東 南 ア ジア研究 18巻4号 1981年3月
論
文
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9
世紀 スマ トラ中 ・南部 にお ける河 川交 易
東南 ア ジアの貿易構造 に関す る一視 角
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The Malacca Strait 丘gured as an entrep6t fortheinternational tradeofSoutheastAs iaup until recent times because its location was suitablefわrtheEasトW esttradecoverlngEurope and theArab and lndian worldsoふ onehand
,
and China and Japan on the other. Since tradewasasignificanteconomicbasisforpolit -icalpower)ithasbeenoneofthemajorthemes in the history or Southeast Asia. Historians havs traditionally studied the international trade around the Malacca Straitfbcuslng On the sea route and overseas trade. However,
thisapproach isnotsu氏cientto fully under -stand the structure orthe internationaltrade, particularlywhenweconsidersuchproblemsas how commoditieswere broughttointernational ports,or how i-Ported com-odities were distributed.from these ports. These questions areespecially ImportantforCentraland South Sumatrawhereexportgoodsweremainly pro-問 題 の 所 在
東南 ア ジア地域 が古 くか ら東 西 貿易網 を通 じて外界 との接触 を維持 して いた ことは よ く *名古屋商科大学 商学部 ;Department or Com・
merce,NagoyaUniversltyOfCommerce 612
duced inland and imported goods were also consumedinland.
This paper atte-pts to describe the trade structureinCentralandSouthSumatra,paylng attention toriversastraderoutes,which sofar have been studied very little. These rivers include the Siak,Kampar,Kuantan-Indraglrl, BatangHari,and Mu
5
i,allorwhichriseinthe Barisan mountain range (stretching north to south parallelto the westcoastorSumatra),
andemptyintotheeastcoastsea. Becausethey are navigable by boats (perahu) almostup to their sources, they have been used as trade routessince ancienttimes. Thispapercovers the historical background, the navlgation or boats,trade,and tradestructtlreOrtheseriver routes・ The author hopes that this study or river trade willbroaden the scopeoftheec o-nomicand politicalhistoryorSoutheastAsia.知 られて い る。この国際貿易 は ,例 えば スマ ト ラ東海岸 の南 部 に栄 えたス リビジ ャヤ (Sri -vijaya)王国 (6世紀 後半-14世紀 後半) に代 表 され るよ うに, それ を独 占ない しコ ン トロ ール した者 に膨大 な富 と強大 な権 力 とを もた らした。東南 ア ジア地域, と りわ けマ ラ ッカ
大木 :19世紀スマトラ中 ・南部における河川交易 海 峡 周辺地 域 の諸国家 は, この貿易 利益 を め ぐって しば しば覇を競 って きた。 か か る事 情 故 に,東 西 貿易 は東 南 ア ジアの商 業 史 や経 済 史 に とって だ けで な く, この地 域 の歴 史一 般 に とって も重 要 な テー マ とな って きたので あ る。 貿 易 を 東 南 ア ジアの 歴 史 に 関連 づ けて 包 括 的 に 考 察 した 代表 的研 究 と して Leur [1955]や Wolters[1970;1974]を挙 げ る こ とがで き る。 従来 の東南 ア ジア にお け る貿易 の研 究 は, その ル ー トに関 して い えば, 通路 と して の海 と, 窓 口 と して の海 に面 した港 にその対 象 を 限定 して しま って きた よ うに思 われ る。 海上 貿易 を考 え る場 合, 海 と海 に面 した港 が重 要 な舞 台 で あ る こ とはい ま さ ら説 明を要 しな い が, 筆 者 は以下 の理 由 によ り河 川交 易 ル ー ト の解 明が海 上 貿易 を理解 す るた め に も極 めて 重 要で あ る と考 え る。 とい うの は, ス マ トラ の森 林産 物, ジ ャワの米, タ イの木 材,米 な どは 内陸 で生 産 な い し採取 され, それ らは し ば しば河 川交 通 を利 用 して港 まで運ば れ たか らで あ る。 また外 部 か ら輸 入 され た商 品 も同 様 に内陸- 運 ば れ た。 この よ うに考 え る と, 貿易 ル ー トは海 と港 だ けで な く,河 川 お よび 河 川 と結 びつ い た陸路 を も含 め た多数 の商 業 ル ー トの ネ ッ ト ・ワー ク と して 把 え る必 要 が あ るので はな いだ ろ うか 。 これ が本 稿 にお け る筆 者 の問題 提 起で あ る。 東南 ア ジア諸地域 の歴 史 において河 川が古 来 物 や文 化 の交 流 に重 要 な役割 を演 じて い た こ とはい くつ か の事 例 によ って示 す こ とが で きる。 例 えば, 前 出 した ウ ォル タ ース は,南 部 ス マ トラの ム シ川上流 地 域 (コ リンチ,メ セ マ, ラナ ウ) で発見 され た古代 金 属文 化 の 諸製 品 が,西 暦紀 元前 に紅 河 デ ル タで発 達 し た トンキ ンの金 属文 化 か ら生 み 出 され た諸製 品 に酷 似 して い る こ とか ら, ス マ トラ南 部 の 内陸 地域 は 相 当 古 い 時 代 か ら イ ン ドゥ ラギ リ,バ タ ン ・- リ, ム シ川を通 じて外 部世 界 との交 易 を して いた ので あ ろ う と述べ て い る
[
Wolters1974:60-61]。 また, ジ ャワ島 に おいて も, 中部 ジ ャワの ウ ォ ノギ リ地 方 で発 見 され た釈 迦暦825年 (西 暦903年 ) の 日付 を もつ 碑文 は, 古 マ タ ラム王 朝 時代 この 地 方 は, ジ ャワ海 に注 ぐソロ川 の河 川貿易 ル ー ト にお け る一 つ の 内陸商 業 中心地 で あ った こと を示 して い る[Stutterheim 1934:269-295]。 河 川 ル ー トが重 要 で あ ったのは東 南 ア ジア 島峡 部 だ けで はな い。 いわ ゆ る大 陸 部東南 ア ジア において も事 情 は同 じで あ った。例 えば タイの チ ャオプ ラヤ川下 流 の河 港都 市 アユ タ ヤは既 に13世紀 には, 内陸 諸地 域 と外 部世界 とを結 ぶ 国 際貿易港 と して機能 して い たので あ る [Viraphol1977:24-25]。 河 川 は, 追 路網 が整 備 され, 陸 上運 輸 が動 力 化 され るよ うにな るまで は重 要 な運 輸 ・交 通 手段 で あ っ た。 も し, 貿易 ル ー トの概 念 を上 に述 べ た よ うに海 と港 だ けで な く河 Jtlを も含 めて考 え る な らば, 東南 ア ジアの多 くの部 分 は直接 ・間 接 に海 外 貿易 の網 の 目に組 み込 まれ た 「海域 世 界」
とみ なす ことが で きるので はな い だ ろ うか。1) 本 稿 は,東 南 ア ジア にお け る貿易構 造 全体 を念 頭 に置 きつつ, 帝接 的 には マ ラ ッカ海 峡 周辺 の海 上 貿易 と関連 したス マ トラ中 ・南 部 の5河 川 (シア ク川, カ ンパ ル川, クア ンタ ンー イ ン ドゥ ラギ リ川,ノヾタ ン ・ハ リ川, ム シJH) の貿易 ル ー トとそ の商 業 構造 を上記 の 観 点 か ら19世紀 を 中心 に解 明す る こ とを主 要 な 目的 とす る。 対 象 期間 を19世紀 に限定 した の は, これ らの河 川貿易 ル ー トに関す る同時 代 資料 が19世糸己以前 につ いて は得 られ なか っ 1) 「海域世界」という言葉 は,京都大学 東南ア ジア研究センター主催 の 「東南 アジア海域世 界」という研究プロジェク ト名 か ら借用 した ものである。 613東南 アジア研究 18巻4号 Slngapore Kamp■rR土yer Kuantan-Indragirl RIver BatatlgHartRiver MusiRiver 1i5.000,000 0 100K.M. 1.pat,apahJLn
2.PangkalzLn Kota BaLru 3.九 mgkalan Kapas
Ll.P即lgkahn Sari
5.k rlgh l&n 工ndm g ら.nuAra Pelanki8 7.Casun
8.pangkalBLn JaLnbu
9.Muaro Musaut 10.KotA Tzujung
11.Lut)uk Kumbung 12.Tebin Tlngg1 13.1Ahat
I. Lima Puhh Kota I=.Ag■Jn
Ill.Th ah Datw
顔 BzLri8弧 Mount且1nRzLnge8 + Upper limit of LkraIM
navigatlon (注)参照文献については本稿 Ⅱを参照のこと。 図1 スマ トラ中 ・南部 5河川の遡航限界 た こ と,2) 20世紀 以 降 には この地 域 の交 通 ・ 運 輸事 情 が変 化 して 河 川 ル ー トの重 要性 が相 対 的 に弱 ま り, それ につれ て資料 も得 に くい た めで あ る。本 稿 が依 拠 した資料 の大 部 分 は オ ラ ンダ人 に よ って書 かれ た もので あ るが, オ ラ ンダ人 が ス マ トラ島 中 ・南 部 の 内陸 に足 を 踏 み入 れ たの は よ うや く19世紀 後半 の こと で あ った。 しか し19世紀 後半 において も河 川 2)17世紀以降 の オランダ東 インド会社 関係 の膨 大な資料 か ら河口都市 の状況についてある程 度分 かるが,内陸 の河川ルー トについてはほ とんど分か らない。 614 ル ー トを直接 の対 象 と し た記述 はな く, 本 稿 は旅 行記 の類 い にみ られ る断 片 的な情報 か ら河 川 ル ー トの全体 像 を描 き出す と い う手続 きを と らざ るを 得 なか った こ とを予 め こ とわ って お く。 Ⅰ ス マ トラ中 ・南 部 の河 川 ルー ト と西 スマ トラ 個 々の河 川 ル ー トに関 す る詳細 な説 明 は の ちに 行 うので, ここで は河 川 ル ー トの概 要 と歴 史 的背 景 だ けを述 べ る こ とに し よ う。 図 1にみ られ るよ うに, 本 稿 が対 象 とす る 5河 川 はいず れ もスマ ト ラ島の西海 岸 寄 りを南 北 に走 るバ リサ ン山脈 に源 を 発 し, ス マ トラ東 海 岸 に注 いで い る。 この た め, 流域 諸地 方 は全 体 と して マ ラ ッカ海 峡 との貿 易 を 指 向 して きた。 これ ら5河 川 の分水 嶺が著 し く西海 岸 寄 りにあ る た め, いわ ゆ る河 川 の流域 諸地方 が, バ リサ ン山脈 の高 地地 方 を含 む ス マ トラ島 中 ・南 部 の ほぼ全域 を覆 って い る こ とに注 意 すべ きで あ る。 図 1には筆 者 が確 認 し得 た限 りで の,19世 紀 に実 際舟 を使 用 した交 易 が行 わ れて い た上 流 の限界点 が ・印で示 されて い る。 この図 か ら, ス マ トラ島中 ・南 部 にお け る河 川交 通 は 一 般 に考 え られて い るよ り もは るか に上 流 に まで達 して い た ことが分 か る。流 域 の 産 物
大木 :19世幕己スマ トラ中 ・南部におけ る河川交易 P a d a n g p a d a n g L o w l a n d s B a r i s a n M o u n t a i n R a n g e s (注)ここに記 した陸路 と内陸中継地 (・印) 図2 河 川 ル ー ト と は, あたか も無 数 の支流 に集 ま った水 が 大河 を形 成 す るよ うに河 川 に集 ま り,種 々の タイ プ ラ ヴ プ の舟 (後 述参 照) に積 み込 まれて海 外 へ輸 出 され, 海 外 の輸 入商 品 も同様 に して 内陸-運 ば れ た ので あ る。 この際,河 川 ル ー トには 多 くの陸 路 が網 の 目の よ うに結 び つ け られて い た こ とはい うまで もな い。河 川 と陸 路 とが い か に結 びつ いて い たかを概 念 図 と して示 し た ものが 図2で あ る。 この図 に関連 して注 目 す べ き次 の 3点 を指 摘 して お こ う。第 1点 は , これ ら 5河 川が それ ぞれ全 く独 立 した商 業 ル ー トと して機能 して い た ので はな く, 陸路 に よ って相互 に連 絡 して い た こ とで あ るO例 え ば シ ア ク川 ル ー トとカ ンパ ル ・カナ ン( Kam-parKanan)川 ル ー トの場合 の よ うに隣接 す る河 川 ル ー トは住民 に とって 代 替 的 であ っ た。 第 2点 は, スマ トラ中 ・南 部 には河 川 と 河 川 とを結 ぶ 陸路 が発 達 して い た に もかか わ らず,バ リサ ン山脈 か ら東海 岸 に至 る東西 の
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padang Highlands 匪 詔 :;誌 ;三三。票 d:,haet , ∈ ヨ O.ufttyh!n岩ぷ 霊 芸ss R⊥ver -I-IFootpath●
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工nland Transit Post Places l・Batu Gaョa2.Pangkalan Rota Baru 3.Pangkalan Xapas 4.Kamang 5.Lubuk Iambi は主要なものだけである。詳 しくは本稿 Ⅱを参照。 主 要 陸 路 網 の 概 念 図 陸路 が 1本 もなか った ことで あ る。 これ は, この地域 が熱 帯 の密 林 に覆 われ,事 実 上 陸上 交 通 が不可能 で あ った こ とを示 して い る。換 言 す れば, ス マ トラ中 ・南 部 のバ リサ ン山脈 の東 側 において は河 川 だ けが 唯一 の交 通 路で あ った とい う事 実 を物語 って い る。 第 3点 は, ムシ川を 除 く他 の 4河 川 の商業 ル ー ト (河 川 と連 結 した陸 路 も含 む) が, ミ ダ ラ ツ ト ナ ンカバ ウ人 の本拠 地 ,パ ダ ン高地 (Padang Highlands)を一 方 の主 要 な 交 易 相手 と して い た こ とで あ る。 これ は スマ トラ中 ・南 部 の 河 川貿易 を考 え る うえで極 めて重 要 な点 で あ るので, 以下 にや や詳 し く説 明 しよ う。バ リ サ ン山脈 か ら東海 岸 に至 る地 域 は面積 も広 大 で ス マ トラの 森 林産 物 の 生 産地 で もあ った が, 人 口は著 し く稀薄 で あ った。 これ に対 し てパ ダ ン高地 (現 在 の 西 ス マ トラ州 の 中 核 部 ) は, トバ 湖 周辺 と並 んで ス マ トラ全 島 の うち最 も肥 沃 で, 農業 の生 産性 が高 く, また 615
東南 アジア研究 18巻4号 人 口桐密地域 であ った。 しか も19世紀 のパ ダ ン高地 は商業 圏 と してはパ ダ ン低地 と一体化 して いたので,低地 と高地 を含 めた西 スマ ト ラ地方 の人 口は,本 稿 の対 象 とす る 5河川流 域 のスマ トラ中 ・南 部総人 口の約40% を 占め て い たのであ る。3)即 ち, 西 スマ トラ地域 は 生 産地 と して も消費地 と して もスマ トラ中 ・ 南 部 における最 も重要 な地域 であ った。 この ため,本 稿 の主題 であ る19世紀 スマ トラ中 ・ 南部 の河 川貿易全体 が西 スマ トラの商業動 向 に大 き く左右 されて きた。 以上 の理 由によ っ て, この地域 の河川交 易を検 討す るにあた っ て,西 スマ トラの貿易動 向 との関連 において 河 川交易 の歴史 的位 置づ げを して お く必要が あ る。 以下 に これを, 18世紀末以降を 中心 に 素描 しよ う。 17世紀 以前 にお ける西 スマ トラの交 易 に関 す る詳細 は分か らないが,高地 か ら西海岸 に 至 る陸路 の未整 備 (後述参照 ),それ による交 通 の困難 さか ら考 えて,高地地方 は西海岸 よ りも河 川 を通 じて 東海 岸地方 と一層 緊密 な 交 易 を して いた もの と思 われ る (
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.Leur [1955:174])0 17世紀初頭 にオ ランダ人 が西 海岸 諸港 での貿易を開始す る と, それ まで河 川経 由で東海岸方面-輸 出 されて いた金 ,米 , その他 の輸 出品の一部 は低地 に運ばれ るよ う にな ったが ,4)高地地方 の貿易 の 大 部分 は依 然 と して東海岸 との問で行 われ た。 1780年 の 3)19世紀 におけるスマ トラ東海岸地域 の人口統 計は分か らないが,1917年 の統計 によれば, この地域 の人口,人口密度 は以下のごとくで あった。 Source:Stibbegfd.[1921:200] 616 あ るオ ランダ人 の報告 によれば, 当時パ ダン 高地 の商人 は ほ とん ど河 川を通 じて東海岸諸 地域 と取 り引 き して いた [Netscller,E.1881 :36,39]
。
西 スマ トラと東海岸地方 との貿易 は1786年 のペ ナ ン開港 によ って一 層盛 ん にな り, それ に伴 って両地域 を結ぶ河川ルー トの重要性 も 増 した。5) オ ランダ人 は西海岸地方 で高率 の 輸 出 入 税 を 課 して いたため, ミナ ンカバ ウ 商人 は 以 前 か らこれ に 不満 を 抱 いていたが [Nahuys 1827:84],ペ ナ ンの開港 は彼 らに 自由な貿易機会 を もた らした。高地 の アガム 地方 その他では ,ペ ナ ンの開港以後 ,河川 ルー トを通 じて輸入 したイ ン ド産 の原綿を使 った 綿織物業 が著 し く拡大 した [Dobbin1977: 18-19]。18世紀末 か ら19世紀 初頭 にか けて は, ペナ ン開港 によ る貿易 の拡大 の ほか に,西 ス マ トラの農業 に重大 な変化が生 じた。 それ は パ ダ ン高地 にコー ヒー とガ ンビアの栽培が広 ま った ことであ る。 この二 つの輸 出商 品 の出 現 は,東海 岸へ の河 川貿易を さ らに刺激す る ことにな った。次 に これを説 明 しよ う。 西 スマ トラの最 も重要 な輸 出作物 は, 18世 紀末 まで 低地地方 で生産 され た 朝敵 であ っ た。 胡 板栽 培 は多大 な労力 と時間 を要す る う え, この地域 の住民 は安 い価格で オ ランダ東 イ ン ド会社 に引 き渡 さねは な らなか った。 こ うして住民 は胡棟栽培 を徐 々に止 め て し ま い, 1748年 に胡棟価格が上昇 した時で さえ東 イ ン ド会社 に引 き渡 され た量 はほ とん ど無視 し得 るほどで あ った[Stuers 1849:19-20]。 一方 ,オ ランダ人 は ,価格が上昇 しつつ あ った コー ヒー栽培 に注 目 し, 18世紀末 か ら低地 の 4)特にラオ (Rao,高地北東部)およびスンガイ ・バグ (Sungaipagu)の金,その他の地域の 安息香など [大木 1973:76-83]。 5)ペナン開港 によってパダン高地 から西海岸諸 港へ降りて くる商人の数は激減 したが,これは ペナンから輸入 (特に綿製品) した方が安かっ たか らであった[Netscher,E.1881:48-49]O大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部 に おけ る河川交易 住 民 に コー ヒー栽 培 を行 わせ たた め に [Gr a-ves 1971:192;Kielstra 1887:21-22
]
,19 世紀 初頭 まで に西 スマ トラにお け る胡 板栽培 は ほ とん ど壊 滅 して しま った [Stuers 1850: 177㌧178]。これ に対 して コー ヒー栽 培 は気 候 条 件 の面 で 低地 よ りは るか に適 して い た高地 地方 で急速 に広 ま った。 この主 要 園 は フ ランス領 カ リビア ン (Caribian orSt.Dominique Islands) の コー ヒー栽 培 が 衰退 した こ とで あ った。 カ リビア ンは18世紀 末 には世界 の コ ー ヒー市場 にお け る全 量 の2/3を 出荷 して い た が,1791年 に こ こで奴 隷反乱 が起 こ り, コー ヒー園が破 壊 され て しま った. これ は コー ヒ ーの国 際価 格 の高 騰を招 き, スマ トラその他 の 地 域 の コー ヒー栽 培 を 刺 激 した。 オ ラ ン ダ, イギ リス に加 えて独立 間 もな い ア メ リカ が西 スマ トラ ・コー ヒーの買い手 と して18世 紀 末 よ り新 た に登 場す るに及 び, コー ヒー生 産 は一 層刺 激 され た。 1819年 にシ ンガ ポール が開港 して以降 には大 量 の西 スマ トラ ・コー ヒーが河 川 ル ー トを経 て シ ンガ ポール-輸 出 され るよ うにな ったので あ る [Dobbin 1977 :23-24
]
。
ガ ンビア栽 培 に関す る詳細 な歴史 は分 か ら ないが,西 スマ トラで は18世紀 末 に高地 東 部 (特 に リマ ・プ ル ・コタ LimaPuluKota)で 栽 培 が始 ま った よ うで あ る。 ガ ンビア もペ ナ ン開港 以後高地 東 部 の最 も重 要 な輸 出品 と し て, シア ク川経 由で輸 出 され るよ うにな った libid.:19-21].6) パ ドリ戦 争 (1803-1837。イス ラム改 革運 動 と して始 め られ たが,1819年 以降 ,反 オ ランダ 戦 争 と もな った) によ る混乱 はオ ランダ人 の い る西海 岸 で はな く,河 川を経 由 した東海岸 6)ガンビアの用途は医薬品,染料,皮なめ し材, 噂好品であった [VethL2:331]。18世紀末 の スマ トラにおけるガンビア栽培 については Marsden[1975:160]を,それ以 降の時期に ついては Zeilstra[1949:609-613],Lekker・ kerker[1916:236]を参照。 方 面 との 貿易 を一 層推 進 させ た。 オ ランダ人 は高 地 の コー ヒーを手 に入 れ るため,1824年 か ら高地 の征 服 した地 区 に 「オ ランダ商業会 社」
(Nederlandsch HandelsM aatschappij) の倉 庫 を設 けて い くと同時 に,塩 その他 の商 品を高 地地 方 に売 って い った [Gra、,es 1971 :198]。しか しオ ランダ人 の もた らす塩 (オ ラ ンダ政 庁 の専 売) や その他 の商 品 は運 賃 を 含 めて も, オ ランダ支配 か ら独 立 して い た東 海 岸 諸港 か ら河 川 ル ー トを経 て運 ばれ た商 品 よ り高 か った ので, ミナ ンカバ ウ商人 は主 と して 河 川 ル ー トを 使 用 して い た [Kielstra 1889:235-248;Lange 1852:353]。 1833年 にパ ダ ンを 訪れ た フ ァン ・デ ン ・ボ ッシ ュ (Van den Bosch)は ,高地 か らパ ダ ンへ は細 々 と した小径 を通 って 人 々の頑 や肩 に乗 せ られて, ご く少 量 の生産 物 が運 ばれ て い た に過 ぎない現実 に直面 した。 高地 地方 の 豊 かな産物 と大 きな市場 をパ ダ ンと直結 させ るため に ,彼 は現地 のオ ランダ人 行政官 に ,低 地 と高地 とを結 ぶ道 路網 を整 備 し,東 海岸 -の河 川 ル ー トに通ず る陸 路 の要所 に要塞 を設 けて河 川 貿易 を監視 す るよ う指 示 した。7) こ の指示 に従 って,パ ダ ンと高地 - の入 口にあ た るパ ダ ン ・パ ンジ ャン とを結 ぶ道 が住民 の 多大 な 負担 に よ って 間 もな く完 成 され た。8) 河 川 ル ー トの監視 は,1837年 にパ ドリ派 を征 服 して以 降徐 々に強 め られて い った。9) この 監視 は オ ラ ンダが東 海 岸 諸港 を掌握 した19世 紀 末 まで続 い た。 7)ファン・デ ン・ボッシュのインス トラクション の全文 は Anonymous[1867:408-412]
,Stuers l1849:135-149]
,
Kielstral1889:230-249] にみ られる。 8)パダンか らアネイ峠を 越えるこの道は標高差 が630メー トル もある難工事で,住民の多大な 犠牲によって完成 した [Graves1971:199-200 ;Lekkerkerker1916:26-27]. 9)例えば19世紀中葉 に政庁 はパダン高地か らス マ トラ東海岸地方 への米の輸出を禁止 して し まった [Schrieke1928:94-95]。東南 アジア研究 18巻4号 パ ダ ン-パ ダ ン ・パ ンジ ャン間 の道路 建設 と河Jtレレー トの監視 は低地 と高地 との交 通 を 以 前 よ り も頻 繁 に させ, その分 だ け河 川 ル ー トの重 要性 を 相対 的 に低下 させ た。 この傾 向 は19世紀 中葉 か ら末 にか けて,主 と して次 の 二 つ の新 しい事 態 によ って さ らに 強 め ら れ たO一 つ は1847年 に西 スマ トラ州-導入 され た コー ヒーの 「強制 栽 培制 度 」 で あ った。 こ の制 度 の もとで住 民 は生 産 され た全 て の コー ヒーを, 市 場 価 格 よ り安 い固定 価 格 で政庁 に 引 き渡 さねば な らな か った。酉 ス マ トラ各 地 に倉 庫 が建 て られ, コー ヒーは厳 格 な監視 の もとでパ ダ ン- 運ば れ るよ うにな った ので あ る。 この新 しい制 度 の導入 によ って,河 川経 由 の シ ンガ ポール その他 - の輸 出 は激減 した と思 われ るが, それ で も高 い価 格 を求 めて密 輸 は続 いて い た。 例 えば1861年 には政庁 - 引 き渡 され た コー ヒーが124,000ピクル (1ピク ル -61.7キ ログ ラム) で あ ったの に対 して, 「カ ンパ ル ・コー ヒー」 の名で 10,000ピクル の西 ス マ トラ ・コー ヒーが シ ンガ ポール-輸 出 され た [Lulors 1904:1642-1643]。二 つ は,パ ダ ン高地 にお け る交 通網 の飛 躍 的な発 展 で あ る. コー ヒーの 「強制栽 培制 度 」 は, 多量 の コー ヒーを運 ぶ ため の道路建 設 を推 進 した。 さ らに,1872年パ ダ ン高地 南東 部 オ ン ビ リン(Ombilin)で石 炭 が発 見 され ,この石 炭 をパ ダ ンまで運 ぶ鉄 道建設 が間 もな く始 め られ た。 1891年 以 降 には高 地 の各 地 域 に鉄 道 網 が伸 びて,西 ス マ トラ全体 の物 資 が西海 岸 の州都 パ ダ ン- 集 ま るよ うにな った [Joustra 1923:65-66] 。 この際, 鉄 道 に沿 って 道路 が 新設 な い しは拡 充 整 備 され た こ と も見 逃せ な い。10) さ らに海 上 輸送 の面 で は,1850年以 降 バ タ ビア (現 ジ ャカル タ) とパ ダ ン港 とを結 ぶ蒸 気 船 の運 航 が始 ま り [Stibbect
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l
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1921 10)Bosse[1885:33-35]によれば鉄道,道路網の 整備 は酉スマ トラ内の輸送 コス トを半減 させ た 。 618 :115],西 スマ トラ全 体 の運輸体 系 は西海 岸 のパ ダ ン-傾斜 す るよ うにな った。 上記 の西 ス マ トラにお け る運 輸体 系 の変化 は西 スマ トラか ら東 ス マ トラへ の商 品流 通 を 減 少 させ たが, これ によ って河 川 ル ー トが そ の重 要性 を一 挙 に失 って しま ったわ けで はな い。 河 川流域 の東 ス マ トラ地 域 において ほ河 川が依然 と して 唯一 の交 易路 で あ った。 さ ら に,19世紀 後半 にはガ ンビア,藤 ,樹 脂,胡 板 な どの熱 帯 産物 に対 す る ヨー ロ ッパ か らの 需 要 増加 に対 応 して, 河 川流域 の森 林 産物 の 採 取 と 河 川交 通 は 一 層活 発 にな ったので あ る。 ⅠⅠ 河川 ルー トの概 要 既 に述 べ た よ うに, 河 川 ル ー トは河 川 だ け で な く, 河 川 と連 絡 した陸路 を も含 む交 通網 で あ った。河 川 ル ー トと河 川交 易 の実 態 を詳 述 す る前 に, 陸 路 と舟 につ いて若 干説 明 して お こ う。 陸 路 には, 牛 車 や馬 車 が通 行 で き る 道 と, 人 や馬 だ けが通 行 で き る小 径 とが あ っ た。 一般 に, 大 きな集荷 地 の周辺 あ るい は近 距 離 の輸 送 には荷 車 が使 え たが, 長 距 離 の輸 送 に荷車 を使 用 す る こ とはなか った よ うで あ る。 これ は, ス マ トラ中 ・南 部 の 内陸 に,荷 車 の通 行可能 な道路網 を整 備す るほど 巨大 な 権 力 が かつて 存在 しな か った こ と, 起 伏 を 伴 った密 林 地 帯 を牛 車 や馬 車 で荷 物 を運 ぶ こ とは 事 実 上 極 めて 困 難 で あ った た めで あ ろ う。 いずれ にせ よ, この地 域 において 陸路 で 一 皮 に多量 の荷 物 を長 距 離輸送 す る こ とは不 可能 で あ った とい って 過言 で はない。 馬 の背 で運 ぶ場合 , 1ピクルが 限度 で あ った。 また 人 が担 いで運 ぶ荷 物 の量 は, 当人 自身 が使 用 す る衣類, 食 器 類 ,食 糧 ,時 には夜 営 用具 を 除 いて25キ ログ ラムが 限度 で あ った。運 搬人 が 1日に歩 く時 間 は4時 間 か ら最 も長 くて 10時間,平 均 6時間 で, 距 離 は 平 均 30キ ロ大木 :19世 紀 スマ トラ中 ・南部に おけ る河 川交易 メ ー トル ほどで あ った。 な お 距 離 は, トン ガ (tongaortonggak・ 1トンガ は 約1,500 メー トル)を単位 と して計 られ た [Ijzerman elal.1895:10;VethI-2:260;Ill-I-1: 367]。 陸路 が上 に述べ た よ うな 困難 を伴 うため, 一度 に大量 の荷 物 を運 ぶ 際 には舟 と河 川 に依 存せ ざ るを得 なか った。 イ ン ドネ シア諸地域 で使 用 され る土 着 の小 舟 はプ ラウ (perahu) と総称 され るが, プ ラウに も形 態 や大小 の異 な る種 々の タイプが あ った。 ここで は と りあ えず到 り舟 (sampan kulit)と 竜骨 を有 す る 舟 との 区別 だ けを して お こう。到 り舟 は上流 の ご く近距 離輸送 や人間 の交 通手段 と して用 い られ ,ll)大量 の荷 物 を遠 くまで運 ぶ には竜 骨 つ きの舟 を用 いな ければ な らなか った。 な お, 竜骨 つ きの舟 に も地域 によ って種 々の呼 称,大 きさ,形 態 が あ った こ とはい うまで も ないが, ここで それ らを体系 的 に述べ る こ と はせず,12)以下 の記 述 で必要 に応 じて説 明 し よ うと思 う。 河 川 を 舟 で 航行 す る こ とには常 に 転覆 や 岩 - の激突 な どの危 険 がつ きま とって い た。 舟頭 や漕 ぎ手 は途 中の地理 や川 の状態を熟 知 して お り, これ らの危 険を巧 み に避 けて舟 を 操 って い た よ うで あ るが [Anonymous 1842 :9], それで も時 には転覆 して しま うことが あ った。かか る事 故 の場合, 舟頭 お よび漕 ぎ 手 は 川 に 沈 んだ 積 み荷 に 対 して 何 らの 責 任 を 負 わ な い ことが 原則 で あ った よ うで あ る [Grijzen 1908:69]。舟 によ る物 資 の輸送 に 関連 して考慮 すべ き点 を最 後 に一 つだ け挙 げ て お く。 舟 に積 み込 まれ た荷 物 が同一 の舟 に よ って上流 か ら河 口まで運 ばれ る ことは少 な く, 通 常 は 途 中 で ほか の舟 に積 み替 え られ ll)例えばカンパル川上流のラオ付近[Ballot1905 :520
]
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12)プラウの種類 については Stibbeelal.[1927 :422-446]
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た。 この積 み替 えは主 と して次 の三 つ の場合 に行 われ た。一 つ は, よ り大 きな舟 が利用で きる地点 で積 み替 え る場合 で あ った。下 流 に なれば な るほど大 きな舟 が航 行可能 とな るの で, この よ うな場合,荷 物 を大 きな舟 に積 み 替 え た方 が経済 的で あ った。二 つ は, 滝 や そ の他 の障害 物 のため航 行 が不可能 とな る場合 で あ る。 舟 はかか る地点 で積 み荷 を一旦 降 ろ し, その下 流 か ら別 の舟 で荷 物 が運ばれ た。 三 つ は, 川 の合 流点, 河港 と陸路 とが交 わ る 大 きな集荷 地 で積 み荷 を移 し替 え る場合 で あ る。 河 川の途 中 にはい くつか の大 きな集荷地 が あ り,輸 出入産 物 が これ らの集荷地 で取 り 引 きされ る こと も多 か った。 この場合 舟 は積 み荷 を そ こで降 ろ し,帰 りに別 の商 品を積 ん で再 び河 川を遡航 す る こ とにな る。 以上 を念頭 に置 いて河 川 ル ー トの実 態を シ ア ク川, カ ンパ ルJH, クア ンタ ンー イ ン ドゥ ラギ リ川, バ タ ン ・- リ川, ム シ川 につ いて みて み よ う。 なお各 ル ー トを通 じて流通 した 商 品 につ いて は次 の項 で述べ る。 1. シア ク川ル ー ト シア ク川沿 いの主 要都 市 は,下 流 か らシア ク ・ス リ ・イ ン ドゥラプ ラ (Siak Sril ndra-pura),パ カ ン ・パ ル (PakanBaru),パ タパ - ン (Patapahan)の三 つで あ る (図3)。舟 はバ トゥ ・ガ ジ ャ (Batu Gaja)ま で航行可 能 で あ るが, 上流 にお け る最 も重要 な商業 中 心地 はバ クパ - ンで あ った。 このあた りで は 積載 量1.2トンほどの舟 (bilungkang)が使 用 されて い た。 18世紀末 にシア ク川上流 お よび 西 スマ トラの リマ ・プ ル ・コタ地域 で ガ ンビ アの栽 培 が始 め られて以来,パ タパ - ンはガ ンビアの集荷 地 と して, また輸入 品の集積地 と して 栄 えた。18世 紀 末 には, バ トゥバ ラ (東海 岸北部 デ リ近 くの沿岸地方) に 移住 し た ミナ ンカバ ウ人 の商人 が ここか ら河 川を下 り, マ ラ ッカ海峡 を越 えて ペ ナ ンと直接 貿易東南 アジア研 究 18巻 4号 pakanSiakSri aru 工ndrapur TaratakB ′ i,ayakumbuh 0 50 1001く.M. 図3 シ ア クJtlル ー ト を行 な って い た [Dobbin 1977:20]。また , リマ ・プ ル ・コタ地 域 の ミナ ンカバ ウ人 は こ の地 域 と古 くか ら友好 関係 にあ ったた め, 距 離 的 には カ ンパ ル川経 由の方 が近 い に もかか わ らず, 伝 統 的 には 金 その他 を パ タパ ハ ン 経 由で 輸 出 して い た [Andaya 1975:174; Burger 1836:208]
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パ タパ -シ の重 要性 は,19世紀 初頭 以来パ ダ ン高 地 に コー ヒー栽 培 が拡 大 す るにつれ て 低下 した。 とい うの も, ガ ンビア と異 な って コー ヒーの よ うに嵩 張 る商 品を運 ぶ には, パ ダ ン高 地 (特 に リマ ・プ ル ・コタ地 域 ) か ら よ り近 い カ ンパ ル川へ運 ぶ方 が便 利 で あ った か らで あ る [Dobbin 1977:33]。 パ タパ - ンが衰退 して い った反 面, シア ク 川 中流 のパ カ ン ・パ ル の重 要性 は19世 紀 中葉 以 後増 大 して い った。次 の カ ンパ ル川 ル ー ト の項 で述 べ るよ うに, パ ヤ クンブを起 点 と し てパ ダ ン高 地 の 産 物 の 一 部 は, 距 離 的 に近 い カ ンパ ル川 を タ ラタ ック ・プル (Taratak Bulu)まで下 り, そ こか ら陸路 で 18キ ロメ ー トル の ところ にあ るパ カ ン ・パ ル まで運 ぶ こ と もで きた。 1869年 にス エズ運 河 が開通 す る と, ヨー ロ ッパ とア ジアの海 運 は飛 躍 的 に容 易 にな り, ス マ トラの河 川貿易 量 も 増 加 し た。 この よ うな新 た な状 況 の もとで, コー ヒ ー よ りさ らに嵩張 る ロタ ンの よ うな森 林産 物 620 1.Batu Gala 2.patapahan も多量 に輸 出 され るよ う にな った。 こう して 中継 貿易地 と して のパ カ ン ・ パ ル の重 要性 はパ タパ -ンの それ を凌 いで い った ので あ る。 パ カ ン ・パ ルか らの輸 送 は, 直接 シ ンガ ポ ール や マ ラ ッカへ 向か う場 合 と, シア ク ・ス リ ・イ ン ドゥラプ ラで一 旦荷 を降 ろ し, そ こか らマ レー半 島諸港 あ るい は ヨー ロ ッパ へ運 ばれ る場合 と が あ った。 1878年 にイギ リス の 船 会 社 が シ ンガ ポ ールーパ カ ン ・パ ル 航 路 を 開 設 して lKoloniGalVcrSlag 1878:104], パ カ ン ・パ ル に蒸 気 船 の時 代 が到来 す るので あ るが ,13) それ まで は60- 100トン積 み の 大 型現 地 船 や 中国人 の ジ ャンクが この河 港 の海 外 貿易 を担 う主 力 で あ った [IjzermangfαJ.1895:479 ;Muller 1837:30]。 パ カ ン ・パ ル か ら シ ンガ ポ ール お よび マ ラ ッカ ま で の 所 要 日数 は, 蒸 気 船 以外 の場 合 お よそ7日間 で あ った lloc.Gil.]. シア ク ・ス リ ・イ ン ドゥラプ ラは シア ク王 国 の王都 で あ り, シ ア ク川 の最 も下 流 (海 か ら約150キ ロメー トル )の貿易港 で あ った。 18世 紀 末 まで ス ル タ ンは 中流,下 流 地 域 に 対 して 特 定 輸 入 品 の 専 売 権 (S主hah) を 行 使[Anrooij 1885:274-275]す る一 方 ,自 ら も多数 の舟 を 所 有 して 貿易 を 行 な って い た [Anderson 1971:352]。 しか し, 19世紀 初 亘削こ王 位継 承 を め ぐる内紛 が宮 廷 内部 で起 こ って 以来, 王 国 の 内陸地 域 の貿易 に対 す る影 13)1878年に開設された航路は不定便であったが, 1879年 には10日に 1度 寄港する定期便 が開始 され た [KoloniaalVerslag 1879:101]Oな お 1890年代 初めには シンガポ-ル在住 の 中国人 所有 の蒸気船 もパカン ・パルに寄港するよう になった [IjzermaneLaL.1895:479]。大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部 におけ る河 川交易
1:2.500,000
5
0 10OY Rivers(I)KamparKanan(II)KamparKiri(Ill)BatangKapas(IV)BatangSiBayang(V)BatangSiNgingiS(VI)Sungai Kuning(VII)BatangNilo
Places1.Kuo2.Bangkinang3.PangkalanKapas4.Pangkalan Sari5.Pangkalanlndarung
図4-1 カンパル川ルー ト 撃 力 も王 室 貿易 も急 速 に衰 退 して い った ので あ る [21bid.:337]。 それ だ けで な く, 1844年 ス ル タ ンは上記 の専 売 権 を 放 棄 す る条 約 を オ ラ ンダ に 押 し つ け られ た [KoloniaalVerslag
I884:17]。 これ に よ り 直 ち に ス ル タ ンの 専 売 権 が 消滅 した とは思 えな い が, シア ク ・ス リ ・イ ン ドゥ ラプ ラで の貿 易 が衰退 した こ と は確 か で あ る。 19世 紀 末 オ ラ ンダは東海 岸 地 方 を ほ ぼ支配 下 に置 くと, 積 極 的 に河 川交 易 に参 入 す る よ うにな った。 1881年 には オ ラ ンダの蒸 気 船 が 定 期 的 に シア ク ・ス リ ・イ ン ドゥ ラプ ラに寄 港 す るよ うにな り, シ ア ク川 の河 川交 易 を 刺 激 し, 同時 に流 域 の森 林産 物 輸 出 を も増 加 さ せ た。14)しか し,シ ア ク川 ル ー トの 貿易 中心地 は 中流 のパ カ ン・パ ル- 移 行 して しま った。 2. カ ンパ ル川 ル ー ト カ ンパ ル 川 ル ー トは大 き く三 つ に 分 か れ 14)これには,オランダの 内陸への介入によって, パ カン ・パルを初め 内陸 の治安が安定 したこ とも影響 していた [Buys1886:346;Koloniaal Verslag1886:15
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た。第 1は, パ ヤ ク ンブー ノヾン カ ラ ン ・コ タ ・ノヾル(Pangkalan Rota Baru) -タ ラ-タ ック ・ブ ルーパ カ ン ・バ ルー シ ア ク ・ス リ ・イ ン ドゥラプ ラの ル ー トで あ る。 第 2は, パ ヤ ク ンブ-ク オ (Kuo)- ム ア ラ ・サ コ (M uara Sako)-パ ラ ラ ワ ン (Palalawan)を経 由す る カ ンパ ル ・カナ ン (カ ンパ ル 川 右 俣 ) ル ー トで あ る (図4-1)。 第 3は, カ ン パ ル ・キ リ (Kampar Kiri - カ ンパ ル 川左 俣 ) ル ー ト で あ り, その 中 には カ ンパ ル ・キ リ川支 流 の 複 数 の河 川 ル ー トを含 む 。 これ らの うち第 1 の ル ー トにつ い て は シア ク川 ル ー トの箇 所 で 説 明 して あ るの で, 以下 に第 2お よび第 3の ル ー トにつ いて 述 べ よ う。 第 2の カ ンパ ル ・カナ ン川 ル ー トは, い わ ば カ ンパ ル川経 由 の主 要 ル ー トで あ った。 こ の ル ー トには,パ ダ ン高 地 (パ ヤ ク ンブ) か ら最 も近 いパ ンカ ラ ン ・コタ ・パ ルを 初 め, クオ, バ ンキ ナ ン (Bangkinang),カ ンパ ル , タ ラタ ック ・ブ ル, ム ア ラ ・サ コ, パ ラ ラワ ンな どの集 散地 が あ った。 カ ンパ ルノーtは か な り古 くか らス マ トラの 内 陸 部 と外 部 とを 結 ぶ重 要 な交 易 ル ー トで あ っ た。 カ ンパ ル ・カナ ン上 流 の ム ア ラ ・タ クス ストウー バ (Muara Takus)に 残 さ れ た 仏 塔 は , 12世 紀 (A.D.) 以 前 に 湖 る こ とは な い に して も [Loeb 1974:324], 遅 くと も15世 紀 ごろ ま で には建 立 され て い た もの と思 わ れ る。 そ し て ム ア ラ ・タ クス は古 くか ら河 川交 通 を 利 用 した 内陸 の交 易 中心地 で あ った。 錫 を産 す る この地 方 は 17世 紀 には マ ラ ッカ と直 接 貿易 を 行 な って い た [Andaya 1975:107;Anony・ 621
東 南 ア ジア研 究 18巻4号 図4-2 カンパル ・キ リ川ルー ト mous 1842:21]。 しか し, カ ンパ ル 川 が特 に重 要 な河 川 貿易 ル ー トと して 利 用 され るよ うにな った の は, 既 に述 べ た よ うに, パ ダ ン 高地 に コー ヒー栽 培 が広 ま った19世 紀 以 降 の こ とで あ った。1830年 代 には, パ ヤ ク ンブか ら陸 路 でパ ンカ ラン ・コタ ・パ ル に行 き, そ こか ら舟 で シ ンガ ポ ー ル まで (途 中で荷 の積 み替 えを 行 う 日数 を 含 めて )23-24日の行程 で あ った。 ま た シ ンガ ポール か ら逆 に カ ンパ ル 川 を 遡 航 してパ ヤ ク ンブ に至 る行 程 は お よ そ 1カ月 で あ った [Muller 1837:30]。カ ン パ ル川 中流 お よび下 流 流 域 は19世 紀 末 の オ ラ ンダ植 民 地 体 制 下 にあ って 「自治領 」とされ , 在 地 権 力 は あ る程 度 の 自治 を 認 め られ て い た が, パ ララ ワ ン を 拠 点 とす る 首 長 (Datuk Kampar)は , パ ラ ラ ワ ン- シ ンガ ポ ール 問 の海 上 輸 送 を 自 ら所有 す る大 型 船 (tongkar) で独 占的 に行 な って い た よ うで あ る。ただ し, パ カ ン ・パ ル に蒸 気 船 が 寄 港 す るよ うにな っ て 以来 , タ ラタ ック ・ブ ル よ り上 流 の カ ンパ ル 川 流域 諸 地 域 は次 第 にパ カ ン ・パ ル経 由 の 貿 易 を行 うよ うにな った[Faes1882:502]。 カ ンパ ル川経 由 の第 3の 貿易 ル ー トは カ ン パ ル ・キ リ(カ ンパ ル 川左 俣 )で あ った。 この 622 ル ー トは さ らにバ タ ン ・ カパ ス(Batang Kapas), バ タ ン ・シ ・バ ヤ ン(Ba -tangSiBayang),バ タ ン ・シ ・ギ ンギ ス (Batang SiNgingis)とい う 舟 の 航 行 可能 な三 大 支 流 に分 かれ, それ らは いず れ も 商 業 ル ー トで あ った (図 4-2)。 さ らに これ らの 河 川 は陸路 に よ って ス マ トラ中央 部 の ほ ぼ全 域 と 連 絡 して い た。 カ ンパ ル 川本 流 に近 い グ ヌ ン ・サ ヒ ラ ンか らは カ ンパ ル ・ カナ ン川 の商 業 中心地 バ ンキ ナ ンに至 る陸 路 が 走 って お り, さ らに上 流 の ク ン トゥか らは タ ンジ ュ ン ・パ リッ トを経 てパ ンカ ラ ン ・コ タ ・パ ル に 続 く陸 路 が あ り, 両 地 点 は 徒 歩 で4日 の 行 程 で あ った [Muller 1837:31 -32]。 上 に述 べ た二 つ の陸 路 が 直接 カ ンパ ル ・カ ナ ン川 ル ー トに指 向 して い た の に対 して , バ タ ン ・カパ ス, バ タ ン ・シ ・バ ヤ ン, バ タ ン ・シ ・ギ ンギ ス の3河 川 ル ーート (図4-2) はパ ダ ン高 地 の タ ナ ・ダタ ール (Tanah Da-tar)お よび南 の クア ンタ ンー イ ン ドゥ ラギ リ 川 ル ー トと連 絡 して い た。バ タ ン ・カパ ス 川 上 流 のパ ンカ ラ ン ・カパ スを 中心 と した交 通 は, パ ヤ ク ンブ- (徒 歩 2日)- パ ンカ ラン ・ カパ ス一一(舟 で2- 3日)- ク ン トゥー→(舟 で 8日)- パ ラ ラワ ンの全 行 程 で約11日間 か か り, 同 じル ー トをパ ラ ラ ワ ンか ら遡 航 す る と 河 川 の水 の状 況 によ って16-20日 間 か か っ た。ノヾンカ ラ ン ・カパ ス にはせ いぜ い0.5ト ン積 み の舟 しか遡 航 で きな い が, ク ン トゥか らは6トン積 み の舟 が 利 用 で きた [loc.cit.]。 パ ンカ ラ ン ・サ リとパ ンカ ラ ン ・イ ン ダル ンは陸 路 でパ ダ ン高 地 の ア ラバ ン地 区を経 て
大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部 に おけ る河川交易 図5 クア ンタン-インドゥラギ リ川ルー ト タナ ・ダター ル地 域 に連 絡 して い る (徒 歩 で 2- 4日)。一 万,5- 6日の航 行 で カ ンパ ル ・キ 1)下 流 の リパ ッ ト ・カイ ンに 至 る [loc. cii・;Ijzermanel al. 1895:37]。 な おパ ン カ ラ ン ・イ ンダル ン と同一 河 川下 流 の ム ア ラ ・ラ ンプ か らほ クア ンタ ンー イ ン ドゥ ラギ リ 川 沿 い の商 業 中心 地 で あ ったパ ダ ン ・ク ラブ (Padang Tarap) お よび コ ト ・トゥオ (Koto
Tuo)- 陸 路 が続 いて い た (後 述 参 照 )。上 に 述 べ た商 業 中心 地 に 「パ ンカ ラ ン」 のつ く地 名 が い くつ か あ った。 「パ ンカ ラ ン」は ス マ トラ中 ・南 部 の河 川沿 い に発 達 した丹 着 き場 あ るい は集 散 地 を 意 味 す る言 葉 で, この地 域 には非 常 に多 くみ られ る地 名 で あ るが, これ につ いて は本 稿 Ⅳで再 び 詳 し く述 べ る。 3. クア ンタ ンー イ ン ドゥ ラギ リノtlル ー ト クア ンタ ン- イ ン ドゥラギ リ
川
はパ ダ ン高 地 の シ ンカ ラ(Singkarak)湖 に源 を発 し,上 ・ 中流 部 を クア ンタ ン川,下 流 部 を イ ン ドゥ ラ ギ リ川 と呼 ぶ 。以下 の記 述 で は便 宜 的 に この 川 を イ ン ドゥ ラギ リ川 と 略称 す る こ とにす る。 イ ン ドゥラギ リ川
ル ー トの 特 徴 は, シ ジ ュ ンジ ュ ンを経 由 してパ ダ ン高 地 の 中 ・南 部 と連 絡 して い た こ と, よ く発 達 した陸 路 に よ って カ ンノヾル ・カ ナ ンお よびノヾタ ン ・- リ流 域 と密 接 な 関 係 を もって い た こ とにあ る (図5)。 この ル ー トの主 要 集 散 地 はパ ダ ン・タ ラブ ,コ ト・トゥオ, ル ブ ク・ジ ャン ど, そ して タル (Taluk), バ サ ラ (Basarah),イ ヌ マ ン (Inuman), チ ェ ラ ンテ ィ(Ceranti)を 含 む クア ン タ ン地 区で あ った。 これ ら の ほか に イ ン ドゥ ラギ リ王 国 の 王都 で あ った レ ンガ ッ ト (Rengat)15) - 河 口 よ り157キ ロメー トル 内陸 に入 った 河 港都 市16)- もかつ て は金 と胡 轍 貿易 の重 要 な 中継 地 で あ った [Andaya 1975:128]。 19世 紀 前半 の レ ンガ ッ トにお け る河 川交 通 の 実 態 は 明 らか で は な い が,19世 紀 中葉 以 降 は 中国 人 の ジ ャン クが レ ンガ ッ トを 通 り越 して 上 流 の チ ェ ランテ ィ と直 接 取 り引 きす るよ う にな った よ うで あ る[Ⅰ.K. 1876:408]。 イ ン ドゥ ラギ リ川
で 舟 の航 行 が 可 能 な最 上 流 地 点 は, パ ダ ン高 地 南 部 と東 海 岸 地 方 との 交 易 の窓 口で あ った シジ ュ ンジ ュ ンか ら8キ ロメ ー トル ほ ど北 の ム ア ラ ・プ ランキ ス (図 5参 照 ) で, この あ た りで は12人 乗 り の 母 (bilungkang)が 航 行 可能 で あ った。ム ア ラ ・ プ ラ ンキ スを 出 た舟 は70分 ほど下 って モ コ ・ モ コに至 るが, こ こには滝 が あ るた め荷 物 の 15)インドゥラギ リ王国 は1830年代 にオランダ勢 力の侵入を受け,1865年 には王都 をジャブ-ル に移 した [KoloniaalVeNlag1865:11]. な お レンガ ットには19世紀末 に シンガポール と の蒸気船 航路 が 開かれた [Stibbectal.1919 :11]
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16)Stibbeclal.[1921:175] によれば,河 口か らレンガ ットまでは現地船 で12時間 の行程で あった。東南 アジア研 究 18巻4号 積 み 替 えが 必 要 で あ った [Ijzermanela
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1895:320]。 モ コ ・モ コか らコ ト ・トゥオ の 問 は急 流 で あ るた め, この 区間 の遡 航 に要 す る時間 は下 る場 合 の何 倍 もか か った。特 に ド リア ン ・グ ダ ンとコ ト ・トゥオ との区間 は遡 航 が 困難 で, それ に要 す る時 間 は下 りの4倍 で あ った [Muller 1837:33]。コ ト ・トゥオ とチ ェ ランテ ィの問 は10トンか ら25トン積 み の比較 的大 きな帆舟 が利用 で きた[Netscher, E. 1880:49-50]。 さ らにチ ェ ラ ンテ ィよ り 下 流 で大型 の ジ ャン クが利 用 で きた ことは既 に述べ た。 以上 の説 明か ら, 交 通路 と して の イ ン ドゥラギ リ川
は, コ ト ・トゥオまで の小 型 舟 区間, コ ト ・トゥオ とチ ェ ラ ンテ ィ間 の 中型舟 区間, 大 型 の ジ ャンクが航行可能 な コ ト ・トゥオ よ り下 流 の大型船 区間 の3区間 に 分 け る こ とがで きる。 前 に述 べ た よ うに, イ ン ドゥラギ リノllル ー トは 陸 路 を 通 じて カ ンパ ル ・キ リ川 ル ー ト とバ タ ン ・- リ川
ル ー トと結 びつ いて い た。 カ ンパ ル 川方面 とは,パ ンカ ラ ン ・イ ンダル ン (図5の 5), ロゲ (図5の 9), ロゲ ・バ ンギ ア ンな どの中継 商 業 中心地 を 経 て イ ン ドゥ ラギ リ川沿 い の集 散地 と, バ タ ン ・ハ リ 川 ル ー トとは, プ ラウ ・プ ンジ ュ ン (図5の 20) お よび シダ ンクル (図 5の21) か らガ ラ ガ (図5の 12) や カマ ン (図 5の 13) な ど陵 路 上 の集 散地 を経 て イ ン ドゥ ラギ リ川沿 い の 集 散地 と連 絡 して い た。17)最 後 に, イ ン ドゥ ラギ リ川 とバ タ ン ・- リ川 とを結 ぶ 道路網 が 非 常 に密 で あ った こ と, 両 河 川 の 中間 に陸路 綱 にお け る集散 地 が発達 して い た こ とに注 目 すべ きで あ る。 これ らの事 実 は両 河 川 に挟 ま れ た上 流 部 の一 帯 が事実 上一 つ の経 済 圏 を成 して お り,両 河 川 を商業 ル - トと して 同時 に 使 用 して い た ことを示 して い る。 17)これ ら陸路 についてはMuller[1837:33], Gravesl1971:71-73],Ijzermanetal・[1895 :220],Schwartz[1893:336-337]を参照。 624 4.
バ タ ン ・- リ川 ル ー ト バ タ ン ・- リ川 ル ー トは本 流 と最 大 の支 流 トゥンブ シ川 (BatangTembesi)との二 つ に 大 別 で きた。本 流 ル ー トは上 流 部 で陸路 を経 て イ ン ドゥ ラギ リ川 ル ー トお よびパ ダ ン高地 南 部 と, 支 流 の トゥンブ シ川 ル ー トは ム シ川 お よびバ リサ ン山脈 の分水 嶺 を越 えて 西海 岸 のベ ンク レン (Benkulen)地 方 と連結 して い た。 本 流 で河 川交 通 が利用 で きた最 上 流地点 は ガス ン (図6の10) で, この地点 か ら河 口 近 くの集 散 地 ムア ラ ・コ ンペ (Muar aKom-peh)ま で は 舟 で 7- 8日 の 行 程 で あ った [Netscher,F・ 1857:167-169, 172]。 バ タ ン ・ハ リ川 ル ー トとイ ン ドゥラギ リ川 ル ー ト との接点 にあ た るバ タ ン ・ハ リ地方 で は,前 項 で述 べ た よ うに, プ ラウ ・プ ンジ ュ ンや シ テ ィウ ンな どバ タ ン ・- リ川沿 い の集 散地 と パ ダ ン ・タ ラブ, クア ンタ ン地 方 とが複 雑 な 陸路 網 によ って結 ば れ て い た。 バ タ ン ・- リ 地 方 の 最 上 流 可航 地 点 は ス ンガ イ ・ス ラウ (図6の 3)で ,この地点 まで ほ比較 的大 きな 舟 が利 用 で きた [Grijzen 1908:67-70]。バ タ ン ・- リ川本 流 か ら西 に伸 び る陸路 は大 部 分 ア ラ- ン ・パ ンジ ャン- 向か い, その一 部 は さ らに北 の シ ジ ュ ンジ ュ ンへ 向か って伸 び て い た (図6)018) バ タ ン ・- リ川
最 大 の支 流 トゥンブ シ川 は さ らにタ ミアイ, マ ランギ ン, アセ ィ, リム ンな どの支 流を擁 して い るが, これ らの支 流 もまたか な り上 流部 まで航 行 可 能 で あ った [Anderson 1971:390]。 マ ラ ンギ ン川上流 のパ ンカ ラ ン ・ジ ャ ンプ (図6の13) は金 の 産 出地 と して よ く知 られ て い た。 19世紀 初頭 18)Anderson[1971:390] によれば,19世 紀 初 頭, ジャンビか らバタン ・ハ リ川 上流 (地名 は不明)まで15-30日間,下 りは10日間 かか った。 この川の上流部 か らパダン高地 のアガ ムまで 徒歩 で15日間,そこか らパダン港へは さらに3日間の行程であった。大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部における河川交易
1;2.500.000 0 50 100X.M.
∼
River'一
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Rivers(I)BatangJujuan (II)BatangTebo(Ill)BatangTabir(IV)Batang Marangin (V) Batang Tembesi(VI)Batang Tamiai (VII)Batang
A
sei(VIII)BatangLimun
Places1.AlahanPanjang2. SijungJung3.SungaiSurau4.Silago5.Lubuk Terantang 6.PulauPunjung 7.Siguntar8.Sitiun 9.Padang Lawas lO. Gasun ll. Simalidu 12. BidarAlam 13.Pangkalan Jambu 14. TanjungPutus15.KampongPondok16.BukitBulan
図6 バ タ ン こ こか ら下 流 の ジ ャ ン ビまで は 10日ほど の航 行 で あ った [ibid.:391]。パ ンカ ラ ン・ジ ャ ン プは コ リンチ地 方 を越 えて西 海 岸 に至 る陸路 の起 点 で もあ ったが, この行 程 は6日ほ どで あ る [ibid.:398-399]。 トゥ ンブ シ Jltl上 流 部 の カ ンポ ン ・ボ ン ドック, タ ンジ ュ ン ・プ トゥス, 最 上 流地 区の ブキ ッ ト ・ブ ラ ンは ム シ川へ続 く陸 路 の起点 で あ った 。 1860年 代 の 報 告 に よれば , これ らの陸 路 を 経 由 した トゥ ンブ シ川流域 とム シ川上 流 の ラワス (Rawas) 地 方 との交 易 は非 常 に活 発 で あ った よ うで あ る[Koloniaal Ve,Tlag1868:10
]
。
バ タ ン ・- リ川下 流 の ジ ャ ン ビには 1877年 7月 , バ ク ビアーバ レ ンバ ン- ジ ャ ンビを結 ハ リ 川 ル ー ト ぶ蒸 気 船 の定 期航 路 が 開設 され た [KoloTliaaL VerSlag1887:104]. 1878年 にバ タ ン・- リ川 を蒸 気 船 で遡 航 した オ ラ ンダ人 の報 告 に よれ ば, 同年 にはバ タ ン ・- リ川を上下 す る河 川 輸 送 は以 前 と比べ て急 増 して い た。 これ には 当時 ヨー ロ ッパ か らの熱帯 産 物 に対 す る需 要 が 全般 的 に増 大 して い た とい う 理 由 の ほか に, 1877年 に蒸 気 船 の定 期 航 路 が開設 され た とい う新 た な事 態 も誘 因 と して 働 いて い た も の と思 われ る。19)次 にム シ川 ル ー トにつ いて 19)1878年 のオランダ人の報告 [Vethト2:95] は前年の蒸気船航路 の 開設 には全 く触れてい ないが,実際 にはこれを 念頭 に置いていたも のと思われる。東南 アジア研究 18巻4号
Rivers(Ⅰ) Batang Rawas(ⅠⅠ)Batang Rupit(ⅠⅠⅠ)Batang Lakitan(IV)MusiUlu(V)LematanIlir
Places1.Koto Tanjung 2.Lubuk Kubung 3.MapatLicin 4.Muara Menkulem 5・Pulau Kida 6.Pangkalan7. Sungai Batiung 8・ Suralungung 9. Tebin Tinggi 10. Lahatll.MuaraInin 図 7 ム シ 川 ル ー ト 説 明 しよ う。 5. ム シ川 ル ー ト これ まで に扱 った四つ の河 川 ル ー トが西 ス マ トラ地 域 との交 易 を重 要 な経 済 関係 と して い たの に対 して, ム シ川 ル ー トは それ 自体 が 一 つ の独 立 した経 済 圏を形成 して い た とい え よ う。 これ は まず第 1に, ム シ川流域 が西 ス マ トラ地 域 か ら地 理 的 に離れ て い た た めで あ る。 第 2に, ム シ川以外 の4河 川 の流域 は森 林 産 物 は豊 富 にあ った もの の食 糧 は不足 し, これ を西 ス マ トラ (特 にパ ダ ン高 地 ) に依存 しな けれ ば な らなか った の に対 して, ム シ川 流域 は あ とに述 べ るよ うに少 な くと も19世紀 中葉 には米 の輸 出能 力 さえ あ った た め, この 地 域 は食 糧 に関 して西 ス マ トラに依存 す る必 要 はなか ったので あ る。 ただ し, ム シ川上 流 部 とバ タ ン ・- リ川支 流 の トゥンブ シ川上 流 とを 結 ぶ 陸 路 によ って人 や物 の 交 流 が多少 626 と もあ った こ とはい うまで もな
い
。20) 筆 者 が確 認で きた限 りで の舟 に よ る 遡 航 限 界 は 以下 の ご と くで あ る。 まず, ル ス ン ・バ ト ウ,ス ラル ング ン,パ ンカ ラ ン, ム ア ラ ・ム ン クム ン, マパ ッ ト ・リチ ン な どの 主 要 な 河 川 沿 い の 集 散 地 を 擁 す る ラワス川 (BatangRawas)の場合 , 遡 航 限界 は コ ト ・タ ンジ ュ ンで あ っ た (図 7参 照 )。上 記 の 集 散 地 は一 方 で北 に隣接 す るバ タ ン ・ - リ川上 流 の リム ン地方 と陸路 で結 ば れ, 他方 で西 に向か って 伸 びて い る 陸 路 を 経 て 西 海 岸 の モ コ ・モ コに通 じて い た。 ル ピ ッ ト川 (Batang Rupit)の場 合, 遡 航 限界 はル ブ ・クブ ンで あ り, ほ ぼ 源 流 に 近 い この 地 点 で も比 較 的 大 きな舟 が 利 用 可 能 で あ った [Veth I-2:293;ⅠⅠ:100]。21)ム シ ・ウル 川 水 系 で は テ ビ ン ・テ ィ ンギ まで は20人 の漕 ぎ 手 を要 す る舟 (bidar)が航行 可能 で あ った。 な お テ ビ ン ・テ ィ ンギーパ レ ンバ ン間 は下 航 に25日, 遡航 に 1カ月間 か か った [Hoeven 1864:64-65]。 ル マタ ン ・イ リール川 の遡 航 限界 は, や は りこの川 の源 流 に近 い ラ- ッ ト で あ った。 19世紀 の後半 にオ ランダ人 は, ム シ川流域 の要衝 で あ った この地 に ,舟(bidar) でパ レ ンバ ンか ら14- 16日間 費 や して行 政 官 や物 資 を輸 送 して い た[Veth L2:39]。 20)パ レンバ ン上 流 には古 くか ら ミナンカバ ウ人 が 移住 していたことか ら判断 して も,ムシJtl 上流 とバタン ・- リ川上流, さらには酉スマ トラ地方 との交流 があったことは明 らかであ る [VethL2:122]。 21)この地点 での舟の大 きさは長さ18メー トル, 幅2メー トル強であった [Anonymous1842: 6-9]。大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部におけ る河川交易 表1 シ ア ク 川 ル ー ト の 商 品 流 通* パ ダ ン 高 地
金 ,米 , コーヒー,terubuk魚 の塩 干 物 ,terubuk魚 の は ら こ,藤 (rotan), 樹 脂 (damar),安息香 (benzoin),樟脳 (Camphor),サゴ,タバ コ,ガ ンビア,プルチャ ・ ゴム,1)黒檀 ,砂糖,種 々の果物,舟 (船),衣,家具用木材,象牙,カポック (silkcotton), 木蝋,密蟻 米 ,局,午 ノヾカン・ノヾ
ル
terubukその他の塩干魚 ,terubukのは らこ 塩 ,秩 (鈷その他の鉄製品を含む), インド (コロマンデル, スーラッり および ヨ ーロッパ産の綿布 ,綿糸 ,原綿,阿片 ,陶器 ,疏 ,火薬 ,セイロンの宝石 ,ジャワの タノヾコ シ ア ク ・ ス リ ・ イ ン ド ウ ラ プ ラ 注 1) 通常のゴム樹 (Hevea)以外の樹木か ら採れる樹液を乾燥 した弾力性の少ないゴム様物質 *コは海外貿易品の流れを示 し,ごは流域およびパダ ン高地で生産,消費 された域内交易品の流れを示 す。表では海外貿易品の全てがパダ ン高地 と海外貿易港 との間を直接流れていたようにみえる。 しか し,実際には海外貿易品の一部がパ カ ン・パルのような中継交易地を経て海外貿易港 とパダ ン高地 と の問を流れていたのである。以下 ,表2か ら表5まで も同様である。Source:Anderson[1971:352-353],Gramberg[1864'.524],Marsden[1975:357],Munerl1837: 3ト33
]
,
Nieuwenhuyzen[1858:417-418] パ レ ンバ ンには ス マ トラ東 海 岸 沿 い の諸 港 の うち最 初 に 蒸 気 船 の 定 期 航 路 が 開 かれ, 1866年 にはバ ク ビアー シ ンガ ポ ー ルーパ レ ン バ ン 航 路 (月 2便 ) の 運 航 が 開 始 さ れ た lKoloniaalVerJlag1866:74]. ま た 1878年 に は ル マ タ ン ・イ リール 川上 流 の ム ア ラ ・イ‥ ンに も月 2回 の割 合 で蒸 気 船 が寄 港 す る よ う にな った。 これ ら蒸 気 船 の寄港 によ って, 前 項 で述 べ たバ タ ン ・- リ川 ル ー トの場 合 と同 樵 , ム シ川 ル ー トの河 川 貿易 は一 層 刺 激 され た もの と思 わ れ る。以 上 で河 川 ル ー トその も の の説 明を終 わ り, 次 に これ ら河 川 ル ー トを 経 由 して どん な物 資 が運 ば れ て い たか を み て み よ う。 ⅠⅠⅠ 河 川 交 易 とそ の商 品 河 川 ル ー トを経 て ス マ トラ内部 に もた らさ れ た商 品, あ るい は ス マ トラか ら輸 出 され た 商 品 の品 目は, 河 川 ル ー トに よ って それ ほど 大 きな違 い は な い が, それ で も河 川 ご との輸 出入 品 に多少 の特 性 が み られ た。 な お, 河 川 を 利 用 した流 域 内部 お よび流域 と後 背地 との 交 易 が海 外 貿 易 に と って も重 要 で あ った こ と は, 既 に述 べ た とお りで あ る。 以 上 を念 頭 に 置 い て 河 川 ご との商 品流 通 を み て み よ う。 1. シ ア ク川 ル ー ト まず このル ー トで 運 ば れ た主 要 な商 品 を表 1に示 して お こ う。 シ ア ク川ル ー トの場 合 , 中流 の パ カ ン ・パ ル が 重 要 な 中継 地 で あ る が, これ を 中心 と した域 内交 易 の実 態 が 分 か らな い ので表 1で は省 略 して あ る。表 に掲 げ た商 品 はいず れ もよ く知 られ た ものば か りで あ るので, こ こで は若 干 の商 品 につ いて 簡単 な補 足説 明を す る に留 め る。 まず 輸 出品 か ら 説 明 しよ う。 シ ア ク経 由 の主 要 な輸 出品 は, 19世紀 以 前 に はパ ダ ン高 地 で採 掘 され た金 と, シ ア ク川 上 流 で採 掘 され た錫 [Andaya 1975:198] 627東南 アジア研究 18巻4号 で あ った。金 は17-18世紀 の最盛 期 には シ ア ク川経 由で海外 に輸 出 され た量 だ けで も年 間 3ピクル に達 して い たが,19世紀 初頭 にはか ろ う じて 輸 出品 目に入 る程度 に減少 し [An・ derson 1971:203],1830年 代 以降 の資料 か らは輸 出品 目と して は現 われ ない。 これ は シ ア ク川経 由で輸 出 され た金 がパ ダ ン高地産 の もので あ り, そ こで の金が18世紀 末 まで にほ ぼ 滴 渇 して しま った た めで あ ろ う [Dobbin 1977;16-17]。 もっ ともパ ダン高 地 において もシア ク川流域 において も金 の産 出が全 く停 止 して しま った とは考 え られ ない。 少 な くと も川砂 か らの砂 金採取 は19世紀 に入 って か ら も行 われ てい た と思 われ るが, その量 は恐 ら く輸 出 に 回す ほど 多 くは なか ったので あ ろ う。17世紀 に重 要 な輸 出品で あ った錫 は19世 紀 には輸 出品 と して は登場 しな くな って しま うが, その 理 由 は 明 らかで はない。22)米 は パ ダ ン高 地 か らパ ヤ クンプー タ ラタ ック ・ブ ル, パ カ ン ・パ ルを経 て シア ク ・ス リ ・イ ン ドゥラプ ラ港 か ら輸 出 され たが, 同時 にシア ク川流域 で も消費 され た。 コー ヒー につ いて は既 に述 べ た よ うに,1847年西 スマ トラ州 に 「強制栽 培制 度 」 が導入 されて以来,東海岸 経 由の輸 出は急 速 に減少 して い った。 Terllbukは シア ク川 河 口 付近 , ベ ンカ リ ス 島周辺 の特産魚 で, 塩千 に して輸 出 され る か ,その 「は らこ」が マ レー ・キ ャビア[Wil・ kinson 1959:1241]と して 輸 出 され た.23) 以上 に述べ た金 ,米 , コー ヒー,tcrubuk以 外 の 輸 出品 は シア ク川 流域 の はば 全域 で 産 出 した。 ただ し,ノヾカ ン ・パ ル よ り下 流 の シ 22)この理 由の一つ として,1800年 代 初頭 か ら 1830年代 を通 じて シアク川上流地方 を も巻き 込んだパ ドリ戦争による混乱が考え られる。 23)シアク川 の河口およびベンカリス島周辺 には およそ300膿 のterubuk漁専用船 があった。 Terubuk魚 はシアク ・スリ ・インドゥラプラ がパダン高地 か ら米を入手 するための重要な 商品であった [Gramberg1864:509]。 628 ア ク王 国領 内で採 れ た象 牙 に対 して は,19世 紀 後半 において もスル タ ンが先 買権 を行使 し て 買 い集 め,輸 出 して い た。 このスル タ ンは 象牙 だ けで な く犀 の角や牛 黄(gulia-bezoar)
に対 して も先 買権 を もって い たが ,24)こ れ ら は量 が少 なか ったためか輸 出品 目と して資料 に現 われ る こ とはない。 輸 入 品 の うち鉄 は,焼畑 を行 い藤 その他 の 森 林産 物 を採取 す る際 の, 刃物 を作 るため に 不可欠 で あ った。 また河 川で漁 をす る際 に使 用 され る鑑 も輸入 されて い た。 シア ク王 国 内 部 で はスルタ ンが輸入 され た鉄 と塩 の専 売権 を もって い たが,1844年 にオ ランダとの契約 で これ を放 棄 させ られて しま った (本 稿 Ⅱの 1参 照 )。輸入 品 目の うち銃 と火薬 は,19世紀 のス マ トラ中 ・南 部 において かな り広 範 な需 要 が あ り (後述参 照 ), ほか の河 川 ル ー トか らも輸入 されて い た。住民 は ヨー ロ ッパ の銃 の はか にスマ トラお よび はか の群 島地域 で製 造 され た銑 を も使用 して い たので,25)これ ら の銃 に必要 な火薬 を輸 入 して い た。 シア ク川 ル ー トの海外 貿易 の主要 な相手地域 は, ほか の河 川ル ー トの場合 と同様 ペ ナ ン,マ ラ ッカ, シ ンガ ポール,バ ク ビアで あ った。18世紀末 まで は シア クには多数 の コロマ ンデル商人, ペ ナ ンや マ ラ ッカ商 人 がや って来 た よ うで あ るが [Marsden 1975:357],19世紀 の後半 には彼 らの名 は資料 に現 われ ない。恐 ら く, オ ランダ人 が1858年 にシア ク地 方 を オ ラ ンダ の保護領 に して か ら以降 はオ ランダ人 , 中国 24)シアク王国 のスルタンは,領内で採れた一対 の象牙 あるいは犀の角のうち1本を 強制的 に 衣類 と交換 し,他の一方を優先的に市場価格 で買い上げる権利をもっていた。「牛黄」とは 羊など動物の 胃腸 にできる結石 で,医薬品と して珍 重 され た [Anrooij1885:275-277; Nieuwenhuyzen1858:405
]
。
25)ラッパ銃 (pemoras),小銃 (snapan), ミナン カバウ式火 縄 銃 (setinger)が代 表 的 なもの (Anderson[1971'・404-tO5]の写真参照)O大木 :19世紀 スマ トラ中 ・南部に おけ る河川交易 表2 カ ン パ ル 川 ル ー ト の 商 品 流 通 パ ダ ン 高 地 コー ヒー,ガンビア,樹脂,木蝋 ,密蝿 ,プルチャ ・ゴム,藤 ,象牙 ,安息香,タバ コ,香木 (laka),砂金,米 米 ,ココナツ,ココナツ池,漁網 水牛 ,漁細 (ラオ,ルブ ・シカピン) ● 衣類 ,綿布 ,米 ,タバ コ, 果物,カポック,砂糖, ガンビア (パヤクンプ) ノヾンカラン
・
コタ ・ノヾル .・●水牛 (Ⅴコタ) ●・.山羊 (ジャンビ) 塩干魚,terubllkのはらこ,ロープ パ ラ ラ ワ ン 塩 ,鉄および鉄製品,飼 ,綿布 ,原綿,疏 ,火薬,阿片 Source:Burgerl1836:215]
,
Buysl1886:326],
[1889:160-161],Mullerl1837:29-SOL 人, イギ リス人 が主 た る貿易 の担 い手 で あ っ た と思 われ る。 シア ク川 ル ー トの域 内交 易 につ いて の詳細 は分 か らな い が, 最 も重 要 な交 換 は,パ ダ ン 高 地 の米 とシア クJtl河 口付近 の塩 干 魚 お よび terubuk魚 の 「は らこ」 で あ った。 この ほか パ ダ ン高 地 か ら馬 や牛 もシア ク川流域 各地 に 運 ば れ た。 シア ク川流域 で は上記 の輸 出品 の ほか に カ ッサバ ,胡 椴 ,馬 鈴薯 ,横梯 子 ,米 が 焼 畑 で 栽 培 され て いたが [Gramberg 1864 :520], それ らは 自家 消費 され るか,せ いぜ い近 隣 の市 場 に出荷 され て地 域 内で 消 費 され た 。2
.
カ ンパ ル川 ル ー ト 海 外 貿易 に関す る限 り, カ ンパ ル川 ル ー ト の貿 易 品 目 とシア ク川 ル ー トの それ とは基 本 的 に同 じで あ った。 ただ し,表 2に示 した カ ンパ ル 川 ルー トの貿易 品 の数 は表 1に掲 げ た 貿易 品 の 数 よ りもは るか に 少 な く な って い る。 これ は, カ ンパ ルノーlル ー トの貿易 品 は多 くの場 合, このル ー トの最 終 貿易港 で あ るパ ラ ラワ ンを経 由 しないで, タ ラタ ック ・ブル KoloniaalVeTSEag[7878:15;1880:9],
L H. Netscher,E.[1880:38-39L
VethlI-2:83] を経 由 して シ ア ク川 ル ー トに合 流 して しま っ たか らで あ る [Netscher,E. 1880:39]。 毛 皮 の輸 出品が カ ンパ ル川 ル ー トに入 って い る の ほ, カ ンパ ル ・キ リ川流域 で馬 や牛 の飼 育 が盛 んで あ ったか らで あ る[KoloniaalVerslag I880:9]。輸 入 品 の うち塩 につ いて少 し補 足 して お こ う。 パ ンカ ラ ン・コタ ・パ ル に運 ば れ て きた塩 の主 要 な部 分 は シ ャムの塩 (garam Siam)で , これ は オ ラ ンダ 政 庁 が 西 ス マ ト ラ州 で 専 売 に して い た マ ドゥラ産 の 塩 よ り 白 く,住 民 に好 まれて い た[Holle 1877:405 -407]。さ らに専 売塩 の価 格 は ,カ ンパ ル 川経 由 (あ るい は シア ク川経 由) でパ ンカ ラ ン ・ コタ ・パ ル に運 ば れ た シ ャムの塩 の 2倍 で あ った [Netscher,E. 1880:39]。 質 と価 格 の双 方 において政 庁 の専 売塩 は不人気 で,東 海 岸か ら河 川 ル ー トを経 て西 ス マ トラ-塩 の 密輸 が行 われて い た ので あ る。 ところで,パ ンカ ラン ・コタ ・パ ル は タ ラ タ ック ・ブル の よ うに海 外 貿易商 品 の通 過地 で あ っただ けで な く,近 隣地 域 の 日用 品,食 糧 に対 す る重要 な交 易 中心地 で あ る と 同 時 に , それ 自身大 きな消費地 で もあ った。 それ東南 アジア研究 18巻4号 表 3 インドゥラギ リJtlルー トの商品流通 唐モロコシ,木材,米,香木,薬,象牙 ,密蟻 ,コーヒー,ガ ンビア,プ ルチャ ・ゴム, 藤 ,タバ コ,木嶋 ,ココナツ,インディゴ,カポック,甘薯 ,辛 ,金 ,サゴ バ グ ン 高 地 米,ピーナ ッツ油,砂糖 ,ココナツ, 池,塩干魚 (酉スマ トラ海岸 産),石 油 水牛,午,原 綿,プ ルチ ャ・ゴム,樹 脂,藤のマッ ト ノヾタン・ ハリ地方 陶器 (現地産) パダン ・タラプおよび クアンタン地方 塩 ,阿片,綿製品,タバ コ,陶器,秩 ,染料,疏 ,火薬,銅製品 レ ン ガ ッ ト Source:Anonymous[1841:54ト543]