近
世
農民層の葬祭・先祖祭祀と家
●親
族・村落
大
藤
修
四三ニーま
じめに 家 単 位 の 先 祖祭祀の成立と規範 葬式・法事の家例ー安芸国高田郡多治比村丸屋吉川家の例− 葬式・服忌の地域慣行 先 祖 観と系譜観 近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 論 文 要旨 本 稿は、近世農民層の葬送・法事および先祖祭祀のあり方と、その際の家、 同族、親族、地域住民の関与の仕方と役割、それをめぐる諸観念、規範な どについての考究を課題とする。同族結合が強い段階では死者の葬送・供養 や 先 祖 祭 祀も同族の長を中心に同族団の儀礼として執行されていたようであ るが、個々の家が自立性を強めるに伴い、家がその執行主体となり、独自に 墓碑、位牌、過去帳などを作るようになる。生前の生活および死後の魂の安 穏 が家にょって基本的に保障されるようになった段階では、家を保ち先祖の 祭祀を絶やさないことが絶対的な規範として子孫に要請される。だが、家で の 生活が親類や地域共同体の相互扶助にょって成り立っていたのと同様、死 者の葬送、霊魂の供養も、親類や地域共同体がその保障を補完する機能を果 たしていた。葬式・法事の営み方に当主の直系尊属、配偶者か直系卑属、傍 系 親 か にょって格差をつけていた例もみられる。休業・服忌の期間は、父母 の 死去の場合とりわけ長く設定している所が多い。他家に養子あるいは嫁と して入った者も、葬儀はもちろん年忌法要にも参加し、弔い上げにょって祖 霊‖神に昇華するまでは親の霊の面倒をみるのが子としての務めであった。 弔 い 上げ後は家の継承老によってその家の先祖として代々祭祀されていく。 直 系家族制のもとにおいては歴代の家長夫婦がその家の正規の先祖であり、 単身のまま生家で死去すれば無縁仏として扱われる。生前は家長・主婦とし て 家 を 支え、死後はその家の先祖として子孫に祭られるというのが現世と来 世 を 通じた正規の人生コースとされており、再婚の多さは正規の人生コース に復させる意味ももっていたと思われる。家の成員の霊魂の間には家の構造 に 規定された差別の体系が形づくられていたが、と同時に、家を基盤に広く 成立、成熟した先祖観は社会的にも差別を生み出す契機をはらみ、その一方 で 天皇へ結びつく性格も有した。 67国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) は
じめに
近 世史プロパーの歴史研究者の間では、先祖祭祀の問題は等閑に付さ れ てきた。家について研究されても、もっぱら社会経済史的観点から、 家 の 存 在 形態と家が取り結ぶ社会的諸関係の解明に主眼がおかれ、先祖 祭祀に関しては意が払われなかった。 しかし、先祖祭祀の問題を捨象した家の研究はそもそも片手落ちであ るし、近世に生きた人々の意識や思想、生活様式、行動様式などを考え る上でも先祖崇拝・祭祀は欠かせない問題である。また、共同体論の立 場 からも、葬送および霊魂の供養に共同体がどのようにかかわっていた か は 重 要な問題であると思われる。なぜなら、共同体は、成員の生存を 保 障 するのみならず、死後の魂の安穏を保障する機能をも果たしていた は ず だ からである。だが、従来の歴史学における共同体論は、現実に生 きている者の生活保障のシステム、およびそれと支配システムとの関係 にもっぱら関心を払い、死後の保障の問題を欠落させてきた。 家と地域共同体の崩壊が進んでいる現在、生者の生活保障の面では不 十 分 な がらも新たなシステムを創り出している我々も、死後の魂の安穏 を 保 障 する新たなシステムは未だ創り出しえていない。それが現代に生 きる人々、とりわけ老齢者に精神的な不安をもたらし、大きな社会問題 となっていることは周知の事実である。したがって、過去のそれぞれの 時 代 に お いて、人々は死後の問題をどのように考え、それに対処するた め にどのようなシステムを創り出してきたかを具体的に明らかにするこ とは、我々が現実の問題に対処していく上で大きな意義をもっていると 考える。 右の学問的課題に取り組んできたのは、もっぼら民俗学や宗教学、社 会学、人類学の研究者であり、歴史学、とりわけ近世史学においては課 題として自覚すらされなかったといってよい。筆 者 は国立歴史民俗博物館民俗研究部主宰の﹁家族・親族と先祖祭 祀﹂をテーマとする共同研究︵一九八六年度ー一九八八年度︶に参加 させていただいたが、隣接諸科学の分野の方々の議論を拝聴するにつけ、 歴 史 学 に お い てもこの問題に本腰を入れて取り組まねばならないとの感 を 強くせざるをえなかった。 筆老はかつて先祖祭祀の問題を組み込んで近世農民層の家について考 ︵1︶ えてみようと試みたことはあるものの、先祖祭祀そのものを正面切って 体系的に論じるだけの力量は未だ持ち合わせていないし、史料的な準備 も不十分である。ここでは、隣接諸科学の分野における諸先学の研究成 果 に 学 び つつ、若干の史料を検討して、近世農民層の葬送・法事および 先 祖 祭 祀 のあり方と、その際の家、同族、親類、村落住民の関与の仕方 と役割、そして先祖観と系譜観の特質などについて覚え書き程度に記 し、共同研究員としての責めをふさがせていただければと思う。そし て、これからこの問題について考えを深めていくための緒としたい。 68
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落
一
家
単
位の先祖祭祀の成立と規範
O
家 単 位 の 先 祖 祭 祀 の 成 立 庶 民 の 先 祖 祭 祀 に関しては竹田聴洲氏が多大な業績をあげられている ︵2︶ が、氏は畿内をフィールドにした自らの実証研究にもとづき、そのあり 方の史的変化について、﹁今では独立の存在とみえる各﹃家﹄も前代に は同族結合の構成要素としての性格が強かった。同族団が神や仏として の同族の共同先祖を祭り、個々の﹃家﹄が独立にこれを祭ることはなか っ たが、同族団の解体によって各々の﹃家﹄が独立して神や仏を祭るに ︵3︶ 至った﹂と総括しておられる。そして、﹁今日都鄙一般寺院の墓地にあ る檀家の墓碑・位牌堂や檀家の仏壇にある位牌・過去帳・回向帳類の法 名記載は殆んどすべて徳川時代、それも初期のものは少なく、元禄以後 の が 圧 倒 的 に多い﹂ことから、﹁あたかもこの時期が幕藩体制と檀家制、 従ってまた農庶の﹃家﹄の確立期であったことをその面から暗示してい ︵4︶ るのであるらしい﹂と想定されている。 一七世紀後半以降個々の家単位の先祖祭祀が一般化していった契機と しては、寛文期︵一六六一∼一六七二年︶に寺檀制度が国家的制度とし て 確 立 せしめられたことがよくあげられる。寺と家が死者の葬祭、先祖 祭 祀 を 媒 介 に結び付いていたことは事実であるが、しかしそれはあくま で 家 が そ の 執 行 主 体となった結果であって、江戸幕府が寺檀制度を定め た目的自体はキリシタン取り締まりにあり、葬祭・先祖祭祀のあり方ま ︵5︶ で 規 制しようと企図したわけではない。家 単 位 の 先 祖 祭 祀 が階層を問わず広く成立するには、あくまで個々の 家 が自立性、主体性を強めていることが前提条件になる。竹田氏がフィ ールドにされた畿内農村では、一七世紀中期から後期にかけてそうした 事 態 が 進 行していたことは、この地域の村落を対象とした社会経済史的 研究が明らかにしているところである。近世における農民の家は当主夫 婦とその直系親族から構成されるのが一般的であった。そうした構成を 持つ個々の家が家族労働によって小規模な農業を営みつつ世代を重ね、 自家の先祖を主体的に祭るようになったところに、近世農民層の先祖祭 祀 のあり方の特徴がある。次に、こうした小経営農民の家が自立性、主 体 性を強め、独自に先祖祭祀を行うようになっていた経緯を、村落社会 ︵6︶ の 構造・秩序との関係で概観しておこう。 農 業 の 集 約 化 が 早くから進んでいた畿内農村では、小経営という形態 で 家 業 を 営 む 農 民 の 家 は 近 世 初 頭より多く存在していたが、村の秩序の 面 からすると、中世の地侍の系譜を引き、有力同族団の長の位置にあっ た農民が村内の様々な権利を独占して﹁般農民を強く支配していた。つ まり、彼らは庄屋︵名主︶、組頭あるいは年寄といった村役人の職に就 くとともに、農業にとって不可欠の生産条件である水や刈敷肥料用・牛 馬 飼 料用の草の採取源である山野の用益においても特権を有していた。 分 家 農 民 は 本家の用益権を通じて水と山野の利用にあずかっているので、 一 応 独自の小経営を行いつつも本家の強い統制下に置かれることになっ た。また、村の寄合や村氏神祭祀への参加権も特定同族団の本家筋の農 69
国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) 民 に 限られていた所が多かった。 分 家 は 家内部における家長と家人との間の支配・従属関係が外延的に 拡 大したものであり、同族団自体が拡大した一個の﹁家﹂と観念されて いた。同族団の総本家の家長は、こうした﹁家﹂観念を背景に、実態的 にも生産・生活上の諸権利を独占することにより、分家筋の農民に対し 支配・統制を及ぼしたのである。 同族結合の強い段階では、死者の葬送・供養や先祖祭祀も同族の長を 中心に同族団の儀礼として執行されていたと考えられる。墓も当初は同 族などの共同墓という形をとっていたのが一般的で、個別の墓碑が建立 されても、それは一部の有力農家の家長とその妻に限られていたことは、 ︵7︶ す で に 指 摘されているところである。 しかし、こうした村落構造は、有力農民の特権を打破しようとする一 般 農 民 の闘い、いわゆる村方騒動を通じて徐々に崩れていく。その結果、 山野・水の用益面では個々の農家が比較的平等に用益する﹁村中入会﹂ と﹁番水﹂︵各耕地への順番配水︶の制度が成立し、村寄合や村氏神祭 祀 にも惣百姓︵すべての百姓の家の長︶が参加するようになる。村役人 の 構 成 に お い ても一般の百姓の代表として百姓代が新たに登場し、庄屋 や 組 頭も特定の家筋による世襲制を廃し、惣百姓の相談や入札によって 選出する村が増えてくる。さらに、生産・生活上の共同機能も、同族団 に 代 わ って、小経営農民たちが同族団の枠を越えて結成した講や組とい っ た 共同組織や親類︵血縁・姻戚関係者︶が担う比重が大きくなる。 以 上 のような村落構造・秩序の変化を伴いつつ個々の小経営農民の家 の自立性、自主性が強まってゆき、その結果、彼らも自らの家の先祖を ︵8︶ 主 体 的 に 祭るようになっていったものと考えられる。 か かる段階では、同族の家相互の関係もそれぞれの自立性、自主性を 前 提とした関係となり、同族神祭祀も総本家の常頭屋制から輪番頭屋制 ︵9︶ へと移行していくのが一般的趨勢であった。結婚式、葬式、法事などで は、同族以外の親類や近隣の者も参加するので、同族団独自の共同機能 としては、最終的には同族神祭祀のみが残ることになる。したがって、 そ れ が 継 続されるか否かが、同族の家々が集団としてのまとまりを維持 しうるか否かの鍵となると思われる。 秋田県河辺郡雄和町では現在でも同族共有の総墓が生きつづけている ことが森謙二氏によって報告されており、それは二族は死ぬと一緒 ︵10︶ になる﹂という観念に支えられているという。こうした同族の総墓は長 ︵11︶ 野県下でも確認されている。また、石川県や長野県下では村の総墓も見 ︵12︶ 出されている。 しかし、これらは現在では特殊な事例に属し、今日では家単位に墓碑 を 設 けるのが一般的形態である。こうした個々の家が主体となって墓碑 を 建 立 する慣行が広く形成されたのは近世においてであったことは、こ れまでの墓碑の調査事例に照らして、ほぼ間違いないと思われる。ただ、 今日広くみられる﹁先祖代々﹂墓碑は明治以降に一般化したもので、古 いものでもせいぜい近世末期の建立である。筆者が調査した山形県天童 市内の農村部の墓地でも、見出しえた最も古い﹁先祖代々﹂墓碑は天 保一三年︵一八四二︶のもので、他は幕末以降に属し、特に明治に入る 70
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 とそうした形態が増加している。竹田聴洲氏が調査された京都府北桑田 ︵13︶ 郡山国村大字比賀江の幕地でも明治以降に﹁先祖代々﹂墓碑が出現する。 近 世 に お い ては、家単位に区画された墓地に夫婦単位あるいは個人単 位 に 墓 碑 が 建 立されるのが一般的形態である。数量的には夫婦墓碑が大 部 分 を占める。夫婦別墓碑であっても、並べて建立しているのが普通で ある。ただ、墓地自体は家単位に区画されているのであるから、墓碑の 建立、祭祀の主体はあくまで家であったとみてよい。夫婦墓碑が一般的 であったのは、近世の農民の家は直系家族で構成され、その家族労働で もって家業が営まれるのが普遍的形態であったため、家を永続させる上 で代々の家長夫婦の和と勤労が決定的に重要な意義をもったことの反映 と考えられまいか。子としても、家のために尽くした両親を死後も一緒 にして弔い、孝養を尽くしたいという意向を強く持ったにちがいない。 代々の家長夫婦の墓碑が立ち並び、その周辺に子墓や成人しても独身の まま死去した者の墓碑が配されている近世墓地の景観は、この時代の家 の 構 造 を 象 徴していよう。 では、近世末期、特に明治以降、﹁先祖代々﹂墓碑が増えてくるのは、 どういう理由からであろうか。竹田聴洲氏は次のようにいわれる。 こうした現象は、全同族の一元的な系譜や本家の存在ないし権威が 稀 薄 化 又 は消滅して、各々が自己の﹁家﹂を、小さいながらも主体 的 に自覚することが顕著になった反映である。父母の法名を一碑に 併 刻 する1江戸時代から現在まで行なわれているーのは、単に 父 母 個 人 の 記 念碑・追善塔ではなく﹁家﹂の世代的一環と目し、そ の背後には﹁家﹂が控え﹁先祖代々﹂の念が潜在している。﹁先祖 代々﹂碑はその潜在意識を一定の表現で表面に露呈したまでである が、そうした露呈のケースが相ついできたことに近代の一特徴があ る。 ⋮⋮⋮中 略⋮⋮⋮ 明治の新しい民法・戸籍法の下で、江戸時代には認められなかっ た 姓 の 公称が逆にむしろ義務づけられ、分家も戸籍法上の一つの独 立 の 「家﹂とされ、同族の結合が弛緩解体して個々の家が独立の主 体意識をもつ条件が備わってきたこと、宮座の解体にみられる如く、 従 来 の 村内身分秩序が崩壊してきたことなどが絡み合って、こうし ︵14︶ た碑面の変化に反映しているのであろう。 つまり、近世においては代々の夫婦墓碑の背後に潜在していた﹁先祖 代々﹂の念が、明治の新体制の下で個々の家の独立の主体意識が強まっ た の を 機に、﹁先祖代々﹂墓碑という形をとって表面に露呈してきたの だ、という解釈である。しかし、墓地を家単位に区画し、夫婦単位であ れ個人単位であれ各家が独自に墓碑を建立するようになったこと自体、 個々の家の独立性の強まりを前提にしている。したがって近世段階で 「 先 祖代々﹂墓碑が一般的に成立してもおかしくないはずであるが、そ れ が 近 世末期、とりわけ明治以降になって多く出現するのは、家の独立 性 の強まりの反映というよりも、むしろ物理的な制約が主たる原因だっ た の で はなかろうか。家ごとに区画された墓地に夫婦単位あるいは個人 単 位 に 墓 碑 を 建 立していけぽ、やがてスペースがなくなってしまうのは 71
国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) 必 然 である。そのため、﹁先祖代々﹂墓碑という形態に切り換えざるを えなくなった、と考えられないだろうか。費用の面でもその方が経済的 である。もし何らかの観念が反映しているとしたら、近世末期、明治期 に は 社 会変動の中で家の解体の危機にさらされていたので、逆に家のメ ン バ ーの一体感を強めようという意識が強く働き、家としての集合墓碑 を 生 み出したと、私は考えたい。もちろん、そうした集合墓碑を可能に ︵15︶ した前提には、柳田民俗学で明らかにされたように、個々の死霊は弔い 上 げ の の ち は 個 性 を 喪 失して先祖代々の集合霊である祖霊に合体すると いう日本人特有の霊魂観が横たわっていよう。 ⇔
両墓制についてー三重県鳥羽市菅島の事例ー
ところで、東北地方や九州以外の地域では、かつては両墓制が広く行 わ れ て い たことが民俗学や宗教学、人類学の研究者によって検証されて いる。これは、死体の埋葬墓地︵埋め墓︶と、死者の霊魂を弔うための 参詣・祭祀の対象とする墓碑︵詣り墓︶とを別個の場所に設けた墓制で ある。死体を微れたものとみなし、それを怖れ忌避する観念から埋め墓 は 集 落 から離れた所に設け、一方、詣り墓は集落内の寺の境内あるいは そ の 近 辺などに設けているのが典型的形態である。遺族が死者に対して 抱く情緒反応には、死者に対する愛惜の念と死体への恐怖という相矛盾 ︵16︶ した情緒の併存がみられることが人類学で指摘されているが、両墓制は まさにこの相矛盾した二側面の情緒反応が明確に分化して現象した墓制 であるといえよう。 田中久夫氏は埋め墓の態様を、①全村共同で、いずれを掘って埋葬し てもよい例、この変形として年齢順に埋葬箇所が決まっている例、②個 々 の家別になっている例、③カブ︵同族︶ごとに埋め墓を設けている例 ︵17︶ に 分 類され、最近では②が一般的になっていると指摘されている。おそ らく、個々の家の自立性が強まった段階で、埋葬墓地が家単位に区画さ れるようになったとみて間違いないだろう。 埋 め 墓は一般に﹁ステバカ﹂と呼ばれ、埋葬後短期日のうちに顧みら れなくなるのが常であるので、いわば死体遺棄の場所であり、先祖祭祀 とは結び付かない。庶民における先祖祭祀成立の指標となるのは詣り墓 の 方 である。 尾 藤 正 英 氏 は 次 のようにいわれる。 一般の庶民の場合には、死膿はまさに、山野や河原・海濱などに遺 棄されるのが普通であったとみられる。そのような死体遺棄の風習 を 残しながら、しかも他方で、死者の霊魂の存在を認め、それに対 する仏式の供養が必要であると考えられるようになった所に、埋め 墓と別に詣り墓を設けるという、両墓制の墓式が生れる理由があっ ︵18︶ た の であろう。 尾 藤 氏は、古来よりの死体遣棄の風習を前提に、仏教の影響によって 死 者 の 霊 魂 を 供養するための詣り墓が設けられるようになったところに 両 墓制の成立を想定されているのであるから、当然、埋め墓と詣り墓と は同時並行的に成立したのではなく、時間的なズレがあったと考えられ て いることになる。この尾藤氏の見解は原田敏明氏の見解と共通してい 72近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 る。原田氏も、埋め墓と祭祀対象としての詣り墓の創設とは時間的ズレ があったとみなし、仏教思想の浸透による死者尊重の観念の形成、およ び 家 の 観念の発展によって先祖祭祀が普及したことが背景となって詣り ︵19︶ 墓 が 創 設されたと考えられている。 ただ、詣り墓の成立時期、したがって両墓制の成立時期については、 両 氏 の 見 解 は 大きく異なる。すなわち、尾藤氏がそれを一五、六世紀頃 に 想 定されているのに対し、原田氏は近世もよほど後期のことであると されているのである。両者の相違は、尾藤氏が民間における寺の創設す なわち詣り墓の創設と考えられているのに対し、原田氏は石塔墓碑の創 設 を 指 標とされていることに起因しているように思われる。 だとすると墓の概念自体が問題になってこよう。これについてはひと まずおくことにして、寺における死者の霊魂の供養祭祀は当初は一部の 有力者を対象とするか、あるいは同族団や村落共同体の共同行事として 営まれていたと考えられるのに対し、石塔墓碑の一般的成立は個々の家 が 主 体となって自己の家の成員だった死者を供養祭祀するようになった ことを意味するので、つまるところ供養祭祀の主体と対象、形態の相違 に 帰 せられることになるだろう。 石塔の詣り墓の一般的成立は原田氏のいわれるような近世後期の現象 で は 必 ずしもなく、個々の家の自立化の地域差にもとついて、その時期 は 地 域 によってかなり異なっていると思われる。例えぽ、京都府北桑田 郡山国村大字比賀江の両墓制における詣り墓には一六世紀初頭よりの石 碑 が 存 在 するが、急増するのは元和ー正保期︵一六一五ー一六四七年︶ ︵20︶ で、慶安ー延宝期︵一六四八−一六八〇年︶にはさらに増加している。 碑 型は、最古の永正五年︵一五〇八︶の宝俵印塔を除けば中世末の石碑 はすべて一石五輪塔で、近世に入っても延宝期まではそれが主流だった のが、 一七世紀末期より位牌型が主流を占めるようになっている。石碑 に 刻された法名数も、一石五輪塔が主流の段階では一碑一法名が支配的 だ っ た のが、碑面の拡大した位牌型が主流になるに伴い、一碑に父母ら 二 法名を併刻したり、あるいは三法名以上を集刻することが多くなって いる。天折幼童の法名が併刻された例は享保二二年︵一七二八︶が初現 で、 一八世紀後半に入ると独立の童碑が丸彫地蔵台座として現れる。以 上 の 石 碑数および刻された法名数の増加は、死後個別に供養祭祀される 対象が漸次拡大してゆき、ついには天折幼童をも対象とするに至ったこ とを示していよう。 筆者は、一九八八年八月に、国立歴史民俗博物館主宰の﹁家族・親族 と先祖祭祀﹂をテーマとする共同研究の一環としてなされた三重県鳥羽 ︵21︶ 市菅島の両墓制の調査に参加させてもらったことがある。 か つ て は 両 墓制が行われていた地域も現在では単墓制に転換している 所 が多いが、菅島では今日も両墓制が生き続けている。孤島で、しかも 現 在 でも大部分が島民同士で結婚し、それもイトコ婚が圧倒的に多いの で、昔ながらの習俗が連綿と伝承されているのだろう。それに加えて、 島民は常に死の危険にさらされている漁業によって生計を立てているた め、死霊を忌み怖れる観念が農耕民に比べより強いのも、両墓制存続の 要因になっているように思われる。実際、島民の死霊に対する恐怖心は、 73
国立歴史民俗博物館研究報告第41集 (1992) 外部の者の眼には異常に映るほどである。 菅島では、埋め墓は居住区域から離れた場所にあり、詣り墓は集落内 の 寺 院 の裏山に設けられている。埋め墓には小川に掛けられた橋を渡っ て 入らねぽならず、この小川は〃三途の川〃と呼ばれている。埋め墓の 対岸の入口には地蔵を彫った石塔が数基安置されている。日本の伝統で は、地蔵菩薩は人間社会の境の象徴と考えられていた。地蔵には幼児を あの世で救う力があると信じられていたため、幼児墓は地蔵形態が一般 的 であるが、幼児はまだ完全には人間社会の成員にはなりきっていない、 い わ ば 境 的な存在であるので、それは人間社会の境の象徴ともなった。 そ れ ゆえ、一七世紀末頃には、幼児の神であると同時に障︵塞︶の神の ︵22︶ 代 わりとして村の境を象徴する存在ともなったという。菅島においても、 生者の領域と死者の領域の境は地蔵によって象徴されているのである。 埋 め 墓 は 現在では家単位に区画されている。新たに死体を埋葬すると 木製の灯籠を建てるが、これは朽ちるに任せている。したがって、恒久 的な祭祀対象ではない。木製灯籠が朽ち果て土に帰していく様は、まさ に 土中の死体が腐食して土化していく過程を象徴しているかのようであ る。 埋 め 墓 の 灯籠は親類の者が寄進し、寄進者の名前を記している。葬 式・法事も親族中より数名によって事務局が構成されて取り仕切り、役 割分担などを決めたり、香典を出納したりしている。役割によっては死 者との特定の続柄の親族に定まっている。親族は父︵夫︶方・母︵妻︶ 方 双 方 を 含む。 埋 め 墓 に 対 する島民の恐怖心は強く、盆の時節以外は立ち入らない。 盆の八月一四日に主人・主婦・後嗣が参詣に行くのみである。新亡家の 場 合は、この他の親族も加わる。ただし、家ごとに詣るのではなく、午 前 九 時 に島中寄り合って集団で詣りに行く。参詣の仕方はまことに慌た だしく、短い時間で自分の家と親類の墓地区画に〃しきび〃で水をかけ、 線 香 を 供えると、先を争うように去っていく。長く留まっていると死霊 にとりつかれる恐れがあるからだという。 埋 め墓への参詣が終わると詣り墓の方に行くが、こちらの方は各家族 ごとに随時参詣しており、集団で同時に行くことはない。してみると、 埋 め墓への集団参詣には恐怖心を少しでもやわらげようという心意が働 い て いると解されよう。詣り墓での参詣対象は自分の家の墓、親類の墓、 および寺の住職の墓と戦死者の墓である。後二者の墓の霊は村落住民全 員の供養対象となっているわけである。詣り墓への参詣の仕方は、先の 埋 め 墓と同様、〃しきび〃で水をかけ、線香を供えるのみで、手を合わ せ て 拝 むことはない。手を合わせて拝むのは家の仏壇に安置した位牌の み である。 詣り墓は家ごとに区画された墓地に建てられている。夫婦あるいは個 人 単位の石碑が多いが、明治に入ると﹁先祖代々﹂墓碑が出現しはじめ る。一七世紀の石碑も二十数基見出せるものの、急増するのは一八世紀 に入ってからである。 菅島の社会構造上の特徴は、家格や経済力による階層差がなく、年齢 階 梯 制 を 原 理として社会組織が構成されている点にある。 74
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 パ1警 ぷ㌧二_∴ 1−a 埋め墓への入口に安置されている地蔵 を彫った石塔 1−c 集団で埋め墓へ参詣に行くところ
灘
1−e 詣 り 墓 写真1 鍔猿げ 1−b 埋 め 墓 1−d 埋め墓での参詣風景 1−f 詣り墓への参詣風景 三重県鳥羽市菅島の両墓制 75国立歴史民俗博物館研究報告第41集 (1992) 漁 業 権 は 各 家 に 配 分され、家ごとに漁場が定まっている。そして、各 家が漁船を所有して家族労働で漁を営んでいる。男性は年齢に応じて青 年 会 ( か つ て は 若 者組︶、中老会、元老会という社会組織に属す。中老 は 四〇、五〇歳代の戸主のうちから選挙で選ばれる。元老は六〇歳以上 の男子より選挙で選ぽれた者と校長、漁協の役員などの役職経験者によ っ て 構 成される。元老は村落の祭祀を司り、中老はその下で祭祀の運営 にあたっている。かつては中老会で村の運営に関することも決めていた とのことだが、現在は町内会が自治機能を担っている。女性は六〇歳以 上 になると梅花講に入り、村落の仏事で念仏を唱和するところから〃念 仏 婆さん〃と呼ばれている。菅島では家においても社会生活においても 性別・年齢別の役割分担が明確に定まっており、それは盆行事にも貫か れる。 現在の社会構造のみをみれば、菅島は確かに無家格の年齢階梯制村落 と類型化できる。だが、社会人類学者がえてして行うように、そうした 類 型 を 超 歴史的範疇として措定することはできないだろう。菅島の社会 構 造 の 歴 史 的変遷については、今後古文書などを精査して明らかにする 必 要 があるが、墓の調査からもある程度の手がかりは得られる。 埋 め 墓 に は 慶 長 三 年 ( 一 五 九八︶の板碑一基が存在する。これは銀四 郎家という村落きっての名家だったと伝えられる家のものである。また、 先 述した近世前期の詣り墓の石碑も、特定の有力家によって建てられた とみてよかろう。古くからの家号を持つ家、庄屋などの村役人を勤めた 家、カツオ船を所有していた家も、古老よりの聞き取りによって特定で きる。してみると、かつては特定の家筋が政治的にも経済的にも村落の 支配層を形成していたことを推定しえよう。おそらく漁業権も特定の家 が 独占していたにちがいない。そうした村落構造が崩れ、個々の家の自 立 性 が強まり、年齢階梯制村落へと移行したのは一八世紀初期の頃であ っ たようである。元老・中老制が成立したのは享保期︵一七一六ー一七 三 五年︶だったとされているし、詣り墓の石碑が増加しはじめるのもま た この頃からであるのが、そのことを示唆している。そして、各家が主 体的に死者・先祖の供養祭祀を行うようになったことに対応して、埋め 墓 の 方も家単位に区画されていったのではなかろうか。 菅島における死者・先祖の供養祭祀のあり方を調査してみて気づくこ とは、それは家を基本単位としながらも、その家の子孫だけでなく、父 方 ( 夫方︶・母方︵妻方︶双方の親族︵親類︶、さらには村落共同体によ っ ても担われているということである。盆における埋め墓、詣り墓への 参 詣 の 際 に は自分の家の墓だけでなく親類の墓の霊も供養の対象として いること、新亡を埋葬した際に埋め墓に建てる灯籠は親類が寄進してい ること、葬式・法事は親類によって構成された事務局が取り仕切ってい ること、以上の点は先に指摘したところである。この他にも、八月一四、 一 五日には、家の主人は親類の家々を回って、その家の先祖も拝むのが 習 わしとなっている。また、八月一五日には寺で地下︵寺総代、元老、 中老、青年会、念仏婆さん︶主催のもとに、村落の先祖一般を供養する 大 施 餓鬼、新亡を供養する泣き施餓鬼が執り行われる。 こうした死者・先祖の供養祭祀の三層構造は、家が特定村落において 76
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 代々継承され、そして血縁・姻戚関係者が近辺に住んで日常生活の上で 共同機能を果たし、さらに村落が共同体としての機能を保っていた段階、 ことに近世においては、普遍的にみられたのではなかろうか。 ⇔ 家 の 保 持と先祖祭祀の規範 〈
史料1V
朝 早く起て神仏井に先祖の位牌を拝し、家内中よく家業を精出し、 ︵メ︶ いつく 己を立す人を尊ふとミ物事争ひを止﹁虫喰﹁、老たるを敬イ幼を厳し ︵懐︶ ︵23︶ ミ、訳て腰妊のものハ身を慎しミ申べきとの御示解なり。 (中略︶ 一、親ハ苦をする子ハ楽をして、其子ハ乞食するといふ俗語あり、 是も余り愛に溺れ気随気儘に育る子ハ、親の扶持をハ仕兼るもの也。 よ けい 其 親β譲請たる株を減らさぬ様に、又親より譲受たる程余計其子に かねぐら 譲らすしてハ、壱人前にあらず。段々壱人前積り積れハ後にハ長府 をも建る様に成ぬべし。然るに親β譲受たる田畑家財を売払杯する さづけ ハ 、 人 畜といふもの也。尤貧福ハ天の産付る所也といへども、農業 に 怠らず出精する時ハ不自由ハせぬもの也。世話に排に追付貧乏な ︵24︶ しといへり。 〈史料2∨ さて親より富貴の家財を譲受たる子孫の心得は、田圃家財は先祖父 母より預り物にして己が物には非ずと思ふべし、之を己が物と思ふ 時は心に怠り起て終には身の奢に耽り、他に売果し先祖の譲物を種 亡しにする様になりて不孝に当るなり、讐ていはぶ其家を起したる 先 祖 父 母 は 主 人 の如く、其子孫は手代番頭の如くなる理にして、其 時 は 支 配 人なれば先祖の財を預りて其余沢を以て先祖の霊を祭り年 回を弔らひ、妻子奴らを養育し、先祖の志を継ぎ財を全くして子孫 ︵25︶ に 譲り継げば孝行といふべし 〈史料1>は下野国芳賀郡小貫村の名主小貫万右衛門が文化五年二 八〇八︶に著した﹃農家捷径抄﹄の一節、︿史料2>は下総国香取郡松 沢 村 の名主宮負定雄が天保二年︵一八三一︶に著した﹃民家要術﹄の一 節 である。いずれも家を保ち、先祖を崇拝・祭祀すべきことを説いてい る。上層農民のみならず、一般の農民も自己の家の自立性を強め、主体 的 に自家の先祖の祭祀を行うようになった段階では、右に述べられてい るような生活規範は広く農民の間に共有されるようになっていたと思わ れる。否、近世社会は家を基本単位としており、財産は﹁家産﹂として 相 伝され、職業も﹁家業︵家職︶﹂という形で営まれ、かつ先祖祭祀も 家を単位としてなされるようになっていたため、身分を問わず、現世の 生 活も来世における魂の安穏も家によって保障されていた。それゆえ、 家を子々孫々へと永続させ、先祖の祭祀を絶やさないことは、近世に生 きた人々一般に共通する切なる願いでもあった。 〃家の保持と先祖の祭 祀〃、それは農民のみならず、町人や武士の家訓にも貫かれている共通 の モ チーフであったのである。 家を存続させる物的基盤は家の財産︵家産︶であり、農民の家にあっ ては、それは田畑家財である。右に掲げた史料はいずれも、田畑家財は 77国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) 先祖・親よりの預かり物であることを強調し、それを己が物と思い違い をして売り払うことを厳に戒めている。こうした論理は農民の家訓・遺 訓 に 遍くみられるところのものである。例えば、筑前地方で生まれたと される﹃農業横座案内﹄という農書︵安永六年∧一七七七年﹀成立︶で は、親より家督を譲り受けた者の心得を次のように説いている。 ︿史料3> 又親より家督を譲り給ふ時ハ、第一御公義の御掟を不背、我身は火 ︵理︶ 水 に 入 共 親を始妻子春属共に難儀なきやうに心を用る事眼前の利な り、亦譲を請る所の田畠家屋敷等迄我物と思ふへからす、又々子供 に指譲申迄ハ親より預り申たる品々なれハ、少しも損し不申、欠も 不 致 様 に 大 切 に 預り置、子供成人の後時を得は又指譲り申事、一生 ︵26︶ の安堵仕事 また、下野国河内郡下蒲生村の田村吉茂が明治六年︵一八七三︶に著 した遺訓でも、次のように説く。 ∧史料4V 家督相続ハ、先祖より代々伝りたる家材・田畑・山林等に至迄皆預 りの家材也。大切に相勤め、預りの物わ何に品によらす手入致し、 損じたる品ハもとめ、一品たりとも不足にならぬ様に致し、子孫へ す 遜るべくハ相続人の第一の勤め也。然るを、気随ひ自恣に成る物と 心得る人間々多し。故に暮方行届き難く、終にわ大借などを致し、 先 祖より伝りたる家材・田畑等売払ひ、先祖へ不孝而已ならず、其 身 迄も居所立所に迷ふ者あり。其訳ハ、我か物と思ふ故也。身上を 堅く守るべきハ、部屋住でも何に者にても堅く守るべきが、人たる ︵27︶ 道 の 一 生 の第一の勤と心得べし。
田村吉茂は﹁先祖より伝りたる家材・田畑等﹂を売り払うことは先祖 へ の 不 孝 にあたるとしているが、家という先祖より子々孫々へと永続し て いくことを志向する組織体の中で生活していた当時の人々にとって、 「孝﹂とは単に父母へ孝養を尽くすことのみならず、家を保ち子孫へ伝 えることが﹁先祖への孝﹂と観念されていた。能登国羽咋郡町居村の村 松 標 左 衛門が寛政=年︵一七九九︶より天保一二年︵一八四一︶にか けて著した家訓でも、百姓としての分限をわきまえ、農作業に励んで家 ︵28︶ を保つことが﹁先祖へ全き忠孝に候﹂と説いている。 家を存続させる最高責任者は、いうまでもなく時の家長たる当主であ る。当主は一家の長として、家内において権威と特有の権限︵対外的な 家代表権、家産管理権、家業経営権、家内のメンバーの統轄権、先祖の 祭 祀 権等︶を持つ。しかし、同時に、︿史料2V︿史料3>で述べてい るように、先祖・親より預かった田畑家財を保ち、親・妻子春族を扶養 し、先祖を祭祀する責任を負う。 家長権も家の存続・繁栄という至高の目的のために行使されてはじめ て 正当性を持つのであり、当主自身、家の規範に拘束された。たとえ当 主 の 地 位 に就いたとしても、隠居した父母から一家の長として不適格と 判断されれぽ、勘当されたり離縁︵養子の場合︶されたりした︵ただし、 武 家 の当主は主君と主従関係を結んでいるので、その廃立には主君の許 可 を 要 する︶。また、百姓の家の存続および家内の治め方いかんは、年 78
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 貢諸役・法度および人身管理の村請制、連座制の下では、その属する村 や 親類の利害にもかかわった。そのため、当主はまた村や親類からも監 視 を 受け、不適格とみなされれば、強制的に隠居させられることもあっ (29︶ た。
二
葬
式・法事の家例
屋
吉川家の例
安
芸
国高田郡多治比村丸
葬式・法事の営み方は、地域によってはもちろんのこと、家によって も微妙に異なっていただろう。旧家に伝存している史料を調査してみる と、冠婚葬祭の執行記録がたいてい系統的に保存されている。格式を重 んじた家では冠婚葬祭の営み方が家例として定まっていたので、それを 記 録して代々伝承したのであろう。家訓にも冠婚葬祭の家例を記したも の が 少 なくない。例えぽ、安芸国高田郡多治比村の豪農であった丸屋 (姓は﹁吉川﹂︶二代目甚七が明和年間︵一七六四ー一七七一年︶に著し たとされる﹃家業考﹄では、農事暦、台所の心得、年中行事の心得とと もに、葬式・法事の際の心得を細かに記している。興味深い記述を多々 含んでいるので、少々長くなるが次に掲げ、しかるのちにいくつか問題 点 を 指 摘 することにしよう。 〈史料5V
︵30︶ 葬式心得のこと 葬式ハ大葬式小葬式と二つ二わけて執行すべし。大葬式とハ祖父祖 母 父 母 本 妻などの葬式なり。小葬式とハ兄弟子供の葬式なり鮪栂晒嘩
大ぞふしきの分左の通 ︵伴力︶ 長楽寺御住持、家来十一人、番僧弐人。其内家来かんりやくすれ ハ 七 八人二てもなるなり。 御布施ハ御住持へ八匁、番僧へ弐匁ッ・、家来へ壱匁ッ・。 教 善寺御住持、番僧壱人。家来弐人。 御布施ハ御住持へ六匁、番僧へ弐匁、家来壱匁ッ・。 娘二ても男子二ても外方へよめ入むご入などいたしおれバ、寺 を せうだいいたし来るなれども、それハ其方β御布施ハするゆへ 此 元βハ何もいたす二およぽす。まかないをするだけの事也。 右 ニ ケ寺へ案内いたし置べし。他村一家中ヘハ、夜るなれバ講中 β弐人ッ・行してよし。昼なれハ壱人二てよし。買物。あぶらあけ弐百五十㎎わグW切あらめ壱貫目ポ憤頒とうふ 二十情訂宍W酒弐斗、あぶら壱升、蝋そく壱斤弐=一頒そうり六拾足
麓五六わらじ四+足薙翫せん香壱把難薮顧㌣まつ香五勺
稽きじゆず一れん誤てんまく八尺鴻ハぬ嶺㌫頒櫻沖下着のさ 79国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992)
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のくぎ弐百、三分物三百球斌頒・飯米ハ白米壱石壱弐斗位。 花ハしくわ一具、おり菊一組、くわしもり一組、いつれももろく ち調、外二くじやく一羽。 くわんハ、からはふ二してやまをけなし二調べし。大工ハ四五人 やく陸藍㌶納福詫茸微鴎㌶Wは・
もくよくハ親類あつまりてよりいたしてよし。死人のかミをそり たるものへさらし手拭壱つ遣スなり。膳。平随房肪筋揃睦わ・汁昧暁い鍵ふ・坪油已・ひきて幽ち酒ハ茶くミ茶 わ ん 二 て 一こん切。膳のかずハ一ばん膳、二ばん膳、三ばん膳と惣 じて百五六十ぜんより山々弐百なり。大かた百五六十なり。 ○ は い そ ふ の 事 長 楽 寺御住持壱人ばかり。御布施ハ弐匁なり。
平地ばの筋揃↑○坪暁ら、汁注姥か・ひきて観▽・酒ハ茶くミ茶わん 二 て 一こん切。外二もちを二つツ・くぼる事もあり、なき事もあり。 は い そ ふ の膳ハ一ぽん膳、二ばん膳合して六七十ぜん位なり。 忌中見舞村うちβ持来るハなにもやらず。他村一家うちβ持来ル 家来へ薄儀として壱匁ッ・遣ス事。 ○葬式後のこと 一、 大 工 ヘ ハ 一日分弐匁ッ・礼ヲ遣してよし。小人数にて夜るへ か け て 調 たる時ハ三匁も遣スなり。しかしひるの内二調へるよう二 よ い た す が大二よし。夜るハついへ多し。五人なれぽ十分二ひるの内 二 調 なり。 し 一、死人のかをそりたるものへさらし手ぬぐい一つ遣してよし。 ︵すヵ︶ 尤外二やぶれきものヲ遣し時ハ手ぬぐいハいらず。 一、はいそふのあくる日、講中ほどへ礼二あるきてよし。 し 一、かたミわけの事ハ死人の子どもへ見合二遣スベし。兄弟ハ時 の考二ていかよふにもすべし。其外ハけいやくむすご、けいやく娘 へも一向遣スニおよぽず。寺へも上る二およぼず。 〇 七日参りの事 一、七日参りハ長楽寺ばかりへ参るなり。御布施六匁、おはちと して白米弐升、とき米として米壱俵、隠居あらハ弐匁、御新造へ弐 匁、しんぽち、番僧へ壱匁ツ・、家来下女へ五分ツ・、外の寺βき や わして経をよまバ壱匁上てよし恒∨ぱパ一砒時㌧七日帰りてよりあ たり近所へ餅三つ四つくばる事もある。全体当家ニハ四十九日二く ばるゆへどふでもよし。外方ハ四十九日二くぼらぬゆへ七日二くぼ る。当家ニハどふでも四十九日の法事へくぼるゆへ七日ニハどふで もよし。 〇 四 十 九日法事の事 一、四十九日ハ長楽寺ばかりよびてよし。外ニハ村内一家内二三 軒よぶなり。其外ハよばぬなり。他村遠方へ行たる娘ハ其所の寺へ 参るもよし苛け﹄ぬけジ﹂か砒口びの礁違いは聡時の考いかよふ二もしてもよ 80
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 し。 講中ハ近来ハよばぬ二定メたり。四十九日御布施ハ六匁なり。料 理 左 の 通り。
憩難・汁苛若ヲ壷熟緩㌻に路平部鑓無漂ぽ︰
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㌫・おかざりひくなり。 買物。くねんぼ二つ、あをこ弐匁、光明丹壱匁、こぶかけめ五十 目、れんこん一本、中しいたけ五つ六つ、つぶしいたけ弐合、う、ミ そうめん代壱匁、こぶりこんにやく五つ、赤みしまのり一枚、あふ らあげ十、こんにやく十、かんぴよふ代三分、きくらげ壱合、代〆 十 匁位。 四 十 九日の餅ハ四斗五升ぐらいつけバ十分なり。他村一家へ壱組、 村内下丸屋、向丸屋、国貞、其外けいやくこの方へ一重ッ・、講中 二 て 竹光、竹の屋、竹丸、三郎丸へ一重ッ・、其外ハ五つ六つやる さきもあり。七つ八つもやるさきもあり。時の考次第なり。 △ 小 葬式のこと 小 葬式ハ兄弟、子供などなり。尤としの多少二よつて見合二略し てよし顧艘%
長 楽 寺 御 住 持 壱 人 ば かりもあるべし。番僧壱人⇔劫敏蛯恒舳ぷい%家 来壱人も弐人もあるべし。
御 布施款妙昼醐㎎都、番僧弐匁、家来壱匁ツ・。
買物。あぶらあげ百五十鷺⇒伽匹類跡\滝とうふ十丁情訂ピ”き・切
あらめ六§誌頒・酒壱斗禁奎装録唯そうり三+足一鑓麺
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躍ゴもわらじ廿足姫娯バ耐旺ぱ蚊ザか鰍那彫肪提ぎ“喉・ろうそく壱斤餓一=姻
紛ズ畔肝あぶら壱升、せん香一把飲酬侃酪︹臓翰立渥、まつこふ三勺ポ
妊・きじゆず一れん猷戯冷てんまく坤抽い献吠か臥ヨ伽ガポ筋凱・さらし 壱 反 か 弐 反か、死人の大小二よるなり矩娠齢附もろくち壱束疵婬けゴ 八 つ物くき弐百、三つ物四百猷培やとふしミ燃桔・こんにやくはい そ ふ用十五桔わグっぎ飯米ハ白米二て八九斗位。 右 の 通なれども格別ちさきこどもにハ、これ二てハあまるゆへ時 の 考 に て へしてよし。 一、花ハしくわ一組、おり菊一組、とり一羽二てよし。いつれも もろくち調てよし。 一、くわんハからはふ二てやまおけなし二調。大工ハ三、四、五 人 やくべ鋤肌効は外 一、もくよくハ親類そろひてよりいたす。かミをそるものへさら し手拭壱つ遣してよし。 一、葬式のぜん。平ぱ秘つ吻壼紡⇔・汁耗∋引手肪∋酒ハ六勺位か壱 合ぐらいかいる。盃二て一こん切。格別ちさき子ニハ酒ハなき事も あるべし。 ○はいそう 81国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) 長楽寺壱人切。御布施ハ弐匁もあるべし。壱匁もあるべし。 葬式のぜんとあらまし同様。しかしこんにやくのしろあへを引 もあり詰艦か酒ハ壱合ぐらいの盃二て一こん切。 忌 中 見舞村内より持来るものニハ何もやらず。他村より持来る ものヘハ壱匁遣してよし。 ○葬儀後のこNろへの事 一、死人のかミをそりたるものへさらし手拭壱つ遣してよし。 一、大工ヘハ弐匁ッ・礼遣してよし。 一、はい葬のあくる日講中へ礼二行事なりは恥虻勧㍗ ○ か た ミわけハ兄弟へ少しツ・切、其外ハ一切いらず。 〇七日参りのこと 一、七日参りハていしゆ壱人長楽寺へ参りてよし。とき米弐升、 ︵ちヵ︶ お は ち 弐升、御布施ハ四匁か弐匁か時の考次第。米ハ七日の朝持と 遣スなり。其外ハ一向いらぬなり。尤も帰りてよりあたりよりやい ざきへ餅を三つ四つ遣ス事もあり。 〇 四 十 九日法事の事 一、四十九日法事ハ長楽寺壱人よぶぼかりなり。御布施ハ四匁か し 弐匁か時の考次第。講中へ餅をくぼる事ハなし。死人の母親の方 へ餅壱組遣ス斗なり。 ︵周︶ △ 一 週 忌よりの法事の事 大 葬式の一週忌法事ハ長楽寺御住持、外ハ死人の子供をよぶこと もあり、時の考次第なり。御布施ハ八匁もあり六匁なり四匁もある。 三年の法事、七年の法事、十三年の法事、十七年、廿五年、五十年 までの法事同様なり。 小葬式の一週忌法事、長楽寺御住持壱人斗、御布施ハ四匁もあり、 弐匁もあり、時の考次第なり。三年、七年、十三年、十七年、廿五 年、五十年の法事も同様なり。 △月忌の事 ぜう 月忌の定メハ毎月常月忌ハ壱人分斗つとむべし。新に死したる人 の 分 斗 常月忌二すべし。下地の分ハあたり月程つとめてよし。父母、 やめ 祖父、祖母の分程つとめてよし。それよりふるきハ止てよし。父母 たりとも下地の分ハあたり月程二してにいな分程つとめてよし。い つ れとも常月忌ハ壱人分斗、其外ハあたり月程と定てよし。 △ は いとうの事 座 頭 の は いとうは壱匁二定メたり。とりたての座頭へ五分遣スな り。大葬式之法事ニハいつもきたるなり。小葬式の分ハいださぬ事 当家の定メなり。外によめどり、むごどりにくるなり。尤むごどり といふとも娘他村へ行、其むこのくる時ハ是ハはいとうなし。其家 二 娘ありてそれへとるむご也。其外居敷と土蔵とたてる二くるなり。 い つ れもはいとうハ同様なり。其外ハ一切相断り一向やらぬなり。 82
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 △ 香料のこと井に忌中見舞の事 しうと、しうとめの死したる時ハ米弐俵の香料なり。外二たび香 で ん を なげこみとて香料二する事もあり。 さて寺をせうだいいたし行ときハ御住持へ八匁拾匁か、番僧へ弐 匁、家来二壱匁か、道がとうく.ハ弐匁か、たいてい壱匁也。かく別 道とうくして、とまりがムりの所へせうだいせぬなり。先方二もめ い わくなり。 しうとの方5むこの方への香料ハ弐匁か四匁か六匁か時の考次第 なり。所によつてやはり米壱俵も弐俵もする所もあれども大ていハ なし。所によつてしうと、しゆうとめハ葬式入用を其家とむことへ 割つける所もあり。其所ヘハさきへ香料すべからず。跡二てむご何 人ありても割合丈きせるなり。此風義ハ是βおく方二あり。 忌中見舞ハ念入の分餅壱組外二にしめ壱組もあり、二重ぐらいも あり。 △外二よめいりしたる娘など死したる跡心得の事 娘、兄弟、伯母二ても死したる時ハ、此元β持行きたる衣類一切、 何角道具金銀たりともよめ入したるものふ娘なくバ此元へとり戻し てよし。娘あらバ其娘へわけ遣してよし。尤も其娘いまだ年すくな せいちやう くバ、一応当家へ取寄置、其娘成長して後にわけ遣スベし。尤後 家二なりたるむご、後家入をよぽざる時ハ其家二おきてもよし。後 家 入 をよぶ時ハかならず当家へとり戻してよし。左もなき時ハ、そ の 衣 類 後 家 入 のものきよごして娘のものとなりがたし。よつて当家 へ 取戻し其娘としそうおふ二なりてよりわけ遣スなり。尤其娘もは ︵遺力︶ や 年も十七八二も相成りしものなれバ、其儘遣しても後家入のもの へよごさす事ハなし。たとへ娘あるとも先方の仕方あしけれハ、そ の娘へやらず皆取戻スものもあり。何角なし二後家入さへよべハ皆 じつ とり戻スものもあり。何分真実のはからいにしてよし。さてまた子 ありとも男子なれハ衣類はやる二およはす。それニハ生長してより 金銀ミやわせ二遣してよし。当時ハ何角なしに取戻スもの多し。時 の考、実意第一たるべし。 次に、関心を惹く点をいくつかあげておこう。 θ 葬式は大葬式と小葬式とに分けられている。 大 葬式は当主の祖父母、父母、本妻などの葬式、小葬式は当主の兄 弟 や 子供の葬式で、伯父・伯母もこれに準じることにしている。つま り、直系尊属と配偶者の葬式に比べ、直系卑属と傍系親の葬式は簡略 化されているのである。さらに小葬式についても、年の多少によって 加減してもよいとしている。 ⇔ 大葬式の時には、檀那寺の僧侶だけでなく他の寺の僧侶も加わって 読 経している。 すなわち、檀那寺の長楽寺の他に教善寺からも住職、伴僧、家来を 招くことにしており、さらに他家に嫁入り聾入りした娘や男子が僧侶 を 連 れ て 来ることにもなっている。後者の場合、嫁入り智入り先の家 83
国立歴史民俗博物館研究報告 第41集 (1992) が御布施を出すのがこの地方の慣例であったことが知られる。 要 するに、供養のための経をあげるのは檀那寺の僧侶に限定されて い た の で はなく、少しでも多くの僧侶に読経してもらうのが手あつい 供養になると考えられていたがゆえに、他寺の僧侶も参加させたので あろう。檀那寺が全面的に檀家の葬式を管掌していたわけではないの である。ただ、人数、御布施の額からみて、檀那寺の僧侶が中心をな していたのは間違いなく、他寺の僧侶はその周縁に位置づけられてい たといえよう。 初 七日には檀那寺の長楽寺へだけ参詣に行くが、他の寺よりも来合 わして経を読んでくれれぽ御布施として一匁あげよと規定しているの で、この時にも檀那寺以外の僧侶が参加することもあったことが知ら れる。しかし、灰葬︵骨拾いの式︶、四九日の法事、 一周忌以後の年 忌法事の時は長楽寺の僧侶のみを招くことにしている。つまり、死去 した当初は檀那寺以外の僧侶も供養に参加しても、継続的に供養を担 うのはやはり檀那寺なのである。 ⇔ 丸屋の家では、大葬式、小葬式とも棺は唐破風造りにし、山桶には しない決まりになっている。 丸 屋は、安芸の豪族吉川興経の一族である吉川経綱の子孫と伝えら れる家からの分家であり、由緒を誇るとともに経済的にも村きっての 豪農であった。それゆえ、一般の家では棺に山桶を用いていたのに対 し、丸屋では特に唐破風造りとし、格式と経済力を誇示しようとした ことがうかがえる。 一般に上層の家では冠婚葬祭は自家の権勢を地域社会に誇示する機 会としての意味ももっていたのであるが、しかしむやみに華美にして 浪費すると家を傾ける因になる。丸屋の﹃家業考﹄からは、格式を保 ち つ つも無駄な出費は控えるという、両方への配慮を働かせているの が 読 み 取 れる。前出の能登国羽咋郡町居村の村松家の家訓では、凶 作・飢謹が続く中、没落の危機意識をつのらせて書かれたものだけに、 豪農であったにもかかわらず冠婚葬祭での質素、倹約がことさらに強 ︵耀︶ 調され、﹁仏二付常に異なる事仕間敷也、厨子等二至るまて栄曜ケ間 ︵31︶ 敷 義 不 仕 様 可懸心事﹂、﹁法事等仏事二付、禄不相応懇志振舞等堅仕間 ︵32︶ ︵招︶ 敷事﹂、﹁仏事法事ハ随分軽く致し相務べく候、昭人等も一家親類之外 ︵33︶ ハ近付たり共召頂致間敷事﹂と説かれている。 四 葬式・法事の際の講中、村人、族縁・血縁・姻戚関係者との関わり 合 い 方 が 細 か に 規 定されている。 葬式の運営には講中が中心的な役割を果たしていたようである。他 村の一家中︵族縁あるいは血縁・姻戚関係者の総称として用いている ようである︶へは、講中より使者を遣して通知することになっている。 そして、灰葬の翌日には講中へだけは御礼に回るよう定めている。こ れ は 講中が葬式の運営に多大の労力を提供していたからにほかなるま い。しかし、法事には講中は参加していない。四九日の法事の際には 「 講中ハ近来ハよぽぬ二定メたり﹂としている。ただ、大葬式後の四 九日は、講中にも重ね餅を配っている。小葬式後の四九日は配らない。 ﹃家業考﹄の﹁年中かって心得の事﹂の項には、﹁およりも十一月二 84
近世農民層の葬祭・先祖祭祀と家・親族・村落 あたれバおより法恩講とて講中惣仏さまの法恩講ゆへ坪をつける。あ づきに引手二あらめひく。講中より御布施壱匁上ル事。諸入用割壱軒 ︵34︶ 二 付 凡 弐分徽離W持崎碑勧励﹂という記述がみえる。これによると、この 地 方 に は 「 お 寄り講﹂というのが結成されており、共有の﹁惣仏﹂を 拝 する仏事を催していたことが知られる。おそらく、この﹁お寄り講﹂ が 葬式の際に相互扶助機能を果たしていたものと思われる。 ﹁もくよく﹂︵沐浴︶つまり湯灌は、大葬式、小葬式ともに﹁親類﹂ が 集まってから行うよう定めている。死者は親族一同に見守られなが ら湯で拭き清められ、棺に納められて、あの世へと旅立つわけである。 死 人 の 髪 を剃った者へはさらし手拭い一枚を遣わすのがしきたりとな っ て いる。これは、死骸に触れた微れをその手拭いで拭い去らせる意 味がこめられていたと思われる。 忌中見舞への返礼は、大葬式、小葬式とも、村内から持って来た老 へ は 何もやらず、他村からの場合に限って銀一匁を遣わすことにして いる。村内で死者が出た時、忌中見舞を遣わすのは、村共同体の成員 として当然の義理であり、いわば相互扶助の一環と考えられていただ ろう。したがって、村人同士の間での見舞には返礼は不要とし、余計 な出費と気遣いをかけないようにするという村の慣行が形づくられて い た の で はなかろうか。 初 七日の檀那寺への参詣から帰ると、近所へ餅を三つ四つ配るのが この地方の慣習であったが、丸屋吉川家では四九日に配ることにして いる。ただ、小葬式後の初七日では、近所や親しく付き合っている家 へ餅を三つ四つ配ることもあった。 四 九 日の法事は、大葬式後の場合は、檀那寺長楽寺の他に村内の 二家内二三軒Lを呼ぶだけにし、その他は招かないことにしている。 他 村 遠方へ嫁や聾に行った娘や息子は、﹁其所の寺へ参るもよし﹂と する。﹁其所の寺﹂とは婚家の檀那寺であろうから、檀那寺は単にそ の 家 の 先 祖 だ け でなく、他家の近親老の霊を拝む場所でもあったこと になる。 四 十 九日の餅の配付については、﹁他村一家へ壱組、村内下丸屋、 ︵ 契 約 子︶ 向九屋、国貞、其外けいやくこの方へ一重ッ・、講中二て竹光、竹の 屋、竹丸、三郎丸へ一重ツ・、其外ハ五つ六つやるさきもあり。七つ 八 つもやるさきもあり。時の考次第なり﹂と定めている。下丸屋は 『 家 業考﹄の筆者吉川︵丸屋︶甚七の兄が、向丸屋は甚七の弟が、そ れ ぞ れ 分 家して創立した家である。﹁契約子﹂は親子の契約を結んで いる者である。この地方では、男子なら一五歳、女子なら﹁三歳にな ると、村内で経済的に余裕があり、自分の家より格が上で、しっかり した人を契約親として頼む風習があった。契約親は契約子をいろいろ な面で教育、指導し、生活を援助した。それに対し、契約子は契約親 に実の親同然に敬い仕えねぽならず、農作業などの手伝いはもとより、 ︵35︶ 葬儀においても実子同様に世話をするのが務めであった。 大 葬 式後の四九日の法事では、餅をつき、それを死者の霊前に供え るとともに、同族、親族や契約子、講中、近隣、親しい付き合いのあ る者などへ配って共食してもらったのは、死者を偲び冥福を祈っても 85