Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 駒澤 大學佛教學部論集第
13
號 昭 和57
年10
月唯
識
派
の
一乗
思 想
に
つ
い
て
一一 一乗 思 想
の研
究
(
II
)
松 本 史
朗
本
稿
の 目的は, 唯 識 派の 一 乗 思 想(D− 一 乗に 関 する思 想一 の基 本 的 構 造 を解
明する こ とに ある。考察
の素材
と し て は, 主 に次 の 二 つ の資料
を使
用す
る。A
.Madhyamahalolea
(
MA
,D
. ed .No
.3887
)Sa
,146a4
−147b5
;Sa
,237a4
−244a7
〔拙 稿 「Madhyamah
∂loka
の 一乗 思 想一 一乗 思想
の研 究(
1
)
一 」『曹 洞 宗研 究 員 研 究生研 究
紀
要』第
14
号,1982
年
,pp
,295
−
277
に和 訳がある。 な お , 以 下に こ の 論 文を, 本 研
究 (
1
)
, ま た は 単に(
1
) と呼ぶ。〕
B
.Mahdyanastitr
召laptkarabha5ya
(MSABh
,L6vi
ed .) adM
α觴 ッ伽 α.sMralampleara (
MSA
)XI
,kk
.53
−59
.資 料
A
の 和 訳は 既に 示 した の で , 本稿
では まず資料
B
の和訳
を 呈 示 して お こ う。M
読 δッ伽 αs葱〃 々1
αη3々δ7α兢 δ5y
α adXIkk .53
−59
の和
訳〔
1
〕 一乗
で ある こ と (ekayfinata )を求め る こ とに つ い て ,〔
次の 様な〕七 つ の詩
頌(
Sloka
)がある。 〔2
〕 〔3
〕
ら
声
聞等が 同 じもの を乗
とす
るこ と(ekayanatの
が ある。 行 く対 象(
yatavya
)〔= 法 界
〕
が乗 (
yana
)で ある と考 えて 。〔
4
〕 (
2)声 聞等に とっ て人 無我 性 (atmabhavatE
,gah
zag rnamsbdag
medpa
)
が共 通で ある (samanya )か ら, 〔声 聞等が〕同 じもの を 乗 とす るこ と
(
eka ・yanata )
がある。行
く人(
yat
;)
が乗
であ
る と考
えて。(
1
)法 (dharma
) と (2)無 我 性 (nairatmya ) と(
3
)解 脱 (mukti )が等 しい(
tulya
)か ら, (4)種 姓の 区 別に も とつ い て(gotrabhedata 毎
),(
5)
二 つ の 想 念(
aSaya
,bsam
)
を得
る か ら,(
6)
化身
(nirm 鋤 a)
の故
に ,(
7)
究竟 (
paryanta
)の 故に , 一乗で ある こ と (ekayanata
)
が ある。(
k
.53
)Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
2
) 唯識 派の一乗思想につ いて (松 本) 〔5
〕(
3)〔
声 聞等
の 〕解脱
が等
しい か ら(3), 〔声
聞 等が〕 同 じものを乗 とす ることがある。 行 くこ と (
yati
)が乗で ある と考 えて 。〔
6
〕て
4)
声 聞 の種 姓 が 決 定 し て い な い もの (aniyata §ravakagotra) 達
は大乗
(mahayana
)
に よっ て出離 (
niry 的 a) す るの で, 種姓 の 差 別に も とつ い て〔彼
等が〕 同 じ もの を 乗 とする こ と(
ekayanata)
がある。 行 く手 段(
yanti tena ) 〔一 大 乗 〕が乗で ある と考えて 。 〔7
〕(
5)
二 つ の想念
を得
るか ら, 一乗であ
る こ とが あ る。 即 ち,諸 仏は, 一切 衆生に おい て 自己で あ るとい う想 念
(
atmaSaya
,bdag
盃d
kyi
dgohs
pa
)
を得
る か ら , また 声 聞で, それ 〔 = 声 聞〕 の 種 姓が決 定 し て お り ,以前
に は(
pifrvam ) 菩提
の資糧 (
bodhisarPbhtira
)を行
じた人達は , 仏の威神
力(
buddhanubhava
)に よっ て, 如 来の勝れ た摂 受
の 部 分 (tathagatanugra
−havigeSapradeSa
) を得る為に , 異な っ てい ない 相 続に 対す る信解
(abhinnas −arptan 五
dhimokSa
, rgyudtha
midad
par
mospa
)を得る こ と に よっ て,自己に仏の 想
念
(buddhfiSaya
, sa血s rgyaskyi
dgofis
pa
)を得るか ら (4) , 故に, 同 一である とい う想 念
(
ekatva §aya )を得る こ とにつ い て , 仏 と声 聞は 同一 で ある か ら, 〔彼 等に とっ て〕 一 乗である こ と (ekayanata )があ る 。 〔
8
〕 (
6)
化身
の 故に , 一乗
であ
る こ とが ある。〔
経に〕
「私は, 何 百回 も, 声 聞乗(
Sr
五vakayana)
に よっ て般涅槃
した(
parinirvpta )
。 」 と所化
の人(
vineya)
達 のた め に , その 様に 化 身を 示 現 し た か らであ る(5)。 〔
9
〕
(
7)
究竟
の故 か らも, 一 乗であ るこ とがある。 ある もの (x)以 上に (yatabparepa
) 行 く対象 (
y5tavya
)が無い とこ ろ の その もの (x)
が乗で あ る と考
えて, 仏 果 (
buddhatva
)が 一乗 (ekayEna )であ る。〔
10
〕こ の 様に , あ れ これ の 経に, あれ こ れの 意趣 (abhipraya )に よ っ て , 一
乗
であ る こ と(
ekayanatE ) が 〔説かれた と〕(6)知 るべ きであ る。 し か し 三 乗(
yanatraya
)が無い とい うの で は ない 。 〔11
〕しか し, 何の 為に , あれ これ の 意 趣に よっ て 一乗である こ とが諸 仏 に よ っ て示 され た の か。
〔
12
〕
何 とな れぽ ある人達 (
ekesam )を引
導 する (akarsapa)
た め に , また他 の人達
を(
anya )維
持 (sarpdhara4a ) す る た め に ,諸
仏に よっ て , 不 決 定の 人 (aniyata )達
に 対し て, 一乗で あるこ と (ekayanata )が示 された の であ
る(7)。(
k
.54
)
一311
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 唯識 派の 一乗思 想につ い て (松 本) (
3
)〔
13
〕 あ
る人 達 を 引導 す る た め とい うの は, 声 聞 の 種姓
を もち 不 決 定 な 人達
(
SravakagotrS
aniyat的
)〔
を引 導 す るた め〕で あ り, 他の 人達
を維持す
るため とい うの は,
菩薩
の種
姓を もち不決
定 な人達 (
bodhisattvagotra
aniyat的 )
〔
を維持
する た め〕で ある。 〔14
〕 〔15
〕(
drStarthayfina
, thegpahi
doll
mthoflba
), 即 ち, 〔四〕諦
(satya )を見たもの で, 大 乗に よっ て出離 す る もの と, 乗の 義を見ない もの , 即 ち, 〔四〕
諦
を 見 ない もの で, 大 乗に よ っ て出 離 す るもの で ある。
ま た義を見た もの とは , 諸の
愛
欲 (kama
)
か ら離
欲し た もの と離 欲 し て い ない もの で あ る。また こ れ, 即 ち, 二 種 と言 わ れ た, 義を 見た もの は , 鈍 根で, 理
解
の遅い もの
(
dhandhagatika
)(11) で ある。 〔16
〕
その 二 者は,
獲
得 した聖者
の道 (
labdharyam5rga
)
を, 諸の生 存 (bhava
)に 変え る (paripama ), か ら (12)’”不可 思 議な 変化に も とつ く生 ”(12)を もつ
(acintyapari 啅 mikya upapattya samanvitau )。
(
k
.56
)〔
17
〕そ の 二
者
, 即 ち,義
を見た もの は ,得
た ところ の聖 者の 道を諸
の生存
に 変え る か ら, 不 可思議な変 化に も とつ く生 を もつ , と知るべ ぎで ある。 何 とな れ
ぽ, そ の 聖 者の 道が諸 の 生に 変わ る こ とが, 不 可思議であ るか ら, 故に , 不可
思
議
な変化 に も とつ く (acilltyapari 頃 miki ) 〔生 〕 なの で ある。〔
18
〕 不 決 定の 声 聞(s)は, 乗の義
を見た もの と見ない もの (drstad
;§tarthayana
,theg
don
mthofidaft
ma mthoft ) とに よっ て, 二
種類
である。義
を見た もの (dr
§tartha
)
は , 離 欲し た もの(
vitaraga ) 〔 = 不還 〕(9)と離
欲 し て い ない もの (avitaraga ) 〔= 預 流 ・ 一来〕
(9)であ
り , これ 〔≒義
を 見た もの 〕は鈍 根(10)(
m担
u)で ある。 (k
.55
) ま た 不決定 の声
聞も, 二種
で ある と知
るべ きであ
る。 乗の義
を見 た も の〔
19
〕望み の ままに (
yathestam
) 生を 取る (9
;hnati
)。 他の もの は , (14>” 不還
性の瑜 伽の 力に よっ て,
諸
の化身
に よっ て , 〔生を取 る〕 ‘”C14) 。 〔その 二 者の うち〕 ある もの〔
= 預 流 ・一来 〕(13)は , 願 (prapidhana
) の 力に よっ て , 生を成 就 す る(
prapadyate
)。他 の もの 〔一 不還 〕は , 不 還 性 (anagamita ) の
瑜
伽 (yoga
)に も とつ い て , 諸の 化 身に に よっ て 〔生を〕 成就
す る。 (k
.57
)
そ の 二者
の うちある もの , 即 ち,離欲
して い ない もの は , 願の 力に よっ てKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (4 ) 〔
20
〕 〔21
〕 唯識派の一乗思 想に つ い て (松本)その 二 者は , 涅 槃を
愛
好する (abhirata , mhondga
与
)(15)の で
, 理解の 遅
い もの (
dhandhagatika
, rtogspa
bul
ba
)
と考
え られ る。 繰 り返 し自己の 心の 現
行
(samudacara)
と結
合 するか ら。 (k
.58
) また, その 二者
は,涅
槃 を愛 好 する か ら, い ずれ も,長時
を経
て(
ciratarepa)
現等覚
する の で, 理解
の 遅い もの と考え られ る。 自己 の , 即 ち, 厭離 (nirvid )と共にある声 聞の , 心 が 繰 り返 し現 行する か らで ある。 〔
22
〕か の , 義 を
達
成 しない もの(
ak τtartha )は ,無
仏 の 〔時〕に 生 ま れ, 化 身を 求 め て , 禅定 の た め に
努
力 し, それ〔
=化身〕
に 依存
し て, 最 高の菩提
に達す る。 (k
.59
)〔
23
〕ま た, かの 離欲 して い ない もの で, 諦 を 見てい ない もの (16) , そ れ が義を
達
成 して い な い もの , 即ち,有
学(
Saiksa
)で あるが, 彼は ,仏
の い ない 時に生 まれ, 化 身を 求 め て禅定 の た め に 努 力 する。 そし て, そ の化
身
に 依存
し て次 第に (krame4a
), 最 高の 菩 提に達 す る。〔
24
〕こ の , 三 つ の 時 期 (avasthatraya ) (17)を意趣 し て ,
SrimalaNstitra
に お いて世 尊に よっ て , 「声聞 と なっ て か ら独
覚
とな り, ま た更
に仏
に もな る。」 と火の比
喩
を もち い て 説かれ た。 〔三 つ の 時 期 とは〕 以 前に諦を見た 時期
と, 仏 のい ない 時に ,
自
ら (svayam ) 禅 定を生 じて , 生 身 (janmakaya
)を捨て て,化 身 (nirmapak 訌
ya
) を 取 っ た時 と,最 高
の菩提
に達
した時
であ る。1
一乗
説
につ い てMSABh
adXII
,kk
.19
−23
に は, 次の様
に述
べ られ て い る。 〔25
〕 不 決定な もの の区別 (aniyatabheda ) とい う障(
avarapa
)の 対 治 の教
説(
pratipakSasarPbha
§a
) とは , 大 声 聞 (mahaSravaka)達
に仏 果 (
buddhatva
)に 関し て 授 記 (vyakarapa )を示 すこ と (
de
§ana ) と, 一 乗 (ekayana )を示 すこ とで ある。 (MSABh
,84
,2
−3
)こ の
記述
は ,唯
識 派の 一乗
思想
の 基本的
立場を 示す もの であ り, 極め て重要
で あ るが , その 意味に つ い て は後に 考 察す る こ とに し て, こ こで は 単に , こ の 記 述 に お い て一乗
と声 聞授 記 とい う二 つ の 問題が別 個 の もの と し て扱われ て い るこ と に注 意 し よ う。 本 研究 (
1
)
で 見た様
に , こ の二 つ の 問題
は , 必ず しも切 り離 し て 考察
する こ との で き ない 性格
を もっ て い る。 即 ち, こ の 二 つ の 問 題に関す
る議
論を合 し て ,広
い 意 味での 一乗 思 想 と呼ぶ こ とが で き るの で ある。 し か し, この 一309
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 唯識 派の一乗 思想に つ い て (松本) (
5
)記
述の様
に両 者を 一応 独立 のtopic
として 扱 うこ と も不 可能では ない 。 本 稿で も まず
1
に お い て唯
識 派 の 一乗 それ 自体に 関 す る議 論を取 り上 げ, 次にII
に おい て 声 聞 授 記に関
する唯
識 派の解
釈につ い て 考 察 しよ う。本稿
の 記 述 〔1
〕に 示 される様に ,MSA
,XI
,kk
.53
−59
は , 「 一乗である こ とを 求め る こ と (ekayanaparyesti )に つ い て の七頌」 と呼 ぼれ , こ こに唯識
派 の 一乗 思想
の 全体
が余
す ところ な く表
明されてい る と思わ れるが, 頌の作者
がそ の 七 頌を 著し た意
図を,註
釈者
Sthiramati
は次の 様に 述ぺ て い る。〔
26
〕
あ
る経 典(
mdo sde )に は , 乗 は 一つ と説 明され てい て , 三 つ は無い , と説 か れ て い る。 ま た ある経 典に は , 三 つ と説か れ て い るの は何 を意趣 し て い る
の か
(
cila
dgohs
) と言 えば, 教 説(
gsuh
rab)
に は二部
が ある。 即ち ,未
了義 (
bkri
babi
don
, ney 五rtha)
の経
典 と了 義(
hes
pahi
don
, nitartha )の 経典で ある。
その 中で , 「乗は 一 つ である 。」 と説い た の は, 衆生 の た め に , 意趣 (
dgohs
pa
, abhipraya )に よっ て説かれた の であ り, 未 了義
と言わ れ るが,乗
は 三 つで ある と
説
い た の は , 了義
で ある。 乗は 三 つ ある の に , 乗は 一つ であ る と説かれた の は, 何を意
趣
し て説い た のか, とい うその 意趣を考察 するた め に七つ の詩頌を 著 す, とい う
意
味で ある。 (SAVBh
,Mi
,196a5
−7
)即ち, 仏
陀
に よ る 一乗の 説 示は , 未 了義 (
neyartha)
であ
り,有意
趣(
abhi
・prayika )
で あ り, その意 趣が どの 様な もの かを考察
するの が 七頌を著
す意
図で ある とい うの で あ る。 こ こ に , 所謂 「一乗 方 便 ・三 乗 真 実」 とい う唯 識 派の 一乗 思 想の 基 本的
立場が 示 さ れて い る。なお, こ こ で注 意 す べ きこ と は , 上述 の七 頌中 に は 厂一乗」(ekaytina )とい う 語は な く,「一 乗 性 」 (ekayanata ) とい う抽 象 名詞 だ けが
k
.53
とk
.54
に 出 る と い う事 実であ る。 こ の語は ,抽象
名詞で ある以上, 「何か が 一乗である こ と」 と い う 「何か」をgenitive
形 と して 期 待 する筈
で あ る か ら, まずこ の 言葉
自身が唯
識派
の 「一乗 」 理 解が単純
な もの でない こ とを 示唆 して い る様に 思 わ れ る。 記 述 〔10
〕に 見 られ る様に , 「一乗 性」 とい う概念
と, 「三 乗」(yanatraya
)とい う概 念
は, 必ず しも矛盾
しない の であ
る。さて, 七 頌に よ っ て 「
意
趣を考察
す る」 とは い え,意趣
そ の もの は,k
.53
に 七 種 とし て示 されてい る。 その 内の 第 一は , 記 述 〔2
〕に 示 され る 「声聞等の 法 界 が異な っ て い ない こ と」で あるが , こ の 「法 界の 無 区別 性」 こ そ,唯
識 派の 想定
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty (
6
) 唯識 派の一乗 思 想に つ い て (松 本) する一乗
説の 意趣
と して は最
も重要
な もの である と思わ れ る。従
っ て,本 稿
で は 以 下に.これ を中
心に し て考察
する。さて , 記 述 〔
2
〕で は , 法 界が乗で ある, と理解 され, 「乗」(yana )
は 「行 く対象」(yatavya
) で あ る とさ れ る。従
っ て, ekayanata とい う語は有 財 釈で 「声 聞等
が 同 じもの(
法 界)
を乗
とす
る こ と」 とい う意味
に解
され る。で は,
何
故に, 法界 が乗, 即 ち,yatavya
で ある の か 。 そ れに つ い て,Asvabhava
とSthiramati
は 記 述 〔3
〕を註 釈 して 次の様に 述べ てい る。〔
27
〕どうし て それ 〔= 法 界〕が
yatavya
で あ るの か 。 法 界に 依 存 し法界
を得てか ら, 声 聞
等
に 声 聞等
の 法が生 じ る こ とに な る か らであ
る。 (MSAT
,Bi
,94a1
)〔
28
〕yatavya
,即 ち ,知 らるべ き境 (§es parbya
babi
yul)た る法界 は 乗である。 法 界を 理
解
し証悟 すれ ば, 声 聞 と独 覚 と如 来の 法が生 じる こ とに な る ので , 法 界が乗 と確立 された の で ある。
(
sAvBh
,Mi
,196b4
−5
)こ の 二 つ の 記 述の 意 味に つ い て考 察 す る まえに , 界 (
dhatu
) とい う語を筆老
が どの様に 理 解 す る か を まず 明 らか に し て お こ う。 筆 者はdhatu
をlocus
と訳 したい と思
う(18) 。 こ の英 語
は , 「場」 と和 訳 され得
る と思
うが, こ の 日本
語に は ,筆
者がlocus
とい う語
に与
える意味
以 上の特殊
なニ ュ ア ン ス があ
る様
に も思
わ れ , こ こ で は こ れ を使用 しない 。 筆 者はlocus
及 び super ・locus
とい う語を, 次 の 意 味に お い て 用 い た い 。 即 ち, 何 で あ れ a がb
に ある と き,b
を a のlocus
と
呼
び, a をb
の super ・10cus
と呼ぶ の で ある。 例え ぽ, 本が机の 上 に ある とき, 本は super ・
locus
であ り, 机は10cus
である。 ま た, 事 物に 本質
があ る, とい う とき,事 物はlocus
であ り, 本質
は super−
10cus
で あ る。
Skt
.に おい て は,dhatu
以外に も,agraya
,adhara
, adhikara4a ,alambana
, vastu等
が, 同様
なlocus
とい う意
i
朱
を もつ で あろ う し, また super ・locus
に 対 応 す る語 と して は ,
5
§rita ,adheya
等があ あろ う。法 界, 即 ち,
dharma
−dhatu
とい う語に関 し て言 えば, こ の 場 合 のdhatu
も10cus
とい う意
味であ
ろ う。 従っ て ,dharma
・
dh
五tu の 語 義は,
the
locus
ofdharmas
とい うこ とに な る。Madhy
冴ntavibhagabh ∂5ya
(Nagao
ed ,)
に〔
29
〕聖 法 (
tiryadharma
) の 因 (hetu
) であ るか ら, 法 界で あ る。 諸 の聖 法 がそ れ
〔
=法界〕
に依存
し て生
じる (tadalambanaprabhava
)
か らで ある 。 何となれ ばこ こ で , 「界」 の 意 味は , 「因 」の 意味であるか ら。
(
p
.1
.)
と説かれ て い る様に , 一般 にdh5tu
とい う語は, 因 (hetu
)
の意味
で あ る と考 一307
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
唯 識派の一乗思想に つ い て (松本)
(
7
) え られ て い る。 し か し,因 とは 言っ て も, 火か ら煙 が生 じ る とい うよ うな単
な る 原 因で は な く, そ れに 依存
して 何かが生 じる と こ ろの もの とい う意味
で , あ く ま で も10cus
の 意味
を失
っ て は い ない。 こ の 点は , 記述
〔29
〕 だけでな く, 記 述 〔27
〕に おい て も, 「〜 に 依 存 し て 」 とい う語がある こ とに よ っ て, 容 易 に 認 め 得るで あろ う。し か し
dhatu
の 語 義を最 も 明確に 示 すの は ,有名
な 『大乗
阿毘達磨経
』 の 〔30
〕無 始 時 来の 界は , 一 切
諸法
の〔
等
しい 〕 所 依で ある 。 そ れ がある とき, 一切の趣は あ り, また, 涅
槃
の証
悟も あ る。antidikaliko
dhatub
sarvadharmasamaSrayahi
tasmin sati
gatib
sarva nirv 邸 訌dhigamo
’pi
ca11
とい う
偈
で あろ う。 こ こ で ,dhatu
がlocus
の意味
で あ るこ とは ・ sama6raya とい う語
に よ っ て明 示 さ れ る が, それが そ の ま ま因 (hetu
)の 意 味を も もち得
るこ とが
tasmin
sati とい う10cative
absolute に よっ て示 されて い る。 即ち,gatih
と nirvapadhigamo とい う nominative case の名
詞に対 して ・dhstu
は tasmin とい う
locative
case を取 る もの , 即ち,locus
なの であるが, そ れ がtasmin
satl とい うlocative
absolute に おい て表 現 され る時 そこ に は単
に「存在 しつ つ あ るそ れに お い て 」 とい うだけで な く, 「そ れがある な らぽ」 とい う
意味
が加っ て t こ こ に 「因」の意
味が生 じるの で あ る。 従 っ て,dhatu
とい う 語に 「因」 の意
味がある とし て も, そ れ は10CUS
とい う第 一i
義的な意 味か ら派
生 し た もの と見るべ きで あ ろ う。さて , 本 論に もどっ て, 記
述
〔27
〕 〔28
〕を通 し て, 記述 〔3
〕 の 意 義を考察 し よ う。 そ こ に は,全
く唯
識 派 的 な三乗
真 実 説が述べ られ て い る。 即ち, 声聞
と 独 覚 と如 来(
又は菩
薩 ) とい う三者の 法 の界(
法 界 )は等
し い が, それに 依存
し て生 じる法, 即ち, そ れ を悟 る こ とに よ っ てその 三 者に 生 じる法は異な る, と い う説で ある。 こ こで法 とい うの が何
を指
して い るの か明
らかで は ない が, 記述
〔29
〕に 見 られ る様に , 三者 個々 の 「聖 法 」(Sryadharma
)を意味
する の であろ う。 とすれ ぽ, そ れ は 三 者 個 々 の悟 りを意 味す る と見て 良い であろ う。 記述〔
3
〕
で は, 三者に 同 一 の 法 界が 「乗 」 と呼 ぼれ るの で 「一乗
」で はあ
る が ,悟
りに 至 る道
又 は コ ース を 「乗」 と呼ぶ 一般 的理解
を適 用 すれ ぽ, これ は 全 く三乗 各 別 説 である。 即ち,唯識
説に おい て は, 法界
(locus
)の 同 一性 が諸 法(
super ・locus
こ の場 合は聖法 )の 別異 性を否 定 しない 。 否, そ れどこ ろか , その 別 異性
を確
立Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (
8
) 唯識 派の一 乗思想に つ いて (松本) する根 拠に な るの で あ る。以 上,
記述 〔
3
〕
の 所説
を考察す
る こ と に よっ て,唯
識 派 の 一乗思想の 基 本的構
造 が, 以 下 の図に 示 す 様に, 明 らか に な っ た と思われる。 ⇒ production 〔super −locus
〕
一・… 瞼 円 卿 く 曽 犀 閏巳 』 げ 四 同 目t
胃
蔓
。訂
げ 、穿
角籌
t
富 →冨
醫
寧
ユ冨
噌 日 含 =yanatraya
〔10CU5
〕
… … … … (hetu
)dharma
・dh
盃tu
= ekayanaなお 「諸
法 (
super −locus
)は異 なるが, 法界
(locus
)
は同
一
(
無
差 別)
で ある 。」 とい う説は ,唯 識
説と如
来 蔵 思 想 の い わ ぽ 共有
財産
で ある が , そ れ が如
何な る思 想 的淵 源を有
するか に つ い て は,稿
を 改め て論 じた い。II
声 聞 授 記の解 釈 につ い て
『法
華
経 』に おい て は ,Sariputra
を始め とす る声聞達
に仏
果が授
記さ れ る。 既に 見た様な唯識
派の 三乗 真 実 説 ま たは 三 乗 各別 説 に よる限 り, 声聞は声聞 の悟 りを得
るの であ
っ て , 声 聞が成仏
する こ とは あ り得
ない筈
であ る。 で は 唯識 派は こ の 問題
を どの様
に解
釈 した の であろ うか。 『法 華 経 』 も仏 説 と見 な されるか ら に は , い か に唯 識 派 とい え ど も,声
聞に成 仏が授記 された とい う事 実を否定す る こ と は で きない 。そこ で考え出された の が声 聞をい くつ か に 分 類す る方
法で ある。Vasubandhu
は 『法華経 論
』(
T
.No
.1519
)
に お い て 『法華
経 』 を註 釈 し て , 次の 様に述
べ て い る。〔
31
〕 声聞 人が授 記を得る と言 うの は ,(次の 意 味で あ る)。 声 聞に は四種あ る。 一は 決定 声 聞であ り, 二 は増上 慢 声 聞で あ り, 三 は 退 菩 提心 声 聞であ り, 四は応 化 声 聞で ある。 こ の 中で, 二 種の 声 聞に
如来
は授
記 した。〔
そ の 二 種 とは〕応 化 と退 已
還
発 菩 提心 とで ある。 決 定 と増上慢
の二種
の声
聞は根
が未熟
であ
る 一305
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 唯識 派の一乗 思 想に つ い て (松 本) (
9
)か ら,
〔
彼等
に は〕 授 記を与 え なか っ た 。(
T
.Vo1
.26
,p
.9
a15
−19
)即 ち, 声 聞に は , 決定 声 聞 と
増
上慢
声聞 と退 菩 提心 声 聞と応 化声 聞の 四種があ り,後
二者
の み が成
仏でき
る の で彼
等に授記
し た , と主張す
る の であ
る。 周 知の如
く, 同様の 「四種 声聞」説を説 く記述
は , 『大宝 積 経 論』 に も見 られ るが C19) , (KPT
,P
.No
.5510
)
そ れ とほ ぼ同 一 の 記述
が ,Yagdcarabhtimi
(YBh
,D
. ed .Nos
.4035
−4042
) のViniScayasarpgraha4i
セこ も存 す る(19) 。 以 下に, 『大宝積 経 論』 を参 照 しつ つ ,YBh
の その 個 所を訳 出し よ う。 〔32
〕
声 聞は
何
種あ るの か。 … …声 聞は 四種で ある 。 … …変 化 声 聞 (sprulpahi
fian
thos)
と増
上慢
声聞 (mhonpahi
ha
rgyal cangyi
fi
.)と廻 向菩 提 声 聞(
byah
chub tuyohs
su辱gyur
ba
覃
i
fi
.)
と一向趣寂
声 聞 (shiba
駈
bgrod
pa
gcig
pabi
fi
.)
とで あ る。そ の 中で,変化 声 聞は,衆 生を教化 する た め に菩 薩 ”(20)ま た は如
来達
”(2°)が化 作 した もの で ある。 そ の 中で , 増上
慢
の声 聞は , 人 無 我 知の み と, 法 無 我に誤 っ て
執 着
す る知
に よ っ て, (21)t一清 浄
な もの を分別
するa−C21) もの であ
る。そ の 中で, 廻 向 菩提 声 聞は , 最初だけは
(
dah
po
fiid
nas ,adita
eva)
慈悲の 非
常
に 小 さい 種 姓を もつ もの であっ た が,如
来に 親 近 するこ とに よっ て,広 大な仏 法は功 徳で ある とい う想(22)を
修
習
す る相続
を もつ もの となっ た の で ,彼が究 極 的な もの とな り, 無 漏 界 (zag
pa
rnedpahi
dbyihs
, attasravadhatu)
に
住
し て も, 諸 仏が〔
彼
を〕勧
め,悟
入 させ , 方 便を 示 すの である。 彼は こ の様に 大 菩 提を成 就す る け れ ど も,c23)”寂 静を愛 好 する (shiba
Ia
mhonpar
dgah
ba
, §amabllirata )の で,
彼
は その 加行
(sbyorba
,prayoga
)
に お い て ,理 解が非
常
に 遅い もの(
rtogspa
§in
tubul
ba
,atidhandhagatika
)
であ る。初 め て発心 し た は:か りの (
dafi
po
semsbskyed
pa
,prathamacittotpadika
),仏の種 姓を もっ た もの に も, そ の 様な こ とは ない ”’(23) 。
その 中で , 一 向趣
寂
声 聞は , 本 来(
adita
eva)慈悲
の非常
に小
さい種姓
を もっ て い るか ら, ま た
全
く (gcig
tu)
衆生の 利 益 〔を なす こ と〕を回避 す る(
miphyogs
pa
)か ら , ま た苦を 恐 れ る か ら, 涅 槃に 住 す る意楽 (bsampa
,譌aya )を もつ もの とな り, 大 菩提 を成 就 す る可 能 性 (skal
ba
)
の ない もの で あ る。(
YBh
,Zi
,113b7
−114a6
)『
法 華経
論』 の 決 定 声 聞,増
上慢
声 聞, 退菩 提心声 聞, 応 化声
聞がYBh
の 一 向趣 寂 声 聞, 増上慢声
聞, 廻 向菩提声 聞, 変化声 聞に 対 応 す るこ とは , 言 うま でKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty (10) 唯識 派の一乗 思 想につ い て (松本) もない 。 し か し
唯
識派
に お い て 「四種声
聞」 説 が成立す る以 前に , 声 聞を 廻 向 菩 提 声 聞と一向
趣寂
声 聞の 二 つ に分け るい わ ぽ 「ご 種 声 聞 」 説が存在
し て い た よ うに思わ れ る。 それは , 次の様に 『解 深 密経』 (Sanzdhinirmocanastitra
,SN
,Lamotte
ed .)に 見 られる の であ る。 〔33
〕
一切
の仏
が精 進
して も,声
聞の種姓
を もっ た, 一 向趣寂
の 人(
gah
zag )を, 道 場 (
byah
chubkyi
sfiifipo
)tl
こ坐 らせ て,無
上正等覚
を得
さ せ るこ とは で きない の である。 それは 何 故か と言 う と,
彼
は, 慈悲
(sfiifi rje)
が非 常に小 さ く, 苦 を非 常に 恐れ るの で , 本
来
(rahbshin
gyis) 劣
っ た種
姓の 者(rigs
dman
pa
)
に 他な ら ない か らで ある。 彼は, 慈 悲が小さい 様に , そ の 様に 衆生の利 益を なす こ とを全 く回避 する。 〔また〕 苦を非
常
に恐 れ る様に, その
様
に一 切の 行為
を なす こ とを全 く回避 する。 衆 生の 利益を なすこ とを全 く回避 し, 一
切
の行為
を なす
こ とを全 く回避
する者は , 私に よっ て無上正 等覚
に授記さ れ なか っ た の で ある。 故 に , 一 向趣 寂 と言わ れ るの で
あ
る 。廻 向菩 提 声 聞 (
fian
thosbyafi
chubtu
yohs
suhgyur
ba
) な る もの は ,私
に よ り異門
(rnamgrahs
)
に よっ て, 菩薩
であ ると示される。 何 となれぽ,彼は
煩悩 障
か ら解脱
し, 如 来達
に よっ て勧め られ るな らぽ, 所 知障
か ら心 を解
脱 させ る か らであ る。 彼は , 最 初は (
dah
por
,aditas
) 自己 の利
益に お い て加行 す る行 相
(
rnampa
,akara
) に よっ て煩 悩障
か ら解 脱す る。 故に ,如来
は ,彼を, 声 聞の 種 姓を もつ もの と仮 説 する の で ある (
hdogs
so)。(
SNS
,p
.74
.)「四種 声 聞」説が 「二 種 声 聞 」
説
か ら発
展 した こ とに,疑
問の 余 地は ない であ
ろ う。 即 ち, 三 乗各別 説, 換言すれ ば 「声聞は成 仏 しない 」 とい う立 場に 立つ唯
識 派は, 『法 華 経』 の 声 聞 授 記 とい う事 実を解釈 す るに は , 成 仏 しない 声聞 と し て の 一 向趣寂
声 聞 と, 成仏す
る声 聞と して の廻向菩 提声聞
を区 別 し,後
者に の み 仏 果が授 記さ れた と解釈せ ざるを得なか っ た の であ るが, 後に は 声 聞の 分 類が更 複 雑 化 して い っ た の である。で は , 廻 向
菩
提 声 聞 とは 一体
何な の か 。果
して彼
は声 聞
であるの か。 こ れが, 筆 者が本 項で 究 明し た い と考
え る 問題で あ る。 こ れに つ い て, 筆 者の 結 論を先に 述べ て お こ う 。 簡単に 言 え ば ,筆
者は , 廻 向菩 提 声 聞 と は, 声 聞で は な く菩薩
で ある, 即 ち,菩
薩の 種 姓を もっ た もの である と考え る。 で は 何 故に こ の 様に 考え得
るの か。 それは,諸
文献
に おい て廻 向菩 提 声 聞の 性 格 を 考察 す るならぽ 自ず と 明らか に なる が, まず, 記 述 〔32
〕 〔33
〕
に おい て 廻 向菩提声
聞が どの 様に説 明 一303
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
唯 識派の一乗思 想に つ い て (松本)
(
11
) されて い る か 見て み よ う。 記 述 〔32
〕 〔33
〕に共 通 して言 えるこ とは ,廻 向菩
提 声 聞は,最
初は声 聞であっ た もの が,如 来
に 親 近 する こ とまた は如
来の加 護に よ っ て大乗
に転
向する もの で ある とい うこ とで あ り, それは, 「菩
提に 変わ る声 聞」 ま た は 「菩 提に 廻 向する声 聞」 とい う名 称 自体
が指示 す る性格
で ある。 ただ, 最 も問 題なの は, 廻向菩
提 声 聞は , 声 聞(
小乗)
の種
姓を も つ の か , それ と も菩
薩(
大 乗)
の 種 姓を もつ の か とい う点で ある。『解 深
密経
』(
記 述 〔33
〕
)の 説 明を見 る と, そ こ に は , 廻 向菩
提 声 聞は, 「異門
に よっ て菩薩
であ る と示され る 」 と出でい る。 その 意 味は 良く
理解
で きない が, 「声 聞の 種姓を もつ もの と仮
説 す る」 とい う記述
と対
比す
るな らぽ, 本来
は菩
薩 の 種 姓を もつ もの であ
る, と説か れて い る様に思わ れ る。で は ,
YBh
(
記 述 〔32
〕)の 「最 初だけは , 慈 悲 の 非 常に小 さい 種姓
を もつも
の であっ た が 」 とい う説 明は ,如
何 な る意味
か 。 「慈悲
の 非 常に 小 さ い種 姓
」 と い うのが小 乗の 種 姓であ るこ とは明
白で ある。 故に , こ れは 最初, 小 乗の 種 姓で あ っ た もの が大 乗の種姓
を もつ もの に変わ る, とい う意味
に 解釈 しなけれ ぽ な ら ない であろ う。 し か し, 種姓が 変わ るこ とを 認 め るな らば,唯
識派 の 三 乗 各別 説 は 成 立 しな くな るの で ある(24)。さて
YBh
,Vini
§cayasarTigraharPi で は , 「有 余 依及 び無余 依の地 の決 択」 の章
に至 っ て廻 向声 聞
の問
題が集
中 的に 取 り上 げられ るが, そ こ で は次の 様に廻
向 声 聞の もつ 種 姓が考察 され てい る。〔
34
〕
(質 問 ) 廻 向菩 提 〔
声
聞〕
は, 最 初だ け (adita
eva )(25) 声 聞の 種 姓を もつ もの で ある と
述
べ られ るべ きか , それ とも最 初か ら (adita
eva ) 菩 薩の種姓を もつ もの で ある と述べ られ るべ きか。
(
答 )〔
彼
は〕 その種姓
が決 定 し て い ない もの (mahes
pa 与
i
rigs can ,aniyatagotraka , 不定 種
姓
)で ある と述
べ られ るぺき
であ
る。 (YBh
,Zi
,126
a5−6
)即ち,
廻
向菩 提 声聞 の 種 姓は決定 し て い ない , と され るの で ある。 しか し ,種
姓が決 定 し てい ない とい うの は, 三乗各
別の 立場か らす
れ ば, 不徹底
の感
を免
れ ない様
に 思わ れ る。MSA
(MSABh
)
にも
, 廻 向菩
提 声聞
は, 「種 姓の決 定 し て い ない もの 」と し て述
べ ら れて い る様 であるが , しか しその 議 論は か な り難 解であ る。 まず
Maha
−yanasa
ηzgraha (MS
,Lamotte
ed .)
に 引用されたMSA
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
12
) 唯識派の一乗思 想に つ い て (松 本)の
gotrabhedatah
…ekayanata をAsvabhava
:
は,
Mahdy
あnasampgrahoPan ・ibandhana
(MAU
,D
. ed .No
.4151
)に お い て ,〔
35
〕「種 姓の 区別 に もとつ い て 」 とい うの は , 種 姓 が 決
定
し て い ない か らである。 廻 向
菩
提 (byah
chub tubshos
pa
) 〔声 聞〕達は, 声 聞の種 姓を もつ も
の である とし て も, 仏 の 種 姓を もつ もの に
変
わ る。 故に, 一乗 性があるの であ
る。 (
MSU
,Ri
,293a4
)
と註 釈 してい る。 従 っ て,MSABh
(
記述 〔
6
〕)
の 「声
聞の種
姓が 決定 し てい ない もの 」(
aniyata §ravakagotra )が , 廻向菩
提 声 聞に相 当す
るこ とが理 解 され る。確
i
か に, 記述
〔6
〕
の 「声 聞の種
姓が決定 し て い ない もの」 が, 如 来 等と の 親 近を 通 じて小乗
か ら大 乗に 転 向す る廻 向菩提声
聞の 性格を もつ こ とは, 記述〔
6
〕
に対 するSthiramati
のStZtr
δla2
?zleδrav .rttibh δ5ya
(
SABh
,D
. ed .No
.4034
)に お ける次 の様な註釈 を見て も容
易に理 解さ れ るで あ ろ う。 〔36
〕 種 姓が異な っ た もの(
rigsthadad
pa
)達
が, 一乗 〔= 大 乗 〕に よ っ て仏にな る の で, 道
(
lam
, mtirga )が 一つ で ある か ら, 一 乗で ある と説 明された。 即 ち, 菩 薩の 種 姓が決定 し た もの (
byah
chub semsdpabi
rigshes
pa
,niyatabodhisattvagotra ) と菩 薩 の種 姓が 決定 し て いない もの (
byah
chubsems
dpabi
rigs mahes
pa
, aniyatabodhisattvagotra )が, 大乗に 入 っ て成仏を得 る様に , 声 聞の 種 姓が
決
定 してい ない もの (fian
thoskyi
rigs mahes
pa
, aniyataSravakagotra ) 達は , 以前は 声聞の 行 (spyodpa
)を行
じてい た が,
仏
ま たは菩薩
の善
知 識 (kalyapamitra
)と会っ て か ら,声 聞の 行を捨て , 大 乗の 法を
行
じて仏
に な る。〔
故に 〕 大 乗 だ けの道
に よ っ て覚
る か ら, それ を意 趣 して
乗
は 一つ と 〔仏に よっ て〕説
かれ た, とい う意 味で ある。種 姓が何 故 「乗」 と言われ るの か , と言 え ぱ, それ 故に 〔それ に
答
え るために
〕
「行 く手 段が乗で ある と考えて 」 と言っ た の で ある。 こ の種姓は , 菩 提に発心 させ
菩薩
行を行 じ させ て仏 とな らせ る の で,種姓
を 「乗 」 と仮説
した の である。 (
SAVBh
,Mi
,197a5
−b1
)しか し, こ こ で再び, 廻 向菩 提 声聞 の もつ 種 姓は何か, とい う問題 意識に立ち 返えろ う。 こ の 記 述 の前 半は , 理解 しやすい 様に 見え る。 即 ちそ こ で は , 菩 薩の 種 姓が 決 定 し た もの と決 定 し な い もの が 大 乗に よっ て 成仏 す る様に , 声聞の 種姓 が 決定 して い ない もの , 即ち, 廻
向
菩提 声聞 も大乗 に よっ て成 仏 す るか ら, 乗は大乗
一つ で ある と説かれて い る。 こ の説 明
は , 記 述 〔6
〕 と内
容 的に合 致 し て い 一301
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
唯識派の一乗思想に いつ て (松本)
(
13
)る。 即ち
記 述 〔
6
〕
に は , mahayanena niryapatyanti
tena
yanamiti
k
τtvaとあ る が,
instrumental
で 示 され る 「行 く手 段」が具体的 に は 大乗 (mahEyEna ) を 示すこ と は, 確 実で あろ う。 し か し, 記述
〔32
〕の後
半に は, 全 く突
然に 種姓
が乗で ある, と説か れて い るの で ある。 「種 姓が乗
であ る。」 とい う理解
は,Asvabhava
のMSU
に も見 られ る(26)。 で は , 種 姓が乗で ある とい うこ とと,
gotrabhedatab
… … ekayanata とは どの様に 結びつ くの で あろ うか 。 もし,gotra
−bhedatah
を 「種姓
が 異なる か ら」即ち 「種 姓 が 個々 別々 で あ る か ら」 と訳
すな ら, 種姓が
乗
(yana
)で あ るとする とき,gotra
・bheda
か ら帰
結す
る の はekayEnatA で は な く, む しろ nanayanata (多 乗 性)で あろ う。従 っ て,
gotrabheda
を
la
diff6rence
des
gotra
(27)と訳 す るの は , 不適
切だ と思わ れ る。で は ,
gotra
・bheda
の 意 味は何か。Vasubandhu
は ,Mahdyanasaptgraha
−bhae
ツa(
MSBh
,D
、 ed .No
.4050
)
に お い て,MSA
XI
k
.53
の 当該 部 分を註釈 して ,
〔
37
〕 gotra
−bheda
を もつ もの , 即 ち, 種 姓が決 定 し て い な い 声 聞達
が仏にな るこ とを意
趣
して 一乗 性が示さ れ た の で ある。(
MSBh
,187a7
−bl
)
と
述
べ て い るが, こ こ で始め て 「声 聞の 種 姓が決定 して い ない もの」 とgotra
・
bheda
との 二 概 念間 の 関係を確 認 し得た と思われ る。 即ち,gotra
・bheda
を もつ もの が, 「
声
聞の種
姓が決 定 し てい ない もの 」 なの で ある。従
っ て ま た, 記 述 〔36
〕
冒 頭の 「種姓
が異 なっ た もの 」 も, 様々 の種姓
の もの を 指 すの で は な く, 「声聞 の 種姓が決定 して い ない もの 」だけ を 示すと見るぺ きで ある。で は ,
gotra
・bheda
とは何で あ り ,gotra
とは何で あ るの か。 結論 よ り言おう。
筆
者は,gotra
−bheda
とはgotra
か らのbheda
(the
difference
from
the
gotra
)であ り,gotra
と は 大 乗 (mahayana ), 即 ち, 大乗 の種 姓で あ る と考える。 そ して , 筆 者が こ の 様に 考え る第一 の 理 由は, 第
1
項の 冒頭に示 し た 記 述〔
25
〕
に存
する。記 述 〔
25
〕
は,本来
,〔
38
〕 仏に対
し, ま た法に 対し て の軽侮
と,懈怠
と,少
量 の み に よる満 足 と,貪
にお い て, また
慢
に お い て の悪 作
と, 不決
定 な もの の区別 (aniyata ・bheda
, 皿 ahes
ldog
Pa
)は , 諸 の 衆生 の 障(
avarapa
)で あ り, そ れ の 対 治 (pratipak
§a)
は,
最
上乗 (
agrayana)
〔 ==大乗〕
の説
示(
sa 甲bha
鼻
a)
であ
る。(
MSA
,XII
,k
.19
−20ab
)
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
(
14
) 唯識派の 一乗思想につ い て (松本) か。 それに つ い て は,MSABh
に 次 の様
な説 明 が ある。〔
39
〕 そ の 中で ,「不決 定な もの の 区別一1
とは , 不決 定な (aniyata ) 菩 薩 達の ,大 乗 (mahayana )か らの区別
(
bheda
)で ある。 (MSABh
,83
,18
−19
)そ して , こ の 「不決 定 な菩 薩」に つ い て ,
Sthiramati
は次
の様
に 説 明し て いる。
〔
40
〕 菩 薩の 種 姓を もち不 決定な もの達
(byah
chub semsdpahi
rigs mafies
pa
dag
,bodhisattvagatra
aniyatah )は, 以
前
は菩薩
の行
(spyodpa )
を行
じて い た が, 後に 声 聞 等の 善 知 識 と会っ て か ら, 「無上菩
提
は, 三 阿僧
祗劫
にお い て完 成 し なけれ ばな らない の で, 自己 の 三 寿
命
だけの 間完
成 し て,声
聞の果を 取ろ う。」 と考 えて , 菩 薩 の行を捨て て , 声 聞の 行に 入 っ た もの で あ り,
「不
決定
なも
の 」 と言わ れ るの であ
る。 (SAVBh
,Mi
,244a4
−5
)即 ち, 記 述 〔
39
〕で 「不決 定な菩 薩」 と言 わ れ た もの は, こ こ で 「菩薩 の 種姓 を もち不 決定な もの 」 と言い か え られ て お り, 彼は, 大乗か ら小乗に 転 向す る と い う意 味で ,記述 〔
6
〕
の 「声 聞の 種 姓が決 定 し て い ない もの 」, 即 ち, 「廻 向菩
提 声 聞」 に 相 当する もの と全 く逆 で ある様
に 見 え る。 そ し て , こ の 様な 種姓が決 定 し て い ない 二 種の もの は , ま さに記 述 〔13
〕に示 され る二 種 の不 決定な もの に 他な らない の であ る。し か し, こ こ で註 釈を離れ ,
MSA
の偈
文の み に お い て 考えて見 よ う。 果 し て, 記 述〔
12
〕
, 即ち,MSA
XI
,k
.54
に, 不決定
な もの の 二 種がそ れほ ど明確
に 区 別 され て説かれ て い る だ ろ うか。 筆 者は そ の 様に は考え ない 。 始 め は , 単に, 廻 向菩提声聞 に 相当 す る 「種 姓が 決 定 しない もの 」 (aniyata −gotra
)とい う一群の 人々 が
想定
さ れ て い ただ けであろ う。後
にそ れ が, 声 聞の種 姓 を もつ もの と菩 薩 の種 姓を もつ もの の 二 種に分 類 され た ため に ,様
々 の 矛 盾 も生 じる こ と に な るの で ある。 例え ば, 記 述 〔13
〕に依 存 し た と し て も,MSA
XI
,k
.54
で は , 一乗
性の 説示は 二 種の不 決 定な もの の い つれ に 対 し て もな される はず
で ある。 し か る に , 記述
〔25
〕を記 述 〔39
〕に 依存
し て解 釈す るな らぽ, 菩 薩の 種姓 を もっ た 不 決 定 の もの だ けに 一乗
が説か れる こ とに な る。 何 故な らば, 記 述〔
25
〕
の 「不決 定な もの 」 を記述 〔39
〕で は , 「不 決定 な菩 薩」 と解 す る か らで あ る。 そ の こ と は , 記 述〔
25
〕に 対 す る次の 様 なAsvabhava
の 註 釈に よっ て知 られ よ う。〔
41
〕
菩薩
の 種 姓を もち不決
定な もの は,菩
薩の行
を行じてい た が, 不善
知 識に会 っ た の で, そ の菩 薩 の 行を捨て て , 声聞 の 乗に よっ て涅 槃 し た い と望む の で 一
299
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty 唯識派の一乗思想につ い て (松本) (
15
)あ る。
彼等
に とっ て劣乗
(theg
pa
dman
pa
)に 趣 き, 落ち る こ とが, 障であ り, そ れ の対 治 と して
Arya
−SaddharmaPur4arilea
等に お い て, 「乗は 一つ だけであ り , 第二 の もの は ない 。」 と 一乗も説か れ , 大
声 聞達
も仏 果
に 授 記された の である。 声 聞の 授 記 と 一乗の 説 示を
聞
い て ,菩
薩の種 姓を もち不決 定な もの 達は , 声 聞の 乗を捨て て , 大 乗だ け を修 習 し, そ れ だ けに おい て加 行 す
るの である。
(
MSAT
,Bi
,108b2
−4
)即ち, ここ で は, 声 聞の
種姓
を もっ た 不決 定 な もの に は , 一乗
は 示 さ れ てい な い の で ある。 しか し記述
〔25
〕に 対 するSthiramati
の 〔42
〕こ の 様に 〔一乗 と声 聞 授 記が〕 説 示 され たこ とに よっ て,決 定 し て い ない
種 姓を もつ もの
(
aniyatagatraka )は次 の 様に 考え る。 即 ち, 「こ の様
に 乗 が 一つ だ けで あ り, 大声 聞達 も成 仏 するな らぽ,
声
聞の 乗に 入っ て何に なろ うか。最初
か ら大乗
に 入 るべき
であ
る。」 と, この様に考
えて大乗に 入 るこ とに なるの で ある。 (
sABh
,Mi
,246b5
−6
) とい う註
釈を見 ると, こ こ で 「決 定 し て い ない 種 姓を もつ もの 」 とい う語
に よっ て考慮
さ れ て い るの は, 必 ず しも, 「菩薩
の 種 姓を もち不 決定 な もの 」 だけで は ない 様に思われ る(28) 。 い ず れに せ よ, 不 定種 姓を二 種に 分 類 するMSABh
の 解 釈は ,MSA
の 「決 定 して い ない もの 」(aniyata ) とい う言葉
の 本 来的な意 味を 伝えてい ない と思われ る。そ こ で 以 下に, 不 定
種 姓
を二種
に分類
す る方
法だけを除い て ,MABh
等に依 りつ つ ,MSA
,XII
,k
,19
の aniyata ・bheda
とXI
,k
.53
のgotra
・bheda
の 意 味を探 求 して 見 よ う。 まず, aniyata
−
bheda
とは, 記 述 〔
39
〕に よ っ て, aniyata な もの にあ
る mahayEna か らのbheda
であ
る。 〔そ してそのbheda
を対 治 す る もの が一乗及 び声 聞授 記の 説示 で あ る。〕 次に ,gotra
−
bheda
とは , 記述 〔37
〕に よれ ぽ, aniyata な もの に ある もの である。 従っ て,
gotra
と mahayana が同一 である とすれば,
gotra
・bheda
とは ,gotra
か らのbheda
で ある と考え ざる を得
ない 。 しか るに ,gotra
が mah5yana で ある こ とは , 記 述 〔36
〕
の後
半で 「gotra
がyana
である」 と述べ られてい る こ とに よっ て 示 され て い る。 即ち, そ こ でgotra
は , 菩提に 発心 させ 菩 薩 行を 行 じさ せ成 仏さ せ る もの と規 定されて い る か ら, そ の
様
なgotra
は rnahayana のgotra
であ
る と し か考
え ら れない ので ある。 故に ,
gotra
・
bheda
とは, aniyata な もの に ある,