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ランペルトの見るアンノとその時代(一)

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(1)

ランペルトの見るアンノとその時代(一)

著者 井上 雅夫

雑誌名 人文學

号 173

ページ 21‑54

発行年 2003‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004404

(2)

ランペルトの見るアンノとその時代

井 上 雅 夫

はじめに

筆者は昨年ランペルト=フォン=ヘルスフェルトのアンノ観をカイザースヴェルトの事件やハインリヒ四世の成人

式︵刀礼式︶︑ケルンの反乱について主にハインリヒ四世との関連の中で検討したが︑本論では上記以外のアンノに

関連する重要な事件︑人物について︑必ずしもハインリヒ四世との関連に限らず考察していきたい︒前稿でも見たよ

うに︑ランペルトとアンノ︑ハインリヒ四世とアンノ︑或いはランペルトとハインリヒ四世との関係は単純に一方が

他方を支持したり敵対したりする関係と割り切ることは出来なかったが︑本論で取り上げる諸事件や人物の中でも︑

その点は余り変わらないと言ってもいいのである︒

ランペルトの描くアンノ像も複雑であり︑彼が記述するアンノと関係する人物︑事柄によりかなり差があるのであ

る︒アンノについては︑彼の感受性の強さと過剰な意志の間で揺れるむら気な性格が彼についてのいろいろな判断が

なされる原因であろうとも言われるが

︑前稿ではランペルトがアンノに関する限りは︑尊敬する人物にも公平で客

― 21 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(3)

観的な立場をとっていたことが見られたが︑本稿では必ずしもそうとは言えない面が目立つのである︒

ランペルトの年代記が何らかの目的をもって誰かに積極的に訴えるために書かれたものとは言い難い以上

︑彼の

記述傾向に揺れがあってもおかしくないのである︒その上︑本稿で扱う諸事件や人物においては︑ランペルトの記述

は彼の立場に近い人々の思い︑見方をかなり反映しているか︑或いは素直に語り伝えている面が目立つのである︒こ

のようなランペルトの描くアンノ像あるいはアンノの時代像は︑逆にまたランペルト像についてもさまざまな解釈を

可能にするように思われるのである︒

なお︑マントヴァ会議や法王庁︑ザクセン戦争とのアンノの関連については︑次稿で検討していきたい︒

拙稿︑﹁ランペルトとアンノ︱主にハインリヒ四世との関連を中心に︱﹂︵文化学年報︑第五十一輯︑平成十四年︶

BiographischesWörterbuchzurDeutschenGeschichte,Bd.I.︵1973︶S.112.

拙稿︑﹁ランペルト=フォン=ヘルスフェルト︱年代記をめぐる諸問題﹂︑

︑︵ 人 文 学

︑ 第 百 六 十五号

︑ 平成十一年

︶ 二 十

二十八ページ参照︒

一︑

ランペルトが︑中位の身分の出であったアンノはただ卓越した賢明さと徳でのみハインリヒ三世に知られるように

なったと書いているように︑高位貴族の出身でないアンノが︑ハインリヒ三世の周辺でその真価を認められ︑やが ランペルトの見るアンノとその時代

― 22 ―

(4)

てケルンの大司教の地位にまで至りえたのは︑彼の教養と行動力のお蔭であった

︒この行動力と言えば︑シュタイ

ンドルフはアンノが自らを目立たせる能力はかなりのものだったと見ているが

︑ランペルトはアンノが宮廷に迎え

られると︑﹁まもなく﹂そこに仕えていた他のすべての僧にもまして︑ハインリヒ三世の恩顧と親しい関係において

第一の地位をもったことや︑﹁わずか数年して﹂大司教位を得たことを書いている

︒この異例な早さでの出世は︑

彼の中位の出身からして彼が非常に目立った才能ある人物であったことを窺わせるものであるが

︑同時にこれはや

はり権力や地位を貪欲に求める行動力の激しさをも物語っていよう

当時︑身分の低い者にとって︑普通は高位貴族に独占されていた司教職への上昇のためには︑学問が第一の跳躍台

であったとも言われるが

︑アンノはランペルトが述べたように卓越した知性︵賢明さ︶をもっていた

︒ランペルト

は︑この知性とともに︑アンノの﹁心と性格の徳﹂︑﹁あらゆる種類の徳﹂のある人物であったことを何度も強調して

いる

︒この点はランペルトの一方的な評価というよりも︑他の年代記作者も同様な評価をしており︑アンノがま

ずそのような人物であったと見ていいものであろう︒

しかしアンノの出世を求めての努力や後年の活動を見ると︑この徳や﹁聖性﹂のある人物という評価から一見感じ

られる姿とはかなりかけ離れた野心的で貪欲な人物像が見られるのである︒シュトルーヴェは︑激動の時代における

人物を特徴づけるものは︑政治的世界に活動し世俗的な華やかさを展開する同じ教会諸侯が︑他方で敬虔的態度や苦

行︵禁欲︶の実行において競い合っていたこと

︑或いは叙任権闘争期の人間を特徴づけるものは世俗的な派手さと修 道士的な禁欲の間の動揺であると述べている

︒ こ の 点 については既に以前にも何度も同じような例を見たよう

︑このアンノの徳や﹁聖性﹂に係わる信仰態度というものは︑来世での自己の救いをひたすら求める強い利己心

― 23 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(5)

の現れでもあり︑この利己心の強さというものは他面では現世での貪欲な出世欲や権力欲に現れやすいもので︑両者

の一見正反対の態度も来世︑現世での違いはあれ︑利己心という点では何ら変わりはないのである︒同じ人物の中に

諸侯と聖人の諸性質が並存しお互いに排除していない

のも別に不思議ではないのである︒

ともかくアンノが世俗政治の面でも才能ある人物であったことは︑彼がすでにハインリヒ三世の宮廷で︑法や正義

に非常に厳格ですべての裁判において︑他の人々のするようには誰にもへつらうことなく︑法︵公正さ︶を守ったとラ

ンペルトが述べているところにも見られるのである

︒大司教になってからも︑アンノは裁判において身分や貧富や

人物の好悪にとらわれずに公平で正義を遵守したという

︒この裁判での厳格な態度は︑余程ランペルトにとってア

ンノの特徴と見えたらしく

︑彼は幾度かこの点について言及しているが

︑彼にとってアンノは︑世俗のことにも

宗教のことにもすべて能力を発揮し︑その地位にふさわしい人物として︑帝国諸侯の中でも堂々たる印象を与える人

物であった

ハインリヒ三世がアンノを大司教に任命した時︑明らかにアンノの国政上での役割を考えていたのであろうが

彼が大司教に就任した同じ年の十月に当のハインリヒ三世が亡くなったこともあり︑彼はその後しばらくは国政に関

与するよりも︑大司教としての地位をケルンで固めることに専念して︑彼はまず近隣の最有力の競合者︑敵対者とも

言うべき下ラインの宮中伯エッツォ家を排除することに努力を集中したのである

この両者の対立についてはランペルトは具体的な点では殆ど何も書いておらず︑﹃アンノ伝﹄がほぼ唯一の詳しい

ものであるが

︑アンノの性格や行動を見るのに重要であるので︑少しこの点について見ておきたい︒この﹃アンノ

伝﹄によると︑まず宮中伯のハインリヒが敵意を懐き︑ジークブルクの要塞を拠点にアンノに対し敵対行為に及び︑ ランペルトの見るアンノとその時代

― 24 ―

(6)

ケルンの教区全体に殺人︑略奪︑放火をもたらしたという

︒しかしこの﹃アンノ伝﹄は宮中伯に敵対しアンノを支

持する立場からのみ書いているために一方的な記述になっており

︑この事件のその後の経過からしても︑むしろ実

態は宮中伯がジークブルクを征服しようとするアンノによって戦いに巻きこまれた感じであった

︒いや少なくとも

宮中伯のハインリヒは︑エッツォ家の地位を打ちくだこうとする野心的なアンノの動きと対立したものであった

もっともこの対立には︑アンノが大司教になる以前からの対立が背景にあり︑アンノは前任者の道を一貫してさら

に追い促進した面もあるが

︑やはりアンノはここで生れながらの諸侯のように現れ︑向こう見ずな精神をもってケ

ルンの大司教座と自らの権力の拡大を図ったと言えよう︒事実この対立の結果︑一〇六〇年頃にはアンノの競合者

としての宮中伯家は下ライン地方から消えるほどになったのである

!︒アンノのきびしいやり方は︑上記のエッツォ

家の軍事作戦基地とも見られるジークブルクを一〇五九〜一〇六〇年に奪ったことにも如実に現われている

"︒これ

を奪い︑エッツォ家に決定的な打撃を与えたのだが

#︑アンノはここに一〇六四年に修道院を建て

$︑後に彼の修道

院改革運動の中心にしていったのである︒

こうしたアンノの行動はごく公平に見れば︑ケルン地方での安定を求める努力とも言いうるが

%︑この権力固めの

異常な努力は︑やはり上述のように彼の野心的で向こう見ずな性格や行動の一端を物語っているのである

&︒勿論︑

アンノの多くの目標が常に純然と利己的なものではなかったとしても

'︑最も特徴的なことは︑彼が権力を増加し︑

ケルン大司教座の所領を拡大する一貫した意識を示し

たことであった

︒ この領域の拡大と強化

︑ 即ち教区の強化

は︑彼において常に見られた政治的行動方法であり

(︑彼において領邦君主的な方向への始まりがあったとも見られ

ているのである

)

― 25 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(7)

アンノにはケルン市内でも俗人によって建てられたすべての修道院を手に入れ︑これらの支配によって自らの権力

を強化し︑世俗的な支配権を拡大する努力が見られるし

*︑ランペルトも伝えるように︑アンノは自らの資産で修道

院や教会を建設し︑これらに豪華な建物を付与し︑目立った工芸品で飾り︑広大な所領を与え︑亡くなる時には教区

のどの修道院︑教会をも所領や建築物の遺贈によって豊かにし

+︑他の競合する司教座に優越する司教座を作る意図

を示すなど

,︑少なくともアンノは帝国司教の特に力強い権化とも言うべき存在でもあったのである

-

ランペルトは上記の宮中伯との対決については︑確かに具体的には何も語っておらず︑僅かに宮中伯のハインリヒ

が自ら自分の妻を殺したことを伝えているだけである

.︒ し かし

︑ ランペルトは右の修道院等の建設の記述ととも

に︑一般的な表現とはいえ︑アンノはケルンの名の威信と世俗的な豪華さを前任者の誰よりもより野心的にと言える

ほどに人々に誇示し︑ケルンの建設以来︑一人の司教の活動によってケルン教会の富と名声がこれほど高められたこ

とはなかったと述べて︑宮中伯家との対決︑勝利を間接的に示していたのである︒ランペルトは更に︑多くの仕事が

押し寄せる中で決して屈しないアンノの精神は︑このために宗教上の仕事をもゆるがせにしなかったと述べ︑ケルン

でのアンノの精力的な権力︑勢力拡大の活動を暗に示していたのである

/︒或いは又これについては︑ランペルトは

全体的にアンノの貪欲な勢力拡張の姿を露骨に示さずに讃美的な言辞の中で肯定的に語っていたとも言えよう︒

この宮中伯家との対決とよく似た性格を示したのが︑次のマルメディ修道院をめぐる問題であった

0︒これもラン

ペルトの記述だけでは事実関係ははっきりしないが︑アンノの性格や行動を知るためには︑この問題は重要なもので

ある︒マルメディは︑ケルン大司教管区にあり古くからの帝国修道院であったが︑リェージュ司教区に属するより重

要な姉妹︵又は双子︶修道院であるシュタブロー修道院と結びつき︑これに従属していた

1︒この異例な状況が両者の ランペルトの見るアンノとその時代

― 26 ―

(8)

対立の原因となり

2︑以前からマルメディはシュタブローからの独立の動きをもっていた

3

この動きにアンノが介入してくるのであるが︑この経過についてはアンノに敵対的な立場をとっているとはいえ記

述史料としては︑﹃聖レマクルスの勝利﹄が最も詳しいものである

4︒この記述によると︑アンノの介入のもともと

のきっかけは︑マルメディが一〇六〇年代にアンノに助けを求め

5︑これに対しアンノが﹁父が子に対してやるよう

に﹂あらゆる援助を約束したことにあったようであるが

6︑ここにアンノは所有権拡大の好機を素早く認識し自らの 利益にそってマルメディ獲得へと動いていったの

で あ る

7︒ この動きにはアンノの利己的な意図があったのであ

8︑彼は結局一〇六五年六月にブレーメン大司教アーダルベルトの仲介でこのマルメディをハインリヒ四世より与

えられたのである

9︒右の史料によれば︑アンノはシュタブロー

の所有権に属するものを奪ったと抗議されたもの

:︑彼はマルメディを一〇七一年まで六年間所有していたのである︒このようにマルメディへの獲得要求は︑その

きっかけからすれば︑アンノの個人的な貪欲さを唯一の動機とか︑主な動機とするものではなかったとしても

;︑そ

の後のシュタブロー側からの返還要求に対し︑アンノはまさに頑固にその既得権確保のために戦ったのである

<

ランペルトは︑この経過について︑ハインリヒ四世がマルメディをシュタブローの修道院長から取り上げ︑アーダ

ルベルトの助言でアンノに与えたと述べ

=︑右の史料と同様︑王やアーダルベルト︑アンノの側に問題があったこと

を認めている

>︒ただここでランペルトがわざわざ﹁前に述べたように﹂と以前の記述の中で﹁アーダルベルトが王

の同意をもってアンノに与えた﹂と書いたことにもう一度注意を促しているように

?︑この件での責任をアンノより

も王やアーダルベルトに帰せて︑アンノへの擁護的な姿勢が見えるのである︒

同様に一〇七一年にマルメディが返還された時にも︑シュタブロー側の返還要求に対して王は︑彼らの願いによっ

― 27 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(9)

ても涙によっても︑又強く催促するような厚顔さによっても動かされなかったと︑王のみが抗議されているかのよう

に︑王自身の頑固さや責任を強調していたし

@︑王が返還に結局応じたのも︑レマクルスの奇跡で天の報いを恐れた

からと

A︑王を問題の人物にし︑王の恥を強調していたのである︒ランペルトの記述は︑まるで王がマルメディを頑

固に所有していたかのような印象を与えるが︑上述のようにアンノが所有していたことを知っていたランペルトがこ

こでアンノの名を出していないのは︑擁護的立場からというよりも更に言えば︑アンノのこれまでの態度への無言の

不満の表明とも言えるのである︒イェナールは︑このマルメディの件についてアンノが長く頑固に戦ったそもそもの

理由は︑彼の所有権獲得への努力や権力欲が働いていたという一般的な性質の理由で満足する以外に正確に答えられ

ないと評しているが

B︑ランペルトにとってこのアンノの姿は彼が理想とするアンノ像とは合わないと感じていたか

らこそ︑名を出さなかったとも解しうるのである︒ここではランペルトはアンノを尊敬しつつも︑必ずしもその行動

すべてに満足していなかったことを示しているが︑さりとて逆にシュタブロー側を支持していたわけではなかった︒

例えば彼は︑シュタブローの修道士がマルメディの返還を求めて王の耳を毎日﹁煩わせた﹂とか﹁催促する厚顔さ﹂

と書き︑彼らの態度に余りいい気持をもっていなかったことを示しているのである

C

この事件は結局︑王というよりアンノが王の圧力でマルメディを放棄せざるを得ない中で終ったのであるが

D︑こ

の敗北はアンノにとって非常に痛い威信低下であり

E︑彼の生涯における転機の一つとも見られている

F︒イェナー

ルは︑この譲歩をもってアンノには彼の大司教座を整理し強化する可能性が失われたとも見ているが

G︑それにして

もこのマルメディをめぐるこれまでのアンノの動きは︑国政における彼の地位が意外と強固であったことを推測させ

るものである

H︒つまりこれはアンノの宮廷における立場が︑後述のように王の成人式から一〇六六年一月までの︑ ランペルトの見るアンノとその時代

― 28 ―

(10)

さらに一〇七一年ごろのアーダルベルトの優位にも拘らず︑それほど弱いものでなかったこと

I︑アンノがこの時期

においても強い影響力をもっていたことを示しているのである︒

アンノの性格や行動を知るためのもう一つの手掛りになるものは︑宮中伯家やマルメディの問題と相前後して出て

きた彼の親族政策であろう︒彼は一〇五九年に甥のブルヒャルトをハルバーシュタットの司教に推し︑一〇六三年に

は兄弟のヴェルナーをマクデブルクの大司教に推したが

J︑後述のコンラートのトリーア大司教選出の問題も含め︑

これらは彼が親戚を出世させて帝国の中での新たな支えを作ろうとする努力とも見られているのである

K

ランペルトは︑ブルヒャルトについては彼が司教になったという簡単な事実のみ伝え

L︑アンノの関与にふれてい

ないし︑ヴェルナーについてはその司教就任に何もふれていない

M︒これに対しアンノに対し敵対的な立場で書いて

いるブレーメンのアダムは︑アンノは貪欲さで悪名高く︑親戚や友人を引き上げ︑彼らすべてに最高の地位や位階を

与えたと述べ︑彼らの中で最高位にいたのがヴェルナーやブルヒャルト︑そしてコンラートであったと

書いている

N︑実際アンノはヴェルナーについては︑マクデブルク人たちの選んだ人物を無視して大司教にしたのであり

O

傍若無人にその影響力を使った感があった

P︒しかもこのヴェルナーは︑その才能やその他の性格でこの大司教の地

位に推薦されそうにない人物であったようである

Q

ブルヒャルトについては︑彼は一〇五九年に摂政のアグネスの宮廷で叙任を受けたが︑その前はゴスラルの宮廷教

会の首席司祭という影響力のある地位をもっていた︒それゆえブルヒャルトは宮廷に近い人物であり︑彼の出世は右

の他の二人と違い︑アンノの推薦だけではなく︑彼自身の重要性やその地位からして︑アンノの助けなしにも司教に

なりうるあらゆる条件を備えていたようであり

R︑この件までアンノの強引な親族政策の例とする必要はないようで

― 29 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(11)

ある

S︒それにアンノが当時すでに宮廷でそれほどの力があったかも疑問であろう︒

右のブルヒャルトとヴェルナーの件よりも︑アンノの親族政策で当時最も目立ったものは︑一〇六六年にトリーア

大司教に甥のコンラートを推した事件であった

T︒後述のアーダルベルトの失脚後再び僅かの期間影響力を取り戻し

たアンノは︑トリーア人たちの選挙権を無視し︑コンラートの任命を強行した

U︒アンノにはトリーアの諸事情を自

分の意図で指導するのにコンラートは好都合な人物に思えたが

V︑トリーア人の征服しがたい抵抗にぶつかり

W︑結

局コンラート自身はトリーア人に殺され︑アンノの試みは失敗したのである

X

この件について一般に︑コンラートが殺されたことは︑アンノの影響の下でコンラートを任命したハインリヒ四世

の威信にもひどい侮辱となったが

Y︑アンノは王以上に打撃を受けたと見られている

Z︒つまりアンノがこの甥のこ

とで︑その独裁的な教会政策において惨めな敗北を喫したことは︑アンノの力と威信の喪失であったし

[︑国政にお

ける権力と名声を再び失ったとされているのである

\︒確かにアンノ自身も︑この事件のすぐあとに出したアレクサ

ンダー二世への手紙で﹁トリーア人から受けた不法行為﹂と述べてこの事件の傷口が癒えない旨を書いている

]

ランペルトはこの事件について︑トリーア人は選挙に入れられず相談されなかったことを非常に怒り︑﹁著しい侮

辱﹂と感じていたと︑トリーア人側の立場を公平に伝え︑しかもコンラートの次の大司教ウードの選挙にトリーアの

僧と民が一致したと︑むしろアンノにとって屈辱的な事実まで書いている︒更にこのコンラートの件について︑他の

主な年代記が当事者のアンノの名を挙げていないのに︑ランペルトははっきり挙げていたのである

^︒もっともラン

ペルトがこれを語りえたのも︑次に見るコンラートの奇跡による栄光化とも関係があろう︒

ランペルトはこのコンラートの任命に明らかに批判的であったし︑アンノの名を挙げていない他の年代

記も例え

ランペルトの見るアンノとその時代

― 30 ―

(12)

ば︑コンラートに大司教位を﹁トリーア人の意志に反し王が与えた﹂と書いているように

_︑一様に批判的な記述を

していたのである︒しかしこれらの年代記が︑殺されたコンラートについては︑一転してこれまでの記述とは矛盾す

るような別の評価をしていることは注意すべきことである︒例えばランペルトは︑コンラートの遺体が修道院に運ば

れ︑そこで今日まで大きな奇跡をおこし︑これによって栄光化されていると述べている

`︒ニーダーアルタイヒの年

代記も︑コンラートは大きな奇跡で天国へ行ったと書き︑ベルトルトも彼を﹁神にとって価値ある殉教者﹂とし︑彼

を殺した三人の兵士が後にその報いを受け︑彼の墓での多くの奇跡が︑彼の殉教が尊敬に値するものと考えられたと

述べている

a

このように一般にコンラートが殉教者視され︑栄光化されている点から見れば︑アンノがコンラートを推しこれに

失敗したことは︑上述のようにアンノにとって権力や名声の喪失をもたらしたとばかり一面的に見ていいのかどうか

問題なのである

b

右のコンラートの栄光化が事実なら︑アンノがコンラートが殺されたことに報復しなかった点についても︑アンノ

に力がなく︑王にも力がなかったという見方や

c︑アンノはトリーア人に対する懲罰には誰からも協力されず︑アン

ノ自身も何もせず︑はっきり敗北をこうむったという見方

dも少し問題なのである︒確かにコンラートが殺されたこ

とは︑上記のアンノの手紙から見ても︑またブレーメンのアダムの記述のように︑アンノ

にとって

﹁ 前代未聞の冒 ﹂であり︑大きな﹁悲しみ﹂であり

e︑コンラートを推したことは大きな誤り︑失敗であった︒しかし右の奇跡の

例も含め︑このコンラートをめぐる一連の動きすべてを︑アンノにとってのはっきりとした敗北であり︑宮廷でのア

ンノの影響力を最終的に打ち破ったと断定的に判断することは

f︑既述のマルメディ修道院へのアンノの頑固な権力

― 31 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(13)

保持や︑その他の後年のアンノの動きから見ても︑やや早急な結論と言えよう

100)

なおランペルトは︑右のコンラートの奇跡について﹁伝えられているところによると﹂と慎重な表現をしている

101)︑ランペルトが本当にアンノを無条件に弁護したり讃美したりする気が強いのなら︑こんなことをわざわざ書き

入れる必要もなかったのであり︑この点でもランペルトの立場を知る一つの手掛りを与えているのである︒更に︑ニ

ーダーアルタイヒの年代記などと違い︑ランペルトがコンラートを殺した者たちのその後の悪い結果にふれていない

のも

102)︑本来ならアンノにとって有利になる事柄を書いていないのであり︑これもランペルトの年代記がアンノへの

讃美のようなものを目的としたものではないことを示している︒

LampertvonHersfeld,Annales.︱以下LAと略す︱︵AusgewählteQuellenzurdeutschenGeschichtedesMittelalters.︱以下AQと 略す︱Bd.XIII.1973︶,SS.328−329.

R.Schieffer,DieZeitderspätenSalier︵1056−1125︶.︵RheinischeGeschichte.HohesMittelalter.Bd.1,3.hg.vonF.PetriundG.

Droege.1983︶S.125.

E.Steindorff,JahrbücherdesdeutschenReichsunterHeinrichIII.Bd.II.︵1881,1969︶S.335.シュタインドルフは︑アンノは司教たちの中で得た友人や後援者によってハインリヒ三世の注意をひくのに成功したと見て

いる︒アンノは︑一〇四九年に宮廷礼拝堂に迎えられ︑一〇五四年にはハインリヒ三世の好むゴスラルの宮廷教会の首席司

祭になり︑一〇五六年にケルン大司教になった︒

LA,SS.328−329.

R.Schieffer,op.cit.,S.125.

シュタインドルフは︑アンノの大司教への出世は世間の耳目を集めうるものであったが︑彼が首席司祭を務める宮廷教会へ ランペルトの見るアンノとその時代

― 32 ―

(14)

のハインリヒ三世の偏愛から見て︑この出世は不思議ではないとも見ている︒

E.Steindorff,op.cit.,S.336.

こうした傾向はシュタインドルフも言うように︑当時一般に高位僧に見られるものであるが︑アンノの場合これが特に目立

つものであった︒

ibid,S.336.

H.Zielinski,DerReichsepiskopatinspätottonischerundsalischerZeit.︵1002−1125︶Teil.I.︵1984︶S.124.

ibid,S.119.

LA,SS.328−329.ベルノルトは︑アンノを﹁驚くべき聖性のある人物﹂とし︑アンノのカイザースヴェルトのクーデタに批判的な見方をして

いるフルトルフも︑アンノを﹁最高の聖性さのある人物﹂︑﹁聖性の功︵徳︶に満ちた人物﹂としている︒

BertholdietBernoldiChronica.︱以下BBと略す︱︵AQ.Bd.XIV.2002︶SS.298−299.

FrutolfiChronica,︵AQ.Bd.XV.1972︶SS.72−73,82−85.

T.Struve,LampertvonHersfeld.PersönlichkeitundWeltbildeinesGeschichtsschreibersamBeginndesInvestiturstreits.︵Historisches JahrbuchfürLandesgeschichte.20.1970︶S.111.

ibid,S.106.

拙稿︑﹁﹁敬虔なる﹂ハインリヒ三世﹂

︑ ︑︵文化学年報︑第四十三︑四十四輯︑平成六年︑七年︶参照︒

T.Struve,op.cit.,S.113.

LA.SS.328−329.

LA.SS.330−331.

シュトルーヴェも︑ランペルトは司法の領域でのアンノの断固たる処置に最も強く影響を受けたと見ている︒

T.Struve,op.cit.,SS.107−108.参照︒

LA.SS.156−159.

G.MeyervonKnonau,JahrbücherdesDeutschenReichesunterHeinrichIV.undHeinrichV.︵1894,1964︶︱以下M.v.Kと略す

― 33 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(15)

︱Bd.II.S.152.Anm.74.

LA.SS.328−329.

R.Schieffer,op.cit.,S.125.

G.Jenal,ErzbischofAnnoII.vonKöln.︵1056−1075︶undseinpolitischesWirken.Bd.I.︵1974︶S.152.Bd.II.︵1975︶S.405.エッツォ家は︑下ライン地方で最も強力で︑かつ帝国第一の家門の一つであった︒

R.Schieffer,op.cit.,S.125.

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.133−134.

DasAnnolied,hg.v.E.Nellmann,︵1975︶︱以下ANと略す︱S.112.

VitaAnnonisArchiepiscopiColoniensis.︵MGH.SS.XI︶︱以下VAと略す︱I.c.19.S.475.c.32.SS.479−480.

VA.I.c.19.S.475.M.v.K.Bd.I.S.162.

クノーナウは︑﹃アンノ伝﹄は全く宮中伯ハインリヒに敵対する立場から書かれており︑その史料はごく慎重にのみ使われ

ねばならないと述べている︒彼はまた︑﹃アンノ伝﹄は場所により価値がないとも見ている︒

M.v.K.Bd.I.S.199.Ann.65.Bd.II.S.5,6.Anm.14.

LexikondesMittelalters.︱以下LMと略す︱Bd.IV.︵1989︶Sp.2071−2072.

ibid,Sp.200.

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.405.

W.Wattenbach・R.Holtzmann,DeutschlandsGeschichtsquellenimMittelalter,ZweiterTeil.DieZeitderSachsenundSalier.︵1971︶

︱以下W・Hと略す︱S.643.

!

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.141.

"

ibid,SS.135−137.

# ibid,SS.135−137.R.Schieffer,ErzbischöfeundBischofskirchevonKöln.︵DieSalierunddasReich.hg.v.S.Weinfurter,1991︶

Bd.II.S.10.

$

LM.Bd.VII.︵1995︶Sp.1846. ランペルトの見るアンノとその時代

― 34 ―

(16)

%

R.Schieffer,op.cit.,Erzbischöfe,S.9.

&

エッツォ家へのアンノの強引なやり方は︑同家が建て一族の墓所としていたブラウヴァイラ

ーの修道院に対しても見られ

る︒

J.Rotondo-McCord,Bodysnatchingandepiscopalpower:ArchbishopAnnoIIofCologne︵1056−75︶,burialsinStMary’sadgra- dusandtheminorityofking.︵JournalofMedievalHistory.Vol.22.No.4.1996︶p.307.

LM.Bd.IV.Sp.198.LM.Bd.II︵1982︶Sp.595−596.LM.Bd.IV.Sp.2071. NeueDeutscheBiographie︱以下NDBと略す︱Bd.IV.︵1957︶S.716.

'

J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.298.

ibid,p.298.BiographischesWörterbuch,op.cit.,S.112.

(

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.406.

) ibid,Bd.I.S.153.アンノは初期段階の領邦君主とも評されるが︵LM.Bd.I.︵1979︶Sp.667︶︑シュトルーヴェは︑ランペルトはこういう発展

を肯定的に見ていたと解釈している︒

T.Struve,op.cit.,20.S.110.

* W.Eggert,AnnoII.ErzbischofvonKöln.︵DeutscheFürstendesMittelalters.hg.v.E.HoltzundW.Huschner.1995︶S.146.

R.Schieffer,op.cit.,Erzbischöfe.S.12.

+

LA.SS.330−331.AN.SS.50−51.110.VA.c.15,16,17.S.474.ベルトルトも︑アンノを五つの新しい教会の熱心で豊かな建設者そして世

話人と述べ

︑ ブレーメンのアダムは

︑ 貪欲さで

人々から非難されるアンノは︑自領内でも宮廷でも取り得たものすべてを彼の教会の飾りに変えたと書いている︒

BB.SS.90−91.

MagistriAdamBremensis,GestaHammaburgensisecclesiaePontificum.︱以下ABと略す︱︵AQ.Bd.XI.1978︶SS.370−371.

,

J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.303.ブレーメンのアダムも︑アンノは彼の教区を最大にし︑国内の他のすべての教会とは比較のできないものにしたと書いてい

― 35 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(17)

る︒AB.SS.370−371.

-

AN.S.187.

.

LA.SS.72−73.

/ LA.SS.328−331.もっとも︑シュトルーヴェはこうした記述について別の解釈をしている︒

T.Struve,op.cit.,S.109.参照︒

0

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.109.

1 W・H.S.646.LM.VII.Sp.2163.参照︒

2 LM.Bd.VI.︵1992︶Sp.175.

3

M.v.K.Bd.I.S.463.

4

M.v.K.Bd.I.S.587.

TriumphussanctiRemaclideMalmundariensicoenobio.︱以下TRと略す︱︵MGH.SS.XI︶ 5

TR.I.c.2.S.438.J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.305.

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.58.

6

TR.I.c.3.S.439.G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.60.

7

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.61.TR.I.c.3.S.439.

8 M.v.K.Bd.I.S.462.イェナールは︑アンノは彼の王への影響力によってマルメディを彼に譲らせたと見ている︒

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.60.

9 D.Lück,DieKölnerErzbischöfeHermannII.undAnnoII.alsErzkanzlerderRömischenKirche.︵ArchivfürDiplomatik.Bd.16. 1970︶S.25.Anm.118.この譲渡は︑アンノとアーダルベルトによる国政の分割に関係しているとも見られたり︑王は当時この二人の強い影響下に

あったので︑これは両人の利己主義の現れとも見られている︒

W・H.S.646.Anm.39.G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.62−63.TR.I.c.4.S.440.

:

TR.II.c.1.S.450. ランペルトの見るアンノとその時代

― 36 ―

(18)

;

J.Rotondo-McCord,op.cit.,p.305.

<

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.102−103.アーダルベルトも︑一〇六七年のアンノへの手紙で︑マルメディ修道院を返すように求めている︒AB.SS.502−503.﹃聖レマクルスの勝利﹄でも︑アンノがきびしい態度をとっている様子が描かれている︒

TR.II.c.8,9,10,13,14.SS.453−455.

M.v.K.Bd.II.S.50.G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.87−88.

=

LA.SS.142−143.

>

ニーダーアルタイヒの年代記も︑王がマルメディ修道院をシュタブロー修道院から奪い︑アンノに譲ったと書いている︒

AnnalesAltahensesMaiores.︵MGH.SS.XX︶︱以下AAと略す︱S.822.

?

LA.SS.88−89.

@ LA.SS.142−143.ランペルトの年代記の独語への訳者も注意しているように︑マルメディから利益を得ていたアンノのこ

とをランペルトはふれていない︒

LA.S.144.Anm.2.

A LA.SS.142−144.ニーダーアルタイヒの年代記では︑アンノとハインリヒがこの返還の時に出てくる︒AA.S.822.

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.92−93.なお︑﹃聖レマクルスの勝利﹄も︑シュタブロー側の返還要求の成功の因を多くの奇跡に帰しているが︑クノーナウも見て

いるようにランペルトも︑この点ではこの作者と大体一致していたのである︒M.v.K.Bd.I.S.466.Bd.II.S.54.

TR.II.c.10.SS.453−454.c.17,19.S.456.c.22.S.457.参照︒

B

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.108.ブレーメンのアダムも︑アンノの貪欲さに言及しているが︵前注︑

+︑参照︶︑クナーナウも︑アンノのマルメディ獲得へ向

けた利己的な意図を挙げている︒

M.v.K.Bd.I.S.462.

C LA.SS.142−143.この点は当然のことながら︑﹃聖レマクルスの勝利﹄の見方とはっきり違うところである︒

― 37 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(19)

D G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.331.ニーダーアルタイヒの年代記は︑アンノが懇願して王が返したとしている︒AA.S.822.

E

M.v.K.Bd.II.S.92.

F L.Fenske,AdelsoppositionundKirchlicheReformbewegungimöstlichenSachsen.︵1977︶S.103.

G G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.404.イェナールは︑この譲歩はアンノの力がひどく弱っていた時で︵ibid,S.404.︶︑この譲歩はアンノの気持の変化というより

も︑状況の不利から来たものと見ている︒

ibid,Bd.I.SS.103−104.

H

ibid,Bd.II.S.404.

I

ibid,Bd.I.S.75.

J

R.Schieffer,op.cit.,DieZeit.,S.128.M.v.K.Bd.I.SS.164−166.

K

M.v.K.Bd.I.S.386.

L

LA.SS.68−69.

M

ロビンソンは︑アンノの熱心な讃美者であるランペルトは︑帝国教会へのアンノの行動について沈黙したままであると評し

ている︒

I.S.Robinson,HenryIVofGermany,1056−1106.︵1999︶p.116.

N

AB.SS.370−371.R.Schieffer,op.cit.,DieZeit.,S.128.

I.S.Robinson,op.cit.,p.116.

O

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.241.

P A.Hauck,KirchengeschichteDeutschlands.Bd.III.︵1954︶S.726.フェンスケも︑アンノの親族政策を利己主義的なものと評している︒

L.Fenske,op.cit.,S.102.

Q

ibid,S.196.

R

ibid,S.100.ブルヒャルトが後にハインリヒ四世に最も憎まれた敵︑最もきびしい敵になったと言われるのも︑逆に彼の ランペルトの見るアンノとその時代

― 38 ―

(20)

有能さを示しているとも言えよう︒

BrunonisSaxonicumBellum.︵AQ.Bd.XII.1974︶︱以下BSと略す︱SS.226−227.Anm.2.S.470.Anm.2.

S

クノーナウは︑ブルヒャルトの例もアンノの影響力拡大をねらう例と見ている︒M.v.K.Bd.I.SS.164−166.

T

ibid,SS.499−500.

U ibid,SS.499−500.﹃トリーア人の事績録﹄は︑﹁トリーア人の意見と選挙を退けて﹂と書いている︒

GestaTreverorum.︵MGH.SS.VIII︶S.182.

V

M.v.K.Bd.I.S.499.

W J.Fleckenstein,HeinrichIV.undderdeutscheEpiscopatindenAnfängendesInvestiturstreites.︵AdelundKirche.FestschriftfürG. Tellenbach.1968︶S.227.

X

G.Jenal,op.cit.,S.46.M.v.K.Bd.I.SS.504−505.

Y M.v.K.Bd.I.S.508.﹃トリーア人の事績録﹄は︑アンノが﹁まだ子供の王の叙任権と承認権を利用して﹂と述べている︒

GestaTreverorum,op.cit.,S.182.

Z

M.v.K.Bd.I.S.510.

[

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.314.

\ ibid,S.410.フェンスケも︑教会の最高の地位にある人物へのこの例のない暴力行為は︑アンノの名声に重大な損害を与

えたにちがいないと言い︑帝国におけるアンノの立場において重大な権威の喪失をもたらしたと述べている︒

L.Fenske,op.cit.,S.103.

]

M.v.K.Bd.I.S.511.

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.S.48.

^ LA.SS.110−111.ランペルトは︑アンノの仲介でコンラートが地位を得たと書いている︒

直接この事件に関係する﹃トリーア人の事績録﹄や﹃コンラートの生涯と受難﹄︑あるいはアンノに敵対的なブレーメンの

アダムは別としても︑例えばベルトルトは︑コンラートは王に選ばれたと王の名のみ挙げ︑コンラートはトリーアの僧と民

に拒否されたと書き︑ベルノルトも︑コンラートは市民より選ばれず︑ある伯が彼を捕えて部下に殺させたと記述している

― 39 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(21)

だけである︒ニーダーアルタイヒの年代記も︑このコンラートをトリーアの僧も民も嫌い︑司教の兵の数名の者に彼を捕え

させ︑高い絶壁から落とさせたと書いているのみである︒

BB.S.32,56,288,428.AA.S.818.AB.SS.370−371.

GestaTreverorum.op.cit.,S.182.VitaetpassioConradiarchiepiscopiTreverensis︵MGH.SS.VIII︶M.v.K.Bd.I.S.499. _

AA.S.818.

`

LA.SS.110−111.

a AA.S.818.BB.SS.56−59.ベルノルトも︑ほぼ同様に書いている︒BB.SS.288−289.ブレーメンのアダムでさえ︑コンラートについて︑彼は僧らの憎悪で殉教の栄冠を与えられたと書いている︒

AB.SS.370−371.M.v.K.Bd.I.SS.505−508.

b

ibid,S.503.G.Jenal,op.cit.,S.351.

c

J.Fleckenstein,op.cit.,S.227.

d

M.v.K.Bd.I.SS.508−509.Anm.28.

G.Jenal,op.cit.,Bd.I.SS.51−52.ニーダーアルタイヒの年代記は︑事件に関与した者の懲罰がなされたと伝え︑他の年代記も彼らが悔悛したり罰せられたこ

とを書いている︒

M.v.K.Bd.I.S.510.Anm.31.AA.S.818.BB.SS.56−57.288−289.

e

AB.SS.500−501.

f

J.Fleckenstein,op.cit.,SS.227−228.L.Fenske,op.cit.,S.103.フェンスケも︑こういう中でアンノはもはや宮廷で支配的な人物として証しえなかったと見ている︒

(100)

同様にフレッケンシュタインのように︑これ以後王が帝国行政の指導権を自らの手にもち︑王は次の数年において司教職に

おける交代を注意深く追い︑一〇七〇年までになされた六つの任命において常に決定権を確保したことを︑直ちにこのコン

ラートの事件と因果関係をもっていたかのように判断することも問題であろう︒

J.Fleckenstein,op.cit.,SS.227−228. ランペルトの見るアンノとその時代

― 40 ―

(22)

(101)

LA.SS.110−111.

(102)

AA.S.818.本章︑前注︑

a︑ d参照︒

二︑

ランペルトの描くアンノ像やその時代を考える場合︑アンノにとって唯ひとり常に重大な本物の対抗者であったと

見られるブレーメン大司教アーダルベルトへのランペルトの見方も重要な手掛りを与えている︒ブレーメンのアダ

ムはこのアンノとアーダルベルトについて︑この二人は表向きは仲良くしているが︑心の中ではひどく憎しみ対立し

ていたと書いているが

︑このアーダルベルトについては︑右のアダム

は別として︑他の年代記が概ね簡単な事実

を伝えているに過ぎないのに比べ

︑ランペルトはこの人物についてかなり詳しく何度も言及しており︑彼を相当意

識していたようである︒

このアーダルベルトは一〇六三年六月から宮廷に目立って現れてくる

︒ランペルトはこの年の記述で︑王の教育

と国政全体が司教たちの手にあり︑特にマインツとケルンの大司教の権威が卓越していたが︑それからこの二人によ

ってアーダルベルトが国政の中に受け入れられたと書いている

︒更にランペルトは︑アーダルベルトが宮廷に入っ

たのも︑一部は彼の高貴な血筋のゆえ︑一部は彼の年齢と彼の大司教座の重要性のゆえにと述べている

だけである

︑アダムは︑アーダルベルトは自分の教会の独立︑自由のために王の援助を求め宮廷に近づいたと︑アーダルベ

ルトからの積極的な努力を伝えている

― 41 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(23)

ランペルトは︑アーダルベルトが宮廷に入ると︑王にしばしば相談し︑王への追従やへつらいによって︑まもなく

王を自らに強く引きつけ︑王は他の司教たちを無視して全く彼に傾倒するようになったと書いている

︒アダムが︑

アーダルベルトの王への熱心な奉仕のゆえに︑王は心を動かされ彼に国政のあらゆる問題で助言者の第一位につけた

く思ったと述べているのに比べ︑ランペルトは︑アーダルベルトは王に取り入るだけで出世したかの如く︑アーダ

ルベルトの高い地位への嫉妬心を感じさせるような一方的な見方をしていたのである︒実際はこの出世は単なる追従

の結果というよりも︑アンノが一〇六三年夏にマントヴァ会議への出席で比較的長く宮廷を留守にしていたことも原

因であり︑アーダルベルトはアンノの居ないうちに王の信用を獲得し

︑アンノを摂政政治での指導的地位から広範

に追い出すのに成功したのである

︒それでも一〇六四年五月のマントヴァ会議まではアンノがなお力をもち︑アー

ダルベルトとの間にある程度の均衡があったようであり

︑王の一〇六五年三月の成人式の時にアーダルベルトがは

っきり前面に出てきたのである

ランペルトが︑アーダルベルトは﹁共同の統治の中で殆ど王権を奪ったかのように﹂なり︑彼につぐ第二の地位を

もった伯のヴェルナーと二人で王に代って支配したと

書いているのは

︑ 王の成人式後のことと考えられる

︒ 右 の

﹁王権を奪った﹂という表現は﹁独裁︵単独支配︶﹂と独訳されているが

︑アーダルベルトを国政に参与させたこと

は︑アンノの権力地位にとって重大な結果をもたらしたのである

︒この間の事情についてクノーナウが︑アンノは

増大する彼自身への妬みに対し支えを手に入れる必要があると考え︑国政の関与へのアーダルベルトの要求を認め︑

これまでの独裁︵単独支配︶から退りぞくのが適当と判断したとも見ているように

︑外面上事実上はアンノ︵とマイ

ンツ大司教ジークフリート︶の独裁からアーダルベルトの独裁に交代しただけであるのに︑司教たちの共同統治を真 ランペルトの見るアンノとその時代

― 42 ―

(24)

の国政のあり方と見ていた

ランペルトは︑アンノの時にだけそれ

が実現されていたかのようにと見ていたのであ

︒ こ れに対し彼は

︑ アーダルベルトが単独で支配するようになると

︑ そのやり方は諸侯

︵ 司 教

︶の権利を侵害

︑王と諸侯の共同統治を阻害するものと見

︑アンノのみを一方的に讃美していたのである︒

これに比べアダムは︑アンノとアーダルベルトが王の最高の顧問に任命された時︑この﹁二人はともに賢明に有能

に国のために努力した﹂が︑やがてアーダルベルトがアンノに︑幸運や熱心さにおいてはるかに勝るようになったと

述べているように

︑少なくともこの二人がともに国政の最高の地位にいた時は︑アンノに対しても公平に﹁賢明︑

有能﹂な政治と評価していたのである︒

ランペルトは︑アーダルベルトの時代に心底から不快感をもっていたようである︒この思いは例えば︑彼が諸侯は

アーダルベルトへの憎しみから納めるべきものも納めず︑宮廷は苦しい生活であったことや︑アーダルベルトは第一

の地位を他の諸侯と分け合わないために︑王を他の諸侯の所へ行かせなかったと書いているところにも

︑更に︑こ

のころアーダルベルトやヴェルナー伯から司教座や修道院も︑世俗や教会の地位もすべて買われたと述べ

︑彼らは

修道院の財産を好むままに彼らの支持者に分け︑残ったものも王への奉仕をしばしば徴発して︑最後の搾りかすまで

搾り取ったと書いているところにも現れている

アーダルベルトが所有欲の強い人物であることはアダムも認め

︑シュトルーヴェもアーダルベルトにおいて世俗

的な関心がどの教会諸侯よりも支配的であったと評している︒しかしランペルトは右の﹁好むままに﹂とか﹁最後

の搾りかすまで﹂という表現にも見られるように︑アーダルベルトを実際よりもひどく権力欲︑物欲︑金銭欲の強い

人物として描こうとしている印象を与えているのである︒またシュトルーヴェは︑ランペルトは修道士身分の利害を

― 43 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(25)

無視されたと見た時︑はじめてアーダルベルトへの批判をしたとも見ているが

!︑右の修道院に関連する記述におい

てはランペルトは帝国修道院の立場を強く反映していたのである

"︒しかしこの記述でも一方的にアーダルベルトの

みが批判されているが︑右の修道院の処分の利益をアンノやジークフリートも受けていたことについてはランペルト

は非難しなかったのである

#

いずれにせよ︑宮廷でのアーダルベルトの立場は最高の地位になり︑攻撃されないものになったが

$︑この点につ

いてもアダムは︑彼が政治上の最高の地位につくと︑競争者を排除して一人でその地位を占めたと︑彼の独裁的なや

り方を公平に認めていたのである

%︒このアーダルベルトに対し︑ランペルトは他の帝国諸侯たちはこれ以上彼らの

権利の侵害を我慢することが出来ず︑アンノやジークフリートが﹁国の安寧を心に掛けている﹂他の諸侯と協議し︑

一〇六六年一月にトリブールですべての諸侯による帝国会議を開くことになったと書いている

&︒このトリブール会

議の経過についてはランペルトが最も詳細に語っているが

'︑彼はすべての者はすべての者の共通の敵であるアーダ ルベルトと共同で戦い

︑ 王に退位するか

︑ アーダルベルトとの親しい関係をやめるかの

選択を求めたと書いてい

︒ここでもランペルトは﹁すべての者﹂という言葉を二度くり返すような誇張した表現を好んでいるが︑この点

はアダムも﹁国の殆どの諸侯や司教﹂が集まり︑アーダルベルトを﹁あたかも魔術師や誘拐者の如く宮廷から追い出

した﹂と反対派の憎しみの雰囲気をよく伝えている

(︒ただアダムはこの会議の原因として︑アーダルベルトが王に

反抗したり教会を略奪したりする者を排除しようとした時︑殆どすべての諸侯や司教がこの違反をしていたので︑彼

らは一致した憎しみをもってアーダルベルトを失脚させようと企てたと︑むしろ諸侯側の問題点を強調していたので

ある

)︒ ランペルトの見るアンノとその時代

― 44 ―

(26)

ランペルトとアダムの見方はこのようにかなり違うが︑この両者から推測しうることは︑アーダルベルトが王と密

接な関係をもっていたことであり︑この関係からすれば必ずしもランペルトが強調するほど︑アーダルベルトのみに

問題があったわけではないことである︒更にはその原因はともかく︑諸侯の一部ないしかなりの者がアーダルベルト

に強い憎しみ︑敵意をもっていたこともアダムの記述からも十分窺えるのである︒アダムがまた︑アーダルベルトが

﹁噂によると︑アンノの嫉妬で宮廷より追われた﹂とも言っているように

*︑アンノがこの企ての中心であったこと

はランペルトの記述からも明らかだが︑﹁アンノの嫉妬﹂というアダムの見方は︑アンノの野心や︑王をめぐるアン

ノやアーダルベルトの関係を考えれば︑より事実に近いであろう︒

王がランペルトの言うように場合により退位を要求される程の重大な事態に陥っていたかどうかはともかく︑ラン

ペルトが次に︑王がこの要求された選択に迷っている時︑アーダルベルトは王に夜ひそかに逃げるよう助言したが︑

これが一般に漏れ皆の怒りがアーダルベルトに向けられたこと︑しかし王の権威がやっとこれを静めたと書いている

ところは

+︑いろいろな点で注目される︒王が逃げれば助かるという認識が事実なら︑王が退位を迫られるほどすべ

ての人々に反対され追い詰められていたとは言えないし︑実際またここで﹁王の権威﹂が騒ぎを静

めたというのな

ら︑これも王の力がなおあったことを暗に示しているのである︒王の置かれた状況がランペルトが描こうとしたほど

のものではなかったようであるが︑ランペルトが右のアーダルベルトの王への助言が漏れたことについて﹁誰の裏切

りでか私は知らないが﹂と書いているように︑彼は入手した情報を分析しながら書いている印象を与えており︑この

限りではこのあたりの記述も︑彼の単なる﹁作り話﹂といったものではないと言えよう︒

最後にランペルトは︑こうした中でアーダルベルトは彼の﹁暴君政治﹂の助け手とともに︑多くの﹁恥辱の中﹂で

― 45 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(27)

宮廷より追い出され︑国政は再び司教たちの手に戻ったと述べ︑その際しかし王は︑アーダルベルトが途中で敵に待

ち伏せされないように配下の部隊を与えたと書いている

,︒王がアーダルベルトに護衛を与えたという記述も注意す

べきものであり︑これもある程度事実に近いものであろう

-︒この記述も上記の﹁王の権威﹂の言葉と同様︑王が新

しい権力者たちに対し完全に屈服せず︑独自な立場を維持していたことを暗に示しているのである︒事実また新たに

権力を得たアンノもジークフリートも︑その後の宮廷でアーダルベルトがもっていたような支配的な地位を手に入れ

ることは出来なかったのである

.︒この事情には王が大人になりつつあり︑自ら国政に本格的に関与しつつあったこ

とも関係していよう

/

更に︑一旦追われたアーダルベルトが数年後に再び宮廷に復帰しえたのも︑一つはこの王自身の力のお蔭であった

と見るべきなのである︒アダムは︑アーダルベルトが亡くなる時に彼は王を最後まで非常に愛していたこと︑王に彼

の長年の忠義な奉仕を思い出させたと述べているが

0︑この記述も王とアーダルベルトとの強いつながり︑アーダル

ベルトが王からそれまで強力な支援を受けていたことを窺わせるのである︒

このアーダルベルトの復帰当時について︑ランペルトは︑彼は宮廷での第一人者であり︑数年前に宮廷から彼を追

放した競争者に勝ち︑今や王を一人占めにし︑王の寵を受け王に親しい者になり︑すべての公的︑私的な事柄に係わ

る王との共同統治者同然になり︑更に彼は王を抜け目のない詐欺で自分に従順になる者にしたと書いている

1︒この

記述も明らかに︑アーダルベルトの宮廷での影響力を誇張し

2︑王の立場を殊更小さく惨めに描いているのである︒

クノーナウも評するように︑ランペルトはアーダルベルトに対し王への関係について底意地の悪い評価をしている

3︑アーダルベルトの行動へのこんな意識的な記述が却って︑王の力︑地位が実際には無視できなかったことを示 ランペルトの見るアンノとその時代

― 46 ―

(28)

しているとも言えるのである︒これに対しアダムはこのアーダルベルトの復帰状況についても︑より公平な見方をし

ている︒アダムは︑アーダルベルトは政界から離れて静かな生活を送るような人物ではないと述べ︑彼は多くの努力

と多くの贈り物をして︑追放されてから三年してやっと宮廷で元の地位に返り咲いたと書いている︒こ

うして彼は

﹁帝国代理人﹂となり﹁最高の地位を手に入れた﹂が︑彼は諸侯に対し﹁以前のように彼らの感情を害さないように

慎重な態度をとり︑まずアンノと和解することを欲した﹂と書いている

4︒アダムのこの記述に比べると︑ランペル

トの記述が王や諸侯に対するアーダルベルトの立場を歪めている印象は免れえないのであるが︑アダムもここでも認

めているように以前のアーダルベルトの政治は諸侯にかなり嫌われていたことも確かなようである︒

宮廷復帰後のアーダルベルトの評価はともかく︑彼は一時的であれ一〇七一年から宮廷で決定的な地位をもってい

たが

5︑この彼も病身と老齢に勝てず︑一〇七二年に亡くなった︒ランペルトは︑アーダルベルトが生きている時に

は出来なかったことだが︑人々の﹁頑固な憎しみ﹂に債務を払い︑やっと満足を与えたと大変辛辣な評価を下してい

6︒ランペルトはアーダルベルトに対して﹁憎しみ﹂という言葉を以前にも使っているが

7︑こういう﹁頑固な憎

しみ﹂はまさにランペルト自身のものでもあったろう︒

確かにランペルトも︑アーダルベルトの生涯について︑彼が驚くべき悔悛の情を示し︑特に典礼を全く涙を流して

行っていたと述べ︑﹁伝えられるように﹂彼は母の胎内から童貞のままであったと

8︑彼に対しても﹁聖人像﹂に属

する面は認めていた

9︒ここではランペルトは﹁伝えられるように﹂と伝聞をそのまま書き︑自身の論評を加えず公

平に見ている感じである︒こうした点でクノーナウも︑ランペルトがアーダルベルトの最も近い信頼する者であるア

ダムと︑アーダルベルトの性質の評価においてしばしば一致していたと見ているが

:︑しかしランペルトはこの評価

― 47 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(29)

しえた点についても︑これらの﹁徳﹂を﹁人々の目﹂において︑アーダルベルトの性格の我儘さや自慢ぐせが非常に

暗くしていた

;と批判的な論評をせずにはいられなかったのであり︑アーダルベルトの﹁徳﹂を打ち消そうとする気

持が強く現れていた︒この﹁人々の目﹂は特にアーダルベルトへの反対派の目であろうが︑それにしても右の欠点は

当時一般に相当目立ったようであり︑アダムも認めるものであった︒アダムは︑アーダルベルトの名誉心や怒りっぽ

さ等の欠点を指摘するばかりか︑彼が宮廷での高い地位で高慢になったこと︑彼の性格の欠点は晩年になるほど悪く

なったとさえ述べている

<︒この意味でアーダルベルトは既述の例の世俗性と宗教性の﹁矛盾﹂を合わせもつ典型的

な人物であり︑一面では横柄で高慢︑気まぐれで強引な性格︑節度のなさや野心や名誉欲に満ちた人物であった

=

ランペルトがアーダルベルトの﹁徳﹂を一応認めていたものの︑彼の政治に対しては常に辛辣に批判したことは︑

この面でランペルトがアンノ側から見ていることをはっきり示している︒これに比べアダムは︑逆にア

ンノに対し

﹁嫌悪すべき性格の人物﹂とか﹁彼

の時代になされたあらゆる陰謀に中心的な役割を果した

﹂ と批判しているもの

>︑アンノが既述のように﹁賢明︑有能﹂に政治を行ったと見︑更に﹁世俗や教会の事でアンノによってなされた

多くの優れた処置について聞いた﹂と政治面でも評価すべきものは評価していたのである

?

右のような立場のランペルトにとって︑アーダルベルトとアンノが次々に宮廷に復帰した両者の最後の時代につい

て︑前者の時代を国中で無実な者が圧迫され︑孤児や未亡人が略奪され︑修道院や教会が荒され︑邪悪なことが罰せ

られもせず横行している中で人々が苦しみ︑不正や災害を声高く訴えた時代と感じられたのも当然であった︒ここで

もランペルトには︑既述の一〇六六年の時と同様︑アーダルベルト以外のすべての諸侯らは︑秩序を求める努力をし

ていると思えたのである

@︒ ランペルトの見るアンノとその時代

― 48 ―

(30)

これに対し後者の時代になると︑我儘が再び抑えられ︑王は争い事の審査すべてをアンノに求めたので裁判が公正

に行われ︑アンノは貧者を圧迫する富者をきびしく罰し︑不法を働く者の隠れ家である城を取り壊し︑王の裁判をそ

の厳格さで民衆に人気あるものにしたと︑ランペルトは強く理想化していたのである

A

ランペルトはこれまで見たように︑アンノに対して必ずしも常に肯定ないし賞讃をしていたわけではなかったが︑

ことアーダルベルトと関連してアンノを描く時は︑少なくとも政治世界においてははっきり前者を悪とし︑後者を善

とする見方をとり︑両者の対立を強調していたのである

B︒この面でランペルトのアーダルベルトへの記述は︑アダ

ムがアンノについて書くより︑はるかに憎しみ︑敵意に満ち︑公平さを欠くものであった︒アーダルベルトに対して

は︑ランペルトはアンノや反アーダルベルト派がもっていた憎しみを共有していたようである

C︒既述のように︑ト

リブール会議について最も詳しく語っていたのがランペルトであったというのも︑アーダルベルトの失脚を喜ぶラン

ペルトの気持が現れているようである︒

アンノとアーダルベルトについてのランペルトの叙述は︑アンノ側の立場︑見方を強く反映しており︑シュトルー

ヴェの言う﹁作者の個人的な見方とその周囲の世界の忠実な鏡﹂といった面をもっているものの

D︑この二人は一方

は強く理想化され︑一方は暗黒視されている︒これも意識的な﹁作り話﹂というよりも

E︑やはりランペルトやアン

ノ側の思いの素直な反映という面が強いのであるが︑それにしてもこの二人の叙述に関しては︑ランペルトはかなり

傾向的な面をもち︑強い憎しみの中で冷静さを失っていたと言えよう︒

― 49 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(31)

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.306.

AB.SS.370−371.この記述は︑この二人が共に政治の最高権力についていた時のものである︒

アダムは︑アーダルベルトの最も近い信頼する者であった︒アーダルベルトの下に仕えたアダムは︑彼の著作の三巻目でこ

の人物の伝記・歴史について書いている︒

DiedeutscheLiteraturdesMittelalters.Verfasserlexikon.︵hg.v.k.Ruh.usw︶Bd.I.︵1978︶Sp.52.

﹃聖レマクルスの勝利﹄がマルメディ修道院のアンノへの譲渡の件で︑アーダルベルトについて比較的詳しく書いていると

ころもあるが︑ベルトルトやベルノルトは何の評価も交えずにごく簡単にふれているだけである︒

TR.S.439.BB.SS.54−55,70−71,286−287,292−295.

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.215.

LA.SS.86−89.

LA.SS.88−89.

AB.SS.332−333.

LA.SS.88−89.G.Jenal,op.cit.,Bd.II.SS.199−200.このころのアーダルベルトについて︑フルトルフは一〇六八年の記述で︑王が政治より狩りに夢中になったり︑貴族を圧迫

するなど不和の種をまいているが︑王はまだ成熟した年に完全に達していないので︑これらすべてをアーダルベルトの助言

で行っているため︑これらの責任は王自身よりもアーダルベルトにあると考える人々がいると書いている︒

FrutolfiChronica.︵AQ.Bd.XV.1972︶SS.78−79.

AB.SS.332−333.

M.v.K.Bd.I.S.387.

L.Fenske,op.cit.,S.102.

M.v.K.Bd.I.S.387.

R.Schieffer,op.cit.,DieZeit.,S.128. ランペルトの見るアンノとその時代

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