Hokuriku University
NII-Electronic Library Service Hokuriku University
1
プ
ロ’
ッボ
め
自
tt1
然
概 念
三’
国
.
千 秋
Der
・
Begriff
der
・
Natur
in
der
Metaphysik
vonErnst
Bloch
Ch
歯
Mik
誼
1
プロ
・
ッ ホの主著
r
希 望の原理』・
の中
で ,自
然の考察 は
以下
の三っ の側
面か
らとりあ げ ら,
れる。(1)そ れ らの三つ の側面
とは, 第一
に 「原料
」〈
Rohstoff
).
と して ,第
二 に自
然法則
との 関連で ,.
最 後にブv ッ ホの 「物 質 」 (.
Materie
)との関 連で言 わ れるもので ある。 そ し て,
プロ ッ ホに とっ てほ
前
二者はいずれ
も部分
的」一面
的 な自然
の規
定であ匂
, それ に比 して
物 質 は 最’
も全体 的,,包括
的な 自然 概 念にふ さわ しい。.
ブUs ッ ホの 「物
質
」 と して の 自 然の 考察
に あたっ て , 上記の二つ の自然 につ いて その輪郭
を あら
か じ め明 らかに して おく
ことは
ジ 今後
の議論
の上で必要
で あ りダ章
た
有 益で あ ろ う・
。初
め に,
原 料 と して の 自然 を,、
こ こでは 「素 材 」 (Stoff
,Materia
!).
U
しての 自然 と 呼ぶ盗
と
にす
る、・
そ れ は生 産,.労
働の素 材であ・
り
対 象 とし ての自然を
意 味す
る。 この場合
自
然は原 料, 材 料,資材
と呼ばれ
る。 しか しなが ら, このよ うな自
然と は必 ずしも工業 原 料 等の天 然 資源
に限 られない 。 農 業における土 地, 漁業
における海や湾 等 も立派に天然
資源
の 名に ふ誉
わ しいし, こ う考耳
るな らば観
光資
源 とい う町
も, 経 済の観 点 か らみれ ば,
素材
と しての自
然に含
めて よいで あ ろう。・
さ
ら にい っそ
う注 目に値 する のは, 素材
と して の自
然が一義
的に天 然の,手
を
加
えて
い ない,
あ りの ままの自然
を意味
するもの で はな
い・
とい うことであ る。 こ のζ
とは一
見
奇妙
に思 わ れξ
か も しれない 。・
しか し , わ れ われ
の身,
,
’
/
な え のまわ り, 生 活環
境 を見 わた してみ る とき, どこに一
体
そうレ
た純
粋な,生の自
然 環 境 を, 人 間によっ て手
の加
え られて いない自
然 を 見い出
し得
るであろうか。 こ の ような疑問
に対
しては,.
例
えば
マ ル クス の次
の よ うな言葉
は,素材 (
Materia1
).
という語
を
使
用して い るが
, その答
えを 示 して い る ように思 わ れ る。 「しか し産 業 と商 業 が な くて, どこ に 自 然 科学
が あ るのだろう。
こ の 『純
粋』自然科学
で さえ, じ
っ に商業
と
産業
に よっ て,
人間
の感性
的 活 動 (sinnlicheTljtigkeit
)1 に よっ て,
は じ め て その 目的 (Zwe
じk
) ならび に その素
材
・
(Materi
包1
)を受
け とるの で ある。 まこ とi
ζ こ の活 動,.
こ のた え ざ る 感性 的な労
働と創
造,・
こ の生産
こ そ, いま存在す
るよ うな 感性的世界
全体
の基礎
なのだ から
, も しそれが ただ
の業年 間で も中 断 され
るものと
す
れ ば,.
.
シ
ォ イェル バ ッ ハ は たん に自然界
のな か}と
途 方 もない変
化 をみいだす ばか りで は なく.
f.
全 人 間 界 とか れ自
身の直観能力
を; い や自分 自
身 の 存 在 をさ
えた ち ま ち見 失つ て しま うであろ う。」ω われ わ れ の議
論の上 か らは,・
こ こ で マ 幾幽
冬の iフSldr ル バ ッ ハ 批 判に詳
し くた ち 入る必 要皚
な始
であ ろ う、
。 ま た.
「感 性的
活勳
藤
鰍nロliche
Ttt
七igkeit
)と は門体
マ ル クス に と っ て何を意味す
るop
か, まだ
感性
的 活動
7
N工 工一
Eleotronio Library2
三 国 千 秋 の 「目的
」 (Zweck
)とは何 なの かにっ いて もこ こで は問題
を未決
の ままに してお く。 しかレ
・ 上に揚 げ た 引 用 か らでも
労
轡
の
鮒
象 とU
ての累
材 と じて の自
然 とい う見
方は十 分に示 さ れるといっ て よいで あ ろう
。次に, 自然 法 則 との連 関で言 わ れる自然 と
は
, マ ル クス によっ てr
純 粋』 自然 科 学の対象
と考
え られ
た自然
とみな してよ
い 。 こ こで
の自然観
の特徴
は,自然
現象
を一
個の機
械の ように見なすことにある。 つ まり,自
然 法 則 との連関
で言
わ れ る自然 とは, いわ ゆ る機
械.
論
的自
然観
の中
で と ら え られ る自然
の ことで あ る。
デ カル ト の ように延長
とい う属性
を持
つ蜘
体
で あれ,
カン ト のよ うに自 然 現 象の機
械的
,
力 学 的 関係 と して の 自然
であ
れ, この よ うな自然 観の中 心 的 課 題とは, 数 学 的, 物理学 的 方 法に よ っ て, 自然 を 記 述 し, そこ に 規 則 性,法則
性 を 定 立 し,自
然 を解
釈す
るこ とにあるといえ る。K
・
レー
ヴィ ッ トに よ れ ば,
、
わ れわれは こ のよ うな自然 観 を前 提にして, 「学 問 を 数 学 的 自然 科 学と歴 史 的 精神
科 学,ロ
ロ
.
’
コ
す
な わ ち自
然 と精神
の二部
門に区
別す
る」(3) という伝統
の中
にい るのであり,ま た その限 りで, わ れ わ れの 自然理解が 「自然 的コ ス モスそれ 自体 がロ ゴス を 持つ と考 え たギ リシ ア の自
然 学者
達」ω の 自然 理 解と は異なっ て い るの である。
レー
ヴィ ッ トの ように世
界を 「自
然の世 界 」(
Die
Welt
der
Natur
)・
と 人間の 「歴史的
世界 」.
’
(geschichtliche
Welt
) に二分
するにせ よ, ま たカン 下がそう と ら
.
え たように,
・
現
象を法
則性
の見 地が
ら見 る場合
と,
・
現象
をそ の全 体 性,総体
性の見
地か らと らえ る場合
とに,’
っま
り 「自
然 と世 界」・
に分け て考
えるにせ よ(5 ), こ こ で自 然 が 現 象の因 果 性,
すなわ ち 自然 必 然 性の カ テゴ リー
に包 括 され ると考え られ るのは当
然であろう。 そじ
て こ の よう な見
方 にた てば,自
然 必 然性
は人 間の自
然 認識
に基づ くのであ る か ら, 結 局, 自然 は 「主観
」馳
によっ て構 成 され る と も考え ら れ るで あ ろ56
’
/
以 上二 う め
代表
的な自然
理解
に対
して,
プロ ッ ホが考
え ている, 「物 質 」 との 関 連 でい わ れる自
然と は如何
な る関係
に立っ のか。 また そもそ もプロ ッ ホ にとっ て 「物質
」 とは何 で あり何 を意 味 するのか。 そ れ はまた, われわ れの自然理解にどの ような新
たな 意 味 をつ け加
えう
るのか。 これ
らの問
い に答 え るべぐ
,筆者
はプ
ロ ッ.
ホ の自然概念 を検討
した。 そ こで まず プロ ッ ホの人 間観
の中か ら 「人 間 的肩
然」を,次
いで 後半で は 「物 質 」 を主題 と して人 聞の外にあ る自 然につ いて 考察
し た。 矼こ こ で 「
人
間
的 自然 」 (皿 en』
chlicheNatur
) とい うこと ばで意 味 され・
るφ
は 「人 間的 性 質 」, あるいは
厂人 間 的 本 性 」の ことであ るc6)。 そ れゆえ 「人 間的自然
」 どいうテ ニ 々で筆
者
が問 題にす
るの は,』
1
いわゆ る経験的
心理学におい て , あるい は,
い わゆ
る・
「心 身 問 題 」 ど してと
りあげ
られる哲
学 的特殊
テ7
マ では ない。 プロ ッ*.
の人 間観
もこれ らの問
題と全’
く無 縁で は ないけ れども,プ
ロ ッ ホの人間解
釈の特徴
は入 間を一
個の 独 立 した ,’
全 体 性 を もっ た存 在 と して と らえ,
この独 立 的,
全体
的存在,
即ち 「自
我」(lch
)
’
を 「生 成」(Wer
−
den
)
という過程
に 治いて考察す
る点
にあると考 え られ る。 そこ でプロ ッ ホの自我
の運 動,
活 動, 生成
において
「人 聞的
自然 」 をテー
マ にする とき , 筆者
に は 二っ の方向か
ら接近す
る こ と がで き る ように 思 わ れ た。 その一
つ は, フロ イ’
トの精 神 分 析 か らプロ ッ ホ の 人間 観Hokuriku University
NII-Electronic Library Service Hokuriku University 『ブ百 ッホの自然 概 念 』
3
に流れ 込 ん だ,・
「衝 動 」 (Trieb
)に そ の始原
を もっ 「自我
」の運動,
「自我
」の 活 動の方 向 である。
フロ イ トによっ て 「衝動
」が 有 機体
的
,
無 意 識 的 生 命体
の根源的
な原動力
とみ な さ れて い る ように, ブp ・
ッ ホ の自我 も衝 動 によ.
っ で駆 りたて ちれる。 フ ロ イ ト で は衝 動の背 後に自我
の根
源 的エ ネル ギT
と し ての リビ ドー
(Libido
)が仮定
さ醜
てい る が,
プロ ッ ホ の自衆
の運 動 は 「飢
え 」 (Hunger
) に その端 を 発 す る。 そ して自我
の運 動 は; 「飢 え 」.
か ら 「衝動
亅, 感 情 や表象
と結
びついて 「情動
」(
Affekt
)
,
「期待情動
」 (Erwartungsaffekt
)へ ,さ らに意
識
作用 と結 びつ い て 「未 意 識」(Noch
−
Nicht
− BewuBtsein
)へ と通
ず る。 さ らに広範
な意
識活
動の領域
に おいて は, 「自我
」の意識的活動
は 「ユ ・一
一
トピア」(
Utopie
)
や希 望 (Hoffnung
)・
と して現
われる。 わ れわれ はこ のよ う なプロ ッ ホの 自我の運動
, 生成の系
列を 「人間 的 自然」の主体
性の系
列と呼んで お く。
それ故
vt こ のよ’
う な一
連の自
我の主体
性
め契機
に注目す
ると き, プロ ッ ホは一
方で唯物論
者と
言わ
れなが ら も ,他 方で 「主体的
」 (subj βktiv
)な ものを強
調 する哲学者
で あ る と言え よう。しか しなが ら, プロ ッ ホの自我の 運
軌
生 成にとっ て不 可 欠 なの は, 自 我 と か か わ る 「相 関概
念 」 (Korrelat
)の系
列で あ る。 い いか え れ ばプロ ッ ホの 自我の生成
も, こ の 「相関
概 念 」 (Korrelat
)に よっ て 媒 介されなけ れげ
意味
をな さ ない 。 プロ ヅ ホ に よ っ て 「内 部と外 部」 (lnnen− AuBen
)「主体と客 体」 (Subjekt− Objekt
)「人 間と世界」, 「人 間 と 自然」 と して表わさ れる相
関的
関
係,媒介的
関 係 は,.
それゆえ
「人 間 的 自然 」L
の 理 解にとっ r て も重 要 な方 法的
概 念であるといえ よ う。 そ して一
こ の関 係 概 念 をプ
ロ ッホ はヘー
ゲ2V, 及びマ ル クスか ら引 き継いでい る と思
われ
る が一
こ の 「相関
性」 は自 我の運 動,・
生房
〜に とっ ての反省 的 契機
を意味す
ると考
えち
れるので
あ る。な
ぜな 残 プロ ッ ホの 「自我
」は その都 度 の契 機に おいて, 自我 以 外の ・ものとの r もちう
んこ の場
合, 自我 以 外の ものと は 「他 我」で あっ て もか ま わない のだ がワ 「柑 互作
用 」 (W
白
chselwirkung ), 「媒 介作
甬
j
(▽er叫ittel
四g
>
におい て働
くfO
}らで ある。1
.
、.
ここで 直ち に
次
のよ う な問
題が生
じて来
る。 そ れな らばこれ ら双方の系
列は自
我の運
動
に おいて どの よ・
うに関係 して い る の かと。.
また, わ れ わ れは一見無
関
係
に 思わ れ るこれ ら 二つ の契機
を,
メどの ような自
我の面
面
において相関的
にと らえ うるのか と。 そこでま貮
も
.
ねれ
わ れ はブ
ロ ッ ホの 「直 観 と 活 動 」 とい.
う毒
題 を もっ.
たマル クス の.
フォ イエ ル バ ッ ハ・
.
テ厂 ゼ 〔五ン
と〔
一
〕につ いての言
及 を見てみ よ う。 (7)フォ イエルベッ ハ・
テニゼ は 以下
の ように述べ られる 。・
’
の
コ
・
.
.
ド 〔五〕フ ォ イ , m ル バ ッハ は ,
抽象
的な 思考 (abstraktes
Denhen
)には満足
せず, 感.
.
コ
.
ノ
性 的 直 観 (sinn
’
liche
Anschauung
).
を欲 する
。 し カi
しかれは感 性 (Snnlichkeit
)を 実践的
な (praktisch
), 入 間的 ・
感性 的
な活動
(menschliche sinnlicheT
御
gkeit
) と して は とらえ ない。
〔r 〕
.
い :ま までのす
べ て の唯 物 論 (フォイ
エ ルバ ッハ の も含
めて)の挙
もな欠陥
は,ロ
コ
コ
■
ロ
コ
封
象,.
現実,
.感
性
が
ただ客
体 また は直
観の形式 ・
(
Form
des
』
Objehts
・
oderder
An
−
■
ロ
ロ
■
■
iSehαuung )
、
の も とに のみと ら えられ て, 人 間 的な感 性的
活 動 (mertsahliche sinnLiche■
ロ
・
卿
‘‘g
ゐ臨 ),
』
1実 践.
.
(PnacFis
)と して とらえ られ ず, 主 体 的 (subjektiv )に と ら え ら れ■
tt
な蜂
乙 と掩
あ る。、
従っ て活動
的な側 面は (謠渉‘g
θSeite
)は, 唯物
論
とは反対
に抽
象 的9
N工 工一
Eleotronio Library4
三 国 千 秋.
に観 念 論一
これはも ちろ ん現実的
な, 感 性的
な 活動
をそ の ものと して は しらない 。一
に よ っ て 展開されだ。 フ ォイエ ルバ’
・
Yハ は 感 性 的 な一
思 想 客 体 か ら現実的IC
区 別され た 客 体 を 欲 する。 しか しか れは人間的
活動
そのも
のを対象
的 活動
.
(8
θg
飢 8孟伽一
dliche
Ta
’tigkeit
・
)’
と しては.
と らえ ない。
だ か らか れは 『キ リス ト教
の本質
』の中で理 論 的 な 態 度 だげ を真
に人 間 的な もの と み な し,
これ に たい して 実 践 は た だその き たな らしい ユ ダ ヤ的な現 象 形 態におい て のみ と らえ られ ,固
定 される。従
っ て か れ はr
革
命 的 な』, 『実践的
・批 判 的な 』活動
の意義
をっ か ま ない。
プロ ッ ホは 「
直観
と活動
」の箇所
で,
こ のよ う なフ ォ イ’
エル バ ッ ハ・
テー
ゼ に関
して, ほ と ん ど一
語一
句 対 応さ せ る仕 方で次
の ように述べ て い る。ここ に おい て, た とえ 思考 する場 合
ic
も, た だ 感性
的な ものか らのみ出発 しうる と い うこ とが承 認され る。直観
はあ らゆる唯 物論的
認識
が自
己 を 証明す
る始ま
りであ り, またあ り続
サ
,直観
か ら抽象
さ れ た響
念が始
まりでは ない 。……
フォ イェ ル バ ッ ハ は 頭だ けの存在
には 「満
足 し ない 」。
彼
は直観
された大堆
に立 っ た足 を 欲す
る。 しか し, テー
ゼ 〔五 〕 は, その 際 と りわ け 〔一
〕 も同時
に そうで あ るが , フォイ 土ル バ ッ ハ がの
それ だ けしか 知 らない観 照 的な感
性
(b
’
ethachtenderSinnlichkeit
)
で は , との足 は ま だ 歩 くこ と も 出来 ず, 大 地 自身は歩
がれ得
ないものであるこ とを明
ら か に して い る。 メ そのよ う に直
観 してい る人 は,
ま た全く 運動 を 試 みな
い し,
彼は快 適な享
受の状 態に留
っ て いる。 それゆえテー
ゼ 〔五 〕 は, たんなる直 観 は 「感性
を, 実 践 的な活
動と して,入
間的
・ 感性
的な活動
と して は とらえ ない 。」と教
えて い る。 そして テーff
C
−
〕 は, これ までの総
ての 唯物論
を 批判
して次
の ように言
う。 即 ち そこ で は直
観は ただ 「客 体の 形 式の もとで」の み とらえ られ,「
人 間 的・
感佐
的 活 動,
即ち実 践’
と して,
と らえず
, 主体的
に とらえ ない6
」そ こか ら次
の よ うな結 果 が生
じた。、
活 動 的な側 面は, 唯 物 論 とは反対
}ご 「観 念論
に よっ て発 展 させ ら れ た。一
しか した だ抽 象的
にな さ れ た にす
ぎ ない。 なぜな ら, 観念論
は当然
な が ら,現
実 的,
1
感性
的な活動
その ものを知 らない か らであ る。」活動
しない観 察に代
っ て一
そこか らフ ォ イエ ルバ ウハ の も含 め て. これ まで総て の唯 物 論が抜
けでなかっだ
のだが一
人 間 的 活 勳とい う要 因 が 現 わ れ た。 そ し て. この こ とは感性
的 な, それ ゆえ,啅
撞
的
な, 基礎
と なり端緒
と な る知識
の内部
におい ては認識
と して の感 性, 認識の現 実 的基
礎と して の感 性は1
決 しtt
》観、
照 的な《 直 観 (》konte
皿plative
《Anschauung
)と は同じもの では な い1
齟
とい うこ とである
。
(以
下略
)(8>こ こ で プロ ッ ホはマ ル クスと 全 く同 様に, 認 識におい て感 性 的 な ものを 重 視 する立 場に
立
っ て い る。 しか も, ここでは感性
や直 観 は そ れ 自体
で独立
し, 固定
した抽象
的な形 式 と して ではなく 「感 性 的 活 動 」 と して理 解さ
れねぼ
ならない こと を強
調す
る。 では こ の 「感憐
的 活動
」 というこ との うち に は何が潜
ん で い る か。 わ れ わ れ はそれを,「主体的
」(subjek−
tiv
)である とい うこと と考え る。 だ か ら 「感性的活
動 」がf
観 照 的直
観 」か ら区別される の は 「主体的
」(
subjektiv)
で あることによ っ て で な くては な らない 。「
直 観
さ れた大
地Hokuriku University
NII-Electronic Library Service Hokuriku University 『プロ ツ ボの 自然概
愈
』5
に立5
た足
」 とは
それ ゆ え 「大
地の上 を歩
く足
」でな くては な らない。 ところで,厂感性的
活 動 」は 「主俸
性 ∫ を前提
にし てい るとす
れ ば,で は 「主体
的」活 動
と は何か。 それ は 「自発
的」活動
として, それ自
身の 中に原因
を 持つ 活動
で な くて はな らないであろう。 こうし て, プロ ッ ホ’
の 「自
我 」の運動 におい ては, そ れ が 「衝 動 」・
とい う形 態 をと るもの であれ, また 「意識
」 と結
びつ い た段 階め ものであれ,
「自我」の 内に 内 在 的 原 因 が 求め られる こ と になるのであるb
’
「
:’
.
ししか しな がら
他
方で,.
こ の 「自我」 の運 動は自
己完
結 的なものと見な されるべ きで はな い。 こ こ では始 めと終
りのみな らず
,.
そ の 途中
が大切
なの である。 「自我
」 の運動
, 活動
は 「た だ客体
の形
式で のみ」 と らえ られ るのではない。 とい うのも
こ のよ うな形 式ぽ
, そ れ が唯物
論 的であれ,観
念論 的であ れ}「観
照的直
観」 にの み ふ さわ しい ので あ る か ら。 そ’
’
サ
ロ
ロ
■
コ
のコ
■■
ロ して こ の ような直
観.
に は 「労
働’
というたえ ずゆれ 動 く主 体一
客 体 関 係 がぬけて い る」(g) ので あ る。 だ か ら 「人閤
的一
感 性的
活動
」を 重視
しだマ ル クス は; 乙 の ことを 見抜
いて.
の t テー
ゼ 〔一
〕で い う。入
間 的 活 動 と檍 「対 象 的 活動
」で ある と。 そ れゆえ, プロ ッ ホの 「自
我」・
の運 動 もそれ が 人 間 的活
動 とい う側 面で み られ る限 り対
象によ っ て媒
介 されて い るロ
サ
,
「対象的活動
」であ る ど考
えられ
:る。プロ ッ ホ は人 間を 「相 当に肥 大 した衝
動
体1
(、D)(ziemlich umftUigli6hes [hriebwesen
) と呼んで い る。.
こ の 「相当
に肥
大 した」・
という 表現
に は注 釈炉
要
る。 とい うの もこ くで既 に プロ ッ ホ はフ ロ イ ト と は異な’
る衝 動 論 を 展 開 して いる か らで あ る。 フロイトの 「衝 動 」,
つ まり 「性衝
動
」,
「識
衝
動
,・
「死 め鬮
」 の・
うちで はP
瞼
動」 が最 も躰的
な もので モ ある’
。 「性
衝 動 」は快 を 求め不 快 を避 け るという.
「快 楽 原 則 」と結
びつ いて自
己の 衝 動 を 充 足す
る。 こ の こと か ら して 「性 衝動」1
はフ ロ・
イ トに よっ てあ らゆ る生 命 的 活 動の基 礎 とな るのである
。ft
’
か らフロ イ トは 「衝動
」を定義
して次のよ うに述
べ る。 「衝
動と
は生命
あ る有
機体
に内
在 する衝迫であっ て , 以 前のあ る状 態を回傷
し ようとする もの であ る」(11)’
と’
。 こ こ で’
「以前の状 態 」 と は,・
かっ て性 的 対 象 と共にあっ た 時の状 態一
フ ロ イ ト}とよ れ ば母 親の胎 内 と か幼 児期
等一
を意味す
る。』
し か も,
フロ・
イ トは,
こ の 「衝動
ゴの背
後に
1
「リビドー
」 (Libido
) とし}
う衝
動エ ネル ギー
を 仮 定 し,』
さ らにま たリビ ドr は 「一
ま.
だ計
量 しがたい も
のである が一
量
的 な大
きさを持
っ衝
動
エ ネル ギ臼
(12) と して考
えち
れてい たのである。 こケ して 「フロ イ トはいつ も;意識
とか精
神
作 用 とい っ た 変化す
る 諸 現象
を変 化 しない 諸本能
か ら,……
変 化 しない生物
学 的 環 境 か ら, 演 繹 する とい うディ レ ンマ に直
面 してい た。」(13) の である。とれ
に対して,・
ブn tyホ の』
「相当
に肥 大 した衝
動体
」の活動
はフii
イ ト におけるそれ と は全 く正 反 対の方 向 か ら解 釈される。ー
つ ま りフ 白 イ トでは 意 識作
用’
t 内 容 は丁性 衝 動 」,
1り・
ビ・
ド」 へ と還 元 され
るのに対 して, プロ ッ ホの・
こ の 「衝 動 」 は感 情 と結 びつ い て 「情 動 (Affekf
)・
.
に,表 象 や意 識作
用, 観 念 と結 びつ い て 「願
望 」 (W
獅
schen ), 「白
日夢
」 (Tag
−
trapm
), 「ユー
トピア 」 (Utopie
)に
発
展 し うるし, それ らは ま た対 象 との関
係で 「先取
りず
る意
識
」 (Das
興tizi
かier
むndeBe
曽鴣
偽eih) ど して 様々 の形 態で現 実化
するか らであ る。射
箔 塘朴が 「リビド
’一
」 を先
験的
に措
定 した
のに 対 して , プロ ッ ホは・
「
衝動
の生ず
る原茵
を自
戮
首
身
に内
在化 さ
せ る。 つ ま り, 「衝動
」 は自我
めf
飢
え」(
甘
unger );「欠 乏 」(
M
宜
ル鸛
魁脚
非蕨
脊
丘
’
(Nicht− Habeh
)に起
因ず
ると
み なき
れ るゐ
こ の ようなわけで ブ 血ッ ホ が11
N工 工一
Eleotronio Library6
三 国 千 秋 「衝動
」1
をまず 第 rl こ身 体 的 段贈
か ら始めて い るこ とは当 然 といえ る。 な ぜ なら,痛みや 空 腹におい て は身体
は 「衝動
」 に先 行 してい るので あっ て,
そこ では「身体
が衝動
を担いダ 感 知 し,衝
動の充 足に よっ て不快
感 を解 消 する」(14) の である。 プロ,
ッ ホ は 「自 己保 存の衝 動 」 を, 唯一
で!
ま ない と 断っ’
た 上で , 最 も信 頼に足る基 本 的な 「衝 動 」 とみ な して い る が, c15> こ こで も くの「
衝動
」は固定
的な もの と み な さ れ て は な らない で あ ろ う。 とい うの も 「相当
に肥 大 し た衝 動 体 」 と しての人 間は
「大 概の動 物 的 衝 動 を保持
す るの みならず,新
た な衝 動を作
り出す
」 か らで あり 「身体
ばか りで は なく,自
我 も刺 激に反応 しやすい」.
か らである。
即 ち, 「意識
作 用 を持
っ 人間
は最 も満足
させに くい動物
」 なの である。フ 卩イ トは衝 動の充 足を考え る際に その対 象との 関
係
におい て 「快 楽 原 則 」と並んで 「現 実 原 則 」 を と り入 れた。 フ ロ イ ト によれ ば 「現 実 原 則 」と
は 「最 終 的には快 感 を 獲 得 する 意図
を 放棄す
るこ とは ない けれど も, 満 足を 延期
し,満
足
の様
々な可能匿
を 断 念 し,
長い 迂 路 をへ て快 感に達 するそ の途 中の不峡
を一
時 封受 するこ とを, うな が し,
強い る」(1T)原則
である。だ
がわ れ わ れの見方
からす れば
, この よう
な原則
が実際
に適 用されるのは,例
1 え ば幼 児の 世 界の ような非 常に限 られた, 狭い範 囲におい て で あっ て,
現実には事 態 はよ りいっ そ う複雑
で ある。 実はこう し たフ ロ イ辱
の、
「現実原
則」 は,例
えば精 神
分析
的 治 療 の場 合の ように, 患 者 を と りま く環 境 的 世界
を 固 定化
して とらえること,・
ま た 実 際の人 間的
活動
を一
面
的にとら え る ことか ら生 じたも
の であっ て, 環境
も意
識 も全。〈平板
な ものと なっ て しま う。 し か しなが ら, わ れ わ れが
,、
環 境おcl び意識につ いて語ると き, その源 泉 と は何 か。 ク リス.
トフ ァ’
r ・コー
ドウ手ルほ
意識
の成
立につ い て次
のよ うに語っ てい る。 q8)意 識は
自
己意 識と して , 環 境か らの分 離と しては じ まるが, しか しこれ だ けで は 意 識は確 立 しない。 自 己意 識 は,
ある意 味で は環 境に対 立 し,
単に本 能 的な もの である。自
己意識
が現実
を “他者性
、 を意識す
る よ うになる の は, それ が 環境
に帰
り, 経 験にア
よっ て環境
をそれ 自 身の上に印
象づけ る と きである。 そ してこれ ら は社会
的な過 程な ,
ので あ る。 幼 児は周 囲
の ものに興味
を持
っ こと に よっ て, また能動
的経
験 (activ ex−
perience ) か らそれ ら を学 習 することに よ っ て 意 識的
な人 間に成 長 す る。 幼 児 が こ の ような意識
的 成長
を と げ るのは言 語と社 会的
活 動 を 通 して であるか ら,、
現 実にっ い て のか瓶
の経
験は一
っ の共
通の知覚的
世 界のもっ きわ めて複雑
な現実
にっ い て の経験
で ある。 (18)コ
ー
ドウ.
= ル に従 うな らば, 現 実 も意識
もこれ らはみな人
間の社会
的 経 験の産物
である と考
え られ る。 そ れゆえ衝動
の対象 も
意識
作 用 も歴史
に おいて形成
され て来
た と考
え られ る。’
従
っ て ,71
ロ ッホが 次φ
よ うに衝 動 も,
その担い手 も, 固 定 的で な く,変
化 する と述 べ ている こ と はコー
ド ウェ、
ル の考え
方 と全 く同
一
の軌 道 上にある と言 わ ざるを 得ない 。衝 動が固定的で なく
変
化 するのと同
様, その 担い手 も変化す
る。
いれ
ば発
端
に おい て万
事恒久的
に決定
され た よ うな もの は何 もない の で あっ て, 他ならぬわ れ わ れ自
体 が わ れわれに とっ ての所与
と はいえ ない。 もろも ろの情 熱に歴 史 的 変 遷 が 存 在 し,新
しい 目標 を もっ た新
しい情 熱 が 発 生 す る一
方で は, それ を煮っめ る主体
の炉
も変化
すHokuriku University
NII-Electronic Library Service Hokurlku Unlverslty 『プロ ッホの 自然概 念』
7
る。 ひとつ の 「根 源的
」衝
動 が 存 在す
るのでも な け れ ば, H 人の 「原 人 」 或いは 「人 祖アダム」が存在
するわ けで もない 。 固 定 的な衝 動 研 究とい う意 味で の「人 間の本 性 」 と称 す る ものは, 既 往の歴 史におい て何 百 回 とな く育 ま れ 且っ破 産 したのである。dg
)われ わ れ は さ ら に進ん で プロ ッホの
,
rtw
動
」 に はさ らに二つ の根本
的 動 向が働い てい る ことを指
摘 したい。 プロ ッ ホの 「衝動
」 観に丁
飢 え 」が強 く働
い て い るこ と はすで に明 ら1
かIC
し た通りで あ る。 ア ン トン・F ・
ク リス チャ ンは プロ ッ ホの 「飢え 」の概 念を多義的
で あ るとした 上で その二重 的牲格
を 指 摘 して い るが, それは対 象との関係
でい わ れ る もの で ある。 即 ち 「《飢
え》は一
方で一
定の対
象に関
係づ け られて不満
,欠
乏の同
義 語 とし
て , 他 方, 衝迫,
期 待の同義 語と して語 られる。」(20).
こ こ で 「衝 迫 」 (Drang
)と は 「全 く漠 然 と し た無 規定の ものと して, 感 じられ る」(2n 自我の内部か ら外部
へ という運動
の性向
を意味
する。 しかし な が ら肝 要なのは次
の点で あ る。 プロ ッ ホの 「衝動
」に おい て は 二っ の根
本的
動向
が あるとい うこと, つ まり,衝動
に は囚
一
方
で その対象
が は じめから確定
さ れ たも
の と して, あ るいは比較的
近く
にあ
る こと か ら, こ の対象
に強
く関係
づ け られている場合
(欠乏,
不 満 )と, {B } 他 方で対 象が何であるかその内容
は 明 らかでな く,
あ るい は対 象の獲 得には他
の多
くの媒体
を必要
とす
るとい う意 味で, こ の対
象に弱 く関係
づ けられて お り, ま た と きに は現存す
る諸対象
を は る かに超
え る ような衝動
があるとい うこ とで ある。 (衝 迫, 期 待 )そ して こ
op
よ う、
な二つ の衝動 ρ
動 向は,意識
作用 が強く関
わ り,感 じ られ たもの や,表象
.
か ら自
発的
に生 ずる衝動
の際
に は,特
に明確
に区 別さ れ ねばな らない。 プロ ッ ホは 「感 じ られ た もの」か ら自 発 的に生ま
れる 「情 動 」を 「満 允 さ れた情 動」(gefif1
正七eAffekte)嫉妬
,貪欲
, 畏怖等
と, 「期待情
動 」,
/
(ErWartun ’
gs・
rAffekte )一
不 安, 恐 怖, 希 望, 信 仰に区 別 して いる が, こ の区
別はわ
れ わ れが示した 「衝動
」の二つ の根本
動向
に対
応す
るもので あ ると考 え られる。 っ ま り 「満 た さ れ た 情 動」
において はその 「衝
動 志 向は近視
眼的
であ り, その衝動対象
が既に現存
してい るのに
対 し 「期
待 情 動 」では 「衝
動 憲 向 が 広い視 野 を もち,個
人的到
達範
囲のみ な らず手
近 な 世界
に も存
在 しない」(23)の で あ る。 で は この 「期 待 情動
」の中
にあっ て、
「朱
だ 意 識されない」 対 象にわ れ わ れ を 関 係づけ る もの は何 か?プロ
.
ッホ は それ を 「期待
情 動」の中に含 まれ る 「先取的
性質
」(antizipierenderCharakter
)
で あ る と考
え る。 そ れゆえ プロ ッ ホは次
の ように言 う。「
期
待情
動 は その ように拒 否 問 題 と しても願 望として も満
た さ れ た情動
と異なるの で あ るが, そ れ は期待情動
の 志向
; 内実,対象
のも
っ 比較
にな らぬほ ど遥 かに大
きな先取的性
質
によ るの で ある 。」
(24)と。k
ブ覃 鱗 ホ は この 「先 取 的 性 質 」.
を 「期待
情 動1
の みな らず
「期待
表 像 」 (ErwartungS −
vopstellu )
舶
’
日夢 」 (Tagtraum
)(25)r
ユー
トピァ 」 (Utopie
)及 び 様々の 芸術作品
な どに諍哄 通 塗 る もの と して見い出す
’
。 プロ ッ ホによ れ ば, これ らは みな,朱来
にか かわり,既
成
の む ので はな
騨 という限 り
で 「未
だ意識さ れ ざ るも
の」 (Noch −Nicht − BewuBte
’
s>及び13
8
.
三 国 千 秋「
未
ギ
成 ら ざるもの」 (Das
Noch’
−
Nicht
−
Gewordene
)を
先 取 りし ている と言 わ れる。 そして この 「
先
取 的性
質 」が豊 か に,馳
具 体的
に働い て い る時,』
これ らの中
で 「ユー
トピ ア的 機能
」 が 働い て いると言
わ れる。1
,
今 やこ の
章
の最 後
と
し てプロ ッ ホの 「Z一
トピア」 概 念 を 論 ずる所
まで達し た。 プロ ッ ホの 「ユ L 下ピ ア」 を 論 ず る際, プロ ッホ が 到 る所
で述べ てい る ように, こ こでまず
ユー
トピ ア と はそ の機
能 に
おい て 理 解 され ね ば な らない ことに注
意 しよ う。’
そ して ま た; 「・
ユー・
ト「
ピ ア的 機 能 」 (Utopische
Funktion
) と は未 来に向けられて し丶るもので あっ て こ の場
合ユー
ト ピ ア的
な意識
が 過去
に おいて か っ てあっ たもの, ま た既
存の もの に 甘んず るの ではな く, 「未
だ 意識さ れざる もの」「未
だ 成 ちざるもの」 にか かわるとい うこと が前
提 に されな ければ ならない。 こ の こ と はまた,
; 見 するとK ・
マ ンハ イム が , 「ユー
トピ ァ的
意 識 」 (Das
utopischeBewuB
七sein)を,一
般的
に は 「存 在と一
致
し ない」 (mitdem
_
Sei
・
n nichtim
Deckung
),.
「現 実と かけ 離 れ だ 」・
(wirklichkeitsfre 皿d
) ものと して ,’
厳 密 には 「現 実 を 超 越 した 」 (wirklichkeitstranszendent ) 意識
と して規
定 してい る こと (26) と相 通 ずる よ うに見え るか もし れな い。 こ こ で 「存 在」(Sein
)や 「現実」 を如 何な る もの とみな す か は さ しあ
たり未決
の まま・
に して おいて 良いで
あ
ろ う。 一
マ ジィ丶イム は饗
れ を』
「存在
一
般 」 (Sein
liberhaupt
)で
は な く』
て』
「具 体 的に通 用 してい る生 活 秩 序 」1
あるい は 「実 際に作
用 して い る生 活 秩 序 」 と呼ん でい るがいずれにして も彼に よれ ばそ れ ら は 「社会学的
」に規定
されるも
の で あるとい わ れる。 (2T)L それに比して, わ れ わ れ が, こ こ で問 x 題に しなけ れ ばならない のは,
第一
にマ ンハ イ ムが , 「一
致 しない」とか 「か け離れ た 」 と か, 「超 越 した」と呼ん でいる「ユー
トピ ア的
意識
」の あり様
につ いて で あり
,第
二 に 「ユ/
一.
トピア 的意識 」が果た して現 実の世界
お よ びわ れ わ れの意 識と如 何な る関係に
あるのか, 具体 的には わ れ わ れの 現実の活動や 行 動に如何
に関わ るの か とい う点であ る。 だ が,マ ンハ イム億 この 点につ いて は何 も答
えて は くれ ない。 というの も彼 はユー
トピアの成
立 を結
果ア
か ら判
断 して,
専 ら過去に あっ た諸々のユー
トピ ア の み を聞
趨
に して い るか らで あ る。 こ う してユ 「 ト ピ アは彼
によれば
「それ が絶対
に実現
しないとい うごとが証明
さ れた裹象
と し ての」「絶 対 的ユー
トピ ア」と それが 「適 当に現 実 化 した もの」と しての 「相 対 的ユー
ト ち’
,
ピTJ
に区 別 さ れる。 (28) そ れ だ か ら, マ ン ハ イム にどっ ては どのようにして 「ユ L トピ ア的
憩
識
」が 生 じ, 成 立す
る か, ま たそれが われわ れと如
何 なる関 係を もつ の か とい うこ と・
は 「ユー
トピ ア的 問 題」
の 中にはな く,
こ のような問題 性 は 「社 会 学 的な問 題 」.
へ と移 行 させ られる。
だ が, 果 して, 「ユー
トピ ア的
意識
」・
のあり様
は , そのよ う に〆
わ れ わ れの 行 動 との関 わ りか ら切
り離ざ
れるの であ
ろ うか。・
』 1
・
….
・
プロ ッ ホ に よっ て 「
未
だ意識
され
ざ るもの」 「未
だ成
ら ざる もの」ど して語 られ る際
の このr
「
未 だ……
ない」 (noch−
nicht−
sein )・
と し・う述語
は一
個の存 在 様 相のカ テゴ.
リ山 を衷 わす
とみなされる であろう。1 一
もちろんこのよ う な カ テゴ』
リー
を認める か否
か は別と し て1
・
一
とこ ろで, こ の 「未 だ・
扁・
ない 」 とい う存 在 様 相の カ テゴ リー
は , ハ ン’
ス・
ハ イ ン ッ・
ホル ツに よっ て以下
のよ うに解
説
されて い る。 つ ま り,:「》A
は朱
だ非
A
で ある《 (A
noch =Nieht一A
),
こ の矛 盾は……存在
に とっ で の構成
的な もの と じて 承認 さ.
れ る。」「
〔2g> つ ま り, わ れ・
わ れはホル ツ と共に次の よ うに言い う る。』
こ こ でA
と はA
どい う存 在の全て.
の規定性
を含
む 「総体
」 (lnbegriff
)
・
と しての〔
A
〕
とみな される。 が現実
に は こ の ような、
Hokuriku University
NII-Electronic Library Service Hokuriku University
『プロ ッホの自然 概 念』
191
ものは どこにもな い。
.
よっ てわ れ われは絶 え ずこ の矛盾
に導かれて 〔A
〕 とい う存在
に近づ こう とする。 ま た [
A
は非A
で ある, とい う矛
盾 した命
題を導
入す
ることは実 在的範例
(
die
realenExempler
)に よっ て は満
足さ れない〔A
〕とい う規範的
理 念 (eine normativeIdee
)を 含 意 する」。 要 約 す れ ば 「未 だ・
…・
・
ない」とい う存在
様相
の カテ ゴ リー
は その内在
す
る矛
盾を か か え な が ら も,一
方
で 認 識に おける構成的
原理 を, 他 方で行為
,行動
を規制
する規制
的 原理を形成
することがで き るよ うに思 われる。.
わ れわれ
はプロ ッ ホの 「ユー
トご
ア的機
能 」に戻っ て み よう。 プロ ッ ホの 「ユー
ト ピア的 機能〕
とは 単な る 「希 望 的 観 沮唄
の中
で生
きるもので はない。 それ は 単な る主観 的 願 望や空 虚な先
取 的 内 容 を もっ たユー
.
ト ピア とaa
.
区 別 される。 それ らは.
「抽象的
に夢
想す
る 」(das
abs 七r.
akteUtopiesieren
)ことで あ ろ う、か ら。
.
こ こ におい てはγ 先取
りさ れ た内容
は 「まだまった く何の確 固 とし た主体
もな く, 実 在 的 な 可 能性
に対す
る関係
もない6」iC31
」従
っ.
て, プロ ッ ホ にとっ て豊
か
な先
取 的 性質
をもっ た 「ユー
ト ピ ア 的機能
」 どは 「現在
ある もの か ら 勝 手 に こ し らえ あ げ た,
だ けのもの (石の海,黄
金の山
な どでは な く)
現在
あ るも
の の未来
の ほかの 可能性
」 よ り 良い 可能性
と して ,先
取 りし な が ら押
し進め る」(32)もの で ある。
これ がユー
トピ ア的機
能の 主 体 的 要 因で ある。.
ざらに,
’
これは ま た.
「現
実の傾 向に精 通し,
傾 向が組み込まれて い る客 観 的, 実 在 的 可 能性
に精
通 し……
朱 来 を 含ん だ 性覃
に精 通 してい る 」.
(33)て と を 必要 と
する。 そ して これが
ユー
ト.
ピ ア的機能
に お ける客体
的要
因であ
る。、
これ ら双方
の要 因 につ いて は』
「主体的
なもの島
客体的
なも
のも・
・…・
た えざる相互作 用φ中
で理 解されねばな らず,分
け るこ とので き、
ないもの ,離す
こ・
との で きない ものなの で ある。.
叔
34) といわれ る。結論
と して, 豊か な先
取 的性質
をそ
な斥
た:.
「
期
待表象
」とし
て.
「ユー
トピア」 と 「具体
.
性 」が今や結 合 す る、 こ こ.
にr 見逆
接 的ではあ
るが, プロ ッ ホの 「具 体的
なユ L トピ ア」 (konkr
脚Utbpie
) とい う概
念が生
まれるの で ある
δ..
皿以下におい て は, 人 間の
外
にあ る・
自然
が問
題と な る。 ア ル フ.
レ ッ ド・
シ彑 ミッ トほ
彼のみ
r
マ ノレクス の自
然概
念』に
おいて プロ ッ ホの 「自然
」につ い て の問
題提出
を次
の よ うに定式
化して い るDttt・
・
、
’
・,
マ ル クス文 献 のなか で はt
.
プロ ッ ホ の希
望の哲
学 が,、
総 じて若 きマ ル クス と初
殫
社
会
主義
に よっ て提出
さ れ た課題,
つ まり
理性
的社
会の諸条件
の もとで の,
ほかならぬ人 間の外な る自然 ¢)「
復
活 」.
(ReSurrektiQb)
の課 題に最 も集中
的にとり
くん でい る。グ ロ ッ ホ の問題 提
起
は二っ の相 互に結 び ?いた
側面
/i
もう て い る。「
方で それは生産
、
・
における人間
の新
たな客体関係
と い う認識論的 ・
社 会学的問
題にかか
わ 転.
他方
で は ・’
.
「自
然 主体
」1
とい う形而
上学
的 な 問題 と, それに結
びつ いた客
観
的 自
然 め朱完成性及
びそ
のユー
トピ ア的非 完 結 性 の 問題≧
か かわる1
。.
,
c35) われわれ は まずシュ ミッ、
トの問 題 提 出 を次のよう1
こ言いかえ
うるだ
ろ.
う。 自然 は どのよ う1
に認識
さ れる
か?(
認識論的問
題 )。 技術
を媒介
に して人 間 は自
然 と どの ような関係 に
15
N工 工一
Eleotronio Library10
三 国千
秋入るか?(実 践 的
,
社会 学 的 問 題 )・
。プロ ッ ホの 「自然主
体
]・
とは何を意味
す
る か ?’
また な
ぜ
「自然 主体
」 はユー・
ト ピア問 題 と かかわるか?tt
今 後の議 論の
前
握
と してまず以下の こ とが確
認 ざれ て よい。プ
ロ ッ ホ は決して, そ の未
完成性
を 「客観
的自
然 」 (σbjek
七ive
Natur
)一
般}こ っ いて 言 うの で はな く, 「客 観的.
・実
在 的 」 (oblektiv 」 reaL )』
庫
然}C’
っ い て い う.
の で あ る。 さ ら にシ ュ ミッ トに よっ て形 而 上 学 的 であ るとされる「
宮然
主体
」 (Natursubjekt
)の特
徴
につ い て は, プ ロ ッ ホは
以下の よう に説 明 して い る。自 然にお ける
動
的主体
という概
念は, 実 在 的なもの (im
Realen
)一
般にお ける 未 だ 明 らかになっ て いない原
事 実1一
衝 動 (DaB
−Antrieb
)一
即 ち 最 も内在的
な物
質
的作
用 因一
の同 義 語であ「
る。 そ れ だ か ら, こ の層の うちに, っ ま り存 在 す る限 り で の物質的
に最 も内 在的
な層の うちに, 自然主体 と して特 徴づ け ら れて い る もの の真
理が存在
する。 (36)−
tt
l
プロ ッ ホはこの 「自然 主
体
」につ い て;.
他の箇 所に おいても
ま たこれ を〆
既に実在
する ものと1
して固定
的,独断
的に決
めっ」
け るのでは
な く 「仮説的
」(hypothetisch
>に:あ るものロ
■
じ ロ ロ ロ ■と
断っ てい る が,
そこ で は ま た 「固 有に本
性にがなっ た客 観 連 関のかの核、
一
動 因』
(作
用コ
’
■
ロ
ロ
因 )の 内 在 性 (ノene
Kern
−
undAg
’
ens−
lmrn
αnenti)
」 と か,∫
あるい は 「かっ て, 半 ば一
I神話
的}こいわ れ た 『能
産 的自
然』 (ぬatura naturans )」 として 表現 されて もい る。 (3T) いず
れ にレ
て も, こ こでブ 白ッ ホ が 「自
然主体
」を 「物質
」 との連関
で と らえて い るこ と は明
らかであ る。従
っ て,・
われ わ れ は 以下
で彼
の・
「物質
」 (Materie
)概
念 を検討す
るこ とに1
よっ て 「自然 主 体 」 及び 「自然 」め認 識 論 的 問 題,
及びそ の実 践 的,社
会 学 的 問 題につ い て も考察
して み よ う と思 う。r
哲
学の根本
問 題 』に関 す る 限りプロ ッ ホの「
物質
」は 以下
の三点
に要約
さ れ る が, そこ で物質
は,
囚 「運 動 」 との関係
にお いて, (B )「可能
性 」 概 念との 関係
で, さ ら に{C
}人 間と
物質
の 相互作用 に おい てと
りあげ られる。 (3B) そこ で まず〔C 湘互作
用の点
か ら話
しを始
め粒
い。われ わ れの見
方
か らす れ ば,
プロ ッホ が 「物質
」につ いて語る際
に,
人間
とのr
相
互 作「
用 」 (Wechselwirkung
), 「媒介作
用 」 (Vermittelung
) を抜
きに して論
じてい ることは ま ず殆
ど ないとい っ て よい。 従っ て, プロ ッ ホの , 人 間の 外にある「自然 」を 問 題 とす
る際にも,
その根本
的前提
とな るのは人間
と自
然の相
互 作用 とい うことであっ て,’
それゆえ科学
や 技術
に よる両 者 闇の媒 介 的 関 係 が 単に社 会 学 的 問 題に還 元されない こと はい う まで もな いd と ころで シュ ミッ トは, この関係
を 「労働
過程
に おける人問
の諸目的
と自然
に固
有
な法則
との狡智
なカ、み あわせ (listige
Venschr
五nkung 」(3gS・
と 規 定 し た後
で, 直 ちに 次のよう