4 二 〇 一 八 年 三 月 富 山 文 学 の 会
群峰 4
富山 文学 の会
= 目 次
=
◇研 究論 文
木下 晶
林忠 正「 外山 博士 の演 説を 読む
」を めぐ って
~日 本の 西洋 美術 教育 の提 言~
孫 媛媛
芥川 龍之 介の 金沢 訪問 と室 生犀 星
水野
真理 子
小寺 菊子 の作 品に 垣間 見る 宗教 観
―「 他力 信心 の女
」「 念仏 の家
」 より
谷川 拓矢
現代 女性 作家 によ る富 山文 学の 変遷
―木 崎さ と子 から 山内 マリ コへ
―
◇講 演筆 録
上田 正行
千石 喜久 と言 う詩 人
―「 日本 海詩 人」 を視 野に 入れ つゝ
◇魚 津文 学散 歩報 告 黒﨑 真美
◇二
〇一 七年 度 活動 報告
13 3 21
27 38
47 49
林忠 正「 外山 博士 の演 説を 読む
」を めぐ って
~日 本の 西洋 美術 教育 の提 言~ 木下 晶
※引 用文 献に つい て。 障害 を持 つ方 への 配慮 が不 足し た表 現が ある が 原文 を尊 重し て転 記し た。 現代 仮名 遣い に改 め、 適宜 段落 と、 文中 の 引用 部分 は「
」を 加え た。 はじ めに 高岡 出身 の林 忠正 は、 国際 的な 美術 商や 美術 品鑑 定家 とし て知 られ てい る。
「外 山博 士の 演説 を読 む」1 は、 明治 二十 三年
(一 八 九〇
)五 月の
「明 治美 術会
」で 林忠 正が 行っ た講 演の 記録 であ る。 この 講演 は、 題が 示す 通り
、同 会第 二回 大会 での 東京 帝大 教授 外山 正一 の講 演記 録「 会員 文学 博士 外山 正一 君の
『日 本絵 画未 来』 と題 した 演説 記録
」2 が、 日本 美術 の振 興に は画 題選 択が 重要 とし たこ とに 対し て各 種の 反論 があ がり
、論 争に 発展 する 中で
、林 忠 正は
、西 洋美 術の 技術 習得 が先 であ ると 反論 した もの であ る。 この ため
、林 忠正 が技 術を 重視 した 点ば かり が強 調さ れて きた きら いが ある
。特 に、 森鴎 外は
「外 山正 一氏 の画 論を 再評 して 諸 家の 駁説 に旁 及す
」3 で、 この 論争 にお ける 各論 者の 説を 取り 上げ る中 で、 林忠 正の 演説 に言 及し
「技 術を 重ん ずる こと
、度 に過 ぎ たる に似 たり
」と して いる
。当 時の 西欧 と日 本の 西洋 画の 技術 の 差に つい ての
、森 鴎外 の識 見が 問わ れる 部分 でも ある
。 この 講演 記録 で、 林忠 正は 広い 知見 に基 づき
、日 本美 術の 未来 は西 洋画 にあ るこ と、 西洋 美術 教育 が必 要で ある こと
、併 せて 美
術と 工芸 を区 別す べき こと
、美 術の 定義 など
、美 術史 にお ける 重 要な 提言 を行 った
。本 稿で はこ れら の論 点の うち
、前 半の 二点 に つい て取 り上 げた い。 この 講演 記録 は、 以下 の六 つの 項で 構成 され てい る。 整理 のた め、
①~
⑥の 番号 を振 り、 適宜 引用 した い。
① 美術 の定 義、 明ら かな らず
② 博士 の演 説
③ 今の 画人 は画 題に 応ず るに 困し む者 なり
④ 絵画 の実 体を 描く こと 能わ ざれ ば、 精神 を描 くこ と 能わ ざる もの なり
⑤ 美術 の定 義
⑥ 未来 の日 本絵 画は 何画 なる か 日本 の美 術政 策の 改革 を提 言 林忠 正は
、嘉 永六 年( 一八 五三
)に
、高 岡の 蘭方 医長 崎言 定の 次男 とし て生 まれ た。 明治 三年
(一 八七
〇) に富 山藩 大参 事と な った 林太 沖の 養子 とな り上 京し
、村 上英 俊の フラ ンス 語塾
「達 理 塾」 を経 て、 富山 藩貢 進生 とし て大 学南 校に 入学 した
。し かし
、 翌年
、明 治四 年の 養父 の失 脚で 政界 への 道は 絶た れた
。明 治六 年 に開 校し た開 成学 校( のち に東 京大 学) に入 学し
、年 上の 従兄 弟 の磯 部四 郎同 様、 フラ ンス 留学 を希 望し たが 叶わ なか った
。 東京 大学 卒業 間近 に中 退し
、パ リ万 国博 覧会 通訳 とし て、 西洋 で日 本の 産物 を販 売す る「 起立 工商 社」
(明 治七 年( 一八 七四
)設 立) に入 社し
、パ リに 赴い た。 明治 十一 年( 一八 七八
)パ リ万 国博 覧会 の日 本館 で通 訳と して 来館 者の 求め に応 じて 作品 解説 に務 め、 パリ の美 術関 係者 の知 己 とな った
。ビ ュル ティ 宅に 招か れ、 ゴン クー ルや マネ
、ド ガら と
林忠 正「 外山 博士 の演 説を 読む
」を めぐ って
~日 本の 西洋 美術 教育 の提 言~ 木下 晶
※引 用文 献に つい て。 障害 を持 つ方 への 配慮 が不 足し た表 現が ある が 原文 を尊 重し て転 記し た。 現代 仮名 遣い に改 め、 適宜 段落 と、 文中 の 引用 部分 は「
」を 加え た。 はじ めに 高岡 出身 の林 忠正 は、 国際 的な 美術 商や 美術 品鑑 定家 とし て知 られ てい る。
「外 山博 士の 演説 を読 む」1 は、 明治 二十 三年
(一 八 九〇
)五 月の
「明 治美 術会
」で 林忠 正が 行っ た講 演の 記録 であ る。 この 講演 は、 題が 示す 通り
、同 会第 二回 大会 での 東京 帝大 教授 外山 正一 の講 演記 録「 会員 文学 博士 外山 正一 君の
『日 本絵 画未 来』 と題 した 演説 記録
」2 が、 日本 美術 の振 興に は画 題選 択が 重要 とし たこ とに 対し て各 種の 反論 があ がり
、論 争に 発展 する 中で
、林 忠 正は
、西 洋美 術の 技術 習得 が先 であ ると 反論 した もの であ る。 この ため
、林 忠正 が技 術を 重視 した 点ば かり が強 調さ れて きた きら いが ある
。特 に、 森鴎 外は
「外 山正 一氏 の画 論を 再評 して 諸 家の 駁説 に旁 及す
」3 で、 この 論争 にお ける 各論 者の 説を 取り 上げ る中 で、 林忠 正の 演説 に言 及し
「技 術を 重ん ずる こと
、度 に過 ぎ たる に似 たり
」と して いる
。当 時の 西欧 と日 本の 西洋 画の 技術 の 差に つい ての
、森 鴎外 の識 見が 問わ れる 部分 でも ある
。 この 講演 記録 で、 林忠 正は 広い 知見 に基 づき
、日 本美 術の 未来 は西 洋画 にあ るこ と、 西洋 美術 教育 が必 要で ある こと
、併 せて 美
術と 工芸 を区 別す べき こと
、美 術の 定義 など
、美 術史 にお ける 重 要な 提言 を行 った
。本 稿で はこ れら の論 点の うち
、前 半の 二点 に つい て取 り上 げた い。 この 講演 記録 は、 以下 の六 つの 項で 構成 され てい る。 整理 のた め、
①~
⑥の 番号 を振 り、 適宜 引用 した い。
① 美術 の定 義、 明ら かな らず
② 博士 の演 説
③ 今の 画人 は画 題に 応ず るに 困し む者 なり
④ 絵画 の実 体を 描く こと 能わ ざれ ば、 精神 を描 くこ と 能わ ざる もの なり
⑤ 美術 の定 義
⑥ 未来 の日 本絵 画は 何画 なる か 日本 の美 術政 策の 改革 を提 言 林忠 正は
、嘉 永六 年( 一八 五三
)に
、高 岡の 蘭方 医長 崎言 定の 次男 とし て生 まれ た。 明治 三年
(一 八七
〇) に富 山藩 大参 事と な った 林太 沖の 養子 とな り上 京し
、村 上英 俊の フラ ンス 語塾
「達 理 塾」 を経 て、 富山 藩貢 進生 とし て大 学南 校に 入学 した
。し かし
、 翌年
、明 治四 年の 養父 の失 脚で 政界 への 道は 絶た れた
。明 治六 年 に開 校し た開 成学 校( のち に東 京大 学) に入 学し
、年 上の 従兄 弟 の磯 部四 郎同 様、 フラ ンス 留学 を希 望し たが 叶わ なか った
。 東京 大学 卒業 間近 に中 退し
、パ リ万 国博 覧会 通訳 とし て、 西洋 で日 本の 産物 を販 売す る「 起立 工商 社」
(明 治七 年( 一八 七四
)設 立) に入 社し
、パ リに 赴い た。 明治 十一 年( 一八 七八
)パ リ万 国博 覧会 の日 本館 で通 訳と して 来館 者の 求め に応 じて 作品 解説 に務 め、 パリ の美 術関 係者 の知 己 とな った
。ビ ュル ティ 宅に 招か れ、 ゴン クー ルや マネ
、ド ガら と