博 士 ( 農 学 ) 天 知 誠 吾
学位論文題名
乳酸菌の H+ ‑ATPase 欠損変異株に関する研究 学位論文内容の要旨
主に 欧米諸国・中央アジアで消費されてきた発酵乳は、わが国でも生活スタイルが変 化 する に伴い年々消費量が増大しており、新しい機能を持ったスターター乳酸菌の育種 が 強く 求められている。そのひとっとして、わが国ではヨーグルト中の乳酸菌の生菌数 が107個/g以上に維持されていることが法的に定められているため、酸性条件下でも死 滅 しな い耐酸性菌の育種が求められている。加えて、乳酸菌のヒト腸管内への定着には 個 々の 菌種の耐酸性が重要なフんク夕、ーとなるため、乳酸菌に耐酸性を付与すること は 、比 較的 酸性 感受 性で ある ビフ ィズ ス菌 の製 品中 での生 菌数 維持・腸管内への定着 や 、最 近注目を集めている経口ワクチンとしての乳酸菌の利用において重要であると考 え られ る。一方、以前より乳業界では発酵乳製品の保存中における酸度の上昇、いわゆ るボストアシディフィケーションによる製品の風味劣化カミ問題となっている。これは、
低 温下 においても乳酸菌がある程度発酵能をもっために起こることで、低温感受性スタ ー ター の開発、ラクトバーオキシダーゼの製品への添加などの解決法が考えられている が 、 他 に も 酸 性 条 件 下 で 発 酵 を 行 わ な い 酸 性 感 受 性 菌 の 育 種 が 望 ま れ て い る 。 この ように乳酸菌の酸性条件下における挙動は、製品の善し悪しに直接関わってくる 重 要な 問題であるばかりでなく、人類の健康維持、疫病の予防とぃう新しい乳酸菌利用 の 分野 にも関わる興味深いテーマである。当研究室において今まで研究を行ってきた、
大腸菌のH+・ ATPase欠損変異株に関する知見、および今までに報告されたいくっかの乳 酸 菌に おけ るH+‑ATPaseに関す る知 見から、乳酸菌においても本酵素の欠損を導入する こ とに より今までにない新しい機能を持ったスターター乳酸菌が取得できると考えられ た 。ま た、 乳業 用乳 酸菌 にお いて は今 まで 詳し く解 析され てい なかった本酵素の機能 を 、欠 損株を用いてより直接的に解析することにより、乳酸菌のエネルギー代謝に関す る 新し い知見の蓄積にも貢献できると期待された。よって本研究では代表的な乳業用乳 酸球菌であるLactococcus lactis subsp. 1actisからH+‑ATPase欠損変異株を誘導し、その 特徴を親株と比較した。
本研究の結果を要約すると以下のとおりである。
1.Lactococcus lactis subsp. 1actis C2株より分離したH+‑ATPase欠損変異株No. 1016‑
51株の特徴
ネオ マイシン、ゲンタマイシンのようなアミノグリコシド系の抗生物質の取り込みに は プロ トン 駆動 カが 必要 と考 えら れている。H+‑ATPase欠損変異株ではプロトン駆動カ の 形成 能が 低い と考 えら れる こと 、またH+‑ATPase欠損変異株ではエネルギーレベルの
低下、または酸性感受性のため親株に比ぺて生育が低下すると考えられたため、本菌の ネオ マイ シン 自然耐 性株 の中 より 親株 に比 ぺて 生育 の低下した株を選択し、それらの H+‑ATPase活 性 を 測 定 し た 。そ の結 果、H+‑ATPaseの特 異的 阻害 剤で ある ジシ クロ ヘ キシ ルカ ヶボ ジイミ ド感 受性 のH+‑ATPase活性が 親株 の約30% にま で低 下し た変 異株 No. 1016 ‑51株を分離した。LactococcusからのH+‑ATPase欠損変異株の分離、また乳酸 菌の ネオ マイ シン耐 性株 から のH+‑ATPase欠損変 異株 の誘 導は これ が始 めて であ る。
親 株と 変異 株を中 性か ら酸 性の 種々 のpHに制 御し たジャー培養に供したところ、中 性に おい て両 株の発 酵バ ター ン、 特に 生育 に全 く差 が見いだされなかったことから、
本 菌 は 本 培 養 条 件 下に お い てH+‑ATPaseに よ るATP合 成 は 行 っ て い な い と 考 えら れ た。 一方 、酸 性条件 下に おい て変 異株 の生 育、 乳酸 生成量、また菌体当たりの乳酸生 成量 が親 株に 比ぺて それ ぞれ60、36、60% と顕 著に 減少していたことから、変異株で は 糖 代 謝系 が 酸 性 感 受 性 に な っ て い る と 考 え ら れ た 。 さ らに 酸性 条件 下(pH 4.0、 3.5) にお いて 変異 株の 生菌率は親株に比べて顕著に減少していた。また休止菌体系を 用い た細 胞内pHの測 定の 結果 、親 株で は中 性か ら酸 性条件下を通して比較的中性の細 胞 内pHを維 持 し て い た の に 対 し、 変異 株で はpH 5.0以 下で 細胞 内pHを高 く維 持で き ず 、pH 4.0に お い て は 細 胞 内pHを 全 く 上 昇 さ せ る こ と が で き な か っ た 。 以上の結果より、己. 1acぬsubsp. 1actisにおいてH+‑ATPaseは大腸菌などとは違い、
ATP合 成 で は な くATPを 分 解 し て細 胞内 プロ トンを 排出 する 方向 に働 き細 胞内pHの 維 持に 機能 して いるこ と、 変異 株は 本酵 素の 欠損 のた め酸性条件下で細胞内pHを維持で きな いこ とか ら酸性 感受 性と なっ てい るこ とが 明ら かとなった。本変異株の酸性感受 性は ポス トア シデイ フィ ケー ショ ンの 防止 や、 低酸 度発酵乳の製造に応用可能である と考えられる。
2. 中 性 お よ び 酸 性 条 件 下 に お け る H+‑ATPase活 性 と そ の 遺 伝 子 発 現 中性および酸性条件下における両株のH+・ ATPase活性と遺伝子発現レベルの比較 をジ ャー 培養 菌体 を用 いて 行っ た。その結果、親株では培養pHが7.0から4.5に低下す ると、H+‑ATPase活性が約2.8倍に上昇していたの.に対し、変異株ではそれほど大きな 上昇 は認 めら れな かっ た。 各条 件下における両株の粗酵素の至適pH、Km値に変化はな かっ た。 ノー ザン 解析 に必 要な プロー ブを 構築 する ため 、H+‑ATPaseの活性中心であ る8サ ブ ユニ ット 遺伝 子の 一部 をPCRによ って 増幅 し、 塩基 配列 を決 定し たと ころ 、 他の乳酸菌を含むグラム陽性菌(Enterococcus hirae、Lactobacillus casei、Bacillus subtilis、Bacillus stearothermophilus)とアミノ酸配列でいずれも85%以上の高い相同 性を 有し てい た。 中性 、酸 性条 件下で 培養 した 両株 の菌 体よ り総RNAを取得し、上記 のPCR産 物 を プ ロ ー ブ と し て ノ ー ザ ン ブ ロ ッ ト解 析 を 行 っ た 。 そ の 結果 親株 のH+‑
ATPase活 性の 酸性 領域 にお ける 増大が転写の活性化を伴うことが明らかとなった。一 方、 変異 株も 酸性 条件 下で は転 写が活性化しており、変異株の変異は転写レベルでは 起こ って いな いこ とが 明ら かと なった。さらにE. hirae及び好熱´陸細菌PS‑3のH+‑
ATPase抗 体 を 用 い た ウ ェ ス タ ン ブ ロ ット 解 析 よ り 酸 性 条 件 下 で 実 際 に 両 株 のH+‑
ATPase夕ンバク量が増大していることが示唆された。
こ れよ り親 株で は酸 性条 件下 でH+‑ATPase遺 伝子 の転 写活 性を高め、酵素夕ンバク
量を増加させて細胞内pHを維持していることが明らかとなった。変異株の変異は、酵 素タンバク当たりの活性に関わるサブユニットの構造遺伝子中の変異と推測された。
今後これらの知見を応用し、他の乳酸菌種においてもH+‑ATPase欠損による酸性感 受性菌の構築、またH+‑ATPase遺伝子をクローニング後その発現を制御することに よって、種々のレベルの酸性感受性株、さらには耐酸性株の構築が可能であると期待 される。
学位論文審査の要旨 主査 教授 冨田房男 副査 教授 本間 守 副査 助教授 横田 篤
学位論文題名
乳酸菌のH+ ‑ATPase 欠損変異株に関する研究
本 論 文 は 、 和 文86頁 、 図21、 表7、 引 用 文 献73、5章 か ら な り 、 ほ か に 参 考 論 文4編 が 付 さ れ て い る 。
近 年わが国で も生活ス タイルが 変化する に伴い年 々発酵乳の消費量が増大しており、
酸 性耐性や酸 性感受性 といった 新機能を もつスタ ーター乳酸菌の育種が強く求められて い る。乳酸菌 の酸性条 件下にお ける挙動 は、製品 の善し悪しに直接関わってくる重要な 問 題であるば かりでな く、ビフ ィズス菌 やプロバ イオテイック乳酸菌の腸管粘膜への定 着 とぃった、 乳酸菌を 利用した 人類の健 康維持に も関わる興味深いテーマである。当研 究 室 で研 究 を 行っ て きた 大 腸 菌のH+‑ATPase欠 損 変異 株に関 する知見 などから 、乳酸 菌 においても 本酵素の 欠損を導 入するこ とにより 今までにない新機能を持ったスタータ ー が取得でき ると考え られた。 また、乳 業用乳酸 菌においては今まで詳しく解析されて い なかった本 酵素の機 能を、欠 損株を用 いて解析 することにより、乳酸菌のエネルギー 代謝に関する新しい知見の蓄積にも貢献できると期待された。
よって本研究では代表的な乳業用乳酸球菌であるLactococcus lactis subsp. 1actisから H+‑AT Pase欠損変異株を誘導し、その特徴を親株と比較した。
1.Lactococcus lactis subsp. 1actis C2株より分離したH+‑ATPase欠損変異株No. 1016‑
51株の特徴
本菌のネ オマイシ ン自然耐 性株の中 より、親 株に比べて生育の低下した株を選択し、
H+‑ATPase活性が親 株の約30%にまで低下した変異株No. 1016 ‑ 51株を分離した。親株 と変 異 株 を種 々 のpHに制御した ジャー培 養に供し たところ 、中性に おいて両 株の発酵 バターン 、特に生 育に全く 差が見い だされな かったことから、本菌は本培養条件下にお いてH+‑ATPaseに よ るATP合 成 は行 っ て いな い と考 え ら れた 。 一方 、 酸 性条 件 下にお いて変異 株の生育 、乳酸生 成量、ま た菌体当 たりの乳酸生成量が親株に比べて顕著に減 少してい たことか ら、変異 株では糖 代謝系が 酸性感受性になっていると考えられた。さ らに酸性 条件下に おいて変 異株の生 菌率は親 株に比べて顕著に減少していた。また休止 菌体 系 を 用い た 細 胞内pHの測定 の結果、 親株では 中性から 酸性条件 下を通し て比較的
中性の細 胞内pHを維 持してい たのに対 し、変異 株ではpH 5.0以下で細胞内pHを高く維 持 で き ず 、pH 4.0に お い て は 細 胞 内pHを 全 く 上 昇 さ せ る こ と が で き な か っ た 。 以上の結果より、己, Iactis subsp. 1acぬにおいてH+‑ATPaseは大腸菌などとは違い、
ATP合 成 で はな くATPを 分 解 して 細 胞 内プロト ンを排出 する方向 に働き細 胞内pHの維 持に機能 している こと、変 異株は本 酵素の欠 損のため酸 性条件下で細胞内pHを維持で きないこ とから酸 性感受性 となって いること が明らかと なった。本変異株の酸性感受 性はポス トアシデ イフィケ ーション の防止や 、低酸度発 酵乳の製造に応用可能である と考えられる。
2. 中 性 お よ び 酸 性 条 件 下 に お け る H+‑ATPase活 性 と そ の 遺 伝 子 発 現 中性 および酸 性条件下 における 両株のH+‑ATPase活 性と遺伝 子発現レベ ルの比較を ジャ ー培養菌 体を用い て行った 。その結 果、親株 では培養pHが7.0から4.5に低下する と、H+‑ATPase活性が顕 著に上昇 していた のに対し 、変異株 ではそれほ ど大きな 上昇 は 認 めら れ な かっ た 。ノ ーザ ン解析に 必要なプ ローブを 構築するた めH+‑ATPaseのp サブ ユニット 遺伝子の 一部をPCRに よって増 幅し塩基 配列を決定 したとこ ろ、他の乳 酸菌 を含むグ ラム陽性 菌とアミ ノ酸配列 でいずれ も85%以上の高い相同性を有してい た 。 中性 、 酸 性条 件 下で 培養 した両株 の菌体よ り総RNAを取 得し、上記 のPCR産物を ブ口 ーブとし てノーザ ン解析を 行った結 果、親株 のH+‑ATPase活性の酸 性領域に おけ る増 大が転写 の活性化 を伴うこ とが明ら かとなっ た。一方、変異株も酸性条件下では 転写 が活性化 しており 、変異株 の変異は 転写レベ ルでは起こっていないことが明らか となった。さらにEnterococcusカirae及び好熱´汢細菌PS‑3のH+・ ATPase抗体を用いたウ エス タン解析 より酸性 条件下で 実際に両 株のH+‑ATPase夕ン バク量が増 大してい るこ とが示唆された。
これ より親株 では酸性 条件下でH+‑ATPase遺伝子の転写活性を高め、酵素夕ンノヾク 量を 増加させ て細胞内pHを維持し ているこ とが明ら かとなった。変異株の変異は酵素 夕 ン バク 当 た りの 活 性に 関わ るサブユ ニットの 構造遣伝 子中の変異 と推測さ れた。
以上のように本研究|よ乳酸菌に関する学術的な寄与が大きいものであるとともに、
今後 これらの 知見を応 用し、他 の乳酸菌 種におい てもH+‑ATPase欠損に よる酸性 感受 性菌 の構築、 またH+‑ATP ase遺伝 子をクロ ーニング 後その発現を制御することによっ て、 種々のレ ベ少の酸 性感受性 株、さら には耐酸 性株の構築など応用的にも寄与する ところが大きな成果である。
よ っ て 、 審 査 員 ー 同 は 、 天 知 誠 吾 が 博 士 ( 農 学 ) の 学 位 を 受 け る の に 十 分 な 資 格 を 有 す る も の と 認 め た 。