同一性拡散(Identity Diffusion)
の臨床的検討
横 溝 亮 一
1.はじめに
E.H. Eriksonは,人間はその一生を通して,それぞれの発達段階に特有の 中心的課題をもち,これらの課題をその段階ごとに解決していくことによって,
望ましい精神的成熟が可能になると主張する。そして,彼の漸成説による第五 段階にあたる青年期の課題を「自我同一性」(Ego identity)の獲得であると する。青年期は,「同一性の危機」(Identity crisis)にさらされる時期であり・
この課題解決に失敗したものは「同一性拡散」(ldentity diffusion)と彼が名 づける病理をあらわすという。
筆者の数少ない臨床体験においても,こうした学生の何人かと治療的面…接を する機会を得た。大学生の精神衛生に何らかの型で関与する限り,学生のこう
した病理傾向を少しでも明確にさせておくことの必要性を感じ,今回,ある一 学生との面接を基に,「同一性拡散」と呼ばれる病理に触れてみたい。
II.事例一一A(大学3年)
〈臨床像〉身長180em位。ガッチリした体格。その体躯は,中学時代に剣道部,
高校時代にはラグビー部と,計6年間に渡って,かなり激しい運動系クラブの 練習で鍛え抜かれた体であることを充分に想像させるものがある。そうした体 躯と対照的な柔和な眼指が印象的。
〈主訴〉毎日が怠だである。何かやらなければと思っているのであるが,何も できないでいる。
〈家族>5人家族。両親とも健在。自営業。両親とも農家の出身で,結婚後,
現在の商売を始める。結婚した当初は,経済的にかなり苦労したらしいが,現 在はかなりゆとりがある。本人は3人兄弟の末っ子。姉が2人いる。
m.面接経過
初回面接(6.25)
○世の中の風潮や,自分の周囲の友達を見ていると腹立たしくなる。(努力 しないで)〈優〉の取れる授業を捜したり,金で肩書を買っている感じがする。
自分のことだけしか考えていない。2年の時は,経済学部にいたのだが,経済 学を学ぶのが嫌になって専門科目は全部捨てた。3年になって法学部に転部し た。法学部に移っても,憲法や刑法はいいが,民法などは利害関係のみ追求し ているようで嫌な気分になる。授業にはあまり出ていない。
○夜になっていろいろ考え始めると焦々してくる。絶対的に正しいものを見 つけたいのだが,それがみつからない。偉人の伝記を読むのは好き。偉大なる
ものに打ち込む姿に,苦しい条件に打ち勝っていく姿に感動する。
○優柔不断なところや,人や状況に流されやすいところがある。自分が甘や かされている感じがする。そうしたものへの反揆から,中学の頃は剣道部に,
高校の頃はラグビーt部に入っていた。高校入学の頃より,生きる意味を考え始 めた。でも,これというものがなかった。そうしたモヤモヤをスポー一・一・ツにぶつ けてスカッとしていた。
第2回面接(7.2)
○享楽的な,生温い,ただ生きているような生活はしたくない。真剣に打ち 込むことを見つけなければ……。だけど,行動が伴わない。何がやりたいのか,
その答えが出てこない。焦っているわりに何もしていない。
○気分の変動が激しい。最近は少し気楽に……あまり深刻に考えなくなって きた。諦め,なるようになる,という気持。気分が沈んでいる時は,利己的な 人間がひどく嫌いだった。法律の勉強をしていても,金儲け目当の弁護士がい
ると思うと嫌な気分になった。勉強しようと思うと,そういう嫌な気分におそ
われて勉強に手がつかなかった。今は,半分は自分のため,半分は他人のため
でいいのじゃないかと妥協的な気持も湧いてきている。少し勉強するようにな
ってきた。
○バイト先の経営者の利己的な汚なさに対する嫌悪感。金に対する矛盾した 気持。将来の職業が決まらない。一般企業は営利が目的だから嫌だ。家は商売 をやっている。金のために人にペコペコ頭を下げることなどしたくない。両親
とも教養がなく,精神面で与えてくれたものはない。
○小説「大地」の主人公の逞しい生命力はどこからくるのか。自分も,図太 い神経がほしい。きれい事では生きていけないのかもしれない。そうすると何 が正しいことなのか……判らなくなる。
○理想を求めていても具体的な型がない。絶対なるものを求めているプロセ スがいいのかもしれない。それを得れぽ柔軟性がなくなる気が……でも(ない のは)苦しい。
○自分の中に矛盾があり,それに気づくと前に進めなくなってしまう。じゃ あ,どうしたらいいのかというところで,全然判らなくなってしまう。……い ろんなことを考えていると,漠然と将来生きていけるのかと不安になることが
ある。
第3回面接(7.9)
○意志が弱い。やろう一面倒臭い一後悔,の繰り返しだ。これで卒業してい くのかと思うとやりきれない。友人と話。何も考えずに音楽を聴いて生活して いるという。竹の子族の「明日死ぬかもしれないから,今を楽しく生きるだ け」の言葉に感動したという。そんな生き方は,ただの動物同然の生き方で空
しい。でも,反発はしても自分の今の生活がそれと違うとはいえない。
○自分の考えは矛盾している。ある点では他人を軽蔑していながら,他人の 視線がいつも気になるところがある・そういう意味でも図太さが欲しい。
○自分はこんなに苦しんだのだから自信を持ってもいいのでは……自分の愚
かしさに気がついたのだから自信を持ってもいいのではとも思う。自分の愚か
しさに気がつかぬ人よりいい。世の中の人々はくだらない。金々々,Sex々
々だ。っいていけない。自分がはみだし者なのか。社会と妥協して,多少は享
楽的に生きてもいいのかとも思うが……。
第4回面接(7.16)
○田中正造を主人公とする小説を読んだ。やはり,法律の知識を持っていな いと駄目だと思った。正義のためとか,悪と闘うとかいっても,実際に自分に その能力がないと駄目だ。将来,何になるかは判らないけど……勉強してない と駄目だと痛感した。ちょっと遅すぎたなという感じもするけど,やるだけや ろうと思う。
○生きがいは自分でみつけるしかない。それより最近は,自分の性格の弱さ,
意志の弱さの方が気になる。人と一一緒にいると自分を見失っているようで,ど うも気疲れしてしまう。ちょっと知ってる位の人が駄目。人に合わせよう合わ せようと無意識にしているみたいだ。それに,気分が安定していない。自分の 中で感情と理性が分裂しているように思える。〈かくあるべし〉とする理性と,
そうなりえない感情が,対立していて,理性が勝ったり感情が勝ったり,ゴチ ャゴチャ格闘している。それが苦痛。心の落ち着きを失なわせている原因。理 性が強い時,自己嫌悪に陥る。
○人中に出ると,自分が普通の人と変った容貌をしているんじゃないかとか,
人に見られているような気がして,それだけで気分がまいってしまうとか顔が 赤くなってしまうことがある。中学の頃から人前に出るのが嫌だった,恥ずか しかった。電車の中とか喫茶店とか人が動かない所にいると何か人が気になっ てしまう。
○自信がないんだと思う。自信が持てる人が羨ましい。一つのことをやっ ていてもすぐに自分は正しいことをやっているんだろうかと疑問が生じてしま
う。
○理想から見ると,自分のやっていることがあまりにも小さく,くだらなく 見えてしまう。それで現実が嫌になってしまう。そう言える程,自分は何もし
ていないんだけども……。完全を求めるから少しでも傷があると嫌になってし
まう。
○俺は俺の生きたいように生きると思っても,感情が本当にそうかとささや
く。疑問が頭をもたげる。名誉など,くだらないと思っても,やはりあった方 がいいと現実には望んでしまう。今の大人も,若い頃は,そういうことで悩ん だのだろう。大人になるとそうした悩みもなくなるのかなあ。そうなると,虚
しいなあ,悲しいなあ。人間ではなくて,犬や猫と同じではないか。
第5回面接(7.24)
○憎むとか,嫉むとかいった醜い破壊的な感情がなくなればどんなにかいい だろう。争い事には皆そういった感情が混り,嫌な思いをするのは全てそうい
う感情が混っているからだ……。父親が大嫌いだ。社会に出ていないせいか,
井の中の蛙というか,空いぼりしたり,知ったか振りをしたりするのに実は何 も知らない。カラッとしない,陰険(湿),といった印象がある。大人になって も,父親のようにはならない。自分の稼い感情は父親から移ってしまったんじ ゃないかと思うことがある。自分のことは明かさないで,他人のことを知りた がる,コセコセしている所があって嫌。母親は自分を殉教者気取りにする。他 人にすがる。疲れた時など,「ああ,疲れた。」とわざとらしくいって,同情を 引くように,慰めの言葉をかけざるをえないように,それを見越して言ってい る感じがして嫌。その点を抜かせば母親はいい。
○たいしたことでもない事で,自分が駄目だと思えてしまうことがある。す ぐに生きている価値がないように思えたり,他人に劣等感をもったり……でも,
他人を知っていくと,他人にもあること。でも,だからといってお互いさまに
はならない。
○今迄何もしてこなかったが後悔はしたくない。それなりに考え苦しんでき た。確かなものをつかもうとしてきた。〈考えたい〉と思っていた生活は実現
した。でもこれが自分の望んでいた生活なのか……。
○皆,寂しいんだと思う。心を打ちあけられる人がいなくて……。判ってく れる人がほしいという欲求があるのだろう。僕もそうだ。
第6回面接(8.14)
○遊びも勉強も集中的に出来ない。中・高の頃は,受験という目標があり,
勉強に打ち込めた。今は,将来の目標がないから,どうも気がたるんでしま う。だから,最近は,弁護士を目指すんだと思うようになってきた。
○一一・・一・一人でいる時は,自分の良心に正直に生きたいと思っているのだが,人と
話などしていると,地位・名声を得たい,人から尊敬されたいという気持も湧 く。その二つが自分の中で格闘している。現実的欲求を満たすよう努力するの がいいのかなとも思うが,そういう人間は世の中にざらにいるし……人に負け たくない気持もある。
○〈尊敬〉という言葉を聞いてハッとした。現代には,昔の子弟関係にある 絶対服従とか尊敬とかがない。自分も誰も尊敬していない。それがあれば安定 するのではないか……時代病なのかもしれない……殉教者のTVを見て,頼れ
るものがあるのはいいと思った。でも神には頼りたくない。
○何かをつかもうと思っても何もつかめず,ただ日々が流れていくと,心が まともでなくなっていくような,駄目な人間になっていくような恐怖感におそ われる。行動をおこすまでが駄目で,すぐ面倒臭いと思い,怠惰な一日を送っ
てしまう。自分には強制力が必要だと思う。気分の変り易さや意志の弱さは直 るのだろうか……。
○偉大なことが出来っこないのは判っているが……そうでないと,又,たいし たことではないようにふと思えてしまう……気にとめなけれぽいいのだろうが
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