第 5章 結
以上
4章
にわた り平城宮跡 内の兵部省地区に関する発掘調査の成果 を報告 した。 ここで要約 をかねて若千の問題点あるいは今後の課題 について言及 してお こう。調査では、平城京遷都 当初 に造営 された遺構群(下層)と、その廃絶後 に整地 を行 って造営 し た遺構群 (上層)と を確認 した。調査地のす ぐ東南 には、平城宮の南面東門である壬生 門が南面 大垣 に開 くが、下層の時期 にここに築地塀 の南面大垣 は、まだな く、その
16m北
側 に東西方向 の大規模 な掘立柱塀SA1765が
つ くられ、これが平城宮の南側 を区画する施設であった。この時 期 に属する顕著 な建物遺構 は確認 していない。その理由の一つは、上層遺構 の遺存状況が良好 であるため、整地土層 を排 除 して下層遺構 を全面的に検出す るには、上層遺構 を壊 さなければ な らず、特別史跡 として保存 されている遺跡の保護のために、下層遺構 の調査 は最小 限度 にと どめることが求め られたことにあ る。それで も、なお、部分的な下層検 出調査 を通 じて、建物 遺構 は稀薄であると判断 された。上層は、一辺が
73mほ
どのほぼ正方形の区画施設 と、その内部の8棟
の瓦葺 き礎石建物群で 構成 される。区画内部 は東西棟 の正殿 を中軸線上に置 き、東西の前面 に各2棟
の南北棟 を配置 す る、典型的な左右姑称の建物 配置であることが判明 した。 これは平城官 において、朝堂院な どの官殿地域以外 では初めての確 認例である。 この南 に開いたコの字型配置 は、各地の地方官 行 の政庁中枢部 に も広 く採用 されてお り、地方支配制度の歴史的展 開を検討す る上で重要な知 見 となろう。 また区画内の建物群 は、その基壇の外装や高 さの違いか ら、建築様式 に明確 な序 列化が実施 されていることが類推 された。 このことは、建物の機能 を評価す る有効 な根拠 とみ なす ことがで きる とともに、他 の場所 で確認 された建物遺構 の性格 を検討す る際に も有力 な視 点 を提供する。上層の遺構群 はい くつかの根拠 に基づいて、兵部省の跡であると判断 した。兵部省の職掌は、
奈良時代 にあっては、武官の人事 、全 国の兵士 と兵器 。軍事施設な どの管理 な どがあ り、全国 の軍事お よび情報通信網 を統括 す る大 きな役割 を担 っていた。兵部省の前 身は675年に史料 に 初めて現れる兵政官 まで遡 り、701年 に制定 された大宝令で、兵部省 と改称 される。
今回報告す る兵部省 とは、壬生 門の中軸線 と姑称的な位置 に、ほぼ同 じ規模、建物配置 を持 つ式部省が配置 されていたことが、 これ までの調査で明 らかになっている。式部省は官人の人 事 を担当す る、強大 な実権 をもった官庁 であるが、遺構 の上では、誤子の官庁 とも評 されるよ うに、兵部省 と酷似 した存在形態 を示 してお り、 この状況は後の平安京 に踏襲 される。史料の 分析 を通 じて、当初、かな らず しも式部省 と同格ではなかった兵部省の実権が増強 されるのは
天平初年 (730年代前半
)の
ことと判断 される。調査で確認 した兵部省の遺構 は上層 に存在 し、その前段階の兵部省の所在 は不 明であるが、この(後期)兵部省の造営が、天平初年の、兵部省 が式部省 と措抗す る権威 を確立す る とい う政治動向 と密接 に関係す ると考 える。
しか し問題は残 される。(後期
)兵
部省 の建物群 に使用 されていた屋根瓦 は、軒丸6282G型
式 一軒平瓦6721F型
式、それに6225A‑6663Cbの
セ ッ トが大 半 を占めてい る。 これ らの軒瓦 は、従来、740年 (天平12)以 降、恭仁京や紫香楽宮、難波京 な どに遷都 を繰 り返 し、745年 に平城京
H H 玉
279
第 5章 結 語
に還都 した直後 の、東 区朝堂 院や第二次 大極殿 な どの平城宮 中枢部 の大規模 な造営 に使用 され た ものであ る と考 え られてお り、そ うで あれ ば、(後期
)兵
部省 の造 営 が天平初 年 で あ る との先 の判 断 とは矛盾 を きたす こ とになる。 しか し、近年 の研 究動 向に従 えば、 まだ確 定 的 な定見 と はみ な しえない ものの、6282‑6721型式 あ るい は6225‑6663型式 の発 現 時期 は740年 以 前 に さ1)
かのぼる可能性 も指摘 されている。
この上層兵部省の造営時期 についての明解 は、本報告書の範囲では見出す ことがで きない。
ただ し、4‑3‑15で 言及 したように、(後期
)兵
部省 とは南面大垣 を距ててす ぐ南 に位置す る二条 大路北側溝SD1250から「兵部」、「兵部厨」 な どといった明確 に兵部省 を示す墨書土器がみつ かっている。SD1250出上の土器群 は従来平城宮 出土土器の Ⅱ段階に位置づけ られている。この 段階の略年代 については、上限は和銅末年 (715年頃)、 下限についてはSD1250で共伴 した神亀4年
〜天平6年 (727〜734)の 紀年木簡 を根拠 として、全体 として715〜 730年頃 と考 え られてい2)
る。これを、史料か ら接近 しえた(後期
)兵
部省の造営年代である天平初年 と平仄があ うもの と して積極的に評価するか、あるいは、 これ ら墨書土器 は、今の ところ杏 として所在 の知れない 前期兵部省 に関わるものである可能性 を保留 してお くか、判断 しがたい ところであることは否 めない。今後、周辺地域 とくに式部省 とその東側 に展 開する神祇官であることが判 明 した官衛 地域 な どの発掘調査の成果を十分検討 し、また軒瓦6282、 6721、 6225、 6663型式 などの年代 的位 置づ けについての、いっそ うの追究作業 を通 じて、 よ り明確 な歴史事実 を提示す ることが可能になることと確信 している。
この調査では、調査地の西端付近 を南流す る基幹排水路SD3715からの多量の出土品 も注 目 される。土器では、奈良時代末期の須恵器資料 に特徴 的な傾向が認め られた。172点に及ぶ木簡 の記載内容 も、周囲の空間の性格 を示唆 していることが明かになった。 また、特 に調査地の北 辺付近か ら弥生時代の複数の竪穴住居跡がみつか り、奈良盆地北域 では稀有 な弥生時代前期新 段 階の ものであることがわかった。弥生時代 の石包丁、石鏃、石斧 な ども多数出土 し、井戸跡 か ら一括 出土 した古墳時代前期の土師器群 の存在 とともに、平城宮の造営以前のこの地域 の歴 史状況 を復原す る資料 を蓄積す ることがで きた。
なお、本書では、兵部省 とい う、一つ の典型的な官衛 区画が解明 されたことをもとに して、
平城宮 内で これまで調査 され、報告 されている官衛 区画について、再検討 を行 った。 とくに、
各官衛 区画の設定規格 を明 らかに し、使用尺度 との関わ りで、造営年代 を検討 した。 また平城 宮 内の官殿や官行区画の間に設定 されている通路遺構 について全体的な検討 を施 した。加 えて、
平城宮跡の遺存地割 について、それが平城宮廃絶後の田畑経営の経済的必要性 に促 されて新 た に施工 されたのであるとする近年の学説 に対 して、その判断は間違いであ り、平城宮跡 に残 さ れる水 田畦畔 を中心 とした遺存地割 は、平城宮廃絶当時の官行、宮殿 区画 を如実 に反映 した も のであることを実証 し、従来不完全であった、宮 内全域の遺存地割 による区画復元 を試みた。
1)奈
良県教育委員会1995「V
類)」『平城京左京二条二坊・
査報告』(奈文研編)など。
(考察
)2(瓦
)専三条二坊発掘調
2)奈
良文化財研究所1991「Ⅵ‑2C平
城京土器の大別」『平城宮発掘調査報告XⅢ』。
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