもその価格の取り決めが行われた。そこでは、従来は無料で供給されていたアメリカ軍からの電力供給が、原価で供給されるように改められている。一方で、公社所有の牧港発電所等によって発電される電力の価格については、「施設を維持しまたは取替えるに必要な資金を確保するために」、減価償却および総資産(資本金+利益剰余金)の五%の利益を計上することだ (
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表4 配電会社一覧(事業関連の年月日)
会社名 創業 認可 配電開始 特記
沖縄配電株式会社 1953年 3月28日 1953年 6 月 1日 1953年10月20日
合資会社松岡配電 1953年 7月 7日 1953年11月31日 1954年10月 1 日 松岡建設として参入 中央配電株式会社 1953年10月31日 1953年12月31日 1954年10月25日
比謝川配電株式会社 1955年 4月10日 1955年 4月19日 1955年12月31日
東部配電株式会社 1955年 1月18日 1955年 1月 5 日 1955年 7月 与那原配電として創業 名護配電株式会社 1957年 7月27日 1957年10月 1日 1957年10月 1日 町営事業からの転換 出典)社史編纂委員会編(1988)16-26頁より作成。
沖縄配電 松岡配電 中央配電 比謝川配電 東部配電 名護配電 取締役社長 国場幸太郎 松岡政保 嘉陽宗正 当山真志 嶺井元奉 岸本永幸 専務取締役 城間恒雄 山城安徳 安田善治 浜元朝孝 宮平敦正 山城正健
渡嘉敷真睦 喜納兼雄 石嶺真誠 山入端松栄
石原昌直 仲宗根清秀
久保田盛春 金城弘太郎 喜友名朝順 新垣善助
又吉世沢 与儀繁雄 喜友名正謹 湖城其仁
真栄田世勲 高田豊 名嘉賀昌 幸地新松
新垣正栄 久保田清栄 真壁朝詢 前田有蛍
宮里盛助 本部紹牛 宇座周作 岸本永次
城間康雄 大城平栄 山入端清
大城鎌吉 与那覇次郎 宮城秀男
竹内和三郎 嘉陽安貞
竹野寛才 屋宜宣昌 村山盛信 比嘉広
中山興忠 田里友一 儀保浜太郎 中村宏正
仲宗根英秀 仲本政公 慶佐次興栄
出典)沖縄興信所編(1957)378頁および古竪哲(1980)129-171頁より作成。
注)松岡配電および東部配電の監査役は不明 表5 配電会社一覧(創業時の経営陣)
取締役 常務取締役
監査役
けが認められた。あくまでも「琉球住民の福利増進のために使用される良質で且つ豊富な電力を確保し、同時に出来る丈安い値段で販売す」ることが責務であった。要するに琉球電力公社は、公的な存在として電力の卸売料金を最大限に引き下げるよう動いていたのである。一方で、琉球電力公社から電力を供給される配電会社側は如何であったのであろうか。沖縄県公文書館に『電気委員会議事録』という史料が残されているので、それらを主に用いながら配電会社における電力料金価格決定の様子を確認していくこととしよう。先述のように電気委員会は一九五三(昭和二十八)年に設置されているが、ここで扱う史料は翌一九五四(昭和二十九)十月から一九五五(昭和三〇)年六月までの期間の議事録であり、個々人の発言のうち重要なものなどが記録されている。配電会社の電気料金に関する議論は、一九五五(昭和三〇)年三月二日、三日、四日、五日、九日の五日間に亘って、琉球政府工務交通局会議室で開かれた委員会で審議された。参加者は、松岡政保委員長(松岡配電)および安田善治(中央配電)・上間長和(沖縄配電)・高良嘉永(沖縄配電)の各委員が毎回出席し、琉球政府副主席であり琉球電力公社の理事でもあった神村幸太郎委員が二日目から出席している。三配電会社以外の配電会社はいまだ電力供給を始めていないため、電気委員会内には当時の発送電部門および配電部門すべての代表が顔を並べていたといえよう。この際の料金の決定過程に、アメリカ統治下における沖縄の配電会社の性格が如実に表れているため、その様子を詳細に確認していくこととする。会議初日である三月二日の議題は、「USCAR(米国民政府…引用者) (
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提案の料金について」であった。配電会社設立からの一年間に、「琉球政府でも長期間に亘って会社の内部の経営を調査して、総括原価を査定し、一応料金を算定して」きた。その結果、「会社の提出の総括原価と政府査定額との差」が出ていたが、「各会社の料金表を何回もUSCARに示し」ていたところ、米国民政府から政府査定額をさらにカットした修正案が提案されてきたのである。そこで委員会では、沖縄配電・松岡配電・中央配電の配電三社の電気料金について、個別に委員会で検討を加えることとしたのであった。ここで着目すべき点は二点ある。一つは、配電会社の電気料金は総括原価方式をとっていることである。総括原価方式とは、一九三三(昭和八)年に逓信省の電気委員会にて議論されて全国的に導入された、電力会社に一定の利益を付与するための認可料金制度であり、日本本土における戦後の9電体制のもとでも採用されて現在まで続いている料金方式である。アメリカ統治下の沖縄では、戦前来のこの総括原価方式が、電気事業会計規則および料金算定基準規則に則って送配電部門と分離された配電会社に採用されたのである。二つ目は米国民政府による介入がみられることである。委員長の松岡政保が、「電気料金は、軍の承認なくしては効力は発生しないと思う。その点も考慮に入れる必要がある」と述べているのが象徴的であるが、「行政主席は料金の認可権があるから、琉球政府内で認可は出来る」と法律上は定められていたとしても、その独立性には限界があったといえよう。さて、各社の具体的な料金を算出するに当たっては、沖縄配電が二日午後、中央配電が三日および四日午後、松岡配電が四日午前および午後に、それぞれ各会社の担当者も出席の上で詳細な審議が行われた。この (
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うち沖縄配電と松岡配電の二社については、政府の許可を得た後のひと月当りの総括原価が判明するので、それを表6に掲げた。人件費が両社とも二割ほど、購入電力量が沖縄配電で四五・六%、松岡配電で三九・五%、減価償却費が両社とも六%強、設備の維持費が沖縄配電で四・三%、松岡配電で八・九%、各種税金の合計が沖縄配電で四・五%、松岡配電で四・八%となり、これだけで沖縄配電の場合には八三・三%、松岡配電の場合には八一・五%を占めている。一方で琉球政府の許可を得た電気料金に基づく収支をみてみると、沖縄配電の場合では六、一五二、九〇〇円の総括原価に対して収入が六、一一〇、五四三円となって四二、三五七円の赤字であるなど、政府による修正案の段階ですでに赤字であった。このため沖縄配電は、「委員会においては会社の経営を考慮に入れて余裕ある料金額の算定をなされる様希望」するほどであった。このように政府認可の段階で赤字であった料金案に対して、米国民政府は更なる料金のカットを要求してきたのである。米国民政府案を入れるとすれば、沖縄配電で約三八〇、〇〇〇円の赤字に、松岡配電で一七、一〇四円の赤字に、中央配電で二九、三八三円の赤字になるなど、大幅に経費の見直しを迫られることは必至であった。これは、米国民政府が綿密な計算を行ったわけではなく、単に「提出した総括原価の九八%に修正されたそれに基づいて算出」するという方法で案出されたものだったからである。この結果、電気委員会では各配電会社代表の意見も聴取しつつ、三月九日に電気委員会案を作成した。「委員会案では赤字が僅かであるので、経営の節減を計り、合理的運営を行う事により経営可能であると考へられる」水準の最 ・高 ・料金案となっていた。「委員会としては一率案を作成 (
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して、各会社はその線の内で政府の認可を受けて料金を決定すると云う方が賢策である様に思はれ」たためである。この委員会案が琉球政府行政主席に答申された。さて、このようにして提出された電気委員会案と、その作成のもとになった沖縄配電による料金原案、および実際の三配電会社の料金体系を表7より確認してみよう。残念ながら沖縄配電以外の料金原案が不明であるが、電灯料金の四〇―六〇Wおよび六〇―一〇〇Wと低圧電灯料金は、沖縄配電による原案と委員会案が同じになっている。また、それ以外の電気委員会案は、沖縄配電による原案よりも高く設定されている。つまり、電気委員会案とは各配電会社案の最高値をほぼ並べたものであったのではないかと推測される。委員長が松岡配電、各委員が沖縄配電および中央配電の関係者であったことからも分かるように、電気委員会とは配電会社の意見を代弁する組織となってしまって (
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表6 沖縄配電および松岡配電の総括原価(ひと月あたり)
科目 金額(円) 割合 金額(円) 割合
役員給与 100,000 1.6% 37,000 2.1%
給料手当 1,258,600 20.5% 325,500 18.5%
消耗品費 61,600 1.0% 12,050 0.7%
雑費 157,900 2.6% 23,800 1.4%
維持費 264,100 4.3% 156,983 8.9%
賃借料 49,300 0.8% 5,000 0.3%
厚生料 57,600 0.9% 26,400 1.5%
退職金 48,000 0.8% 22,000 1.3%
損害保険料 20,000 0.3% 11,400 0.6%
委託諸費 2,500 0.0% 500 0.0%
賠償費 800 0.0% 300 0.0%
養成費 4,200 0.1% 2,000 0.1%
研究費 7,300 0.1% 16,995 1.0%
購入電力量 2,805,900 45.6% 692,760 39.5%
原価償却費 392,400 6.4% 116,755 6.6%
諸税 800 0.0% 530 0.0%
法人税 158,000 2.6% 32,500 1.9%
事業税 18,000 0.3% 4,640 0.3%
固定資産税 79,300 1.3% 41,600 2.4%
市町村民税 15,800 0.3% 3,250 0.2%
支払利息 297,500 4.8% 90,300 5.1%
雑損失 95,000 1.5% 56,100 3.2%
配当金 245,400 4.0% 40,000 2.3%
法定準備金 12,900 0.2% 37,500 2.1%
合計 6,152,900 100.0% 1,755,863 100.0%
出典)『電気委員会議事録』より作成。
沖縄配電 松岡配電
いたのである。さて、こうして電気委員会によって作成された最 ・高 ・料金案であったが、実際には適応されることなく、米国民政府との折衝を踏まえて三配電会社ともそれよりもはるかに安い電気料金と定められた。配電会社が作成した総括原価に基づいて電力料金を設定することは、米国民政府によって拒否されたのである。しかしその後の配電会社の経営は順調に進んだのみならず、一九五九(昭和三四)年には電気料金の高 ・さ ・が問題化して一割以上の値下げとなるのであるが、その点については別稿に譲ることとしたい。 (
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おわりに本稿では琉球電力公社および各配電会社を中心にして、アメリカ統治下の沖縄において発送電と配電の分離が行われていた様子を分析してきた。それは、アメリカによる戦後沖縄での電力の安定供給の実施という大方針の下で、それをより効率的に実現するように生み出されたものであった。そこで作られた電力供給システムは、日本本土の電力供給システムをほとんど参考にしておらず、将来的な本土復帰等を一切考慮していなかったことが窺える。発送電部門は、電力供給量の絶対量が不足しているという状況下で、今後の供給量の増加に対応すべく多額の追加投資が必要であると見込まれた。当初は、琉球政府が発送電部門に関与することなども想定されていたようであるが、この電力供給量の増加という問題に対応するために、米国民政府が独力で琉球電力公社を組織した。しかしそれでも、理事に琉球政府関係者を入れるなどして、琉球政府および沖縄の人々と共に歩む姿勢をアメリカ側は打ち出したのであるが、そのような米国民政府の意図は沖縄の人々にあまり伝わらなかったようである。配電部門について、米国民政府側としては、配電設備への投資までも自分たちで負担するのは過重であると考えていた。一方で沖縄側は、発送電部門の拡充を受けて、配電部門の経営に向けて独自に動き始めていた。最大の電力需要地である那覇市を中心にして、順次営業範囲を拡大していく方針で配電会社が企画・設立されたのである。これに対して米国民政府は、配電会社を一社による全島独占にすると全島電化が遅れることを危惧し、琉球政府の電気委員会に集った面々へと別会社設立を促
表7 配電会社の電気料金案(1ヶ月、抜粋)
沖縄配電原案 電気委員会案 沖縄配電 中央配電 松岡配電
需要家料金 1需要家 0.10 0.12 0.08 0.08 0.08
電灯 20Wまで 0.45 0.50 0.37 0.37
20-40W 0.70 0.75 0.58 0.58 40-60W 1.05 1.05 0.87 0.87 60-100W 1.60 1.60 1.33 1.33
沖縄配電原案 電気委員会案 沖縄配電 中央配電 松岡配電
1KWHにつき 50KWHまで 3.00 3.00 2.50 2.50 2.50
50-100KWH 2.75 2.75 2.29 2.08 2.08
100KWH以上 2.50 2.50 2.08 2.08 2.08
出典)『電気委員会議事録』1955年3月5日および琉球電力公社(1960)63-65頁より作成。
0.58 0.79 (1)定額灯
(2)低圧電灯
したのであった。こうして、沖縄本島を複数地域に分割してそれぞれが地域独占を行う各配電会社が設立されることとなっていった。このようにして分離した発送電部門と配電部門であるが、このうちの発送電部門である琉球電力公社は電力を安く卸売りすることに努めた。しかしもう一方の配電部門では、総括原価方式に基づき、高値での電気料金案を作成していた。これを受けた米国民政府による料金引き下げの要請に対して、委員が配電会社の関係者および琉球政府関係者であった電気委員会ではこれを一旦拒絶した。しかし結局は米国民政府からの要請を受け入れ、配電会社に有利な高めの電気料金を認めた電気委員会案は実現しなかったのである。本稿で確認してきたように、アメリカ統治下の沖縄において全島電化に向けて最も効率的な選択をするよう心がけていたのは米国民政府(アメリカ側)であった。沖縄側が、特定の勢力のビジネスに有利になるよう行動すると、米国民政府は公式・非公式にそれに対する別の選択肢を提示し、ある時にはそれを強制した。ダグラス・マッカーサーは「日本はまだ十二歳の少年で、まだ教育可能である」との発言を残しているが、沖縄の電力事業をめぐる米国民政府の対応もまた、「十二歳の少年」へと指導・教育する態度であった。言うなれば、「独善的な思いやり」とでも表現すべきアメリカのスタンスが戦後沖縄の電力業をめぐって表出していたのである。そして同様の事態は、他の多くの分野においても見られたことであろう。現在における沖縄の対米感情は、彼らの「独善的な」部分に対する反米感情と、そうは言うもののその「思いやり」に喚起された親米感情とが、両者混在しつつ醸成されたものであるといえるのではないであろうか。 注
(1) 沖縄電力株式会社「当社の歩み(沿革)」http://www.okiden.co.jp/
corporate/profile/history.html。(2) 橘川武郎(二〇〇四)三―七頁。
(3) 9電体制の発足については政経社編(一九八〇)一二七―一三八頁を参照のこと。
(4) 沖縄では一九五二(昭和二十七)年二月二十九日の米国民政府布令第六十八号「琉球政府章典」によって立法機関をつくることが定められ、
選挙を経て同年四月一日には一院制の立法院が成立した。沖縄の本土復帰後には沖縄県議会となっている。
(5) 社史編纂委員会編(一九八八)一六頁および松岡政保(一九七二)一二六頁。
(6) 古竪哲(一九八〇)。著者の古竪哲は、配電会社の一つである松岡配電の第三代社長を務め、沖縄電力設立後の取締役在任時に本書を執筆し ている。(7) 琉球電力公社(一九六〇)二頁。
(8) 古竪哲(一九八〇)一二一―一二二頁。一九五二(昭和二十七)年時点の数値。
(9) 琉球電力公社(一九六〇)二頁。(
10) 社史編纂委員会編(一九八八)三三頁
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( 11) 琉球電力公社(一九六一)一頁。
12) 琉球電力公社(一九六〇)二頁。ちなみに、九州電力編(二〇〇七)