7
[古賀・細見訳前掲書五四頁]
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[ 木 田 他 訳 前 掲 書 一 九 一 ー 四 頁 ]
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[ 三 光 訳 前 掲 書 一 六 四 頁 ]
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五八
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( 1 8 )
大貫敦子﹁﹃趣味﹄について﹂[三島憲一他編﹃ニーチェ事典﹄︵弘文堂
む す び に か え て
ー文化・言語・共同体と対話︑もしくはユートピアとデモクラシーについて
アドルノにいう哲学的解釈においては︑﹁名辞と事物の一致
( di e Ub er ei ns ti mm un g vo n N am e u nd Ding)
﹂ということばに表現
される真理概念が示しているような︑同一性の理想が語られている︒けれども哲学的解釈は︑概念による媒介をカノンとして︑同
一性の理想に忠実であろうとするものであり︑その理想を﹁限定された否定
( di e be st im mt e Negation)
﹂との連関において理解
するものであった︒像を描いてはならない︒この﹁図像化禁止
( Bi l d er v e rb o t )
の戒律﹂は︑偽神を神と︑有限なものを無限なも
のと︑偽を真と呼んではならないという要請を含意している︒ユダヤ的宗教において︑希望とは︑この戒律につながれたものとし
てあり︑そしてまた︑認識とは︑絶対者についての不完全な表象︑つまりは﹁偶像
( G o t
z e n )
﹂を排斥することを通して︑その狂
( 1)
気を告発することのうちにあるものだった︒この神学的な園像化禁止の戒律が語っていた要請は︑アドルノにおいて哲学的に受容
され︑﹁限定された否定﹂という理解に結晶していった︒そして彼は︑この﹁限定された否定﹂を要諦とするものとして哲学的解
釈を︑また︑それを唯一可能にするものとして﹁否定弁証法
(N eg at iv D ia l e kt i
k )﹂を論じたのであった︒自己充足的な全体とし
て結晶しようとするなかで︑諸々の図像/形象は︑自身の形象性に抗う諸々の要素を自己のうちに取り込み︑それらに対して沈黙
を強いる︒このようにして︑世界に取って代わり︑自らが世界そのものであると詐称することにおいて︑それらは︑その﹁虚偽性
( Fa l s ch h e it )
﹂を告白している︒これに対し︑弁証法は︑いかなる図像/形象であれ︑それを﹁テクスト
( Sc h r if t
)﹂として開示し︑
自己充足的な全体として凝固した図像/形象のさまざまな相貌
( Zi i g e)
から︑その虚偽性の告白を読み取る
( le s e n)
こと
を教
える
︒ 啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完︶
四三五
︵ 二 0 1
︱
︱
︱
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︶
一九
九五
年)
]を
参照
︒
︵ 二
0三
四︶
(2 ) そしてこの告白により︑図像/形象は︑世界を構造化する力を奪われるとともに︑その力が真理に帰属させられるにいたる︒世界 そのものでありたいと望みながらも︑決してそうなることのできない図像/形象について︑それ自身が語る虚偽性の告白を
Iし たがってまた︑図像/形象のうちに沈澱している﹁苦悩
(L ei de n)
﹂ を 読 み 解 く こ と を 通 し て
︑ 言 い 換 え る と
︑ 自 己 充 足 的 な 全体としての図像/形象の基礎に据えられ︑その図像/形象性を規定している肯定性を否定性へと向かわせることを通して︑アド ルノにいう否定弁証法は︑形象性を超えてー│'むしろ図像/形象自身が待ち望んでいるものとしてのーー'図像/形象の崩壊の瞬間
(3 )
をもたらすものだったのである︒
概念的媒介によって構造化され︑虚偽に満ちた全体として結晶しようとする現実︑あるいは︑ひとつの意味の統一体として読み
解かれた現実を︑﹁意図なき
( in t e nt i o ns l o s) もの﹂として扱い︑それらを諸々の断片へと解体していくこと︑弁証法的にのみ可 ( 4) 能な営為としての︑哲学的解釈におけるこうした過程には︑﹁個別的なもの﹂に固執する姿勢を見て取ることができる︒けれども このことは︑﹁個別的なもの﹂を普遍化不能なものとして強調することをいうものではなかった︒﹁個別的なもの﹂は︑諸々の媒介 関係のなかで成立してきたものであり︑そのような媒介関係を全体として自身のうちに腹蔵しているものである︒それゆえにまた︑
その認識のためには︑つねに全体のうちに布置されることが必要とされる︒哲学的解釈は︑﹁個別的なもの﹂のうちに蓄積された 媒介としての歴史
1
それは︑理性の把持を逃れ︑われわれの許を﹁過ぎ去ったもの﹂であるが︑なおも概念のうちにその痕跡を 残している﹁他なるもの
( <
l a s An de re
)﹂の軌跡でもあり︑そしてその幾許かが名辞に繋ぎとめられているー
│lを理性の力によっ
て開示すること︑そのような﹁個別的なもの﹂それ自体の解体を︑それぞれのモナドについて相互に配置をとりなおすという意味
(5 ) で︑全体との連関において遂行することをいうものである︒したがってそこには︑自己充足的な全体として凝固した図像/形象を 解体することとしての﹁偶像破壊
(i co no cl asm)
﹂︑こうした否定を通して︑新たな像が描かれることになる︒否定を通して解体さ れた全体について︑その諸々の意図なき断片を組み合わせ︑それらを布置することにより︑再び現実を構成していくこと︑ここに 描かれる像は︑﹁限定された否定﹂によって︑その正当性を救われるのであり︑そしてまた︑このことから︑現実を変革しなけれ
関 法 第 五 二 巻 六 号
四三
六
(6 )
ばならないという要求が浮かびあがってくる︒このように︑アドルノは︑モデルネの思索家として︑すべてが解体され瓦解したな
かにあってなおも︑肯定的契機と否定的契機とをともに保持しつつ対象を把握する理性の力に依拠し︑来るべき全体の予兆を示す
ような営為︑この限りにおいてコンストラクティヴな哲学的解釈の意義を語ったのであった︒
もっとも︑哲学的解釈の描く未来の像は︑決して静止することなく︑自己自身を不断に展開させていくものである︒媒介の抹消
不能性が︑諸々の矛盾が止揚された状態としての未来の全体像が決して到達しえないものであることを︑つまりは︑理性のユート
ピアが肯定的概念としてではなくて︑否定的/批判的な概念としてあるに過ぎないことを告げるとともに︑図像/形象︑名辞︑概
念の崩壊をイデーとする哲学的批判は︑理性の力により︑﹁個別的なもの﹂それ自体の解体にはじまる全体の脱構築を通して現実
を再構成しようとする解釈の営為を︑無限に繰り返される営為として規定する︒そして︑決して果たされることなく︑絶望的に反
覆されるものとしての︑理性のユートピアを志向する契約のもとに︑哲学的解釈は︑理性によって紡ぎ出された全体にあって︑そ
れを読み解かれるべきテクストとして扱うなかで︑理性の暴力により沈黙を強いられ﹁敗北を決定づけられているもの﹂を︑なお
も理性による批判を頼りに救い出そうとする︒われわれが決してそこから逃れ出ることのできない領域︑﹁わたし﹂と﹁われわれ﹂
とを成立させる力としての理性の勢力圏内にあって︑われわれの未来への希望を繋ぐ唯一のもの︑理性の把持を逃れ︑﹁われわれ﹂
の手許を過ぎ去った理性の他者を︑全体のうちにちりばめられたその﹁痕跡
(S pu r)
﹂を手がかりとして︑われわれに原初的に備
わる唯一の力である理性の潜勢力に依拠して想起すること︑理性のユートピアを志向する契約︑﹁等しきものを等しく扱え﹂とい
う定式に表現されるような︑理性の﹁目標
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︒^︶﹂としての同一性の理想は︑先のようなかたちで︑その理想に忠実であろう
とする哲学的解釈の軌跡︑﹁傷つけて癒すもの
(n P8
6月
ぷ
6g g)
﹂として︑そのすべてのモメントにおいて︑自身の揮う暴力が
それに先行する暴力を償っていくという︑無限に続く﹁贖罪連関
(S ch ul dz us am me nh an g)
﹂の軌跡を︑﹁法
(G es et z)
﹂の地位に
即ける︒あるいは︑同一性の理想のもとで︑肯定的契機と否定的契機とを含めて対象を理解しようとする弁証法的な力としての理
性による哲学的解釈は︑﹁法/正義
(R ec ht
)﹂そのものとなるのである︒ただ︑このことは︑哲学的解釈の表現契機である﹁異質
啓 蒙 と 理 性
︵
2
. 完︶
四三七
( =
10
三五
︶
四三八
なものについて
(U be dr as An de re
)﹂の﹁異質な語り
(a nd er Rse de n)
﹂が︑対抗的なディスクールとして︑全体に対置されるこ とを︑もしくは︑それが併置される全体︑そのような力の場を必要としているように思われる︒
哲学的解釈は︑理性の暴力を理性によって償おうとする試みである︒そこに描かれる図像の否定としての図像は︑﹁一般的なもの﹂
に対し﹁否定的なもの﹂として現れる﹁具体的なもの﹂の形象である︒それは︑﹁非同一的なもの﹂を切断する
(a bs ch ne id en )
も
のとして贖罪連関のうちにあるもの︑つまりは理性の力に基づいた精神による統一を︑﹁きれぎれの断片
(m en br ad i s ie c t a)
﹂へと
向かわせる︒というのも︑解釈の描くイマーゴは︑それ自体︑創造的で生産的なものであり︑静態的な言語'記号システムのうち にしかるべき位置をもたないものだからである︒それは︑﹁配達不能な
( un b e st e l lb a
r )﹂ものとして︑﹁秩序
(Ordn un g)
﹂のうち
に﹁混沌
(C ha os
)﹂を持ち込む︒哲学的解釈の描いたイマーゴは︑容易な﹁伝達
(K om mu ni ka ti on
)﹂を受けつけないという意味
で﹁交換不能な
(u nv er ta us ch ba r)
﹂ものであり︑したがって︑それ自体もまた︑つねに有縁化されること︑つまりは解釈を要求
する﹁不経済な
(u no ko no mi sc h)
もの﹂として︑﹁交換性
(V er ta us ch ba rk ei t)
﹂という支配的原理に挑戦し︑そしてこれによって︑
願わくば理性による虚偽と罪とを贖おうとするのである︒その﹁異質な語り﹂は︑コミュニケーションの場において︑﹁話す主体﹂
と﹁聴く主体﹂とのあいだでの︑共通のコードに基づいたメッセージの﹁交換﹂を要求するのではなくて︑解釈のコードが事後的 に生成されるー—実践的に習得・理解されるなかで営まれるものとしての「対話
(65Lcm只⇒)」を要求するものである。そ
して︑﹁異質な語り﹂が︑﹁話す主体﹂と﹁聴く主体﹂との非対称性を露呈させることを通して﹁他なるもの﹂を顕現させるもので あり︑コミュニケーションが継続される限りにおいて︑コードの体系の解体・再構成を要求するものであってみれば︑それは︑静 態的な言語ー記号システムの閉域を打ち破り︑それを超え出ていくとともに︑複数のシステムを架橋する力を潜在させているもの であるといえる︒このように︑弁証法的にのみ可能なものとしての哲学的解釈をもって︑理性のユートピアヘの接近を語ったアド ルノにおいて︑哲学的解釈の表現契機である﹁異質な語り﹂は︑﹁社会的なもの﹂としての閉鎖的で静態的な言語'記号システム
関 法 第 五 二 巻 六 号
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