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ブロッホの自然概念

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(1)

Hokuriku University

NII-Electronic Library Service Hokuriku  University

1

tt1

概 念

 

国  

千    秋

Der

Begriff

 

der

Natur

 

in

 

der

 

Metaphysik

 von  

Ernst

 

Bloch

Ch

Mik

1

 

プロ

ホの主

r

希 望の原理』

で ,

然の考

察 は

の三っ の

らとりあ げ ら

れる。(1)そ れ らの三つ の側

とは, 第

「原

Rohstoff

と し

二 に

法則

との 関連で ,

最 後にブv ッ ホの 「物 質 」 (

Materie

)との関 連で言 わ れるもので ある。 そ し て

プロ ッ ホに とっ て

二者はい

ずれ

も部

一面

的 な

自然

定であ

, それ に比 し

物 質 は 最

も全体 的,,包

的な 自然 概 念にふ さわ しい。

  

 

ブUs ホの 「物

」 と して の 自 然の 考

に あたっ て , 上記の二つ の自然 につ いて その輪

を あ

か じ め明 らかに して お

こと

ジ 今

議論

の上で必

で あ りダ

有 益で あ ろ う

め に

原 料 と して の 自然 を

,、

こ こでは 「素 材 」 (

Stoff

, 

Materia

!)

U

しての 自然 と 呼ぶ

る、

そ れ は生 産,

.労

働の素 材であ

対 象 とし ての

自然を

意 味

る。 この

場合

然は原 料, 材 料

,資材

と呼ば

る。 しか しなが ら, このよ うな

然と は必 ずしも工業 原 料 等の天 然 資

に限 られない 農 業における土 地, 漁

における海や湾 等 も立派に天

の 名に ふ

わ しいし, こ う考

るな らば

源 とい う

も, 経 済の観 点 か らみれ ば

と しての

然に

めて よいで あ ろう。

ら にい っ

う注 目に値 する のは, 素

と して の

然が

一義

的に天 然の

,手

い ない

あ りの ままの

自然

を意

するもの で は

とい うことであ る。 こ の

ζ

とは

に思 わ れ

ξ

か も しれない 。

しか し , わ れ わ

の身  

     

       

      な え のまわ り, 生 活

境 を見 わた してみ る とき, どこに

粋な,生の

然 環 境 を, 人 間によっ て

え られて いない

然 を 見い

るであろうか。 こ の ような疑

しては,

マ ル クス の

の よ うな言

は,

素材 (

Materia1

とい

う語

使

用して い る

, その

えを 示 して い る ように思 わ れ る。 「しか し産 業 と商 業 が な くて, どこ に 自 然 科

が あ るのだろう

こ の 『

粋』

自然科学

で さえ

, じ

っ に

商業

産業

に よっ て

の感

的 活 動 (sinnliche  

Tljtigkeit

)1 に よっ て

は じ め て その 目的 (

Zwe

k

) ならび に その

Materi

1

)を

け とるの で ある。 まこ と

i

ζ こ の活 動,

こ のた え ざ る 感性 的な

働と

造,

こ の

生産

こ そ, いま

存在す

るよ うな 感

性的世界

の基

なのだ か

, も しそれが た

の業年 間で も中 断 さ

るもの

れ ば,

ォ イェル バ ッ ハ は たん に自然

のな か}

途 方 もな

化 をみいだす ばか りで は な

く.

f

全 人 間 界 とか れ

身の

直観能力

を; い や

自分 自

身 の 存 在 を

えた ち ま ち見 失つ て しま うであろ う。」ω われ わ れ の

論の上 か らは,

こ こ で マ 幾

冬の iフSldr ル バ ッ ハ 批 判に

し くた ち 入る必 要

であ ろ う

。 ま た

「感 性

鰍nロ

liche

 

Ttt

igkeit

)と は門

マ ル クス に と っ て何を意

味す

op

か, ま

的 活

7

N工 工

Eleotronio  Library  

(2)

2

三 国 千 秋 の 「目

」 (

Zweck

)とは何 なの かにっ いて もこ こで は

問題

未決

の ままに してお く。 しか

・ 上に揚 げ た 引 用 か らで

象 と

U

ての

材 と じて の

然 とい う

方は十 分に示 さ れるといっ て よいで あ ろ

 

次に, 自然 法 則 との連 関で言 わ れる自然 と

, マ ル クス によっ て

r

純 粋』 自然 科 学の対

え ら

自然

とみな して

い 。 こ こ

自然観

特徴

は,

自然

個の

械の ように見なすことにある。 つ まり,

然 法 則 との連

わ れ る自然 とは, いわ ゆ る

で と ら え られ る

自然

の ことで あ る

デ カル ト の ように延

とい う属

で あれ

カン ト のよ うに自 然 現 象の

力 学 的 関係 と して の 自

れ, この よ うな自然 観の中 心 的 課 題とは 数 学 的, 物理学 的 方 法に よ っ て, 自然 を 記 述 し, そこ に 規 則 性,

法則

性 を 定 立 し

,自

然 を

るこ とにあるといえ る。

K

ヴィ ッ トに よ れ ば

わ れわれは こ のよ うな自然 観 を前 提にして, 「学 問 を 数 学 的 自然 科 学と歴 史 的 精

科 学,

     ロ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

な わ ち

然 と

精神

の二

門に

る」(3) という

伝統

にい るのであり,ま た その限 りで, わ れ わ れの 自然理解が 「自然 的コ ス モスそれ 自体 がロ ゴス を 持つ と考 え たギ リシ ア の

然 学

」ω の 自然 理 解と は異なっ て い るの である

ィ ッ トの ように

界を 「

然の世 界 」(

Die

 

Welt

 

der

 

Natur

と 人間の 「歴史

世界 」

geschichtliche

 

Welt

) に二

するにせ よ, ま たカン 下がそう と ら

え たよう

に,

を法

の見 地

ら見 る場

をそ の全 体 性,

総体

性の

地か らと らえ る場

とに,

り 「

然 と世 界」

に分け て

えるにせ よ(5 ), こ こ で自 然 が 現 象の因 果 性

すなわ ち 自然 必 然 性の カ テゴ リ

包 括 され ると考え られ るのは

然であろう。 そ

て こ の よう な

方 にた てば,

然 必 然

は人 間の

然 認

に基づ くのであ る か ら, 結 局, 自然 は 「主

によっ て構 成 され る と も考え ら れ るで あ ろ

56

                                

 

 

以 上二 う め

代表

的な

自然

して

プロ ッ ホが

え ている, 「物 質 」 との 関 連 でい わ れる

然と は如

な る関

に立っ のか。 また そもそ もプロ ッ ホ にとっ て 「

物質

」 とは何 で あり何 を意 味 するのか。 そ れ はまた, われわ れの自然理解にどの ような

たな 意 味 をつ け

るのか。 こ

らの

い に答 え るべ

筆者

ロ ッ

ホ の

自然概念 を検討

した。 そ こで まず プロ ッ ホの人 間

の中か ら 「人 間 的

然」を,

いで 後半で は 「物 質 」 を主題 と して人 聞の外にあ る自 然につ いて 考

し た。 矼

 

こ こ で 「

的 自然 」 (皿 en

chliche  

Natur

) とい うこと ばで意 味 され

φ

は 「人 間的 性 質 」, あるい

厂人 間 的 本 性 」の ことであ るc6)。 そ れゆえ 「人 間的

自然

」 どいうテ ニ

が問 題に

るの は,

1

いわゆ る経

験的

心理学におい て , あるい は

い わ

「心 身 問 題 」 ど して

られる

学 的

特殊

7

マ では な プロ

の人 間

もこれ らの

題と全

く無 縁で は ないけ れども,

ロ ッ ホの人

間解

釈の

特徴

は入 間を

独 立 し

全 体 性 を もっ た存 在 と して と らえ

この独 立 的

存在,

即ち 「

我」(

lch

を 「生 成」(

Wer

den

という過

に 治いて

考察す

にあると考 え られ る。 そこ でプロ ッ ホの自

の運 動

活 動, 生

におい

「人 聞

自然 」 をテ

る と , 筆

に は 二っ の

方向か

接近す

る こ と がで き る ように 思 わ れ た。 その

つ は, フロ イ

トの精 神 分 析 か らプロ ホ の 人間 観

(3)

Hokuriku University

NII-Electronic Library Service Hokuriku  University 『ブ百 ッホの自然 概 念 』

3

に流れ 込 ん だ,

衝 動 」 (

Trieb

に そ の

を も

動,

活 動方 向 である

フロ イ トによっ て 「

衝動

」が 有 機

無 意 識 的 生 命

根源的

原動力

とみ な さ れて い る ように

p ・

ッ ホ の自我 も衝 動 によ

っ で駆 りたて ちれる。 フ ロ イ ト で は衝 動の背 後に

自我

源 的エ ネル ギ

T

と し ての リビ ド

Libido

)が仮

てい る が

プロ ホ の自

の運 動 は 「

え 」 (

Hunger

) に その端 を 発 す る。 そ して自

の運 動 は; 「飢 え 」

か ら 「

衝動

亅, 感 情 や表

びついて 「

情動

Affekt

期待情動

」 (

Erwartungsaffekt

)へ ,

さ らに意

作用 と結 びつ い て 「未 意 識」(

Noch

Nicht

− BewuBtsein

)へ と

ず る。 さ らに

広範

動の領

に おいて は, 「

自我

」の意

識的活動

は 「ユ ・

Utopie

望 (

Hoffnung

と して

われる。 わ れわれ はこ のよ う なプロ ッ ホの 自我の運

, 生

成の系

列を 「人間 的 自然」の主

性の

列と呼んで お く

それ

vt こ のよ

う な

連の

我の主

契機

に注

目す

ると き, プロ ッ ホは

唯物

が ら も ,他 方で 「主

体的

」 (subj β

ktiv

な ものを

調 する

哲学者

で あ る と言え よう。

 

しか しなが ら, プロ ッ ホの自我の 運

生 成にとっ て不 可 欠 なの は, 自 我 と か か わ る 「相 関

念 」 (

Korrelat

)の

で あ る。 い いか え れ ばプロ ッ ホの 自我の生

も, こ の 「相

概 念 」 (

Korrelat

)に よっ て 媒 介されなけ れ

をな さ ない 。 プロ ヅ ホ に よ っ て 「内 部と外 部」 (

lnnen− AuBen

)「主体と客 体」 (

Subjekt− Objekt

)「人 間と世界」, 「人 間 と 自

然」 と して表わさ れる相

関的

係,

媒介的

関 係 は,

それゆ

「人 間 的 自然 」

L

の 理 解にとっ         r て も重 要 な方 法

概 念であるといえ よ う。 そ して

こ の関 係 概 念 を

ロ ッホ はヘ

ゲ2V, 及びマ ル クスか ら引 き継いでい る と

る が

こ の 「相

性」 は自 我の運 動,

〜に とっ ての反省 的 契

を意

味す

ると

れるの

あ る。

ぜな 残 プロ ッ ホの 「

自我

」は その都 度 の契 機に おいて, 自我 以 外の ・ r

んこ の

合, 自我 以 外の ものと は 「他 我」で あっ て もか ま わない のだ が 「柑 互

用 」 (

W

chselwirkung ), 「媒 介

j

(▽er

ittel

g

におい て

fO

}らで ある。

   

1

  

、.

 

ここで 直ち に

のよ う な

題が

じて

る。 そ れな らばこれ ら双方

の系

列は

我の

に おいて どの よ

うに関係 して い る の かと。

また, わ れ わ れは

一見無

に 思わ れ るこれ ら 二つ の

契機

どの よう

な自

我の

において相

関的

にと らえ うるのか と。 そこでま

     

 

        も       

わ れ は

ロ ッ ホの 「直 観 と 活 動 」 とい

題 を もっ

たマル クス の

フォ イエ ル バ

テ厂 ゼ 〔五

〕につ いての

及 を見てみ よ う。 (7)フォ イエルベッ ハ

テニゼ は 以

の ように述べ られ

     

  

 

   

 

   

 

   

 

   

      

 

フ ォ , m ル バ

抽象

的な 思考 (

abstraktes

 

Denhen

)には満

せず, 感

   

  

 

   

   

      

  

性 的 直 観 (sinn

liche

 

Anschauung

を欲 す

。 し カ

i

しかれは感 性 (

Snnlichkeit

)を 実

  

践的

な (

praktisch

), 入 間

的 ・

性 的

活動

(menschliche  sinnliche 

T

gkeit

) と し

    て は とらえ ない。

  

〔r 〕

い :ま までの

べ て の唯 物 論 (フ

エ ルバ ッハ の も

めて)の

もな欠

は,      

   

  

   

  

      

  

象,

実,

.感

ただ

体 また は

観の

形式 ・

Form

 

des

Objehts

oder  

der

 

An

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

iSehαuung )

の も とに のみと ら えられ て, 人 間 的な感 性

活 動 (mertsahliche  sinnLiche

         ■

 

 

  

‘‘

g

ゐ臨 )

1実 践

PnacFis

)と して とらえ られ ず, 主 体 的 (subjektiv )に と ら え ら れ

        ■

 

 

 

 

 

 

  

tt

乙 と

あ る。

従っ て活

的な側 面は (謠渉‘

g

θ

Seite

)は, 唯

とは反

象 的

9

N工 工

Eleotronio  Library  

(4)

4

三 国  千 秋

に観 念 論

これはも ちろ ん現

実的

な, 感 性

な 活

をそ の ものと して は しらない 。

に よ っ て 展開されだ。 フ ォイエ ルバ

Yハ は 感 性 的 な

思 想 客 体 か ら

現実的IC

別され た 客 体 を 欲 する。 しか しか れは人

間的

その

のを対

的 活

8

θ

g

飢 8孟伽

dliche

 

Ta

tigkeit

と しては

と らえ ない

だ か らか れは 『キ リス ト

本質

』の中で理 論 的 な 態 度 だげ を

に人 間 的な もの と み な し

これ に たい して 実 践 は た だその き たな らしい ユ ダ ヤ現 象 形 態い て の と らえ られ

定 される。

っ て か れ は

r

命 的 な』, 『実

践的

・批 判 的な 』

か ま な

 

プロ は 「

直観

活動

箇所

こ のよ う なフ ォ

エル バ ッ ハ

ゼ に

して, ほ と ん ど

句 対 応さ せ る仕 方で

の ように述べ て い る。

 

ここ に おい て, た とえ 思考 する場 合

ic

も, た だ 感

的な ものか らのみ出発 しうる と い こ とが承 認され る。

直観

はあ らゆる

唯 物論的

己 を 証

明す

始ま

りであ り, またあ り

直観

か ら

抽象

さ れ た

念が

まりでは ない 。

……

フォ イェ ル バ ッ ハ は 頭だ けの

存在

には 「

足 し ない

は直

された大

に立 っ た足 を 欲

る。 しか し, テ

ゼ 〔五 〕 は, その 際 と りわ け 〔

〕 も

同時

に そ あ るが , フォイ 土ル バ ッ ハ が      

 

   の   

 

  

 

それ だ けしか 知 らない観 照 的な感

b

ethachtender  

Sinnlichkeit

, との足 は ま だ 歩 くこ と も 出来 ず, 大 地 自身は

がれ

ないものであるこ とを

ら か に して い る。       メ そのよ う に

観 してい る人 は

ま た全く 運動 を 試 み

い し

彼は快 適な

受の状 態に

っ て いる。 それゆえテ

ゼ 〔五 〕 は, たんなる直 観 は 「感

を, 実 践 的な

動と して,

・ 感

と して は とえ ない 。」と

えて い る。 そして テ

ーff

 

C

〕 は, これ までの

ての 唯

物論

を 批

して

の ように

う。 即 ち そこ で は

観は ただ 「客 体の 形 式とで」の み とらえ られ,

人 間 的

的 活 動

即ち実 践

と して

と らえ

, 主

体的

に とらえ ない

6

」そ こか ら

の よ うな結 果 が

じた。

活 動 的な側 面は, 唯 物 論 とは反

}ご 「観 念

に よっ て発 展 させ ら れ た。

しか した だ抽 象

にな さ れ た に

ぎ ない。 なぜな ら, 観念

当然

な が ら,

実 的

1

的な活

その ものを知 らない か らであ る。」活

しない観 察に

っ て

そこか らフ ォ イエ ルバ ウハ の も含 め て これ まで総て の唯 物 論が

けでなかっ

のだが

人 間 的 活 勳とい う要 因 が 現 わ れ た。 そ し て. この こ とは感

的 な, それ ゆえ,

な, 基

と なり端

と な る知

の内

におい ては認

と して の感 性, 認識の現 実 的

礎と して の感 性は

1

決 し

tt

》観

照 的な《 直 観 (》

konte

plative

Anschauung

)と は同じもの では な い

1

とい うこ と

である

 

(以

下略

)(8>

 

こ こ で プロ ッ ホはマ ル クスと 全 く同 様に, 認 識におい て感 性 的 な ものを 重 視 する立 場に

っ て い る。 しか も, ここでは感

や直 観 は そ れ 自

で独

し, 固

した

抽象

的な形 式 と して ではなく 「感 性 的 活 動 」 と して理 解

れね

ならない こと を

調

る。 では こ の 「感

的 活

」 というこ との うち に は何が

ん で い る か。 わ れ わ れ はそれを,「主

体的

」(subjek

tiv

)である とい うこと と考え る。 だ か ら 「感

性的活

動 」が

f

観 照 的

観 」か ら区別される の は 「主

体的

subjektiv

で あることによ っ て で な くては な らない 。

直 観

さ れた

(5)

Hokuriku University

NII-Electronic Library Service Hokuriku  University 『プロ ツ ボの 自然概

5

に立

5

」 と

それ ゆ え 「

地の上 を

」でな くては な らない。 ところで,厂感

性的

活 動 」は 「主

性 ∫ を前

にし てい ると

れ ば,で は 「主

的」

活 動

と は何か。 それ は 「自

的」活

として, それ

身の 中に原

を 持つ 活

で な くて はな らないであろう。 こうし て, プロ ッ ホ

の 「

我 」の運動 におい ては, そ れ が 「衝 動 」

とい う形 態 をと るもの であれ, また 「意

」 と

びつ い た段 階め ものであれ

「自我」の 内に 内 在 的 原 因 が 求め られる こ と になるのである

b

     

      : 

       

      し

 

しか しな がら

方で,

こ の 「自我」 の運 動は

結 的なものと見な されるべ きで はな い。 こ こ では始 めと

りのみな ら

そ の 途

大切

なの である。 「

自我

」 の運

, 活

は 「た だ

客体

式で のみ」 と らえ られ るのではない。 とい うの

こ のよ うな形 式

, そ れ が唯

論 的であれ

,観

念論 的であ れ}「

照的

観」 にの み ふ さわ しい ので あ る か ら。 そ      

  

 

       

   

  

       

 

 

   

   の   

      ■       

   ロ して こ の ような

に は 「

というたえ ずゆれ 動 く主 体

客 体 関 係 がぬけて い る」(g) ので あ る。 だ か ら 「人

感 性

」を 重

しだマ ル クス は; 乙 の ことを 見

いて

      の  t     テ

ゼ 〔

〕で い う。

間 的 活 動 と檍 「対 象 的 活

」で ある と。 そ れゆえ, プロ ッ ホの 「

我」

の運 動 もそれ が 人 間 的

動 とい う側 面で み られ る限 り

象によ っ て

介 されて い る

 ロ

 

 

 

 

対象的活動

」であ る ど

られ

:る。

 

プロ ホ は人 間を 「相 当に肥 大 した衝

1

(、D)(ziemlich  umftUigli6hes [

hriebwesen

) と呼んで い る。

こ の 「相

大 した」

という 表

に は注 釈

る。 とい うの もこ くで既 に プロ ホ はフ ロ イ ト と は異な

る衝 動 論 を 展 開 して いる か らで あ る。 フロイトの 「衝 動 」

つ まり 「

性衝

「死 め

」 の

うちで は

P

動」 が最 も躰

な もので       モ ある

。 「

衝 動 」は快 を 求め不 快 を避 け るという

「快 楽 原 則 」と

びつ いて

己の 衝 動 を 充 足

る。 こ の こと か ら して 「性 衝動」

1

はフ ロ

イ トに よっ てあ らゆ る生 命 的 活 動の基 礎 とな るのであ

ft

か らフロ イ トは 「衝

」を

定義

して次のよ う

に述

べ る。 「

生命

あ る

在 する衝迫であっ て , 以 前のあ る状 態を回

し ようとする もの であ る」(11)

。 こ こ で

「以前の状 態 」 と は

っ て性 的 対 象 と共にあっ た 時の状 態

フ ロ イ ト}とよ れ ば母 親の胎 内 と か幼 児

を意味

る。

し か も

フロ

イ トは

こ の 「

衝動

ゴの

1

「リビド

」 (

Libido

) とし

動エ ネル

を 仮 定 し

さ らにま たリビ r は 「

だ計

量 しがた

い も

のである が

的 な

きさを

ル ギ

12 と して

れてい たのである。 こケ して 「フロ イ トはいつ も;意

とか

作 用 とい っ た 変

化す

る 諸 現

を変 化 しない

本能

か ら

……

変 化 しない生

学 的 環 境 か ら, 演 繹 する とい うディ レ ンマ に

面 してい た。」(13) の である。

 

とれ

に対して,

n tyホ の

相当

肥 大 し

た衝

活動

ii

ト に は全 く正 反 対の方 向 か ら解 釈される。

つ ま りフ 白 イ トでは 意 識

t 内 容 は丁性 衝 動 」

1り・

ド」 と還 元 さ

るのに対 して, プロ ッ ホの

こ の 「衝 動 」 は感 情 と結 び い て 「情 動

Affekf

表 象 や意 識

用, 観 念 と結 びつ い て 「

望 」 (

W

schen ), 「

」 (

Tag

trapm

), 「ユ

」 (

Utopie

展 し うるし, それ らは ま た対 象 との

係で 「先

」 (

Das

tizi

ier

むnde 

Be

偽eih) ど して 様々 の形 態で現 実

するか らであ る。

箔 塘朴が 「リビ

」 を

定 し

に 対 し , プロ ッ ホは

生ず

在化 さ

せ る。 つ ま り, 「

衝動

」 は

自我

f

え」

unger );「欠 乏 」

M

魁脚

非蕨

Nicht− Habeh

)に

み な

れ る

こ の ようなわけで ブ 血ッ ホ が

11

N工 工

Eleotronio  Library  

(6)

6

三  国 千 秋 「

衝動

1

をまず 第 rl こ身 体 的 段

か ら始めて い るこ とは当 然 といえ る。 な ぜ なら,痛みや 空 腹におい て は

身体

は 「

衝動

」 に先 行 してい るので あっ て

そこ では「身

衝動

を担いダ 感 知 し

,衝

動の充 足に よっ て不

感 を解 消 する」(14) の である。 プロ

ッ ホ は 「自 己保 存の衝 動 」 を, 唯

ま ない と 断っ

た 上で , 最 も信 頼に足る基 本 的な 「衝 動 」 とみ な して い る が, c15> こ こで も くの

衝動

」は固

的な もの と み な さ れ て は な らない で あ ろ う。 とい うの も 「

相当

に肥 大 し た衝 動 体 」 と しての人 間

「大 概の動 物 的 衝 動 を

保持

す るの みならず,

た な衝 動を

り出

」 か らで あり 「

身体

ばか りで は なく,

我 も刺 激に反応 しやすい」

か らである

即 ち, 「意

作 用 を

っ 人

は最 も

満足

させに くい

動物

」 なの である。  

 

フ 卩イ トは衝 動の充 足を考え る際に その対 象との 関

におい て 「快 楽 原 則 」と並んで 「現 実 原 則 」 を と り入 れた。 フ ロ イ ト によれ ば 「現 実 原 則 」

は 「最 終 的には快 感 を 獲 得 する 意

を 放

棄す

るこ とは ない れど も, 満 足を 延

し,

々な可

能匿

を 断 念 し

長い 迂 路 をへ て快 感に達 するそ の途 中の不

時 封受 するこ とを, うな が し

強い る」(1T)原

である。

がわ れ わ れの見

からす れ

, この よ

原則

実際

に適 用されるのは,

  1 え ば幼 児の 世 界の ような非 常に限 られた, 狭い範 囲におい て で あっ て

現実には事 態 はよ りいっ そ う

複雑

で ある。 実はこう し たフ ロ イ

「現

実原

則」 は,

えば

精 神

的 治 療 の場 合の ように 患 者 を と りま く環 境 的 世

を 固 定

して とらえること,

ま た 実 際の人 間

的にとら え る ことか ら生 じた

の であっ て, 環

識 も全。〈

平板

な ものと なっ て しま う。 し か しなが ら, わ れ わ れ

環 境おcl び意識につ いて語ると き, その源 泉 と は何 か。 ク リス

トフ ァ

r ・コ

ドウ

つ い て

のよ うに語っ てい る。 q8)

 

意 識は

己意 識と して , 環 境か らの分 離と しては じ まるが, しか しこれ だ けで は 意 識は確 立 しない。 自 己意 識 は

ある意 味で は環 境に対 立 し

単に本 能 的な もの である。

己意

が現

を “

他者性

、 を意

識す

る よ うになる の は, それ が 環

り, 経 験に

        ア

よっ て環

をそれ 自 身の上に

象づけ る と きである。 そ してこれ ら は

社会

的な過 程

な ,

ので あ る。 幼 児は

周 囲

の ものに興

っ こと に よっ て, また

能動

験 (activ  ex

perience ) か らそれ ら を学 習 することに よ っ て 意 識

な人 間に成 長 す る。 幼 児 が こ の ような意

的 成

を と げ るのは言 語と社 会

活 動 を 通 して であるか ら,

現 実にっ い て のか

験は

っ の

通の知

覚的

世 界のもっ きわ めて

複雑

現実

にっ い て の

経験

で ある。 (18)

 

ドウ

= ル に従 うな らば 現 実 も

意識

もこれ らはみ

な人

間の

社会

的 経 験の産

である と

え られ る。 そ れゆえ

衝動

対象 も

作 用 も歴

に おいて

形成

され て

た と

え られ る。

っ て ,

71

ロ ッホが 次

φ

よ うに衝 動 も

その担い手 も, 固 定 的で な く,

化 する と述 べ いる こ と はコ

ド ウ

ル の考

方 と全 く

の軌 道 上にある と言 わ ざるを 得ない 。

 

衝 動が固定的で なく

化 するのと

様, その 担い手 も変

化す

に おい て

恒久的

に決

され た よ うな もの は何 もない の で あっ て 他ならぬわ れ わ れ

体 が わ れわれに とっ ての

所与

と はいえ ない。 もろも ろの情 熱に歴 史 的 変 遷 が 存 在 し,

しい 目標 を もっ た

しい情 熱 が 発 生 す る

方で は それ を煮っめ る主

変化

(7)

Hokuriku University

NII-Electronic Library Service Hokurlku  Unlverslty 『プロ ッホの 自然概 念』

7

る。 ひとつ の 「根 源

動 が 存 在

るのでも な け れ ば, H 人 「原 人 」 或は 「人 祖アダムが存

するわ けで もない 固 定 的な衝 動 研 究とい う意 味で の「人 間の本 性 」 と称 す る ものは, 既 往の歴 史におい て何 百 回 とな く育 ま れ 且っ破 産 したのである。

dg

 

われ わ れ は さ ら に進ん で プロ

rtw

」 に はさ らに二つ の根

的 動 向が働い てい る こと

を指

摘 したい。 プロ ッ ホの 「

衝動

」 観に

飢 え 」が

強 く働

い て い るこ と はすで に明 ら

1

IC

し た通りで あ る。 ア ン トン

・F ・

ク リス チャ ンは プロ ッ ホの 「飢え 」の概 念を

多義的

で あ るとした 上で その二重 的

牲格

を 指 摘 して い るが, それは対 象との関

でい わ れ る もの で ある。 即 ち 「

《飢

え》は

方で

定の

象に

係づ け られて不

乏の

義 語 と

て , 他 方, 衝迫

期 待の同義 語と して語 られる。」(20)

こ こ で 「衝 迫 」 (

Drang

)と は 「全 く漠 然 と し た無 規定の ものと して, 感 じられ る」(2n 自我の内部か ら

外部

へ という運

性向

を意

する。 しかし な が ら肝 要なのは

の点で あ る。 プロ ッ ホの 「

衝動

」に おい て は 二っ の

が あるとい うこと つ まり

衝動

に は

囚 

で その

対象

が は じめか

ら確定

さ れ た

の と して, あ るい

は比較的

る こと か ら, こ の対

く関

づ け られている

場合

(欠乏

不 満 )と, {B } 他 方で対 象が何であるかその内

は 明 らかでな く

あ るい は対 象の獲 得には

くの

必要

るとい う意 味で こ の

象に弱 く関

づ けられて お り, ま た と きに は

現存す

諸対象

を は る かに

え る ような

衝動

があるとい うこ とで ある。 (衝 迫, 期 待 )

 

そ して こ

op

よ う

な二つ の

衝動 ρ

動 向は,意

作用 が強

く関

わ り,感 じ られ たもの や

,表象

か ら

に生 ずる

衝動

に は,

明確

に区 別さ れ ねばな らない。 プロ ッ ホは 「感 じ られ た もの」か ら自 発 的に生

れる 「情 動 」を 「満 允 さ れた情 動」(

gefif1

正七e 

Affekte)嫉妬

貪欲

, 畏

怖等

と, 「

期待情

動 」

ErWartun ’

gs・

rAffekte )

不 安, 恐 怖, 希 望, 信 仰に区 別 して いる が, こ の

別は

れ わ れが示した 「衝

」の二つ の根

るもので あ ると考 え られる。 っ ま り 「満 た さ れ た 情 動

において はその 「

動 志 向は近

であ り, その衝

動対象

が既に現

してい るの

対 し 「

待 情 動 」では 「

動 憲 向 が 広い視 野 を もち,

的到

囲のみ な ら

ず手

近 な 世

に も

在 しない」(23)の で あ る。 で は この 「期 待 情

」の

にあっ て

だ 意 識されない」 対 象にわ れ わ れ を 関 係づけ る もの は何 か?

 

プロ

ッホ は それ を 「期

情 動」の中に含 まれ る 「先

取的

」(antizipierender  

Charakter

で あ る と

え る。 そ れゆえ プロ ッ ホは

の ように言 う。

動 は その ように拒 否 問 題 と しても願 望として も

た さ れ た

情動

と異なるの で あ るが, そ れ は

期待情動

の 志

; 内実,

対象

にな らぬほ ど遥 かに

きな

先取的性

によ るの で ある 。

(24)と。

k

ブ覃 鱗 ホ は この 「先 取 的 性 質 」

を 「期

情 動

1

の みな ら

「期

表 像 」 (

ErwartungS −

vopstellu  

日夢 」 (

Tagtraum

)(25)

r

トピァ 」 (

Utopie

)及 び 様々の 芸

術作品

な ど

に諍哄 通 塗 る もの と して見い出す

。 プロ ッ ホによ れ ば, これ らは みな,

朱来

にか かわ

り,既

の む ので は

騨 という

限 り

で 「

だ意識さ れ ざ る

の」 (

Noch −Nicht − BewuBte

s>及び

13

(8)

8

三 国 千 秋

成 ら ざるもの」 (

Das

 Noch

Nicht

Gewordene

先 取 りし ている と言 わ れる。 そ

して この 「

取 的

質 」が豊 か に,

具 体

に働い て い る時,

これ らの

で 「ユ

ピ ア

」 が 働い て いると

わ れる。

 

1

       

 

今 やこ の

最 後

し てプロ ッ ホの 「Z

トピア」 概 念 を 論 ずる

まで達し た。 プロ ッ ホの 「ユ L 下ピ ア」 を 論 ず る際, プロ ッホ が 到 る

で述べ てい る ように, こ こでま

ピ ア と はそ の

能 に

おい て 理 解 され ね ば な らない ことに

意 しよ う。

そ して ま た; 「

ー・

ピ ア的 機 能 」 (

Utopische

 

Funktion

) と は未 来られて し丶るもので あっ て こ の

合ユ

ト ピ ア

な意

が 過

に おいて か っ てあっ たもの, ま た

存の もの に 甘んず るの ではな く, 「

だ 意識さ れざる もの」「

だ 成 ちざるもの」 にか かわるとい うこと が

提 に されな ければ ならない こ の こ と はまた

見 す

K ・

マ ンハ イム , 「ユ

ピ ァ

意 識 」 (

Das

 utopische  

BewuB

七sein)を,

般的

に は 「存 在

し な」 (mit  

dem

_

Sei

n nicht  

im

 

Deckung

,.

「現 実と かけ 離 れ だ 」

(wirklichkeitsfre 皿

d

) ものと して

厳 密 には 「現 実 を 超 越 した 」 (wirklichkeitstranszendent ) 意

と し

定 してい る こと (26) と相 通 ずる よ うに見え るか もし れな い。 こ こ で 「存 在」(

Sein

)や 「現実」 を如 何な る もの とみな す か は さ し

たり未

に して おいて

ろ う

。 一

マ ジィ丶

れ を

存在

般 」 (

Sein

 

liberhaupt

は な く

「具 体 的に通 用 してい る生 活 秩 序 」

1

あるい は 「実 際に

用 して い る生 活 秩 序 」 と呼ん でい るがいずれにして も彼に よれ ばそ れ ら は 「社会

学的

」に規

される

の で あるとい わ れる。 (2T)L それに比して, わ れ わ れ が, こ こ で問       x 題に しなけ れ ばならない のは

にマ , 「

致 しとか 「か け離れ た 」 か, 「超 越 した」と呼ん でいる「ユ

ピ ア

」の あ

り様

につ いて で あ

二 に 「ユ

一.

トピア 意識 」が果た して現 実の世

お よ びわ れ わ れの意 識と如 何な る関係

あるのか, 具体 的には わ れ わ れの 現実の活動や 行 動に如

に関わ るの か とい う点であ る。 だ が,マ ンハ イム この 点につ いて は何 も

えて は くれ ない。 というの も彼 はユ

トピアの

立 を

       ア

か ら

断 して

専 ら過去に あっ た諸々のユ

トピ ア の み を

に して い るか らで あ る。 こ う してユ ト ピ ア

よれ

れ が

絶対

実現

しないとい うごとが

証明

さ れた

裹象

と し ての」「絶 対 的ユ

ピ アと そが 「適 当現 実 化 した と して 相 対 的

      ち       

       

TJ

に区 別 さ れる。 (28) そ れ だ か ら, マ ン ハ イム にどっ ては どのようにして 「ユ L トピ ア

」が 生 じ, 成 立

る か, ま たそれが われわ れと

何 なる関 係を もつ の か とい うこ と

は 「ユ

トピ ア的 問 題

の 中にはな く

こ のような問題 性 は 「社 会 学 的な問 題 」

へ と移 行 させ られる

だ が, 果 して, 「ユ

ピ ア

り様

, そのよ う に

わ れ わ れの 行 動 との関 わ りか ら

り離

れるの で

ろ うか。

    

   

』 1

 

プロ ホ に よっ て 「

だ意

ざ るもの」 「

ら ざる もの」ど して語 られ る

の こ

のr

未 だ

……

ない」 (noch

nicht

sein )

と し・う述

存 在 様 相カ テ

を衷 わ

とみなされる であろう。

1 一

もちろんこのよ う な カ テゴ

を認める か

か は別と し て

1

ろで, こ の 「未 だ

」 とい う存 在 様 相の カ テゴ

, ハ ン

ン ッ

ホル ツに よっ て以

のよ うに

されて い る。 つ ま り,:「》

A

A

で ある《 (

A

noch =

Nieht一A

こ の矛 盾は

……存在

に とっ で の

構成

的な もの と じて 承認 さ

れ る。」

〔2g> つ ま り わ れ

わ れはホル ツ と共に次の よ うに言い う る。

こ こ で

A

と は

A

どい う存 在の全て

の規

定性

む 「

総体

」 (

lnbegriff

と しての

A

とみな される。 が

現実

に は こ の ような

(9)

Hokuriku University

NII-Electronic Library Service Hokuriku  University

『プロ ッホの自然 概 念』

191

ものは どこにもな い。

よっ てわ れ われは絶 え ずこ の矛

に導かれて 〔

A

〕 とい う存

に近

づ こう とする。 ま た [

A

は非

A

で ある, とい う

盾 した

題を

ることは実 在

的範例

die

 realen  

Exempler

に よっ て は

足さ れない〔

A

〕とい う規

範的

理 念 (eine  normative

Idee

)を 含 意 する」。 要 約 す れ ば 「未 だ

…・

ない」とい う

存在

の カテ ゴ リ

は その内

盾を か か え な が ら も,

で 認 識に おける

構成的

原理 を, 他 方で行

行動

規制

する規

的 原理を

形成

することがで き るよ うに思 われる。

わ れわ

はプロ ッ ホの 「ユ

ア的

能 」に戻っ て み よう。 プロ ッ ホの 「ユ

ト ピア的 機

能〕

とは 単な る 「希 望 的 観 沮

きるもので はない。 それ は 単な る主観 的 願 望や空 虚

な先

取 的 内 容 を もっ たユ

ト ピア と

aa

区 別 される。 それ らは

「抽

象的

る 」(

das

 abs 七r

akte  

Utopiesieren

)こと

で あ ろ う、か ら。

こ こ におい てはγ 先

りさ れ た内

は 「まだまった く何の確 固 とし た主

もな く, 実 在 的 な 可 能

対す

関係

もない6」

iC31

て, プロ ッ ホ にとっ て

取 的 性

をもっ た 「ユ

ト ピ ア 的

機能

」 どは 「現

ある もの か ら 勝 手 に こ し らえ あ げ た

だ けのもの

海,黄

金の

な どでは な く

あ る

の の

未来

の ほかの 可

能性

」 よ り 良い

能性

と して

取 りし な が ら

し進め る」(32)もの で ある

これ がユ

トピ ア的

能の 主 体 的 要 因で ある。

ざらに

これは ま た

実の傾 向に精 通し

傾 向が組み込まれて い る客 観 的, 実 在 的 可 能

通 し

……

朱 来 を 含ん だ 性

に精 通 してい る 」

(33)て と を 必

要 と

する。 そ して これ

ピ ア的

機能

に お ける

客体

因で

る。

これ ら双

の要 因 につ いて は

「主

体的

なもの

客体的

のも

…・

た えざる相互作 用

φ中

で理 解されねばな らず,

け るこ とので き

ないもの ,

離す

との で きない ものなの で ある。

34) といわれ る。

 

結論

と して, 豊か な

取 的

性質

た:

待表象

」と

「ユ

ピア」 と 「具

性 」が今や結 合 す る、 こ こ

にr 見

接 的では

るが, プロ ッ ホの 「具 体

なユ L トピ ア

konkr

Utbpie

) とい う

念が

まれるの で あ

δ

..

 

以下におい て は, 人 間の

にあ る

自然

題と な る。 ア ル フ

レ ッ ド

シ彑 ミ

彼の

        み

r

マ ノレクス の

念』

おいて プロ ッ ホの 「

自然

」につ い て の

提出

の よ うに定

化して い るDttt

         

   

 

  

  

・,

   

マ ル クス文 献 のなか で はt

プロ ッ ホ の

望の

学 が,

総 じて若 きマ ル クス と

  

に よっ て提

さ れ た課

題,

つ ま

会の

諸条件

の もとで の

ほかならぬ

  

人 間の外な る自然 ¢)「

活 」

ReSurrektiQb)

の課 題に最 も集

的にと

くん でい る。

  

グ ロ ッ ホ の問題 提

は二っ の相 互に結 び ?い

i

もう て い

方で それは生

  、

における人

たな客

体関係

と い う認

識論的 ・

社 会

学的問

題にか

わ 転

他方

で は ・

 

然 主

1

とい う形

的 な 問題 と それに

びつ いた

的 自

然 め

朱完成性及

  

のユ

トピ ア的非 完 結 性 の 問題

か かわる

1

c35) われわれ は まずシュ ミ

トの問 題 提 出 を次のよう

1

こ言い

かえ

うる

う。 自然 は どのよ う

1

に認

さ れ

か?

識論的問

題 )。 技

媒介

に して人 間 は

然 と どの ような

関係 に

15

N工 工

Eleotronio  Library  

(10)

10

三 国

入るか?(実 践 的

社会 学 的 問 題 )

 

プロ ッ ホの 「自然主

る か ?

た な

「自然 主

」 はユ

ー・

ト ピ問 題 と か

tt

 

今 後の議 論の

と してまず以下の こ とが

認 ざれ て よい。

ロ ッ ホ は決して, そ の

完成性

を 「客

然 」 (σ

bjek

ive

 

Natur

こ っ いて 言 うの で はな く, 「客 観

的.

在 的 」 (oblektiv 」 reaL

然}C

っ い て い う

の で あ る。 さ ら にシ ュ ミ トに よっ て形 而 上 学 的 であ るとされる

宮然

」 (

Natursubjekt

)の

につ い て は, プ ロ ッ ホ

以下の よう に説 明 して い る。

 

自 然にお ける

的主

という

念は, 実 在 的なもの (

im

 

Realen

般にお ける 未 だ 明 らかになっ て いない

事 実

1一

衝 動 (

DaB

Antrieb

即 ち 最 も内

在的

的作

用 因

の同 義 語であ

る。 そ れ だ か ら, こ の層の うちに, っ ま り存 在 す る限 り で の物

質的

に最 も内 在

な層の うちに 自然主体 と して特 徴づ け ら れて い る もの の

理が

存在

する。 (36)

     

   

tt

         

l

 

プロ ホはこの 「自然 主

」につ い て;

他の箇 所に おいて

ま たこれ を

既に実

する ものと

1

して

固定

的,

独断

的に

めっ

け るの

では

な く 「仮

説的

」(

hypothetisch

>に: るもの      

  

    じ           ロ   ロ     ロ   ■

断っ てい る が

そこ で は ま た 「固 有に

性にがなっ た客 観 連 関のかの核

動 因

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

因 )の 内 在 性 (ノene  

Kern

und  

Ag

ens

lmrn

αnenti

」 と か

あるい は 「かっ て 半 ば

      I                                                                                          

 

神話

的}こいわ れ た 『

産 的

然』 (ぬatura  naturans )」 として されて もい る。 (3T) い

れ に

て も, こ こでブ 白ッ ホ が 「

然主

」を 「

物質

」 との連

で と らえて い るこ と は

らかであ る。

っ て,

われ わ れ は 以

物質

」 (

Materie

)概

念 を

検討す

るこ とに

1

よっ て 「自然 主 体 」 及び 「自然 」め認 識 論 的 問 題

及びそ の実 践 的

,社

会 学 的 問 題につ い て も

考察

して み よ う と思 う。

 

r

学の

根本

問 題 』に関 す る 限りプロ ッ ホの

物質

」は 以

の三

要約

さ れ る が, そこ で物

囚 「運 動 」 との関

にお いて (B )「可

性 」 概 念との

で, さ ら に{

C

}人 間

互作用 に おい て

りあげ られる。 (3B) そこ で まず〔C 湘互

用の

か ら

しを

い。

 

われ わ れの見

か らす れ ば

プロ ホ が 「

物質

」につ いて語る

との

r

互 作

用 」 (

Wechselwirkung

), 「

媒介作

用 」 (

Vermittelung

) を

きに して

じてい ることは ま ず

ど ないとい っ て よい。 従っ て, プロ ッ ホの , 人 間の 外にある「自然 」を 問 題 と

る際に

も,

その

根本

前提

とな るのは人

然の

互 作用 とい うことであっ て

それゆえ

科学

や 技

に よる両 者 闇の媒 介 的 関 係 が 単に社 会 学 的 問 題に還 元されない こと はい う まで もな いd と ころで シュ ミ トは, この関

を 「

労働

に おける

人問

諸目的

自然

法則

との狡

なカみ あわせ (

listige

 

Venschr

五nkung 」(3gS

と 規 定 し た

で, 直 ちに 次のよ

に問 うてい る。

ち 「人

はいかに して, ヘ

マ ル クスが合 目

的労

働 過

を その よ うな ものと して描いたよ うな 自然 を

略 にのせ たり

ペテン に かけたり

るこ とを

将 来 避 けるこ

できるだろ

か?」(ω と

6 しか しなが らこの 場

もシュ ミッ ト にとっ て は

の よ うな悲

観的解

答しか

いだ し

な いのである。 li

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