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博 士 学 位 論 文 要 約

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博 士 学 位 論 文 要 約

論 文 題 目: 昭和文学における〈笑い〉の主題化

――昭和初期から二〇年代、

〈笑い〉の理論と実践の相互関係について――

氏 名: 佐藤 貴之 要 約

本論は日本近代文学における〈笑い〉を研究したものである。対象として、昭和初期か ら20年代の文学作品を取り上げた。具体的な研究方法としては、昭和初年から20年代 にかけての文学周辺の言説を調査することで、それぞれの時期ごとに見られる一般的な〈笑 い〉観の特徴を抽出し、当時の文学作品との関係を分析するという言説研究の方法をとっ た。この対象選択と方法論の設定は、近代的な〈笑い〉の起源として明治期の夏目漱石、二 葉亭四迷らを中心的に扱う既存の研究や、江戸戯作の継承と断絶の問題に偏りがちな〈笑 い〉研究を補う意図を持っている。

〈笑い〉という言葉には常に一定の曖昧さが含まれ、厳密な定義を行うことは困難であ る。しかし近代の作家達はその困難に対して、各々独自の〈笑い〉観や理論を提起し、それ らに基づく表現方法を模索した。この動態を捉えるために、本論では〈笑い〉をあえて曖 昧な範疇としておく措置をとった。本論における〈笑い〉とは厳密な範囲を画定するため の用語ではなく、それぞれの作家や同時代の言説がそこに意味を充填してきた歴史的動態 を書きとめ、集約するための便宜的な概念装置である。本論の一つの目的は、彼らの実践 を通じて、〈笑い〉観の地層を通時的に記述するという基礎作業を行うことにある。したが って分析の射程は、或る作品がいかに笑えるかという点にとどまらず、作家や作品が提示 する〈笑い〉観や、依拠すると想定される〈笑い〉理論の検討を含んでいる。

昭和期は〈笑い〉についての言説が質・量ともに変容し、社会の様々な局面で議論され ていく特徴的なエポックである。昭和初頭には、フランス喜劇や前衛芸術の本格的紹介、

アメリカ喜劇映画のグローバルな受容などを背景に「ナンセンス文学」の流行が起こる。

一方で、同時期に隆盛したマルクス主義陣営には、資本制を打倒すべく「諷刺文学」を掲 げたソヴィエト・ロシアの動向が伝えられていた。世界同時性に開かれた昭和期において、

文学上の〈笑い〉は単なる技法でなく、芸術的・政治的な態度表明と密接に結びつきはじ めていた。それゆえ当時の文学領域における〈笑い〉観の地勢図を作成する意義は少なく ないと考えられる。

特に大正末から昭和初期にかけての文学作品上では、読者をいかに笑わせるかという文 章技術にとどまらず、〈笑い〉とは何か(どうあるべきか)、という自己言及的な問題が浮 上していた。本論ではこれを〈笑い〉の主題化と呼び、考察の中心とした。すなわち小説単 体の滑稽さを解釈するだけではなく、作家がいかなる〈笑い〉観をもって実作に臨んでい たか、理論と実践の相互関係を研究した。その際、文学の〈笑い〉を行為遂行性の水準にお いて捉えることを試みた。

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第1章では、昭和4年に発表された井伏鱒二の小説「谷間」を取り上げた。本作は先行 文学の定型を踏まえたパロディ的な表現を行っており、その叙述形式は、農村の騒動が「運 動会」に変容するという物語内容とも対応していた。昭和初頭の農村状況を背景に、本作 は社会的慣習に承認された「名」付けの権力を撹乱するパロディの可能性を提示していた。

それはまた、資本制における言語と資本の寡占状態への対抗戦略となりうるものだった。

また作中に登場する奇妙な山水画には、同時代に紹介されたアヴァンギャルドの芸術家ゲ オルグ・グロスのスケッチとプロレタリア諷刺画の影響が窺える。同時代の言説との共振 から、作者が複製技術時代の〈笑い〉の方法に対して意識的であったことを明らかにした。

第2章では、最先端のフランス喜劇を紹介した演劇人であり、同時に大衆的な「ユーモ ア小説」の旗手でもあった獅子文六(岩田豊雄)を焦点として、昭和10年前後に起こっ た「諷刺文学」論議の流れを捉えた。昭和初期の文壇において芸術か消費かという論点は、

作家の主体性や政治性の表明とも複雑に絡み合っている。その文脈の中で〈笑い〉という 方法が、大衆に〈適合〉し、権力に〈抵抗〉する手段として注目された経緯を概説した。昭 和10年に発表された文六のユーモア小説「巷に歌あらん」は、架空の日本を舞台に、厳 しい芸術統制が実行された未来図を皮肉なタッチで描き出している。それは現実に迫りつ つあった文芸統制の趨勢を睨みつつ、「諷刺文学」と「ユーモア小説」の狭間で〈笑い〉の 在り方を主題化したものだった。文六の初期「諷刺小説」は、政府や御用学者・御用作家だ けでなく、「諷刺」を用いる作家達の在り方をも自己言及的に揶揄するものだった。

第3章では、第2章での行論を踏まえて、昭和14年に発表された坂口安吾の評論「茶 番に寄せて」と小説「勉強記」を論じた。安吾と〈笑い〉という観点ではこれまで「ファル ス」概念が中心化されてきたが、本章では、「ファルス」の発展形として彼の「道化」概念 を捉えた。「諷刺文学」が待望され、〈笑い〉の形式が局限されていく時代状況に対する批 判として、安吾が「道化」という特異な〈笑い〉観を提唱するに至った経緯を明らかにし た。また、そこにはアンドレ・ジイドと小林秀雄からの影響があったことを指摘した。彼 らの文学論を独自に取り込んだ安吾が「道化」の定義に加えたのは、「不合理」に通じる自 己諷刺の方法である。その実践が「勉強記」であり、作中のスカトロジックな〈笑い〉は境 界攪乱性に繋がっていた。ジイドが唱えた「茶番」とも通底する自己諷刺の〈笑い〉は、常 に自己相対化を行う安吾の傑出した方法であった。

戦後において、〈笑い〉の政治性は「近代的自我」の問題系に結びついていった。戦後の 混迷状況の中で奇妙なことに、人々は〈笑い〉の中に理想の主体的精神と、主体性を攪乱 する不穏さとを同時に見出していた。本論では第4章から第6章にかけて、戦後の〈笑い〉

観の勢力図を素描した。

第4章では、敗戦直後の文学言説を整理し、当時の「諷刺」と「ユーモア」に込められた 意味を概観した。その上で中村光夫の評論「笑ひの喪失」(昭和23年)を取り上げた。中 村の批評は戦後の言説と連動しながらも独自の観点を持つものであり、〈笑い〉を作者と主 人公の距離感、もしくは主体が自分自身にもつ距離感として主題化していた。「笑ひの喪失」

は中村の代表作「風俗小説論」の内容とも密接に繋がっており、本章では〈笑い〉の観点か ら「風俗小説論」の読み直しも試みた。中村が求めたのは、超越論的姿勢をもつ近代的主 体であり、そこには欠かせない急所として〈笑い〉と「血」の比喩が関わっていることを明

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らかにした。また彼が「喜劇」を批評の主題とした動機を、小林秀雄との関係において考 察した。

第5章では、昭和21年から昭和23年にかけて発表された、伊藤整の小説「鳴海仙吉」

を取り上げた。先行研究では作家の解説や評論『小説の方法』をもとに読解されてきた本 作だが、本章では小説本文の自立的な読解によって、その自己言及的な〈笑い〉の主題と 展開を詳らかにした。これまで「付随的」と見なされてきた本作の〈笑い〉は、実は物語内 容の急所に関わっている。その背景にあったのは、敗戦直後の知識人の急転換や、彼らが 口にする自己防御的な言葉遣いである。その文脈を踏まえて主人公・鳴海仙吉の諷刺的発 言や、作品内で交される〈笑い〉の行為遂行性を捉え、反語の効果についての伊藤の洞察 を明らかにした。

第6章では、昭和24~27年にかけての小島信夫の初期作品、「汽車の中」「卒業式」

「ふぐりと原子ピストル」を扱った。昭和20年代の「草の根の諷刺」と小島との距離を 測りながら、梅崎春生や杉浦明平、田村泰次郎など、同時代作家の方法とも随時比較した。

小島は〈笑い〉を物質=肉体性と相似的に捉え、主体に混乱を巻き起こす不可知なものと 見なした。その〈笑い〉を描出する上で「誰にでもわかる」ことはかえって致命的であり、

戦後初期の小島はあえて自らを統御せず、「混乱」の中で物語を描く「文体」実践を試みて いたことを詳説した。ゴーゴリの手法に学んだ小島の〈笑い〉観は、のちに「グロテスク・

リアリズム」概念を紹介する若き後藤明生の思考とも通じており、昭和30年代以降の文 学的〈笑い〉へと繋がっていく先駆けであった。「抱擁家族」を小島の到達点とする江藤淳 以来の評価軸を書き換える契機が、初期作品には存在することを示した。

第4章から第6章において、中村光夫の規範的理論と、伊藤整や小島信夫が取り組んだ 小説実践を対置させることで、それぞれの特徴が浮かび上がった。中村は〈笑い〉を主体 構築の理想像として捉え、逆に伊藤や小島はそれを脱主体化の契機として表象した。

上記の各章における考察を通して、文学の〈笑い〉と社会状況との密接な相関性が明ら かになった。それは単純な社会反映論や上部下部構造論では捉えきれない、複雑な回路を もつ個別の様態であった。

井伏鱒二は昭和初頭の社会状況を背景に、資本と言語の寡占状態を寓意的にパロディし てみせたが、それは逆説的なことに資本制によって到来した大量生産時代を一つの認識基 盤としていた。その時、〈笑い〉は理想の主体が持ちうる超越的心性ではなく、不断に横滑 りしていく駄洒落となる。これはW・ベンヤミンが論じたアウラの喪失に対応し、大正末 から昭和初期に認識されるようになった〈笑い〉の一つの形態と考えられる。

ベンヤミンが複製技術の中に、ファシズムに通じる政治の美学化と、民主的な芸術の政 治化という両面的な可能性を予告したことは、昭和10年前後の日本文学の〈笑い〉を捉 える上でも示唆的である。世界恐慌後の社会不安と政治的動揺によって要請された「諷刺 文学」は、英雄的な〈抵抗〉の美学に彩られていたし、一方で「大衆」層の支持を受けた

「ユーモア小説」ジャンルは、次第に〈適合〉の繰り返しを自己目的化していった。その両 者を横断しながら獅子文六は、閉塞していく言論空間の危機を戯画的に巧みに描き出して いた。

ただし、当時全ての作家が一様に「諷刺」を志した訳ではなかった。社会矛盾を笑う反

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動で自らの合理性を担保するような、そうした笑い方に異議を唱えたのが坂口安吾だった。

彼はむしろ「諷刺」が排除する過剰性を、自らの〈笑い〉の定義に組み込んだ。自己の〈笑 い〉さえ笑う「道化」の入り組んだ回路は、文六とは異なる形で時代と斬り結んでいた。

環境の変遷にしたがって、敗戦後も〈笑い〉の認識は変容していった。それは〈抵抗〉や

〈適合〉の手段というより、まずもって近代社会における人間の理想的美質を標示する観 念となった。安易に西欧社会をモデルとする言説が蔓延する中で、中村光夫は独自の超越 論的〈笑い〉の理論を追究した。むろん彼が示した〈笑い〉観も戦後特有の磁場で生まれた ものだが、やがてそれはコンテクストを脱臭されて以後の文学批評に揺曳していった。「ユ ーモア」を「距離」の比喩で語り、「アイロニー」の自己二重化を称賛する論法は、現在で もしばしば用いられるものだが、明らかに戦後の「近代的自我」モデルを根底にした評価 軸を反復している。

主体を所与に想定した中村に対して、〈笑い〉の効果=結果として主体が構築される力学 を、入れ子型に小説に組み込んだのが戦後の伊藤整だった。中村と伊藤の〈笑い〉観は、

〈笑い〉が本源的にもつ自律性/受動性の両極に対応している。平野謙や臼井吉見らと共 に戦後批評壇を主導した彼らの言葉は表面上よく似ているが、実際の論理には径庭があっ た。同時代の〈笑い〉の枠組みをいったん共有しながら乖離していく、両者の思考の対照 性が明らかになった。

小島信夫は、主体の問題に拘泥する批評家たちとは異なる形で〈笑い〉観を提示した。

物質性・肉体性の称揚は戦後文学一般の特徴だが、彼はそれを〈笑い〉と等価に捉えた。精 神主義に抵抗し、不可解さを求める小島の〈笑い〉観は、同時代のジョルジュ・バタイユが 提唱したそれと多くの点で類似している。世代こそ異なれ、両者はともに同時代を生き、

第二次世界大戦から〈笑い〉の閃きを得た人物だった。本論では、小島とバタイユの間で、

大戦の傷痕がもたらした〈笑い〉観の世界的な変動が共有されていた可能性を指摘した。

本論では対象時期を限定して歴史的な〈笑い〉観を記述したが、その作業は一方で、現 在の我々がもつ〈笑い〉観のバイアスをも浮かび上がらせてくれた。現在の芸術批評・研 究がしばしば無意識に前提する〈笑い〉の価値基準の多くが、昭和期に成形され、反復さ れてきたものである。例えば本論では、昭和期全体を通じて「諷刺」という批評用語が強 い拘束力をもってきた経緯を素描した。文学の〈笑い〉と言えば、まず社会的な「諷刺」を 思い浮かべる発想は、恐らく日本では昭和初期から10年代に根付き、以降のスタンダー ドになっていったものである。それはマルクス主義的世界観の浸透を経て「社会」や「大 衆」層の勢力が可視化される中で、先導者たるべきという自意識を抱えた知識階級の焦燥 に由来していた。つまり「諷刺」を頂点とする種々の〈笑い〉の序列化は、昭和期の社会状 況や政治情勢などの歴史的条件のうちに要請され、現在まで維持されてきた制度的思考な のである。あるいは「諷刺」の反措定として別種の〈笑い〉――「ナンセンス」「道化」「グ ロテスク」「逸脱」等々――を称揚する運動もまた、歴史的に繰り返されてきた認識の表裏 であることが確認できる。こうした認識の歴史的反復性を了解した上ではじめて、時代ご との細かな差異に眼を向けることが可能になる。

以上のように本論では、作品個別の滑稽さを論じるだけでなく、文学におけるメタ〈笑 い〉論とでも呼ぶべき視点を展開させた。この視点は別の時代や対象にも応用可能であり、

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〈笑い〉に関する研究および近代文学の史的研究において一定の意義をもつと考える。よ って今後の研究では、社会事象に対する作品の「諷刺」性を探るだけでなく、文学の〈笑い 方〉のバリエーションと歴史的・社会的諸条件との相関性を探る必要があることを、本論 では改めて提起した。

昭和期の文学作品に現れた〈笑い〉の主題化とは、あらゆる事物が商品化され、大量複 製されていく時代状況において、政治的有効性をも求められた文学が、自らの存在論を問 い直していく一つの在り方であったと結論した。そこで生まれたいくつかの価値基準は、

現在でも依然機能している面がある。よって文学の〈笑い〉を対象とする批評や研究は、

自らが依拠する認識枠組みの歴史的系譜を意識する必要があることを示した。

主な引用文献・参考文献

・亀井秀雄『伊藤整の世界』(講談社、昭44・12・8)

・ミハイール・バフチーン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文 化』(川端香男里訳、昭63・1・10)

・リンダ・ハッチオン『パロディの理論』(辻麻子訳、未来社、平5・3・22)

・鳥羽耕史「「諷刺小説」から「ルポルタージュ」へ――杉浦明平『ノリソダ騒動記』の成 立――」(「昭和文学研究」44、平14・3)

・ジュディス・バトラー『触発する言葉 言語・権力・行為体』(竹村和子訳、岩波書店、

平16・4・27)

・佐藤泉『戦後批評のメタヒストリー 近代を記憶する場』(岩波書店、平17・8・11)

・小林真二「ファルスとしての「風博士」――〈「莫迦々々しさ」を歌ひ初めてもいい時期 だ〉――」(「国語と国文学」82―10、平17・10)

・牧村健一郎『獅子文六と二つの昭和』(朝日新聞出版、平21・4・25)

・滝口明祥『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代 漂流するアクチュアリティ』(新曜社、平2 4・11・28)

参照

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