巻 58
ページ 19‑32
発行年 2009‑03‑10
URL http://doi.org/10.15002/00004454
ジョイスの時代のダブリン (7)
結 城 英 雄
教 育
ブルームの教育
ブルームは,通りでビー玉遊びをする子供を見やりながら,「おれだってあのなつかしい幼稚園に行っ たころビー玉遊びをした。木犀草の好きな先生。ミセス・エリスの学校だ」(5
.
236)と回想する。彼の教 育は幼稚園から開始されたようだ(17.
550)。幼稚園は 1840 年にドイツのフリードリッヒ・フレーベルに よって創設され,西ヨーロッパで急速に広まったが,1904 年当時,イギリスでもアイルランドでも,幼 稚園はいまだ公的機関ではなかった。彼の両親は教育に熱心であったのかもしれない。それとも彼が一 人っ子であることを気遣ったのだろうか。その後,ブルームは,自宅のあったクランブラシル通りから近い,ハーコート通りのエラズマス・ス ミス高等学校に入学し,1882 年に 16 歳で卒業する。この学校は設立して間もない,プロテスタント系の 名門校である。ブルームは昼食用のパンをもって通学し,多くの友人に恵まれ,将来を語り合った。
W.
B.
イェイツやJ.
エグリントンといった,アイルランドの著名な文学者たちも,同級生であったかもしれ ない。彼は「鯖公」(8.
405)という愛称で親しまれ,プーラーフーカの滝へ遠足に出かけた際には一人隠 れて淫らな想いに耽り(15.
3353),学芸会で『あべこべ物語』を演じて女装の趣味をおぼえ(15.
3010), 宗教に対して懐疑的になったりもした。友人たちは軍隊や役人を希望し,ブルームは女性用の靴屋で働 きたいと思っていた。授業はかなり厳しく,ブルームは,「ヴァンスが高校で指の関節を鳴らしながら教えてくれた。大学進 学用カリキュラム。猛烈なカリキュラム」(5
.
42)と,科学の教師のことを回顧している。今では記憶も 曖昧で,「理科系」(17.
560)を自称しながらも,落下速度(5.
44)や色のスペクトル(13:
1075)のことな ど,ぼんやり覚えているくらいである。輻射(4.
78)や浮力(5.
43)のことも漠然としか理解していない。ましてや文学についての学習になると,シェイクスピアの二,三のセリフを想起するに過ぎない。
もっとも,学校での教育がその後の彼の知的関心の基礎になっているらしい。ダーウィンの思想に影 響されたり(17
.
1644),円と等積の四角形の問題に取り組んだり(17.
1686),天体の「視差」(8.
110)や「レントゲン光線」(8
.
1030)などの事柄についても関心を示す。妻に向かって「輪廻転生」(4.
339)など という難しい言葉を口にするのも,教育の成果であるだろう。彼の書棚の本は雑学的なものがほとんどであるが,知的好奇心はかなり旺盛である。将来は『エンサイクロペディア・ブリタニカ』や『ニュー センチュリー・ディクショナリー』(17
.
1523)など,家庭に備えたいと考えている。同僚のレネハンは,ブルームを評して,「教養ある万能人間だ」(10
.
581)と語っている。残念なのは大学へ進学できなかったことで,そのことが彼のコンプレックスを形成しているらしい。
彼は独学を説いたサミュエル・スマイルズの「セルフヘルプ」(17
:
29)の考えに同調するかのように,また
G. B.
ショーよろしく,「人生という大学」(15:
840)論で自己弁護をし,その一方で息子による代理願望も強く,「おれの息子。生きていれば力になってやれたんだ。いろいろと。一人立ちにして。ドイツ語 も覚えさせて」(6
:
76)とつぶやいている。彼がスティーヴンに息子のような慈しみを抱くのも,スティ ーヴンが大学卒で「教養と気品」(16:
1476)を備えており,息子の理想像を体現しているからではなかろ うか。しかし,ブルームはスティーヴンの置かれた状況に思い至らない。それは彼ら二人の環境の相違 によるところが大きい。教育は宗教や政治と複雑に絡み合っているのである。本稿では教育という面か らブルームとスティーヴンの人格形成を検討してみたい。教育と職業選択
ブルームの学歴コンプレックスの背景にあるのは,教育に対する社会の認識の変化である。十九世紀 中ごろから,教育が職業選択を可能にし,社会的地位を保証してくれる,と考えられるようになったこ とによる。時代は変化していた。実際,スティーヴンが父親サイモンと成績優秀者に与えられる奨学金 を受け取りにアイルランド銀行に行ったとき,出納係は,他の客をさしおき,父親にスティーヴンの
「輝かしい将来を祈り,時世の変化した今,男の子には最上の教育を授けるに限ります」,といった趣旨の ことを述べている(『若い芸術家の肖像』)。出納係の指摘に偽りはなく,サイモンもその言葉に父親とし ての虚栄心をくすぐられたことだろう。彼は家庭のことには無頓着そうでありながら,長男であるステ ィーヴンの教育には早くから気を配ってきたようだ。住み込みの家庭教師をつけ,6 歳半で全寮制の名門 校に入れ,家が没落した後でも,他の子供はさておいて,スティーヴンにだけは高等教育を受けさせる ことにする。一家の命運は長男の教育にあると言わんばかりである。息子への期待においてはブルーム と変わりはない。
これまでの教育は世俗の事柄と遊離して運営されてきた。初等教育から大学教育にいたるまで,その 担い手のほとんどが宗教の関係者でもあった。スティーヴンが,クロンゴーズ・ウッド・コレッジ校の 教師について,「父さんがあのひとたちはみな賢い人だというのを聞いたことがある。もしイエズス会士 にならなかったらみな俗世間の高い地位につけただろう」(『若い芸術家の肖像』),と回想しているように,
聖職者が知識人の役割を果たしていたのである。
しかし,産業革命後の社会変革に伴い,また大英帝国の拡大と軌を一にしながら,人々の意識の変化 が起こった。イギリスは,その広大な組織を運営する人材を育成する必要から,教育制度を確立し,軍 隊や公務の多くの部門でカトリック教徒も登用するようになっていた。事実,1855 年にはインドの公職 を,1870 年にはイギリス本国のみならず,アイルランドのいくつかの公職や軍隊でさえ,アイルランド
のカトリック教徒にも開放した。開放というのは一般の試験により登用されるようになったということ で,教育により職業の選択が可能になったことを意味する(
Huchinson
)。とはいえ,実情は必ずしも満足のゆくものではなかった。プロテスタントとカトリックの間の差別は いまだに残っていて,学歴に見合うカトリック教徒の職業は少なかった。その限りでは,教育に寄せる ブルームの期待はあまり現実的ではない。大学卒業者に見合う輝かしい職業は医者や弁護士などであっ たが,それらの職は少なく,下級の役人か学校の教師に甘んじるか,さもなければ失業の憂き目を見る こともあったのだ。中等教育卒業の場合はもっと明るかったものの,それでも下級の役人になるための 激烈な試験があった。公務員以外にも銀行,商業,運輸などの部門も拡大していたが,それらも相変わ らずプロテスタントに独占されていた。スティーヴンは,「君のように教育に大金を費やした人なら,自 分を高く売ってその分を埋め合わせる資格がある」(16
:
1156)というブルームの発言を,複雑な思いで聞 いたのではなかろうか。スティーヴンの教育
ここで,ブルームが理想と仰ぐスティーヴンの教育を検討しておこう。彼は幼少のころから家庭教師 の世話になり,6 歳半でクロンゴーズ・ウッド・コレッジ校に入学,途中でベルヴェディア・コレッジ校 に転校し,20 歳でカトリックの大学ユニヴァーシティ・コレッジを卒業した。彼はまさしくエリート・
コースを歩んでいる。
クロンゴーズ・ウッド・コレッジ校は,キルデア州サリンズにある,イエズス会経営の全寮制の名門 校である。いわゆる「パブリック・スクール」で,「アイルランドのイートン」と呼ばれていた。設立は 1814 年。裕福な家の子弟が多い。スティーヴンは入学早々,階級コンプレックスを抱き(『若い芸術家の 肖像』),後年「おまえはクロンゴーズの坊っちゃん連中に言ったっけな,ぼくには判事と将軍の叔父がい るんだって」(3
.
105)と述懐している。大まかな年齢により,13 歳以下の下級組,13 歳から 15 歳の中級組,15 歳から 18 歳の上級組に分かれ ていた。また下級組は初等級とその上の第三文法級に,中級組は第二文法級とその上の第一文法級に,
上級組は詩級とその上の修辞級に分かれていた。生徒数は少なく,1886 年に財政困難に陥った姉妹校タ ラベッグを併合しても,1891 年当時 218 人であった。授業料は年額 40 ポンドほど,中流の中層以上でな いとかなり高い(
Sullivan
)。クロンゴーズ校の規律は厳しかった。朝 6 時半起床,ミサ,朝食,二時間授業,昼食,1時から二時間 授業,3 時半午餐,5 時 15 分から祈りと学習,7 時夕食,8 時 15 分から祈り,そして就寝という一日であ った。この学校は「克己」の精神を培うことを目標にしていた。勉学も厳しく,クラスを二つに分けて 競争を煽り,怠惰な生徒には体罰もあった。スポーツも盛んで,冬と夏はそれぞれフットボールとクリ ケットの季節であり,自転車競争などもあった。その一方で,いじめ,非行,同性愛といったいずこも 同じ集団生活の歪みもあり,スティーヴンは母親への郷愁を抱いている。同性愛事件で投獄されたオス カー・ワイルドの悲劇も,学校教育に問題があったとも言える。
しかし,スティーヴンは,10 歳ころ,一家の経済的な窮乏のためにクロンゴーズ・ウッド・コレッジ 校を退学する。そして一年ほど家庭で気楽に過ごした後,11 歳ころ,クロンゴーズ校の元校長であった コンミー神父の世話で,ベルヴェディア・コレッジ校に弟と一緒に学費無料で入学する。これはダブリ ン市内にある通学制の学校である。一日はクロンゴーズ校とほぼ同じで,午前 9 時半からミサ,10 時か ら正午まで二科目の授業,正午にはロザリオの祈りと昼食,1 時から 3 時まで二科目の授業であった。ベ ルヴェディア校もクロンゴーズ校と同様,イエズス会経営の名門校である。当時の生徒数は 120 名弱。優 秀な教員に恵まれ,スティーヴンはこの学校でとくに作文に力を入れる。
スティーヴンの父親は,ベルヴェディア・コレッジ校に息子の入学が認められると,クリスチャン・
ブラザーズ校を貶めるかのように,「クリスチャン・ブラザーズなんざ,糞くらえだ!……そこいらの薄 よごれた餓鬼どもといっしょになるなんて。イエズス会で始めたんだから,どこまでも離れないように しなくちゃ。あとあとずいぶん役にたつぜ。手蔓ができるからね」(『若い芸術家の肖像』)と放言する。
スティーヴンは,ベルヴェディア校に入学する以前,クリスチャン・ブラザーズ校に短期間籍を置いて いたらしい。クリスチャン・ブラザーズ校もカトリックの修道会経営の学校で,特にレベルが低いわけ ではないが,授業料が安く,貧しいイメージが付きまとっていたのである。
クリスチャン・ブラザーズ校の生徒の親が下級役人,商店経営者,農民であるとするなら,クロンゴ ーズ校の親は紳士階級,行政長官,軍人などで,ベルヴェディア校の親はその中間であった。政治的に みて,クロンゴーズ校出身者には英国寄りが,ベルヴェディア校出身者には穏健派が,クリスチャン・
ブラザーズ校出身者には過激な民族主義者が多い。親の職業とも関係があるだろう。そして子供も親に 倣うべきものとして,ベルヴェディア校の説明には,「王立大学,中間教育法令下の中間試験,役人,銀 行,ギネス醸造会社向け」とあった(
Thom
)。その後,スティーヴンは大学ユニヴァーシティ・コレッジに入学する。16 歳のことであった。同級生 には優秀な者が多かったし,民族主義運動も盛んであったが,しかし彼はそこで見るべき教育を受けて いない。その講義は劣悪であったと言われているし,学位を授与する権限もなかった。むしろ,彼の女 性観や美学観,あるいは百科全書的な思考様式などは,クロンゴーズ校やベルヴェディア校での学習に よって培われたのではなかろうか。大学で,彼は自由に読書し,気ままに過ごす。
こうして彼は大学を卒業し,学位授与機関の王立大学で学位を取得する。だが,既に述べたように,
エリートに見合う職業があるわけではない。ジョイスの大学時代の同級生のアーサー・クレアリーは,
優秀なカトリックの大卒者が二流の職業にしか就けない状況を「文学士の災厄」と嘆いている(
Clery
)。 そしてさらに劣悪な状況にあった女性のハンナ・スケフィントンは,自らのことを語るかのように,「中 等教育の奨学金受賞者,大学での奨学生,金メダル受賞の大卒者でありながら,有能なコックなら軽蔑 したであろう給料に甘んじている人を知っている」(McElligott
)と憤慨している。スティーヴンもそうした例にもれない。卒業後,パリで医学を志したがそれも失敗に終わり,今はし がない臨時教師に過ぎない。給料は月額 3 ポンド 12 シリング。医学生のマリガンに尊敬の眼差しを向け るミルク売りの老婆を前に,「ぼくなどを軽く見ている」(1
.
419)と屈辱感を抱く。また臨時教師を務める学校で,手にあまる生徒たちを相手に,「ぼくには抑え切れないのも,パパたちが月謝を払っているの も知っているから」(2
.
29),と卑屈な想いに捕われている。彼がイギリス人やイギリス系アイルランド人 に敵意を抱くのも,能力に見合う正当な評価を受けられない,カトリックのエリートの一人であるから である。授業中も,W. B.
イェイツの『塔』(1929)所収の詩,「学童たちのあいだで」の視学官のように,生徒と距離を保ち,自己の意識に埋没している。
十九世紀末,アイルランドでは文化民族主義運動が展開した。その大きな要因はカトリックの職業選 択をめぐる障害であった。そしてカトリックのエリートたちは,自らの不満をアイルランドの迫害の歴 史に重ねていった(
Hutchinson
)。それはスティーヴンの欝屈とも共通するものである。彼も同様のはけ 口を見いだしかねているのかもしれない。初等教育
ひるがえって,アイルランドのカトリックは,十七世紀後半から実施されたカトリック刑罰法により,
教育においても差別されてきた。彼らは子弟にカトリックの教育を施すことを禁じられ,富裕層はプロ テスタント系の学校に入学させた。また密かにパリ,サラマンカ,プラハ,ルヴァン,ローマなど,大 陸のアイルランド人学校で宗教教育を受けたエリートもいた。貧困地区出身でありながら,フリン神父 はローマの神学校で学んだとされるが,これもそうしたエリートのアイルランド人のための学校の一つ である(「姉妹」)。
こうした状況の下,窮余の一策として設けられたのが「生垣学校」であった。当局から隠れ,野外な どで行なわれたことに端を発する。地域の有識者もしくは巡回の教師が教えた。有料で,主としてラテ ン語,ギリシア語,算数,ゲール語,英語,歴史,地理などが教えられていた。ペトロニウスの「エペ ソスの未亡人」(14
.
886)などという物語も,一般の人々の知識内にあったが,これは十八世紀から十九 世紀の初めにかけて,「生垣学校」が広まったことによる。その状況はウィリアム・カールトンの『アイ ルランド農民の特性と物語』(1830)所収の短篇「生垣学校」で描かれ,さらにはブライアン・フリール の『トランスレイションズ』(1980)などでテーマ化されている。同様に,やはりカトリックの教育が禁止されていた 1802 年,エドモンド・イグネイシャス・ライス
(12
.
1687)が,青少年の教育機関としてクリスチャン・ブラザーズ校をウォーターフォードに設立した。これも各地に広まり,アイルランドの中流の家庭の子弟のために,ほとんど無料で実用教育を施した。
ダブリンの北リッチモンド通りにも,オコネルの尽力により,クリスチャン・ブラザーズ校が設立され た。ジョイスも一時そこに籍を置いたと言われているが,スティーヴンと同じく,この事実は秘匿され ている。
こうした苦難を経験しながら,19 世紀初頭までには,アイルランドにもかなりの数の学校が設立され,
1829 年にはカトリック刑罰法も撤廃された。そしてイギリス政府は,教育を国家統一の急務と捉え,
1831 年に国民学校の法令を制定し,1834 年には初等教育を開始した。宗派に関わりのないことを前提と し,アイルランド総督の司令下,ダブリンのマルバラ通りに本部を置く,国民教育委員会が管轄するこ
とになった。各学校には教師の給料,教科書代,学校の建設費など,様々な助成金が交付されることに なった。
当初,プロテスタントとカトリックの双方から異議が唱えられた。プロテスタント側は教会教育協会 を設立して反発し,宗教と教育とを一体化しようとした。その一方で,カトリック側は,イギリスのプ ロテスタントの視点による英語による教育という国民学校の計画に対し,アイルランドを支配しようと するイギリスの策謀ではないかと疑いを抱いた。にもかかわらず,1860 年ころにはプロテスタントもカ トリックも国民学校の制度に合意している。教育委員会の交付金への誘惑に抗しきれなかったこともあ るが,しかし教育委員会の方も,委員会に両派の代表を各十人ずつ含めるなど,宗派の折り合いを付け たためでもある。最後まで国民学校の組織に加入することを拒んだのは,クリスチャン・ブラザーズ校 くらいである。
こうして,名目上は宗派に関わりがないが,事実上は宗派別の国民学校が各地に誕生した。1835 年,
1850 年,1900 年それぞれの数は 1
,
106 校,4,
547 校,8,
684 校で,飛躍的にのびている(Coolahan
)。1904 年当時,ダブリン市内だけでも 167 校と着実に広がった。朝方,ブルームが授業風景に耳を傾けるのも,そうした学校の一つである。それは彼の教区の聖ヨセフ・ローマ・カトリック教会に所属する国民学校 であり,教区司祭のダニエル・ダーリング師の運営するものと考えられる。
問題もなくはなかった。まず,授業では国語(英語)と算数の他,地理を少し教えたが,概して機械 的な暗記が主であった。教師の給料が生徒に課される機械的な試験の成果で決められるという,「結果方 式」(1879 年より 1897 年まで)であったためでもある。また,アイルランドの歴史を教えることもなく,
イギリスでの教育との差異が見られなかった。学校経営者でもあったのパトリック・ピアスは,人格教 育を蔑ろにするこうした教育制度を「殺人機構」と称し,民族主義者の立場から批判している。さらに,
通学は義務ではなかったために,5 〜 16 歳までの間に 4 〜 5 年在籍し,しかも定期的に通うこともなく離 れる生徒も多かった。
それでも識字率が高まったことは事実である。読み・書きの出来る国民は,1850 年には 50 パーセント 弱であったのに,1900 年には 90 パーセント近くに増加している。1880 年代にイギリスの廉価な大衆小説 が市場に溢れるようになった(9
.
107)が,これは読書を楽しめる人が増加したことを物語っている。こ うした変化が近代のアイルランドの基礎を作ったとも言われている(Lyons
)。中等(中間)教育
その一方,中等学校は,初等教育と大学教育の間の教育を司り,もっぱら中流階級の子弟のための教 育機関であった。したがって,中等教育で学ぶ生徒の数はそれほど多くはない。1901 年で 38
,
565 人,同 年代の約二十分の一に過ぎない。外国語教育を行なうことが建前とされていた。中等教育は,商品と同様,金を出して手に入れるべき中流階級の指標でもあった。『ダブリンの市民』
所収の「出会い」で,ベルヴェディア・コレッジ校の教師であるらしいバトラー神父が,不出来な生徒 を戒めるのに「国民学校の生徒ならばともかく」といった言い方をし,その学校の生徒である「ぼく」
が変態男に向かって,「《鞭で打たれる》ような国民学校の生徒ではない」と言いかえしたいと思うのも,
そうした階級意識の反映である。ブルームが聖ヨセフ公立学校の生徒を「餓鬼ども」(4
.
136)と見下すの は,彼もスティーヴンが籍を置いたクロンゴーズ校か,それ以上の授業料が必要とされる名門校の出身 だからである。彼の母校エラズマス・スミス高等学校は,オクスフォード,ケンブリッジ,トリニティ などへ多くの奨学生を送り出している。ブルームが出世の「手蔓」であるフリーメイソンに加入できた のも,同校の出身であるからである。社会的にも中等教育の必要性が認められてきた。すでに 1878 年,中間教育法令が施行され,アイルラ ンド中間教育委員会が設立されていた。そしてこの委員会は,1869 年の英国国教会制度の廃止と同時に 不要になった助成金百万ポンドを基金とし,中等教育を下級,中級,上級の三部門(1890 年より「予備」
も導入された)に分け,男女の差別なく,公的試験を課し,優秀な生徒への奨学金の給付,また学校へ の財政援助などをこととした(
Atkinson
)。試験は毎年六月に全国一斉に実施され,結果により個人や学 校への財政の配分が行なわれた。そのために各校は「詰込み教育」をして受験させ,また優秀な学生は 奨学金をもらおうとがんばった。こうした事情は「猛烈なカリキュラム」(5.
42)という,ブルームの回 想に明らかである。試験科目はギリシア語,ラテン語,近代語,アイルランド語,英語(歴史を含む),数学,自然科学,
絵画,商業などであった。成績は科目のみならず総合点でも評価されたために,十科目受験するのは普通 のことであった。受験生の所属,名前,成績は九月に公表され,新聞は宗派ごとに,また同一地域内の各 校ごとに,男女の割合など,「競馬のように」書き立てたという(
Colum
)。1879 年には 3,
954 人であった 受験生も,1880 年には 5,
561 人,1896 年には 9,
000 人,そして 1907 年には 11,
000 人へと増加している。ジョイスは,ベルヴェディア・コレッジ校在学中,1894 年(予備),1895 年(下級),1897 年(中級), 1898 年(上級)と四度受験(1896 年は不参加)し,奨学金を獲得している(
Bradley
)。受験科目はラテ ン語,英語,フランス語,イタリア語,算数,ユークリッド幾何学,代数学などである。その反映であ ろうか,『フィネガンズ・ウェイク』のシェムも「ベルヴェディアの奨学生」(FW:
205.
05)であり,ステ ィーヴンもこの試験で好成績を修め多額の奨学金をもらっている(『若い芸術家の肖像』)。意外にも,中間教育委員会の実施する試験で好成績を修めたのは,クリスチャン・ブラザーズ校の生 徒である。この学校の本領は初等教育にあったが,中等教育の試験対策にも定評があった。ジョイスの 大学時代の友人
C. P.
カランは,ダブリンの北リッチモンド通りのクリスチャン・ブラザーズ校の出身で,中間試験で金メダルをもらっている(
Curran
)。またマリガンのモデルであるゴーガティも,評判を耳に した父親の意向により,同校に籍を置いていたことがある。中等学校は 1871 年段階では 587 校(男子校 265,女子校 162,共学 160)あった。むしろ問題なのは中 等教育に進む生徒が少ないことにあった。1881 年に 20
,
405 人であったのが 1911 年には 40,
840 人と増加し ているが,カトリックの占める割合は,それぞれ 10,
145 人(50 パーセント)と約 30,
000 人(75 パーセン ト)である。しかし全体的に見ると,1911 年においても進学率は 705,
000 人のうちの 30,
000 人であり,17 人につき 1 人の割合であった(Colum
)。有能な教師も不足していた。1900 年当時,大学を卒業した教師は,プロテスタント校で男女それぞれが 56 パーセントと 30 パーセントであるとすれば,カトリック校で は男女それぞれ 11
.
5 パーセントと 8 パーセントである(Lyons
)。大 学
大学教育は中等教育よりさらに限られていた。ダブリンの主要な大学は,トリニティ・コレッジとユ ニヴァーシティ・コレッジであった。前者はプロテスタント系の大学であり,後者はカトリック系の大 学である。大学教育も宗教や政治の問題と関わりがあるが,学生にとっては経済事情も大きな問題でも あった。1900 年当時,アイルランド全土の大学生の総数は約 3
,
200 人で,両校の学生数はそれぞれ約 1,
000 人と 180 人であった。きわめて少ない(Coolahan
)。トリニティ・コレッジは,1591 年,イギリスのオクスフォードとケンブリッジ両大学を手本に,エリ ザベス女王一世により設立された。アイルランドのプロテスタントの子弟を教育し,支配者階級として のプロテスタントを育成することを目的とした。そのため最初はプロテスタントしか入学できなかった が,大学としての使命を意識して,1793 年には他の宗派の子弟の入学も認めた。そして 1869 年の国教会 制度の廃止(1871 年より実施)後,政府がカトリック系の大学と一本化しようとしたため,1873 年には 宗派に関わる試問を全廃した。
カトリックの司祭たちは,こうした状況の進展を見据えながらも,1875 年,その教育方針がプロテス タント的であるという理由により,自分の教会の家族の子弟がトリニティに入学する場合,教会からの 特別な許可状を得るようにと勧告している(
Lyons
)。だが,ジミー(「レースの後で」)やマリガンのよ うな裕福な家庭の子弟はこの大学で学んでいる。また,トリニティにはイギリスのオクスフォードやケ ンブリッジと同等の資格が与えられており,ジミーやマリガンたちのように,希望する学生たちはそれ ぞれケンブリッジとオクスフォードへ留学できている。魅力的な大学であった。トリニティは支配者階級に必要な社会的・政治的・宗教的な価値観の要塞であるだけではなく,科学 などの同時代的な学問領域にも開かれていた。英文学のカリキュラムの設置などはイギリスよりも早い し,ブルームが訪ねたいと思っている「ダンシンク天文台」(8
.
109)もトリニティの所有である。そして トリニティ・コレッジには 1801 年以降,イギリスやアイルランドで出版された書物が納入されることに なっていたため,ここの学生たちは図書にも恵まれていた。1904 年からは男女共学になった。一方,ユニヴァーシティ・コレッジは,セシリア通りにある医学部の他,神学,法律,哲学,文学の 五学部を持つカトリック系の大学である。アイルランドの中流階級のカトリックの子弟にカトリックの 教育を施すことを目的に,1854 年,ダブリン大司教ポール・カランの招請により,『大学の理念』(1852)
で有名なジョン・ヘンリー・ニューマンを学長として,スティーヴンズ・グリーン西通り 86 番地に設立 された。旧称はカトリック・ユニヴァーシティである。連合支持のプロテスタントからは「アイルラン ド自治」を支持する大学であると敵意を示され,あまつさえ公的基金を受けられないばかりか,医学と 神学と哲学を除き,学位さえ認められなかった。それでも 1880 年に王立大学が設立され,カトリック・
ユニヴァーシティも同年にユニヴァーシティ・コレッジとして再組織され,王立大学の要件に見合うカ
リキュラムになった。
アイルランドのその他の高等教育機関としては,1849 年,ベルファスト,ゴールウェイ,コークに各 コレッジを置く,国立の無宗派のクィーンズ・ユニヴァーシティが設立されていた。人文,法律,医学 の三学部の構成である。そして長老派の学生が多数を占めるベルファストを除き,ゴールウェイやコー クのクィーンズ・コレッジは,事実上,カトリックのための大学であった。にもかかわらず,カトリッ ク側はそれらが宗派に関わりのない「神のいない大学」であり,また司教に人事権も与えられていない と不満を洩らした。メイヌースにあるセント・パトリック・コレッジも,聖職者向けの大学に過ぎなか った。カトリック・ユニヴァーシティはこうした状況を背景に設立されたのであるが,ほどなくユニヴ ァーシティ・コレッジへと再組織され,三つのクィーンズ・コレッジ同様,王立大学の傘下に置かれる ことになった。
王立大学は 1879 年の大学教育法令に基づき,市内のアールズフォート台地に設置された。まったくの 学位授与機関である。ジョイスも 1902 年 6 月にユニヴァーシティ・コレッジを終了後,同年 10 月 31 日 に王立大学の試験にパスしている。1882 年実施の試験の志願者は 1
,
898 人であったが,1904 年には 3,
267 人へと増加している(Handbook
)。しかし大学を卒業していなくても,また男女の差別なく,その試験 に通りさえすれば学位が与えられる仕組みであった。1901 年には男子 1,
380 人,女子 399 人がパスしてい るが,三つのクィーンズ・コレッジ,ユニヴァーシティ・コレッジ,長老派のマギー・コレッジの計五 大学の学生数は 500 人に過ぎない(Coolahan
)。ところで,王立大学の要件はイギリスを基準としたもので,カトリック教国アイルランドの実情を無 視したものであると言われた。その結果,民族運動も高揚している折のことでもあり,アイルランド人 のための教育機関としての大学の設立という議論,いわゆる「大学問題」(「死者たち」)がカトリックの 有識者の間で再燃した。そうした議論の背景にはトリニティ・コレッジとの差もあった。ユニヴァーシ ティ・コレッジの学生は,学位の問題以外にも,様々な不都合を被っていたのである。
何よりも就職の差があった。トリニティの学生は縁故で一流の職を得ることができたが,ユニヴァー シティ・コレッジの学生は,医学校の卒業生を除き,望むような職に就けなかった。公務員,事務員,
あるいは学校の教師といった二流の職に甘んじる者も多かったのである。たとえば,1901 年のプロテス タントと比較したカトリックの専門職で占める割合は,法廷弁護士や事務弁護士 44 パーセント,医師 43 パーセント,建築家,会計士,技師 42 パーセントである(
Hutchinson
)。しかも 330 万人のカトリック のうち,大学教育の資格の必要なそうした職業に従事している者は,全体の 0.
1 パーセントに過ぎない(
Kelly
)。ユニヴァーシティ・コレッジの講義の質が低いことも,学生の不満の種であった。4 年の修業で,文学 部のカリキュラムは入学級,第一ユニヴァーシティ(アーツ),第二ユニヴァーシティ(アーツ),文学士 の四段階に分かれ,それぞれの試験にパスしなければならなかったが,出席しなくても問題はなかった。
ケヴィン・サリヴァンによると,ユニヴァーシティ・コレッジの知的活力の真の中心は,学部学生たち が組織した各種の協会や学会であったという(
Sullivan
)。なかでも歴史・文学協会などは有名で,ジョイスはここで「人生とドラマ」(1900)を発表している。さらに,彼はイギリスの著名な文芸雑誌『フォ ートナイトリー・レヴュー』に,「イプセンの新しいドラマ」(1900)を掲載されている。これは友人たち にも驚異であった。
そうした事情を背景にして,トリニティ・コレッジとユニヴァーシティ・コレッジの学生は,互いに 張り合っていた。スティーヴンも,事実,ユニヴァーシティ・コレッジに向かう際に,トリニティ・コ レッジの建物を見て憂欝になる。彼は「左手のトリニティ・コレッジの灰色の建物が,まるで無骨な指 輪にはめこまれた鈍い光の宝石のように,街の無知のなかにはめこまれている情景は,彼の心を憂欝に した」(『若い芸術家の肖像』)と意識している。そしてユーリック・オコナーはこう説明している。
ユニヴァーシティ・コレッジの学生たちは,社会的背景がたとえ安定していようとも,グラフトン 通りの反対の四分の一マイル先にあるトリニティ・コレッジに通う,イギリス系アイルランド人で ある支配者階級の息子たちに劣等感を感じていただろう。小綺麗な服を着,ダブリンで最も粋なグ ラフトン通りを練り歩くトリニティの学生たちは,ボヘミアンを気取りながらも生まれつき劣等感 を抱えた,ユニヴァーシティ・コレッジの学生たちを威圧していた。トリニティは支配者階級を生 み出し,ユニヴァーシティ・コレッジは被支配者であった」(
O ’ Connor
)。1908 年,民族主義の高まりの下,アイルランド大学法令が成立する。トリニティとベルファストのク ィーンズ・コレッジは別組織のまま,ユニヴァーシティ・コレッジはコークとゴールウェイのクィーン ズ・コレッジと一体化し,アイルランド国立大学になる。逆にトリニティは,1922 年に自由国が成立し て以降,しばし孤立の時代を迎えることにもなる。
女性の教育
無視されがちであったのは女性の教育である。ブルームも娘ミリーの自立には配慮しているらしいが,
教育には無頓着に思われる。彼は娘を 15 歳の誕生日を迎える少し前に遠方の写真屋へ奉公に出し,「週給 十二シリング六ペンス。多くはない。でも,あの子の職場としてはいいほうだよ。ミュージックホール の舞台よりは」(4
.
531)と満足し,それ以上の期待は抱かない。これも女性の本分は家庭にあり,仕事は 結婚までの腰掛けであるという,時代の認識の反映であるのだろう。もっとも,中流階級の家庭の女子は修道院で,それなりの教育を受けることができた。ミリーもどこ かの修道院で学んだのであろう。アイルランドには多くの女子修道院があり,それぞれ病院運営,教育 機関,あるいは孤児院という形態で社会に関わっていた。1800 年から 1901 年にかけ,アイルランドの修 道女の数は 120 人から 8
,
000 人へと増加している。ミセス・カーニーや彼女の娘(「母」)が学んだ学校は,そうした中でも一流の修道院で,いずれもフランス語や音楽を学んでいる。大方の中流家庭の女性は修 道院で学んでいたのである。マンガンの姉(「アラビー」)やゲイブリエルの妻も,修道院で学んだらしい
(「死者たち」)。なかでも特に有名なのはロレト修道院で,ダブリンにもスティーヴンズ・グリーン東通り
にその一つがあった。
修道院での女子の教育は,男子の教育とは異なり,音楽,針仕事,フランス語など,家庭的・女性的 な科目が中心であった。これらは女性の本分は家庭であるとするカトリック教会の考えによる。またフ ランス語の学習はフランスがカトリック教国であることと関連している。モーカン姉妹の部屋に飾って ある刺繍(「死者たち」)は,若き日,姉妹たちが修道院で学んでいたころの作品であろう。またスティー ヴンの妹ディリーが,貧しいながらもシャルドナルの『フランス語初歩』を買う(10
.
867)のは,彼女が 修道院で満足な教育を受けていないことを暗示している。彼女のフランス語への関心は向上心の表れで あるが,同時にそれは,フランス語を知ることがレディのたしなみであるという,時代のイデオロギー の圧力を想起させている。女子は修道院で学んだ後,家事を手伝うか,職業学校に進み一時的な職に就くのが普通であった。ミ ス・ムーニー(「下宿屋」)やクロズビー・アンド・アリン弁護士事務所のミス・パーカー(「対応」)など,
職業学校でタイプを学んだらしい。あるいは,ミス・カーニーのように音楽院に進むこともできた。こ れは 1856 年にスティーヴンズ・グリーン 18 番地に設立された後,1871 年にウェストランド通り 36 番地 に移転し,翌年王立アイルランド音楽院となった。卒業すると音楽教師として活動できた。メアリ・ジ ェイン(「死者たち」)やミス・シニコーもそこの卒業生ではなかろうか(「痛ましい事件」)。
さらに高等教育機関に進学することもできた。1878 年に中間教育法令が発令され,女子にも平等の教 育が保障されたことで,高度な教育を望む女性のための教育機関ができていた(
Atkinson
)。ドミニコ会 は 1882 年にエクルズ通りにドミニコ会修道院を設立し,1885 年にメリオン広場に移転し,高等教育機関 の聖マリア・ユニヴァーシティ・コレッジを設立した。同じくロレト会も,1895 年にセント・スティー ヴンズ・グリーンにロレト・コレッジを設立した。またプロテスタント系の高等教育機関としてはアレ グザンドラ・コレッジがあった。これはイギリスのガートンやニューナムに相当する高等教育機関であ った。付属のアレグザンドラ校(生徒数 300)も 1873 年に設立され,16 歳でコレッジに進学した(
Dictionary
)。カトリック系はユニヴァーシティ・コレッジから,そしてプロテスタント系はトリニティ・コレッジから,それぞれ教授陣を借り,卒業生は王立大学の学位試験を受けることができた。
スティーヴンが思いを寄せるエマ・クラーリーも,こうした高等教育機関に通う女子学生である。「死 者たち」に登場するミス・アイヴァーズは,学歴においても,大学の教師としても,ゲイブリエルと似 たような道をたどっていると説明されている。実際,ジョイスがよく訪ねたと言われているシーヒー家 の 4 人の娘の三人までもが,聖マリア・ユニヴァーシティ・コレッジを卒業後,王立大学の学位試験をパ スしている。スティーヴンが中間試験で奨学金を与えられたとするなら,これらの女性たちも同じく奨 学金を与えられているのである。
女性で大学に進学する人は,1904 年の統計によると,大学生 3
,
409 人のうち,女子は 91 人(2.
66 パー セント)に過ぎなかった(Gifford
)。だが中間試験や王立大学の学位試験でも,男子と比べて女子に何ら 遜色がないことが判明するにつれ,男女平等の教育が叫ばれるようになった。ジョイスの友人スケフィ ントンは,「大学問題の忘れられた一面」(1901)において,こうした女性差別を論じた。そして 1904 年,彼の主張する男女平等の教育が認められないために,ユニヴァーシティ・コレッジの登録官の仕事を辞 している。その一方で,これらの女性を快く思わない人もいた。彼女たちとの競争を余儀なくされたス ティーヴンの同級生,特に女性の集中する近代語を専攻する男子学生たちがそうで,彼らは女子学生た ちに「敵意」さえ感じている(『スティーヴン・ヒーロー』)。
トリニティ・コレッジは 1903 年 3 月に女子の入学を認め(
Scott
),1905 年には 100 名以上の女子学生 が学位を授与された(Dictionary
)。ユニヴァーシティ・コレッジは,セシリア通りの医学校が 1896 年に 女子の入学を許可したのに倣い,1902 年に同様の決定を下し 20 名が入学し(Page
),1909 年に国立大学 に改変されて正式に男女共学となる(Scott
)。スティーヴンのシェイクスピア論と国立図書館
国立図書館でのスティーヴンの『ハムレット』を中心とするシェイクスピア論は,こうした社会背景 の下に展開する。彼の説の骨子は,(一)シェイクスピアの立場はハムレットではなく亡霊のハムレット 王に投影されている,なぜなら,(二)彼は年上の妻アンに誘惑されたために性的劣等感という毒にも似 た致命傷に悩まされているから,その上,(三)アンは彼の弟リチャードと不義を犯したから,しかし,
(四)彼は晩年には孫娘の誕生を契機に妻と和解するに至る,などである。
このシェイクスピア論にはスティーヴンの欝屈した感情が仮託されている。それは追放,剥奪といっ た意識である。家庭から追放され,夫としての立場を剥奪されたシェイクスピア同様,スティーヴンも アイルランドから追放され,アイルランド人としての権利を剥奪されているとの思いがあるだろう。シ ェイクスピアの妻アンと彼の兄弟が,それぞれアイルランドとイギリス系アイルランド人の表象である。
このスティーヴンの意識が,アイルランドの状況の中で醸成されていることは,これまでの考察で明ら かである。
そして奇妙にも,スティーヴンのシェイクスピアはブルームと重なっている。ブルームも家庭から追 放され,夫としての立場を剥奪されている。ブルームがスティーヴンに息子のような感情を抱くのも,
ハムレット王がハムレット王子に復讐を誓わせるのにも似ている。またスティーヴンのシェイクスピア が,ブルームと類似していることから,両者の間に接点が期待されるところである。だが,ブルームに はスティーヴンのような階級意識がなく,彼のスティーヴンへの想いそのものも,自らの学歴コンプレ ックスの反映に過ぎない。彼の家庭の麻痺は,息子ルーディの死に基づくというより,ブルーム個人の コンプレックスにあると言ってもよさそうである。
ちなみに,キルデア通りの国立図書館は,1890 年 8 月 29 日に開館した。蔵書は王立ダブリン協会図書 館から寄せられた 3 万冊,および同じく王立ダブリン協会が所持していたジャスパー・ロバート・ジョリ ー師(1819
-
1892)の寄贈本 3 万 3 千冊を土台とした。貸出はしていなかった代わりに,広い円形の読書室 があり,知識人のための図書館であった。当時,一日 500 名ほどの利用者に対して,職員はわずか 15 名 ほどであったが,二代目の図書館長リスター(館長在任は 1895 年から 1920 年まで)は,読者へのサーヴ ィスを第一とし,『若い芸術家の肖像』に描かれているように,ユニヴァーシティ・コレッジの学生たちがよく集まり,その入口の階段で頻繁に放談していたらしい。開館時間は午前 10 時から午後 10 時までで,
ウィリアム・アーチャーの発案によって十進法による分類が導入されていた(
FW
440.
05/Handbook
)。 図書館として最大の規模を誇っていたのはトリニティ・コレッジで,アイルランドの『ケルズの書』などを手始めとする,各種の写本 2 千冊を有すると同時に,国立図書館の 18 万冊に対し,約 2 倍の 30 万 冊の蔵書を誇っていた。だがこの図書館はきわめて排他的であった。スティーヴンや恋人のエマたちが 国立図書館を利用するのは,彼らの通う大学に十分な図書館がなかったためである。ユージーン・シー ヒーによると,国立図書館はユニヴァーシティ・コレッジの学生の「母校」であったという。しかし,
この図書館はイギリス系アイルランド人の機関である。それは発足の歴史そのものだけでなく,職員の 構成からも明らかである。リスター,エグリントン,ベストといった人物がイギリス系アイルランド人 である。スティーヴンが孤立感を抱きながら彼らの前で奮闘するのも当然である。
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