巻 68
号 2
ページ 40‑57
発行年 2006‑12‑20
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011239
カントにおける神学と哲学の境界線 1783年の合理神学講義を中心に
Kantʼ s Demarcation Between Theology and Philosophy ― focusing on the lecture on rational theology in 1783 高 田 太
Tai Takata
キーワード
合理神学、自然神学、哲学的神学、宗教論、高次の啓示、境界画定
KEY WORDS
rational theology, natural theology, philosophical theology, theory of religion, higher reve-
lation, demarcation
要旨
神学と哲学との間の境界線はいかに画定されるのか。本論文の目的は、『純粋理性 批判』の「超越論的方法論」における哲学体系の叙述と1783年の神学講義を中心にし て、その時期のカントの哲学体系において定められうる神学と哲学の境界線について 考察すると同時に、カント自身が両領域をいかに画定したのかを究明するところにあ る。
カントは常に神学を形而上学として哲学体系の中に位置づけており、そういった位 置を持たない宗教論と区別していた。形而上学としての神学は、超越的形而上学とし て内在的形而上学と区分されている。しかし哲学はあくまで両形而上学を包摂する。
形而上学としての神学は合理神学と称され、カントはこれに啓示神学を対置している。
しかしこの合理神学と啓示神学の間の境界線は、本来は哲学部と神学部という大学行 政上の区分に過ぎない。
合理神学はその行程の終わりに高次の啓示や神秘といったものに行き当たる。ここ に哲学としての合理神学が越えることのできない境界線が存する。その境界線は本来
の合理神学と啓示神学との、また合理神学と宗教論との境界線である。
SUMMARY
The purpose of this paper is to draw a possible line between theology and philoso-
phy in accordance with Kantʼs system of philosophy around 1783 and to clarify how Kant himself demarcated them. Focus will be placed on his description about the system of philosophy in “transcendental methodology”of Critique of Pure Reason and his lec-
ture on rational theology in 1783.
Kant posited theology as metaphysics into his system of philosophy and distin- guished theology from his theory of religion. Theology as metaphysics is a part of tran- scendent metaphysics, and has been distinguished from a immanent metaphysics. But philosophy includes both. Kant called this theology as metaphysics rational theology, and contraposed it to revealed theology. This distinction occurs not according to the sciences,
but according the departments within a university.
The above rational theology encounters what is called “higher revelation”or “mys- tery”in the end of its pursuit. There is a boundary line that the rational theology as a philosophy can never pass. This line demarcates between rational theology and revealed theology, moreover between rational theology and a theory of religion.
1.はじめに
カント研究が盛んな我が国においても、カントの宗教哲学の研究は他の領域に比べ れば格段に少ないと述べられてきた 。これは我が国に特有の宗教事情に由来してい るともいえる。しかし、哲学者が越えることのできない境界線は本来どこに引かれる べきであろうか。またカント自身はそのような境界線を引いたのか、引いたとしたら いったいどこに引いたのか。本発表は批判期のカント神学についての考察を通じて、
哲学と神学の間に定められうる境界線を三つの観点から探索するものである 。
2.カント哲学における神学と宗教 神学と宗教論の間の境界線
対象に認識が従うのではなく認識に対象が従うとして、『純粋理性批判』で打ち出 されたいわゆる認識論上のコペルニクス的転回は、われわれの認識の客体が物自体で
あるとする考え方(Denkungsart)から、それを現象であるとする考え方への変革を 意味している(vgl., B.XVIII)。この『純粋理性批判』における考え方のコペルニク ス的転回からカントの批判が始まるのだとしたら、それが終わるのは(位置からして も)『判断力批判』の「信
﹅
仰
﹅
は……理論的認識では到達し得ないものを真と見なす
(furwahrhalten)際の理性の道徳的な考え方である。従ってそれは心意識(Gemut)の 不屈の原則である」(KdU, S.471)という信仰に関するテーゼのところでであろう。
認識論上の考え方の変革が、超感性的な対象についての知識(Wissen)を廃棄し
「信仰(Glaube)に場を開けるために」(B.XXX)なされたのだとすれば、そのよう にして着手された批判のプログラムが信仰に極まるということに不思議はない。そも そもその批判の営みに通底する態度は、「批判の最大の長所は首尾一貫した考え方で ある」(KdpV, S.7)とか「首尾一貫していることは哲学者の最大の責務である」
(KdpV, S.24)と言われるように、首尾一貫した考え方であったといえる。そして
「信仰を疑うもの(Zweifelglaubige)が道徳的に首尾一貫して考えようとすれば、その 人は[神が存在するという]命題を自らの実践理性の格率のもとに受
﹅
け
﹅
入﹅
れ
﹅
な﹅
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ば
﹅
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ら
﹅
な﹅
い
﹅
」(KdU, S.451)と言われるように、信仰という認識的態度こそがその首尾 一貫した考え方の到達するところなのである。
このようなカントの批判の目的が、従来の独断的形而上学の廃棄にあったことはよ く知られている。しかしカントの批判の試みは、量義治が指摘するように「単なる形 而上学の批判のための批判ではなくて、形而上学のための形而上学の批判」 であっ た。従来の形而上学が独断論として廃棄されるのは、当の形而上学が理性使用の範囲 を超感性的なものにまで拡張し、その対象を知識として認識可能であるとする点に起 因する。しかし、批判によってそういった対象に対する認識的態度が(道徳的)信仰 として確立された以上、その信仰の上に形而上学を建設することが可能となる。カン トは1793年頃に執筆したと推測される『形而上学の進歩についての懸賞論文』で、そ れまでの形而上学の歩みを三段階に区分して次のように述べている 。「第
﹅
一
﹅
は理論的 独断的前
﹅
進
﹅
の段階であり[ヴォルフ・ライプニッツの時代]、第
﹅
二﹅
は懐疑的静
﹅
止﹅
状
﹅
態﹅
であり[ロックに始 ま る 懐 疑 論 の 時 代]、第﹅
三
﹅
は 形 而 上 学 の 道 を 実 践 的 独 断 的
(praktisch-dogmatisch)に完
﹅
成﹅
し形而上学がその究極目的に到達する段階[批判の時 代]である。第一の段階は存在論の限界の内部だけで動いており、第二の段階は超越 論的宇宙論ないし純粋宇宙論の限界内で動いている。……第三の段階は神学の段階で あり、[それは]神学へと導いて神学を必然的にするような全てのアプリオリな認識 によって為されるのである」(
Preisschrift uber die Fortschritt der Metaphyik
, XX, S.281)。ここからして、カントが批判によって純化された形で建設しようと試みた形而 上学は神学を基軸とするものであることが伺える。カントはそれを「信仰の神学
(Glaubenstheologie)」とも呼んでいる(Metaphysik K2, XXVIII, S.777)。
カントはこのように確立された神学が、われわれを「直接に宗
﹅
教﹅
へと導く」(KdU, S.481)と述べている。「そもそも神学を持つことがなぜわれわれに重要であるかと問 うならば、それはわれわれの自然知識(Naturkenntnis)や何らかの理論の拡張や修正 のためではなくて、もっぱら宗教のために、つまり理性の実践的使用、とりわけ道徳 的使用のために主観的意図において必要であると明確にわかるのである」(Kbu.482)。
カントにとって宗教とは「われわれの諸義務を神の命令として認識すること」(vgl., KdpV, S.481, KdU, S.481, Rel., S.153f.)である。そしてこれが批判、形而上学を経 てたどり着くカント哲学の終着点であるといえる。
このような、信仰、形而上学、神学、宗教をめぐるカント哲学を、全体として「宗 教哲学」であると理解する有力な試みがある 。以上の概観からしてこの理解は至当 であるといえる。しかしここでなお注意されねばならないのは、カント自身、常に神 学と宗教を区別して論じているという点である。神学は理説であるが、宗教は寧ろ行 為の問題だからという単純な理由による 。宗教に関する理説は「宗教論(Religions- lehre)」と呼ばれるが、しかしカントは自らの哲学体系の叙述においてこの宗教論の ための独立の位置を設けはしなかった。カントにとっての宗教は先に述べたとおり
「われわれの諸義務を神の命令として認識すること」であるが、これは形式の上から すれば道徳(Moral)に他ならないのであり、神に対する特殊な義務を含む宗教論は、
純粋な哲学的道徳学の限界外に存する、と『徳論の形而上学的基礎』では述べられて いる 。これに対して、『単なる理性の限界内の宗教』では「純粋な哲学的宗教論」と いう表現が登場しており(Rel., S.10)、哲学のうちにも「宗教論」が領域を有するこ とを示唆している。しかし、『単なる理性の限界内の宗教』は、「単なる理性から
(aus)の宗教」を論じるものではなく、既存のキリスト教の中で単なる理性の限界内 に属する部分を究明するものである 。これは形而上学(神学)が「純粋理性から
(aus)」の哲学的認識であるとされているのとは対照的である。カントによるこのよ うな宗教論の微妙な位置づけには、1788年のヴェルナーの宗教勅令の発布が影響を与 えているとも考えられる 。また、『単なる理性の限界内の宗教』が「純粋な哲学的 宗教論」と同一視できるとしても、しかしそれを描出するために、経験的素材(例え ば聖書や実定宗教としてのキリスト教)が利用されねばならなかったことを考慮すれ ば、「純粋な哲学的宗教論」が何を意味するのかについて、またそれがカントの哲学 体系のどこに位置づけられるのかについて慎重に考察されねばならない問題が存する ことが理解されよう 。
このような宗教(宗教論)の微妙な位置に対して、神学はカント自身の哲学体系の 叙述の中で確たる位置を与えられている。また、カントの神学に関する体系だった見
解を知るための資料として、神学の名を冠した講義録が残されている。カントはケー ニヒスベルク大学で、1774年以来自然神学の講義を行っていたのであった。従ってこ こでは宗教(宗教論)の位置づけに関する問題は課題として指摘するにとどめ、神学 に焦点を当てて考察する。
3.形而上学における神学の位置 理性の内在的使用と 超越的使用の間の境界線
カントは神学を形而上学のうちに位置づけている。形而上学は哲学の一部門である。
従って神学は哲学に属することになる。ところがはじめに述べたように、しばしば哲 学者は神学を哲学の限界外の事柄として敬遠する。では、哲学者がそこで定める境界 線はどこに引かれているのか。哲学者が全ての形而上学を哲学の限界外の事柄とする わけではないであろう。そうすると問題は、カントの形而上学における神学の位置で ある。
カントは形而上学の見取り図を、『純粋理性批判』「超越論的方法論」において建築 術的に提示している。ここでカントは、まず全哲学を「経験哲学」と「純粋哲学」に、
続いて「純粋哲学」を理性能力の研究としての「批判」と、「純粋理性からの(真の ならびに見せかけの)全哲学的認識」(B.869)としての「形而上学」に区分する。形 而上学は更に「自然の形而上学」と「人倫の形而上学」に区分される(vgl., B.867ff.)。
前者が狭義の形而上学でありこれは更に「超越論哲学」(これは「存在論」ともいわ れる)と「自然学(Physiologia)」に区分される。後者の自然学は理性使用の形式に 応じて、「内在的自然学」(理性の内在的使用、これは合理的自然学と呼ばれる)と
「超越的自然学」(理性の超越的使用)とに区分される。自然がわれわれに与えられる 形式は外感の対象である物体(Korper)としてか(物体的自然)、内感の対象である 魂(Seele)としてか(考える自然)の何れかであるから、前者には「合理的物理学」
と「合理的心理学」が含まれる。後者は可能的経験を越えた経験の諸対象の連結
(Verknupfung)に関わり、その連結の形式に応じて、内的連結を対象とする超越論的 世界認識としての「合理的宇宙論」と、外的連結を対象とする超越論的神認識として
「合理神学」に区分される。従って、自然の形而上学は1.存在論、2.合理的自然学
(ここに物体的自然の形而上学である合理的物理学と思惟する自然の形而上学である 合理的心理学が含まれる)、3.合理的宇宙論、4.合理神学に区分される(vgl., B.
875)。
ここで形而上学は「真のならびに見せかけの(wahre sowohl als scheinbare)全哲学
的認識」と述べられていた。この挿入は、上述の区分のうち一体どの分野が「見せか けの」認識なのかという問を喚起する。しかし、この問にカントは同所で明白な回答 を与えていない。これについて、合理的心理学、合理的宇宙論、合理神学を見せかけ の認識とし、学としては成立不可能だとする一般的見解が存在している 。
カントは同書「超越論的弁証論」で従来の形而上学が対象としていた理念を仮象と して退けている。「超越論的弁証論」は、制約されたもの一般に対して無制約的総合 的統一を与える理性の超越的使用を批判するものであり、そこで批判されるのは、思 惟する主観の絶対的統一(魂)についての仮象を生む合理的心理学、現象の諸系列の 絶対的統一(世界)についての仮象を生む合理的宇宙論、思惟一般の全ての対象の制 約の絶対的統一(神)についての仮象を生む合理神学である(vgl., B.391)。ここか らして、形而上学のこれらの部門は「見せかけ」の認識であり、学としては成立不可 能だと解釈される 。従って、内在的自然学としての合理的物理学(と人倫の形而上 学)のみが学として可能な形而上学ということになり、まずはここに哲学者がそこで 踵を返す境界線を見いだすことができる。つまり、理性の内在的使用と超越的使用と の間に存する境界線である。
しかし、本論はこの見取り図が学として不成立の部門を含むものであると解釈する のではない。「この区分は、理性の本質的な諸目的にかなって建
﹅
築
﹅
術﹅
的
﹅
であり、……
単に技
﹅
巧﹅
的
﹅
なものではなく、それ故に、この区分は不変であり立法的である」(B.
875)、また「形而上学は人間理性のすべての開
﹅
化﹅
(Kultur)の完成でもある」(B.
878)というカントの言明に従えば、将来建設される形而上学はこの見取り図に従わ ねばならないのであり、従って、何れかの部門が学として不成立であるとは解釈でき ない、という理由による(vgl.,
Preisschrift uber die Fortschritt der Metaphyik
, XX, S.310.)。寧ろカントが読者に疑問を与えるのではないかと心配しているのは、超越的 自然学ではなく内在的自然学の可能性の方である(vgl., B.876)。それ故に、先の
「見せかけの」哲学的認識に関する問については、この建築術的に区分されたそれぞ れの領域で吟味され、また誤謬が防がれねばならないという程度のことを意味してい ると考えられる 。「超越論的弁証論」で批判されていたのは理性の超越的使用その ものではなくて、そういった使用によって生じる理念の構成的(konstruktiv)使用で あった。しかし、悟性認識一般の統一 の た め に 超 感 性 的 な も の の 理 念 を 統 制 的
(regulativ)に使用することは、それが可能なばかりか「理性の必要(Bedurfniß der Vernunft)」に基づいているとカントは述べている。従って、先に区分された諸分野
において求められるべきは、そういった統制的使用のために純粋理性だけから導き出 されるような理念なのであり、われわれの理性があらゆる対象に対する認識一般の統 一を求めるという限りにおいて、先の区分はその求められるべき理念が存する領域を
指し示しているのである。このように解釈するならば、合理的心理学、合理的宇宙論、
合理神学が当該領域における諸認識の連結が必要とされる限りで、形而上学の中に断 固領域を有するということが理解されよう。
批判はこういった形而上学に対して消極的な効用を有している。つまり、批判は悟 性認識の統一のための単なる理念を、主観的にも客観的にも確実である「知識」とい う認識的態度でもって認識されたものとする誤りを予防するのである。
カントは後年、『形而上学の進歩に関する懸賞論文』において「形而上学とは、理 性によって感性的なものの認識から超感性的なものの認識へと進んでゆく学である」
(
Preisschrift uber die Fortschritt der Metaphysik
, XX, S.260)と定義している。この 形而上学の超感性的なものの領域への進出は、「理性の必要」に基づいて、理性が自 らの方位を定めることでなされなくてはならない(vgl.,Sich im Denken orientieren
, VIII, S.139f.)。『思考において方位を定めるとはいかなることか』(1786)でカント は、理性の必要を理論的使用におけるものと、実践的使用におけるものとの二種類に 区分している。前者は例えば、世界の目的論的秩序を判定する際の神の現存在の想定 である。これは「超越論的弁証論」で述べられていた理念の統制的使用に当たるもの である。しかし、当の神という理念の想定は、「もし世界の目的論的秩序を理論的且 つ統一的に理解したければ」という条件付きの仮言的なものに過ぎない。このような 理念の想定、及び理念の対象の現存在についての信憑(Furwahlhalten真と見なすこ と)を、カントは「理説的信仰(doktrinaler Glauben)」としている。しかし、「単に 理説的な信仰は何か不安定なものをそれ自体のうちにもっている」(B.855)。という のも、この信仰は「しばしば思弁において見いだされる難点」(a.a.O.)によって失わ れることがあるからである。それはこのような理説的信仰を支える理性の理論的な必 要が、なるほど学の営みや世界の理解のための必要ではあるが、しかし人間が生きる に当たっての必然的な必要ではないからである。それ故に、哲学者はここでこういっ た(理説的)信仰の事柄には関わらず、超感性的なものの領域に一切進出しないとい うことも選びうるのである。そして、ここに先に確定されたものとほとんど同じとこ ろに引かれる境界線を認めることができる。これに対して、後者の実践的使用に基づく理性の必要によって促される理念の現存 在についての信憑は、「理性信仰」(vgl.,
Sich im Denken orientieren
, VII, S.141)、或 いは「道徳的信仰」(B.856)、またしばしば単に「信仰」(vgl., KdU, S.467ff.)と呼 ばれる。これは道徳法則から生じる無条件的な理性の必要であり、つまり人間が生き るに当たっての必然的な必要である。「ここでは、何事かが起こらねばならないとい うことが、すなわち私が人倫的法則にあらゆる点で従うということが端的に必然的で ある」(B.856)のであって、それ故に、「私」が道徳法則に従った結果として幸福に与るための必然的条件として、最高善としての神の現存在が想定される。そして、こ の実践的必然性を伴う想定を、カントは要請と呼ぶのである (vgl., B.661f., KdpV, S.
142)。ここから理論的思弁的意図において超越的であった理性使用は、実践的意図に おいてのみではあるが内在的使用を許され、「思弁的認識における公理と同様の確実 性を獲得する」(PRnP, S.1083)。ここに、神学を基軸とする他の部門(合理的心理 学、合理的宇宙論)の建設が可能となるのである。
以上で、本節での考察を終える。ここで確認されねばならないのは、理性の超越的 使用と内在的使用の間に境界線を引くことができるという点であり、そしてカントは 哲学者として明確にこの境界線を越えていったということである。それは理性の実践 的使用を待つまでもなく、理性の必要に従って悟性認識一般の統一を目指すという態 度において既に為されていたといえる 。そしてそれ故に、哲学としての形而上学の 中に合理神学は確固たる位置を有するのである。そして、この部門の存在が、神学が 独立で講義の対象となることの基礎をなしているのである(vgl., PRnP, S.1019f.)。
神学講義においては、たとえ思弁理性が構成する神の概念に客体が対応していないと しても、われわれの理性が神の概念にいかなる述語を帰すことができるかを探求する ことが重要であると述べられている。このような探求は、たとえ単に思弁的であって も神学の名に値するのである。
4.神学一般の区分 啓示神学と合理神学の間の境界線
以上のように哲学の中には合理神学の領域が確保されている。それは、可能的経験 を越えた対象の外的な連結を(思弁的であれ実践的であれ)扱う領域であった。こう して確保された領域の中で、純粋理性から生じる「真のならびに見せかけの」哲学的 認識を扱うのが合理神学である。公刊著作では合理神学が体系的に論じられたことは なかった。しかし、先に述べたように神学の名を冠した講義録が残されている。また 形而上学講義の中にも神学に関するまとまった講述が存在している。
何れの講義においても、カントはまず神学一般の中での合理神学の位置を確認して い る。神 学 一 般 が 単 に「神 認 識(Gotteserkenntnis)」と 換 言 さ れ る 限 り に お い て
(vgl., B.875)、この集合は合理神学の集合を包摂している。ここでは神学を単独で扱 い、尚かつ完結した講義録である1783年のもの(「ぺーリッツによる哲学的宗教論」、
「バウムバッハによるフォルクマン自然神学」、「バウムバッハによるダンツィヒ合理 神学」)を中心に神学一般における合理神学の位置を確認したい。
この講義の冒頭で、カントは神学を「最高の存在者、或いは神に関するわれわれの
認識の体系」(NTV, S.1134)と定義し、それに続けて神学一般を神のもとでの神の 認識である「原型的神学」とわれわれが神について有する認識の体系である「模型神 学」に区分する。前者は人間には絶対に不可能であるので、通常の神学は後者である。
「模型神学」は神認識の方法により「合理神学」と「経験神学(theologia empirica)」
に区分される。しかし神は決して経験の対象ではありえないから、経験神学は神的な 啓示の助力を得てはじめてわれわれにとって可能な神学になる 。それ故に神学一般 は「合理神学」と「啓示神学(theologia reverata)」に区分され、これ以外の神学は存 在しない (vgl.,
Metaphysik Dohna nach dem Original
, S.691, B.631)。従来の区分とは 異なり、「啓示神学は自然神学(theologia naturalis)に対置されるのではなくて、合 理神学に対置させられる」(Metaphysik L2, XXVIII, S.595)とカントは強調している。さて、ここで確認しておかねばならない境界線がある。それは啓示神学と合理神学 の間に引かれた境界線である。啓示神学ということでカントが当時の聖書神学を念頭 に置いていたことに疑いの余地はない。例えば、合理 神 学 に は 学 識(Gelehrsam- ketit)は あ り え な い と い う 文 脈 で、カ ン ト は 次 の よ う に 述 べ て い る。「神 学 者
(Theologe)あるいは神識者(Gottesgelehrter)は真の学識を必要とする。というのも、
ここでは聖書が解釈されねばならないからであって、その際には言語と教えられうる ものの全てが重要だからである」 。つまり、啓示神学としての聖書神学においては、
聖書に関する言語的、文献学的な学識が必要だということである。そのような学識を 扱い教授するのは神学部の仕事であったのだから、ここでカントが定める境界線は当 時の大学行政上の区分でもあった哲学部と神学部との間の境界線でもあると推測でき る。というのも、この時点(1783年の時点)では合理神学と啓示神学の区分と関係は 十分に規定されておらず、カントは当時の一般的な枠組みに(謙虚に、あるいは無反 省に)従っていただけだと考えられるからである。しかし、1792年の講義ではこの区 分が消滅し(vgl.,
Metaphysik Dohna nach dem Original
, XXVIII, S.691)、そして1793 年頃に執筆された「宗教哲学序文準備草稿」や『諸学部の争い』ではこの無反省に引 かれた境界線の位置は変更され、合理神学と啓示神学の間ではなく、哲学部と神学部 の 間 に 表 だ っ て 陽 表 的 に 設 定 し 直 さ れ る こ と に な る(vgl.,Vorredeentwurfe zur Religionsphilosophie
,XX,S.429ff.)。啓示神学と合理神学の関係に関するカントの最終的な見解は、啓示神学は「合理神学なしにはありえない」(a.a.O., S.429)というもの である 。
従って、ここで定められていた境界線は、カントの神学自体が定める境界線ではな く、外から定められた境界線であるといえる。ヴェルナー体制のもとでの検閲問題な どを念頭に置くとき、それは「哲学者が越えてはならない」境界線であったといえよ う。カントが合理神学を導きの糸として、つまり哲学者としてこの「越えてはならな
い」境界線を神学部と哲学部の間に引き直すとき、同時に合理神学と啓示神学の間の 境界線の位置もまた変更されることになる。そのように設定し直された境界線の位置 は、啓示神学が合理神学なしではありえないという限りにおいて、外からではなく合 理神学の内から探索されねばならないであろう。
5.カントの啓示論 合理神学と高次の啓示の間の境界線
1783年の講義で、カントは先の神学の区分に続け、合理神学を1.超越論神学
(theologia transcendentalis)、2.宇宙神学(Kosmotheologie)、3.物理神学(Physi- kotheologie)、4.道徳神学(theologia moralis)に区分し、この順序で詳細に論じて いる。そして道徳神学の講述が終わったその後に、啓示に関する講述が行われ 、こ れをもって講義は終了している。このような講述の順序からして、この啓示論のうち に、本来の合理神学と啓示神学との境界線が存するという洞察をえることができる。
ここではこの啓示論を検討し、必要に応じて合理神学の内容に立ち入るという方法を 採ってこの境界線について考察する 。
カントは先ず啓示一般について次のように述べている。「神の啓示(gottliche Offen- barung)は、神の意志について、またこれと同様に神の現存在と属性について、確信 に導く認識(uberzeugende Erkenntnis)を与えるはずである。そのようなもの[神の 存在とその属性]の認識は、神の意志の実現に向けて私を駆り立てる動機、または動 因であるはずである」 。これに続けて、カントはすべての啓示を内的啓示と外的啓 示に区分し、更に外的啓示を作品(Werk)(自然や被造物)による啓示と、言葉
(Wort)による啓示に区分している。内的な啓示とは、われわれ自身の理性を通して の神の啓示であり、「外
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的
﹅
啓﹅
示
﹅
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真
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啓
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示﹅
(Offenbarung Gottes)で
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あ﹅
る
﹅
の﹅
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﹅
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う
﹅
か﹅
」(vgl., NTV, S.1221f.)を判定するために、外的啓示に先行せねばならないとカン トは述べている。
では理性を通じた内的な神の啓示とは何であるか。はじめの言明と組み合わせれば、
内的な神の啓示とは、「それ[ある認識]を認識するものに神の現存在、属性、意志 に関する確信を与え、そのことによって神の意志の実現へと向かわせるような、ある 認識の理性的原因である」と定義できる。そういった認識は道徳神学における神認識 に他ならない。
道徳神学とは、「必当然的(apodiktisch)に確実な道徳的義務」に基づく神認識で ある(vgl., PRnP, S.1072)。義務の遵守は幸福に値するための条件である。しかし 仮に何人かがこの義務の遵守によって幸福に値するものになったとしても、その人が
実際に幸福に与ることがないとすれば、「道徳性と自然の経過との間に矛盾が存する ことになろう」(PRnP, S.1072)。ところで経験が教えるのは誠実や公正が迫害され 悪徳に踏みにじられるという現実である。それ故に、そのとき「自己の本性に忠実で あり続け、道徳性によって持続的な幸福に値する被造物が、実際にこの幸福に与るべ きであるような状態」(a.a.O.)、これを確立した存在者、つまり神が存在しなくては ならない。「そ
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う
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ま﹅
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あ
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」(a.a.O.)。
従ってこれは「私
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く﹅
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請﹅
」である 。この要請は 神の現存在について確信を与える、実践的かつ必然的な認識である(vgl., PRnP, S.
1083)。ここから分析的に、例えば全知、全能といった神の属性が認識される。また、
ここで神の意志と目的は規定されている。そしてこれらの認識は、われわれを神の意 志の実現へと、つまり義務の遵守へと向かわせるのである。そして、この認識は実践 理性に由来する。従ってこの認識の根拠は理性的である。それ故に、道徳神学におけ る神認識は、理性を通じて為される内的啓示における神認識と同定できる。
外的啓示は作品としてか、言葉としてかであった。神の作品とは、自然や被造物で あろう。しかし、「自然は、世界を産出したであろう一つまたは若干の存在者を恐れ るようにと教える」(PRnP, S.1117)に過ぎない。言葉による神の啓示も同様である。
たとえ実際に神が語ったとしても、言葉は「私の思考の感性的な徴表(Zeichen)」に 過ぎず、ここから純粋な神の概念は獲得されない 。総じて経験の対象からは最も完 全なもの、最高のものは推論できないのである。従って「完全な合理神学をわれわれ が既に前もって所有する以前には、神のすべての外的啓示は正しく洞察されることも、
正しく利用されることもできない」(PRnP, S.1119)。とはいえ、外的啓示が全く不 要であるかといえば、そうではなく、外的な神の啓示が神の概念の探求へと人間を促 すことがあるともカントは述べている 。
内的な啓示は道徳神学における神認識であった。そして道徳神学は合理神学に含ま れる。そうすると哲学者は、一切の啓示を理性(理性信仰)に基づいて判定すること ができるのだろうか。否、そうではないとカントは述べている。ここで合理神学の限 界を越えるものとしてカントは、「高次の啓示(hohere Offenbarung)と「神秘(Ge- heimniss, mysteriis)」を挙げている。
高次の啓示については、「神が人間[人類]を助け、人間[人類]が自己の使命に 従ってあるべきところのものにならんとせしめる計画や手段」について与えられた
「人類の幸福にとって必要なある種の真理」(a.a.O.)という例が挙げられている。理 性はそのような真理が啓示されたということを否定できないが、しかし、そのような 啓示が人類の安寧にとって必然的であるべきかを洞察することもできない。このよう
なものが高次の啓示である。
神秘とは「公にされるべきではないものであり、また公にされないものであるが、
しかしその場合でもある種の真理を含むもの」(DR, S.1318)である。道徳神学が描 き出す神は、全く公正な神である。つまり、人間が義務を遵守した分に応じてその善 意から幸福を与えるような存在者である。しかしその神が「人間が最善の努力をした にもかかわらず、良心の法廷の前では道徳法則全体にいまだ到底合致しないと思って おり、従って幸福に値しないと思っている場合でさえ、なおそのような人間を幸福に することができる」(PR, S.1120)ということ、これは神秘である。このような神秘 を前にして「理性は深く沈黙する」 。
これらは合理神学の限界を超えている。一方で神の手段の洞察の不可能性によって、
他方で理性の本質的な制約に伴う洞察の不可能性によって、その啓示が合理神学に矛 盾しないならば、そこに合理神学は立ち入ることができない。なぜなら、合理神学は
「人間理性が神において見いだすものの総括」(PRnP, S.995)に過ぎないからである。
なるほど「神は道徳法則を通じて自らを啓示した」(DR, S.1317)。しかし、そこで神 の現存在、意志、目的、そして若干の属性は啓示されたが、それ以外の神に関する一 切が啓示されたわけではない。合理神学はこの数少ない、しかし実践的意図において は確実な与件から(道徳神学だけが獲得するこの僅かな与件が徹底的に重要なわけで あるが)理性によって神の属性を、その理論的実践的必要に従って、信仰のために推 論するのである。
何れにせよ、ここに哲学者が越えることのできない境界線を見いだすことができる。
カントはこの啓示論を、つまりはこの講義全体を次のような言葉で終えている。「言 葉による神の啓示(Offenbarung Gottes durch Worte)においてもそのような神秘が 可能であるかどうかは、われわれが既に語ったことからして否定することはできない。
現
﹅
実﹅
に
﹅
そ﹅
の
﹅
よ﹅
う
﹅
な﹅
こ
﹅
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る
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ど﹅
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﹅
理﹅
神
﹅
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﹅
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属
﹅
さ﹅
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﹅
い﹅
の
﹅
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あ
﹅
る﹅
」(PR, S.1121)。それ故に、この境界線を越えることができるのは、合理神 学に完全にうちに含む啓示神学であろう。
6.おわりに
以上、哲学と神学の間に引かれうる三つの境界線を明らかにした。
第一に、理性の超越的使用と内在的使用との間に境界線が定められ得ることを確認 した。
第二に、合理神学と啓示神学の間に無反省に引かれた境界線を確認した。これは仮
象の境界線であり、本来は哲学部と神学部の間に引き直されるべきものであった。哲 学部が真理に関わるのに対して、神学部は聖書の学識にも関わり、教会の安寧を配慮 せねばならない。また当時の神学部は政府に公認され、国民を指導する聖職者(実務 家)の養成機関でもあった。この境界線を挟んでの両者の関係を更に洞察するために は、『諸学部の争い』と当時の大学のシステムが考察されねばならないであろう。
第三に、合理神学と神秘や高次の啓示との間に境界線を確認した。第一の境界線を 越えて超感性的なものの領域へと進み出る際、理性を導くのはその必要(Bedurf- nis)であった。理性の必要は実践的見地から要請として、また信仰としてこの領域 への進出を力強く導き、理性をして神を見いださせた。しかしそこで神は、尚も理性 を越えるものとして見いだされるのである。理性はその限界を超えたものに関しては 否定も証明もできない。従って、この境界線の設定は理性の有限性の自覚に基づくも のである。合理神学はここを越えては何も語ることができず(vgl., A395f.)、ただ行 為の問題として宗教だけが残る。宗教は「われわれの義務を神の命令として認識す る」ことで、どこまでも自らの義務に忠実でありながら、そのような義務を遵守する ために「公にされてはならない」神秘を希望とすることができよう。この神秘を公に 語るのが宗教論である。従ってここに、合理神学と宗教論との間の境界線をも見いだ すことができるのである。
後年のカントは哲学者として、この境界線を越えて行った。およそ十年後の『単な る理性の限界内の宗教』や『諸学部の争い』において、この1783年の時点では、それ を前にして理性は沈黙するしかないとされた神秘や啓示が、一方で内的啓示を導きの 糸に、他方で希望を原理として表立って陽表的に論じられることになる。そのような
「越境」が哲学の限界を誤認したものであったのかどうか、これが次に問われなくて はならないだろう。
本文中、カントの著作からの引用に関しては、著作名、アカデミー版全集の巻数をローマ数字で、ページ 数をアラビア数字で引用文の後の括弧内に記す。なお、以下のものに関しては著作名を略記号で示す。なお 訳出に際しPhilosophische Religionslehre nach Politzに関しては、近藤功訳、『カントの哲学的宗教論』、朝 日出版社、1986を、他は岩波版カント全集を適宜参照した。
Kritik der reinen Vernunft(1. Aufl.), IV→A
Kritik der reinen Vernunft(2. Aufl.), III→B
Kritik der praktischen Vernunft, V→KdpV
Kritik der Urteilskraft, V→KdU
Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft, VI→Rel.
Philosophische Religionslehre nach Politz, XXVIII→PRnP
Naturliche Theologie Volckmann nach Baumbach, XXVIII→NTV
Danziger Rationaltheologie nach Baumbach, XXVIII→DR
引用文中の全角の( )はカントが使用しているもの、[ ]は引用者の補足である。また、引用文中の強 調には傍点を付した。
注
1 本論文の一部は、21世紀 COEプログラム「一神教の学際的研究 文明の共存と安全保障の視点から」
の研究助成によるものである。また、本論文は2006年3月15日に同志社大学で開催された日本基督教学 会近畿支部会における研究発表に加筆・修正したものである。
2 例えば、石浜弘道、『カント宗教思想の研究 神とアナロギア』、北樹出版、2002、3頁、また、中島 義道、『悪について』、岩波新書、2005、211頁参照。哲学者はしばしば神や宗教、神学という問題に面 した際に、それを哲学の限界外の事柄として無差別に敬遠する例えば中村博雄、『カント「判断力批判」
の研究』、東海大学出版会、1995、247頁以下を参照。勿論、哲学者として宗教、神学と真っ正面から取 り組んだ優れた研究も存在している。
3 カントの神学への取り組みは、著作としては1759年の『オプティミズム試論』にまで遡ることができる。
これに続いて、1762年の『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』、1763年の『自然神学と道徳の原 則の判明性』でも神学への取り組みが行われている。前批判期における神学思想の発展が『純粋理性批 判』の成立と深く関係していることは、しばしば指摘されてきている(例えば木阪貴行、「カントと神 の存在証明」、牧野・福谷編、『批判的形而上学とは何か』、晃洋書房、1997、107‑151頁に所収)。しか し本論においては、主題との関連上これら前批判期の神学思想に関しては立ち入らないことにする。
4 量義治、『宗教哲学としてのカント哲学』、勁草書房、1990、58頁。
5 本懸賞論文はベルリン王立科学アカデミーの懸賞論文の公募に応じて執筆が試みられ、しかし未刊のま ま残されていた草稿を、カントの死後1804年にリンク(Friedlich Teodor Link, 1770‑1811)が出版した ものである。出版事情や執筆年代の確定については岩波版カント全集第13巻の円谷裕二による「解説」
(505‑508頁)を参照。
6 この試みは G. ピヒトによって先鞭が付けられた(G. Picht,Kants Religionsphilosophie, Klett-Cota, Stutt- gart, 1985)。このピヒトの研究に刺激された日本での研究として、量義治、『宗教哲学としてのカント 哲学』、勁草書房、1990、がある。近年の同方面での研究について紹介するものとしては、次のものを 挙げることができる。W. Thiede,Glauben aus eigener Vernunft? --Kants Religionsphilosophie und die
Theologie, Vandenhoeck & Ruprecht, Gottingen, 2004.
7 vgl.,Streit der Faknltaten, S.23, また、「宗教とは道徳性、つまり善き心術に対する神学の応用 (Anwen- dung)に、つまり、最高の存在者の意に適うよう振る舞うことに他ならない」(PRnP, XXVIII, S.997)と いう定義もある。
8 vgl.,Metaphysische Anfangsgrunde der Rechtslehre, VI, S.487f., 宗教は「われわれの諸義務を神の命令と して」認識するというものであり、「神の命令をわれわれの諸義務」とするものでは、つまり神学的道 徳ではないからである。このクルージウス(Christian August Crusius, 1715‑1775)を意識した神学的道 徳に関する言及は、公刊著作においても講義録においても至る所で繰り返されている(vgl., KdpV, S.
40)。
9 vgl.,Sreit der Fakultaten, VII, S. 6.
10 ヨハン・フリードリヒ・ヴェルナーは、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の統治下のプロイセンで、
1788年に法務大臣および宗教・文教行政の担当職に就任、同年啓蒙主義的思想傾向を統制するため、宗 教勅令を発布、続けて1789年には検閲令を発布している。カントはこういった反啓蒙的な政府の動向に 批判的で、立て続けに『ベルリン月報』宗教的主題を扱った論文を掲載したが、後の『単なる理性の限 界内の宗教』の第二論文が検閲により印刷不許可となる。カントはこれに反発し、印刷不許可論文をも 含んだ『単なる理性の限界内の宗教』を出版するが、しかしこれが当局の逆鱗に触れ、1794年には宗 教・神学に関する講述を禁止する国王の勅令を受けている。
検閲令や勅令を巡る問題は、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世の死後に出版された『諸学部の争い』に よって公にされている(vgl.,Streit der Fakultaten, VII, S.5ff.)。
11 この位置づけを説明するために、しばしば1793年のシュトイトリーン(Carl Friedlich Staudlin, 1761‑
1826)宛の手紙が参照されてきた。つまり、「純粋哲学の領域で私自身が取り組まねばならないことと して、相当以前から構想してきたことがある。それは1.私は何を知ることができるか (形而上学)、
2.私は何をなすべきか (道徳)、3.私は何を望んでよいか (宗教)、という三つの課題の解決で ある。……同封する『限﹅
界﹅ 内﹅
の﹅ 宗﹅
教﹅
』では、私は三番目の構想を遂行しようとした」(XI, S.429)。これ に対して、第一の問に『純粋理性批判』、第二の問に『実践理性批判』、そして第三の問に『単なる理性 の限界内の宗教』を割り当て、当該著作の重要性が主張されることがある。しかし、そのような見解に 対しての懐疑的な見方もまた存在している(vgl., H. Noack, Einleitung des Herausgebers, in ;I.Kant,Die
Religion innerharb der Grenzen der bloßen Vernunft, Felix Meiner Verlag GmbH, Hamburg 1978, S. XXXI)。
しかしともかくこの順序は、形而上学としての神学が道徳と結合し宗教へ至る、という先に描出したプ ロセスに合致しており、神学と宗教を区別して論じねばならないという本論の主張を裏付けるものであ ることを確認しておきたい。
12 量は従来のそういった見解を一般的なものとして紹介し、それをカントの形而上学が有する「理念の形 而上学」という側面を強調しつつ批判している。しかし同時にそのような見解が一般的となる根拠がカ ント自身の言説にあることを突き止めている(量義治、『宗教哲学としてのカント哲学』、勁草書房、
1990、71頁を参照)。確かに、「神学に関する理性の単に思弁的な使用の全ての試みはまったく不毛であ り、……加えて理性の自然的使用の諸原理はまったくもって何らの神学にも至ることがない」(B.664)
や、「われわれの認識はこのような[実践理性の要請により思弁理性が課題として提起した問題を解決 するという]仕方で純粋実践理性によって実際に拡張されるのだろうか。また思弁理性に対して超﹅
越﹅ 的﹅ であったものが、実践理性において内﹅
在﹅ 的﹅
となるであろうか。確かにその通りなのだが、しかしそれは 実﹅
践﹅ 的﹅
見﹅ 地﹅
に﹅ お﹅
い﹅ て﹅
の﹅ み﹅
である」(KdpV, S. 133)といったカントの言明は、理性の思弁的使用において 超越的である形而上学が可能になるのは、実践的見地からのみだという推論を支持するであろう。
13 例えば、犬竹正幸、「自然学」の項、有福・坂部編『カント事典』、弘文堂、1997、204頁以下を参照。
しかし、このような解釈をとるならば、ここで合理的心理学が内在的自然学でありうるかどうかについ ての問題が現れてくる。犬山は同所で「合理的心理学を内在的とみなすことには問題がある」と指摘し ているし、量もまた、合理的心理学を「超越的自然学」であると述べている(量義治、 カントにおけ る道徳神学」、『白山哲学』32、東洋大学文学部哲学研究室、1998、1‑32頁に所収、5頁)。
14 実際、カントは自らの形而上学講義において、テキストとして用いていたバウムガルテン(Alexsander
Gottlieb Baumgarten, 1714-62)の『形而上学』(A. G. Baumgarten,Metaphysica, 1739, in Kants Gesam- melte Schriften, herausgegeben von der Koniglich Preussischen Akademie der Wissenschaften, Bde. XVII, 1926, S.5-226)の区分に従いつつも、常にこの見取り図の区分を念頭に置き、修正を挟みながら講義 を行っており、また、そこでは真の哲学的認識が扱われているのは勿論、見せかけの哲学的認識の批判 も行われているのである。
15 vgl., PRnP, XXVIII, S.1034, ここでカントはかつての「神の現存在の唯一可能な証明根拠」を引き合いに 出して、神の現存在を想定する理論的主観的必然性について、「人間理性は一切の可能性の根拠である、
一人の存在者を是非とも想定するようにと私を強制する」と論じている。
16 vgl., PRnP, S.999,「形而上学 L2」では、神認識は始めから合理的、経験的、啓示的に区分され、その 上で経験的は「考えることが全然不可能だ」と述べられている(vgl.,Metaphysik L2, XXVIII, S.595.)。
しかし「ドーナ形而上学」と「形而上学 K2」ではこの区分はなされていない。
17 PRnP, S.998, また vgl., DR, S.1238, こちらには「啓示された宗教は学識である。それには文献学が属す るからである」とある。
18 これに完全に対立するのは、合理神学を一切内に含まない純粋な啓示神学であり、『諸学部の争い』
(1798)では、そのような純粋な啓示神学(聖書神学)が描出されている。バルトはこれをカントの神 学者に対する皮肉と見ている。しかしバルトは、神学者はこれを真剣に聞く必要があるとも述べている
(vgl., K. Barth,Die Protestantische Theologie im 19.Jahrhundert, Evangelischer Verlag, Zurich , 1960 , S.
278)。これを要約すれば次の通りである。聖書神学者は、神が存在するということを、聖書において語 ったのは神だということから証明する。聖書は神の本性についても語っている。しかし神自身が聖書を 通じて語ったということを聖書神学者は証明できないし証明する必要もない。それは信仰の事柄として 聖書が神的であるという感情に基づけられる。また、聖書神学者は、聖書理解に関しては理性を使用す
るのではなく、全てを真理に導く霊による超自然的な開示に依り頼まねばならない(vgl., Streit der Fa- kulaten, VII, S.24f.)。勿論カントはこのような神学は、「聖﹅
書﹅ 神﹅
学﹅ 者﹅
が﹅ 自﹅
分﹅ の﹅
目﹅ 的﹅
の﹅ た﹅
め﹅ に﹅
理﹅ 性﹅
を﹅ 用﹅
い﹅ る﹅ の﹅
を﹅ や﹅
め﹅ る﹅
」(a.a.O., S.45)ことはないという神学部の実情からして、不可能だと考えている。
19 この部分に関して、「ぺーリッツによる哲学的宗教論」、と「フォルクマン自然神学」の内容は字句のレ ベルで見てもほとんど同じである。「ダンツィヒ合理神学」では項目は設けられてはいないが講述は存 在する。しかし前二者とは僅かに内容が異なっている。先に挙げた講義録中、表だって陽表的に啓示を 扱っているのはこの三つの講義録のみである。
20 日本における合理神学の研究文献としては次のものを挙げることができる。春名純人、『哲学と神学』、
法律文化社、1984、量義治、「カントにおける合理的神学」、『東洋大学大学院紀要』第34集、1997、1‑
25頁、量義治、 カントにおける道徳神学」、『白山哲学』32、東洋大学文学部哲学研究室、1998、1‑32 頁に所収。
21 PRnP, S.1117, 確信に導く認識については、vgl., KdU, S.461f.。
22 a.a.O., ここでは、主語として一人称の「私」が用いられている。講義録であるため、カント自身が厳 密に語を使い分けていたかどうかを特定するのは容易ではないが、しかし、道徳法則が引責能力のある 主体としての「私」の根拠であるならば、この表現も承伏可能であろう。次のものを参照されたい。林 克樹、「カントの超越論的主観は一般者か」、『人文学』171、同志社大学人文学会、2001、1‑25頁。また、
この神の存在の道徳的証明に関しては、L1での説明が明瞭である。それは要約すれば次の通りである。
道徳法則は判決に関しては正しいが執行に関しては空しい。しかし道徳法則なしに幸福に与れると希望 するならば、その人は道徳的不合理(absurdum morale)に陥る。道徳法則に従う人はこの不合理を免 れるが、しかし幸福に与れるようにならないのだから、実際的不合理(absurdum pragmaticum)に陥る。
それだから普遍的な世界統治者が仮定されなければならない。そのものの意志は道徳的意志であり、そ のものはただ道徳法則の条件のみの下で、幸福を与える事ができ、かつ正しい振る舞いと善い境遇とを 一致させる事ができるのであって、それ故に聖なる存在者である。いかなる被造物も自らの幸福を放棄 する事はできない。しかし人間がこの前提(道徳法則遵守)なしで幸福にふさわしいものになるよう努 めるとするならば、その場合その人は自分自身の幸福を放棄しなくてはならない。ここで神の現実存在 は間接的にのみ証明されうるが、それは他の人がその反対を証明しようとするならばその人を論理的お よび実践的な不合理へと(ab absurdum logicum et practicum)追い込む事ができる(vgl.,Metaphysik
L1, XXVIII, S.317f.)。
23 vgl., PRnP, S.1117, 言葉による啓示に内的な啓示が先立たねばならないというこのカントの言明は、い かなる神学を言葉によって学んだにしても、そういった学識に対して内的な啓示が先行していなくては ならないという主張をそれとなく陰伏している。学校概念の哲学と世界概念の哲学を区分し、「哲学は 決して学習されえず、……たかだか哲学することだけが学習されうる」(B.865)と述べた哲学者の精 神が、この神学においても貫かれていると考えられる。このような内的な啓示に基づいて神学を為すカ ントを、ウッドと共に「実存主義の神学者」と呼ぶこともできるだろう(cf., Allen W. Wood, Kantʼs
Rational Theology, Cornell University Press, London, 1978, p.150)。
24 vgl., PRnP, S.1119, 外的な自然の美や合目的性の認識から、超感性的なものの洞察へと至る筋道は『判 断力批判』で描出されることになる。言葉による触発の可能性は実定宗教の可能性の根拠であろう。こ れが表だって陽表的に論じられるのは『単なる理性の限界内の宗教』においてである。しかし実定宗教 を待たずとも、こうして講義をするカントの営みのうちに既に、言葉による触発の可能性が前提にされ ているといえよう。
25 a.a.O., S.1120, ここで理性が沈黙するのは、そのような事柄の可能性を全く洞察できないからであると ともに、そのような事柄を自らの格率として意志規定に用いることができないという点から、また、そ のような事柄について公に語ることが、「正しく理解されない」からである(vgl., DR, S.1318)。