[資料] 法哲学研究のためのノート 啓蒙と理性 : フランクフルト学派第一世代の問題圏(2・完)
その他のタイトル [Material] Enlightenment and Reason : Notes for the Study of Legal Philosophy in the
Context of the First Generation of Frankfurter Schule (2)
著者 玄 哲浩
雑誌名 關西大學法學論集
巻 52
号 6
ページ 1916‑2057
発行年 2003‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00022430
は じ め に
1法/正義と理性
ー.合理化の逆説
m
理性とユートピア②ニーチェ的モメント—ーM・ウェーバーの場合③ 鋼 鉄 の 檻
④ 批 判 と 啓 蒙
Iフランクフルト学派へ
2.生と文化
① 十 九 世 紀 の 雰 囲 気
② 形 式 化 す る 理 性
③ 文 明 の 理 想 と 文 化 の 諸 理 念
④文化の挫折と理性の退縮︵以上︑五二巻三号︶
3.支配のモチーフ
m
忘却と物象化② 神 話 と 啓 蒙
③ 体 系 的 統 一 と 理 性
1支配と自己保存
④ オ デ ュ ッ セ イ ア ー 主 体 性 の 原 史
4.暴力的抑圧・全体性・支配
①批判理論のアクチュアリティ
ゆ意識的適合と全体の自己保存
③ 道 具 的 理 性 批 判
④ 反 覆 す る 自 然 固 一 般 等 価 物 と し て の 言 語
5.理性の弁証法的潜勢力
m
人間への復帰i
哲学と矛盾の声②分極構造と負債連関ー~第一者の神話③ 解 釈
1傷つけて癒すもの
,:
pw
<l
a^
6
ぷg g
むすびにかえて1文化・言語・共同体と対話︑もしくは
ユートピアとデモクラシーについて
︵以 上︑ 本号
︶
玄
│ フ ラ ン ク フ ル ト 学 派 第 一 世 代 の 問 題 圏
︵
2.
完 ︶
法哲学研究のためのノート
啓 蒙 と 理 性
三一八
哲
一︵
九一
六︶
浩
忘却と物象化
, ' ︑
ー
9
̲
し
イマーは︑それを︑虚偽もしくは単なる幻想に過ぎないものであ 客観的理性の哲学を支えた形而上学的基盤について︑ホルクー
ると一蹴する︒けれども︑彼は︑﹁理性的なもの﹂の客観的秩序を語った西洋の哲学的伝統のなかで提示された﹁偉大な文明の理想﹂
を評価するとともに︑それらの理想に担保されたもの︑つまりは︑正義︑公正さ︑自由といった﹁概念的諸原理﹂のもとで彫琢さ
れてきた文化的諸価値を重視した︒前述のような一連の概念的諸原理の要求のもとで︑われわれの未来に関する信念は︑手探りの
うちに語られてきたものである︒あるいは︑そうした信念のうちに表現されていた希望のもとに︑人々は︑圧制に抗議し︑変革を
要求したのである︒ホルクハイマーにおいては︑このような文化的伝統からの精神的遺産こそが人間的な生の母胎となる︑と考え
られていた︒ところが︑文化の諸理念には︑もはや何らの価値も認められなくなってきつつある︒こうした事態を︑西洋哲学の基
本概念である理性の変容を考察することを通して論じていったホルクハイマーは︑理性の形式化の傾向のなかで︑文化の諸理念が
忘却されようとしていること︑言い換えると︑理性が︑われわれの生の母胎を破壊することによって︑自身が目標として掲げた﹁人
間の観念
( di e Id ee de
s M
g
sc he n)
﹂を自らの手で破壊するにいたったことに︑時代における危機を見出し︑それに対して警鐘を
鳴らしたのであった︒
このような時代における危機は︑前章で整理したように︑ホルクハイマーにおいて︑﹁文化の衰微
(d 9k已 t ur e l le n V er f a ll )
﹂ の
問題として論じられたものであった︒理性の形式化の傾向は︑われわれの生の母胎である文化的基盤を掘り崩し︑そうして﹁人間
(1 )
の観念﹂の破壊を帰結する︒それは︑﹁記憶の喪失
( Ve r l us t de r Erinnerung)
﹂をもたらすことを通して︑﹁批判﹂をアプリオリに
不可能とするとともに︑硬化した秩序/全体のフレームワークの勝利を購うものである︒こうしたなかで︑﹁人間を忘れ去る
( ve r g es s
g
de n M en sc he n)
﹂という事態に逢着したことに時代の危機を確認し︑それを﹁文化の衰微﹂の問題として論じた I
啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完 ︶
3
.支配のモチーフ
三一九
︵ 一
九 一
七 ︶
三 二
0
︵ 一
九 一
八 ︶
したがって、これまでに確認したように、そこでは、実証主義的潮流とともに、文化の保守主義に対する論難が展開されたー—'ホ
ルクハイマーは︑この問題を︑﹁思惟するための主観的能力﹂としての﹁理性
( ra t i o, su bj ek ti ve Ve rn un ft
)
﹂の力の変容との連関
形式化の傾向のなかで優位を与えられた理性は︑﹁区別する
(l
<P LV
g ̀ ,
un te rs ch ei de n)
﹂ということに固執し︑区別され︑同定
(2 )
されたものを固定しようとする︒このようにして︑理性が︑﹁自己に固有の一貫性
(e ig en en ko ns eq ue zn
)
﹂に従って︑個々の認識
を﹁一定の集合的統一
とき︑その行き着く先には︑﹁新たな野蛮
(n eu eA rt vo n B ar ba re i)
﹂ ー ー ー ﹁ 第 二 の 神 話
( zw e i te My th ol og ie
)
﹂ーが誕生する︒
理性が徹底して志向する﹁体系的連関
( di e sy st em at is ch en Zu sa mm en ha ng
)
﹂の構築は︑物象化されたシステムの登場をもって
完結を迎えるのであり︑また︑このシステムを産出した理性は︑それに対する﹁適合の道具
(A np as su ng si ns tr um en t)
﹂として機
能することにより︑比類のない堅牢さを誇る﹁鋼鉄の檻﹂の維持・再生産を支えることになるのである︒
形式化した理性︑というよりも︑退縮
(v er ki im me rn )
した理性に関して論じられた︑先のような﹁道具的理性批判﹂へと連なっ
ていく所論においては︑﹁分割
( 6 u : . : d p C l L c
; : )
﹂︑すなわち︑理性の﹁区別する能力
(F ah ig ke it de s Unt er sc he id en s)
﹂ で は な く て ︑
﹁ 綜
合
( C l u v o i ‑文
e
yi)
﹂へと向かう理性︑つまりは﹁体系的統一の理念
( di e
!d ee satischerystem
Ei n h ei t
)
﹂に与する理性の傾向が
問題とされた︒ホルクハイマーは︑﹁文化の衰微﹂を論じるなかで︑﹁区別する能力﹂としての理性が示す﹁質的契機
( Qu a l it a t iv e s Mo me nt
﹂が見失われ︑理性が︑﹁堅固な概念的連関という︑諸々の形式的な基礎原理
)( di e fo rm al en El em en te fe s t en b eg r
i ,
f fl i c he n Zu sa mm en ha ng s)
﹂にしたがって﹁綜合﹂へと向かうとき︑言い換えると︑その力を肯定性に局限された理性が︑徹底し
た﹁支配への要求
( di e h er r s ch a f tl i c he A ns pr uc h)
﹂に応じて︑体系的連関の完成を志向する先に︑抑圧的な世界/全体が出現す
(3 )
ることになる︑ということを論難していったのである︒ のうちに語った︒
( ei n e gewisse
o l k l ek t i ve E in h e it )
﹂へと︑つまりは﹁体系
( <
l a s Sy ts em
)
﹂へとまとめあげることに向かう
関
法
第
五
二
巻
六
号
理性概念の変容を通して︑ホルクハイマーが描き出した事態は︑四
0
年にベンヤミンに宛てた書簡のなかで︑アドルノによって語られたテーマに貫かれていたものであった︒理性は︑﹁同一性の強制
( Id e n ti t i it s z wa n
g )﹂により︑﹁他なるもの
( da s An de re
)﹂
から﹁質的なもの
(d as Q ua l i ta t i ve )
﹂を剥奪することをもって︑秩序/全体の構築を志向する︒他方︑﹁他なるもの﹂は︑理性に
よる暴力的な支配を否定し︑それに抗おうとするなかで︑理性による把持を逃れ︑﹁概念なきもの
(d aB e g ri f f sl o s e)
﹂として︑わ
れわれの許を過ぎ去ろうとする︒もっともこの︑理性によって﹁敗北を決定づけられているもの﹂は︑理性のもとに紡ぎ出された
今ある世界/全体のうちにも欠落してはおらず︑きれぎれの断片となって︑全体のうちにちりばめられてもいる︒言い換えるとそ
れは︑なおも概念のうちに意味を介してその﹁痕跡
(S pu r)
﹂を残してもいるのである︒ところが︑時代においては︑理性の剥き
出しの暴力により︑それらの﹁痕跡﹂が抹消されようとしている︒退縮し︑質的契機ー否定/批判の契機ーを見失った理性が︑
概念的秩序の物象化をもたらすーー'﹁凝固した綜合
(g er on ne ne Sy nt he se
)﹂が︑ひとつの契機としてではなく︑直接的ないしは
自体的に受け取られる—ーなかで、生ける現在が、「過ぎ去ったもの」の破壊を通して成立する
1死せる過去として再生産され
(4 )
る
I
ことになったのである︒理性の光によって明るみに出された︵a已
g ek l a rt )
世界において︑﹁他なるもの﹂ー理性ないし
(5 )
は言語/理性の勢力圏から逃れ出ることの不可能性から出発するアドルノ︑そしてホルクハイマーにおいてもまた︑希望とは︑こ
(6 )
の﹁輝かざるものからの光
( lu c
u sa
no n l uc en do
﹂に由来するものであると捉えられていたーが完全に忘れ去られることを代)
価として︑硬化した世界/全体の完成が購われようとしている︒こうした事態︑つまりは先述のホルクハイマーにいう﹁記憶の喪
失﹂についての洞察を通して︑﹁あらゆる物象化は︑忘却である
( Al i
V
eer di ng li ch un g i s t e i
n
V
er ge ss en
)﹂と語ったアドルノは︑
それを認識のレペルにおいてさらに詳細に論じていった︒
個人の意識は︑﹁自己固有の組成
(e ig en en Fo rm at io n)
﹂によって︑統一へと向かわざるをえないものである︒それは︑認識す
る主観が﹁論理的な同一性の反省形式
(R ef le xt io ns fo rm de r logischen
Identitiit) 」にしたがって
1理性の力のもとで~己と
同一でないものを﹁全体への要求
(T ot al it at sa ns pr uc h)
﹂をもって計ることにより︑﹁概念的全体
( di e b eg r i ff l i ch e To t a li t a t)
﹂と 啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完︶
冒
︵一
九一
九︶
§
︵一
九二
0 )
して結晶しようとするものである︒こうした意識の統一性は︑つねに﹁概念的全体の仮象性
(S ch ei nh af ti gk ei t de r b e gr i f fl i c he n T ot a l it a
t )﹂としてあるのだが︑それを支える概念的秩序は︑それ自体として認識する主観に先立って構成されているものであり︑
カント
(I mm an ue lK an t,
1724 ,
18 04 )
のいう﹁心の深みに隠された機構
(v er bo rg en e Me ch an is mu s i dn en Th ie fe de r S e el e )﹂と (7 )
して︑認識する主観の他ならない主観性を規定しているのである︒このような︑﹁構成的主観性
( di e k on s t it u t iv e Su b j ek t i vi t i it )
﹂
についての所論を展開するなかで︑アドルノは︑共同研究に引き続き︑ホルクハイマーが三七年の論稿において提示した﹁一般的
主観性
( di e al lg em ei ne Su b j ek t i vi t a t)
﹂の概念に関する見解と同様の︑言語/理性の紡ぎ出すーー水立'的・共時的な文化的地
(8 )
平による認識の被拘束性についての理解を示すとともに︑その潜在的な暴力性を問題にしたのであった︒
﹁感性的現象
( si n n li c h eE rs ch ei nu ng en
)﹂は︑それが﹁知覚
(W ah rn eh mu ng
)﹂によって受け入れられ︑意識をもって判断さ
れるときには︑すでに﹁超越論的主観
( <
l as tr an sz en de nt al e S ub je kt
)﹂によって︑したがって﹁理性の活動
( ve r n ii n f ti g eA k t iv i t at )
﹂
によって形成されたものとしてある︒こうしたカントの洞察を︑ホルクハイマーは︑諸個人の﹁感覚
(S in n)
﹂は︑知覚が生じる
よりも前に︑﹁社会的なもの﹂︑つまりは︑﹁概念的装置
(B eg ri ff sa pp ar at
)﹂によって構成されるフレームワークに規定されている
のであって︑意識的な処理の段階においては︑事前の検閲を受けた
( vo r z en s i er t )
素材を︑体系的な概念連関のもとで︑秩序/全
(9 )
体のうちに編入するということがなされている︑との理解を表現するものとして捉えた︒概念的な秩序/全体として結晶している
一般的主観は︑個別的な意識の背後の暗がりに潜みつつ︑認識する主観よりもはるかに能動的な力を発揮している︒こうしたホル
クハイマーの理解から︑さらにアドルノは︑認識のフレームワークとしての﹁前主観的秩序
(p ra su bj ek ti ve Or dn un g)
﹂が︑それ
自体として﹁同一化原理の社会的モデル﹂である﹁交換
(T au sc h)
﹂のもとに構成されるとき︑そこには物象化された秩序/全体
が現出することになる︑あるいは︑硬化した秩序/全体の再生産がー│:したがってまた︑前主観的なフレームワークのもとに構成
( JO )
される現実の再生産が繰り返されることになる︑と論じた︒このようなかたちで︑一般的主観ないしは構成的主観が︑﹁第一
( 1 1 )
者
(d as Er st e)
﹂として世界を覆い︑それに取って代ろうとすること︑言い換えると︑現実を構成する前主観的なフレームワーク
関 法 第 五 二 巻 六 号
( 12 )
としての体系的概念秩序︑つまりは︑硬直化した言語'意味のコンステレーションが︑絶対的な支配者として君臨しているという
事態は︑ホルクハイマーとアドルノにおいて︑完全に啓蒙された世界︑すなわち︑﹁管理された世界
( di e ve rw al te te Welt)
﹂の特
( 13 )
質として捉えられたものである︒こうした所論においては︑﹁質的なもの﹂の忘却を代償として購われた全体ーー多夕形的で拡散的
なものとしてある﹁意味﹂の地平を平板化することにより成立した︑静態的な言語'意味のコンステレーションが︑硬直化したま
ま認識のフレームワークとして機能していること
1について︑その暴力性が問題とされた︒そして︑この問題を共同研究におい
て取り扱うなかで︑彼らは︑抑圧的全体に対する抵抗力として︑つまりは︑﹁個人﹂の﹁動因
(A ge ns
)
﹂として発展してきた理性
( 1 4 )
を退縮させ︑否定/批判の契機を見失わせるまでにいたった﹁支配への傾向
(T en de nt z
N
日
He rr sc ha ft
)
﹂について︑それを︑日
すでに﹁神話
(M yt ho s)
﹂が啓蒙であった︑口啓蒙は﹁神話
(M yt ho lo gi e)
﹂へと退行する︑というふたつのテーゼのもとに論じ
た の で あ っ た ︒
( 1
)
Ho rk he im er un d A do rn o, Di al ek ti k d er Aufklarung,
. S
262
[徳永洵訳﹃啓蒙の弁証法﹄三六六頁]ホルクハイマーとア
ドルノにいう﹁記憶﹂とは︑過去それ自体の記録ではなくて︑理性による概念的把握を逃れ︑われわれの許を過ぎ去ろうと
するが︑依然として概念のうちに意味を介して生き残っている﹁他なるもの
( da s An de re
)
﹂の﹁痕跡
( Sp u
r )
﹂を含めた
もののことである︒後述のように︑理性の勢力圏を逃れ出ることの不可能性︑ないしは︑理性を内在する言語によって紡ぎ
出されたフレームワークによる認識の被拘束性という理解から出発する彼らにおいては︑﹁他なるもの﹂とは︑理性の支配
に抗い︑それを覆そうとするもの︑したがって︑理性による暴力的な支配に対する抵抗力の唯一の源泉であり︑批判的反省
の向かう対象となるものと考えられていた︒それゆえに︑﹁記憶﹂の喪失は︑彼らにおいて︑批判そのものをアプリオリに
不可能とすることを通して︑硬化した秩序/全体のフレームワークを成立させるものと理解されていたのである︒
( 2
)
なお︑ここにいう﹁区別することに固執する﹂こととは︑﹁支配への要求
( di e h er r s ch a f tl i c he A ns pr uc h)
﹂のもとで退縮
した理性が︑﹁質的なもの
( da s Q ua l i ta t i ve )
﹂を剥奪することを通して︑﹁同一ならざるもの
( da s Un id en ti sc he
)
﹂に対し
て﹁同一性の強制
( Id e n ti t i it s z wa n
g )
﹂をもって応えたことをいうものである︒
啓 蒙 と 理 性
( 2
・ 完 ︶
~ ︵
一 九
ニ ︱
)
関 法 第 五 二 巻 六 号
三二四
︵一
九二
︶二
( 3
)
V g l .
Ho rk he im er un d A do rn o, e b e nd a S .,
1 0 4 ‑
7,
253
f f .
[ 細 や 水 訳 前 掲 書
︱ 二 七 九 頁
︑ 三 五 三 頁 以 下 ]H
or ,
kh ei me r, u Z r K ri ti k d er in s t ru m e nt e l le n V e r nu n f t, S .
1 0 7
f f .
[ ‑ 3
口 祐 打 弘 印
i﹃理性の腐蝕﹄︱︱六頁以下]啓蒙は︑自身の抱
え込んだ支配のアポリアにより︑自己崩壊を遂げる︒ウェーバーの預言を受け継ぐかたちで︑ホルクハイマーは︑道具的理
性批判を展開するとともに︵この点については︑本稿の第四章の整理を参照︶︑アドルノとの共同研究においては︑啓蒙の
自己崩壊に関する︑徹底した支配への要求と︑﹁質的なもの﹂の抹消ー﹁記憶の喪失﹂ないしは概念のうちに意味を介し
て残された﹁他なるもの﹂の痕跡の抹消を企図する理性の暴力との共犯関係を告発した︒けれども︑他方において彼ら
は︑理性の力になおもわれわれの未来に関する希望を託そうともした︒彼らは︑徹底した支配の要求に応えようとするなか
で︑退縮し︑質的契機を見失った理性による暴力を倦むことなく告発する一方で︑﹁区別する能力﹂としての理性の有する
潜勢力に︑言い換えると︑肯定的契機と否定的契機とを含めて対象をすべて把握する
( gr e i fe n )
営為としての哲学的思惟
ないしは批判的反省を支える理性の力に︑抑圧的であるということから可能な限り自由な秩序を志向するという︑ユートビ
ア的希望を託そうとしたのである︒そして︑そのような希望が託される営為としてのしたがってまた︑啓蒙の積極概念
である﹁人間の[本来の姿への]復帰︵
r ed u c ti
゜ 百
mi ni s) J
の試みとしてのヽ理性の弁証法的潜勢力に支ぇられた批判
的反省による﹁記憶﹂の﹁想起
( &
v &
μ v1 ]
< 5
5
Ei ng ed en ke n)
﹂̲│前掲註釈
( 1
)
に記した理解に確認しうるように︑それは︑過去の再現をいうものではないーを︑アドルノは︑フレームワークとしての前主観的な概念秩序の解放を志向する﹁解釈
(D eu tu ng
)﹂の営為として語ったのであった︒なお︑以上については︑主として第五章の整理を参照︒
( 4
)
V g l . ,
Th .
W .
Ado rn o, Ne ga ti ve i a D l ek t i k, S .
23
f f . ,
369
f f . ,
394
f f .
[木田元他訳﹃否定弁証法﹂序論
6
︑第三部m 5
. 1
1 ]
なお︑以上については︑本章第ニ・一二節︑第四章第四・五節︑および︑第五章ほかの整理を参照︒
( 5
)
理性ないしは言語/理性の勢力圏から逃れ出ることの不可能性︑つまりは︑われわれの認識が︑前主観的な概念的秩序/
全体︑言い換えると︑フレームワークとしての一般的主観・構成的主観に媒介されたものとしてあるという理解については︑
本節の整理をはじめ、第二章第三•四節、および、第五章第一節ほかの整理をあわせて参照。
( 6
)
この点については︑第二章第三節に整理した精神的遺産としての文化的伝統に対する解釈の営為に関するホルクハイマー
の理解をはじめ︑本文の整理に先立って第二章第四節註釈︵
3
︶に記したようなフレームワークによる認識の拘束と︑そこからの解放に関する︑第五章第一節以下︑および︑むすびにおけるホルクハイマーとアドルノの見解についての整理を参照︒
( 7 )
V
g l .Ad or no , e be nd a, . S
16
f f . ,
63
f f . [ 木 田 他 訳 前 掲 書 序 論
2 .
2 5
] ( 8 )
体系的な概念秩序として結晶している一般的主観は︑個別的な意識の背後の暗がりに潜みつつも︑認識する主観よりもは
るかに能動的な力を発揮している︒このような︑三七年の論稿﹁伝統理論と批判理論
( Tr a d it i o ne l ul e nd r i k t is c h e Theorie)
﹂
に提示されたホルクハイマーの理解は︑四 0 年代におけるアドルノとの共同研究︑すなわち﹃啓蒙の弁証法
( Di a l ek t di k er Au fk li ir un g)
﹄を貫くライトモチーフと重なるものであった︵この点については︑清水多吉﹃補論一九三 0 年代の光と影 ーーフランクフルト学派研究』(河出書房新社一九八六年)第ニ・三•四章を参照)。そしてこのモチーフは、その後、ア
ドルノの天口定弁証法
(N eg at iv eD i a le k t ik )
﹄に持ち越され︑絶対者になりすましている構成的主観による暴力的な支配の
問題として論じられるにいたる︒同書において︑アドルノは︑﹁構成的主観の欺睛
( de r Tr ug o n k s ti t u ti v e r S u bj e k ti v i ti i
t )
﹂
についての洞察を通じて︑それを﹁非神話化
(E n g
y庄
ol og ie ru ng
)
﹂する試みを提示したのであるが︑第二章第三節註釈
( 3 3 )
にあらかじめ断わったように︑本稿は︑それを︑理性の潜勢力に依拠した不断の批判的反省によって︑前主観的な概念的秩
序として結晶しているフレームワークとしての構成的主観の﹁解放﹂を志向する I すなわち︑前掲註釈
( 3
) にいう︑啓蒙
の積極概念である﹁人間の[本来の姿へ 2 復帰﹂の試みとしての
1哲学的解釈の営為と理解するものである
o( 9
)
Max Hork
he im er , T ra d i ti o n el l e u nd kr i t is c h e T he o r ie ,
1937 (GS.
d B . 4
19 88 ),
S .
174
f f .
[角忍•森田数実訳「伝統理論 と批判理論」(角•森田訳『批判的理論の論理学」所収)一八三頁以下]
( 1 0 )
V
g l .Ad or no , e be nd a, . S
149
ff••
172
ff••
178
f f . [ * 田 他
1叩i
茄 匹
拘 寧
戸 竿
空 一
部
7 .
1 7
. 2
0 ]
なお︑こうした理解に示される︑
﹁循環﹂ないしは﹁反覆﹂のエレメントーそれは︑ホルクハイマーとアドルノにおいて︑支配の徹底に不可欠な要素であ
るとされたーーーについては︑本稿第四章第四・五節の整理を︑また︑フレームワークの構成と﹁交換﹂モデル︑つまりは︑
モノローグとしてのコミュニケーションについては︑むすぴの整理をそれぞれ参照︒
( 1 1 )
この﹁第一者
( da s E rs t
e )
﹂の概念については︑第五章第二節の整理を参照︒
( 1 2 )
現実ないし所与は︑言語によって単に表現されるだけではなく︑言語によって構成されるものである︒カッシーラー
( Er n s t C as s i re r
, 1874 ,
19 45 )
に言及しつつ
( V
g l . , De r n e ue s t e A ng ri ff au f À
e ta ph y s ik ,
1937 (GS.
d B . 4
19 88 ))
︑こうした理解を提
示したホルクハイマーは︑アドルノとの共同研究において︑現実を構成する力を発揮する言語の紡ぎ出すフレームワークの
暴力性を問題にした︒他方︑ホルクハイマーとの共同研究以降︑そこで言及された問題を引き継ぎつつ︑全体の暴力ないし
啓 蒙 と 理 性
( 2
・ 完 ︶
︱ ︱ ︱ ︱
一 五
︵ 一
九 二
三 ︶
は﹁構成的主観の欺睛﹂を論じたアドルノは︑不断の哲学的解釈の営為によって︑フレームワークとしての前主観的な概念
秩序を解放していくことをもって︑﹁人間の[本来の姿への]復帰﹂の試みを語つた
oただ彼のいう哲学的解釈の営為はヽ
これまでに繰り返し言及しているように︑言語/理性の勢力圏を逃れ出ることの不可能性から出発するものであった︒われ
われの認識は︑フレームワークとしての前主観的な概念的秩序/全体に媒介されたものとしてある︒のみならず︑そのよう
に個々の認識を媒介するフレームワークー﹁我々の意識構造そのもの﹂ーもまた︑﹁物象化された︿主体/客体﹀関
係の中で形成されている﹂ものである︒そしてこの意味で︑﹁人間の主体的意識︑﹃人間性﹄そのものが﹃物象化﹄を根源と
して成立しており︑その意味で私達が﹃人間﹄である限り物象化からは逃れられない﹂のである︵仲正昌樹﹁︿同一性﹀の
起源をめぐって
1アドルノの認識論批判とゾーン
1 1
レーテルの︿貨幣
11
存在﹀論﹂情況出版編集部編﹃フランクフルト
学派の今を読む
j所収︶およぴ︑清水多吉・仲正昌樹﹁二つの時代ー近代合理主義批判から次なる地平へ﹂情況出版編集部 絹前掲書所収)。こうした理解のもとに語られる「解放」とは、物象化の克服~前述の理解からして、それは「原理
的に不可能な﹂試みである︵仲正前掲論文︱ニ︱頁︶ーを志向するものでもなければ︑﹁わたし﹂と﹁われわれ﹂の
意識を支える﹁同一性原理
(l de nt it ii ts pr in zi p)
﹂ ︑ そ し て つ ま り は ﹁ 理 性
( ra t i o)
﹂を放棄することを含意するものではなかっ
た︒本稿は︑それを︑フレームワークによる暴力的な支配に対して︑また︑﹁同一性の強制﹂を通してその支配を根底で支
える﹁理性﹂の暴力に対して異議を申し立てながらも︑あくまで理性の潜勢力に依拠しつつ︑潜在的に可塑的な言語'意味
のコンステレーション
1それが可塑的であるとの理解は︑潜在的に多形的で拡散的なものとしてある﹁意味﹂の地平︵こ れについては、本章第二節註釈 (l) 、第一―-•四節、第五章第一節ほかを参照)を前提として導出されるものであり、そして
この﹁意味﹂の地平に関する理解は︑言語'意味のコンステレーションが哲学的解釈に対して開かれたものとしてあること
の条件となっているように思われる
1について︑その布置の改変を試みることと理解したうえで整理を行うものである︒ (13) 以上については、清水前掲書第ニ・三•四章を参照。
( 1 4 )
なお︑﹁支配への傾向﹂と理性の退縮との連関については︑本章第三節︑および︑第五章第一節の整理を参照︒ 関
法 第 五 二 巻 六 号
二 六
︵ 一
九 二
四 ︶
神話と啓蒙
(1 )
原始のアモルファスな世界において︑﹁自然
(N at ur
)﹂は︑﹁活動する霊
( de r be we ge nd e G e is t
)﹂としての﹁マナ
(M an a)
﹂の
力にあまねく支配されていると見なされていた︒一切の﹁自然﹂の成りゆきは︑﹁マナ﹂の発露であり︑その力は︑﹁存在するもの
( Se i e nd )
﹂すべてに﹁多紐
g
は親和関係( di e ma nn ig fa lt ig en Af f i ni t i it e
﹂を成立させる︒そこでは︑人間活動の基本型である﹁ミーn )
(2 )
メーシス︵下t
百去
a ^ )
﹂が﹁マナ﹂の発露としての﹁自然﹂に向かうことにより︑人間と自然との関係もまた︑未分化の状態のまま
に置かれていたのであった︒このようなかたちで︑渾然と一体をなした世界を統べる﹁マナ﹂ーー︐それは︑実際には︑圧倒的な﹁自
然﹂の力が人間の無力感のうちに呼び起こした反響として説明しうるものであるのだがー│'は︑間もなく誕生する神々の母胎となっ
たものでもあった︒大河と大地から産み出された神々の﹁形象
( Bi l
d )﹂は︑やがてナイルからギリシアヘと辿り着き︑そこで﹁ア
ニミズム的な原理
( hy l o zo i
s
号
ch en Pr in zi pe n)
︑物の原素﹂として結晶した︒ギリシアにおいて︑多種多様なデーモンたちは︑
﹁存在論的本質という純粋形式
( re i Fn e or m d er ontologischen
We se nh ei te n)
﹂へと精神化され︑オリュンポスの神々さえもが︑
(3 )
ついには﹁哲学的ロゴス
(p hi lo so ph is ch en Lo go s)
﹂によって︑つまりは理性によって把持されるにいたったのである︒
自然についての﹁超自然的な説明﹂が拒否されるとともに︑理性による批判と論争の実践が開始されることになったのは︑生成
変化する自然についての説明原理を探究した︑タレス
( Th a l es ,
624/ 40 , 546
B . C . )
にはじまるイオニア自然哲学においてであった︒
ギリシアにおいて︑神々の世界は︑人間の活動の前に少しずつ色褪せていき︑ホメロス
(H om er os
A .
,C .
9)
やヘシオドス
(H es io do s,
A .
C.
8
)
が謳ったような︑神々の周辺で編まれた人間と宇宙に関する物語もまた︑やがては︑ミレトス派の哲学者たちによって
決定的な転換を迫られたのであった︒このように︑いわゆるソクラテス以前の哲学者たちの言説のうちには︑﹁ミュトス︵下090^)
からロゴス︵ご6T
︒ ^ )
へ﹂の移行の瞬間が把持されていた︑とはたぴたぴ指摘されるところではある︒けれども︑彼らが指弾した
物語は︑天地開闘説というかたちをとって︑生成変化する多様な自然が︑﹁それから成り立っているところのもの︑そして最初に
それから生じ︑最後にそこへと帰っていくところのもの﹂︑つまりは﹁アルケー谷
PX TJ
﹂を語るものでもあった︒それらは︑まっ )
啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完 ︶
(2)
三二七
︵一
九二
五︶
三二八
たくの空想のうちに始まり︑そのうちに終わるような︑純粋な想像の産物でも︑また︑完全に無秩序な物語でもなかった︒別言す
ると︑それらの物語は︑﹁権力の座﹂もしくは﹁支配者﹂としてのアルケーについての言及をおこなうなかで︑すでに啓蒙を開始
( 5)
していたのである︒ホルクハイマーは︑﹁神話的な直観
( di e my th is ch e A ns ch au un g)
﹂︑すなわち︑自然についての﹁超自然的な
説明﹂が最初に﹁合理化された結晶
( ra t i on a l is i e rt e N ie d e rs c h li i g e)
﹂こそが︑ミレトス派の語るアルケーの内実に他ならないも
(6 )
のであった︑と論じた︒そして彼は︑神話と啓蒙との錯綜した関係を論じるなかで︑アドルノとともに︑それらに共通の旋律とし
( di e systematische
i n E h ei t )
﹂
と い
う 饂
皿 志
g
した支配の理想のもとに︑﹁数
(N a h! )
﹂を﹁規準
(K an on
)
﹂ と
して掲げた︒そしてそれは︑﹁数へ︑結局は一なるものへと帰着しないもの
(w as i n Z ah le n, zu l e tz t in de r E i ns , i n ch t aufgeht)
﹂
を﹁仮象
(S ch ei n)
﹂と見なし︑﹁通約しきれないもの
(d as ln ko mm en su ra be l)
﹂ないしは﹁質的なもの
( da s Q ua l i ta t i ve )
﹂を切
り捨てていった︒こうしたなかで︑啓蒙は︑﹁科学
(W is se ns ch af t)
﹂としての自己の歩みを確立していくとともに︑﹁幻想的
( ph a n ta s t is c h , i l lu s o ri s c h, i ll u s io n a r)
﹂ で
﹁ 北
介 ム
ロ 理
的
i( nu rn in os e)﹂な訟心象による白口然の出来事についての説明︑つまりは︑神話に
対する指弾を開始したのである︒ところがそれは︑﹁言語によって展開されてきた全体
( sp r a ch l i ch e nt f a lt e t e T o ta l i ta t
)
﹂として
の ﹁
神 話
(M yt ho lo gi e)
﹂のうちに自己を展開していたものでもあった︒啓蒙は︑散在していたさまざまの﹁神話
(M yt ho s, My th e)
﹂
の集成・体系的組織化のうちに︑自己自身を再認識するものである︒それは︑散在していた神々の物語が懐胎していた﹁真理要求
(W ah rh ei ts an sp ru ch
)
﹂のもとに︑さらにはまた︑その要求が結実したものとしての︑﹁神話
(M yt ho lo gi e)
﹂における体系的組織
化の要請が包含していた﹁支配への要求
( di e h er r s ch a f tl i c he Ans
pr uc h)
﹂のもとに自身を展開させていたのである︒これらの要
求を自身の止まるところを知らない進展の動因としつつ︑啓蒙は︑その歩みにおいて︑﹁神話
(M yt ho lo gi e)
﹂と深く絡み合っていっ
た︒啓蒙は︑神話からあらゆる素材とともに支配のモチーフを承継することにより︑神話を︑そしてまた︑啓蒙に抵抗しようとし
て神話を持ち出す諸勢カー~それは、実際において、「破壊的な合理性の原理 (Prinzip
de r z er se tz en de n R a ti o n al i t ii t
﹂への信仰
)啓蒙は︑﹁体系的統 てあった支配のモチーフを浮き彫りにしていったのであった︒
関 法 第 五 二 巻 六 号
︵ 一
九 二
六 ︶
を告白しているものであるーを含めて︑すべてを呑み込みこんでいく一方で︑他方においては︑神話を裁く者でありながら︑神
(7 )
話の勢力圏内へと堕ち込んでいったのである︒
﹁神
話 (M yt ho s, My th e)
﹂とは︑マナ的な要素を身につけたもの︑つまりは﹁普遍的な力
(a ll ge me in eM ac ht
)﹂としての自然
を体現する神々によって︑自然を語るものであった︒それは︑自然の出来事について︑報告し
( be r i ch t e n)
︑名づけ
(n en ne n)
︑
その起源を語る
(d en Ur sp r
g
gsa ge n)
とともに︑それを叙述し
( da r s te l l en )
︑確認し
( fe s t st e l le n
)︑説明を与え
( er k l ii r e n)
よ
うとした︒やがて︑起源を語り︑説明を与えるという傾向は︑神話が︑記録され
(a uf ze ic hn un g)
収集される
(s am me ln )
につれ
て︑次第に強化されていくことになった︒散在していた﹁物語︵下680^︶﹂は︑ギリシアにおいて集成され︑ロゴスのもとに統一
的全体としての﹁神話
(M yt ho lo gi e)
﹂へと展開を遂げていくなかで︑﹁報告から教説へ
( au s de m B er ic ht zur e L hr e)
﹂と変容し
ていった︒さまざまの﹁神話
(M yt ho s, My th e)
﹂は︑統一をもって捉えられることによって︑﹁そこからすべての個々のものが導
き出される体系
(d as Sy st em , a us e d m a l l es un d jedes
fo l g t)
﹂として︑啓蒙からの正式な承認を受けることになったのである︒
この限りでは︑たとえば前五世紀の悲劇作家たちが目のあたりにしていたような﹁神話
(M yt ho lo gi e)
﹂は︑それ自体として︑哲
(8 )
学的啓蒙の洗礼を受けたものであった︒もっとも︑さまざまな﹁神話
(M yt ho s, My th e)
﹂は︑前述のように︑アルケーを語ると
いうことにおいて︑当初からまさしく哲学的啓蒙に匹敵するほどの啓蒙を行っていたものでもあった︒そして︑﹁神話
(M yt ho s,
M 淫
e )﹂のもつこうした支配への傾向に強力な救いの手を差しのべようとしたものが︑体系的統一を理想として掲げた啓蒙だっ
たのである︒きれぎれの断片として︑寄る辺なくさまよっていた神々の物語に対して︑啓蒙は︑自身の紡ぎ出したアリアドネの絲
を差し出し︑ラビュリントスの試練を終らせようとした︒しかし︑﹁とりとめのない石遊ぴ
( di e St ei ne de s s in nl os en Sp i e ls )
﹂を
終らせようとした啓蒙が︑支配のモチーフのもとで神話と錯綜するうちに︑神話において普遍的な力としての自然を体現していた
(9 )
神々は︑争うことをやめるとともに︑プレアニミズム的な相貌を帯ぴたまま︑啓蒙のなかへと侵入していったのであった︒
啓 蒙 と 理 性
︵
2.
完 ︶
三二九
︵一
九二
七︶
関 法 第 五 二 巻 六 号
三三〇
︵ 一
九 二
八 ︶
( 1
)
ホルクハイマーとアドルノにおいて︑﹁自然﹂とは︑理性による支配に抗い︑それを覆そうとするものとして︑つまり︑
体系的統一を志向する理性に対して︑潜在的に多形的で拡散的なものとしてある理性の他者をあらわす概念として捉えられ
ていたものである︒そしてまた︑その生命は︑彼らにおいて︑まさしく自然が多形的で拡散的なものとしてあることに︑も
しくは︑潜在的に多形的で拡散的であることの証跡である﹁質的なもの﹂に宿ると考えられていた︒こうした理解により︑
本稿は︑彼らにいう﹁自然﹂概念を﹁聴く主体﹂に対する﹁意味﹂の地平と捉えたうえで︑この﹁生命あるもの﹂としての
自然/理性の他者を︑理性の潜勢力によって開示する試みを哲学的解釈の営為として整理するものである︒ (2) この「ミーメーシス(毛互
a^)」概念については、第四章第二節•第三節註釈 (5) 、およぴ、第五章の整理を参照。
( 3
)
H o
r k
h e
i m
e r
u n
d A d o r
n o
, D
i a l e
k t i k
d e
r A
u f k l
a r u n
g ,
S.
2
8,
37
[徳永洵訳﹃啓蒙の弁証法﹄六︑十八頁]
(4)G.E.R ・ロイド/山野耕治・山口義久訳﹃初期ギリシア科学﹂︵法政大学出版局一九九四年︶第一︑二章︑およぴ︑ F ・シャトレ/廣川洋一訳﹁神話から合理的思考へ﹂
( F
・シャトレ編/藤沢令夫監訳﹁西洋哲学の知 I
ギ リ
シ ア
哲 学
﹂
︵白水社一九九八年︶所収︶を参照︒
( 5
)
オデュッセウスは︑総指揮官アガメムノンに従わねばならない︒このホメロスのことばについて︑アリストテレスは︑そ
れを︑宇宙を支配する究極原理がいくつあるかについての議論とは無関係なものであるとは考えてはいなかった︒そして彼
は ︑ ﹃ イ リ ア ス ﹄ 第 二 巻 ︱
1 0
四行にある﹁多数者の支配は善ならず︑ひとりの支配者こそあらまほし﹂というホメロスのこ
とばを引用しつつ︑アルケーを複数のものにしようとした論者たちを批判したのであった︒こうした理解のもとに︑ロイド
( G .
E .
R .
Lloyd•
1933
,︶は︑﹁アルケー﹂という語が︑アリストテレスにおいて︑﹁原因﹂もしくは﹁始源﹂という意味の他
に︑﹁第一のもの
( x p w
‑ r o v
) ﹂としての﹁権力の座﹂ないしは﹁支配者﹂を意味するものとしてもちいられていた︑と指摘
す る
︒
G.E.R ・ロイド/川田殖訳﹃アリストテレス﹄︵みすず書房一九九八年︶を参照︒
( 6
)
H o
r k
h e
i m
e r
u n
d A d o r
n o
, e
b e n d
a ,
S.
28
[ 徳 永 訳 前 掲 書 六 頁 ]
( 7
)
H o
r k
h e
i m
e r
u n
d A d o r
n o
, e
b e n d
a ,
S. 28 35 ,
[ 徳 永 訳 前 掲 書 七 十 五 頁 ]
( 8
)
絶望的な状況に打ちのめされるなかにあって︑人々が︑﹁自身が何の価値もないことに気づき︑敗北を自認する﹂とき︑
彼らを打ちのめす当の状況は︑彼らが今後も生きていくことを許すような約束へと相貌を一変させる︒人生とは︑こういう
ものだ︒厳しくはあるが︑だからこそ素晴らしく健全なものなのである︒かくして﹁覚悟を決めるパトス
( P a t
h o s
d e r
Ge fa Bt he it
)﹂が︑覚悟を迫る世界を正当化する︒こうした欺睛は︑﹁悲劇
(T ra gi k)
﹂の前でもたじろきはしない︒悲劇す
らも勘定に入れられ︑﹁肯定された世界の要素
( be j a ht e Mr om en t d er Welt)
﹂にされてしまえば︑それは﹁世界に祝福の鐘
を鳴らす﹂ものとなる︒シニカルに︑いかにも残念そうに︑真理とはこうしたものだと思い込んでいるだけなのに︑悲劇は︑
﹁真理を十分に直視していないという非難﹂から人々を守る︒それは︑﹁厳として真正な人間の運命
( da s s ta r k e, ec ht e Me ns ch en sc hi ck sa l)
﹂というものもある︑という慰めを︑すべての人に与えるのである︒隙間なく閉じ込められた﹁現実の
生
(D as ei n)
﹂が︑どうにもならない苦悩によって閉塞させられていくにつれて︑﹁現実の生﹂を捕捉する絶望的状況が︑
ますます壮大で︑輝かしくも強大な力を発揮するようになるとき︑悲劇は︑それについて考えてはならないことを教える︒
苦悩があっても︑それは忘れよう︒身ぐるみ残らず引き渡し︑﹁幸福への要求
(G li ic ks an sp ru ch
)﹂を譲り渡してしまいさ
えすれば︑誰しもが﹁全能の社会
( di e a ll m i ic h t ig e Ge s e ll s c ha f
t )﹂同然となり︑幸福になることができるのだ︒このように︑
﹁無 力さ (O hn ma ch t)
﹂を基礎とする悲劇は︑﹁抵抗
(W id er st an d)
﹂への思想からの逃避を促す︒それにともなって︑﹁現
実の生﹂は︑﹁運命
(S ch ck sa l)
﹂という相貌を帯ぴてくるのである︒もっとも︑かつての悲劇は︑﹁社会に対する個人の対
立
(G eg en sa tz de s E in ze ln en zur e s G e ll s c ha f
t )﹂をその実体として︑﹁強力な敵︑崇高な苦難︑恐るべき問題を前にしての
勇気と感情の自由﹂を讃美するものだった︒そしてそれは︑﹁神話的な脅威
(m yt is ch eD ro hu ng )﹂ ー
﹁ 運 命 の 不 可 避 性 ( di e Unausweichlichkeit
e d s Schicksals)
﹂ないしは﹁強制的循環
(z wa ng sh af te rZ i r ke l
)﹂ーに対する﹁希望なき抵抗
( de r ho ff nu ng sl os e W id er st an d)
﹂のうちに︑その逆説的な意義をもっていた︒ところが︑この悲劇の意義は︑啓蒙が徹底した
支配を志向するなかで︑骨抜きにされてしまった︒悲劇は︑悪しき現実からの解放ではなく︑﹁否定からの解放
(B ef re iu ng vo n N eg at io n)
﹂を約束するものとなったのである︒啓蒙からの承認を受けた悲劇による道徳的教護のもとで︑人々は︑自
身の弱さのうちに﹁社会的なもの﹂ーー﹁前主観的秩序
( pr i i su b j ek t i ve Or dn un g)
﹂として個々の認識主体を拘束している
一般的主観ないしは構成的主観ーの強さを再認識する︒他方︑﹁社会的なもの﹂は︑人々が無抵抗であることをもって︑
彼らに対して﹁信用のおける入営者
( zu v e rl i i ss i g e Ka nt on is te n)
﹂としての資格を与え︑その強さを彼らに分譲する︒この
ように︑ホルクハイマーとアドルノは︑徹底して支配を志向し︑理性を退縮させた啓蒙による﹁悲劇の清算
( di e Li qu id a , t io n e d r Tragik)
﹂が︑﹁個人の消滅
( di e Ab sc ha ff un g d es Individuums)
﹂を裏書きしていることを論じている
( Vg l .
︾H
or , kh ei me r u nd Ad or no , e be nd a, . S
1 7
ー0
181
[ 細g
︑水 叩
i
錨則
埠H詈︱︱︱︱
‑ I
︳一
三六
頁]
)︒
啓 蒙 と 理 性
( 2
・ 完 ︶
§
︵ 一
九 二
九 ︶
( 9
)
Ho rk he im er un d A do rn o, eb en da , S . 2
8 , 3
5,
39
[ 徳 永 訳
よぴ第五章第二節の整理をあわせて参照︒
体系的統一と理性 I 支配と自己保存
>
︵ 一
九 三
0 )
七—十五、ニ-頁]なお、この点については、次節お
活動する霊としてのマナを出自とする神々は︑神話と啓蒙とが錯綜した関係を示すなかで︑神の似姿
(8 Co a8
牙 ,
Im ag o D ei , Eb en bi ld Go tt es )
としての人間に固有の精神へと変容を遂げていった︒このような変容は︑﹁現存在を統べる主権
( So u v er i i ni t i it i ib e r s D as ei n)
︑支配者のまなざし︵
Bl ic kd es He rm
)
︑命令権
(K om ma nd o)
﹂のうちに成立したものであった︒自然に対する﹁支
配の不可避性
( di e Un au sw ei ch li ch ke it de r He rr sc ha ft
)
﹂は︑﹁自然のもとに従属するか︑それとも自己のもとへ自然を従属させ
るか﹂というオルタナティヴを提示する︒人間は︑つねにこの選択を迫られるなかにあって︑自然に対して︑そしてまた︑自然を
体現していた神々に対して一切を捧げることで︑それらに服従の姿勢を示してきた︒しかし︑自身を﹁見えない力の似姿
(E be nb il d de r u ns ic ht ba re n M ac ht
)
﹂であると言い立てはじめたとき︑人間は︑後者を選択し︑そうして﹁自然の統一
へと向かったのであった︒かくして自然は︑支配者としての人間のまなざしのうちに対象化され︑そうして﹁ささやかな猟場
(b es ch ei de Ja gd gr ii nd e)
﹂であることから︑﹁統一的宇宙
( ei n h ei t l ic h e rK os mo s)
﹂へ︑﹁獲物を得るあらゆる可能性の総括
( ln b e gr i f f a ll e r B eu te mo gl ic hk ei t)
﹂へと収錨していった︒そしてまた︑そのように﹁見えない力の似姿﹂として自然の支配者の地位に即い
たとき︑人間は︑﹁自己
(d as S el b s t)
﹂を︑﹁他なるものと同一化することによって喪われることのない︑侵し難いマスク﹂として
所有
( be s i tz e n )
することに向かっていったのであった︒このような事態をして︑ホルクハイマーは︑ギリシアにおいて︑﹁創造
する神
(d er sc af fe nd e G ot t)
﹂が︑﹁自然の命令者
(G eb ie te r i ib e r N at ur
)
﹂として︑﹁秩序づける精神
(d er or dn en de Ge is t)
﹂ と
同一となった︑と論じた︒そして彼によると︑そのような精神による自然の支配と﹁自己の同一性
( di e I de n t it i i t d es Selb st
)
﹂を
(1 )
支えるものこそが︑理性の力だったのである︒
(3)
関
法 第 五 二 巻 六 号
前掲書
( di e i E nh ei t d er Na tu r)
﹂
自然の支配権は︑アモルファスな世界におけるマナから︑それが特殊化されたかたちで誕生した神々をへて︑秩序づける精神へ
と承継されていった︒もっとも︑精神がその支配を貫徹するには︑精神自身の内的な全一性
(N us am me nh al tu ng )
が保持されな
ければならない︒なぜなら︑精神は︑そうしてはじめてみずからの支配に信頼を置くことが可能となるからである︒したがって精
神は︑支配のために支配を内面化
( ve r i nn e r li c h en )
し︑自身の﹁内なる自然
( di e in ne re Na tu r)
﹂を従えようとした︒そして︑
そのように︑自身の全一性を獲得し︑さらにはまた︑﹁外なる自然
i e ( d i iu B e re Na tu r)
﹂の統一的支配へと向かうために︑精神は︑
﹁一切の関係の原理
( <
l as Pr in zi p a l le r Be zi eh un ge n)
﹂としての理性の力を承認したのであった︒理性は︑その区分機能
(t re nn en de Funktion)•
距離化
(D is ta nz ie ru ng )
・対象化
(V er ge ge ns ta nd li ch un g)
作用により︑﹁他なるもの
(d as An de re
)﹂としての自然
を支配するための条件を整えるものである︒局所論的には︑﹁内なる自然﹂について︑理性は︑それを自己から分離し︑その距離
を拡げ︑自己の他者として措定することにより︑﹁内なる自然﹂の支配を準備する︒そして︑理性によって対象化・客体化された﹁内
なる自然﹂は︑再構成されたかたちで自己のもとに引き据えられ
( hi n g es t e ll t
) ︑支配されるにいたる︒このようにして︑自己が
その同一性を保持すると同時に︑精神は︑その内的な全一性を獲得するのである︒かくして精神は︑支配する主体として覚醒
(e rw ac hs en )
し︑﹁外なる自然﹂を支配することへと向かっていき︑﹁外なる自然﹂は︑﹁内なる自然﹂と同様︑解体された後︑再
構成されたかたちで︑支配する主体である精神のもとに引き据えられる︒そして理性は︑このときもまた︑その区分機能・距離化・
対象化作用により︑﹁外なる自然﹂を精神から区別し︑その距離を拡げ︑それを対象化・客体化することで︑﹁精神の同一性
( di e (2 ) I de n t it a t d es Gei st es
)﹂を但か証するとともに︑精神による﹁外なる自然﹂の支配を準備するのである︒
(3 )
潜在的に多形的で拡散的なものとしてある自然は︑区別する能力としての理性の力によって︑対象化・客体化されるとき︑﹁抽
象化
A( bs tr uk ti on
)﹂され︑﹁質的なもの﹂を剥奪される︒そして︑このように解体された自然について︑理性は︑さらにそれを
再構成し︑支配する主体のもとに引き据えようとする︒すなわち理性は︑﹁同一性原理
( Id e n ti t i it s p ri n z ip )
﹂に基づいて︑予在す
るフレームワークのもとに︑解体された自然を︑概念的連関にしたがって統一し︑堅固な秩序/全体として構成していくことによ
啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完︶
口
︵一
九三
一︶
︳ ︱ ‑ 三 四
︵ 一
九 三
二 ︶
り︑自然に対する支配の貫徹を︑そしてつまりは支配する主体の﹁自己保存
( Se l b st e r ha l t un g
)
﹂を支持するのである︒このよう
なホルクハイマーの理解は︑カントに則して提示されたものであった︒啓蒙とは︑理性の力によって﹁自身に責任のある未成熟状
態
(s el bs tv er sc hu ld et en Un mi in di gk ei t)
﹂から脱却することに他ならないものである︒一七八四年に﹃ベルリン月報﹄が提示した
(4 )
﹁啓蒙とは何か﹂という問いに対し︑カントはこのような回答を提示した︒こうしたカントの主張をめぐっては︑今日にいたるま
で︑さまざまな議論が繰り返されてきたが︑ホルクハイマーにおいては︑それが自己保存との関連で捉えられた︒カントのいう﹁未
成熟状態﹂とは︑﹁自己自身を保存する能力の欠如
(U nv er mo ge n, s ic h se l b st z
u e r ha l t en )
﹂︑つまりは理性ー﹁理性によって指
導される悟性
(v on Ve rn
g
f t g el e i te t e r V er st an d)
﹂ーの欠如した状態に他ならないものである︒理性は︑混沌としてアモルファ
スな自然との間に﹁関係﹂を成立させるとともに︑概念的連関による秩序/全体の構成を志向することにより︑支配する主体の自
己保存を支える︒別言すると︑理性は︑前主観的なフレームワークのもとで構成される秩序/全体を︑﹁内なる自然﹂と﹁外なる
自然﹂の支配に際して︑支配する主体をもっとも有効に支持するような﹁認識の形態
( di e Ge st al t d er Erkenntnis)
﹂として提示
するのである︒そして︑こうした認識の形態こそが︑啓蒙が念頭に抱く﹁体系﹂であり︑また︑そうした認識における体系を︑同
一性原理もしくは﹁自己保存の原理
(P ri nz ip en de r Selbsterhaltung)
﹂のもとに構成することをもって︑理性は︑啓蒙の掲げる体
(5 )
系的統一の理想に寄与するのである︒
﹁神話の暗黒の地平
( de r du nk le Ho ri zo nt de s M yt ho s)
﹂は︑理性の太陽のもとに照らし出された︒多面的で不揃いなかたちで
現れる﹁未知なるもの
(U nb ek an nt
)
﹂は︑理性によって混沌から区別され︑さまざまの異なった状況においても﹁同一のもの
( ld e n ti s c h)
﹂として捉えられる︒﹁未知なるもの﹂は︑﹁既知のもの
(B ek an nt
)
﹂として把持され︑これにより︑﹁未知なるもの﹂
の経験~己と他者との間の境界が脅かされること
1に付きまとう、「驚き( Schrecken) 」、「恐怖 (Furcht,
Sc ha ud er
﹂
)︑ ﹁
不
安
(A ng st
)
﹂が解消されていった︒もっとも︑恐怖と不安の克服は︑もはやいかなる﹁未知なるもの﹂をも存在しないというこ
関
法
第
五
二
巻
六
号
とをもって完遂されるものである︒それゆえ理性は︑あますところなく地表を明るみに出す
( au f k li i r en )
ことを試みた︒理性は︑
﹁区 別す る ( xp ( v e: t v , unterscheiden)
﹂ところに示される質的契機を無視し︑自身の計画する支配を覆さんとする﹁同一.ならざる もの ( <
l a s Un id en ti sc he
)﹂に対して﹁同一性の強制
(I de nt it at sz wa ng
)﹂を課すことにより︑﹁未知なるもの﹂に﹁既知のもの﹂
(6 ) としての刻印を押し︑そうして秩序/全体を構成していくことをもって︑完全なる支配を計画したのであり︑そしてまた︑このプ ログラムが︑理性の力を承認することで支配する主体として覚醒した精神によって遂行されることになったのである︒かくして精
神は︑恐怖と不安との完全な克服を目標とする﹁人間への還元
( re d u ct i ao d ho mi ne m)
﹂としての﹁非神話化
(E nt my th ol og ie ru ng
)﹂
のプロジェクトを担い︑理性の計画する支配に抗い︑それを覆そうとする﹁未知なるもの﹂︑つまりは︑理性の他者である自然に 対する支配を徹底し︑かつ︑自己を保存しようとした︒ところが︑支配する精神は︑創造する神と同一のもの︑神の似姿として︑
まさしく﹁神話の新しい姿︑しかもそれでいて︑最古のままの姿
( di e sp at e u nd de nn oc h d er l t a e st e n g l e ic h Ge es ta lt de s M yt ho s)
﹂
(7) を体現するものであった︒精神は︑理性から支配者としての地位を保証されたことを受けて︑神と同じく︑自然を統べる絶対的な 主権を行使する︒そしてこのとき人間は︑神話の外に連れ出されながらも︑神話の圏内に引き込まれていくことになる︒このよう なかたちで︑精神による支配の貫徹のために﹁計画する理性
( di e ka lk ul ie re nd e Vernunft)
﹂によって打ち立てられた啓蒙のプロ
グラムは︑冷酷な光の暴力による﹁新たな野蛮の萌芽
( di e Sa at de r ne
ue n B ar ba re i)
﹂ ー 抑 圧 的 全 体 の 原 型 を 胚 胎 さ せ て い (8 )
たのである︒
( 1
)
Ho rk he im er un d A do rn o, i D al ek ti k d er Aufklarung,
. S
31
, 2
, 55
[徳永拘訳﹃啓蒙の弁証法﹄十ー十一︑四一頁]
( 2
)
V g l . , H
or kh ei me r u nd Adorn o, eb e n da . S . ,
3
2, 56
, 63
[~、水叩 i
苛則埠H晋+'一、四三、五一頁]なお、本章第四節註釈 (5)
に記した﹁自己
( Se l b st )
﹂および﹁自我
( Ic h
)﹂概念についての整理をあわせて参照のこと︒
( 3
)
﹁自然﹂についてのこうした表現に関しては︑
J oe l Wh it eb oo k, Fr om Schoenberg
to Od ys se us
りA e
s th e t ic , P sy c h ic , n a d S
o ,
啓 蒙 と 理 性
︵
2.
完 ︶
三三五
︵ 一 九 ︱
︱ ︱ ︱ ︱
‑ ︶