• 検索結果がありません。

博士学位論文要約

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "博士学位論文要約"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

課程博士・論文博士共通

博 士 学 位 論 文 要 約

論 文 題 目: メディアが形成した近代奈良の表象

-博覧会・遷都祭に関する新聞報道の分析を通して-

氏 名: 北廣 麻貴

要 約:

本研究では、かつて奈良でひらかれた 4 つのイベントを中心に、メディア、特に新聞記 事における奈良の表象について考察した。考察したイベントは、明治に行われた「奈良博 覧会」と「平城遷都千二百年祭」、昭和に行われた「奈良遷都千二百五十年祭」と「なら・

シルクロード博覧会」である。

第一章では、明治期に開催された「奈良博覧会」について考察した。

明治期には博覧会が各地で開催されていたが、奈良博覧会は地方博覧会のひとつにはと どまらず、奈良にとって非常に意味を持つものであった。なぜならば、奈良博覧会の開催 時期と、奈良県が廃県になり、堺県に合併、またその堺県が大阪府に合併、その後奈良県 が再設置されるという激動の時代とが重なっているからである。

本研究では、新聞記事を収集したうえで、博覧会について、①「第一次大会から第六次 大会」、②「第七次大会から第十二次大会」、③「第十三次大会以降」と時期を分割して考 察した。

①「第一次大会から第六次大会」の特徴は、正倉院御物が出陳されていたことである。

正倉院御物という奈良独自の展示物によって、京都博覧会を凌ぐ盛況であったようだ。記 事では、展示物について詳細に書かれた記事ではなく、広報の働きをする記事が掲載され ていた。

②「第七次大会から第十二次大会」では、正倉院の出陳は見られない。その影響もあり、

徐々に景況の変化がみられ、この時期からは、新聞紙上でも、奈良博覧会の景況に詳細に 触れた記事が掲載され始めた。また新聞紙上で、出品物について詳細に記載することで、

奈良博覧会の魅力を強調し、集客を促したと考えられた。

③「第十三次大会以降」は、奈良博覧会の終焉期ともいえ、掲載される記事数も減少傾 向にあった。新聞記事の数からみても、徐々に人々の注目を得られにくくなったことが理 解できた。しかしながら、記事上では、例年通り博覧会を開催することを予告するような 記事がみられた。

奈良博覧会によって、奈良は古くから伝わる貴重な御物を大切に保存している場所であ ることを人々に知らしめることに成功したのだ。さらに、メディアによってそのような奈 良県の価値を、人々に広く伝えたのである。

奈良は、古くから伝わる貴重な御物大切に保存している場所であるという印象を、博覧 会という新しい事物紹介のイベントで全面に出し、新聞報道がそれを支えた。この成功に

(2)

課程博士・論文博士共通

より奈良は外の都市と取って代わることのできない、価値のある場所であるという印象を 定着させたといえる。

次に、第二章では、1910(明治 43)年に行われた「平城遷都千二百年祭」(以下、「1200 年祭」と表記)について考察した。

新聞記事の内容を確認すると、①「開催前の記事」、②「開催以降の記事」、③「奈良県・

奈良市の発展について意見する記事」、に大きく分類することができた。

まず①「開催前の記事」では、委員会が開かれ、1200 年祭について会議が行われたとい った事実を淡々と伝えるものがあった。その一方で、定型の見出しによって、決定事項や 準備状況を詳細に伝えるような記事も掲載されていた。1200 年祭当日に行われる行事の流 れについて事細かに伝えた記事は、広範囲に情報を伝達することのできる新聞記事という メディアを効果的に利用した例であった。

②「開催以降の記事」では、当時の奈良の様子が報じられていた。記事によると、当時 の奈良は大変に混雑していたようである。しかし、記事で確認できたことは当時の様子の みに限らなかった。本研究ではそのような当時の景況のなかでも、イルミネーションが記 事の中で言及されていることに着目した。1200 年祭においてイルミネーションは、人々の 注目を集めていた。イルミネーションが用いられたことによって、平城宮跡の保存運動の 推進にとどまらず、奈良への集客を目指していたのではないかと考えた。

そのためからか、新聞記事では、③「奈良県・奈良市の発展について意見する記事」が 掲載されていた。これらの記事では、他の京阪神地域が行っているように、新聞を用いて 紹介をしていかなければならないと述べられていた。新聞側が、新聞は有効なメディアで あることを紙面上で宣伝していたといえる。

以上から、1200 年祭は、平城宮跡の保護運動を推進していくことを年頭において開催さ れたイベントであったが、それのみならず、奈良県民を読者に持つ地方紙と全国紙の地域 面の新聞記事上では、奈良が今後発展していくためへの厳しい指摘がみられた。これは、

他の京阪神地域に引けを取らないような都市としての県民の自意識の形成に繋がったと考 えられる。

第三章では、1960(昭和 35)年に行われた「奈良遷都千二百五十年祭」(以下、「1250 年 祭」と表記)に焦点を当てた。報道は、元日から開催後まで段階を踏んで行われており、

人々の関心を集めるために有効な方法であったといえよう。しかし、それのみならず、1250 年祭では、日本的な行事内容が盛り込まれていた一方で、世界的な都市としての奈良を強 調していた。記録集を見ると、奈良市長などの関係者が、奈良は国際観光都市であるとい うことを強調していたが、本研究で考察対象とした新聞記事においてもその意識が見られ た。これは、奈良国際文化観光都市建設法が成立された影響を受けていると考えられ、記

(3)

課程博士・論文博士共通

事報道もその点に留意して記事化していたといえる。

さらに、本稿では、これらの記事が地方紙と全国紙の地域面に掲載されていたことを指 摘した。世界の奈良という都市を築き、日本の国内外からの人々に訪れてもらうためには、

第一に奈良の人々の意識を高めていくことが必要であった。地方紙と地域面はその意図を 紙面に反映したと言える。1250 年祭が開催された 1960(昭和 35)年の日本は、高度経済成長 期の只中にあり、様々な都市が近代化に向けて変貌を遂げていた。奈良においても、近代化や 国際化といった変革への対応が求められたといえ、そのような意識は、広範囲に情報を伝える ことが可能な新聞というメディアの中でも表れていた。1250 年祭の開催は、日本の原点であ る奈良を強調しつつも、世界的な奈良を協調するという、奈良をどのような場所として捉 えていくかという意識のいわば転換点であったといえる。

第四章では、1988(昭和 63)年に開催された「なら・シルクロード博」(以下、「シルク 博」と表記)に注目し、新聞記事で奈良がどのように報道されていたのかを確認した。

1980 年代は、シルク博に限らず、他の地域でも同様の博覧会が多数開催された時期であ る。そのような状況は、「地方博ブーム」や「地方博の乱祭」と表現されていた。

本研究では、地方紙や地域面での新聞記事のなかでも、①「問題に関する記事」、②「国 際性を表す記事」、③「インタビュー記事」という、3 つの観点から記事を取り上げ分析し た。

①「問題に関する記事」について、本研究では、地方紙と全国紙の地域面においても、

シルク博に関する記事は肯定的なものばかりが掲載されたわけではなかったことに言及し た。問題を報じる記事のなかでも、奈良のシンボルとして定着している鹿に注目した。シ ルク博の開催期間中、鹿に関する記事といえば、パビリオン建設の環境変化による問題に 関するものであった。シルク博開催中には、鹿について通常と異なった視点で報じられて いたといえる。

しかしながら、シルク博期間中に、鹿に代わって好意的に登場したのはラクダであった。

本研究では、②「国際性を表す記事」のなかでも、ラクダについて報じられた記事に注目 し、ラクダに関する報道が、奈良が国際的な都市であることが受け入れられたことを象徴 しているという点を指摘した。シルク博の報道では特に地方紙において、シルクロードの 終着点という他のどの都市にも代わることが出来ない奈良固有の価値が示された。それら は奈良の人々にさらなる独自性を誇る自意識を醸成したと考えられた。

さらに、シルク博の報道には、1250 年祭とは大きく異なる点があった。その違いは、③

「インタビュー記事」で注目した、関係者、特に県知事や市長以外のごく一般の人々がシ ルク博や奈良が国際的に誇れる他とは一線を画したイベント、また都市であることを当初 から自覚していたことである。それは、シルク博に一時的に関わったコンパニオンやイメ ージキャラクターへのインタビューでも顕著であった。このような記事は、シルク博を身 近なものとさせ、奈良県内の人々に奈良が世界に誇れる都市であることのより強い意識付 けになったと考えられる。

以上をふまえた本研究の意義は、以下の三点にある。一点目は、固定的であるとされる

(4)

課程博士・論文博士共通

奈良の表象にも変化があったことを明らかにできた点である。先行研究や、各種アンケー トによると、奈良の表象は、ある程度固定し、定着したものであるとされ、ときには日本 の原点など、「古都」としての印象も強い。しかし、奈良で行われたイベントを考察するこ とによって、メディアで強調された奈良の表象は、固定的ではなく、時代が移り変わるに つれ、国際的な都市へと変化させられていったことがわかった。さらに、その表象は、新 聞記事という広範囲の人々に情報を伝えることのできるメディアの中で顕著に表れていた。

本研究の意義の二点目として、当時の新聞と都市との関係を明らかにできたことが挙げ られる。新聞というメディアと都市は、時代によって、循環しながら相互に利用してきた。

奈良にあてはめると、他の都市に引けを取らない独自性のアピールを、広範囲に情報の伝 達を行うことが可能となる新聞紙上で行った。それによって、廃県の危機にあった都市を 国際観光都市まで引き上げることに成功した。明治時代に、新しいメディアであった新聞 は、部数と読者の獲得を目指し、多くの人々の注目を集めることが可能となる博覧会、遷 都祭に注目し、報道を行うことでメディアとしての地位を徐々に確立していったのである。

本研究の意義の三点目は、これまで先行研究で明らかにされてこなかった、奈良で行わ れた博覧会・遷都祭の内容を、付随的に明らかにできたことである。各イベントに関する 新聞記事を収集し、記事内容を確認するという作業を行うことによって、これまで空白に なっていた、行事内容や景況、当時の人々の声といった情報を明らかにすることができた。

参照

関連したドキュメント

第1章では『六格前篇』においてオランダ語の格がどのように示されているかについて

センサーやアクチュエーターの廉価化とネットワーク通信技術の発達に伴い,個々のシ

改正精神衛生法時代の保健所 PSW のインタビュー調査に関しては,ライフ・ヒ ストリー法を用いた.保健所 PSW として 1965 年代から

第 6

活動に個別性をもたらす決定的な部分であり、

そして第

これまでの社会的認知研究において,集団間葛藤の問題は,外集団に対して抱いている

島県産農産物へのポジティブな態度変化が確認された.また,効果は弱いが感情的メッセージの