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駒澤大学佛教学部論集 39 015加部 富子「欲貪の捨断について : 『大苦蘊経』『小苦蘊経』を中心に」

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全文

(1)

欲貪の捨断について

―『大苦蘊経』

『小苦蘊経』を中心に―

加 部 富 子

1 はじめに 欲貪に関する先行研究は管見の及ぶ限りでは(1)、西村実則氏が原始仏教にあ らわれるカーマについて論述されている他に (2) 、羽矢辰夫氏が原始仏教経典の中 で用いられる離貪について(3)、無明・渇愛・解脱との関わりで論考されているが、 煩悩としての欲に関する論述が殆どであり、それらの内容は貪・瞋・痴の三毒、 三不善根等、三者を一としているものが多く、欲貪そのものに関する論述は少 ない。 中部経典『大苦蘊経』Maha-dukkhakkhandha-sutta(以下Mhd.)『小苦蘊

経』Cu-l.adukkhakkhandha-sutta(以下Cl.d.)には欲(Ka-ma)色(ru-pa)受 (vedana-)に関してそれぞれの楽味(assa-da)、危難(a-d nava)、出離(nissaran. a)

の観点より法が説かれているが、特に欲に関する内容が詳細である。

本発表では、欲貪について、これら二経を中心とし、さらに論題に関与する

『経集』Sutta-nipa-ta(以下Sn.)の中の「欲経」Ka-ma-suttaおよびその註釈

書である『大義釈』Maha-niddesaと、これらのAt.t.hakatha- ・T. ka- を用いて、

楽味・危難より苦蘊(dukkhakkhandha)とは何かを明らかにし、苦滅に至ら しめる欲貪の調伏、捨断について考察することを目的とする。

なお、本論は自分の研究目的である「苦(dukkha)」について、苦と欲との

関係を明らかにすることを通して、欲貪の捨断が苦滅をもたらすものであるこ とを考察するものである。

欲貪の語について、『大苦蘊経』にはka-macchanda ka-mara-ga chandara-ga

語、すなわち、ka-ma chanda ra-gaという三語の複合語が主に用いられている。 五種の妙欲〔楽味〕についてはka-maが多く使用されているが、欲貪の調伏・ 捨断について本経にはchandara-ga (4) が用いられているゆえ、本論では論題に相 応するchandara-gaを欲貪として用いることとした。 駒澤大學佛 學部論集 第39號 成20年10月

(2)

2 欲の楽味について

諸欲の楽味(assa-da)について、Mhd.およびそのAt.t.hakatha- ・T. ka- には次

のように説かれている。

比丘たちよ、諸々の欲の楽味(ka-ma-nam. assa-do)とは何か。 比丘たちよ、これら五種の妙欲(pañca ka-magun.a- )がある。

五とは何か。眼によって識られる(cakkhuviññeyya- )諸々の色、好ましい (it.t.ha- )、楽しい(kanta-)、可意の〔喜ばしい〕(mana-pa-)、愛しい(piyaru-pa-)、

諸々の欲を伴った(ka-mu-pasam. hita- )、心を奪われる(rajan ya)諸々の色……

声 … … 香 … … 味 … … 触 が あ る 。 こ れ ら 五 種 の 妙 欲 に よ っ て 生 じ る 楽 (sukham. )・喜(somanassa)が、これが諸々の欲の楽味である。(M. i , p. 85) (以下、下線は筆者)

妙欲(ka-magun.a- )とは、欲求されるべきことの意によって(ka-mayitabbat.t.hena) 諸欲(ka-ma- )である。束縛という意味によって(bandhanat.t. hena)繋縛

(gun.a- )である。……重の意味がgun. aの意味である、集積の意味がgun.aの意味 である、……束の意味がgun.aの意味である、……好ましいとは、好所縁とな るもの。楽しいとは、愛しい。可意のとは、心を膨らませるもの。愛しいと は、愛情を生じさせるもの。諸々の欲を伴ったとは、所縁を作り、生起して いる欲を伴ったということである。心を奪われるとは、貪染の〔魅力的な〕 (rajjan ya)、貪生起の原因となる(ra-guppattika-ran.abhu-ta- )という意味である。

(M. A. ii , pp. 55-56) 繋縛とは、欲(ka-ma)・貪(ra-ga)・繋縛の縁となることによって、事欲にお いても束縛の意味が説かれた。 ……諸々の欲を伴ったとは、欲貪(ka-mara-ga)に近づいて、諸々の拘束が結 ばれるから、所縁を作ってと言ったのである。(M.A.T. . ii , p. 41(Be)) ここに五種の妙欲により生起する楽・喜が欲の楽味であり、それらは心を奪 われる魅力的なものであるが、欲貪であり、繋縛に他ならないものであること が述べられている。 欲貪の捨断について(加部)

(3)

また『導論』Netti-pakaran. a(以下Nett.)にはSn.の中の「欲経」に基づい て、楽味は次のように定義されている。

Tattha katamo assa-do?

Ka-mam. ka-mayama-nassa tassa ce tam. samijjhati addha-p timano hoti laddha -macco yad icchat ti. ayam. assa-do. (Nett. p. 5, Sn. v. 766

ここで、何が楽味か?

欲楽を欲しつつある時に、もしもその者にそれが成就すれば、人は求めるも のを得て、確かに喜びの意が生じる、と。これが楽味である。

Tattha katamo assa-do?

Khettam. vatthum. hiraññam. va-, gavassam. da-saporisam. . thiyo bandhu-puthu ka-me, yo naro anugijjhato. ayam. assa-do.

(Nett. p. 6, Sn. v. 769) ここで、何が楽味か? 田畑・屋敷・黄金、あるいは牛馬・奴婢・女性たち・親族たちという種々の 欲望を人が貪求するならば、これが楽味である。 また、欲には二種の欲があることがKa-ma-suttat.t.hakatha- に述べられている。 欲を欲しつつある者の欲とは、内容より二つの欲(ka-ma)がある。 すなわち、事欲(vatthuka-ma- )と煩悩欲(kilesaka-ma-)とである。 何が事欲か? 意に適う色……声……香……味……触、敷物、外衣、奴隷、山羊・羊、鶏、 豚、象、牛、馬・牝馬、田畑……何であれ貪染をあおる事物が事欲である。 ……渇愛の所依(tan.ha-vatthuka- )、渇愛の所縁(tan.ha-ramman.a- )であり、欲

愛すべき(ka-man ya)意味により、貪染をあおる(rajan ya)意味により、酔 わすべき(madan ya)意味により、欲である。これらが事欲と言われる。 何が煩悩欲か?

欲(chanda)・貪(ra-ga)・欲貪(chandara-ga)・思惟(san.kappa)は〔煩悩〕欲 (ka-ma)である。……それらは〔五種の妙〕欲に対する欲欲(ka-macchanda)・欲 貪(ka-mara-ga)・欲喜(ka-manand)・欲愛(ka-matan.ha- )・欲愛執(ka-masneha)・

(4)

流(ka-mogha)・欲軛(ka-mayoga)・欲取(ka-mupa-da-na)・欲貪蓋(ka- macchanda-n varamacchanda-n.a)なり。 「欲(ka-ma)よ、私はお前の根本を見た、思惟から欲は生まれる; 私はお前〔欲〕を思惟しない。このようであれば欲はあることなし、と。」 (J. iii , p. 450)これらが煩悩欲と言われる。(Mnd. pp. 1~2) 欲には事欲と煩悩欲がある。事欲とは物質的なものを貪求することであり、 渇愛と密接に関与していることが上記内容より明らかである。 煩悩欲について上記のJ.の註釈には、「このようであればとは、このように 私の中で。 ないとは、生じないに違いないということである」(J. A. Be. p. 427)と述べられているが、このことは意 (5) 、即ち、意思であり、欲を思念しな ければ、欲は生起しないということである。すべては自らの意志から生起する。 意思の大切さがここから読み取れよう。 また、Sn. v. 769の貪求することについて、煩悩欲が根底にあることが説明 されている。 貪求するならばとは、煩悩欲によって事欲に対し貪求し(gijjhati)、追い求め

(anugijjhati)、遍く求め(parigijjhati)、遍く執着する(paribajjhati)人が貪求 する者である。(Mnd. p. 12) これに対し、註釈は次のように述べている。 貪求しとは、煩悩欲によって欲求する。追い求めるとは、順々に貪求する、 何度も貪求する。遍く求めるとは、すべてから欲求する。 遍く執着するとは、限定により欲求する者である。(Mnd.A. p. 56) 欲の楽味とは、五種の妙欲から生起する楽・喜(6)であり、煩悩欲が根底にあ って、欲を貪り、欲に縛られる。 「渇望するから(tasati)感官の対象(五種の妙欲)に満足することを得ない」 (P.J. ii , p. 17)渇愛という根本煩悩がこれらの所依となっている。 これらはまた、貪生起因となるものである。 欲貪の捨断について(加部)

(5)

3 欲の危難について Mhd.に説かれる諸欲の危難(a-d nava)の内容を整理要約すると、以下のよ うになる。これらの①∼⑦は相互に関与するものである。(以下番号は筆者) ①寒・暑、蛇に触れ、飢渇により死に瀕する。 ②努力しても財が得られぬ。 ③財を得ても他者・災害等に奪われる。 ④欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とする、諸欲のみを因とする、現に見ら れる苦蘊。 ⑤争論により、口論し、武器による攻撃をなし、死に至る等の苦を受ける。 ⑥欲により、他者を害し、捕えられ、種々の刑罰を受け、死ぬほどの苦に至 る。 ⑦身・口・意による悪行をなし、死後、苦処・悪趣・地獄に生まれ、来世の苦 蘊をつくる(輪廻の苦)。(M. i , pp. 85~86参照) Mhd.A.には危難について次のように説明がある。

諸欲の危難(ka-ma-nam. a-d nava)とは、欲における禍(upaddava)であり、禍 患(upasagga)があるという意味である。

苦蘊(dukkhakkhandha)とは、苦の集積(dukkhara-si)ということである。

欲を因とし(ka-mahetu)とは、初めに縁(paccaya)という意味によって、諸 欲がこの原因でありうるから、欲を因とするのである。根本(mu-la)という 意味によって諸欲が根源であるから、欲の基〔根本〕である。 根拠(ka-ran.a)の意味によって、諸欲が基盤であるから、欲の根拠である。 諸欲のみを因とするとは、これは決定ということをあらわす語(niyamavacana) である。欲の縁から生起するばかりであるという意味である。 (M.A. ii , pp. 55-56) さらにT. ka- には苦が危難であることに関して次のように述べられている。 心に生じた強い憂いによって悲しむとは、心の熱悩によって内を焼き尽くす

(6)

(cittasanta-pena anto nijjha-yati)ことである。(M.T. . i , p. 42(Be) 先に欲の楽味の部分でgun.aには様々な意味があると述べたが、これらの内 容より、危難は必ず欲を根拠とするものであり、それらはまた、苦を集積し、 束にし、積み重ね、身や心を焼き尽くす苦の蘊となるものであることが理解さ れる。 諸欲を思惟(思cetana- )して人々は身・口による不善業をなし、死後、苦 処・悪趣・地獄に生まれ、現世で苦を受けるのみならず、来世の苦蘊をつくる。 それゆえ、欲による楽味・危難は現世、来世における苦蘊であることがわかる。 輪廻が苦であることがここからも理解されよう。 Mhd.では現世、来世の苦蘊となることが諸欲の危難であると説明されている。 Nettに危難は以下のように定義されている。

Tattha katamo a-d navo?

Tassa ce ka-maya-nassa chandaja-tassa jantuno te ka-ma-pariha-yanti sallaviddho va ruppat ti ayam. a-d navo. (Nett. p. 6, Sn.v. 767

ここで、何が危難か?

もしもその者が欲望を抱き、欲を起こした人の、それらの諸欲が損なわれる ならば、箭に射られた者のように悩まされる、と。これが危難である。

Tattha katamo a-d navo?

Abala-nam. bal yanti, maddantenam. parissaya-.

tato nam. dukkham anveti, na-vam. bhinnam ivodakan. ayam. a-d navo.

(Nett. p. 6, Sn. v. 770 ここで、何が危難か? 無力が彼を征服し、諸々の危難が彼を踏みつける それより彼に苦が従いゆく、壊れた舟の水のように。これが危難である。 Mnd.は危難を次のように説明している。 危難(parissaya- )とは、いかなる意味によって危難であるのか? ①征服するから(parisahanti)危難である、

②衰退に導くから(pariha-na-ya sam. vattanti)危難である、

(7)

③そこを所依とするから(tatra-saya)危難である。(Mnd. p. 13)

これらについてMnd.A.には以下の註釈がある。

征服するからとは、苦を生じさせて征服するゆえに。

衰退に導くからとは、諸々の善なる諸法の遍捨(kusala-nam. dhamma-nam. pariccajana-ya)を引き起こすからである。 そこを所依とするからとは、その身体を不善法が望み(a-s y a n t i)、住む (vasanti)ことになるからという意味である。(Mnd.A. p. 65) 欲のみが因となり、根幹となって不善法が生起し、その者の内に住み、現行 する、危難は苦を生起するものであると説明されている。さらに五種の妙欲に よって、求めるものを得ても、それらは他者に奪われたり、火事や水害などに よっても消失するものであり、人は死ぬ存在であるから、たとえ他者や水害等 で奪われずとも、自らの存在そのものが常なるものではない。無常を明らかに 知ることの大切さがここから読み取れる。 以上のことからも、変壊する性質のものである楽味は危難であり、危難はま た諸善法を衰退させ、現世・来世の苦蘊をもたらす、苦の生起因に他ならない ことがわかる。 危難については、目に見える〔顕現の〕危難(pa-kat.aparissaya- )と、目に見 えない〔覆われた〕危難(apa-kat.aparissaya- )があることが述べられているが (7) これらの危難とは何かをあきらかに知ること〔智慧〕は欲の出離につながるも のといえよう。 4 欲の出離について 諸欲の出離(nissaran.a)について、Mhd.には次のように説かれている。 比丘たちよ、諸々の欲の出離(nissaran.a)とは何か。

欲貪の調伏(chandara-gavinaya)、欲貪の捨断(chandara-gappaha-na)、これが 諸々の欲の出離である。……

諸々の欲の楽味を楽味として、危難を危難として、出離を出離として如実に知 る(yatha-bhu-tam. paja-nanti)ならば、諸々の欲を知悉するであろう(parija-nissati

(8)

という……この道理が存在する。(M. i , pp. 87~88) 欲貪の調伏、欲貪の捨断とは、涅槃(nibba-na)である。 なぜなら、涅槃によって、諸欲における欲貪が調伏され、また捨断されるか らである。 ……諸欲を知悉するであろうとは、諸欲を三遍知によって(t hi pariñña-hi 知悉するであろうということである。(M.A. ii , p. 60) 如来は諸欲の知悉を不還道(ana-ga-mimagga)によって説いている。 (M.A. ii , p. 54) ここに欲貪の出離は、調伏(vinaya)と捨断(paha-na)の二種があること、 諸欲の楽味を楽味として、危難を危難として如実に知ること、と述べられてい る。 遍知とは四聖諦を知遍知(苦聖諦)、度遍知(道聖諦)、断遍知(集聖諦)の三 遍知によってということを示している。 如実に知ることに関してCl.d.には以下の記述がある。 諸欲〔事欲・煩悩欲〕は楽味少なく(appa ass a-da)、苦が多く、悩み多く (bahudukkha)、ここには危難が多いと、このように……如実に、正しく (samma- )、慧によって(pañña-ya)、善く見る(sudit.t.ham. )……諸々の欲がな

く、諸々の不善の法がない、喜・楽に到達する、…… そこで彼は諸欲に誘惑されない者となる。(M. i , p. 91)

楽味少なくとは、楽が少ない(parittasukha- )ということである。

苦が多くとは、現世(dit.t.hadhammika)の〔苦と〕来世(sampara-yika)の苦 だけが多い。

悩み多くとは、現世と来世の苦悩という煩悩だけ(upa-ya-sakilesa yeva)がこ こでは多いということである。

危難がとは、現世と来世の禍である。この諸欲には危難のみが多く、楽はヒ

マラヤ山に比べて芥子粒のように小さく、少ない〔危難がはるかに多い〕。

如実にとは、本質のままに(yatha-sabha-vam. )ということである。

正しく(samma-)、理(naya)により、根拠(ka-ran.a)により、慧(pañña-)に 欲貪の捨断について(加部)

(9)

より、善く〔十分に〕(sut.t.hu)、見られている(dit.t.ham.)ものということを 示す。 慧によってとは、観という慧(vipassana-pañña- )によってという意味である。 (M.A. ii , p. 62) 苦などの原因となるものを探し求める現世の苦と、悪行の行為 (duccaritacaran.a)による来世の苦とが、ここでは諸欲に多いから、 苦が多い。……それらの煩悩は有益な実践に障碍をなす、この世で、また 来世でさらに危難の原因をも惹き起こす。 理によりとは、法(dhamma)によって。 観の慧とは、聖道の慧(ariyamaggapañña- )によってである。

それは四諦(cattta-ri sacca-ni)を明瞭に(visesato)見る(passati)という観 である。(M.A.T. . i , pp. 46~47(Be) 最初に「楽が少ない」と註釈されているが、ここでの楽は解脱の楽を示して いる。 欲を出離するにあたり、諸欲は現世・来世に苦蘊をつくる危難をもたらすもの であるということを、あるがままに、正しく、法により、智慧によって見るこ とが出離につながるものと述べられている。如実に見る、知る、智慧の深い意 味がここに説かれている。 1)欲貪の調伏 Mhd., Cl.d.には欲貪の出離に関して、上記の記述があるのみだが、「欲経」 の註釈であるMnd.にはさらに詳しい説明がなされている。

Tattha katamam. nissaran.am. ?

Yo ka-me parivajjeti sappasseva pada- siro so ’mam. visattikam. loke sato samativettat ti. ayam. nissaran.am. . (Nett. p. 6, Sn.v. 768

ここで、何が出離か?

蛇の頭が足によって〔避けられる〕ように、諸欲を回避する者は 彼はこの世間における執着を、念を具えて征服す。これが出離である。

(10)

Tasma-jantu sada-sato, ka-ma-ni parivejaye.

te paha-ya tare ogham. , na-vam. sitva-va pa-ragu-ti. ayam. nissaran.am. .

(Nett. p. 6, Sn. v. 771) ここで、何が出離か? それゆえ人は常に念を具え、諸欲を回避せよ。 それら〔諸欲〕を捨てて暴流を渡るがよい、舟〔の水〕を汲みだして 彼岸に行くように。これが出離である。 諸欲を回避するとは、二つの根拠〔因〕によって諸欲を回避する。 すなわち、調伏〔鎮伏〕(vikkhambhana)より、あるいは正断(samuccheda) からという〔二つによって〕。(Mnd. pp. 6~7) 続いて諸欲の調伏が説かれている。以下にそれらを要約する。 (番号は筆者による) ①諸欲は楽味少ないという義(appassa-dat.t.ha)によって骸骨の連鎖のようで あると見る。

②諸欲は多くの者に共通するという義(bahusa-dha-ran.at.t.ha)によって肉の塊

りのようであると見る。

③諸欲は徐々に〔身を〕焼くという義(anudahanat.t.ha)によって乾し草の炬 (たいまつ)のようであると見る。

④諸欲は大焦熱という義(maha-paril.a-hat.t.ha)によって火坑のようである

(an.ga-raka-su-pama- )と見る。

⑤諸欲は暫時現起するという義(ittarapaccupat.t.ha-nat.t.ha)によって夢のよう

であると見る。

⑥諸欲はしばしのという義(ta-vaka-likat.t.ha)によって借用した物のようである

と見る。 ⑦諸欲は折れ裂けるという義(sambhañjana-paribhañjanat.t.ha)によって樹果 のようであると見る(8)。 ⑧諸欲は断頭台(adhikut.t.ana)という義によって屠殺場のようであると見る。 ⑨貫通(vinivijjhana)の義によって剣の串のようである。 ⑩怖畏ある(sappat.ibhaya)という義によって蛇の頭のようである。 欲貪の捨断について(加部)

(11)

⑪大焦熱(maha-bhita-pana)の義によって火聚のようであると見る(9)。 (Mnd. pp. 6~7参照) 調伏とは、「心身を制御して、煩悩や悪行にうちかつこと」 (10) とされる。 これらの内容は、諸欲の危難を上記のように思惟することで自らを戒め、欲 貪を遠離し、抑止し、鎮伏し、回避する方便を示していると思われる。 なお、念を具えることについては後述する。 2)欲貪の捨断 次に諸欲の捨断〔正断・根絶〕についてMhd.には以下のように説かれてい る。 正断〔根絶〕より諸欲を回避するとはどのようにか。 預流道を修習する者も悪趣に至るべき諸欲を(apa-yagaman ya ka-me)正断し て回避する。一来道を修習する者も麁なる(ol.a-rika)諸欲を正断して回避する。 不還道を修習する者も微倶の(an.usahagata)諸欲を正断して回避する。 阿羅漢道を修習する者も遍く(sabbena)すべて(sabbam. )、あらゆる方法で (sabbatha- )すべてを残りなく(asesam. )、余さず(nissesam. )正断して諸欲を

回避する。 このように正断して諸欲を回避するという、これが諸欲を回避するところの 者である。(Mnd. p. 7) これらの内容を註釈は次のように解説している。 悪趣に至るべき諸欲をとは、苦界に行く、それらの苦処に至るべき諸欲を正 断することから、預流道を修習して回避する。 一来道を修習して麁なる〔諸欲〕顕在煩悩(pariyut.t.ha-na)を落としてという ことである。 〔不還道の〕微倶のとは、楽にならないもの(sukham. abha-va)を落としてと いうことである。 〔阿羅漢は〕煩悩より遠く離れている(a-rakatta)から、諸々の煩悩が害され た状態(hatatta)であるから、輪廻の輪(sam. sa-racakka)が遠く離れて(ara-nam. )

(12)

害された状態であるから、悪の因が除かれて(raho)いるから。 (Mnd.A. pp. 36-37) 聖者の流れに預かるところまで至って初めて、欲貪が捨断される。 それらの欲貪はまず悪趣に至らしめる不善業から捨断され、顕在している煩悩 を落とし、涅槃の楽とならない欲貪を落とし、輪廻の輪が除かれる状態に至る まで、順次に捨断されるということになる。諸欲は四向四果の聖道により根絶 されるものであり、聖者位に至らなければ欲貪は正断されないということであ る。 さきに「観の慧とは、聖道の慧(ariyamaggapañña- )によってである。」と 説かれていたが、聖道とはこれらの聖道がいわれている。 また、「如来は諸欲の知悉を不還道によって説いている」(M.A. ii , p. 54)と Mhd.の註釈に述べられていたが、その意味がここからも理解されよう。 Cl.d.の註釈には中道が説かれている。 これが独自の結論である。すでに諸欲の楽味も危難も説かれていたが、出離 は説かれていなかった。それを説くためにこの説示が始められている。なぜ なら、欲楽に浸る生活は一つの極端である(ka-masukhallika-nuyogo eko anto)。 自己の疲労に浸る生活〔苦行〕(attakilamatha-nuyogo eko)も〔一つの極端で ある〕。これらを離れることが私〔世尊〕の教えである。(M.A. ii, p. 63) 苦・楽の両極端を離れた中道もまた、欲からの出離であるということであ る。 3)念を具えること 念を具えることについて、Mhd., Cl.d.には触れられていないが、欲〔苦〕の 出離のための方便として意味があるので、「欲経」に基づいて考察する。 Sn.v. 768, 771の註釈には四念処の他に以下の念が解説されている。 (11) 不念の回避(asatiparivajjana-ya)により念あり、念をもって為されるべき諸法 を行った(satikaran. yam. dhamma-nam. katatta- )から念あり、念が対治する諸

(13)

法を破壊する(satipat.ipakkha-nam. (Be=satiparibandha-nam. )dhamma-nam. hatatta- )から念あり、念の因である諸法を忘失しない(satinimitta- nam. dhamma-nam. asammut.t.hatta- )から念あり。(Mnd. p. 10)

不念とは、念がない。……失念(mut.t.hasati)がここでの意趣である。 回避とは、遍く(samantato)回避する(vajjanena)ことによりということで ある。 念をもって為されるべき諸法とは、念によりなされるべき諸法をということ である。 行ったとは、なされたことにより、四道を修したから、自ら修習したから (bha-vitatta- )という意味である。

念が対治する諸法とは、欲貪など(ka-ma-chanda-d nam. )が擯滅したことによ

って(na-sitabha-vena)ということである。(Mnd.A. pp. 51~52)

ここに念が欲貪を擯滅する根拠が見出される。擯滅とは、「外に押し出す。 退け、滅すること」(12)とあり、念が内に満ちることにより、欲貪が外に押し出 されるということを示している。 四道とは聖道であり、欲貪の捨断をもたら すものである。常に念を具えることは欲貪を正断する力を有するものであるこ とがわかる。 念は次のようにも説明されている。 念があるから(satatta- )念あり。寂静であるから(santatta-)念あり。 寂 止 し て い る か ら ( s a m i t a t t a- )念あり。善なる法を具備しているから (santadhammasamanna-gatatta- )念あり。……この念を具え、具備し、近づい て到達し、具足し、正しく具足し具備している者、彼は念があると言われる。 ……彼は世間における執着を念を具えて征服する。 それゆえ、世尊は説かれたのである。 蛇の頭が足によって〔避けられる〕ように、諸欲を回避する者は 彼はこの世間における執着を、念を具えて征服す。と。(Mnd. p. 10) 寂静であるからとは、寂滅しているから〔涅槃に達した〕(nibbutabha-vena)。 寂 止 し て い る か ら と は 、 煩 悩 な ど が 寂 滅 し て い る こ と か ら( k i l e s a-n a m.

(14)

vu-pasamitabha-vatta- )。

善 な る 法 を 具 備 し て い る と は 、 善 人 の 法 に よ り 衰 退 し な い こ と か ら

(sappurisadhammehi aparih natta- )。(Mnd.A. p. 52)

念が欲貪を回避する方便として説かれているが、これらの内容から、念を具 えることは苦の因である煩悩を寂滅させ、心の静まり〔定〕を得、善を促し、 涅槃の楽に向かわしめるものであることが理解される。 5 おわりに 本稿では、楽味・危難・出離を柱に経典の内容を整理し(13)、考察した。 欲の楽味と称する五種の妙欲、事欲・煩悩欲は、自ら遍く貪り求めるという、 自らの内に生起するものであり、欲を因とすることから不善業をなし、その結 果、苦が多く危難が多いものであること。それらの苦は現世のみならず、死後 悪趣に堕し、来世の苦蘊をももたらすものであること、これらのことから欲と 不善と苦との間には「惑」「業」「苦」の因果関係が成立することが確認でき た。 感官を防護し、楽味・危難を遍知すること、念を具え、諸欲を回避すること は、苦を滅することにつながるものである。 諸欲の楽味とは渇愛の所依であり、貪の生起因であること。諸欲の危難とは 諸善法を衰退させて、現世・来世の苦蘊となること。欲貪の調伏には、欲貪を 遠離し、戒を保持する必要があること。念を具えて諸欲を回避し、聖道を自ら 修習することで、寂静が得られる。戒・定・慧の三学を修習することが欲貪 〔瞋・痴も含めて〕の捨断に導くものであるといえよう。 参考文献 【一次資料】 (原文テキストはPTS版、ビルマ第六結集版を使用した) M a h a-d u k k h a k k h a n d h a - s u t t a , M a h a-d u k k h a k k h a n d h a - s u t t a t. t. hakatha-, Maha-dukkhakkhandha-suttat. ka

-Cu-l.adukkhakhandha-sutta, Cu-l.adukkhakhandha-suttat.t.hakatha-, Cu- l.adukkhakhandha-suttat. ka-,

Ka-ma-sutta, Maha-niddesa, Saddhammapajjotika

(15)

略号

J:Ja-taka Mnd:Maha-niddesa M:Majjhima-nika-ya M.A: Majjhima-nika-yat.t.hakatha

-M.A.T. : Majjhima-nik a-yat.t.hakatha-t. ka- Mnd.A: Maha-niddesat.t.hakatha

-(Saddhammapajjotika- )

Nett: nettipakaran. a P.J:paramattha-jotika- Sn:Suttanipa-ta

【二次資料】 片山 一良訳 パーリ仏典〈第1期〉1『中部根本五十経篇』Ⅰ 大蔵出版 1997 ――――   パーリ仏典〈第1期〉3『中部中分五十経篇』Ⅰ 大蔵出版 1999 佐々木 現順 『煩悩の研究』 清水弘文堂 1976 西村 実則 「原始仏教・アビダルマにあらわれたカーマ(欲望)」 『三康文化研究所年報』第32号 2000 羽矢 辰夫 「ヴィラーガ(離貪、離染)について」 『東方』5 1989 古山 健一 『Nettipakaran.aの研究』 駒澤大学博士学位論文 2001 水野 弘元訳 『大義釈』一 南伝大蔵経42巻  ――――監修 ウ・ウェープッラ 戸田 忠訳注 『アビダンマッタサンガハ』南方仏教哲学教義概説 中山書房仏書林 1992 村上 真完・及川 真介 『仏のことば註』(三)―パラマッタ・ジョーティカー― 春秋社 1988 注記 並川 孝儀 「初期仏典にみる煩悩の消滅」『印度学仏教学研究』第48巻第1号 1997 ――――  「初期仏典にみる煩悩の所在」『印度学仏教学研究』第47巻第1号 1996 中村 了権 「原始仏教における煩悩論」『印度学仏教学研究』第31巻第1号 1972 佐藤 義博 「煩悩について」―原始仏教を中心として―『印度学仏教学研究』 第31巻第1号 1972 P.V.バパット 「仏教に於ける煩悩論」『煩悩の研究』清水弘文堂 1975 西村 実則 「原始仏教・アビダルマにあらわれたカーマ(欲望)」 『三康文化研究所年報』第32号 2000 羽矢 辰夫 「ヴィラーガ(離貪、離染)について」 『東方』5 1989 chanda形容詞では意に適える、誘惑する、誘引する。男性名詞では欲、志欲、意欲 の意あり。 ra-ga 語根√rajには魅惑される、喜ばされる、……に心を奪われる、を好む。男性名詞 では貪、貪染、染の意あり。(『梵和大辞典』『パーリ語辞典』参照) 意とは心・意・心意・心臓・白い意・意処・意根・識・識蘊、それに応ずる意識界

(16)

である。これが意といわれる。この意は喜と倶起し、倶生し、相合し、相応し、一つ に〔なって〕生起し、一つに〔なって〕滅し、所依を一にし、所縁を一にする。 (Mnd. p. 3)

喜とは、五種の妙欲に相応する喜・喜悦……幸福・満足、心が喜びに満ちるという ことである。(Mnd. p. 3)

危難とは顕現の危難(pa-kat.aparissaya- )と覆われた危難(pat.icchannaparissaya- )と の二つがある。顕現の危難とは何か? 獅子・虎・豹……盗賊、兇族人による〔危難〕、 種々の病、気候の変化による病……これらを顕現の危難という。 覆われた危難とは何か? 身・口・意の悪行、五蓋、……一切の煩悩……これらを覆 われた危難という。(Mnd.A. p. 65) ①∼⑦の譬喩はM. 54 Potaliya-suttaの中に欲の危難に関する話として説かれてい る。 さらに続けて仏・法・僧・戒・捨・天の随念、出入息念、身に至る念、寂止随念を 修習する者、初禅から非想非非想処定という禅定の修習者は諸欲を調伏すると説かれ ている。(Mnd. pp. 6~7参照) 新村 出編『広辞苑』第五版 岩波書店 1998 s.v.「調伏」

念を具足している(samanna-gata)から念あり、念により自在である(vasita- )から 念あり、念に熟達している(pa-h u ñ ñ a t a- )から念あり、念より退転しないこと

(apaccorohan.a)から念あり。(Mnd. p. 10) 以下は註釈。

念を具足しているとは、念という諸法に通じているから(a-gatatta- )、欠損していな

いから(a p a r i h n a t t a- )である。自在であるからとは、自在となることを得た (vas bha-vappattena)ことにより。熟達しているとは、熟知していることにより (pagun.abha-vena)。(Mnd.A. p. 52)

あらゆる念・随念・憶念・念・憶持性・受持性・軽薄でないこと(apila-panata- )・不

失念・念・念根・念力・正念(samma-sati)・念覚支(satisambojjhan.ga)・一行道、 これが念と言われる。(Mnd. p. 10)

新村 出編『広辞苑』第五版 岩波書店 1998 s.v.「濱滅」

Nett.にはこれら楽味・危難・出離の他に、経には果(phala)、方便(upa-ya)、教誡 (a-n.atti)が説示されている(Nett. p. 5)と述べられている。

参照

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