近世阿波における肥料取引の諸相
著者
白川部 達夫
著者別名
SHIRAKAWABE TATSUO
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 史学科篇
巻
43
ページ
47-76
発行年
2017
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009903/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja四七 近世阿波における肥料取引の諸相
はじめに
阿波平野は、中央を流れる吉野川の水位が低く、用水としては不便な上、米の収穫期には頻繁に洪水が発生した。こ のため近世では初夏に収穫ができる藍が作られ、その特産地として繁栄した。藍の生産には、多量の魚肥の投下が必要 で、阿波には各地から大量の魚肥が流入した。これらの魚肥は、主に藍の加工・販売にあたった藍師・藍商が農民に貸 付 け、 収 穫 期 に 藍 葉 で 相 殺 す る 方 法 で 提 供 さ れ た。 そ う し た 状 況 に つ い て は、 い く つ か 検 討 は あ る が、 廻 船 問 屋 や 大 藍師などの大規模な肥料取引に限られ、実際にこれが在村でどのように販売されたかについては、まだ十分な分析がな い ( 1 ) 。そこでここでは、在村肥料商(藍商)の肥料販売について紹介してみたい。もちろん肥料商売の史料は、阿波でも 乏 し い の で、 断 片 的 な も の に な る が、 そ こ か ら 得 ら れ る 情 報 を 整 理 し て お く こ と も 全 体 を 概 観 す る た め に は 必 要 で あ る。近世阿波における肥料取引の諸相
白川部
達
夫
四八
一
干鰯売掛け銀出入
まず一九世紀初め在地の売り掛け銀出入の事例を紹介しよう。史料は大坂の干鰯屋松屋安兵衛と板野郡竹瀬村の百姓 との売り掛け銀出入の内済証文である。大坂の干鰯屋が阿波の農民と直接取引を進めていたことは、すでに近江屋長兵 衛や同市兵衛の事例で明らかにした が ( 2 ) 、これもその一つであ る ( 3 ) 。 仕渡ス一札之事 未年残り 一、銀壱貫拾四匁壱分弐厘 未年十二月 一、同弐百四拾八匁四分八厘 弐口〆壱貫弐百六拾弐匁六分 此利弐百七拾弐匁七分弐厘 月一二 但し申正月より酉五月迄約〆 合壱貫五百三拾五匁三分弐厘 四ケ度ニ割壱年分三百八拾三匁八分三り宛 右 ハ、 其 元 ニ て 干 鰯 相 調 申 候 処、 右 之 通 之 残 銀 ニ 相 成、 算 用 難 相 調 延 引 致 候 ニ 付、 御 願 付 可 被 成 由 ニ て 迷 惑 致 候 処、当村庄屋木内六右衛門殿御挨拶ヲ以、元利〆高四ケ年賦ニ内済御聞届被下、壱年分三百八拾三匁八分三厘宛、四九 近世阿波における肥料取引の諸相 只今壱ケ度分相渡申、残て壱貫百五拾壱匁四分九厘ハ来戌年より子年迄ニ無滞相渡可申候、万一聊ニても相滞申候 へハ、右元銀ニて御願付被成候迚も一言迷惑と申間敷候、為其兵右衛門殿加判申請書付相渡申候へハ、全違乱無之 候、依て為後日一札、如件、 享和元酉年六月四日 阿州板野郡竹瀬村 六右衛門 ㊞ 同村 又兵衛 ㊞ 大坂 松屋安兵衛殿 右書附之通、不調法之挨拶致候所、御聞届被下ニ付、此度壱ケ度分相渡申候、然上ハ右年符銀聊ニても相滞申候へ ハ私取立相渡可申候、為其一札ニ加判致相渡申所、相違無御座候、以上、 同郡竹瀬村庄屋 酉六月四日 木内兵右衛門 ㊞ 松屋安兵衛殿 ここでは、竹瀬村の百姓六右衛門と又兵衛が松屋と取引を行い、未年(寛政一一年)に未済分銀一貫二六二匁余を出 してしまった。そこで松屋は訴えると伝えたが、同村庄屋木内兵右衛門の仲介で、当面四分の一の銀三八三匁余を支払 い、残りは来年から三年間の分割払いをすることで内済された。このことを庄屋が奥印して保証し、一札が作成された の で あ っ た。 「 此 利 弐 百 七 拾 弐 匁 七 分 弐 厘 月 一 二 」 と あ る の は、 月 に 一 ・ 二 パ ー セ ン ト の 利 子 で、 年 利 一 四 ・ 四 パ ー
五〇 セントとなる。前年の寛政一二年(一八〇〇)は閏四月があるため、通常より一ケ月多く一八ケ月計算となっている。 阿波藩では、藩の肥料貸付の利子が同様で、これが幕末まで標準的なものとなっていた。 松屋は大坂の干鰯屋で古組 (問 屋組)に属してい た ( 4 ) 。大坂干鰯屋の阿波農村への直売りの事例なのであろう。板野郡は吉野川の北岸にあり藍生産の中 心であった。すでに紹介した近江屋長兵衛の場合も、寛政期に干鰯屋となり、ほどなく阿波への魚肥販売を始めたよう で、文化四年(一八〇七)には名西郡高原村の百姓に売り掛け銀一貫三六五匁余ができ、一〇年賦で分割返済する預り 銀証文を作成してい る ( 5 ) 。松屋の場合も、この年を入れて五カ年賦ということであろう。 つぎに在村での貸借の場合を見よう。史料は板野郡長岸村の百姓が東中富村の百姓へ干鰯販売を行って、売り掛け銀 出入となった事例であ る ( 6 ) 。 (端裏書) 「 子三月六日 長岸村 弥左衛門 済口書写 東中富村 九郎左衛門 」 仕上済口書物之事 一 、長岸村弥左衛門より東中富村九郎左衛門へ対し干鰯代出入申立候処、右御引着御蒙被成、彼是御入割被仰聞ニ 付、私共申談左之通内済仕度奉存候、 一 、拾四ケ年以前亥年ニ銀弐貫六百九拾三匁三り、弥左衛門より九郎左衛門へ干鰯代売懸有之、右之内え三ケ度ニ 金拾四両指入、右代引残銀壱貫八百六拾九匁八分三り、外ニ利足三貫四百六拾目四分四り・元利合五貫三百三拾 目弐分七り相成候、併九郎左衛門義近年殊之外困窮仕、指当り返済方便無御座ニ付、左之扣畠地相渡預用捨申度 奉存候、
五一 近世阿波における肥料取引の諸相 一、長江上畠壱反高壱石六斗 名負 九郎左衛門 右之畠地、当九郎左衛門先祖名負ニて代々相扣仕申処、此度長岸村弥左衛門当テ五年切代米四拾石之売証文相調 当月廿日切相渡、畠地之義ハ麦刈跡より引渡申筈、尤藍中植之義ハ、弥左衛門方より作付仕筈、右之通相極、双 方無申分出入指引申度奉存候間、先達て弥左衛門指上御座候御願書御指下被整内済被聞召届被下候様、各より可 然御願被 仰上可被下旨申上処、被仰聞候は九郎左衛門義右畠相渡候ても、耕作無迷惑御役等不指支可相勤哉と 九郎左衛門・手前并罷出候御取立人・手前御引着被成候へ共、未畠地も弐町五六反程所持御座候ニ付、右畠地相 渡候ても、御役等不指支耕作迷惑成義無御座候旨申上候、仍て為後日両村役人共連判ヲ以済口書物差上申処、少 も相違無御座候、以上、 長岸村 享和四子年 弥左衛門 三月六日 東中富村 九郎左衛門 長岸村五人与 善右衛門 東中富村五人与 七郎左衛門 近藤吉兵衛殿 三木九馬太殿
五二 図 1 吉野川流域の肥料販売関係図
鴨島
矢武
諏訪
下浦
西覚円高畑
柔島
高原中島
石井
五三 近世阿波における肥料取引の諸相 豊田善左衛門殿 右済口書之通、御郡代様御聞届被遊旨、被仰渡本帋之義ハ御役所え指上為後証双方へ致写相渡申処、如件、 唐園村与頭庄屋 寒川道之丈 ㊞ 中窪村与頭庄屋 多田栄之丞 ㊞ 西分村庄屋 藤庄格左衛門 ㊞ 東中富村 九郎左衛門方 この一札によると、長岸村弥左衛門は東中富村九郎右衛門に一四年前に干鰯を販売していたが、代銀が滞り勝ちで銀 二 貫 六 九 三 匁 余 と な っ た。 こ れ に つ い て 三 度 支 払 い が 行 わ れ た が、 銀 一 貫 八 六 九 匁 余 と 利 子 銀 三 貫 四 六 〇 匁 余 が 残 っ た。細かな経過はわからないが一四年もの期間であったので、元本より利子の方が高くなっている。仮に銀二貫六九三 匁 余 を 一 四 年 借 り た と し て 計 算 す る と、 年 利 九 ・ 二 パ ー セ ン ト、 返 済 の 残 銀 一 貫 八 六 九 匁 八 分 三 厘 を 元 に 利 子 が 付 い た と す る と、 年 利 一 三 ・ 二 パ ー セ ン ト ほ ど と な る。 実 際 に は 三 度 に 分 け て 半 分 ほ ど 返 済 し て い る の で、 正 確 な 利 率 は 両 者 の間であったとみられる。したがって最大でも大坂干鰯屋の松屋の貸し付けより利子が安かった。 それにしても一四年もあると負担はかなり重くなったといえる。そこで村役人らの調停で九郎右衛門は弥左衛門に土
五四 地を質地で渡すことで内済することにした。契約では畠地一反で高一石六斗の「名負」地を五年季、米四〇石を借りた ことにして渡している。借銀にたいして一石あたり銀一三三匁余になる。阿波の米価はわからないが、大坂の米価は一 石に銀五六匁七分であったから倍以上の価格となってい る ( 7 ) 。いわゆる倍金証文とでもいうべきものになっており、実質 的に請戻せないような高値をつけたということであろうか。三月二〇日に土地を渡し、植えてある麦は九郎右衛門が刈 り取り、中植えする藍草は弥左衛門が作付けするとしている。長岸村と東中富村はかなり離れており、弥左衛門が手作 りすることは考えにくいので、小作に出すということであろう。このため弥左衛門が訴えていた訴状を取り下げた。ま た九郎右衛門が役儀を勤められるか心配する役人にたいして、村役人らは、この畠を年季売りしても、二町五、六反の 土地があるので十分経営が成り立つと説明している。 このように名請地を五年季で質入れすることで内済が行われたが、同年五月には九郎左衛門は残銀をさらに調達でき たようで、つぎのような証文が残ってい る ( 8 ) 。 覚 一、干鰯代残銀弐貫目也 右ハ、去ル子年入残り当三月近藤吉兵衛殿内済被下候所、右之通慥ニ請取相済申候、以上、 長岸村 文化元年 弥左衛門 ㊞ 子五月 東中富村 九郎左衛門殿
五五 近世阿波における肥料取引の諸相 享和四年は改元して文化元年となるが、ここでは干鰯代残銀二貫匁を九郎右衛門がさらに支払ったことがわかる。証 文とは別に、本来の干鰯代銀を支払っていけば、土地が返還されることになっていたのであろうか。干鰯代銀と内済の 五年切証文との関係は、不明である。
二
干鰯通帳から見た肥料流通
現在、まとまった史料はないものの、肥料の在村での販売・流通を示すものに干鰯通帳が残されている。在村での販 売に直接関係するものなので、検討してみたい。 (表紙) 「 安永七戌年正月 御為替方 干鰯売渡通 竹瀬村 藤兵衛 」 一 五月廿六日 、 鯡拾五俵 代四百六拾七匁壱分 此五歩 弐拾三匁三分三り 一 同日 、銀札壱匁四分壱り 帆前五六 一、同弐匁弐分五り 切手中代 〆三匁六分六厘 右上納相済 史 料 は、 安 永 七 年( 一 七 七 八 )、 藩 の 為 替 方 が 竹 瀬 村 藤 兵 衛 へ 魚 肥 を 販 売 し た 通 帳 で あ る ( 9 ) 。 魚 肥 は 鯡 で、 こ の 頃 す で に、鯡が阿波に入っていたことがわかる。鯡粕の流入は、大坂で文化・文政期頃から盛んになってきたものであるが、 阿波藩では早くから試みられていたようである。 阿波藩では、明和六年(一七六九)に干鰯の相対売買を禁止して、藍方代官所の支配下にあった為替方役所が干鰯の 貸 付 や 税 の 徴 収 に あ た っ た。 そ の さ い 移 入 税 と し て、 売 買 代 金 の 三 ・ 五 パ ー セ ン ト と 干 鰯 一 俵 に つ き 銀 一 分 の 仲 仕 賃 を 売人から徴収した。 また諸国から直買したものは代銀の三 ・ 五パーセントの税をとっ た )(1 ( 。 この扱いは寛政二年 (一七九〇) まで続いたが、史料は、この時期のもので生産者農民への販売の実態がわかる。為替方役所は、魚肥の販売代金の五分 に 帆 前・ 切 手 中 代 と い う 手 数 料 を 取 っ て い た。 鯡 代 銀 に た い し て 五 ・ 八 パ ー セ ン ト と な る。 売 り 方 と 買 い 方 の 負 担 を 合 わせると九 ・ 三パーセントを越える負担が魚肥購入に課せられていたことがわかる。 為替方は、領内の魚肥販売について、肥料商売を行う者から冥加金を徴収して、流通編成を行ってい た )(( ( 。 覚 鴨島村 一、金壱両也 快右衛門 右ハ、干鰯御仕入中買株冥加金之内、当未年分、上納相済 未十二月十四日 御為替方
五七 近世阿波における肥料取引の諸相 座本 ㊞ この史料は、麻植郡鴨島村快右衛門が干鰯仕入仲買株について、この年の冥加金一両を差出した請取である。為替方 座本が出しているので、明和六年 (一七六九) から寛政二年 (一七九〇) までの間のことだとすると、安永四年 (一七七五) ないし天明七年(一七八七)である。 為替方の取扱は、寛政二年(一七九〇)に廃止となり、その後は、藩は干鰯問屋に領内外の流通統制を任せるように なった。つぎの史料は、幕末期と思われるものである。 覚 一、関東干鰯五拾九俵 弐拾弐匁五分かへ 代壱貫三百弐拾七匁五分 内拾三匁弐分八り 歩引 残て壱貫三百拾四匁弐分弐り 又五匁五分五り 帆前 〆壱貫三百拾九匁七分七り 六五九 此金弐拾両ト壱匁八分壱り (加筆) 「 四月三日 内金拾両分御入 付無済」
五八 右之通御座候、以上、 未三月廿五日 才賀屋 甚兵衛 ㊞ 田村多次郎殿 佐藤須か村 源五殿 関東干鰯五九俵を才賀屋甚兵衛が板野郡佐藤須加(佐藤塚)村の源五、板野郡矢武村田村多次郞へ売った仕切りであ る )(1 ( 。才賀屋は商印に阿州徳島とあるので、徳島の肥料商であることがわかる。宛所に二名記載されているので、この二 人で購入したものであろうか。一俵に銀二二匁五分で代銀が計算され、分引きという引きがあり、これに帆前が加えら れ て、 請 求 額 が 決 ま る。 こ れ を 金 に 換 算 し て 請 求 が 行 わ れ て い る。 金 と 銀 の 換 算 は「 六 五 九 」、 金 壱 両 に 銀 六 五 匁 九 分 で銀安になっている。阿波では金貨に換算して請求される例が外にも見られる。 つぎの史料は先に述べた東中富村九郎左衛門が干鰯一三三俵を買い付けた記録である。安政七年(一八六〇)の「肥 類仕入帳」という表題をもつ帳簿にある記載であるが、帳簿は万覚帳のような記載で肥類の記述はほとんどなく、ここ に紹介する程度であ る )(1 ( 。 干鰯覚 (網印省略)十一 (網印省略)廿七 (網印省略)八 (網印省略)十 □ (三) (網印省略)十 (網印省略)十二
五九 近世阿波における肥料取引の諸相 (網印省略)十九 (網印省略)九 (網印省略)十五 (網印省略)九 俵数合百三拾三俵 但し十弐貫八百平 □ (弐) 拾五匁六分かへ 代三貫四百 目 (ママ) 四匁八分 右之通、下浦宮本屋常助殿より相調申候 四月八日水揚 □ (四) 月より八月迄五ケ月 五 (分) 部 □利百七拾目弐分四り 元利合三貫五百七拾五匁四り □ (六) 拾三匁六分かへ 内金五拾六両代 三貫五百六拾壱匁六分 差引拾三匁四分四り 不足 干か代ハ両五分ツヽ乗セ有之度候也、 八月廿四日 直五□持参 ニて相渡ス この記事は、九郎右衛門が下浦の宮本屋常助から干鰯一三三俵を購入した時のものである。干鰯は平均一二貫八〇〇
六〇 目で一俵当たり銀二五匁六分の直段で、合計銀三貫四〇四匁八分となった。四月八日に水揚されて、東中富村の九郎右 衛門方へ届いている。以下これについて、八月二四日に精算の計算がなされている。これによれば購入代金にたいし四 月から八月まで、五ケ月間に五分の利子銀一七〇匁二分四厘が付けられている。月に一パーセント、年利一二パーセン トである。元利合計について両に銀六三匁六分の計算で内金五六両が支払われ、差引銀一三匁四分四厘が不足となって い る。 続 い て 干 鰯 代 は 両 に 五 分 宛 乗 せ た い と あ る。 内 金 は 五 六 両 な の で 五 パ ー セ ン ト と い う 意 味 な ら 二 ・ 八 両 を 乗 せ る ことになる。 ところで、この部分の上部には、下浦の宮本屋が出した仕切りが貼り付けられている。上部に判読できない部分があ るのは、この仕切りが貼り付けられているからである。それを示すとつぎのようであ る )(1 ( 。 覚 一、三貫四百四匁八分 初り四月 又弐百四拾五匁壱分四り 利 壱ケ月壱弐 〆三貫六百四拾九匁九分四り 内金五拾六両 入 □三貫五百七拾弐匁八分 〆七拾七匁壱分四り 不足 右之通ニ御座候
六一 近世阿波における肥料取引の諸相 御引合被成可被遣候、以上、 下浦村 八月廿四日 宮本屋 清助 ㊞ 中富村 九郎左衛門様 日 付 は 八 月 二 四 日 な の で、 九 郎 左 衛 門 方 が 帳 面 に 書 き 上 げ た 日 と 一 致 し て い る。 こ れ に よ る と 銀 三 貫 四 〇 四 匁 八 分 にたいし、月一分二朱の利率で、五カ月で銀二四五匁一分四厘の利子が付けられている。それが合計されて、内金五六 両の銀三貫五百七二匁八分が差し引かれて銀七七匁一分四厘が請求されている。九郎左衛門家と宮本屋では、取引の認 識 が 違 っ た よ う で、 九 郎 左 衛 門 方 は 利 子 は 年 利 一 二 パ ー セ ン ト で 計 算 し て い る が、 宮 本 屋 は 月 一 ・ 二 パ ー セ ン ト、 年 利 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト で 計 算 し て い る。 ま た 金 銀 の 換 算 で は、 九 郎 左 衛 門 方 が 金 一 両 銀 六 三 匁 六 分 と す る の に た い し て、 宮本屋は金一両銀六三匁八分で計算している。また宮本屋の仕切りには両五分乗せるという記載はない。これらの差が 残銀の差になっている。ただ一両に銀六三匁八分にしても、安政七年(一八六〇)の大坂の金銀の為替直段は一両七三 匁三分六厘とされるので、かなり銀高に計算されてい る )(1 ( 。九郎左衛門方の直五□が持参して渡したとあるので、宮本屋 の仕切りを受けて、あらためて九郎右衛門方が計算し直して、残銀を渡したという意味であろうか。売り手と買い手の 間で、取引について突き詰めた取り決めをしていなかったのかもしれない。なお同じ帳簿に、 手作付出し覚 申六月八日
六二 一、葉藍百拾本 九郎左衛門 正味千六百拾五貫匁 と覚え書きがあり、同年九郎左衛門の藍葉収穫が重量一六五〇貫目であったことがわか る )(1 ( 。寛政元年 (一七八九) の 「藍 作始終書」では、藍葉の豊作時の収穫が一反当たり重量三五貫目で、藍玉にして二本だったとされるので、九郎左衛門 の手作り規模は四町七反から五町五反だった計算にな る )(1 ( 。幕末期なので生産力はあがっていたであろうが、記述が文字 通り小作料分が含まれないとすると、同家はかなりの規模の手作り経営を行っていたことが想像され、多量の魚肥が必 要であったと考えられる。 この帳簿にはもう一点、仕切り覚が写されてい る )(1 ( 。 覚 五月十二日調 一、関東干鰯 (網印省略)四本 廿壱匁かへ 代銀八拾四匁 六月より九月迄 四 (分) 部 此利三匁三分六り 元利八拾七匁三分六り 内八拾目壱分三り 金壱両 壱 (分) 部 但し壱両五分乗セ 内七匁弐分三り
六三 近世阿波における肥料取引の諸相 払部壱分七り 〆七匁四分 右之通、相渡無出入相済申候 ㊞ 十一月十二日 長作様 ここでは、関東干鰯四本を一本銀二一匁の値段で販売し、これに一カ月一パーセントの利子で四カ月分の利子を加え て、 元 利 銀 八 七 匁 三 分 六 厘 と な っ て い る。 こ れ に つ い て 金 一 両 一 分 に 直 し て い る が、 そ の 銀 目 が 八 〇 匁 一 分 三 厘 と な る。金一両に銀六四匁一分の計算になる。これについても「但し壱両五分乗セ」と但し書きがある。元利から銀八〇匁 一分三厘を除くと、銀七匁二分三厘となるが、これに払分銀一匁七厘を加えると銀七匁四分となる。一応、計算はこの ようであるが、やはり「但し壱両五分乗セ」がどのような意味があるか判然としないし、金銀為替は大坂の値段とかな り違ってい る )(1 ( 。 最後に、安政六年(一八五九)から翌年にかけて精算された天野屋兵吉から板野郡矢武村和泉屋田村太(多)次郎に 宛てた通帳を検討しておこう。書式はつぎのようであ る )11 ( 。 (表紙) 「安政六未正月 天野屋兵吉 干鰯糟御通 和泉屋太次郎様 」
六四 正月十日 一、浅マシケ三拾俵 〆七百三拾弐貫弐百 四拾三貫九百三十 六百八拾八貫弐百七十 五拾四匁四分替 〆三貫七百四拾四匁壱分九りん (鯡粕一件分中略) 此〆六貫三百弐拾四匁五分八厘 四匁七分 〆六貫三百弐拾九匁弐分八厘 七六四 此金八拾弐両三分 さ 七匁三分弐厘 〇印 二月十三日 内八拾両也 入 此り 拾両也 拾弐ケ月半 (中略)
六五 近世阿波における肥料取引の諸相 三月廿六日 同四拾両也 入 四月六日 六拾両也 入 此り拾壱両 十壱ケ月 (中略) 巳八月分 一、九両三歩 栄蔵藍代 四拾五匁五分 入不足分 元利合三百八拾四両弐歩弐朱 八拾三匁六分七厘 内金合三百弐拾五両弐歩 弐拾壱匁四分九り さ引 五拾九両弐朱 六拾弐匁壱分七り 申二月九日 かし 申三月七日
六六 内金五拾両也 入 表題は安政六年(一八五九)正月となっているが、末尾は申年二月で万延元年 ( 一 八 六 〇 ) で あ る。 安 政 六 年 分 の 取 引 に つ い て、 翌 年 に 精 算 し た こ と に な っ て いる。 冒頭は浅マシケ鯡粕三〇俵、重量七三二貫五〇〇目を販売した記事で、ここか ら風袋引き分を除き、正味重量六八八貫二七〇目について、一〇貫当たり銀五四 匁四分を乗じて、価格が算出されている。史料では中略してあるが、もう一件同 様な記載があり、その合計が銀六貫三二四匁五分八厘となり、これに銀四匁七分 が加えられて、それを金一両銀七六匁四分で換算して代銀が計算された。安政六 年(一八五九)の大坂の為替相場は金一両に銀七三匁七分七厘だったので、三匁 ほ ど 大 阪 の 方 が 銀 安 な も の の、 ほ ぼ こ れ に な ら っ て い る )1( ( 。 さ ら に 申( 万 延 元 年 ) 二月一三日に金八〇両が支払われて、この利子が一二カ月半で金一〇両と計算さ れている。利子は年利一二パーセントだったことがわかる。個別の購入について は表1に示した。これによれば安政六年(一八五九)には鯡粕一五〇俵、関東〆 粕四五俵と□国二〇俵を購入している。総額は銀二五貫五〇六匁余となり、自家 消費されたとは考えにくいから、和泉屋からさらに生産者農民に販売されたもの であろう。販売した天野屋は徳島の干鰯平問屋であっ た )11 ( 。通帳の末には、それぞ れ 途 中 の 支 払 い が あ る が、 最 後 に「 栄 蔵 藍 代 入 不 足 分 」 と し て 巳 年( 安 政 四 年 ) 表 1 安政 6 年、天野屋兵吉通 月日 品目 俵 重量 (貫) 価格 (10貫目) 代銀 (匁) 正月(1日 浅マシケ 11 111 11.1 1,111 正月(1日 シャリ 11 111 11.1 1,111 正月1(日 関東粕 11 111 11 (,111 正月(1日 本ルルモツヘ 11 (,111 11.1 1,111 1 月(1日 マシケ 11 111 11 1,111 1 月 1 日 マシケ鯡粕 11 111 11.1 1,111 1 月 1 日 □国 11 111 11.1 1,111 合計 1,111 11,111 出典:徳島県立公文書館所管・河野家文書11番。重量・代銀は四捨五入した。
六七 近世阿波における肥料取引の諸相 の代金、金九両三分と銀四五匁五分が加えられて、元利合計が計算されている。藍代とあるので、この取引には、何ら かの形で藍(ないし藍葉)で現物支払いする方式がかかわっていたことがわかる。さらにこれからそれまで、時々に支 払っていた内金の合計が示されて、差し引いて金五九両弐朱余が万延元年二月九日付けで請求され、三月に金五〇両を 支払って、この帳面が終わっている。
三
在地藍商の肥料販売
これまで在地に残された売り掛け銀出入や通いなどから、農村での販売状況を見てきたが、最後に、幕末維新期の在 地小規模藍商の肥料販売の実態をその販売帳簿から検討してみよう。 名西郡西覚円村の野上屋・天野家には、文化四年(一八〇七)と推定される「藍葉調日記」が残ってお り )11 ( 、この時期 から藍玉の製作に携わっていたことがわかる。また明治には山梨県に売り場をもっており、一九世紀には藍師・藍商と して活躍していた。 同家は、幕末期より肥料商売を行っており嘉永六年(一八五三) 、安政三年(一八五六) 、文久三年(一八六三)の肥 料の販売帳簿が残っている。 A嘉永六年「肥売帳」 嘉永六年の「肥売帳」は中央部にカビの汚れが激しく、帳面も癒着しているため、全面的な分析ができな い )11 ( 。しかし その後の帳簿の前提となっているので、その特徴を指摘しておくとつぎのようである。 ① 帳簿の表題は嘉永六年(一八五三)であるが、その前々嘉永四年(一八五一)からの記述がある。六八 ② 販売した魚肥は二六件確認されるが、その内、一七件が関東粕・関東新粕の 関東ものの〆粕で、これに続いて松前粕三件、南部粕三件、宇和粕一件、干 鰯二件となっている。 ③ 前 貸 し 方 式 で、 利 子 は 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト で あ っ た。 決 済 は 記 事 が な く、 藍 葉の現物決済が行われたかはわからない。 以上の点で、興味深いのは、やはり関東産の干鰯〆粕が中心で、鯡粕がまだ主 流になっていないことである。もちろん帳面は一部でまだなかに記載がある可能 性はあるが、安政期と比べると干鰯〆粕が多いことは注目できる。 B(安政三年) 「(鰯粕売帳) 」 同帳面は、表紙から一、二枚ほどが欠けており、年代・題名は推定であ る )11 ( 。し かし帳簿中に 「辰八月七日」 とあること、鯡粕の価格が一〇貫目当たり銀五五匁、 銀五八匁などとなっていることから安政三年(一八五六)と判断した。その後の 辰年は明治元年(一八六八)になり、魚肥の価格は高騰していて該当するとは思 われないし、前の弘化元年では、安すぎるということもある。また同帳面には、 とじ目の下部に欠損があるため、匁以下の小さな単位について判読できない部分 がある。しかし大筋は読むことが可能であるので、大勢の判断に支障はない。帳 面の記載様式はつぎのようであ る )11 ( 。 二月十一日 高瀬新田 表 2 安政 3 年、西覚円村野上屋の魚肥販売 村名 人数 鯡粕 (貫) 代銀 (匁) 関東粕 (貫) 代銀 (匁) 干鰯 (俵など) 代銀 (匁) 代銀合計 (匁) 利子 (匁) 総合計 (匁) 葉代精算 (匁) 高瀬新田 1 111 1,111 1 111 1,(11 (11 1,111 1,111 高原 (( (,111 (1,111 (1俵 1 本 111 ((,(11 11( ((,111 ((,111 中島 ( (11 111 1 (11 1(1 11 111 111 覚円 1 111 1,111 11 (11 (1俵 1 本 111 1,111 (11 1,1(1 1,11( 石井 ( 11 1(1 11 (11 111 11 111 111 船戸 ( (11 111 (1 1( 111 1( 111 111 合計 11 1,11( (1,((1 11 111 11俵 1 本 (111 11,111 111 11,111 1(,111 出典:徳島県公文書館所管・天野家文書 1 番。
六九 近世阿波における肥料取引の諸相 一、マシケ鯡粕壱俵 美代蔵殿 三十二貫 内 壱貫九百弐拾匁 正ミ三拾■八拾目 五八 代百七拾四匁七分八り 拾匁四分六り 五ケ月り (中略) 元利〆壱貫六拾五 一、七十弐匁四分 金壱両 大晦日 六匁八り 七ケ月り (中略) 元利〆五百五十六匁四分□ 二殊〆弐貫百五十五匁 葉代ニて差引 これは高瀬新田の美代蔵に魚肥を販売した記録である。ここではマシケ鯡粕一 表 2 安政 3 年、西覚円村野上屋の魚肥販売 村名 人数 鯡粕 (貫) 代銀 (匁) 関東粕 (貫) 代銀 (匁) 干鰯 (俵など) 代銀 (匁) 代銀合計 (匁) 利子 (匁) 総合計 (匁) 葉代精算 (匁) 高瀬新田 1 111 1,111 1 111 1,(11 (11 1,111 1,111 高原 (( (,111 (1,111 (1俵 1 本 111 ((,(11 11( ((,111 ((,111 中島 ( (11 111 1 (11 1(1 11 111 111 覚円 1 111 1,111 11 (11 (1俵 1 本 111 1,111 (11 1,1(1 1,11( 石井 ( 11 1(1 11 (11 111 11 111 111 船戸 ( (11 111 (1 1( 111 1( 111 111 合計 11 1,11( (1,((1 11 111 11俵 1 本 (111 11,111 111 11,111 1(,111 出典:徳島県公文書館所管・天野家文書 1 番。
七〇 俵で重量三二貫目から、内引き分を引いて正味を出して、重量一〇貫目 当たり銀五八匁を乗じて、代銀一七四匁七分八厘が算出された。またこ の 利 子 が 五 カ 月 分 で 銀 一 〇 匁 四 分 六 厘 と な っ た。 年 利 一 四 ・ 三 六 パ ー セ ン ト で、 お お む ね 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト を 基 準 と し て い た こ と が わ か る。 こうした魚肥購入が記載され、合計が元利銀一貫六五匁余となった。美 代 蔵 の 場 合、 さ ら に 借 金 が あ り、 こ れ ら と 魚 肥 販 売 額 を 合 計 し た も の が銀二貫一五五匁余となったが、これは藍葉代で精算されたことがわか る。こうした魚肥以外に、借金をした農民は六名いた。 表2は、野上屋の魚肥の販売を村ごとにまとめたものである。野上屋 は居村の覚円や高原、高瀬新田など近隣のごく狭い範囲に魚肥を販売し て い た。 人 数 合 計 で は 二 七 名 で、 鯡 粕 が 重 量 三 三 六 一 貫 余 が 中 心 で 関 東粕重量七四貫目、干鰯四三俵と四本であった。この売り上げ代銀が銀 二 〇 貫 匁 余 と 利 子 が 銀 六 三 二 匁 余 で あ る。 利 率 は 年 利 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト で、 本 家 だ け 一 二 ・ 二 パ ー セ ン ト が 適 用 さ れ て い た。 利 子 は 決 し て 安 くはないが、半年以下であるので、この帳簿の精算時点では、売り上げ 代 銀 の 三 ・ 一 五 パ ー セ ン ト に し か な っ て い な い。 通 常、 半 年 で 決 済 す る とこの程度であったといえる。もっとも農民側からすると借金の返済が 滞れば打撃は大きいものになる。さらに藍葉代で精算した銀額を示した 表 3 文久 3 年、西覚円村野上屋の魚肥販売 村名 人数 鯡粕 (貫) 代銀 (匁) 鰯粕 (貫) 代銀 (匁) 代銀合計 (匁) 利子 (匁) 総合計 (匁) 葉代精算 (匁) 高瀬新田 1 (,111 1,111 ((1 (,111 (1,111 111 ((,11( 111 桑島 (( (,111 (1,11( 1(1 1,111 (1,111 1(1 (1,111 1,111 高畠 ( 11 11( 11( (1 111 111 諏訪 1 (11 (,111 11 111 (,111 (1 (,111 (,111 中島 1 (11 (,111 11 111 (,111 11 (,111 (,111 中村 1 11 111 (11 (,111 1,111 1( 1,11( 111 覚円 1 11 111 11 111 111 11 1(1 高原 1 11( (,111 (,111 11 1,111 石井 1 (1 ((1 11 (11 1(1 1 111 合計 1( 1,(11 11,11( 111 1,111 11,(11 (,111 11,111 1,11( 出典:徳島県立公文書館・天野家文書111番。 注:南部粕 1 本は、鰯粕に加えた。
七一 近世阿波における肥料取引の諸相 が、覚円村以外のすべての村で、藍葉代が代銀と利子の合計を上回って いる。とくに多いのは、なかに魚肥代銀だけでなく、借金を加えて藍葉 で相殺しているからである。藍葉代で相殺した記事がないのは四名だけ で あ る。 こ の 段 階 で は、 野 上 屋 は 藍 葉 の 集 荷 の た め に 魚 肥 を 販 売 し て いたことが明かである。なお帳簿の末尾には手作肥として鯡粕・干鰯を 利用したことが記されているが重量などの部分が欠けていて判然としな い。また徳島浜のいせ屋九兵衛から上々マシケ鯡粕一二俵を購入した記 事がある。重量二九二貫一五□目で一〇貫目銀四五匁替えで銀一貫三一 □匁であった。これは野上屋の仕入先の一部を示すものであろう。 C文久三年「鯡鰯粕売帳」 文久三年(一八六三)の帳面の書式は、安政三年(一八五六)とほぼ 同じなので、記載は省略す る )11 ( 。表3にその集計したものを示した。 販売先の村では、高瀬新田は安政三年(一八五六)に比べて人数も増 えたが、安政三年(一八五六)に中心的販売先だった高原村や覚円村は 激減し、新しくでてきた桑島村が中心になってきた。また諏訪、中村な どの村々が新たに加わった。全体で三一名で継続取引のものは五名いる が、安政三年(一八五六)との継続のないものが多かった。販売品目は 鯡粕が中心で重量は安政三年より若干少なかった。反面鰯粕は、かなり 表 3 文久 3 年、西覚円村野上屋の魚肥販売 村名 人数 鯡粕 (貫) 代銀 (匁) 鰯粕 (貫) 代銀 (匁) 代銀合計 (匁) 利子 (匁) 総合計 (匁) 葉代精算 (匁) 高瀬新田 1 (,111 1,111 ((1 (,111 (1,111 111 ((,11( 111 桑島 (( (,111 (1,11( 1(1 1,111 (1,111 1(1 (1,111 1,111 高畠 ( 11 11( 11( (1 111 111 諏訪 1 (11 (,111 11 111 (,111 (1 (,111 (,111 中島 1 (11 (,111 11 111 (,111 11 (,111 (,111 中村 1 11 111 (11 (,111 1,111 1( 1,11( 111 覚円 1 11 111 11 111 111 11 1(1 高原 1 11( (,111 (,111 11 1,111 石井 1 (1 ((1 11 (11 1(1 1 111 合計 1( 1,(11 11,11( 111 1,111 11,(11 (,111 11,111 1,11( 出典:徳島県立公文書館・天野家文書111番。 注:南部粕 1 本は、鰯粕に加えた。
七二 多くなったが、安政三年(一八五六)にあった干鰯販売がなくなっているので、全体では同じ程度ということかもしれ ない。鰯粕は松前鰯粕が中心で、南部粕が四本含まれた程度であり、関東粕はなかった。嘉永六年(一八五三)には関 東〆粕が高い比重を占めたと考えられるが、安政三年(一八五六)には鯡粕が中心となり、文久三年(一八六三)にな ると一部販売された鰯粕は松前産が中心となるようになった。 い っ ぽ う 利 子 率 は、 従 来 の 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト の も の の 他 に、 一 二 パ ー セ ン ト が 八 名 に つ い て 適 用 さ れ て お り、 利 子 率の低下が進んだことがうかがえる。桑島二名、諏訪二名、覚円村二名、中村、石井村各一名で、適用の理由はわから ない。 また藍葉代で精算したことが記載されているものは、一二名に過ぎなかった。記載がないから、藍葉代で精算してい ないと決めつけるわけには行かないが、なかには肥料代銀を書いて「右之通、慥ニ算用相済」とか「八月十一日 算用 相済」と書いた二名があり、藍葉ではなく現銀で決済したことが明らかである。現銀決済のものもかなりいたのではな いだろうか。しかしいっぽうで、文久三年(一八六三)では、二五名のものが魚肥の前借りとともに借銀をしていた。 藍葉代で支払うとしたもの一二名の内、八名が魚肥代とは別に借銀をしていた。またとくに藍葉代で支払う記述のない もの一九名のなかでも、一七名が借銀が見られた。仮に藍葉の現物決済が減少していたとしても、藍作農民の野上屋へ の金融依存は深まっていたといえる。最後に、明治一三年 (一八八〇) にも 「肥魚売懸帳」 があるが、これは最初に 「此 帳壱ケ年見積金 弐千円 明治十三年辰八月廿二日」とあるだけで、中身は白紙であっ た )11 ( 。しかし野上屋の魚肥販売は この頃まで続けられており、二〇〇〇円と見積もられるだけのものがあった。それだけ拡大していたことがうかがえる のである。魚肥販売は藍葉集荷と関連するので「藍葉調日記」との関連を今後検討する必要があろう。
七三 近世阿波における肥料取引の諸相
まとめ
以上、阿波藍作地帯における肥料取引の実情を示す史料を検討してきた。得られた史料は断片的なもので、一端に過 ぎないが、今後の検討を深めるための足がかりとなるものである。 魚肥の売り掛け銀出入では、一九世紀初頭の大坂干鰯屋の阿波直売りの事例が見られたが、すでに寛政期頃には、こ うした動きがあったことが明らかになった。文化初年には、大坂干鰯屋近江屋長兵衛も阿波への直売りを行って、売り 掛け銀出入が起きているが、松屋も同様な動きをしていたことがわかる。また地域内部での肥料販売の売り掛け銀出入 について土地売買に帰結した事例が見られた。この場合、一四年間に及ぶ取引で滞った代銀で、元銀より、利子が多く な っ て い る。 利 子 は 年 利 一 四 ・ 四 パ ー セ ン ト で、 半 年 程 度 の 前 借 り で あ る の で、 返 済 で き て い る 限 り は 負 担 は 大 き く な いが、滞りが続けば、相当の負担になったことがわかる。 通帳は、在地での肥料取引を知る格好の材料である。阿波藩では、明和六年(一七六九)に肥料の相対取引を禁止し て、藍方役所配下の為替方が干鰯の貸し付けなどを行ったが、その通帳では、安永七年(一七八八)には鯡の販売が行 わ れ て い た こ と が 明 ら か に な っ た。 ま た 代 銀 の 五 分、 帆 前、 切 手 中 代 な ど が 付 け ら れ、 全 体 で 販 売 手 数 料 が 五 ・ 八 パ ー セ ン ト に 及 ん だ こ と が わ か る。 藩 は 売 り 方 か ら 三 ・ 五 パ ー セ ン ト と 干 鰯 一 俵 に 銀 一 分 の 仲 仕 賃 を 徴 収 し て い た の で、 双 方から肥料代銀の九 ・ 三パーセント強の収入を上げていた。また仲買株の冥加金として年に金一両を徴収していた。 こうした体制は寛政二年(一七九二)に廃止され、問屋を通じた流通統制に替わる。以後、相対取引となったが、幕 末期の通帳や仕切りでは、徳島の肥料商が板野郡佐藤須賀村と矢武村の農民に干鰯を販売した仕切りや名西郡下浦の肥七四 料商が板野郡東中富村の農民に魚肥を販売した事例、徳島の干鰯平問屋が板野郡矢武村の百姓に鯡粕などを販売した事 例を確認した。残っているものでは、それなりにまとまった量の魚肥を販売しており、自家消費分だけではなく、藍葉 購入のための前貸し、あるいはその小作や関係者への配布を含んで買い付けが行われたこともあったと考えられる。ま た幕末期には、前貸し利子が年利一二パーセントに低下していたことがわかる。 最後に在地藍商の小規模な肥料販売の状況を名西郡西覚円野上屋の場合で検討した。嘉永六年 (一八五三) の帳面は、 癒着が激しく全面的な分析はできなかったが、半分以上が関東〆粕でこれに松前粕、南部粕、宇和粕など干鰯〆粕の販 売が目立っていた。これにたいし安政三年 (一八五六) では、鯡粕が中心になり、これに関東〆粕、干鰯などがあった。 代 銀 は 前 貸 し で、 藍 葉 で 現 物 決 済 し て い る も の は 購 入 者 の 八 五 パ ー セ ン ト に 及 ん だ。 前 貸 し 利 子 は 年 利 一 四 ・ 四 パ ー セ ントで野上屋の本家だけが一二パーセントが適用されていた。さらに文久三年 (一八六三) の帳簿では、鯡粕が中心で、 鰯粕も松前鰯粕であり、関東粕はなかった。また安政三年(一八五六)と文久三年(一八六三)の間に、継続取引が確 認できるものはわずかで、藍葉代で精算したことが明確に記載されているものは三一名の購入者の内、一二名にすぎな かった。藍葉の集荷のための肥料販売という形をとらなくなった可能性がある。前貸し利子も、年利一二パーセントが 適用されたものが八名いて、利子低下の比重が高くなっていた。 阿 波 で は 幕 末 維 新 期 に は、 中 小 藍 師 が 成 長 し て、 大 き な 藍 商 は 自 ら 藍 玉 生 産 を 行 わ ず、 中 小 藍 師 か ら 藍 玉 を 購 入 し て、全国市場に販売するようになったとされる。このため藍商は、藍葉を集荷するために肥料の前貸しをする必要がな くなり、肥料販売を縮小したとされ る )11 ( 。野上屋の場合も、文久三年(一八六三)に藍葉代での現物精算の比重が低下し た。いっぽうで野上屋は、肥料の前貸し農民にたいして、現銀の貸し付けを強めており、肥料の前貸しと藍葉の現物決 済の減少や前貸し利子の低下を手放しで評価することはできないが、利子率の低下とともに藍葉の現物決済を前提にし
七五 近世阿波における肥料取引の諸相 た前貸し支配が揺らいでいたことは読み取ることができるのではなかろうか。これらは中小藍師や藍作農民の展開に有 利な条件でもあった。 注 ( () 泉 康 弘「 吉 野 川 平 野 へ の 魚 肥 移 入 と 阿 波 藍 」( 柚 木 学 編『 日 本 水上交通史論集』三巻、 文献出版、 一九八九年) 、 森本幾子「幕 末 期 の 中 央 市 場 と 廻 船 経 営 」( 『 ヒ ス ト リ ア 』 一 七 七 号、 大 阪 歴 史 学 会、 二 〇 〇 一 年 )、 同「 幕 末 期 阿 波 国 に お け る 地 域 市 場 の 構 造 」( 『 ヒ ス ト リ ア 』 一 八 八 号、 大 阪 歴 史 学 会、 二 〇 〇 四 年) 、拙稿 「阿波藍商と肥料市場 (一) 」( 『東洋大学文学部紀要』 六四集史学科篇三六号、二〇一一年)などがある。 (2) 拙 稿「 大 坂 干 鰯 屋 近 江 屋 長 兵 衛 と 地 域 市 場 」( 『 東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 』 六 六 集 史 学 科 篇 三 八 号、 二 〇 一 三 年 )、 同「 大 坂 干 鰯 屋 近 江 屋 市 兵 衛 の 経 営 」( 一 )( 『 東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 』 六 七 集 史学科篇三九号、二〇一四年) 。 (3) 徳 島 県 公 文 書 館 所 管 ・ 木 内 家 文 書 一 七 一 七 番( 以 下、 木 内 家 文 書と称する) 。 (4) 大 阪 干 鰯 商 仲 間 記 録( 国 文 学 研 究 資 料 館 所 管、 祭 魚 洞 文 庫 )、 二七番、文政六年六月「組合触印形帳」 。 (5) 拙稿「大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場」 (前掲) 。 (6) 徳島県公文書館所管 ・ 犬伏家文書五一七番。 (7) 岩橋勝作成 「近世米価 ・ 貨幣相場一覧」 (『日本歴史大事典』 (4) 索引・資料、小学館、二〇〇一年) 。 (8) 徳島県公文書館所管 ・ 犬伏家文書五一八番。 (9) 徳島県公文書館所管・木内家文書一五六九番。 ( (1) 泉康弘「吉野川平野への魚肥移入と阿波藍」 (前掲) 。 ( (() 徳島県公文書館所管 ・ 川真田家文書一一七一番。 ( (1) 徳島県公文書館所管 ・ 河野家文書八六番。 ( (1) 徳島県公文書館所管 ・ 犬伏家文書二九二番。 ( (1) 同前。 ( (1) 岩橋勝作成「近世米価 ・ 貨幣相場一覧」 (前掲) 。 ( (1) 徳島県公文書館所管 ・ 犬伏家文書二九二番。 ( (1) 「 藍 作 始 終 略 書 」( 『 日 本 農 書 全 集 』 11巻、 農 山 漁 村 文 化 協 会、 一九八二年所収) および宇山孝人 「『藍作始終略書』 解題」 (同 前所収) 。 ( (1) 徳島県公文書館所管 ・ 河野家文書八六番。 ( (1) 岩橋勝作成「近世米価 ・ 貨幣相場一覧」 (前掲) 。 ( 11) 徳島県公文書館所管 ・ 河野家文書八五番。
七六 ( 1() 岩橋勝作成「近世米価 ・ 貨幣相場一覧」 (前掲) 。 ( 11) 拙稿「阿波藍商と肥料市場(一) 」(前掲) ( 11) 徳 島 県 公 文 書 館 所 管 ・ 天 野 家 文 書 六 七 四 番。 以 下、 天 野 家 文 書 何番と略称する。 ( 11) 天野家文書六五二番。 ( 11) 天野家文書七番。 ( 11) 天野家文書七番。 ( 11) 天野家文書六八四番。 ( 11) 天野家文書二〇四番。 ( 11) 天 野 雅 敏『 阿 波 藍 経 済 史 研 究 』( 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 六 年 ) 一五八〜一五九頁。 ここで天野は板野郡中喜来藍商三木家が、 中 小 藍 師 の 成 長 に た い し て、 藍 葉 加 工 の 縮 小、 藍 玉 購 入 と と も に 地 主 化 を 進 め て 対 応 し よ う と し て い た こ と を 指 摘 し て い る。 付 記 本 論 文 は 二 〇 一 七 〜 二 〇 一 九 年 文 部 科 学 省 科 学 研 究 費 補 助 「 近 世 後 期 の 市 場 変 動 と 肥 料 商 」( 課 題 番 号 一 七 K 〇 三 一 〇 八 ) の 成 果 の 一 部 で あ る。 論 文 作 成 に あ た っ て は、 大 阪 市 史 編 纂 所、 国 文 学 研 究 資 料 館、 徳 島 健 康 文 書 館 な ど の 関 係 諸 機 関 の 皆様の御協力をえた。記して深謝の意を表す次第です。