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朝鮮王朝の茶礼―明・清使への賓礼を中心に―

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(1)

著者 篠原 啓方

雑誌名 周縁の文化交渉学シリーズ1 『東アジアの茶飲文化

と茶業』

ページ 21‑55

発行年 2011‑03‑31

その他のタイトル Tea Ritual in Choson dynasty:Practice of Guest Ritual for Ming and Ching emissaries

URL http://hdl.handle.net/10112/4394

(2)

―明・清使への賓礼を中心に―

篠 原 啓 方

Tea Ritual in Chosŏn dynasty:

Practice of Guest Ritual for Ming and Ching emissaries SHINOHARA Hirokata

 朝鮮史における茶の歴史は古いが、国家の賓礼に喫茶が確認されるのは高麗以降で ある。これは朝鮮に入ると茶礼の名で登場するが、当初は宴の式次の一つであり、酒 礼に先立って催されるものであった。だが18世紀に入ると、宴の簡素化などを経て茶 礼が独立し、宴礼の性格を帯びるようになる。

 この変化の画期は、おおよそ明清の交替期にあると推測されるが、特に朝鮮国王と 明使が相互に茶鍾を手渡す行為が、清使に対して行なわれなくなった点は注目される。

茶鍾の手渡しの廃止は、相互間の誠意や親睦の意味が希薄になったことを示すと思われ、

その背景には朝鮮の清朝に対する反感が想定される。

キーワード:朝鮮、茶礼、賓礼、国朝五礼儀、勅使

はじめに

 朝鮮史における喫茶の歴史は古く、その事実は近年、一般にも知られるようになった。日本の茶文化 については、禅思想との結びつきがよく指摘される。朝鮮においてもそれは同様であり、茶と仏教の関 係は、東アジアにおける共通の要素として認められるようである。一方、朝鮮茶文化において特徴的な のは、その儀礼的性格である。朝鮮時代に入ると、喫茶は「茶礼」として国家から士大夫に至るまで幅 広く行なわれ、特に宮中において、喫茶を重視した茶礼が確立していった。

 こうした朝鮮の茶礼は、日本でも論著や概説書などを通じ紹介されている

1)

。韓国における同分野の研

1) 古代から現代韓国に至る茶文化の通史としてまず挙げられるのが金明培『韓国の茶道文化』(ぺりかん社、1983)で

ある。また日本で刊行された茶文化に関する論著は、金巴望「朝鮮喫茶研究史」『東洋の茶』(茶道学大系第七巻)、

(3)

究は当然ながら日本より多いが

2)

、歴史資料を用いた専門的なアプローチはいまだ多いとは言い難い。そ こには分野としての特殊性・専門性もさることながら、当時の膨大な文献といかに向き合うのかという 障壁があった。ところが1990年代以降、朝鮮王朝の礼典資料が紹介・翻訳されはじめ、2000年代以降は

『朝鮮王朝実録』・『承政院日記』といった膨大な記録資料の検索がウェブサイトで可能となった。その中 には宮廷茶礼の資料が散見しており、それらをまとめた専門書も出版されている

3)

 そこで本稿では、先学の成果とこれらの資料を手がかりに、朝鮮王朝が明使・清使に対し行なった茶 礼の変遷を概略的に追ってみたい。

1 .朝鮮王朝の茶礼の起源

 先学の研究によると、古代朝鮮においては新羅に喫茶の資料が見られ、実物資料も数点が報告されて いる

4)

。だが国家儀礼の中に、喫茶の儀や茶礼が存在していたかどうかは不明である

5)

 高麗時代になると、国家儀礼に喫茶の場面が散見する

6)

。宋の国家儀礼には喫茶の行為は存在するが国 家の賓礼には見られず、遼や金の賓礼には喫茶が登場する。この賓礼における喫茶は、すべての外国使 臣に対し行なわれたわけではなく、遼では宋使に、金においては夏(西夏)使に対してのみ行なわれた。

淡交社、2000に紹介されている。

2) 茶文化研究に関する学会として韓国茶学会がある。同学会では1995年以降、『韓国茶学会誌』を年 2 回刊行している。

同誌には、人文・社会学から医学にわたるまで、茶に関する多くの論考が掲載されている。また茶文化に関する近 年の著書として、管見の限りではあるが、以下のものがある。

김운학『한국의 차문화』、이른아침、2004(キム・ウンハク『韓国の茶文化』、イルンアッチム、2004)。류건집『한 국차문화사』(上・下)、이른아침、2007(リュ・ゴンチプ『韓国茶文化史』上・下、イルンアッチム、2007)。정동 주『다관에 담긴한・중・일의 차 문화사』、한길사、2008(チョン・ドンジュ『茶缶に込められた韓・中・日の茶 文化史』、ハンギル社、2008)。최지영『조선왕궁과 사림의 다도』、민속원、2009(崔志英『朝鮮王宮と士林の茶 道』、民俗苑、2009)

3) 資料としては、ソウル大学校奎章閣(韓国学研究院)や韓国学中央研究院蔵書閣が所蔵する儀軌・礼典の影印本が ある。また茶礼に関する資料の訳と解説は茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編『朝鮮時代 宮中茶礼의 資料解説과 訳註』(民俗苑、2008)にまとめられており、韓国における茶文化研究論著目録も掲載されている。本 稿で扱う資料原文(翻刻)の多くは同書によっている。

 4) 韓国慶州の昌林寺・富山城では「茶淵院」銘の瓦片が、また慶州の雁鴨池からは「茶」の墨書が入った碗が見つか っている(国立慶州博物館『문자로 본 신라(文字から見た新羅)』、2002)。また近年、慶尚南道の昌寧にある火旺 山城の調査において、統一新羅期(676~935)の茶碾が見つかり、韓国ソウルにある国立中央博物館の統一新羅室 に展示されている。

5) 唐代の資料においても茶を下賜する記事は散見するが、『唐会要』には茶を飲む儀礼は見いだせず(金巴望、「賓儀 としての茶礼」『野村美術館研究紀要』 3 、野村文華財団、1994、16頁)、『大唐開元礼』などにも儀礼にかかわる喫 茶の記録は見られない。

6) 『高麗史』の礼志には、国家儀礼が五礼に分類されている。このうち喫茶の場面が見られるのは吉礼中祀(文宣王 廟)、凶礼(重刑奏対儀)、賓礼(迎北朝詔使儀、迎北朝起復告勅使儀、迎大明無詔勅使儀)、嘉礼(冊太后儀、冊王 妃儀、元子誕生賀儀、冊王太子儀、冊王子王姫儀、公主下嫁儀、元会儀、王太子節日受宮官賀并会儀、大観殿宴群 臣儀)、嘉礼雑儀(上元燃灯会儀、仲冬八関会儀)である。

(4)

国家儀礼における喫茶は、位置づけの高い外国使節への賓儀に組み込まれているようである。高麗の国 家賓礼における喫茶の行為は遼のものに類似するとされ、何らかの影響関係が想定される。しかしこれ らはいまだ茶礼として確立されるには至っていない。

 朝鮮が建国される数十年前、中国大陸では明が建国された。『明史』や『大明会典』の賓礼には外国使 臣に対する喫茶は登場しないが、国内の臣下との儀礼において「進茶」が存在した。清においては朝会 に喫茶の儀が登場するが

7)

、具体的な資料がないのは明と同様であり、国家儀礼における茶礼が重視され ていた痕跡も見いだせない。これらから考えると、現時点では、国家の賓礼における喫茶は、高麗から の伝統として、朝鮮に受け継がれたと考えても問題はなさそうである。

2 .明使に対する茶礼

 朝鮮においては、建国当初から明使に対する賓礼が行われていたようであるが、その式次に関する体 系的な記述は世宗(在位1418~1450年)の死後、その記録をまとめた『世宗実録』巻133、賓礼儀式に見 られ、その中に登場する茶礼は、既に先学によって紹介されている

8)

。この『世宗実録』の内容をもとに 編纂されたのが『国朝五礼儀』である。同書は国家儀礼を吉礼、嘉礼、賓礼、軍礼、凶礼の五礼に分類 し、その式次を細かに記したもので、1474(成宗 5 )年に完成した。成立年代は『世宗実録』が早いが、

礼典として後世の範となったのは『国朝五礼儀』である。そこで本稿では同書を起点とし、賓礼におけ る茶礼の変遷をみていきたい。

A.『国朝五礼儀』巻 5 、賓礼、宴朝廷使儀

【原文】

①其日、分礼賓寺設使者座於太平館正庁東壁西向〈烏漆交倚〉、掖庭署設殿下座於西壁東向〈朱漆交 倚〉、設香案於北壁、司甕院設酒亭於庁内近南北向、②殿下至館入便殿〈前一日、典設司設王世子次 於便殿門外之西、東向〉、③時至、左通礼俯伏跪啓外弁、殿下乗輿以出、繖扇侍衛如常儀、左右通礼 導殿下至中門外降輿、④使者出門、殿下揖譲、使者亦揖譲、使者入門而右、殿下入門而左、至正庁、

使者在東、殿下在西、揖使者、使者答揖、使者就座、殿下即座、⑤陳繖扇於庁外近西、諸護衛之官、

列立於座後 承旨於諸護衛之官前近南俯伏、史官在後、陳大仗於庭之東西、軍士列立於階上及庭之 東西、内外門竝如式、⑥司甕院提調一人奉茶瓶、一人奉茶鍾盤、倶入立於酒亭東〈奉鍾者在西〉、提 挙二人奉果盤、一人立於正使之右近北南向、一人立於副使之左近南北向〈使者雖多、副使以下果皆 在於左〉、提調奉果盤立於殿下之右近南北向、⑦提調以鍾受茶〈提調酌茶〉、跪進于殿下〈茶鍾将進、

殿下起座稍前立、使者起座亦稍前立、酒礼同〉、殿下執鍾、就正使前進茶、正使受鍾、権授通事、提 調又以鍾受茶、跪進于殿下、殿下執鍾、就副使前進茶、副使受鍾、殿下少退、⑧提調又以鍾受茶、

7) 『大清会典』卷20、礼部21、儀制清吏司、朝会 2 。「凡大朝之礼…、賜王公以下、文官三品武官二品以上、暨外国使 臣茶、受茶及坐飲、畢、皆行一叩礼」

8) 金巴望、前出論文(1994)。

(5)

立進于正使、正使執鍾、就殿下前進茶〈提調退従酒亭後、詣酒亭西北向跪、酒礼同〉、殿下執鍾、通 事以権授茶鍾、立進于正使、正使還執鍾、⑨使者就座、殿下即座、挙茶、訖、提挙各進使者前、立 受鍾、提調進殿下前、跪受鍾、倶復於茶盤以出、⑩初挙茶訖、提挙立進果于使者、提調跪進果于殿 下、訖、倶以盤出、⑪小頃、提挙二人分立于酒亭東西、提調以下列立於酒亭後、典楽帥歌者及琴瑟 入立於東西階下…(以下、酒礼に続く)

9)

(番号は篠原による。番号は日本語訳番号に対応)

【日本語訳】

 ① この日、分礼賓寺は、使者の座を太平館正庁の東壁に西向きに設ける〈烏漆交椅を用いる〉。掖庭 署では、殿下(朝鮮国王)の座を西壁に、東向きに設ける〈朱漆交椅を用いる〉。香案を北壁に設 ける。司甕院は、酒亭を正庁内の南の近くに、北向きに設ける。

 ② 殿下は太平館に至り、便殿に入る〈前日に、典設司は王世子の幕次を、便殿の門外の西側に、東 向きに設ける〉。

 ③ 時間になると、左通礼は俯伏したのち、跪いて上体をあげ、準備が整ったことを殿下に申し上げ る(啓)。殿下は輿に乗って出で、繖(傘)や扇による侍衛は通常の儀礼同様に行なう。左右通礼 は殿下を導いて中門の外まで行き、殿下は輿から降りる。

 ④ 使者は門を出で、殿下が揖譲(拱手して会釈し、譲る)し、使者は揖譲する。使者は門を入って 右(東)に、殿下は門を入って左(西)に行き、正庁に至る。使者は東におり、殿下は西で使者 に揖し、使者はこれに答えて揖す。使者が座に就くと、殿下は座に即く。

 ⑤ 繖・扇は正庁の外の西の近くにおかれ、護衛官らは座の背後にならんで立つ。承旨は護衛官らの 前、南の近くに俯伏し、史官はその後ろに就く。大仗を庭の東西にならべ、軍士は階上と庭の東 西にならんで立ち、内外の門はいずれも儀式通りに行なう。

 ⑥ 司甕院の提調は、一人が茶瓶を奉じ、一人は茶鍾(茶碗)盤を奉じ、倶に入って酒亭の東に立つ

〈奉鍾者が西にいる〉。提挙は、二人が果盤を奉じ、一人は正使の右、北の近くに南向きに立ち、

もう一人は副使の左、南の近くに北向きに立つ〈使者が多い時も、副使以下の果は、すべて左に ある〉。提調は果盤を奉じて殿下の右、南の近くに北向きに立つ。

 ⑦ 提調は鍾で茶を受け〈提調が茶をそそぐ〉、跪いて殿下に差し出す〈茶鍾を差し出す際、殿下は起 座してやや前に立ち、使者も起座してやや前に立つ、酒礼も同様である〉、殿下は鍾を執り、正使 の前に行って茶を差し出すと、正使は鍾を受け執り、一時的(権)に通事に授ける。提調はまた 鍾で茶を受けて跪いて殿下に差し出す。殿下は鍾を執って副使の前に行って茶を差し出し、副使 は鍾を受ける。殿下はやや退く。

 ⑧ 提調はまた鍾で茶を受け、立って正使に差し出すと、正使は鍾を執って殿下の前に行って茶を差 し出す〈提調は退き、酒亭の後ろから酒亭の西に行って北向きに跪く。酒礼も同様である〉。殿下 は鍾を執り、通事は一時的に授かった茶鍾を立って正使に差し出し、正使はこれを受け執る。

9) 法制処『国朝五礼儀』 2 (法制資料第120輯)、1981

(6)

 ⑨ 使者が座に就くと、殿下は座に即き、茶を挙(の)む。訖(おわ)ると、提挙はそれぞれ使者の 前に進んで立って鍾を受けとり、提調は殿下の前に進んで跪いて鍾を受けとり、これらを茶盤に 戻し、その場から下がる。

 ⑩ 最初の挙茶が訖ると、提挙は立って使者に果を進め、提調は跪いて殿下に果を進める。訖ると、

これらを盤に戻して出る。

 ⑪ しばらくして、提挙二人は酒亭の東西に分かれて立ち、提調以下は酒亭の後ろに並んで立ち、典 楽が歌者と琴瑟を連れて入り、東西の階下に立つ…

 宴朝廷使儀は「朝廷使」すなわち明の使者を迎える宴の式次を記したもので、その一部に挙茶の礼が 登場する。これは題目こそ記されていないが、「茶礼」として認識されていた

10)

。この儀礼が催された場 所は、明や清の使臣が漢陽において宿泊した太平館の正庁であった。儀礼を掌ったのは分礼賓寺、掖庭 署、司饔院などで、いずれも宮中宴にかかわる官庁である

11)

 まず高麗における儀礼と異なるのが主と賓の位置である。この賓礼においては賓が東に立ち、主が西 に立っているが、高麗においては賓が西、主が東と逆であった

12)

。ただ高麗末期の明使に対し行なわれた 賓礼(1392年)は賓東主西と変更されており

13)

、これは明が、周辺国(蕃国)において明の使者を受け入 れる際に定めた儀礼

14)

に倣ったものと考えられる

15)

。朝鮮が賓礼の変化に迅速に対応したことが分かる。

 この変更が、主と賓の地位や性格に変化を及ぼしたのかどうかは不明であるが、宴朝廷使儀における 両者の地位はどうであろうか。まず両者の座は、明使が烏漆交椅、朝鮮王は朱漆交椅であり、朱漆交椅 が上位である。また両者に茶菓を捧げる官僚は、朝鮮国王は提調(従一品もしくは正二品)、明使は司饔 院提挙(正三品もしくは従三品)である。このように、おおよそ主である朝鮮国王を上、賓である明使 を下に位置づけている。

 次に茶具の配置と動きを追ってみよう。使用されるのは茶瓶、茶鍾(茶碗)、茶鍾盤、果盤であり、こ

10) 朝鮮国王主催の宴朝廷使儀における酒礼の説明において「竝如茶礼」の語が見られ、『世宗実録』宴朝廷使儀にも同 じ語が見られる(「司饔提挙二人各奉果盤進使者前、提調奉果盤進殿下前、竝如茶礼…」。ちなみに茶礼の語は既に 太宗元(1401)年から見られるが(『太宗実録』巻 1 、元年 2 月14日癸卯。「上如太平館,与使臣行茶礼…」)、これ が賓礼の茶礼と同じであるかどうかは不明である。

11) 分礼賓寺は宮中宴に用いられる家畜などを管理する役所で、1466(世祖12)年に司畜署と改称されている。掖庭署 は王及び王族の命令の伝達や宮中行事の準備などを担当し、官吏は内侍(宦官)によって構成されていた。司饔院 は宮中の飲食料を管理していた役所である。

12) 『高麗史』卷65、志19、礼 7 、賓礼、迎北朝詔使儀。「使臣就殿門西、王出殿門東」。同、迎北朝起復告勅使儀。「王 東辺、使臣西辺坐定」

13) 『高麗史』卷65、志19、礼 7 、賓礼、迎大明賜労使儀。「凡行礼畢、王入殿西立東向、使臣東立西向」

14) 『大明会典』卷58、礼部16、蕃国迎詔儀 < 受印物儀附 >。「蕃王入殿西立東向、使者東立西向」

15) 金巴望、前出論文(1994)、20~22頁。なお式次においても、明の蕃国迎詔儀と以前の迎北朝詔使はかなり異なって おり、高麗が明の影響によって儀礼を全般的に改めたことが分かる。この時期における高麗-明間の儀礼の変化につ いては、桑野栄治「高麗末期の儀礼と国際環境」(『久留米大学文学部紀要(国際文化学科編第二十一号)』、2004)を 参照。

(7)

れらは提調と提挙によって差し出される。提調は 3 人(便宜上A、B、Cとする)が登場する。提調A は茶瓶を持ち、提調Bは茶鍾が乗せられた盤(盆)を持ち、提調AはBの茶鍾に茶を注ぎ、Bは茶鍾を 殿下に差し出す。この際、Bは茶鍾を王に手渡しするのではなく、盤に乗せられた茶鍾を朝鮮国王が手 で執るものと考えられる

16)

。朝鮮国王は提調Bから受け執った茶鍾を、明の正使と副使に手で渡している

(⑦)。そして明正使は提調Bから茶鍾を受け執って朝鮮国王に手で渡す。朝鮮国王と明使が、茶鍾を互 いに手で渡すことによって親睦と誠意を表現しているのであろう。このように考えると、提調Bが奉じ る茶鍾盤には、国王、正使、副使に渡される茶鍾(都合 3 客)が乗せられていたものと思われる。

 提調Cは、果盤を持ち、果を朝鮮国王に差し出す役割を担っている(⑩)。この「果」はおそらく皿に 盛りつけられていたと思われるが、ここで言う果盤は、上記の茶鍾盤の例を考えると、果の盛りつけ皿 ではなくそれらを乗せた盆のようなもの(図 1 )であろう

17)

図 1

 一方提挙は 2 人(A、Bとする)が登場し、それぞれ明の正使、副使に果を差し出し、また正使・副 使が茶を飲み終えた後、その茶碗を受け執る役割を担っている。

 提調と提挙の行動にも差が見られる。提調は朝鮮国王に茶鍾を差し出し、その後これを受け執るが、

王に対して常に跪いて行動する。一方提挙は立ったまま明使に果を差し出し、茶礼を終えた後、やはり 立ったまま両使から茶鍾を受け取る。このように茶礼において、朝鮮国王と明使にはいくつかの差がつ けられていたが、互いに茶鍾を手で差し出すなど、対等の立場で相手への誠意を示す行為も見られる。

 明使に対する茶礼は、朝鮮国王だけでなく、朝鮮王世子を主としても催された。その内容は『国朝五 礼儀』王世子宴朝廷使儀に記されている。

B.『国朝五礼儀』巻 5 、賓礼、王世子宴朝廷使儀

16) 提調が 3 人(正使、副使、朝鮮国王)の茶鍾をすべて手に持ったまま、 1 客ずつ朝鮮国王に渡すのは不可能である。

あるいは茶鍾が別の場所に置かれており、提調Bが正使の茶鍾を朝鮮国王に渡してから副使の茶鍾を取りに行き、戻 ってきてから提調Aに茶を注いでもらい、朝鮮国王に渡すことも不可能ではないが、置かれていた場所やその手続 への言及がない。本稿では一応、茶鍾盤に乗せられていたものと考えておく。

17) 図は『己丑進饌儀軌』(1829年、純祖29年)。同書においては、台脚や高台の付いた盆のようなものを盤としている。

(8)

其日、分礼賓寺設使者座於太平館正庁東壁西向、掖庭署設王世子座於西壁近南東向〈倶烏漆交倚〉、

設香案於北壁、司饔院設酒卓於庁内近南北向、王世子至館入次〈前一日典設司設次於大門外近西東 向〉、時至、弼善跪白外備王世子出次、侍衛如常、弼善引王世子就見使者倶至正庁、使者在東西向 立、王世子就前揖、使者答揖、使者就座、王世子就座、陳繖扇於庁外近西、侍従官〈翊衛二人佩剣 司禦二人佩弓矢〉列立於座後輔徳以下於侍従官之前近南、跪司辟列立於階上東西、司饔院副提調一 人捧茶甁、一人捧茶鍾盤、倶入立於酒卓東〈捧鍾者在西〉、提検二人捧果盤、一人立於正使之右近北 南向、一人立於副使之左近南北向〈使者雖多副使以下果盤皆在於左〉、司饔院副提調捧果盤立於王世 子之右近南北向、副提調以鍾受茶〈副提調酌茶〉跪進于王世子〈茶鍾将進王世子起座使者亦起座酒 礼同〉、王世子執鍾、就正使前進茶、正使受鍾権授、通事副提調又以鍾受茶、跪進于王世子、王世子 執鍾就副使前進茶、副使受鍾、王世子少退、副提調又以鍾受茶立進于正使、正使執鍾、就王世子前 進茶〈副提調退従酒卓後、詣酒亭西北向跪、酒礼同〉王世子執鍾、通事以権授茶鍾、立進于正使、

正使還執鍾、使者就座、王世子就座挙茶、訖、提検各進使者前立受鍾、副提調進王世子前跪受鍾、

倶復於茶盤以出、初挙茶訖、提検立進果于使者、副提調跪進果于王世子、訖、倶以盤出、少頃、提 倹二人分立于酒卓東西、副提調以下列立于酒卓後、典楽帥歌者及琴瑟分東西陞坐階上(以下、酒礼 に続く)

18)

 式次は国王主催のものと大差ないが、用語や担当の官に差が見ら れる。まず座は王世子、明使共に「烏漆交倚」と対等である。儀式 を執り行なう官僚は、王世子に対する副提調(正三品)、明使に対す る提検(正・従四品)が登場し、王世子が上とされている。国王主 催の茶礼では提挙(正・従三品)が明使を担当しており、賓の担当 官は固定的ではなく、主の担当官より下げられることが基準になっ ている。両者による茶鍾の手渡しや、担当官が王世子に対し跪き、

使者に対して立って行動する点は、国王主催時と同様である。

 一方、朝廷使を迎える儀は、宗親の主催でも行なわれたが、ここ には茶礼が存在せず酒礼のみであった

19)

。茶礼の主催者が国王と王世 子のみである点を重視し、茶礼には特権的な意味があるとする見方

20)

もある。高麗の例をみても、喫茶は位置づけの高い相手国に対する 儀礼にのみ登場しており、その特殊性は認められる。だが考慮すべ きは、これらの茶礼が、いずれも酒亭(酒卓、図 2 )

21)

を設けた場所 で行なわれている点である。この宴朝廷使儀においては、主催者を

18) 法制処、前出書

19) この際、酒礼の執事官は、宗親・正使・副使のいずれに対しても立って行動する。

20) 金巴望、前出論文(1994)、15頁

21) 酒亭とは酒器を乗せるために設けられた卓。図は『世宗実録』巻132、五礼、嘉礼序例、尊爵 図 2

(9)

問わず、引き続き酒礼が催されており、この茶礼は酒礼に先立って催されるものであった。宴の中心と なるのはあくまで酒礼であり、茶礼はいわば酒礼を引き立てるための役割である。

 そのように考えると、茶礼の有無が儀礼の格を高めているのではなく、酒礼の格(時間や華麗さ)を 高める要素の一つとして茶礼が存在していると考えるべきではなかろうか。これについては茶礼の変遷 を見た後、あらためて考えてみたい。

C.『迎接都監都庁儀軌』迎勅書礼畢後仁政殿茶礼儀

礼賓寺設天使座於仁政殿東壁西向、掖庭署設殿下座於西壁東向、設香案於北壁、設天使次於仁政殿 東階上西向、殿下次於西階上東向、時至、殿下出次、承旨導殿下、就西階上、引礼引天使出次、就 東階上、殿下相揖譲、陞殿、天使在東西向立、殿下在西東向立、請行再拝礼、倶就拝位〈各設褥席〉、

殿下与天使行再拝礼、天使就座、殿下就座〈各撤褥席〉、司饔院提調一人捧茶瓶、一人員

22)

捧茶鐘 盤、倶入立於殿内〈捧鍾者在西〉、提挙捧果盤、立於正使之右近北南向、提調捧果盤進

23)

 『迎接都監都庁儀軌』は1634(仁祖12)年、朝鮮の昭顕世子の冊封のため訪れた明使の迎接に対し、迎 接都監が作成した儀軌である

24)

 題目が茶礼儀となっている。前述の如く、『国朝五礼儀』の茶礼とはあくまで酒礼の一部であった。仁 政殿茶礼儀は後述部が途切れておりこれ以上の内容確認は困難であるが、ことさら茶礼の題目が立てら れたのは、酒礼とは別個の儀礼として催されたか、もしくは茶礼の式次に特筆すべき内容や変更があっ たかのいずれかと考えられる。前者であれば、ここに設けられた亭は「酒亭」ではなく「茶亭」であっ た可能性がある。

 新たな要素としては、明使が「天使」と表現され、茶礼の場所が朝鮮 国王の正庁である昌徳宮仁政殿であること、国王を先導する官が通礼か ら承旨に変わっていること、などが挙げられる。大きな変化に拝礼があ る。拝礼時には、国王と明使の立ち位置に褥席(大きめの絨毯のような もの、図 3

25)

)が敷かれ、両者が拝礼を終えると褥席が取り除かれる。わ ざわざ褥席を敷くのは、それが立礼ではなく、膝を地につける跪拝であ るためであろう。跪拝は勅使の出迎えや勅書を授かる際、国王をはじめ とする朝鮮側参列者が行なうもので、茶礼の式次としては特殊だと言え よう。茶礼儀が特に記録された理由の一つかもしれない。

 提調は、茶瓶を持つ者 1 人、茶鍾盤を持つ者 1 人が登場する。資料A

22) 「員」は衍字と思われる。

23) 奎章閣図書番号14559。茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編(前出書)、122頁

24) 儀軌とは朝鮮時代、国家の重要な行事に際し、その一部始終を文章や絵図で記録してまとめた書物。2007年にユネ スコの世界記録遺産に登録された。

25) 図は『義王英王冊封儀軌』(1900)

図 3

(10)

と同様、朝鮮国王が茶鍾を手で渡していた可能性が高い

26)

。一方提挙は果盤を捧じて正使の右に立つとあ るが、その人数は明記されていない。この句に続く「提調捧果盤進」とは朝鮮国王に対する行為である から、果盤を捧じる提挙は正使に対する 1 人のみであったことになる。この時の明使は、正使のみであ ったのであろう。

 これまで見てきた明使に対する朝鮮の茶礼は、次のようにまとめられる。

  1 .茶礼における朝鮮国王と明使の地位は、朝鮮(主)が上、明使(賓)が下であったこと。

  2 .茶を飲む者が、相手に直接手で渡す行為が存在したこと。

  3 .茶亭の独立した茶礼の確立はいまだ確認できないこと。

 以上の点に留意しつつ、次章では清使に対する茶礼をみていきたい。

3 .清使に対する茶礼

 女真族は1616年に後金を建国し、1636年には太宗が皇帝を称して国号を清と改めた。清は朝鮮に対し 臣従を要求したが、朝鮮がこれを拒絶すると、12万の大軍を率いて朝鮮に侵入した。朝鮮は抵抗したが 最後には降伏し、当時の朝鮮王、仁祖が清皇帝に対し「三跪九叩頭」の臣礼をとった。朝鮮は翌年、清 の正朔を奉じ、聖節・冬至に朝貢使を派遣することを約し、また明との国交断絶を宣言し、明から受け た誥命・册印を献上した

27)

。これによって朝鮮は形式上、清の藩国に位置づけられた。

 これまで女真族を夷狄とみなし蔑視してきた朝鮮にとって、清との君臣関係はこのうえない屈辱であ った。一方清は1644年10月、明の都北京を陥落させ、ここに明朝は滅亡した。だが朝鮮の知識人らは、

この中原支配が一時的なものだと認識していた。そんな中、朝鮮内では崇明意識が高まり、明の理念的 な継承者が朝鮮であるという「小(朝鮮)中華意識」が台頭していった

28)

 清使に対する茶礼の具体的な式次は、18世紀後半の資料に見られる。

D.『勅使茶礼儀』下馬茶礼儀〈凡茶礼同〉

其日、礼賓寺設勅使座於南別宮正庁東壁西向、掖庭署設国王座於西壁東向、設香案於北壁、司饔院 設茶亭於庁内近南北向、国王至南別宮入幄次、勅使将至、左通礼啓請出次、国王出次、承旨導国王 以入、与勅使倶至正庁、勅使在東西向立、国王在西東向立、与正使行再拝礼、正使答再拝、与副使 行再拝礼、副使答再拝、勅使就座、国王就座、司饔院提調一人捧茶瓶、三人捧茶鍾盤、倶入立於茶

26) 清使に対する茶礼においては、茶鍾の担当官が国王と勅使の人数分登場する( 3 章を参照)が、資料Cには茶鍾盤 を持つ提調が 1 人しか登場していない。従ってここでは資料Aと同じ式次と考えられる。

27) 明との完全な国交断絶は、北京が陥落した1644年以降であった。また実録によると、仁祖は国宝を献上したが、玉 册は李适の乱の際に、誥命は丙子胡乱の際逸失したため献上しなかったという(金文植『朝鮮後期知識人의 対外認 識』、새문사、2009、21頁および35頁)。

28) 経緯に関する概容は、武田幸男『朝鮮史』(山川出版社、2000)、金文植(前出書)を参照されたい。

(11)

亭東〈捧鍾者在西〉、提調二人各捧果盤、一人立於正使之右近北南向、一人立於副使之左近南北向、

提調捧果盤立於国王之右近南北向、提調以鍾受茶〈提調酌茶〉、跪進于正使前、正使受鍾、提調又以 鍾受茶、跪進于副使前、副使受鍾、提調以鍾受茶、跪進于国王前、国王執鍾挙茶、訖、提調各進勅 使前跪受鍾、提調進国王前、跪受鍾、倶復茶盤以出、初挙茶訖、提調各跪進果于勅使前、提調跪進 果于国王前、竝如上儀、訖、倶以盤出、茶礼畢、国王与勅使揖出、高麗国王優待清使、着照該国所 擬、欽此、下軍機処飭礼部備案可也

乾隆四十二年五月初二日、欽此

29)

 下馬宴とは、当時においては清の勅使が都漢陽に到着した当日に、王が主催する宴を言う。茶礼の式 次の流れは『国朝五礼儀』のものがほぼ踏襲された形であるが、細部において変化が見られる。

 まず興味深いのは末尾にある「高麗国王優待清使、着照該国所擬、欽此。下軍機処飭礼部備案可也、

乾隆四十二年五月初二日、欽此」という句である。「欽此」とは清皇帝の言葉の末尾につく句であり、同 文が皇帝の命令であることが分かる。また軍機処は当時の清における軍最高機関(1729年[雍正七年]

設置)、礼部は清の六部の一つで、礼制にかかわる様々な内容を司った官庁である。ゆえに後半部の「下 軍機処、飭礼部備案可也」は「軍機処に下し、礼部に飭して備案させよ」という清皇帝の命令になろう。

 次に前半部の「高麗国王優待清使、着照該国所擬」であるが、高麗は朝鮮を、該国は朝鮮を指してい るから、「(上述の茶礼の内容を見るに)朝鮮国王は清使を優待している。朝鮮国の擬するところに着照 せよ(従え)」と訳せよう。茶礼の内容は朝鮮固有のものであるから、茶礼の式次が朝鮮側から提出され た内容であることは明らかである。これらを総合すると、この句は「(上述の茶礼の内容から)朝鮮国王 が清使を優待していることが理解できるゆえ、これに従え。軍機処は礼部にその内容を備案(記録・保 管)させよ」となる。

 つまりこの「乾隆四十二年」(1777年)とは、厳密に言えば文書の作成日時であって茶礼の年代ではな い。では上述の内容は、いつ催された茶礼に基づくものであろうか。承政院日記や実録によると、勅使 が漢陽に到着した当日に行なわれた茶礼の記事は1777年 3 月

30)

と1776年11月

31)

に見られる。これらはい ずれも慶熙宮の中で催されたようである

32)

。一方「下馬宴茶礼儀」には茶礼の場所が別南宮とあり、これ が慶熙宮内の建物を指すのかどうかは定かではない。

 ただ記録・報告されるべき重要性からすれば、それは正祖の即位年であり清からの冊封、勅使の弔問 が行なわれた1776年の茶礼にこそあると言えよう。承政院日記の記録も1776年の茶礼がより詳細であり、

29) 奎章閣所蔵番号「想白古394.4- c435」。茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編(前出書)、154頁。なお同 書の翻刻では下線部を「夏軍機処」・「欽批」としている。資料原本が確認できないため不安は残るが、いずれも「下 軍機処」・「欽此」の誤りと判断されるため、修正した。

30) 正祖元年 3 月 7 日癸酉。「上命進茶、上曰、饌品雖甚簿略、加意下箸、是所望也、勅使曰、敢不加意善喫乎」

31) 正祖即位年10月27日乙丑。「上命進茶、司饔提調捧茶鍾進于上前、加出提調捧茶鍾進于勅使前、上執鍾挙示、勅使亦 挙示、上曰、此是蔘茶、日寒如此、尽飮好矣、勅使曰、国王如是費心、敢不多飮、茶訖、進果盤、上曰、饌品雖甚 薄劣、加意下箸、望也、勅使曰、饌品極好、当加意善喫矣」

32) 清使らはいずれも茶礼が終了した後、崇政門(慶煕宮の正門)を出て宿舎に戻っている。

(12)

これを裏づける。従って資料Dの内容は1776年の茶礼に基づいていると 見て良いのではないだろうか。この時の内容を朝鮮側がまとめたものを 清使が持ち帰り、翌年皇帝の確認を経て記録されるに至ったのであろ う

33)

 では具体的に式次を見ていこう。内容面における新たな特徴として茶 亭

34)

の登場が挙げられる。先に資料Cにおいて茶亭なるものの存在を想 定したが、ここで茶亭の存在が確かなものとなった。これは茶礼が酒礼 から分離・独立したことを意味するものであろう。これを理由に、朝鮮 時代後期において勅使の宿所における茶礼が重視されたとする意見

35)

も ある。

 次に、以前の茶礼と異なり、式次のすべてが提調によって執り行なわ れ、さらに提調が清使に対し跪いて行動している。前述の「迎勅書礼畢 後仁政殿茶礼儀」(1634年)において天使(明使)の担当官が提挙であっ

たことを考慮すれば、提調への変化は清代以降である可能性が高い。明使の担当は提挙であり、しかも 立ったままで行動していた。担当官の変化のみで考えれば清使の地位は朝鮮国王と対等であり、明使よ り優遇されているとも言えるが、他の内容をみると、そうとは言いきれない。

 その手がかりは提調の増員にある。『国朝五礼儀』宴朝廷使儀では提調 3 人、提挙 2 人の計 5 人であっ たが、下馬茶礼儀では提調のみの計 7 人と 2 人が増員されており、これは茶鍾盤を捧げる提調が従来の 1 人から 3 人に増えたものである。提調が国王、正使、副使に茶を差し出していることからみて、提調 3 人がそれぞれ国王、正使、副使の茶鍾盤を持ち、直接差し出したと考えてよかろう。

 これはつまるところ、朝鮮国王が茶鍾を正使・副使に手で渡し、また正使が茶鍾を朝鮮国王に手で渡 すという『国朝五礼儀』以来の手続がなくなったことを意味する。またそれに伴い、通事が正使から一 時的に茶鍾を受け執る行為も不要となった。勅使に茶鍾を渡す主体は国王から提調に格下げされ、互い の親睦や誠意の意味も薄まっている。このように考えると、朝鮮国王と清使との関係はより疎遠になっ たとみるべきであり、清使への礼節は、必ずしも明使より向上したとは言い難い。

 国王による茶鍾の手渡しがなくなった正確な時期は、管見の限りでは見いだせなかったが、その淵源 を窺わせるのが次の内容である。

E.金尚憲啓曰、金差招見儀註内、司饔院提調以鍾受茶、跪進殿下執鍾云、隣国使臣賜茶之礼、不

33) 資料原本を確認していないため詳細は不明であるが、この内容は清からもたらされた文書の写しを転載したもので はないだろうか。

34) 茶亭の語は高麗から登場する。高麗の茶亭については「喫茶のための建物もしくは庭園」と理解されている(金巴 望「高麗・李朝の喫茶文化と歴史」『東洋の茶』(茶道学大系第七巻)、淡交社、2000、191~194頁)が、朝鮮時代の 国家儀礼に登場する茶亭は、茶礼用の什器を置くための卓(図 4 )。

35) 申明鎬「조선시대 접빈다례의 자료와 특징」(茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編、前出書、25頁)

図 4

(13)

宜竝進茶鍾于殿下、此雖前日已行之事、必是謬例…、伝曰、知道、此事已成前例、不必更議

36)

 同文は、金尚憲が、このたびの金差(後金の使節)に対する茶礼において、「不宜竝進茶鍾于殿下」(宜 しく殿下に茶鍾を竝進すべからず)ことを国王に求めた啓(上奏文)である。その理由は「隣国使臣賜 茶之礼」つまり朝鮮国は「隣国」たる後金の使節に対し茶礼を施す立場にあるため、上記の行為は上位 の国としてふさわしくない、というものである。

 ならば金尚憲が取り止めを求めた「竝進茶鍾于殿下」とは、具体的にどのような行為だったのであろ うか。まず金尚憲の啓において引用された「司饔院提調以鍾受茶、跪進殿下執鍾云」は、後金使の接見 時に催した茶礼の記録とその註(金差招見儀註)であった。同文は『国朝五礼儀』宴朝廷使儀の「提調 以鍾受茶〈提調酌茶〉、跪進于殿下〈茶鍾将進、殿下起座稍前立、使者起座亦稍前立、酒礼同〉、殿下執 鍾」に内容が似ており、国王の手渡しといった式次も想定されるが、そもそも宴朝廷使はいわゆる宗主 国の使節であり、朝鮮が後金使をこれと同等に扱うとは考えられない。よって宴朝廷使の式次とは異な るものとみてよいであろう。

 問題は「竝進」の解釈である。まず「進」は、その相手が殿下(朝鮮国王)であるから、茶礼の担当 官(恐らくは提調)が国王に茶鍾を差し出す行為だと考えられる。そして「竝」とは「進」を同時もし くは同様に行なうことであろうから、前出の「下馬茶礼儀」の如く、担当官(提調や提挙)が国王と後 金使に同時に茶鍾を差し出す行為だと考えるべきであろう。担当官とその行動に関する記録は史料に見 られないが、明使の担当が提挙であり、しかも立って行動していた点を考慮すれば、担当は提挙以下で、

立ったまま茶鍾を差し出したと考えてよいのではないだろうか。いずれにせよ、担当官が国王と外国使 節に茶鍾を差し出すという「下馬茶礼儀」の式次は、当時の「隣国」に対する茶礼としてふさわしくな かったことが、同史料から読み取れるのである。

 ちなみに『国朝五礼儀』によると、隣国使者に対する国王主催の宴や茶礼は存在せず、書弊が献上さ れる際の朝見の儀のみが存在する

37)

。この点からも後金使への茶礼が特別な措置であったことが分かる が、この臣下の建義に対し、当時の朝鮮国王、仁祖は「此事已成前例、不必更議」つまり「既に前例と なったのでこれ以上の議論は不要である」と答えた。つまり後金使は隣国であるが、隣国よりも格の高 い「竝進茶鍾于殿下」で遇して良いとしたのである。その具体的な位置づけは不明だが、おおよそ隣国 以上、朝廷使(明使、勅使)以下となるだろう。

 このように「下馬茶礼儀」式次の淵源は、清成立以前の後金使に対する茶礼にあった。前述のように 朝鮮は1637年、清の藩国とされたわけであるから、朝鮮側も礼節上、明使に対する式次を清使に適用す るのが道理だと認識していたはずである。だが朝鮮は少なくとも茶礼においては後金時代の式次を以て 清使に接したのである。

 これは、後金が清となり朝鮮が清の藩国として位置づけられても、明使と同等には扱わないという朝 鮮側の主張に思われる。その根底には、女真族の蔑視、崇明排清の思想があったのはないだろうか。

36) 『承政院日記』仁祖 7 年(1629) 2 月25日申亥

37) 『国朝五礼儀』巻 5 、賓礼、受隣国書弊儀〈隣国如日本琉球国之類〉

(14)

F.『同文彙考補編』巻10、迎勅儀節、正殿接見茶礼及宴礼儀

掖庭署撤闕廷及案、設両使位於殿内、在東西向北上、殿下座於殿相在西東向、引礼引勅使、由東正 門入就殿内拝席頭、西向立、承旨導殿下、由西正門入就殿拝席頭、東向立、行再拝礼〈御前通事請 行再拝、勅使即行揖礼、則殿下相揖〉、先問皇帝気候〈勅使答曰云云〉、勅使就座、殿下就座〈皆用 朱漆交椅〉、又問諸王貝勒安否〈勅使答曰云云〉、又問僉大人遠路駆馳〈此外説話、臨時酬酌〉、請行 茶礼〈工人及歌者舞童、陞陛上、楽作、陞訖、楽止〉、司饔院設茶亭於殿内、近南北向、提調一員奉 茶瓶〈茶則蔘茶、瓶則銀瓶〉、副提調一員及提挙〈加設提調〉二員、捧茶鐘盤、具

38)

入立於茶亭前

〈捧瓶者在東、捧鍾者在西〉、提挙一員捧果盤、立於正使之右、一員捧果盤、立於副使之左、提調一 員捧果盤、立於殿下之右〈倶近南北向〉、楽作、提挙二員各進勅使揮巾、提調進殿下揮巾、捧鍾者三 員、各以鍾受茶、一時跪進、二員跪進于両使、一員跪進于殿下前、殿下挙茶、勅使挙茶、訖、提調 及提挙、各跪受鍾、復盤以出、捧果盤者、竝跪進両使、又跪進殿下前、殿下挙筯、勅使挙筯、訖、

倶以盤出、退揮巾、楽止、茶礼畢〈若只行茶礼、則殿下与両使相揖而罷〉、司饔院先設大卓於殿内北 壁…又設酒亭於殿内、近南北向

39)

 『同文彙考』は1784 (正祖 8 )年、鄭昌順らが王命を受け、承文院に保管されていた外交文書などを集 め、 4 年後に完成した。1643年以降の事実が記されており、内容は1881年まで補完された。同書所載の

「正殿接見茶礼及宴礼儀」には年代が明示されていないが、『承政院日記』の記事との整合性からみて、

1784年12月 3 日の清使に対する茶礼の式次とほぼ合致する

40)

 皇帝・諸侯(貝勒)の安否と使節に対する慰労の挨拶、勅使と国王の座が朱漆交椅と対等である点、

茶種と茶具の具体的な記述などは新たな情報であるが、『承政院日記』の記事によると、茶礼は「請行茶 礼」によって始まるのであり、厳密には安否や慰労の挨拶は茶礼ではない

41)

。また茶礼における朝鮮人蔘 茶や銀製瓶(図 5

42)

)の使用も以前から見られ

43)

、主賓の座(朱漆交椅)

44)

、揮巾(膝の上に広げる布)の

38) 「具」は「倶」と同義。

39) 茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編(前出書)、76頁。なお同書には記されていないが、『同文彙考』に は原編、別編、補編、附編があり、迎勅儀節は補編の巻十に収録されている。

40) 『承政院日記』正祖 8 年12月 3 日甲申。「仍還宮、至仁政門外…接見時至、引礼引勅使、入就殿内拝席頭西向立、承 旨導上由西正門、入就殿内拝席頭東向立…上曰、皇上気候、若何…上曰、諸王貝勒安否、何如、上曰、僉大人冒寒 駆馳、労苦必多、気力、何如、請行茶礼、勅使曰、謹聞命矣、仍行茶礼、工人及歌者 · 舞童、陞階楽作、司饔提調捧 茶鍾、進于上前、提挙二人、捧茶鍾進于勅使前、上執鍾挙示、勅使亦挙示、上曰、此是蔘茶、日寒如此、尽飮、何 如…、仍命行宴礼、司饔院先設大卓於殿内北壁、又設阿架床、酒亭提調二員、分立於酒亭東西…」

41) 『承政院日記』には、こうした挨拶が17世紀から見られる。

42) 『己丑進饌儀軌』(1829)。図の名称は銀製缶であるが、銀製瓶と同じものを指すと思われる。

43) 『承政院日記』仁祖17(1639)年11月21日。「朴守弘、以迎接都監言啓曰、自前勅使時、親臨宴礼、則用銀瓶 · 銀茶匙

· 銀大也 · 人蔘茶、而宰枢代行之代、則不用銀器与人蔘茶、代用鍮沙器与雀舌茶矣、今則自上違予、雖不得親臨接待、

諸具似不当減殺、以致彼人之落莫、依親臨時例、蔘茶 · 銀器、行用、何如、伝曰、依允」。また茶礼に用いられる茶 は人蔘茶のほか、生薑茶、松節茶などがあった。同記事のように、人蔘茶は銀器と倶に国王の勅使接見時に用いら れた(申明鎬、前出書、35頁)。

44) 奎章閣所蔵『勅使時各項儀註謄録』(礼曹編、粛宗 5 - 7 年作成、請求記号12906-1)「崇政殿接見勅使儀」によると、

(15)

使用も同様である

45)

 清使を担当する官は、茶鍾、果盤、揮巾のいずれも提挙であり、資料 Dのように全員が提調ではなかった。これが事実であれば、前回より清 使の扱いが下がったことにもなる。ただ気になるのは、茶鍾の担当官に 付された「提挙〈加設提調〉二員」という註記である。提挙を提調に仕 立て、茶礼を執り行なわせたわけであるが、こうした臨時の提調は、承 政院日記や実録に「仮提調」「加出提調」の名称でしばしば登場してい る。清使の担当官が提挙ではなく提調でなければならなかったためであ ろうが、それが清側の要求であるのか、朝鮮側の配慮なのかは不明であ る。その後の茶礼においても提調・提挙の表記はまちまちであるが

46)

、担 当官の変化の理由が不明瞭であり、清使への対応がその時々で変化する というのも理解し難い。だとすれば、少なくとも清使に対する茶礼に登 場する提挙は、提調として(仮提調となって)茶礼に携わっていた可能 性がある

47)

 楽舞は、管見の限りで言えば、茶礼の式次に登場する最初の例と思わ れる。従来の楽舞は、茶礼に引き続いて催される酒礼の中で行なわれる のが常であった。楽舞は茶礼の華やかさをより引き立てるものであり、

酒礼の要素が茶礼に付与されたものと見てよかろう。

 ではこうした茶礼の変化の背景はどこにあるのであろうか。同資料の 末尾によると、茶礼の式次に引き続き、大卓を殿内北壁に設け、殿内の

南近くに酒亭を北向きに設けるとある。ただ註に「茶礼のみを行なう場合は、殿下と両使が揖して終え る(若只行茶礼、則殿下与両使相揖而罷)」とあり、酒礼を催さない場合が想定されている。これは資料 Dの茶礼同様、茶礼と酒礼が儀礼として分離し得ることを意味するものであるが、酒礼の前座としての 性格がなくなったわけではない

48)

庚申(1680)年の時点で朝鮮国王と清使の両方に朱漆交倚が用いられている。崇政殿接見勅使儀〈庚申閏八月十八 日 勅使詣闕、其日政院因伝教崇政門内小次減去、殿下自幄次出至西階下、迎勅使一款付標以入〉。「其日、掖庭署設、

殿下幄次於殿外之西東向、攸司設勅使次於殿外之東西向、設勅使座於殿内在東西向、掖庭署設殿下座於殿内在西東 向〈竝朱漆交倚〉、司饔院設酒亭於殿外近北北向…、行茶礼〈仍行酒礼則行礼竝如親臨宴儀〉、訖、勅使起座、殿下 起座…」。翻刻は奎章閣ウェブサイト(http://kyujanggak.snu.ac.kr/)から引用した。

45) 茶礼で使用される揮巾の礼は、英祖代に見られる。『日省録』正祖10(1786)年丙午、閏 7 月29日庚子。「礼曹判書 李在簡啓言、勅行茶礼時御床所用、依己酉年例、以黒漆床卓青色揮巾進排之意、請分付各該司、従之」。同文に見え る己酉年は1729(英祖 5 )年である。

46) 承政院日記によると、純祖 3 (1803)年閏 2 月27日の茶礼には提調と提挙が登場し、純祖 5 (1805)年閏 6 月 4 日 は提調のみ、高宗 3 (1866)年 9 月24日の茶礼は提調と仮提調が登場している。

47) 表記が異なるのは、記述官の判断によるものではないだろうか。

48) 1784年12月 3 日の茶礼においては引き続き宴が催されているが、「必欲親設一席、即此殿宇、許開小宴、以伸区区之 情悃望也、勅使曰、此已過矣、何用更設、日晏且寒、速帰館所則幸矣、上又請之、勅使曰、謹当遵命矣…、仍命行

図 5

(16)

 題目からも分かるように、資料Fの儀は「茶礼」と「宴礼」とに分けられており、宴礼では酒が振る 舞われ、楽舞が催された。このように酒礼は宴と同一視されても、茶礼には宴としての位置づけはない。

だが清使に対する下馬宴は、茶礼のみで済まされることがしばしばあり、また時に何も行なわれないこ ともあった

49)

 こうした点を考慮すると、茶礼の独立とは、儀礼の簡素化や酒礼の省略に伴い茶礼のみを行なうこと が慣例となり、茶礼が独立した儀礼としてまとめられるようになった、と理解すべきように思われる。

またそこに楽舞が加わるのは、こうした茶礼の独立を受け、茶礼に宴としての体裁を持たせ、茶礼のみ で以て礼節を尽くそうという、朝鮮側の配慮ではないだろうか。

G.『儀註謄録続』

50)

①便殿接見時茶礼儀

其日、司饔院設茶亭於殿内近南北向〈隧地之宜〉、提調一人捧茶瓶、三人捧茶鐘盤、具

51)

入立於茶 亭東〈捧鐘者在西〉、提調二人各捧果盤、立於両使之左右相向、提調一人、捧果盤、立於殿下之右 北向、楽作、提調二人各進両使揮巾、提調進殿下揮巾、捧鐘者三人、各以鐘受茶、一時跪進、二 人跪進于両使前、一人跪進于殿下前、殿下執鐘挙示、両使亦挙示茶、訖、提調各進両使前、跪受 鐘、提調進殿下前、跪受鐘、倶復茶盤以出、初挙茶訖、提調各跪進果于両使前、提調跪進于殿下 前、殿下挙筯、両使挙筯、訖、倶以盤出、退揮巾、訖、楽止、両使起座、殿下起座、与両使揖出

52)

②便殿接見欽差使臣儀(高宗19[1882]年 7 月24日)

其日、掖庭署設欽差使臣座於東壁西向〈朱漆交椅〉、設殿下座於西壁東向〈黒漆交椅〉、前一刻、

近侍及諸護衛之官、各服其服、倶詣閤外伺候、欽差使臣至協陽門外、下轎入次、殿下具翼善冠白 布団領烏犀帯黒皮靴、以出、陞座、承旨史官及諸護衛之官、入侍如常、接見時至、承旨進当座前、

跪啓請接見、殿下降座、承旨前導、出就西楹外東向立、引儀引欽差使臣、入至東楹外、殿下与欽 差使臣、揖譲以入、至殿内、欽差使臣在東、西向立、殿下在西、東向立、行揖礼、畢、欽差使臣 就座、殿下就座、行茶礼、訖、欽差使臣起座、殿下起座、殿下与欽差使臣、揖送、至楹外、欽差 使臣出門入次、承旨導殿下、還内、近侍以下乃退

③便殿接見丁提督儀(高宗19[1882]年 8 月 7 日)

其日、掖庭署設提督座於東壁西向〈朱漆交椅〉、設殿下座於西壁東向〈朱漆交椅〉、前一刻、近侍 及諸護衛之官、各服其服、倶詣閤外伺候、提督至協陽門外、下轎入次、殿下具翼善冠昆龍袍、以 出、陞座、承旨史官及諸護衛之官、入侍如常、接見時至、承旨進当座前、跪啓請接見、殿下降座、

宴礼」と国王が清使に開宴の是非を問うた後に開催されている。

49) ここでは1657年の記事を挙げておく。『承政院日記』孝宗 8 年(1657) 3 月28日辛未。「上入仁政殿庭西幕次、勅書 祗迎後、移御仁政殿階西幕次…、因設茶礼罷後、勅使還館、上入大内」。その後も清使の漢城到着日に茶礼のみ行な われた例はいくつかあるが、長旅の疲れから清使が宴を断る例がしばしば見られる。

50) 蔵書閣図書分類 2 -2136 51) 「倶」と同義。

52) 茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編(前出書)、125頁

(17)

承旨前導、出就西楹外東向立、引儀引提督、入至東楹外、殿下与提督、揖譲以入、至殿内、提督 在東、西向立、殿下在西、東向立、行揖礼、畢、提督就座、殿下就座、行茶礼、訖、提督起座、

殿下起座、殿下与提督、揖送、至楹外、提督出門入次、承旨導殿下、還内、近侍以下乃退

53)

 『儀註謄録続』は、礼曹において作成、献上した国家儀礼の註を集めた書で、高宗10(1873)年から31

(1894)年までの内容が収録されている。①は茶礼の式次のマニュアルであり、②と③はその実例であ る。G-②の欽差使臣は呉長慶を

54)

、G-③の丁提督は丁汝昌

55)

を指し、下線部を除き、その式次は同一で ある。

 担当官の数は資料Fと同様の10人である。G-①に鐘者の官名が明記されていないが、果盤や揮巾の担 当が提調である点からみて、提調であろう。仮提調が含まれている可能性もあるが、ここで全員が確実 に提調である例が確認された。

 注目されるのは座である。G-②は高宗が黒漆交椅、欽差使臣が朱漆交椅で、G-③は両者共に朱漆交 椅である。高宗が黒漆交椅を用いる例は初めてであり、欽差使臣を上に、朝鮮国王を下に位置づけたこ とを意味するものと思われる。

 当時の朝廷では、興宣大院君(李昰応)と中宮殿閔氏(閔妃、後に明成皇后に追贈)勢力という、朝 鮮王であった高宗の実父と外戚との間で政権争いが起こっており、その最中、1882年 6 月に朝鮮軍兵士 の暴動(壬午軍乱、壬午事変)が起こった

56)

。興宣大院君はこの機に乗じて閔氏一族の一掃を図ったが、

中宮殿閔氏は宮殿を脱出して難を逃れた。一方清は事件の報を受け、丁汝昌(生没1836~1895)と呉長 慶を派遣し、 7 月13日には暁諭文を発し、暴動を背後で煽動したとされる興宣大院君(高宗の実父)を なかば強制的に清に連行した

57)

。また呉長慶は朝鮮に留まって軍を指揮し、首謀者等の処罰など、事態の 収拾を図った。こうした状況において、高宗の座が黒漆交椅であったのは、清使が朝鮮国内において軍 乱処理の主導権を握っており、高宗は皇帝の命を受けた欽差使臣に従う立場に位置づけられていたため ではないだろうか。

おわりに

 朝鮮時代において、国家の賓礼としての茶礼は15世紀に見られるが、これは宴の式次の一つとして、

酒礼に先んじて催されるものであった。だが18世紀に入ると、茶礼は酒礼とは別個に催され、楽舞が加 えられるなど、単独の儀礼としての性格を強める。

53) 茗園文化財団企画・釜慶大学校歴史文化研究所編(前出書)、128頁

54) 『高宗実録』卷19、19年(1882) 7 月24日戊申。「二十四日、御便殿、接見中国欽差呉長慶」

55) 『高宗実録』巻19、19年(1882) 8 月 6 日己未。「初六日、御便殿、接見中国提督丁汝昌」。丁汝昌は李昰応を清まで 連行した後、朝鮮に戻った。

56) 事件の日付は朝鮮側の記録(陰暦)に従っている。日本側の記録は陽暦によるため、月次にずれがある。

57) 『清史稿』巻23、本紀23、徳宗本紀 1 。「(六月)戊寅、朝鮮匪乱、命張樹声勦平之、尋提督丁汝昌往援呉長慶率師東 渡…、(七月)丁未、呉長慶軍入朝鮮執其大院君李昰応…、癸丑、朝鮮乱平」

(18)

 これは儀礼における茶礼の位置づけが以前より高くなったことを物語っている。だがそれは単に茶礼 が重視された結果としてではなく、宴の簡素化(酒礼の省略)に伴って茶礼のみが行なわれる例が増え、

さらに酒礼の要素が茶礼に付与され宴としての体裁が備わった結果である可能性が高い。

 このように茶礼の価値はそれ自体にあるわけではなく、儀礼全体のバランスに伴うものとして理解す べきであろう。そうした理解に立てば、王・王世子主催の賓礼にのみ茶礼が登場する理由も、茶礼その ものに身分的特権の意味があるのではなく、儀礼の特権化を目的に宴や式次の格(時間・華麗さ)を追 究した結果組み込まれた一要素として理解すべきではないだろうか。

 こうした茶礼の画期は、おおよそ明清の交替期にあると推測される。またこれと合わせ、茶礼の式次 にも変化が見られた。特に朝鮮国王と明使(正使)が相互に茶鍾を手渡す行為が、清使に対して行なわ れなくなった点は注目される。こうしたやり方は既に後金使に対する国王主催の茶礼に見られ、後金が 清となり、朝鮮の宗主国として位置づけられた後にも変更されることなく続けられた。茶鍾の手渡しの 廃止は、相互間の誠意や親睦の意味が希薄になったことを示すと思われるが、筆者は明使と清使に対す る朝鮮側の意識の差と捉え、その背景として崇明排清の思想、清朝への反感などを想定した。

 以上、数十年~百年以上のひらきのある資料から、茶礼の変遷を追ってきたが、その考察は多分に表

面的かつ留保的であり、甚だ心許ない。茶礼は膨大な宮中儀礼のほんの一隅に過ぎず、変遷の背景につ

いても考慮されるべき要素は多い。儀礼研究の今後の発展に期待したい。

参照

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