著者 橋口 亘
雑誌名 周縁の文化交渉学シリーズ4 『磁器流通と西海地域
』
ページ 13‑21
発行年 2011‑12‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/5893
第 1 章 南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察
橋 口 亘
1 .はじめに
南九州(本稿では鹿児島県本土部を対象とする)の東南アジア産陶磁の出土様相については、新田栄 治氏の論考(新田1997・1999)や、森本朝子氏の論考(森本2000・2002・2004)、拙稿(橋口2002a・
2002b・2010)、出口浩二氏の論考(出口2004)などがあり、重久淳一氏によって鹿児島県内各地の出土 例の集成研究がなされ、県内全体的に分布していることなどが示されている(重久2004)。こうした研究 をみると、南九州では、日本本土部の南玄関という地理的環境を背景に、山間部にまで広く及ぶ東南ア ジア産陶磁の出土様相がうかがえる。
本稿では、上記の先行研究等を参考に南九州出土の東南アジア産陶磁について紹介を行い、若干の考 察を加えてみたい。
2 .タイ産褐釉陶器
南九州では、中世城館遺跡を中心にタイ産褐釉陶器壺の出土が散見される。重久淳一氏によって指摘 されているように、南九州出土の東南アジア産陶磁の中で最も出土例が多い(重久2004)。シーサッチャ ナライ、メナムノイ窯系の製品がみられる。
新田栄治氏は、日本出土のタイ産陶器に、①商品としての陶器、②商品である内容物の容器としての 陶器、③貿易従事者の生活用具の三つがあるとし、南九州市知覧や霧島市隼人町弥勒院跡出土のタイ産 壺について考察した中で、タイ産四耳壺に葉茶壺としての需要があったと考えられると述べ、「知覧出土 のタイ産壷は、単なる容器としてではなく、作りのよさから所有者は壷そのものに価値を見いだしてい た。弥勒院跡出土タイ産壷も同様である。」(新田1997・1999)としている。また、出口浩二氏は、谷山 弓場城跡出土のタイ産黒褐釉四耳壺について、新田栄治氏が示した②の性格を持つ貿易品の容器であろ うと述べている(出口2004)。一方、筆者は、悪石島でのタイ産褐釉壺の味噌ガメとしての使用例(森本 2000)や、堺出土の硫黄入りタイ産四耳壺(容器の二次転用が想定されている)の例(續伸一郎1989・
1993、森村1989)などから考察し(橋口2002)、知覧や隼人の出土資料をはじめ鹿児島県内で出土したタ イ産陶器壺の用途について、葉茶壺等の奢侈品としての用途に限定するのは難しく、当初の用途とは異 なる再利用(容器自体の需要により輸入された場合や、貿易品である内容物の容器として運ばれてきた 後の再利用など)を含め、日用雑器(日用の「貯蔵・運搬」用容器)として使用された可能性があると 考えている。
前述のように、タイ産褐釉陶器壺は南九州出土の東南アジア産陶器の中で最も出土例が多く(重久 2004)、当該期の南九州の陶磁器貯蔵運搬具分野においてタイ産褐釉陶器壺が占めるシェアは、当該期の 南九州の陶磁器食膳具分野において東南アジア産陶磁が占めるシェアに比べ圧倒的に大きい。このこと は、当時、東南アジアから南九州へもたらされた搬入品のうち、東南アジア産陶磁器食膳具の割合はご く僅かで、タイ産褐釉陶器壺などに詰められた内容物(酒類ほか)のほうが、はるかに多く南九州へも たらされたことを示唆していると考えられよう。
3 .ベトナム産鉄絵・青花
霧島市隼人町の菩提遺跡で、鉄絵陶器の出土報告がなされている(重久・堀之内・迫間・八巻1998、
重久2004)。
また、南さつま市坊津町泊の泊浜採集品中に、ベトナム産鉄絵と青花各 1 点ずつの例がある(橋口 1998・2004・2008、森本2000・2002・2004、重久2004)。
泊浜採集のベトナム産鉄絵は底部破片で、見込には鉄絵の花文が描かれ、高台内はチョコレートボト ムとなっている。年代については、森本朝子氏の編年観によれば14世紀中葉〜15世紀初葉(森本2002)、
西村昌也・西野範子氏の編年観によれば、14世紀後半に位置付けられる(西村・西野2005)。
長崎県から熊本県、さらに薩摩半島にかけての地域において、14世紀中頃〜15世紀初頭頃の時期にさ かのぼるベトナム産陶磁の出土例は、長崎県地域に集中しており、長崎県地域における倭寇や当該地域 の商人の活動などとの関連が指摘されている(森本2000・2002・2004、川口2003・2004)。熊本県地域で は、玉名市菊池川河口遺跡・天草市河内浦城跡・天草市棚底城跡での例がある(森本2000・2002・2004、
中山2009)。中山圭氏は、天草市棚底城でのベトナム青花碗の出土について、「私的な交易や海賊行為な ど海運を利用した活発な活動」の中で、「直接間接かは別にして、ベトナム青花碗を入手することができ たのであろう」としている(中山2009)。薩摩半島では、本稿で述べるように南さつま市坊津町泊浜での 採集例が知られている。
近年での資料の増加に伴い、当該期の九州西岸部におけるベトナム産陶磁の流通については、さらな る検討が迫られている。ベトナム産陶磁の動きとして、㋐長崎県島嶼部・北部九州地域へもたらされた ベトナム産陶磁の一部が、九州の西沿岸の海上ルートで熊本県地域や薩摩半島にもたらされたのか、あ るいは、㋑南西諸島を北上し南九州に至り、さらに九州の西沿岸を経て北部九州・長崎県島嶼部につな がる海上ルートでこれらのベトナム産陶磁がもたらされたのか、が問題となる。亀井明徳氏は、南西諸 島における貿易陶磁器の流通経路について考察し「14世紀後半からこの地域における貿易陶磁器の流通 経路は,南から北上する奔流となって,九州から朝鮮半島へと達している」(亀井1993)と述べている。
一方、森本朝子氏は、当該期の九州へのベトナム産陶磁の流入について、沖縄を介さないルートによる 流入(倭寇や鎮西商人による流入、南蛮船による直接流入)の可能性を指摘している(森本2000・2002・
2004)。これまで、長崎県島嶼部・北部九州において当該期のベトナム産陶磁の出土量が多い点などを重 視すると、現状では前者㋐の物流が主琉のように思われる。
では、㋐の物流はどのような背景の中で捉えられる事象なのか。その背景の一つとして、本稿では、
第 1 章 南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察(橋口)
薩摩国硫黄島で産出した「硫黄」を挙げてみたい。周知のとおり、火薬の原料等として利用される硫黄 は、中世の日本から中国へ輸出されていた重要な貿易品の一つである。その産地の一つ、薩摩国硫黄島 で産出した硫黄の一部は、日宋貿易時代から九州西沿岸ルートで北部九州方面に運ばれるなどした後に 中国へ輸出されたとみられており(山内2009)、硫黄島で発見された宋代の中国陶磁も硫黄交易に関連し て北部九州経由の海上ルートで硫黄島に搬入された可能性が指摘されている(橋口・若松2011)。㋐の物 流、すなわちベトナム産陶磁(ベトナム初期貿易陶磁の鉄絵製品やその鉄絵製品と類似した文様を持つ 青花製品)の北部九州方面から南九州方面への搬入は、このような硫黄島から北部九州方面にかけての 地域で展開された硫黄の海上運輸などと関連している可能性があるのではないだろうか。
一方で、15世紀初頭段階において、応永17年(1410)の島津元久上洛時の「進上物注文」(『旧記雑録 前編 二800)などの史料が存在する点は看過できない。当該「進上物注文」には、島津氏から中央政界 への贈答品として南蠻酒・沈香・麝香や壺・茶碗皿などの文字が見える。こうした品々が、すべて北部 九州経由で島津氏のもとへ入ったとは考え難い。島津氏が南九州の地の利を活用してこれらの品々を入 手したと考えれば、これらの品々の南九州への直接流入や、南西諸島などを経由した物流の存在等をう かがわせる。15世紀前〜中期には琉球国王使節船が畿内へ度々来航し(吉田2006)、堺で出土した15世紀 前半とされるベトナム産青磁碗は、琉球との貿易で堺に搬入された可能性が指摘されており(續2010)、
琉球と本州の間に位置する南九州の出土資料(後述する泊浜採集のベトナム産青花など)も、こうした 背景の中で琉球から搬入された可能性も指摘できる。また、森本朝子氏が南蛮船による東南アジア陶磁 の九州への直接流入の可能性(森本2004)を指摘したように、応永26年(1419)の町田(阿多)氏領内 への「南蛮船」来航事件(高柳1932、鹿児島縣1939、江平1989)などを鑑みても、南九州への東南アジ ア産陶磁の流入ルートには、南九州への直接流入を含め、様々な可能性が想定できよう。15世紀前期の こうした状況が、14世紀後末期頃まで遡及する可能性も否定できない。
泊浜採集のベトナム産青花は、玉壺春の類とみられる袋物の破片で、表面には簡略化された線描きの ラマ式蓮弁が描かれる。泊浜採集のベトナム産青花に描かれたラマ式蓮弁文は、福岡市美術館の本多コ レクションの青花草花文瓶(尾崎1992『ベトナムの陶磁』47頁掲載作品)のラマ式蓮弁文に酷似してい る。この本多コレクションの青花草花文瓶は、沖縄の今帰仁城跡出土ベトナム陶磁(金武1991・2004)
の一つである青花瓶(尾崎1992『ベトナムの陶磁』103頁下段掲載作品)と酷似する特徴を持つことが指 摘されている(尾崎1992・1998)。泊浜採集のベトナム産青花は、これら本多コレクションや今帰仁城跡 出土の青花瓶と類似した製品であったと考えられる。逆に、泊浜採集のベトナム産青花の意匠は、ベト ナム初期貿易陶磁の鉄絵やその鉄絵に類似した文様を持つ青花とは明らかに異なる。
森本朝子氏は、鉄絵に代表されるベトナム初期貿易陶磁(森本氏の年代観では14世紀後半から15世紀 初頭に生産された製品)の国内での出土様相について、「これら初期のベトナム陶磁の中で前後関係が明 らかなのは白磁鉄絵と青花であるが、早い白磁鉄絵に比べると後発の青花は明らかに数か少ない。」と述 べ、さらに「琉球では、これまでのところベトナム初期貿易陶磁に関しては青花と青磁蓮弁碗以外の報 告がない。九州地方でみられる白磁鉄絵を初めとする多様なベトナム陶磁は出土していないのである。
タイ陶器についても白釉鉄絵は出土していない。明らかに早い時期の初期貿易陶磁がないのである。」述 べている(森本2004)。
こうした研究をふまえると、泊浜採集のベトナム産青花は、ベトナム初期貿易陶磁の鉄絵製品やその 鉄絵製品と類似した文様を持つ青花製品よりも、さらに後発すると考えられる青花製品の一群、今帰仁 城跡出土の青花瓶などと同じ時期の製品として位置付けることができる。つまり、泊浜採集のベトナム 産青花は、今帰仁城跡出土の青花瓶などと同じ時期背景の中で検討しなければならない資料であること がわかる。森本朝子氏の集成研究(森本2000・2002・2004)などをみると、日本本土部においては、こ の種のベトナム産青花の出土は極めて稀少である。このようなベトナム産青花が、沖縄の今帰仁城跡と 南九州の泊浜で確認されている点は、当該期のベトナム産陶磁の南西諸島経由での日本本土部への流入 を想起させる。前述のように、ベトナム初期貿易陶磁の鉄絵製品などが盛行する段階では、森本朝子氏 の指摘のとおり、沖縄を経由しないルートでの日本への東南アジア産陶磁の搬入が想定される。一方、
泊浜採集のベトナム産青花や今帰仁城跡出土の青花瓶の時期では、規模は小さくともベトナム産陶磁の 南西諸島経由での日本本土部への流入が想定できるのではなかろうか。また、泊浜採集のベトナム産青 花については、前述した応永26年(1419)の町田(阿多)氏領内への「南蛮船」来航事件のような、15 世紀頃の南蛮船の南九州への来航などによって南九州へ直接もたらされた可能性も考えられよう。興味 深いのは、当該南蛮船(スマトラから来航)に乗船していた一行の日本からの送還ルートが琉球経由で あったとされる点(小葉田1935)であり、この時期の日本本土部と東南アジアを結ぶルートを考える上 で、南西諸島(南西諸島経由ルート)は、やはり看過できない存在であることがうかがえる。
このほか、近年では、南九州市川辺町の川辺郷地頭仮屋跡においてベトナム産青花(青海波文が描か れ、玉壺春の類の袋物とみられる)の出土報告例がある(若松2010、若松・橋口2010)。この川辺郷地頭 仮屋跡出土のベトナム産青花は、器形はホイアン沖沈没船発見のベトナム青花玉壺春型瓶(向井2002、
亀井2002『明代前半期陶瓷器の研究』掲載図版 pl.V ―16)と同様な玉壺春型の瓶である可能性が高い。
また、川辺郷地頭仮屋跡出土のベトナム産青花は、泊浜採集のベトナム産青花や今帰仁城跡出土ベトナ ム陶磁(金武1991・2004)の一つである青花瓶(尾崎1992『ベトナムの陶磁』103頁下段掲載作品)と比 べると、明らかに呉須の発色が冴えず、白地部分は全体的に黄味を帯びている。川辺郷地頭仮屋跡出土 のベトナム産青花は、今帰仁城跡出土の青花壺(尾崎1992『ベトナムの陶磁』104頁上段掲載作品)や、
福岡市美術館「ベトナムの陶磁」展出品の青花牡丹唐草文壺(尾崎1992『ベトナムの陶磁』42頁掲載作 品、15〜16世紀とされる)の肩部に描かれた青海波文の部分などに類似しており、川辺郷地頭仮屋跡出 土のベトナム産青花は、これらの壺や前述のホイアン沖沈没船発見のベトナム青花玉壺春型瓶などに近 い時期の製品である可能性が考えられる。川辺郷地頭仮屋跡出土のベトナム産青花の搬入ルートについ ては、泊浜採集のベトナム産青花と同様に、第一に南西諸島経由が考えられるほか、中国経由の搬入や 南蛮船による直接搬入の可能性なども考えられよう。
4 .ベトナム産焼締陶器
南九州では、霧島市隼人町の宮内地区を中心に出土報告例がある(重久2004)。このほか、近年では、
南さつま市金峰町花瀬の上水流遺跡の発掘調査報告書においてベトナム産焼締陶器長胴瓶の出土が報告 されている(溝口・東郷・森・抜水・富山・黒川・上床2008)。タイ産褐釉陶器に比べて出土例が少ない
第 1 章 南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察(橋口)
傾向にある。
5 .鹿児島湾奥での東南アジア産陶磁の出土様相
南九州における東南アジア産陶磁の出土様相の中で、注目されるものの一つが、鹿児島湾奥の宮内地 区での東南アジア産陶磁の出土である。鹿児島湾奥の宮内地区で出土する多量の貿易陶磁について、重 久淳一氏は付近の鳩脇八幡崎に荷揚げされた可能性が高いとしながらも、「この港に舶載品を積んだ外国 船が直接入って来たのかまでは窺い知ることはできない」(重久2008)と述べており、確かに当該港に外 国船の来航記録は無い。にもかかわらず、坊津のように外洋に面していない場所である宮内地区が、南 九州でも有数の東南アジア産陶磁の出土エリアであるという現状は、大隅正八幡の持つ求心力に加え、
本稿の冒頭で述べたような東南アジア産陶磁の出土が山間部にまで広く及ぶ南九州という環境の中で理 解され得るものであろう。
6 .南九州への東南アジア産陶磁の搬入主体の多様性
新田栄治氏は、知覧出土のタイ産陶器について、「琉球を経由して入手したものか、明船のもたらした ものであろう」とし、琉球や明船を介したタイ産陶器の知覧への流入の可能性を指摘している(新田 1997・1999)。こうした意味では、15〜16世紀頃の南九州諸港における琉球渡海船の存在(鹿児島縣1939)
は、近世初頭に行われた薩摩による直接的な東南アジアとの交易等(新田1997・1999)と同じく、南九 州における東南アジア産陶磁の出土様相を理解する上で重要な歴史背景の一つであると考えられる。こ のような南九州の琉球渡海船が、琉球で東南アジア産陶磁を獲得して南九州へ搬入した可能性や、ある いは琉球船・明船の南九州への来航(鹿児島縣1939)による、南九州への東南アジア産陶磁の搬入の可 能性についても、さらに注視すべきである。
また、その一方で、先述した応永26年の南九州への南蛮船来航事件の以後も、例えば『日新菩薩記』
に加世田小湊への南蛮船漂着の記事がみられる件(鹿児島縣1939、橋口・上東2003、上東2004)や、16 世紀末における薩摩への東南アジア諸国の船舶の来航(鹿児島縣1939)などから、東南アジア船舶の南 九州への直接的な来航による、南九州への東南アジア産陶磁の搬入の可能性についても注目していく必 要があろう。
7 .おわりに
南九州における東南アジア産陶磁の出土様相について述べてきたが、残された課題は多い。前段で触 れた小地域的な様相の把握・検討もその一つである。また、新規調査による出土遺物に期待するだけで なく、当該地域において蓄積された既存の出土遺物を再度精査し、東南アジア産陶磁の有無を確認する 作業も重要であると思われる。今後さらなる調査研究の進展が望まれる。
(筆者校了日:20011年 8 月15日)
引用・主要参考文献
有川孝行2004 『油須木城跡』郡山町埋蔵文化財発掘調査報告書( 4 ) 郡山町教育委員会 上田 耕1993 『鹿児島史学』第三十九号 鹿児島県高等学校歴史部会
上田 耕1994 『知覧城跡(二)』知覧町埋蔵文化財発掘調査報告書( 5 ) 知覧町教育委員会
上田 耕・若松重弘・坂元恒太2006 『知覧城跡(三)』知覧町埋蔵文化財発掘調査報告書(12) 知覧町教育委員会 上東克彦2004 「鹿児島県薩摩半島に伝世された華南三彩―クンディと果実形水注―」『貿易陶磁研究』第24号 日本
貿易陶磁研究会
上東克彦・福永裕暁2003 『掛ノ上遺跡』加世田市埋蔵文化財発掘調査報告書(24) 加世田市教育委員会 江平 望1989 「応永26・ 7 年の南蛮船来航事件について」『知覧文化』第26号 鹿児島県知覧町立図書館 大窪祥晃・三木 靖2005 『志布志城跡』志布志町埋蔵文化財発掘調査報告書(34) 志布志町教育委員会 大窪祥晃2008 『志布志城跡Ⅱ』志布志市埋蔵文化財発掘調査報告書 2 志布志市教育委員会
尾崎直人1992 『ベトナムの陶磁』 福岡市美術館
尾崎直人1998 「東南アジアの陶磁と沖縄」『陶磁器に見る大交易時代の沖縄とアジア』 那覇市立壺屋焼物博物館 鹿児島縣1939『鹿児島縣史』第 1 巻
鹿児島県歴史資料センター黎明館編1991 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』
亀井明徳1993 「南西諸島における貿易陶磁器の流通経路」『上智アジア学』第11号 上智大学アジア文化研究所 亀井明徳2002 『明代前半期陶瓷器の研究』専修大学アジア考古学研究報告書 1 専修大学文学部
川口洋平2003 「産地不明の陶磁器―対馬・壱岐・長崎―」『貿易陶磁研究』第23号 日本貿易陶磁研究会
川口洋平2004 「中世後期の対馬・壱岐・松浦―土器・陶磁器からみた倭寇関連遺跡―」『中世西日本の流通と交通』
高志書院
金武正紀1991 「沖縄出土のタイ・ベトナム陶磁」『貿易陶磁研究』第11号 日本貿易陶磁研究会
金武正紀2004 「沖縄から出土したタイ・ベトナム陶磁」『シンポジウム 陶磁器が語る交流―九州・沖縄から出土した 東南アジア産陶磁器―』 東南アジア考古学会事務局
小葉田 淳1935 「旧港及其日琉両国との交渉について」『史林』第20巻第 3 号 史学研究会
小村美義・大窪祥晃2003 「宝満寺跡」『宝満寺跡・宝満製鉄遺跡・牟田遺跡・弓場ヶ尾遺跡』 志布志町埋蔵文化財発掘 調査報告書(31) 志布志町教育委員会
重久淳一1998 『隼人塚』 隼人町教育委員会
重久淳一1999 「弥勒院跡」『黎明館開館十五周年記念特別展「海洋国家・薩摩―薩摩に鎖国はなかった―」図録 』 鹿児島県歴史資料センター黎明館
重久淳一2001 『留守氏館跡』埋蔵文化財発掘調査報告書 隼人町教育委員会・隼人町遺跡調査会 重久淳一2003 『桑幡氏館跡―第 3 次調査―』埋蔵文化財発掘調査報告書 隼人町教育委員会
重久淳一2004 「鹿児島県内から出土したタイ、ベトナム陶磁」『シンポジウム 陶磁器が語る交流―九州・沖縄から出 土した東南アジア産陶磁器―』 東南アジア考古学会事務局
重久淳一・桑畑まゆみ・中村富美子・高屋よつえ2006 『桑幡氏館跡Ⅱ―第 1 ・ 2 ・ 4 ・ 5 次調査―』埋蔵文化財発 掘調査概要報告書 霧島市教育委員会
重久淳一2008 「貿易陶磁器の終着点―錦江湾奥部の遺跡―」『海上の道と陶磁器』 南さつま市坊津歴史資料センタ ー輝津館
重久淳一・堀之内清子・迫間洋子・八巻 聡1998 『菩提遺跡』隼人町埋蔵文化財発掘調査報告書 隼人町教育委員会 新東晃一・峯崎幸清・青﨑和憲1982 『平泉城跡』大口市埋蔵文化財発掘調査報告書( 1 ) 大口市教育委員会 新福 深2005 『高山城跡周辺地』高山町埋蔵文化財発掘調査報告書(10) 高山町教育委員会
高柳光壽1932 「応永年間に於ける南蛮船来航の文書について」『史学雑誌』第43編第 8 号 史学会 續 伸一郎1989 「堺環濠都市遺跡出土のタイ製四耳壺」『貿易陶磁研究』第 9 号 日本貿易陶磁研究会
第 1 章 南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察(橋口)
續 伸一郎1993 「ベトナム製焼締長胴瓶・四耳壺について―堺環濠都市遺跡の出土品を中心として―」『貿易陶磁研 究』第二十三号 日本貿易陶磁研究会
續 伸一郎2010 「堺環濠都市遺跡から出土したベトナム陶磁器」『海の道と考古学』 高志書院
坪根伸也2003 「東南アジア産陶磁器と豊後府内」『豊後府内 南蛮の彩り〜南蛮の貿易陶磁器〜』 大分市歴史資料館 坪根伸也2009 「中世後期における豊後府内の流通と展開―出土遺物様相からみた豊後府内の流通経済―」『中世後期
の流通を考える』 広島県立歴史博物館・日本中世土器研究会・大手前大学史学研究所
出口 浩二2004 「谷山弓場城跡出土のタイ黒褐釉四耳壷」『からから』第17号 鹿児島陶磁器研究会
出口 浩・濵川まゆみ・河野治雄1992 『谷山弓場城跡』鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書(11) 鹿児島市教育委員会 徳永和喜1990 「島津氏の印判に関する研究」『黎明館調査研究報告』第 4 集 鹿児島県歴史資料センター黎明館 中村和美1998 「鹿児島県坊津と出土陶磁器」『貿易陶磁研究』第18号 日本貿易陶磁研究会
中村和美2007 「南九州の土器・陶器」『中世窯業の諸相〜生産技術の展開と編年〜 補遺編』 全国シンポジウム「中世 窯業の諸相〜生産技術の展開と編年〜」実行委員会
中山 圭2009 「総括」『棚底城跡Ⅲ・大権寺遺跡』天草市文化財調査報告書第 2 集 天草市教育委員会
西村昌也・西野範子2005 「ヴェトナム施釉陶器の技術・形態的視点からの分類と編年―10世紀から20世紀の碗皿資料 を中心に―」『上智アジア学』第23号 上智大学アジア文化研究所
新田栄治1997 「知覧城出土のタイ産陶片と薩摩の海外貿易」『知覧文化』第34号 知覧町立図書館
新田栄治1999 「近世薩摩出土の東南アジア陶磁と薩摩の海外活動」『黎明館開館十五周年記念特別展「海洋国家・薩摩
―薩摩に鎖国はなかった―」図録 』 鹿児島県歴史資料センター黎明館
橋口 亘1998 「鹿児島県坊津町泊海岸採集の陶磁器」『貿易陶磁研究』第18号 日本貿易陶磁研究会
橋口 亘 2002a 「鹿児島県地域における16〜19世紀の陶磁器の出土様相」『鹿児島地域史研究』第 1 号 『鹿児島地域史 研究』刊行会
橋口 亘2002b 「春日町遺跡B地点出土の色絵合子」『春日町遺跡B地点』鹿児島市埋蔵文化財発掘調査報告書(36) 鹿 児島市教育委員会
橋口 亘2003 「中世薩摩における流通―出土陶磁器からみたその傾向―」『シンポジウム「流通・交通の中世考古学」
発表資料集』 シンポジウム「流通・交通の中世考古学」実行委員会 橋口 亘2004 「中世港湾坊津小考」『中世西日本の流通と交通』 高志書院
橋口 亘2008 「泊浜採集貿易陶磁」『海上の道と陶磁器』 南さつま市坊津歴史資料センター輝津館
橋口 亘2010 「南九州から見た土佐―十五〜十六世紀頃の貿易陶磁出土様相の比較と志布志大慈寺一石五輪塔―」
『中世土佐の世界と一条氏』 高志書院
橋口 亘・上東克彦2003 「薩摩半島西南端地域における中世遺跡の様相―鹿児島県川辺郡西部地域の中世遺跡―」『中 世都市研究会2003年九州大会資料集』 中世都市研究会2003年九州大会実行委員会
橋口 亘・若松重弘2011 「鹿児島県三島村硫黄島採集の貿易陶磁」『南日本文化財研究』№11 『南日本文化財研究』刊行 会
溝口 学・東郷克利・森 雄二・抜水茂樹・富山孝一・黒川忠広・上床 真2008 『上水流遺跡 2 』鹿児島県立埋蔵文化財 センター発掘調査報告書(121) 鹿児島県立埋蔵文化財センター
向井 亙2002 「タイ・ベトナム陶瓷器の産地と年代」『明代前半期陶瓷器の研究』 専修大学文学部 向井 亙2003 「タイ黒褐釉四耳壺の分類と年代」『貿易陶磁研究』第23号 日本貿易陶磁研究会
森村健一1989 「16〜17世紀初頭の堺環濠都市遺跡出土のタイ四耳壺―タイでの窯跡・沈没船の出土例―」『貿易陶磁 研究』第 9 号 日本貿易陶磁研究会
森村健一1993「日本における遺跡出土のタイ陶磁器」『東洋陶磁』23・24号 東洋陶磁学会
森村健一2004「堺から出土したタイ、ベトナム陶磁」『シンポジウム 陶磁器が語る交流―九州・沖縄から出土した東南 アジア産陶磁器―』 東南アジア考古学会事務局
森本朝子2000 「日本出土の東南アジア産陶磁の様相」『貿易陶磁研究』第20号 日本貿易陶磁研究会
森本朝子2002 「ベトナム陶磁―日本における研究の成果と課題」『東洋陶磁史―その研究の現在―』 東洋陶磁学
会
森本朝子2004「博多出土の東南アジア陶磁器について」『シンポジウム 陶磁器が語る交流―九州・沖縄から出土した東 南アジア産陶磁器―』 東南アジア考古学会事務局
山内晋次2009 『日宋貿易と「硫黄の道」』日本史リブレット75 山川出版社
吉田 寛2004 「大分・府内から出土した東南アジア産陶磁」『シンポジウム 陶磁器が語る交流―九州・沖縄から出土し た東南アジア産陶磁器―』 東南アジア考古学会事務局
吉田 寛2008 「陶磁器からみた大友氏の南蛮貿易」『戦国大名大友氏と豊後府内』 高志書院 吉田 豊2006 「中世堺の琉球貿易」『堺市博物館報』25 堺市博物館
若松重弘2010 『川辺郷地頭仮屋跡』南九州市埋蔵文化財発掘調査報告書( 4 ) 南九州市教育委員会
若松重弘・橋口 亘2010 「川辺郷地頭仮屋跡出土の陶磁器・土器について―稀少遺物・土坑 3 出土遺物を中心に―」
『川辺郷地頭仮屋跡』南九州市埋蔵文化財発掘調査報告書( 4 ) 南九州市教育委員会
謝辞
本稿作成にあたり、南さつま市教育委員会(坊津歴史資料センター輝津館)、南九州市教育委員会(ミュージアム知 覧)、今帰仁村教育委員会、荒武賢一朗氏、西村昌也氏、西野範子氏、中山圭氏、荒木純治氏、上田耕氏、若松重弘氏、
金武正紀氏、宮城弘樹氏、玉城靖氏、渡辺美季氏、重久淳一氏、有川孝行氏、上東克彦氏に御協力・御教示をいただい た。文末ながら記して感謝の意を表したい。
第 1 章 南九州出土の東南アジア産陶磁についての一考察(橋口)
泊浜(南さつま市坊津町)採集の ベトナム鉄絵(左)・青花(右)
(南さつま市坊津歴史資料センター輝津館保管)
川辺郷地頭仮屋跡(南九州市川辺町)
出土のベトナム青花)
(ミュージアム知覧保管)
鹿児島県本土部の東南アジア産陶磁器出土報告の諸例 1 平泉城跡 ◆ 10 高山城跡周辺地 ◆ 2 宮坂遺跡(表採) ◆ 11 油須木城跡 ◆ 3 桑幡氏館跡 ◆■ 12 谷山弓場城 ◆ 4 留守氏館跡 ◆ 13 掛ノ上遺跡 ◆ 5 弥勒院跡 ◆■ 14 上水流遺跡 ■ 6 隼人塚 ◆ 15 川辺郷地頭仮屋跡 ◆★
7 菩提遺跡 ▲ 16 知覧城跡 ◆
8 宝満寺跡 ◆ 17 大堀迫遺跡 ◆
9 志布志城跡 ◆ 18 泊浜(表採) ▲★
タイ陶器壺…◆ ベトナム焼締陶器…■ ベトナム鉄絵…▲
ベトナム青花…★
④
①
③
② 出土遺物実測図
① 谷山弓場城跡(鹿児島市)
タイ産黒褐釉陶器四耳壺
② 志布志城跡(志布志市)
タイ産黒褐釉陶器壺
③ 知覧城跡(南九州市)
タイ産黒褐釉陶器四耳壺
④ 桑幡氏館跡(霧島市)
ベトナム産焼締陶器長胴瓶
(図版引用:出口2004)
(図版引用:重久・桑畑・中村・高屋2006)
(図版引用:上田・若松・坂元2006)
(図版引用:大窪・三木2005)