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第 2 章 計画経済体制に対応した社会保障制度の設計

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第 2 章 計画経済体制に対応した社会保障制度の設計

1949 年の建国以来、中国経済は社会主義公有制を基礎として、国の計画に従って発展し てきた。生産手段の公有制と政府による指令性経済計画は計画経済の特徴であるといわれ ている。指令性経済計画が実現でき、30 年以上も維持されていたのは、統収統支が中心と なっている財政制度が徹底されていたからである。

本章において、計画経済体制に対応した制度設計を分析しながら、計画経済期の社会保 障制度の形成と特徴を解明する。

第1節 計画経済体制における制度設計

建国初期の中国は旧ソ連の成功を学び、重工業を優先させる経済発展戦略を選択した。

その戦略を選択した理由とその過程について、南(1990)、林他(1997、1999)、中兼(1999)

などが詳細に論じている。本節では、重工業優先発展戦略をやり遂げるために主要な制度 はどのように設計されたか、また、その仕組みはどのようなものであったかについて明ら かにしたい。

1.重工業優先発展戦略をやり遂げるための制度設計

これまでの先行研究が指摘したように、中国の経済発展の初期段階において、①資本が きわめて不足していたこと、②産業構造における農業の割合がきわめて大きかったこと、

③技術力が非常に低い水準にあったこと、④貧困者の割合が大きくて、人口構造の圧力が 高かったこと、などの事実が重工業発展を制約していた1。そこで、中国政府は重工業を優 先的に発展させるために、外部環境の整備を市場調整に頼らずに人為的に行うことにした。

人為的に外部環境を改善するために、中国政府は農業・手工業の社会主義集団化と私営 工商業の国有化を進めた[伊藤(1998)、p.2]。つまり、農村部と都市部における生産主体 を集団化・国有化にすることである。農村部においては、人民公社2の創設で農業従事者で ある個人農を共同体的な集団組織に所属させることによって、農業の計画化を実現させた。

1 林他(1997、1999)、馬(1982)、李(1987)、中兼(1999)などの先行文献に詳細な記述がある。

2 農村部において、人民公社は農業生産の経営主体だけではなく、大型機械・農具のリース業のほかに、

機械修理工場や農産物加工工場などの工業企業、病院、学校、水利工事、道路建設などにも手掛けていた。

それらの事業によって、人民公社は農村部の資金を吸い上げ、資本蓄積ならびに重工業発展に貢献した。

(2)

一方、都市部においては第 2 次産業を中心とする非農業従事者を国有企業に所属させるこ とによって、容易に政府による統一管理ができるようにした。このように、農村部と都市 部において計画体制を成立させることによって重工業優先発展のための大前提である資本 蓄積を可能にすることができるようにした。

(1)人民公社

人民公社はスターリンによって作り上げられたコルホーズ3を参考にして、1958 年後半 に一気に創設された一種の共同体である。人民公社は、公社―生産大隊―生産隊という 3 段階の生産共同体で構成されており、おおむね 2,000~3,000 の世帯を抱えていた。生産隊 は基本採算単位であった。人民公社は行政機関と生産経営体の両方の役割を果たしており、

農村部における末端権力機関である。人民公社のトップ管理者は国家幹部の身分をもち、

上級行政から派遣された官僚役人であり、必ずしも地元の人ではなかった。彼らの給料は 財政予算から支給されていたのに対して、生産大隊や生産隊の幹部らの給料は所属する共 同体からもらうことになっていた。後者は豊凶によって給料が変動するが、前者はそのよ うなことがない。人民公社の創設によって、小島(1988)が指摘しているように、「国家は、

中国史上初めてといえるほど、社会の末端まで掌握することを可能とした」[小島(1988)、

p.72]。

中国の政権にとって、農村部の末端まで制御できることは資本蓄積のために大きな意味 を持つ。つまり、第 1 に、人民公社の徹底的管理と戸籍制度によって、農村人口の自由移 動が厳しく制限することができる。農村人口の都市への大量移動が生じなければ、都市部 労働者(主に重工業産業に配置されていた者)とその家族を養うための食糧生産が確保で きる。一方、過剰な農村人口の都市への流入を阻止することによって、都市部の国有企業 における雇用の拡大による財政負担の増大を避けることもできる。第 2 に、国は人民公社 を通して、生産品目と生産量を指示し、低価格で買い取り、それを海外輸出に向けるか工 業製品の原材料にすることができる。輸出によって獲得した外貨で重工業に必要な機械設 備を輸入し、工業製品の高額販売によって集めた資本を蓄積する。この過程について、小 島(1988)は「社会主義建設の原始蓄積過程」と呼んでいる[小島(1988)、pp.69-70]。

3 コルホーズとは、「200~300戸の農家が土地、役畜等をもちよって、協同経営する」組織である[小島

(1988)、p.65]。

(3)

(2)国有企業

一方、建国初期における官僚と資本家資本の没収および民族資本の社会主義改造を通じ て、政府は第 2 次・第 3 次産業における固定資産のほとんどを社会主義全民所有にした。

つまり、かつての官僚企業や民間企業を国有企業に変えたのである。人民公社による支配 の仕組みと同様に、企業の国有化に成功したことは国家が都市部の末端まで掌握できるこ とを意味する。企業の国有化は「所有に基づく搾取制度をなくした」4というより、「経済 資源の集権的配分・管理」[林他(1997)、p.20]を可能にする計画経済体制の土台を作り 上げたのである。重工業優先発展戦略を遂行するために、資本をはじめとする生産要素を 国の思うように配分させなければならない。生産物の分配も同様に国の計画通りにさせな ければならない。企業を国有化することは、これらの目的を達成するために最もよい方法 であったと考えられる。

建国初期に作り上げた企業の所有形態は国有と集団所有に分けられ、1980 年代までには、

国有は圧倒的な存在であった。しかし、いずれにしてもその形態は公的所有である。その ため、国有であれ集団所有であれ、企業は政府管理のもとにおかれ、経営上の重要な権限 はすべて政府が持っており、政府の指令に基づいて生産と販売を行っていた。国有企業は さらに中央政府所轄の国有企業と地方政府所轄の国有企業に分けられている。国有企業は それぞれの主管政府部局の指令ないし計画通りに生産・販売をしており、自主権がまった くなかった。政府特に中央政府は、企業の国有化を通して重工業発展のために計画通りに 企業を支配することができた。その反面、企業経営の効率性が問われてきた。

以上述べてきたように、人民公社と国有企業は、中国社会の二大組織である。この二大 組織の確立によって、中国の社会と経済はともに政府の計画通りに運営されていた。この 二大組織が思う通りに機能するために、さまざまな制度が設計された。そのなかで、統収 統支という高度集権的な財政制度が最も中心的な存在であった。

2.統収統支の財政制度

この項において、統収統支の財政制度の形成とそれによって確立された中央政府と地方 政府との間の財政関係、政府と国有企業間の財政関係などについて分析していく。

4 黄孝春、「国家所有とは何か」(http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/nation/2kou.html)を参照。

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(1)中国における行政組織

現在の中国の行政組織は建国初期にほぼ完成したものであり、5 つの段階に分けられて いる。それは、中央、省、市、県、郷である。2002 年末現在、1 級行政区の省・直轄市・

自治区の数は 315、2 級行政区の地区・地級市の数は 332、3 級行政区の県・県級市の数は 2,860、4 級行政区の郷・鎮・街道の数は 44,774 である[『中国統計摘要 2003』、pp.1-2]。

すなわち、4 つの地方行政組織の合計は 4.9 万あまりに及ぶが、中国でいう地方政府は曖 昧な概念で、一般的に 1 級行政区の省級を指している。地方政府に対するこのような理解 は、日本をはじめ先進諸国の事情と異なっている。この点を留意すべきであろう。また、

図表Ⅱ-1 の矢印が示しているように、下位行政区は上位行政区に対して従属的な関係に ある。

図表Ⅱ-1 中国の行政組織

省 (22) 自 治 区 (5) 直 轄 市 (4)

地区・自治州(盟)・地区級の市(332)

県・自治県・県級市・市級区(2,860)

郷 ・ 鎮 (44,774)

中 央 政 府

注 :()内の数値は 2002 年末現在の数値である。

出所:『中国統計摘要 2003』より作成した。

中国における巨大な行政組織はタテとヨコの関係で機能してきたといわれている。タテ の関係とは中央と地方のことで、中央政府レベルの各部・委員会→省レベルの庁・局→地 区・市レベルの局→県レベルの局という縦の従属関係である。このタテの関係における相 互の上下関係は、業務上の指導関係である。これに対して、ヨコの関係とは地方の行政組 織内部のことで、地方政府と各部局との関係である。この場合には、地方政府の各部局に おける人事の任免、賃金・住宅・福利厚生などは地方政府によって管理されている。四川 省財政局を例にとって見よう。例えば、四川省財政局は中央の財政部より救済費用の規模

5 1級行政区に香港特別行政区、マカオ特別行政区、台湾も含まれるべきであるが、これまでの経済分析 において、その 3 つの地域は大陸の 31 の地域から独立して扱われるのが一般的である。

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と項目を受け、それに従って業務を行う。これは地方と中央におけるタテの関係である。

しかし、実際の業務に関しては、現実の状況に従って、地方首脳からより細かい指令を受 けるのである。これは地方行政組織間におけるヨコの関係である。タテの関係により、ヨ コの関係はより直接的な命令関係であるが、中央集権の度合によってその関係も微妙に変 わる。つまり、計画経済時期においてはタテの関係が強化され、権限が中央に集中されて いたのに対して、改革以降においてはヨコの関係が強くなり、地方分権の傾向が顕著にな っている。現在、このようなタテとヨコの関係は、地域格差を生じさせる一因であるとい われている。

(2)統収統支の財政制度

1980 年代まで、中国の財政制度は基本的に統収統支・高度集中管理の原則のもとで行わ れていた。統収統支とは、①一切の収支項目、支出方法と支出指標をすべて中央が統一的 に設定すること、②一切の財政収支はすべて国家予算に組み入れられ、収入はすべて中央 に上納され、支出は中央から支給され、年度末の余剰金も基本的にはすべて中央に上納さ れること、③財政的権限は中央と大行政区6に集中しているが、中央を主とすること、であ る[南部(1991)、p.9]。日本の財政制度と比べて、統収統支の財政制度は次の 2 点におい て大きく異なっていたと思われる。第 1 は、中央と地方の財政予算は統合されており、一 本化されていたことである。第 2 は、税種・税収・支出に関するすべての権限は中央政府に 集中され、地方政府が中央政府の出先機関としてしか存在していなかったことである。改 革・開放以前の中国では、中央政府は資本の収集と分配に対して絶対的権力を持っていた。

地方政府が留保できる固定収入はわずかしか認められていなかった。

資本が欠如している状況のもとで、上記のような高度中央集権的な財政制度は重工業優 先発展戦略を遂行するための唯一の方法かもしれない。

(3)計画経済期の政府間・政府企業間の財政関係

前にも述べたように、計画経済体制において、政府は統収統支の財政制度を通じて、経 済運営を計画通りにさせたのである。実際に、統収統支は 2 つのルートで行われてきた。1 つは前項で述べた中央・省・市・県・郷という 5 つの行政区を通して、各級政府が下級政

6 中国が成立直後、全国を東北、華北、華東、中南、西北、西南の6大行政区に分け、軍政委員会を設け て、行政、軍事、経済などを管理した。大行政区の下に、いくつかの省・直轄市・自治区がある。1954 6月に、大行政区は廃止された。

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府に対する統収統支のルートである。もう 1 つは各級政府が管轄している国有企業に対す る統収統支のルートである7。いずれのルートにしても、最後に中央政府のもとに帰するこ とには違いがない。統収統支の財政制度は中央政府にとって安定した財源の確保ができた だけではなく、限られた資金を国民経済の必要な部門――重工業に投げ込むこともできた 一石二鳥の制度設計であるといえよう。

このように、計画経済期において、統収統支の財政制度によって、中央政府と地方政府 および政府と国有企業の従属関係がはっきり決められていた。

1)政府間の財政関係

前述のように、統収統支の財政制度において、財政収入と支出の権限は中央政府に集中 されていた。しかし、財政収入と支出に関する実務の大半は地方政府に任されていた。予 算一本化のもとで、地方政府は中央政府の出先機関として、中央政府の指令・許可に従わ なければならなかった。統収統支の財政制度における中央と地方政府間の財政関係は、図 表Ⅱ-2、3 に示されている。

1957 年まで、財政収入・支出に占める中央政府の割合はともに 70%以上になっており、

非常に高かった[図表Ⅱ-2]。一方、同期間における地方政府のそれはともに 30%以下とな っていた[図表Ⅱ-3]。この期間において、大型国有企業のほとんどは中央政府に帰属して いたことや中央政府による財源調達が強化されたことによって、財政収入と財政支出の度 合が極端に中央政府に集中していたことがわかる。このような政府間関係について、張忠 任(2001)は「集権・集中モデル」と説明している[張忠任(2001)、pp.69-70]。つまり、

財源の徴収および分配はともに中央に集中していることである。これは重工業の発展を遂 行するための高度集中の財政制度による結果であろう。しかし、1959 年頃からその様子は 一変した。1959 年から 1980 年まで、財政収入に占める中央政府の割合は 10-35%しかなか ったが、財政支出はそれよりかなり高い 40-65%の割合となっていた。地方政府に関して は、逆の傾向となっていた。すなわち、財政収入の割合は高かったが、財政支出の割合が 小さかった。時により、地方政府の財政収入割合が 90%まで達していた。張忠任(2001)

は、この時期の財政モデルを「分権・集中モデル」と呼んでいる[張忠任(2001)、pp.69-70]。

7 中国の国有企業は中央政府がすべて所有しているわけではない。中央政府が所有している企業もあれば、

それぞれのレベルの地方政府が所有している企業もある。1954 年に、中央所管の大中型国有企業は一時 的に 9,300 社あまりに増えたが、1958 年に、その数が 1,000 社台に激減した。1980 年に中央が所管して いる大中型国有企業の数は 2,000 社未満である[張忠任(2001)、pp.79-88]。ちなみに、2001 年末現在、

中央政府が管轄している国有企業数は 1.7 万社で、その総資産は 7.3 兆元に上るが、一方、地方政府所管 の国有企業数は 15.7 万社で、その総資産は 9.4 兆元となっている[『中国財政年鑑 2002』、p.394]。

(7)

つまり、財政収入の機能を地方政府に任せ、財政支出の機能は中央に集中させるというこ とである。

張忠任(2001)が示した「集権」・「分権」とは、財政収入に対する権限のことと理解す ることができる。また、「集中」というのは財政支出に対する権限であろう。つまり、「集 権」・「分権」とは、地方政府が財政収入に関しては主導できるかどうかということである。

たとえ地方政府が主導できる(分権)としても、税収・利潤上納収入の内容を決め、徴収 した資金をそのまま地方政府に留保することができるわけではない。地方政府にはあくま でも、税(利潤上納も含む)の徴収事務しか担当させられていなかった。他方、財政支出 に関しては、支出項目および金額の決定権は中央政府にあり、地方政府にはほとんどない。

1950 年代末から 1980 年代半ば頃にかけて、中央政府と地方政府の間において、中央政 府の統括機能と地方政府の出先機関機能が特徴であった。このような従属的な政府間の財 政関係が維持されていたからこそ、地域格差の問題はあまり見られていなかった。また、

社会保障制度の実施も中央政府の計画通りに均一的に行われていた。これについて後に詳 細に論じる。

図表Ⅱ-2 財政収入・支出に占める中央の割合(1953-80 年)

0 .0 1 0 .0 2 0 .0 3 0 .0 4 0 .0 5 0 .0 6 0 .0 7 0 .0 8 0 .0 9 0 .0

1953 1954

1955 1956

1957 1958

1959 1960

1961 1962

1963 1964

1965 1966

1967 1968

1969 1970

1971 1972

1973 1974

1975 1976

1977 1978

1979 1980

支 出 割 合

収 入 割 合

出所:『中国財政年鑑 2002』、pp.374-375 より作成。

図表Ⅱ-3 財政収入・支出に占める地方の割合(1953-80 年)

0 .0 1 0 .0 2 0 .0 3 0 .0 4 0 .0 5 0 .0 6 0 .0 7 0 .0 8 0 .0 9 0 .0 1 0 0 .0

1953 1954

1955 1956

1957 1958

1959 1960

1961 1962

1963 1964

1965 1966

1967 1968

1969 1970

1971 1972

1973 1974

1975 1976

1977 1978

1979 1980

収 入 割 合

支 出 割 合

出所:図表Ⅱ-2 と同じ。

(8)

2)政府と国有企業の財政関係

統収統支の財政制度では、1950 年代の財政収入は次のように構成されていた。①各種税 収(工商税、農業税、関税、塩税など)、②国有企業・事業収入(国有企業の利潤8上納、

基本減価償却基金の納入、固定資産の売却収入、余剰流動資金の返却、各種事業収入)、③ 信貸保険収入(公債収入、対外借款収入、保険収入)、④その他の収入、などである[南部

(1981)、pp.87-88]。図表Ⅱ-4 を参考にしながら、国有企業の利潤上納を含めた国有企 業・事業収入を検討し、政府と国有企業の間の財政関係を分析してみよう。なお、国有企 業への財政支出の資料はないため、残念ながら支出の面から政府と国有企業の関係を分析 することができない。しかし、前述のように、国有化企業の生産活動に必要な資金はすべ て財政から提供されていたことは明らかである。

図表Ⅱ-4 財政収入の構成(1950-60 年)

金 額 構 成 比 金 額 構 成 比 金 額 構 成 比 金 額 構 成 比

1 9 5 0 6 5 .2 4 9 .0 7 5 .2 8 .7 1 3 .3 3 .3 5 .1 4 .5 6 .9

1 9 5 1 1 3 3 .1 8 1 .1 6 0 .9 3 0 .5 2 2 .9 8 .2 6 .2 1 3 .3 1 0 .0

1 9 5 2 1 8 3 .7 9 7 .7 5 3 .2 5 7 .3 3 1 .2 9 .7 5 .3 1 9 .0 1 0 .3

1 9 5 3 2 2 2 .9 1 1 9 .7 5 3 .7 7 6 .7 3 4 .4 9 .6 4 .3 1 6 .9 7 .6

1 9 5 4 2 6 2 .4 1 3 2 .2 5 0 .4 9 9 .6 3 8 .0 1 7 .2 6 .6 1 3 .4 5 .1

1 9 5 5 2 7 2 .0 1 2 7 .5 4 6 .9 1 1 1 .9 4 1 .1 2 2 .8 8 .4 9 .9 3 .6

1 9 5 6 2 8 7 .4 1 4 0 .9 4 9 .0 1 3 4 .3 4 6 .7 7 .2 2 .5 5 .1 1 .8

1 9 5 7 3 1 0 .2 1 5 4 .9 4 9 .9 1 4 4 .2 4 6 .5 7 .0 2 .3 4 .1 1 .3

1 9 5 8 3 8 7 .6 1 8 7 .3 4 8 .3 1 8 9 .2 4 8 .8 8 .0 2 .1 3 .1 0 .8

1 9 5 9 4 8 7 .1 2 0 4 .7 4 2 .0 2 7 9 .1 5 7 .3 0 .0 0 .0 3 .3 0 .7

1 9 6 0 5 7 2 .3 2 0 3 .7 3 5 .6 3 6 5 .8 6 3 .9 0 .0 0 .0 2 .8 0 .5

            単 位 : 億 元 、 % 合 計 金 額

各 種 税 収 国 有 企 業 ・ 事 業 収 入 内 外 債 務 収 入 そ の 他 の 収 入

出所:『中国統計年鑑 1992』、pp.215-219。

図表Ⅱ-4 からわかるように、1959 年から利潤上納が中心となっていた国有企業・事業 収入は各種税収を凌いで 50%以上を占めるようになった。1950 年代末から税収より利潤上 納のほうが財政収入に占める割合が高いということは、政府と企業間の財政関係における 大きな特徴である。このような特徴は 1980 年代初頭まで続いていた[宮島・神野(1996)、

p.120]9

資本主義社会において、政府は徴税によって企業から利潤の一部を獲得する。しかし、

社会主義の中国においてはそうではない。計画経済期において、政府は企業を国有化する

8 中国で利潤という概念は、工業企業では、製品の工場渡し価格から税金とコストを差し引いた残りの部 分を指している。工場渡し価格は税金と同様に国家により事前に決められているので、利潤の多寡は生産 物コストの高低に直接左右される[南部(1981)、p.240]。

9 工業生産総額の構成を見ると、国有と集団企業の割合は1950年にはそれぞれ32.7%と0.8%であった が、1958年には89.2%と10.8%となった。両者の合計が9割を超える実態は1970年代後半まで続いて いた[『中国統計年鑑 1992』]。国有企業や集団企業が計画経済期における中国経済の担い手であった。

(9)

ことによって、企業の所有者としてその収入を吸い上げることが可能である。他方、所有 者であるため、政府は企業の生産活動に必要な資金をも無償で提供する10。このような仕 組みができていたから、政府の計画通りの生産活動が可能になるわけである。

ここで留意しておきたいのは、企業収入が上納される前に賃金および年金・医療などの 保険料負担が生産コストとして計算され控除されるということ11である。国有企業の生産 資金が政府の財政資金で賄われ、それを原資にして生産活動し、得られた営業収益のなか から社会保険料が控除されることは、企業従業員の社会保険料が企業自身の営業収益によ って賄われているというより政府の財政資金によって賄われていることを意味する。さら に、企業の営業収益が保険料に不足する場合は、政府財政の補填によって補うようになっ ている。このような財源調達方法は 2 つのことを示唆している。第 1 は、計画経済期の社 会保障制度が政府財政によって支えられていることである。しかも、それは強力な中央政 府の財政によって支えられているものであった。第 2 は、このような仕組みによる所得分 配は資本主義国における社会保障制度を通した所得再分配とは異なっていることである。

3.戸籍制度

20 世紀後半から今日まで続く中国の改革開放政策は、経済分野に集中している。政治体 制のほかに、社会政策にかかわる諸制度の改革が遅れている。社会福祉、とりわけ社会保 障制度と深いかかわりのある戸籍制度がその 1 つである。今日まで機能しているこの戸籍 制度は、中国における二元社会と二重経済の構造を作り上げた決定的な制度といわれてい る。それは二重構造となっている計画経済期の社会保障制度の形成にも大きな影響を与え ていた。本節において、建国初期の重工業優先発展戦略を遂行するために作り上げられた 戸籍制度の形成とそれによる社会と経済への影響を検討してみたい。

(1)計画経済体制に合わせる制度設計

1949 年までの中国においては、戦乱時期とはいえ、都市部と農村地域間における人口移 動は旧戸籍制度のもとで相対的に自由であった。新中国が成立した後、旧戸籍制度が直ち に廃止され、新たな戸籍制度の模索が始まった。繰り返しになるが、それは重工業優先発 展戦略のためであった。

10 小宮(1989)によれば、財政支出は固定資産の100%、流動資産の70%を賄うようになっていた。流 動資産のうち、30%が銀行からの貸付などで賄われている。小宮(1989)を参照。

11 このことについて詳細に論じたものとして、朱(2004)がある。

(10)

長年の戦乱を経て、設備の老朽化・生産資本の欠如・人的資本の不足に直面していた新 生中国は、旧ソ連の経験に倣い、重工業優先発展戦略を選んだ。外部条件がそろっていな い状況のもとで、それを遂行するために、経済の計画体制をとった。すべての生産活動は 国の計画通りに行われなければならないが、生産するための資源配分および生産物の配給 も計画通りに実行させなければならない。それを実現するために、労働力およびその家族 の数にあわせて資源配分および生産物の配給を行う必要がある。つまり、計画経済体制を 確立し維持するためには、労働力が比較的に流動的ではない状態が望まれるのである。中 国の独特な戸籍制度は、このような歴史的背景のなかで誕生したのである。

1958 年 1 月に、全国人民代表大会常務委員会は「中華人民共和国戸籍登記条例」を発布 し、戸籍登録業務がはじめて全国的に整備・統一化された。同条例には、①現役軍人・外 国人居住者・無国籍者を除くすべての中国国民を対象とする、②戸籍登録業務は各級公安 機関(日本の警察機関に相当する)が主管し、末端組織としてこれを行う機関は公安派出 所(都市の場合)と郷・鎮人民委員会(農村および公安派出所のない集鎮の場合)である、

③戸籍管理機関は戸籍登録簿と戸籍簿の作成・保管を行い、地域間の人口移動を厳格に制 御する、④国民が農村地域から都市部に移動する場合は、都市部の受け入れ機関の採用証 明書か大学の合格証明書を提示した上で、戸籍管理機関の移動許可を得なければならない などのことが明記されている。

(2)二重社会を生み出す制度設計

戸籍制度は世界のどの国においても行われているが、人口動向の把握などの公共行政管 理機能を果たしているに過ぎないであろう。しかし、前述したように、中国の戸籍制度は 人口動向の把握のほかに、人口の自由移動を制限し、都市部と農村部の住民に対する不平 等な処遇をもたらしている。諸外国と異なっている中国の戸籍制度は、中国の社会と経済 に次のような影響を及ぼしている。

まず、戸籍制度によって、中国では農村社会と都市社会という二重の社会構造が形成さ れた。1958 年の戸籍登録条例によって、現役軍人などの特殊な人を除いて、中国の国民は 実際に農村戸籍と都市戸籍に厳格に分けられた。農村戸籍を有している者は農村に住み、

農業生産活動に従事し、都市戸籍を有する者は「城市」(都市)と「集鎮」(農村における 行政の中心地)に住み、非農業生産活動に従事するというように決められた。人口は農村 から都市へ、小都市から大都市へ、地方都市から北京・上海への戸籍移転が厳しく制御さ

(11)

れていた。このような厳しい制限によって、中国においては農村と都市との間、農民と都 市住民との間に厚い壁が立てられ、二重の社会構造が形成された。

戸籍制度は農民と都市住民に不平等な処遇をもたらした。重工業優先発展戦略の選択は 工業化を目指すための政策設定として捉えることができる。工業化=都市化というならば、

重工業優先発展戦略の選択は都市化を実現しようとする政策設定として受け止めることも できる。しかし、中国における都市化は、農村人口の都市への移動によって工業や商業が 発達するというモデルにはなっていない。中国における都市化は、農村人口の移動に対す る厳しい制限によって、実現を目指してきた。農村人口の移動に対する厳しい制限によっ て、農村戸籍の人と都市戸籍の人はさまざまな面において「身分」の違いを感じることが 多かった。居住地や従事する生産活動に相違があるだけではなく、食糧などの消費財の配 給、住宅の分配、医療、教育、兵役などの分野にかかわる処遇においても区別されていた。

農村戸籍の人は都市戸籍の人より不利な状況におかれていたのである。社会主義中国では、

すべての国民は無産階級に属し、お互いに平等であるといわれていたが、現実には農村社 会と都市社会における不平等がかなり大きかった。農民・農村・農業の犠牲で都市労働者・

都市・工業の利権を保つというような考え方が長期にわたって存在していた12。“重工軽農”

(工業を重視し、農業を軽視する)、“重城軽郷”(都市を重視し、農村を軽視する)のよう な考え方のもとで、社会保障制度は都市部の労働者を中心に行うようになっていた。その ため、農村地域と都市部の収入格差は大きく開いた。

4.低賃金・高就業の雇用制度

賃金・雇用制度の設計においても、中国は資本蓄積を確保するという目的で、高度中央 集権の低賃金・高就業という完全雇用制度を実施した。もちろん、低賃金・高就業の雇用 制度は都市部の失業をなくすという狙いもあった。

低賃金・高就業の雇用制度において、従業員の雇用、賃金基準をすべて中央が規定し、

実施する。経済力の弱い中国にとって、建国初期に資本蓄積・建設投資を増やし、完全雇 用をも実現したいために、統一的な低賃金が必要条件の 1 つであったであろう。図表Ⅱ-5 から、1950 年代から 1970 年代末までの平均賃金の状況がよくわかる。1956、57 年頃の急 速な上昇を除けば、1950 年代に都市部の賃金労働者の賃金所得はほとんど上昇しなかった。

12 最近になって、そのような考え方は激しく批判されている。代表的な文献は林他(1997)、厳(2002)、

陳他(2004)などがある。

(12)

1962、63 年の賃金の引き上げ以降、1960 年代初頭から 1970 年代末にかけて、平均賃金は ほぼ一定していた。一方、1960-63 年、67-68 年における景気の衰退13を除いて、GDPお よび財政収入の上昇率は平均賃金の上昇率よりはるかに高かった。このことは経済成長の 恩恵が資本蓄積に集中し、国民の生活に回されていなかったことを意味している。

低賃金のもとで、従業員ならびにその家族の基本生活を保障するためには、貨幣賃金の ほかに住宅、医療、教育、託児など、生活に必要な実物福祉と社会サービスを提供しなけ ればならない。これは、企業が政府の代行として、生産経営活動以外の役割をも果たすと いうことである。

図表Ⅱ-5 GDP・財政収入・平均賃金の上昇率

出所:『中国財政年

第 2 節 計画経済体制の特徴

これまで見てきたように、1950 年代から 1980 年代までに機能してきた計画経済体制は、

4 9 5 5 1 7

6 2 4

5 1 2 5 1 0

5 9 0 5 8 7 5 7 5

5 6 0

5 8 8 5 8 4 5 7 5

6 1 5

5 2 7 6 0 1

5 3 6 5 1 1

5 5 1 5 7 65 8 6 5 8 3 5 7 7

5 6 1

5 8 7 5 8 0 5 7 6

4 .4 1 .9 1 4 .0

3 .8

- 1 4 .1 - 4 .5

- 0 .2 - 0 .2 8 .0

4 .5 1 .7 0 .7 - 1 .2 0 . 7

- 1 . 7 - 0 .3 - 2 .4- 0 .2 5 .0

- 0 .2 - 0 .5 - 0 .7 - 0 .9 0 .2 6 .8

0 1 0 0 2 0 0 3 0 0 4 0 0 5 0 0 6 0 0 7 0 0

1953 1954年

1955年 1956年

1957年 1958年

1959年 1960

1961 1962年

1963年 1964年

1965年 1966年

1967年 1968

1969 1970

1971年 1972年

1973年 1974年

1975年 1976年

1977 1978

- 5 0 .0 - 4 0 .0 - 3 0 .0 - 2 0 .0 - 1 0 .0 0 .0 1 0 .0 2 0 .0 3 0 .0 4 0 .0 5 0 .0%

平 均 賃 金 額 平 均 賃 金 財 政 収 入 G D P

鑑 2002』に基づき作成した。

国初期に設定された重工業優先発展戦略のために作られたものであった。計画経済体制 において、統収統支の財政制度、戸籍制度、低賃金・高就業の雇用制度をはじめとする諸 制度は、重工業を優先的に発展させるために設計され、機能してきた。それらの制度によ って、中国は社会・経済の両面において二重構造となった。本節において、計画経済体制の

13 1960-63年までの景気衰退には、59-61年までの大規模な自然災害と「大躍進」という政治運動の

失敗という原因があった。1966年に始まった文化大革命は1967-68年までの景気衰退の原因といわれ ている。

(13)

特徴を整理してみたい。

1.国家による資源配分

資源配分を行っていたことである。国富の増大が資本の蓄積に 依

、財政収入と財政支出のす べ

.公有制の維持

資本蓄積のために公有制を維持してきたことである。第 1 節に述べた よ

第 1 の特徴とは、国家が

存することは、古くスミスから教えられてきた。資本蓄積の成功は、資本形成のコスト を抑えることができるかどうかに依存している。資本形成コストの抑制を可能にするため に、外貨を含む国内外の資本を獲得する代価、つまり利子率や為替レートを低く抑えるこ とと、エネルギー、原材料、労働力などの生産コストをも低くすることが考えられる。こ れらを実現するために、第 1 節で説明したように、高度集権的な中央統一管理の仕組みの もとで、指令と計画通りに資本蓄積を実現させることが合理的に思われる。なぜなら、そ のような仕組みのもとで資源の配分、生産物の生産、価格の設定および所得の分配は供給 者の意思に基づいて統一的に行うことができるからである。

高度集権的な中央統一管理システムにおける中核的なものは

てをコントロールする統収統支の財政制度であった。それによって、生産活動の計画化 が実現できた。資本支出を抑制する手段として、低賃金・高就業の雇用制度、労働力の自由 移動を厳しく制御する戸籍制度・配給制度なども実施された。このようにして、国は農業・

製造業・サービス業などすべての産業を国有のもとにおさえておき、経済資源を集権的に 配分・管理することができた。これは、重工業優先発展戦略をやり遂げるための制度設計 の特徴である。

第 2 の特徴とは、

うに、第 1 次 5 ヵ年計画を通して、中国は経済の担い手を国有企業と集団企業に変換さ せた。1950 年代後半になると、国有企業と集団企業が経済のほとんどを占めるようになっ た。図表Ⅱ-6 は、第 1 次 5 ヵ年計画の開始前とその後に、工業生産総額および財政収入 における各種経済形態の構成をまとめたものである。それによれば、1958 年に、工業生産 総額において、国有と集団企業は全体の 99%を占めるようになった。また、国の財政収入 のうち国有・集団企業は約 97%を占めるようになった。工業生産総額と財政収入から見ら れる公有制一辺倒という実態は 1970 年代末まで維持されていた。

(14)

図表Ⅱ-6 各種経済形態の構成比

単位:%

3.就業に応じる生活保障

第 3 の特徴とは、就業に応じて基本的な生活保障を行っていたことである。国有企業や 集団企業に勤める労働者は戸籍制度によって農村と分断され、都市部で政府の計画通りに 生産活動に従事していた。しかし、彼らの生産活動に対して、生産効率に合致するような 賃金体制が適用されていない。すべての人に職を与えるという考えに従い、低賃金・高就 業の雇用制度が行われていた。第 1 節でみたように、GDP や財政収入が 2 桁上昇していた にもかかわらず、都市部の賃金労働者の賃金水準はほとんど変わっていなかった。賃金を 低く抑えている代わりに、政府は従業員ならびにその家族の基本生活を保障するために、

住宅、医療、教育、託児などの生活に必要な実物福祉と社会サービスを提供していた。さ らに、従業員の退職後の生活も面倒を見るように制度を整えた。つまり、就業に応じる基 本生活保障を実施したと受け止めることができる。これらの現金・現物福祉と社会サービ スは、国有企業を通して行われてきた。いわば、企業は本来の生産経営の機能に社会保障 の機能をも加えられたのである。生存権の保障を前提に平等な分配を行うこのような機能 は、まさに社会主義体制であろう。

4.社会主義資産国家14

資源配分・所得再分配・経済の安定化という 3 つのことは、市場経済における政府機能 である。民間企業は自らの発展のために、資本を蓄積し、生産判断を行うことが一般的で あろう。しかし、計画経済期における中国の政府、とりわけ中央政府は統収統支の財政制 度を通して資本蓄積に力を注ぎ、重工業が順調に発展できるように資源配分を行っていた。

出所:『中国統計年鑑 1992』より計算した。

14 社会主義資産国家とは筆者の呼び方である。「国家資本主義」という呼び方は数多くの文献に見られる。

最近のものとして、加藤・上原編(2004)がある。また、「資産国家」と指摘している文献もある。例え ば、朱(2004)がその1つである。この2つの呼び方の共通点は、国家権力による資本蓄積と資本運営 にあると思うが、計画経済期の中国に適用するなら、社会主義という文脈を加えるべきではないかと思う。

有 企業

集団 企業

郷鎮個 その他 の企業

国有 集団 企業

郷鎮個 その他

人企業 企業 人企業 の企業

1950年 32.7 0.8 26.3 40.2 33.8 0.3 34.5 31.4 1952年 41.5 3.3 20.6 34.6 59.1 1.2 19 20.6 1958年 89.2 10.8 ―― ―― 84.6 12.1 1.3 2

工業生産総額 財政収入

(15)

計画経済期において、最も成功した 5 ヵ年経済計画は 1953 年から 1957 年までの第 1 次 5

中心とする経済建設に対して、政府は莫大な財政支出を 行

ている側面からも捉 え

ヵ年計画といわれている。わずか 5 年間のうち、旧ソ連の資金・技術援助による 156 件 の中核的な建設プロジェクトのほかに、694 に上る建設プロジェクトが完成した。そのこ とによって、中国経済に占める農業と工業の割合および重工業と軽工業の割合は逆転した。

1958 年に、農業の割合は建国初期の 50%から 26.5%に下落し、工業に占める重工業の割合 は 50%を超えた。1980 年代までに、重工業が工業に占める割合は常に 60%台に維持されて いた[『中国統計年鑑 1992』]。

計画経済期において、重工業を

ってきた。財政支出は経済建設、社会文教(文化教育)、国防、行政管理、その他で構成 されているが、計画経済期において、経済建設への財政支出は財政支出全体の 60%以上を 占めていた[項主編(1999)、p.291]。また、その中身を見てみると、固定資産投資に当た る基本建設支出の割合が経済建設支出の 75%以上を占めていた[朱(2004)、p.33]。中国の 基本建設の概念は通常の資本主義国でいうインフラストラクチャーのような公共投資より はるかに広範なものである。そのなかには、「工場・鉱山・商店における資本形成、学校・

病院等をはじめ各種の公共施設や住宅の建設まで」が含まれるといわれている[小宮(1989)、

p.19]。企業に資本蓄積および投資の権限を与えていなかったため、政府が企業の代わりに 資本蓄積および投資の主体となり、経済建設を積極財政で行ってきた。先進諸国では、民 間主導で固定資産投資が行われ、経済成長に寄与したが、中国の場合はほとんど政府財政 支出によるものであった。そのため、計画経済期において、重工業優先発展戦略の基盤が 固められたと同時に、社会主義資産国家が確立したともいえよう。

計画経済期における政府機能は、企業の所有者として企業を経営し

られる。市場経済における民間企業と異なり、国有企業の所有者および経営者は中央政 府か地方政府である。高度集権的な政治経済構造のもとで、企業経営にかかわるすべての ことは最終的に中央政府の責任になる。このようなことによって、計画経済期における政 府機能は極めて大きかった。企業を所有し経営することで企業からすべての収入を吸い上 げることが可能となり、生産活動の内容も決めることができる。しかし他方において、国 有企業に必要な資金を無償で提供することも当然であろう。そのなかに従業員の賃金、年 金・医療およびその他の福祉サービスの諸費用が含まれている。それは利潤上納する前に 生産コストとして控除されるのである。言い換えれば、計画経済期における政府は企業経 営という特殊な機能を果たしていると同時に、従業員に対する社会保障の機能も企業を通

(16)

して果たしていた。

繰り返しになるが、計画経済期における中国政府、特に中央政府は統収統支の財政制度 を

第3節 就業・生活保障型社会保障制度

第1章では、生存権論や所得再分配の観点から、計画経済期の社会保障は資本主義国の 社

.二重構造の社会保障

保障型社会保障における二重構造は、農村部と都市部に対する 異

においては、農業・農村・農民は工業(とりわけ 重

通して資本蓄積に力を注ぎ、重工業が順調に発展できるように資源配分を行っていた。

地方政府は出先機関として中央政府の指令に従うようになっていた。他方、国有企業は所 有者である政府が資本蓄積をしてくれたため、自ら資本蓄積をする動機が少ない。いや、

動機が少ないというより、許されていなかったのである。国有企業は資本蓄積機能の後退 の代わりに、政府に代わって財政資金を用いて従業員の社会保障機能を担うようになって いた。重工業優先発展政策の一環として、すべての企業は国有企業か集団企業という公有 制企業とされ、国有・集団企業は中国経済の担い手となった。それゆえ、都市部で実施さ れていた社会保障制度は自然にそれらの企業の従業員しか適応しないようになっていた。

会保障とは異なり、就業・生活保障型の社会保障制度であると主張した。本節では、就業・

生活保障型社会保障における特徴を検討する。

計画経済期の就業・生活

なる対応から見ることができる。また、都市部において、企業従業員と公務員に対する 異なる対応からも見ることができる。

第1節で分析したように、計画経済期

工業)・都市・賃金労働者(とりわけ国有部門の賃金労働者)のためにさまざまな面で犠 牲となった。資本蓄積のための鋏状価格差15による犠牲、戸籍制度の束縛による犠牲はそ の一部である。限られた政府財源を節倹するために、多くの社会保障給付が都市部に集中 されていたなかで、農民には人民公社に頼るしか方法はなかった。都市部労働者が受けら れる無料医療は農村部労働者には与えられていなかった。都市部の退職者が受け取れる年 金給付も農民にはなかった。年金保険の適用率を例にとって見ると、1978 年に都市部の 93%

15 政府は農業から工業への移転政策をとり、物価指数グラフで見ると鋏を開いた形のように、農産物価 格と工業製品価格との格差が拡大したことである。

(17)

に対して、農村部は 0%であった[閻(2000)、p.37]。年金や医療保険のほかに、都市部と 農村部の社会保障給付にはさまざまな差別があった。

都市部においては、企業従業員と公務員に対する社会保障給付が異なっていた16。例え ば

応は、重工業優先発展戦略のために作られ た

.2 つの展開ルート

障制度における最も重要な構成部分である。前述したように、中 国

民政府、党派、団体17およびその所属事業単位の職員18

、年金保険の場合には、企業従業員より公務員の退職年齢が 5 年長いため、公務員がも らえる年金額は多くなる(第 5 章を参照)。また、医療保険の場合には、企業従業員の被扶 養家族が半労保医療を享受できるが、公務員の被扶養家族は職場の調達によって医療支出 が賄われる(第 6 章を参照)。現実には、公務員の被扶養家族は企業従業員の被扶養家族よ り少ない自己負担で医療給付を受けられる。

農村部と都市部に対する異なる社会保障の対

二重の社会・経済構造に影響されていたといわざるを得ない。二重構造の就業・生活保 障型社会保障の仕組みと実態について、後の各論で詳しく考察する。

社会保険制度は社会保

の社会保険制度は、1951 年の「労働保険条例」に基づき、都市部において実施された。

労働保険制度は、年金保険、医療保険、死亡保険、出産育児保険、労災保険から構成され ていた。当時、社会主義国家に特有な低賃金・高就業という完全雇用政策が行われていた ため、失業はほとんど存在しなかった。それゆえ、失業保険は制定されていなかった。し かし、1980 年代以降、経済システムの転換にともない、失業が徐々にはっきりと現われる ようになってきた。そこで、1986 年に「待業保険」(1999 年に失業保険に変わった)が従 来の社会保険制度に加えられた。労働保険制度は、国有企業、都市部の集団企業の従業員 を対象としたものである。

一方、1952 年に公表された「人

対する公費医療予防の実施に関する指示」と、1955 年に公表された「国家機関職員定年 退職に関する暫定方法」や「国家機関職員辞職に関する暫定方法」などによって、公務員

16 企業従業員と公務員の間における社会保障給付の相違は今日でも存在している。

17 人民政府とは中国における中央、地方など各レベルの行政執行機関のことである。党派とは共産党や その他の野党などの政治集団の総称である。人民団体とは、中国政府が公認した社会的・経済的な組織の 総称である。

18 職員とは農村部のすべての労働者と都市部の私営企業の従業員、都市部の自営労働者を除く都市部の 給与所得者のことである。中国語では「職工」という。以上の説明は三菱総合研究所編(1999)によるも のである。ここでいう政府、党派、団体およびそれに属する事業職場の国家職員とは広義としての国家公 務員に相当すると考えられる。

(18)

の社会保険制度が 1950 年代半ばに成立した。企業従業員と公務員を区分し、それぞれに対 して異なる社会保険制度を提供することは職域別の社会保障制度を実施していたように受 け止めることができる。

このように、都市部を中心に、都市部と農村部を分けて行われていた二重構造の就業・

それは、企 業

民や非国有・非集団企業の従業員などに 対

で行われていた社会保障は、農村部の協力医療保健制度を除いて、

活保障型社会保障は、職域に基づき、国民を農民、企業従業員、公務員のように分けて、

それぞれに対応してきた。職域別という特徴を持つ就業・生活保障型社会保障は、「単位保 障」と「非単位保障」という 2 つのルートを通して行われていたのである。

単位ルートの社会保障とは、単位ごとに行われる社会保障を意味しており、

・行政機関・事業主体などの当該単位に属している現役従業員・公務員のみならず、定 年退職者をも対象にしている。単位ルートの社会保障の財源は、公務員の場合には政府財 政によって賄われていたが、企業従業員の場合には企業の営業収益から支出され、不足が 生じた際には財政補填で賄われるようになっていた。第 1 節で分析したように、国有企業 の生産資金は基本的に財政資金で賄われていたため、単位が社会保障を行っているとはい え、その財源は結局政府財政によって確保されていた。そのため、単位保障とは、社会保 障の実施が単位によって行われているが、財源調達が政府財政によって行われていたと考 えてよい。単位ルートの社会保障には、社会保険をはじめ、社会福祉、社会救助なども含 まれている。例えば、社会福祉制度のなかの価格補助における副食補助、物価補助、交通 費補助、書籍・新聞費補助なども、都市部の単位に属している企業従業員や公務員に給料と 同時に支給される [張(1999)、pp.311-312]。

他方、単位に属さない人々、例えば、多くの農

しては、政府(民政部)が社会救助や社会福祉などの社会保障を行っている。これは、

非単位保障のルートで行われていた社会保障といえよう。しかし、このルートで行われて いた社会保障制度に社会保険制度は含まれていなかった。社会保険制度は都市部国有経済 部門に属している労働者に限って実施されていたが、単位に属していない人々には適用さ れていなかった19

非単位保障のルート

とんど財政支出で行われていたが、主に農村部で実施している「五 制度」20が例外

19 現在、農村養老保険制度や農村医療保険制度は整備されている最中だが、それに政府の強制はなく、

財源の調達も郷・村の共益金が主で、財政からの補助は極めて少ない。そのため、国による強制加入の社

う 5 種類の保障のことである。五保を受ける世帯を「五保戸」という。

会保険とはいいがたい。

20 労働能力を喪失し、扶養者のいない人を救助する制度である。「五保」とは、食事、衣服、燃料、教育

(児童と少年)、葬祭とい

(19)

である。五保戸制度の財源は、郷・村自体による資金調達が主で、政府からの補助は少な いようである[張(1999)、p.311]。計画経済期において、高度集権的な財政制度が実施さ れていたため、非単位保障に対する財政支出は最終的に国家財政に帰結するが、1990 年代 半ばの分税制改革以降は、地方財政の責任となっている[鄭他(2002)、pp.220-227]。

以上検討してきたように、中国の社会保障制度は、主に単位保障と非単位保障という 2 つ

.政府財政による就業・生活保障

せるために、国は企業を国有化した。その上で、政 府

、1969 年以降、

および年 金

済期における社会保障は「企業保障」といえないのではないかと考える。

のルートで行われてきたという特徴がある。計画経済のもとでは、単位に対する所有権 が中央政府、地方政府にあるため、単位保障というもの自体が、財源調達の面において基 本的に政府に頼らざるを得ない状況であった。

重工業を優先的かつ計画的に発展さ

は資本蓄積の機能に力を入れた。国有化によって、経済の担い手は国有企業およびその 従業員になった。計画経済体制のもとで、政府と企業の機能が逆転し、企業は政府の代わ りに社会保障機能を果たすようになっていた。企業は、単位ルートの社会保障の実施者と して、従業員の生活上の面倒を見ていた。このようにして行われた中国の社会保障制度に 対して、一部の先行研究では「企業保障」と規定された。筆者は、そのような主張に賛成 できないので、政府財政による就業・生活保障であると主張をしたい。

企業保障の論者による企業保障の論拠は次の 2 点に集中している。第 1 は

会保障支出は企業会計に組み入れられ、企業が担当してきたから、企業保障といえるの であるというものである。第 2 は、政府による社会文化教育財政支出(文化、教育、科学、

衛生、社会救済、社会福祉などが含まれる)が 1980 年までにほぼ 10%台の低水準にとどま ったため、企業が国の代わりに社会保障機能を行ってきたということである。

ところが、企業会計になっていたとはいえ、収入を上納する前に企業は賃金

・医療などの保険料負担や社会福祉サービスの費用を生産コストに計算し、上納から外 している。企業の所有者と経営者は中央政府か地方政府であるため、生産資金のすべてが それらの政府から提供してもらっている。控除された賃金および年金・医療などの保険料 負担や社会福祉サービスの費用はそのなかに含まれる。そのため、社会保険等の負担費用 は資本主義社会でいう企業の自己資金ではない、政府財政資金である。それゆえ、計画経

計画経済期における政府財政支出は経済建設に集中していたことは事実であるが、経済

(20)

建設費用にある国有企業事業運転資金に国有企業従業員のための労働保険制度の財源が含 まれている。社会文化教育財政支出だけで社会保障に対する政府支出の大きさを測ること は

前の年金保険制度と医療保険制度は、いずれも主に国有企業と都市部集 企業の従業員、公務員にしか適用されていなかった。1991 年の年金保険制度の適用率を

%で、都市部集団企業従業員の場合 は

福祉、

正しくない。計画経済時期の社会保障機能は政府から企業へ転嫁したといえるかもしれ ないが、財源調達は依然として政府財政から賄われていたため、企業保障とはいえないと 認識している。

4.制限主義のもとでの都市部雇用維持型職域保障 1990 年代初頭以

見てみると、公務員と国有企業の従業員の場合は 100

86%であった。しかし、それ以外の企業の従業員の適用率はいずれも 0%であった[拙稿

(2003a)、p.63]。都市部と農村部を比較してみると、都市部での適用率が 92%であるのに 対して、農村部では 2.3%しかなかった[前掲]。また、1993 年の医療消費の構成状況を見 てみると、医療保険制度21の適用割合は、全国ではわずか 15.5%であったが、都市部では 53.5%、農村部では 2.7%で、大きな差があった。そして、自費医療の割合は、全国では 69.7%

であるが、都市部では 27.3%、農村部では 84.1%であった22。1990 年代初頭における年金お よび医療保険制度の事実から、社会保険制度は都市部に限られていた実態が明らかとなる。

しかも、それは都市部の国有企業、集団企業の従業員と公務員に集中している。

都市部の特権的職域の労働者に限って社会保険制度が実施されていただけではなく、財 政支出で賄われる社会救助、社会福祉、軍人保障制度の恩恵も都市部に集中していた。鄭 他(2002)が指摘しているように、社会福祉制度(価格補助、社会扶養事業、障害者

業福祉などを含む)に占める都市部住民への支出割合は 95%以上であり、総人口 75%以上 を占めている農村人口に対する支出は 5%未満の水準である[鄭他(2002)、p.334]。

上述したような実態に基づくと、1990 年代以前の社会保障制度は、極めて限られた範囲 内で行われていたように思われる。計画経済のもとで行われていた社会保障制度は、制限 主義のもとでの都市部雇用維持型職域保障制度ともいえるであろう。

21 ここでいう医療保険制度は国有・集団企業の従業員に対する労働保険医療制度、公務員に対する公費 医療制度を指している。このほかに、都市部に、半公費医療制度や半労働保険医療制度、農村部に協力医 療保健制度が存在している。

22 これらの数値は、「1993年国家衛生服務調査分析報告」

(http://moh.gov.cn/statistics/ronhs/ronhs11.htm)から引用した。

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