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ヴァイキング(Vikings)史研究序説

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ヴァイキング(Vikings)史研究序説

著者

原 征明

雑誌名

東北学院大学論集. 経済学

81

ページ

17-40

発行年

1979-12-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1204/00024420/

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ヴァイキング(VikingS)史研究序説

征明

目 次 はしがき ヴアイキング像の修正一商業史ないし経済史的意義との関連で一 ヴァイキング史研究の方法と考察領域について ヴァイキングの語源−その実体との関連で− '」、 結 1 ワ ] 3 4 5 1. はしがき 最近注目される現象として,従来は比較的等閑視されてきた歴史事実と か, それを担った具体的主体をほりおこして種々の方向から焦点をあて, それに関わる伝統的な把握の仕方に修正を加えたり,あるいは世界史上で 果した役割を新たに解明しようとする風潮がおこっている。ここでとりあ げるヴァイキング(Vikings)の場合もまた, その典型的な一例をなすだ ろう。即ち,彼らは8世紀後半から9世紀の初頭にかけ突如としてその故 土である北欧スカンジナヴィア地方を離れ,以来ほぼ三世紀間に及ぶ「ヴ ァイキング時代」を通じて中世ヨーロッパの諸地域を中心として各地に進 出をこころみた。 しかもその場合, しばしば凶暴・野蛮な活動がその深刻 な刻印を広範に残したことにより,彼らはいわば海賊の代名詞のごとくう けとめられてきたのだが, そうした行為がヴァイキング遠征の多彩な活動 の一部分にすぎなかったとする指摘が最近多くの研究者達からなされつつ ある。そこで本稿では, このような動向をふまえ社会経済史的な立場から みたヴァイキングとその時代に関わる若干の問題をさしあたり明らかにし ておくことを目的とするのだが,加えていえば,いまこの種の研究を当面 の課題にすることは, これまで初期アンク ロ・サクソン・イングランドに 少し<関心をよせてきた筆者にとって,おそらくは後期アングロ.サクソ −17− 1

(3)

ン時代におけるイングランドの商品・貨幣流通の意義あるいはまた当時 ディーン人(Danes) JM及ぼしたその社会経済史的影響を後に把握する際 の一助にもなるだろうと考えるものである。

2.

ヴァイキング像の修正一商業史ないし経済史的

意義との関連で− およそ従前の伝統的様式をとる「中世史jにおいて,北欧・スカンジナ ヴィア地方とそこに成立していた社会構成に関する叙述が比較的手薄であ ったこと, また同様にして当時それらの地域に定住していた民族に対し て, しばしば不当に低い評価が付与されていたことについては,勿論それ なりの理由がなくはない。 その一つは,少なくとも旧来の朧史家達の見地からすれば,中世ヨーロ ッパの先進地帯たる中欧・南欧が程良い気温と湿度をえて,平担な沃野と 牧草地および森林等に恵まれた自然的地理的環境の中で,既にいち早く遊 牧的な生活様式を離脱し,一般に農耕ないし農牧的定住を基礎とする生産 段階へと移行して, しかもまた, その胎内から漸次工業的生産力を発達せ しめつつあったのに比較して,同じ時代の北欧・スカンジナヴィア地方が そもそもそうした良好な定住瑠境になく, しかしてまた相対的に劣悪な生 活条件にとどまるところの,いわば当時の辺境地帯を構成していたため に,人びとの関心を呼ばなかったことにあるだろう。 また第二には,およそ修道僧輻よび年代記述者にはじまる過去の歴史家 達の叙述それ自体,上述の先進地域に築かれたキリスト教文明を中心とし て行なわれていたために, その外郭・周辺に存在したいわゆる異教徒達の 世界に対する無配慮や彼らのうちにあった一種の偏見が,北欧・スカンジ ナヴィア社会とりわけヴァイキンク’たちのそれをして未開の段階に属する ものであるかのようにみる観念と結びつき, その歴史記述に強く影響を及 ぼした, ということにあるかも知れない。 さて,確かにスカンジナヴィア出身のヴァイキング達は,いわば海賊の

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代名詞のごとく扱われてきた通り,実際きわめて残虐非道な蛮族であると みなされるべき一面をその特徴として有してはいた。 およそ8世紀後半以降その活動が本格化する「ヴァイキング時代」(Vik-ingAge)に入ってから, ヨーロッパの各地ではおそらく枚挙にいとまが ないほどに数多くの襲撃がくり返し行なわれ, その証跡を残したといえよ うが, そのうちで「アングロ・サクソン年代記』 (Anglo-SaxonChroni-cle)にも書きしるされた一例は, それが中世初期のキリスト教世界にとっ て極めて衝撃的な事件を意味していたからに他ならないと思われる。 即ち, この年代記述にしたがえば,西暦793年にはイングランドとスコ ットランドの中間に位置するノーサンブリアの海岸に近い, リンディスフ ァーン島(Lindisfarne)の修道院がヴァイキングの襲撃をうけ,戦斧によ る残虐な殺戦と略奪が加えられその聖域をことごとく荒された(')ことが 記録されている。 これに引き続き, その翌年にはリンディスファーン島から50マイル南下 したジャロー(Jarrow)修道院も略奪をうけ②, また795年にはアイオナ (Iona)が攻撃にさらされた旧)。 しかもこれと類似の事例はアイルランドでも発生し, ここではヴァイキ ングによる最初の襲撃が795年にダブリン(Dublin)であったこと, さら にまた, そうした者達は793年ごろにフランス南西部の低地アキテーヌ (Aquitaine)の海岸地帯にも到達していたことが報告されている(4)。いず れにせよ, いわゆる「ヴァイキング時代」には上述の地域に加えヨーロッ パの各地で多数の都市I別・修道院などが焼かれたり, ヴァイキングによる

│1) DorothyWhitelock&others (eds.) TheAnglo-Saxon Chroniele (1965), 793.

(2) R 1.Page, Life inAngloSaxonEngland(1972), P.3.,S.C.George,

TheVikings (1973) , P.11. {3) cf.P.H・Sawyer,TheAgeofVikings (1975) , p. l (4) P,H.Sawyer, 762㎡., (5) 例えば最も有名な都市だけでも, ロンドン,パリ, ヨーク, ボルドー,ル ーアンⅢパイユ, リモージュ, トゥール, ナント , オルレアンなどを列挙で きよう。 3 −19−

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殺識と略奪をこうむったことも事実なのである。また,時には半ば正気を 失なったように猛り狂ったこれら北方の戦士達が,例えば身代金目当てに カンタベリー大司教を誘拐した際に, しばらくは大司教を守っていたにも かかわらず,酒宴の場で貧り喰った獣の骨でこの大司教を叩き殺したとい う事件(1012年)(6)さえもひきおこしている。 それゆえに, 当時の人びとにはヴァイキング達が血と破壊を好む強烈で 野卑な欲望の持主にみえたかも知れず,その来襲をいかに恐れていたかは およそ推察できようが,因みに当時フランスの教会では会衆の連禰に「主 よ, ノルマン人らの怒りから,われらを守りたまえ」という一節がつけ加 えられた(7), ともいわれているほどである。 しかしながら, まず当面するテーマとの関連でわれわれが問題視し最初 に修正すべきことがらは,はたしてその当時ヴァイキング達のみが典型的 に残虐非道な人種であり,そうしたもののいわばステリアタイプとして位 置づけうるのか, という点にあるだろう。 たしかに,大陸にあっては8世紀末フランク・シャルルマーニ1(Charle-magne)帝国の成立により,従前の民族大移動とそれにともなう動揺が一 段落していた西欧世界にとって, ヴァイキングの時代とその活動が一つの 試練を意味したかも知れない。実際シヤルルマーニュ帝自身も, このよう な海洋民族たるヴァイキングによる攻撃に脅威を感じ,彼は800年以来, '」、艦隊を組織してエスコー河(Escaut)へ船舶を結集させ, プーローニュ (Boulogne)灯台の改修と監視勤務を設置するなど,北海沿岸の防備のた めに多くの施策をとっていた。 しかもその際に, 自由人は召集があれば必 らずそれに応じて沿岸防備の体制をとらなければならなかったのであっ て, これを怠ると20ソリドゥスの罰金を課された帽17 という。 16) MarcBloch,La SocieteFeodale (1939)新村・森岡他訳『封建社会」 1 , 24頁参照。 (7) S.C.GeOrge,"、αZ., p-7-,H.Heaton,EconomicHistoryDfEurope (1964), p.73.

18) Ch. duRonciere, Hist.du lamarinefranfaise (1899), p.72.,RObert

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しかしまた,元来この歴史的段階は周知の「第二次民族移動期」に相当 しているわけであり, ヴァイキングのみならず既に6世紀後半から中・東 欧に進出しパンノニア(=ドナウ河中流域)の覇権をめぐり, フランク王 国と対立していたところの弾猛なアジア系遊牧民たるアヴァール人(Av-ars)がいたし.また今日のハンガリーを建国したといわれるマジャール人 (Magyars)が中部ヨーロッパの深奥部に侵入し,他方, 北東ドイツにあ たる辺境でもスラヴ系ヴェンド人(Wends)がその侵攻を重ねていたこと が想起されねばならない。 加えて, ′j、泉氏が巧みに表現した様に,中世の年代記述者達は「異教徒 たちの襲撃iこついて常に激しく攻撃するけれども,同じ時代にキリスト数 を信じていた国王や騎士たちが,間断なく行なっていた戦争や侵略につい てはほとんど口をとざしている」(9) ということも, われわれは当面の視点 からみて見逃がすことができないだろう。 要するに, ヴァイキングとその活動には確かに前述のごとき残虐な蛮族 の側面があったと認められるにせよ,同様にこの時代の中世世界では,一 般に各所でそれぞれの担い手達による戦闘・略奪・殺識が多数存在してい たことに留意すべきなのであり,従ってこのことをあらかじめ指摘してお くことは,伝来のヴァイキング像を修正しさらに進んで彼らの活動が有し た積極的な意義を究明するために, あながち無意味なことでなL、・ しからぱ, それはいかなる意味においてなのであろうか。次にわれわれ は, この点を少しく明らかにしておく必要がある。 即ち, それは要するにいわゆる実証的学問としての考古学の発達とその 研究成果もあって,ヴァイキングの海賊的行為ないし軍事的遠征が,そも そも彼らの多稲多様な活動の一部に過ぎなかったことが吹第に解明されて (前ページ注(4)の続き)Latouche,Lesoriginesdel'economieoccidentale

(Ⅳ噂∼Xle siecle) [L'Evo1utionde l'Humanit6, vol.XLm) (1956),宇

尾野・森岡訳『西ヨーロッパ経済の誕生』, 278頁参照。

(9) 小泉三郎「ヴァイキングの足跡」(NH.K.未来への遺産取材記。Ⅲ『壮 大な交流』 (昭和50年)所収〕, 271頁参照。

5 −21−

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きて,新い、視点から彼らの遠征とその歴史的役割を見直そうとする動向 が近年広まりつつあるからである。 実際, 8世紀後半から9世紀を画期とし,およそ3世紀間におよぶ彼ら の爆発的な活動には,その略奪的性格と併せて新天地を求めた冒険的航海 と植民,征服や他国との通商, さらにまた建国などの注目すべき諸側面力t あり, その証跡も一層確かなものとなりつつある。 しかもまた, そうした 多様な活動の展開にあたっては,単に当時の西欧諸地域で最も進んだ文化 圏が包含されたにとどまらず,南は地中海・アフリカ北岸,東はロシアや 黒海, そして西へ向けては今日の北アメリカの地点にも及んでいるわけで あり, まさに地球的規模でなされたその広大な活動版図”をふまえると, われわれには中世期に与えたヴァイキングの影響が意外に大きかったと見 なされるべき余地があると思われる。従って,いまこの点を見落してヴァ イキングを単なる海賊としてのみとらえることに終るなら, その本質を見 誤まることになるだろう。 そこで今, これらの点に関わる若干の事例をあげておくことにする。先 ずイングランドにおいては,デンマーク系ヴァイキング,即ちディーン人 (Danes)の侵入により, その威嚇利用した代償として多額の貢納を住民 に課することになったが, いわゆるディーン・ゲルト (Danegeld) と呼 ぱ説たこの種の貢納が,一種の通常税となったことは周知のことなのであ る。因みに, パルト海域で中心的位置を占めたゴトランド島(Gotland) で発見されたアンク.p・サクソン貨幣の多くは,例えばこのような形で略 奪をうけ,運び去られたものであったといわれている。 のみならず,やがて彼らは単なる海賊たることに代わり恒久的な定住者 となったため, 9世紀末以降イングランドの東北部がディーン人の植民 地即ち「ディーン.ロウ地帯」 (Danelaw) となり, ともあれその占領

mexa, CfRudolfPoertner,TheVikings-RiseamdFall Of theNorth

SeaKings-(1975,1 , front&TearcovermapHIndp. 175、TradeRoute lo

EasternEuropeduringtheVikingera,,S.C.GEorge, 0P."r-,P.63. 73.

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は1l世紀初頭まで継続したのである。そのために, このディーン.ロウ地 帯では当初の混乱が相当深刻なものであったと思われるのであるが, その 影響をうけ当該地域では従前の耕作単位をなしていたハイド (hide)が消 滅し, それに代って, より小さな単位としてのカルケイト (carucate)が 生じたull と通説では指摘されている。 他方,大陸にあっては, スカンジナヴィア人の首長ロロ (Rollon) とそ の支配下にあるヴァイキング達によるルアン(Rouen)大司教区への定若 も決定的な影響を及ぼした。即ち, その際の侵入によりメロヴィング朝 最大の宗数的創建といわれるルアン司教区のサン・ワンドリュ (Saint Wandrille)修道院とその大所領の破壊のため,修道士たちは集団移住を余 儀なくされたのであるが, ラトゥーシュ (RobertLatouche)によれば, それを契機に彼らの財産が十分の一税と地代(cens)から構成されるとい う新たな性格をおびるようになった,⑫ということである。 もちろん’ これらに加え西フランク王によるロロへのセーヌ河口地方の 割譲がノルマンジー公国の創設をもたらしたこと (911年),あるいは時期 的にはこれより早く, ルーリック家のオレーグによりキエフ (Kiev)公国 の基礎がすえられたことも, その定住史的意義として見逃されてはならな いだろう。 さらにわれわれは,西ヨーロッパにおける商業史との関連でもヴァイキ ングによる活動の意義について少しく考察を試みておくことにする。 とこ ろでその場合,今このこととの関連で大陸フランク王国における二つの王 朝時代の商業活動について,二人の著名な先達によって与えられた対照的 な歴史的評価を想起しておくことは,いささか遠まわりした議論かも知れ (1UMarCBICCh, LasocidtfF"dale (1939) ,前掲邦訳51頁,青山吉信『ア ングローサクソン社会の研究』 (昭和49年), 291頁参照。

(E) Robert Latouch, Les originesde l'economie occidentale (IVe∼Xle

si4Cle) (1956),前掲邦訳281-285頁参照。

−23− 弓

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ないが無意味なことでない。即ち, ドープシュ(A.D・psCh)⑬は, メロヴ ンィグ時代(MerovingianAge) とカロリンク.時代(CarolingianAge) の二つの王朝を比較して,西欧経済のうえでば後者の時代にとりわけ農業 生産が自給自足化し,農業を支配的とする段階にいたったとする立場をと るのではなく,商業的な市場経済もそれ自体後退はせずにむしろ増加の傾 向さえみせたことを指摘して,前者の時代との間に本質的な相違を認めな かったわけである。 ところがこれに対して,かのピレンヌ(H.Pirenne)09 にあっては上記の説と反対に,そもそもメロヴィング王朝時代こそが古代 世界のいわば延長上にあるところの商業中心の経済であったが, 7∼8世 紀の間に生じたアラヴ人による地中海征服を契機に国内商業・国際商業が ともに衰微して, カロリング王朝にいたって農業中心の経済が支配的にな り, しかしてまたそれが中世の真の出発点となった, と主張したのであ る。 加えて彼(=ピレンヌ)が, その後における中世都市の発生とその起 源, 11世紀以来の国際商業の展開とその影響下での都市の復興,およびそ こではたした遍歴商人の役割を強調し, 彼のいわゆる「商業の復活」 (la renaissanceducommerce)なる注目すべき史論を提示した⑮のは周知の ことだろう。 さて, メロヴィングおよびカロリングの両王朝に関わるこうした論争が 今日もなお続いていることは, それ自体この時代における諸事情の複雑さ を物語るものといえようが, ヴァイキング活動の商業史的意義を求めるわ れわれは,少なくとも上述の論争の, とりわけピレンヌ説にあった1つの (13) AlfonsDopsch,WirtschaftlicheundsoziaIGrundlagender europiin-ischenKulturentwicklung (1923), English trans., TAEE""・諏此口証‘f

SDrifzZFo騨訂ff"fc〃。/、Er"0pELzwC釦澁琿α"・万 (1937) .

"HenriPirenne,Uncontrasteeconomique.M6rovingiensetCaroling-iens.,RE.zwE6EJgefJeメ'"JoI。gieer <J'"""",t.n,(1923).

(15) HenriPirenne,Lesvillesdumoyen6ge.Essaid,hist(ごトiredconomique et s・ciale (1927).佐々木克已『中世都市一社会経済的史論一』 (昭和45年)

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前提条件を把握しておかなければならないと思われる。即ちそれは, そも そも地中海こそがヨーロッパ文明の揺藍の地として位置づけられていたと ころの彼の所説では,そこにおける職業的な商人による国際的な大規模遠 隔地商業こそがとりわけ主要な考察対象をなし,いわゆる同時代の北方商 業は彼においては地中海地域が一時期封鎖されたのちの,例外的ないし副 次的部分にすぎなかったとみなされていたことなのである。 ところがその 後, 例えばフランスにおけるヴァイキンク'研究者として著名なミュッセ (L・Musset)UCをして, ヴァイキングは「ヨーロッパの全地域を交換に目 ざめさせ,商品流通に点火した」といわしめたごとく,あるいはまたスウ ェーデンの歴史家ポーリン(S Bolin)によっても指摘された⑰様に,今や ヴァイキングの活動とその時代における北欧商業が西欧やイスラム圏との 関係において,その歴史的意義を改めて問い直される必要にせまられてい る。 とりわけスチューレ・ポーリンは,一方で貨幣史的側面からの例証に より, 7∼8世紀におけるフランク王国とイスラムという二つの世界の緊 密な接触をのべ, ピレンヌ説と反対にその相関性を指摘した新説を展開し たのみにとどまらず,他方ではヴァイキングの活動を国際商業のいま一つ の主役として歴史の舞台に登場させたのであった。 即ちポーリンの所説の要点は,従前ピレンヌによって等閑視されていた 北欧世界の商業をイスラム圏との関連でとらえることにより, その仲介貿 易で利益を得ていたカロリング朝フランク王国の役割を説く一方,そうし た仲介行為が9世紀以降におけるスウェーデン系ノルマン人, L、わゆるヴ ァレーグ(Var&gue)−彼らばスラヴ国家の支配者であり,遠隔地商人 でもあったルス(Rus)−の東方進出で奪われたこと,別言すればその 者達によるドニエプル河(Dnieper)やヴォルガ河(Volga)経由のルート が北欧バルト海をカスピ海北辺さらにはバグダートに結ぶ東方イスラム圏

(13 L.Musset, LEsPeuples scandinavesauMoyenAge (1951).

⑰Sture Bolin,M0hammed, Charlemagne andRuric, SEα打ffimztjifz" E""D""r狩jsfor-yREむた", vD1, 1, 1953, pp.5-39.

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との直接交易を可能ならしめたことにより,従前までのアラビア銀貨の流 れをも一変させた⑬, ということなのである。 因みに, 筆者も最近ストックホルムにある国立歴史博物館(Statens HistoriskaMuseum)を訪れた際, ピルカ(Birka)遺跡等の出土品を一 見する機会を有したが, そこにある多数のアラビア貨幣はフランクならび にアングロ・サクソン貨幣と共に, この場所力§ヴァイキング時代における 東方遠隔地商業の,いわば北欧の結節点を意味していたという強い印象を 得たわけである。 もちろん東方のみでなく, 北欧スカンジナヴィア地方 における対西欧商業の拠点として, この他デンマーク地方のへデビュー (Hedeby), ノルウェー北部のハロガランド (Halogaland) と南部のスキ リングサル(Skiringssal),それにシュレスヴィヒ (SChleswig)などもそ の代表として指摘されねばならないが,それらの場所に関しては, ヴァイ キング時代における北欧商業の特質と共に,後日別稿で考察されることに なるだろう。 ともあれ以上の諸点をふまえていえば,かつて地中海地域を中心とする ギリシャ・ローマの交錯の産物として説明されてきたヨーロッパ中世社会 経済史叙述の伝来の様式に,今やヴァイキング史研究とその成果がその少 なからざる修正を可能ならしめる余地をもつように思われるのであって, 且つまたいわばそうした視点から彼らの歴史的意義を改めて問い直すため の条件も熟してきたかのようである。 3. ヴァイキング史研究の方法と考察領域について 前節で少しくみた様に,ヴァイキングは攻撃的な海賊活動の側面を有し てはいたが, しかしそれが彼らの活動のすべてではなく,他面では条件さ da cf.S.Bolin, 26fff.,佐々木克巳編訳「マホメット , シャルルマーニ1, 及 びリューリック」 (『古代から中世へ−ピレンヌ学説とその検討一』昭和50 年), ’33-176頁参照。また, こうしたボーリングの所説をとりあげているも のに例えば井上泰男『西欧社会と市民の起源』 (昭和5,年)がある。同書, 26-29頁を参照。

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えととのえば, その商業交易を目的として遥か遠くの地域へと進出し,あ るいは冒険的航海者として移動して新たな定住地を求めた植民者でもあっ たわけである。 しかも, ヴァイキングが行なったこれらの活動は,単に北 欧スカンジナヴィア人の海外発展に刺激を与えたということにおいてのみ でなく, これまで比較的等閑視されてきた対ヨーロッパ中世史との関係に おいても, その広大な活動範囲と意義を明らかにする価値があると思われ る。筆者ばこれらの点を当面の課題としその考察を試みるものであるが, 本節ではそうした研究に必要な前提ないし方法論的視点を模索し,あわせ て考察領域をもいささか明らかにしておくことにする。 さて,先ずその場合ヴァイキング社会の把握に関わるものとして,彼ら のゆかりの地としての北欧・スカンジナヴィア地方の自然的(=地理的) 諸条件にあらかじめ配慮しておく必要があるだろう。 一般に,土地の景観土壌や気候的諸々の特質がそこに居住する人びと の労働の在り方を規定し,加えてその地域が養うに足る人口の収容能力に 深く影響を及ぼすものとするならば, そうした意味でみるこの北欧・スカ ンジナヴィア地方の定住環境は前節の冒頭で既に指摘した通り,少なくと もヴァイキング時代に属する者達に同じ時代の中欧・南欧のように十分な 農耕および牧畜のための主要な条件を提供する余地を有してはいなかっ た。 即ち,今日のデンマークに相当する地域は,シェラン島(Sj"lland),D ラン島(Lolland), フュン島(Fyn)などの主要な島々やユトランド半島 も,元来は氷河の堆石を基礎としたローム質(loam)あるいは粘土質の土 壌におおわれた低い砂地のところなのであり,ユトランド半島の西部にあ っても砂丘や潟湖(lagoon)が連続する排水不良の低湿地が多くしめてお り, この半島のぼぼ中央を通過する緯線(=北緯56度)が示している様 に, メキシコ暖流の影響を一部加味しても一般に冷涼な気候が支配するた めに農耕そのものが大なる制約をうけた地域である。 同様にして, スウェーデンにあたる地方も,確かにその南部の海岸平野 −27− 11

(13)

地帯には農耕や牧畜を可能にする土壌があるものの,中部・北部にいたっ ては今日でこそ鉄鉱・パルプ材など良質の資源を産出するところだが,お よそ当時の農業生産力をしてば一般に利用不可能な山岳ないし森林地帯に 他ならなかったのである。それ以上に劣悪な状態にあったのはノルウェー 地方なのである。即ち, スカンジナヴィア半島の西側に位霞する当該地方 では,デンマークと対照的に岩地の高い山々を多くもち, しかもまた, そ の海岸地帯には氷食谷の沈水で生じた周知のフィヨルド (fjord)をみる, 年間の半分を冬型気候が支配するきわめて悪い生活条件にある地域に他な らなかった⑲。 それゆえに, ともあれこうした自然環境にある北欧・スカ ンジナヴイア地方の者達は, その生活を土地からの貧弱な収穫にのみ依拠 するだけでなく,森林や海を利用して狩猟・採取あるいは捕獲の方法で食 糊や獣皮を取得していた人びとなのである。因みに,北海からは鱈や鰊の 漁嘘が期待され,西の沖合いには鯨,アザラシ, セイウチが生息し,バル ト海沿岸に手でひろい上げられる號珀があったといわれるが, それらは彼 らの貧弱な自給的生活を補充するものであり, また不足部分を得るために しばしば交換に出される交易品をも意味していたのである卿。 もちろん,ヴァイキング時代の既に一世紀以前から, こうしたスカンジ ナヴィア地方でもある程度の開墾と新たな定住が開始されてはいたらし い。即ち, スウェーデンの歴史家,考古学者であるオクセンシェルナ (EricOxentierna) によれば, 7世紀の初頭から一群の農業民力t, それ まで住まわれていなかった山あいの渓谷や深い森林地帯に移住しつつあっ たとみなされており,そのことを示唆する証拠に,最近発堀されたところ のこの時期に属するいくつかの埋葬墓から農民が使用した鍬や型, スペー (19北欧・スカンジナヴィア諸地域の自然的(=地理的)諸条件の詳細につい ては, CfAndrewC.O'dell, TheScandinavianWorld (1963), esp. chap2∼4, pp. 4-50. および『世界地理風俗大系』19−北ヨーロッパー

(昭和41年) , 10-19, 250-251, 270, 317-318, 340-342頁等を参照。 "HerbertHeaton,EconomicHistoryofEurope (1964), P.72.

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ド,斧, ナイフ等の鉄器類が出土した剛という。 しかしまた彼が他方で指 摘するように,新たにきりひらかれた森林地帯での開墾と定住も,やがて 数世代の後にはその土壌の地力を消失しつつあって,いわばスカンジナヴ ィア地方の全域が飢餓的状態に直面していた, ということも想起されねば ならないことだろう。 ともあれこのことは,生産力的視点からみて少なくともヴァイキング達 の故土に過剰人口をひきおこしつつあったことを暗示するものなのであ り, その他の要因と相俟って彼らの急激な活動を惹起せしめた理由の一つ を説明するかも知れないのである。因みに,社会発展史的にとらえれば, 劣悪で厳い、定住環境にあったところのスカンジナヴィア半島やユトラン ド地方では, なお8世紀に至るまで土地に対する共有と家父長制大家族を 基礎とする氏族共同体関係が保持され続けてL、たとみられるが画, 先にみ た未耕地開墾の証跡は,漸次人口増加とそのための大家族分裂が開始され たことにより, そこにひきおこされた土地不足が原因をなしていたと思 われる。 ところで, このような氏族制的共同体関係に基礎をおく社会では,一般 に首長ないしは首領たちによってその主導的地位が占められているのだ が, とりわけこの北欧・スカンジナヴィア社会でば,おそらく彼らの役割 が当該地域の単なる防衛や祭祀の執行のみにとどまらず,隣接部族との戦 闘はもとよりのこと,条件次第で他国へと遠征に出かけたり, その富を増 大せしめるためのいわば重要な源泉であ為海賊行為の場合にも,決定的な 意味を有していたにちがいない。 これらのこととの関わりで別言するな らば, ヴァイキングをしてその故土からの遠征や海賊行為へとかりたてた (2D Ericoxentierna,Thevikings,福本・本田訳「別冊サイエンス」・特輿, 考古学一文明の遺産一(1976年). 69頁参照。

"A 月. ryPeBHM, nOXOrbI BMKI'IHFOB(1966),グーレウイチ箸,中

山一郎訳『バイキング遠征誌』 (昭和46年), 32, 57, 126頁, およびMarc BIOch,Lasociet6feodale (1939), 新村・森岡他共訳『封建社会」 I (昭

和52年), 41頁参照。

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当面の目的は,母国へもち帰るべきことを予定した戦利品の猫得にあった ことはもちろん否定できないが, そうした活動における成否の如何は,今 みた状況にある氏族制的社会構造との関連で, その指導者と一門の名誉・ 威厳を高めることに, ある種の関わりを有したことだろう。 以上,少しく遠まわりしたのだが,要するにこれらのことをふまえてい うならば, われわれがヴァイキング活動の一面を好戦的で復智をおそれ ぬ画勇猛な戦士達の行為としてとらえる場合でも,それは当該地域におけ るスカンジナヴィア人の制約された生活条件や社会発展史的視角からみた 現実との関わりを含めて説明される必要があるわけで,一見残膚非道以外 の何ものでもないような海賊行為のみにより彼らの人種的特質を規定する ことは,必らずしも妥当でないように思われる。 ところで次に,われわれがヴァイキングの有した広範な活勤領域をみる 場合,彼らにそれを可能ならしめた交通手段としての船の役割は殿も強調 されるべきものの一つであろう。かつて「船はスカンジナヴィア人の住居 である」とフランク人の一詩人をして言わしめたとされているのだが, 当 初から海洋民族であったところの彼らが使用する船舶は,単に外洋航海の ために荒波を乗りきるだけのものでなく,狭い水路や時には内陸の奥深く まで河川を糊ることも可能ならしめた喫水の浅いヴァイキング船(viking Ship)を特徴としたのである。 即ち,彼らにとって必要の所産であったこのヴァイキング船の基本的特 徴は,樫その他を主材とする木造であるが船首と船尾が高く反り上がり, 前進・後退を自由ならしめるところの, いわゆる逆櫓がきいたことにあ る。因みに, ヨーロッパの造船史上からL、えば, こうしたヴァイキング. シップは当初の手漕船が数世紀以上の歴史を経て竜骨.帆柱.帆布を有す るものへと到達したとみられるが, スカンジナヴィア地方でば例えばノル ⑬グレンベック(V.GrCnbech)は,ヴァイキングの復瀞もそれがいわば神 聖な溌務として一族の名誉を救うためにあったとし,そこに彼らの鍼実な糟 神力輔れているとの解釈を与えた。VilhelmGrOnbech,NordiskaMyterog Sagan (1927), 山室静訳『北欧神話と伝説』 ( (昭和54年), 302頁参照。

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ウエーのクパルスンド(Kvalsund)での発堀が示す様に,既に7世紀初頭 から大型帆船として建造されていたことが明らかであり伽, 加えてヴァイ キング時代の直前以降, 構造上の大なる改良があったものと考えられる田 のである。 このことは,例えば目的ないし用途別に分化したヴァイキング船のタイ プにも示されている。即ちその一つ「ロング・シップ」 (longship)は喫 水線から上甲板に至る舷側が低く,船腹も狭いが, はやい速度の得られる 戦闘用のものであり, I! 、ま−つの型である「クナール」 (knarr)は, その 容積が大きく物資の運搬や交易にも使用されうる,長期の大洋航海を目的 に建造されたものである。 もちろん, ヴァイキング船ばこの他の用途として船葬墓(shipburial)に 使用される場合もあったが, ともあれ通説によれば羅針盤さえもたなかっ たといわれるヴァイキング達は,おそらくその航海が限られていた夏季に 星座や太陽の位置を手がかりとし, またそれらが見えない場合でも風向と 海水の色など乏しい糸口を助力に,海洋を横断して航路を開拓しアイスラ ンドやグリーンランドへと向かい, また時には今日の北アメリカの海岸地 点へと到運すべく立ち向ったのであった田。われわれは, こうしたヴァイ キング船の出士品についても後日ふれる予定であるが㈱, このようにして 今や海上への新しい機動力が生まれつつあったということは, それ自体海 "DavidWilson,TheVikingsand theirOrigins (1976), pp. 36-37., EriCOXentierna, cP.f'".,前掲邦訳, 69頁。

"A.9.rypeBH叩, nOXOnbI BI'1KI'1HTOB(1966), 前掲詞駅“頁, M.

BIoch, cp.‘".,前掲邦訳, 40頁参照. 鯛H.Heaton, Dp.rfr.、 P、73. ”本稿執篭中に筆者が入手したウプサラ大学でのヴァイキング研究シンポジ ウム(1977年6月)の下記資料にも,ヴァイキング・シップに関する船舶考 古学者の新しい研究成果が掲載されているが, それは後日に整理を試みた い。

ThorstenAndersson&Karl lngeSandred (eds.),TheVikings-Pr""""gso/ "eSymposi""z ofr/ieF"C""yqfArrsofU"s""

U"""s"y-(Uppsala,1978)

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洋民族における造船技術上での重要な転換期を意味するものであり, この こととヴァイキング時代の開始が重なるのは全くの偶然ではないだろう。 さて,われわれはヴァイキング史研究の方法論上における一つの問題と して, いわゆる書き残された史料(writtensourcEs)が乏い、ことをあら かじめ指摘しておく必要がある。 別言すれば,それはヴァイキング時代に関して書かれた数少ない証拠が 元来スカンジナヴィア地方のものでなく, むしろキリスト教世界とイスラ ム圏に属しているとL、うことなのである。因みに, スカンジナヴィア地方 にみられる唯一の叙述は, いわゆるルーネ文字による碑文(runic ins-criptions)であるといえようが, しかしそれさえも11世紀に至るまでは極 めて少なく, この社会に特徴的であった伝承が書きしるされるようになる のは,時期的にみてスカンジナヴィア地方がキリスト教に改宗された後の ことなのであって, それらは中世アイスランドのサガ(saga)−散文文学 一として文献に残された。他方, 9−10世紀に関して東方におけるスカン ジナヴィア人について言及しているものにビザンチン及びイスラム側の史 料があるといわれるが, それらは多種類の言語におよび, またしばしば論 議をよぶような省略や挿入あるいは変更が加えられるなどテクスト上の問 題があり,史料としては必らずしも適切でなL、函, とさえみられている。 そうした点でいうならば, ヴァイキング時代の研究に有効な最も重要な 証拠を多く与えてくれるのが,考古学とその成果なのである。 もとより, この方法にあっても出土品の年代特定,様式の認識如何などいくつかの制 約はあるものの,われわれにおいてはこの時代に関わる考古学達のひきだ す結論をおよそ無視することは全くできえなL、だろう。 例えば考古学的見地からすると,交易面でのヴァイキング時代の繁栄がそ れ自体下降をたどる時期さえも解明されてくる。即ち, デンマーク地方で

"cf.P.H.Sawyer,TheAge ofVikings (1975), pp 12-13., Gwyn

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発堀された退載銀貨には950年頃までアラビア銀貨以外の貨幣が全く含ま れていなかったのに対比して, その一世紀後には逆の現象があらわれるの であって, 1050年からその後の20年間に埋められた銀貨約3,000枚のうち, アラビア銀貨は4枚に激減しているという。この事実から, その一世紀間 にヴァイキングと回数徒世界の接触がほとんど消滅したこと田を,考古学 は教えてくれるわけである。加えて考古学研究の諸成果は,既に少しく考 察をしたヴァイキング船の形態の解明をはじめ,植民活動の範囲,軍事キ ャンプの考察や彼らが残した古墳,船葬墓と船形列石等の意味を明らかに し, それらを通じわれわれにヴァイキング時代の社会樹造を説明しうる手 がかりを与えるものなのである。 ところで般後にでばあるが, このようにして北欧・スカンジナヴィアで 独自の社会と文化を発達せしめる歴史的契機をなしたと思われる「ヴァイ キング時代」なるものは,やがて11世紀に入ると急速に衰退していくこと になる。 L、わばそれは度重なる遠征や交易活動により,先進的な西欧諸地 域との接触を深めたヴァイキンク'の社会が,大きな文化的変容をとげたこ とをあるいは意味しているのかも知れないが, ヴァイキング達がその活動 を停止するようになるのは,折しも北ヨーロッパへとキリスト教が普及し てくる頃なのであり,時期的にもそれがほぼ一致する。 もちろん, スカン ジナヴィア地方におけるキリスト教への改宗(conversion)は必らずしも 容易に達成されはしなかったようにみられるが, ともあれそのために,従 来から一説では異教徒であったヴァイキンク.がキリスト教へと改宗された ため, その鰐猛な精神を消失し平和的生活を営なむようになったとし, そ の活動の衰退がキリスト教への改宗と結びつけられて解釈されてきた。 しかしまた他方では, そもそもヴァイキング時代の終りには彼らの民族 的生命が既に使い果たされており,いわばそうした虚脱の時期にキリスト 数が普及したとする別の説明もあるのだが,いずれもがいま一つ明白でな ㈱EricOxentierna,。〆).仁".,前掲邦訳, 81頁参照。 17 −33−

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い部分を残しているように思われる。その点はどのようにして説明されべ きなのだろうか。 このことに加え,やはり多くの点で不明な部分を残す大きな問題は, ヴ ァイキング時代の活動拠点を意味していたところの都市集落の衰退である る。例えば, ビルカ(Birka),へデビュー(Hedeby), シグトゥナ(Sig-tuna), ヨムスプルグ(Jomusburg)など, いわばこの時代に北欧の交易 要衝として位霞づけられうる土塁をめぐらした主要都市群は, そのいずれ もがやがて廃虚となる。一体なにゆえに, それらの都市群はその後のいわ ゆる「中世都市jへとつながる生命を持続しえなかったのだろうか。実際 こうした問題は,ヴァイキング史研究のうえでも興味ある部分をなすとい えようが,おそらくそのことはヨーロッパ中世史におけるヴァイキング活 動の意義と位置づけの関わりで,後日に検討されるべき考察領域となるだ ろう。

4.

ヴァイキングの語源一その実体との関連で−

次にわれわれは,ヴァイキング(viking(s))−北ヨーロッパでは古スカン ジナヴィア語(OldNorse-以下0.N. と略記)のzIiA'i"〃の発音に近い ヴィーキングーなるものの語源について本節で少し<考察をし,かつま たそれとの関連で,彼らの実体をふまえ一つの試論的解釈を提示しておこ うとするものである。先ずヴァイキングの語源についていえば,一体それ がいかなるところに求められるのかということ,即ち, そもそもこの名称 が北欧に起源を有し彼ら自身が自らをそう呼んでいたことによるものか, あるいはまた, スカンジナヴィア以外の地域の人びとによって呼ばれたこ とによるのかについても究極のところ今なお不明の事柄なのであり, それ ゆえに従前から多くの諸説が存在し駒, あるいは解釈が試みられてきた。 帥ヴァイキングの語源に関する諸説の,わが国での簡潔な紹介は,例えば古 くは既に金子健二『北欧海賊と英国文明』 (昭和2年) , 9−11頁でなされ, また近年においては荒正人『ヴァイキング』 (昭和49年), 100-103頁で行な われている。 −34−

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実際,いわゆるヴァイキング時代の末期に『ハンブルグ教会大司教伝』 (GestaHammaburgensisEcclesiaePOntificum)の中で北欧人とその社 会についてのべた聖職者, ブレーメンのアダム(AdamofBremen,1075 年?没) さえ「海賊達を彼ら(=ディーン人)はヴァイキングと呼ぶが, しかしわれわれはアシュマン(Ashman) と呼ぶ」‘Dとして,一方ではこ の言葉がディーン達(DEInes) 自身によって用いられていたことを証言し た。 しかしまた,上述のように北欧・スカンジナヴィア以外の地域では, おそらく彼らの船舶資材に用いられた一種, 西洋トネリコ (ash) と関わ らしめて当時呼ばれた形跡もあるように思われるのであって, これに類似 する事例は例えばアイルランドにも存在したらしい。即ち, ヴァイキング 史研究の先達プリヨンステット (JohannesBrOndsted)によれば,アイル ランドの諸史料の中で彼らがGα〃[==stranger]ないしLor""z"αご力 (==northerner] としてあらわれ,時にはノルウェー人に対して$white' なる語が, また,ディーン人に対してば black' という語に相当するもの が付加されていた蝿らい、。 さて, このようにヴァイキングの語源がそもそも北欧語にあるのか, あ るいは外国語からの借用なのかという点で基本的には議論が分れるが,そ のことを念頭におき,いまこの言葉をめ<・る研究史上の解釈をあえて類別 してみると,一つには「入江説」があり,次に「キャンプ説」 , さらにそ の他の諸説があるといえるだろう。そこで先ず,最初の「入江説」である が, これは既にみた0.N・ので蝿"gr における語頭たるvikをして,そ もそもスカンジナヴィア地名のうちによく認められるところの入江ないし は小湾を意味するものに他ならないとし, vikingをvik-man (入江の 人) と解釈するものなのである。 しかも実際に, そうした合成語の一部と みなされるvikで終る地名が, スカンジナヴィア人の植民地たるアイスラ <3D cit.JohannesBrOndsted,TheVikings (1975),p、37.

"cf.GwynJones,AHistoryof theVikings (1969), pp、76-77&foct note., J.Brondsted,必/d、,p、36.

19 −35−

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ンドをはじめとし,海洋の沿岸,入江の奥にあることが検証される“, と 主張する立場なのである。 ところで,上述の「入江説」においては, その拠りどころになった0. N・のz'蝿'壇γなる語が文献的に実証されるようになるのが10世紀後半に なってからであるということに一つの難点がある。 もちろん,語源のすべ てが歴史上の文献のみによって解明されることにはならないだろうが,そ の点では第二の「キャンプ説」に考慮されるべき価値がある。因みに, こ の第二の説明からヴァイキングの語源をとらえる場合には基本的に北欧語 との関連で解釈することから離れるが,時代的にみて, イングランドがヴ ァイキングの攻撃をうける一世紀も前に"""gなる語で使用され"," るいば既に8世紀以来のアンク’ロ・サクソンの文献に見出されるといわれ てもいる。即ち, ノルウェー言語学界の巨匠バージ(SDphusBurgge) によって前進せしめられたこの「キャンプ説」では, ヴァイキングなる語 が今日のデンマーク西南部からオランダ北西部にいたる北海岸の島々,つ まり, フリージア諸島に行なわれたところのアングロ・フリージア語にそ の起源が求められている。そして, ヴァイキングはある地域を襲撃する際 に一時キャンプを張る習慣があったとし, この言葉はその場合の拠点,城 塞の意味をもつオールド・インク.リッシュのd wic''から起ったものであ り, それが北ヨーロッパ諸地域に移入せられたものとみるわけである。他 方これに対して, アスケベルイ (FritzAskeberg)は, ヴァイキングとい う言葉が「向きを変える」, 「脇へ向く」などを意味するところのスウェー デン語の動詞, "vikja''から生じたとし, ヴァイキングとは家郷を離れ故 国を去って,分捕品を目的に遠征に出かけた海の戦士であると卒直に指摘 しているが,彼の掲げる若干の事例は,むしろ「キャンプ説」にも関わる

傍証として役立っているとも思えなくはない。即ちそれは. ク.ロワ島(ile

"SvenA.Anderson,VikingEnterprise (1966), p.ll.,S、C,George, TheVikings (1973),p.9. "SC.George, j6"-,P.9,

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deGroix)でノルウェー人の船葬墓が出土したり, ローヌ川の河口のカマ ルグ島(Camargue)にヴァイキンク.がキャンプを造ったこと (860年), スケルト川(Schel<lt)−オランダ南西部を流れ北海に注ぐ。 の河口に 位置するヴァルカラン島(Walcheren)が, ディーン人の首領ハラルド (Harald)によって使用されたこと, また, イングランドのケント州北東 部のサニット島(Thanet) とシェピィ島(Sheppy)が,ディーン人達の 冬場の陣営として役立ったこと的(850年), などである。 さて, これらの他にヴァイキングの語源をめぐる諸説には, オールド・ イングリッシュのwicをラテン語のT・/( "Jとの関連で解釈し, それをヴ ァイキング時代初期の商業上の拠点としての都市一例えば,バルト海沿 岸のシュレスヴィヒ (SleSvig, SChieSwig)−とその居住者達を意味した とするワドスタイン(W a<Istein)の説がある。加えて,ヴァイキング時代 後期にギリシア人〔の商人?〕達がスカンジナヴィア人戦士に付与した ""7・70/ [=0.N・のT,〔rγ"“αγ〕 と関わらしめることにより, 自分の側 に多くの安全を与えるL、わぱ取引代理人を意味したとするステンタ.一・ペ ターセン(Stender-Petersen)の解釈帥もあげられよう。 ともあれ, このようにヴァイキングの語源をめぐっては多くの解釈がみ られるが,最後にこれらの所説に加えて私見の一端をさしはさむことを許 されるとするならば,筆者ば以下のことを試みに提示できないものかと考 えているものなのである。 即ちそれは,最初に指摘した様にヴァイキングの語源が北欧語に由来す るのか, あるいはそうでないかとL、う点で今なお結着をみていないという ことの前提にたってであるが, 、'ikなる語を0.N.のr,試-j"gγと関わら しめた入江・小湾とみるにせよ, wicから起った拠点ないし城塞の意味を 蝿アスケベルイ (FritzASkeberg)によれば, 0.N.のz'f片師9丁はデンマ ーク及び北欧の西側においてのみ用いられ, 東部ではこの言葉がで“丁"rgi であった。 cf. J・Brondsted,".f、".,p39.

㈱cf.J.Brcndsted, ノル"., pp. 36-37.,S.C.George, op.心血., p.9.

(23)

もつと解するにせよ,その語尾である-ingを, しばしばいわれるように 単なる……の人びと (er) とみなすのではなく, その実体をふまえていま 少し吟味しておく余地が残されているように思われることなのである。そ の場合まず,今日的な研究成果によるならば, ヴァイキングには海賊行為 のみならず商業交易者の側面, あるいは植民者としての活動などが広く認 められねばならないが, ともかくもスカンジナヴィア人の海外発展に刺激 を与えた初期の者達が, その実体として分捕品を入手し自らの名声を高め るという,すぐ・れて戦士・海賊的な性格を有していたことは,およそ認め られてよいだろう。 あるいは, かつてマルク・ブロック (MarcBloch) が指摘した様に師, そうした者達は冒険を好み自ら家郷を離れたり,家族 間の私闘や首長間の対立のため追放を余儀なくされた者達など,いわば当 面は家族ないし民族的な紐帯の埒外で,ある種の利益や冒険を目的として 構成された築団でもあったいと思われる。 ところで, このような把握が妥当であるとするならば,今われわれがヴ ァイキングのこうした実体を,他方アングロ.サクソン.イングランドの インガス・ネーム (-ingasname)集団と関わらしめて解釈することは全 く場ちがいなことなのだろうか。 因みに, このインガス・ネームなるものは,移動・定住期にあるアング ロ・サクソン人(AnglO-SaxOns)達が用いた地名として知られているが, それは特定の人物のパーソナル・ネームを語頭とし, オールド.イングリ ッシュの-ingの複数形4-i"gfzr'をその語尾に結合せしめた撰造をもつも のなのである。そしてこれまでの地名学者達が明らかにしたように, この G7) MarcBIOch,Laseci6tef6Odale (1939),新村・森岡他共訳r封建社会』 1, (昭和52年), 25-26頁参照。 鰯因みに‘ ヴァイキングの規律・秩序を示す例証ば,例えば『ヨムスヴァイ キング.サガ』 (J6msvikingaSaga)にある。それによると, ヴァイキング の仲間に入る者は身内(血族)の観念を捨てねばならず,仲間うちの喧嘩が 禁じられ, また各員は他の一員の仇を自分の兄弟のそれのごとく討たなけれ ばならない旨が示されている。谷口幸男『エッダとサガ』 (昭和53年), 131 頁参照。

(24)

インガス・ネームなるものは, その多くが当初は首長とその瞳従者運ある いは家族からなる人びとの集団名(group-name) に他ならず, 次いでそ の者達が特定の場所に定着した際,その場所の名称(=地名) となり,少 なくとも7世紀頃までそうした意味を残存せしめていたことが指摘されて L,る御。 しかもなお興味あることに, このアングロ・サクソン人達も元来その原 住地がそれぞれユトランド半島のつけ根のシュレスヴィヒ(SChleSwig)と 西ホルスタイン (West-HoIstein)地方に位置づけられうるし柵, イングラ ンドに移住する5世紀後半から6世紀の時期にかけ, フリージア諸島の周 辺まで南下していたことが一般に認められている。従って以上の点をふま えれば,既にわれわれはヴァイキングの語源をアングロ・フリージア語に 求めた「キャンプ説」をみてきたが, まさしくそれとの関わりで時代的に も地理的にも相関の推測を可能ならしめるこのインガス・ネームには, viking(s) なる語の一部の説明につながるある種の内容が含まれているこ とを期待できなくもない, と考えるものである。あるいは語源的にみた直 接の関係が否定されたにせよ,ヴァイキングの初期的実体は,いまみたイ ンガス・ネームの集団として把握することが不可能でないように思われ る。そこで,今このことをあえて試論の形でのべた次第なのである。

(39) J.M.Kemble,TheSaxonS inEngland (1849),P.53ff.,A.H.Smith, PIace-Names andAnglo-SaxonSettlement, Pr""""gO/Bγ"おA

AC(z[fe"J,,XLI (1965) ,P、67ff.,E.Ekwall,EnglishP1ace-Namesin-ING (1962), p. lll ff.,A.Mawer&F.M.Stenton (eds.),Introductionto theSurveyofEnglichPlace.Names (1924),pp、50-51. もちろん, イン ガス地名の中には,その定住地の自然的(=地理的)特徴に由来する語と結 合して形成されたものも若干あるとみなされている。 cf.F、M.Stenten, AngloSaxonEngland (1965),p.314. 鋤拙稿「移動・定住期におけるアングロ・サクソン人の初期的勤向一一つ の覚え書き−」 (『東北学院大学論集』経済学,第64号所収), 96-98頁参照。 −39− 23

(25)

5. 小 およそ社会経済史にあって,各々の時代の歴史現象は, それをひきおこ した人びとを基準として把握することにより, その客観的な認識が可能に なると思われるのである。われわれは当初の意図にしたがって,先ずヨー ロッパ中世史上その少なからざる影響があるとみられる商業史的ないし経 済史的な事例を若干提示して, ヴァイキング像の修正を少し<こころみて おいた。 次にまた,彼らの故土である北欧・スカンジナヴィア諸地方の自然地理 的定住環境との関連で,社会発展史的な視点からヴァイキング期の社会的 特質をいささか考察し,突然の遠征を惹起せしめた契機, ないしは略奪的 な海賊行為の解釈に関わる理由の一端を明らかにしたのである。 ところで, そもそもこうした海賊行為の歴史的起源をたどるなら,その 存在は遠くフェニキア, ギリシアの時代にも測りうるといえようが, それ にもかかわらず,いわば海賊の代名詞のごとくヴァイキングがうけとめら れていたことの一つには,略奪のための急襲や撤退の素早さをもたらすた めの必須の条件である造船技術上での発達とある種の航海知識の掌握が, 既に彼らの側でなされていたことにある。このことがまた, ヴァイキング 遠征をうながす現実の契機をなしていたことはいうまでもない。 ともあ れ, これらを含めた当面の課題に則していうならば,既に指摘した様に史 料的制約があることは避けられぬことであるのだが,幸いにそれを補足す る近年の考古学的研究の諸成果から,われわれは多くの知識を期待しうる のであって, その考察対象の広さとあわせ, この種の研究に果たしうる役 割が強調されてよいだろう。 最後にでばあるが,本稿では筆者の試論的解釈もあってヴァイキングの 語源との関わりで,彼らの初期的実体についても少しくその把握をこころ みたのであった。 (1979. 9. 29)

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