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南アジア研究 第28号 002寺本 羽衣「英系インド商会の貿易と商業ネットワーク 」

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(1)南アジア研究第28号( 2016年). 英系インド商会の 貿易と商業ネットワーク ―横浜の居留地貿易の事例から ―. 寺本羽衣. 1 はじめに 本稿の目的は、1858 年から1899 年の居留地貿易中の横浜の英系イン ド商会の貿易と商業ネットワークを検証し、アジア間貿易の中で横浜の 英系インド商会が担った商業的役割を明らかにすることにある。横浜の 居留地貿易において、外国商会とりわけ英国商会が優位な地位を占めて いたことは周知の事実であり、これまで主に商業史や経済史の分野で英 1. 国商会の研究が蓄積されてきた 。しかし、チャップマンが指摘すると おり、従来の近代国家を基礎的枠組みとした統計や史料の分析において は、英国商会内の民族的多様性とそれに基づく商業網の多様性は捨象さ れざるを得ず、 「国境」を超えた独自の地縁・血縁に基づいた商業ネッ トワークを有する英系インド商会も、大英帝国臣民として必然的に「英 2. 国」商会に包含されてきた 。そのため、 「横浜の印度貿易は、殆ど全部 印度商館によって取扱はれたもので、白人及日本商社は全然之に手を染 むる事が出来ない有様であった」 [二見 1958 : 116]と言われるほどに傑 出した貿易を行っていた英系インド商会であったが、 「英国」商会との 執筆者紹介 てらもと うい●慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程 歴史社会学、南 アジア研究. ・Teramoto, U., 2011, “Representing the Indian Diaspora in Japan: A SocioCultural Survey”, MELUS-MELOW Journal, 1, pp.29-38.. 34.

(2) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 差異、貿易への参入経緯や貿易構造、内外商会との競合関係、商業ネッ トワークなど明らかでないことが多く、個別に検証の余地があるといえ よう。 これまでの先行研究では、近代以前より国境を超えてアジア諸地域で 3. 4. 5. の貿易を担っていたマールワーリー 、グジャラーティー 、シンディー 、 6. パールシー などの商業集団の中国や東南アジアでの貿易や商業ネット ワークの研究蓄積は多いものの、日本における貿易活動の検討は限られ ており、 その必要性が指摘されてきた [富永 1994 ; Markovits 2000 ; Thampi. 2005] 。また、日本、英領インド、中国、東南アジアを結ぶアジア間貿易. の主軸であった綿業関連品の貿易の担い手としての大阪・神戸における 7. インド商会の貿易活動が明らかにされてきた 一方で、それと並行して 存在した横浜居留地貿易中の英系インド商会の貿易活動については、部 分的にしか明らかになっていない。やや断片的になるが、以下に整理し たい。 まず、後年の研究論文の主な典拠である『横浜絹業輸出史』および 『横浜市史』から英系インド商会の概要を知ることができ、それによれ ば 1870 年代から次第にパールシーとシンディーが来日し、1893 年のボ ンベイ航路の開設により日清戦争前後にその数が急増して、横浜港から の対印絹物取引を寡占していった。日清戦争により「僅かに支那人に依 り行はれて居た」 [二見 1958 : 110]日印貿易から中国商会が撤退せざる を得なくなったことで、インド商会が横浜-インド間で貿易を行う余地 が形成されたことが、増加の要因である。こうした日本国内の政治的要 因と共に、Markovits[2000]はシンディー商会(シンド州のハイデラバー ドを拠点とするヒンドゥー教徒のシンディー商会)が貿易事業拡大と「オリ. エンタルな」品の供給源の確保の必要性といった社会・経済的背景によ 8. り来日したことを指摘した 。小口・田中[2000]は1903 年から1915 年 の両毛地方(桐生・足利)における仲買商・工場からの絹織物の買付取 引をまとめており、英系インド商会が居留地貿易後も絹織物貿易を継続 していたことを数量的に補足している。居留地貿易中に次第に増加した 英系インド商会は、関東大震災頃には 60あまりあり、それらはすべて絹 織物輸出業者であったが、関東大震災で横浜の貿易機構が壊滅的な打. 35.

(3) 南アジア研究第28号( 2016年). 撃をうけた結果、多くが神戸に移転し、横浜に戻ってきたのは14 商会で あった[二見 1958 : 132] 。伊藤[2011]は、震災後 1930 年代に入っても なお横浜のインド商会は中国商会と並ぶ有力商会であり、大多数がシン ディーの絹織物商であったことを明らかにしている。 こうした先行研究を補完するため、本稿では杉山・グローブ[1999] が提唱した「ネットワーク」を鍵概念として、誰により(第1項)どのよ うな経路で品物が流通したのか(第 2 項)と、それを可能にした日本国 内外の商業ネットワークがどのようなものであったか(第 3 項)を以下の 史料をもとに検討する。. 2 典拠史料と分析方法 英系インド商会の貿易活動を明らかにするため、当該時期に各年発刊 されていた英文商工録 The Japan Directory(1868 -1899)と、 日刊紙として発 行されていた『横浜貿易日報』および『横浜貿易新聞』の「横浜商況」 (1881 -1897)の2 つを主な典拠史料とし、後年の研究と横浜在住のインド. 人の手記・口述史にて補完しながら分析を行う。 The Japan Directory(1868 年の創刊時はThe “Japan Gazette” Directory、1879 年 に改題。以後 JD)とは、横浜、神戸、長崎、香港などの主要開港場で英. 字新聞社により毎年発刊された英文商工録である。内容の掲載は任意で あるが、商館名、所在地、業務内容、商会員名と役職、本店、支店、電 信番号、 広告などが収録されている。JDは長期的変化と中小商会の詳細 を確認できる唯一の商工録で、32 年間のインド商会の開業、移動、廃業、 9. 事業種、人間関係を知ることができる 。 「商況報告」は、 横浜商法会議所の機関紙『横浜貿易日報』 (1881-1890) と、 その廃刊後に横浜貿易商組合が創刊した『横浜貿易新聞』 (1890-1905) に引き続き掲載されていた、 横浜港の前日の輸出入取引記録である。 「商 10. 況報告」 (1881 年から 1897 年まで掲載 )からは、インド商会の輸出入に ついて、 「居留地の各商館番号あるいは商人名」 、 「取引品目」 、 「仕向地 / 仕入地」 、 「数量」 、 「使用船」が確認できる。震災や戦災のため現存す る新聞記事は限られているものの、1882 年の 71 日分と 1891 年の 82 日 11. 分が存在する 。それぞれ日数から鑑みて年間取引の約 2 割をカバーし. 36.

(4) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. ていると推察できる。これらをもとに、1880 - 1890 年代の取引の推移 を考察する。また、1893、1894、1897 年にもそれぞれ数日分の新聞が 12. 残っているため、補足史料とした 。 分析方法としては、以上 2 つの史料をもとに、まず当該時期の JDから 英系インド商会の商館番号を確認した後、 「商況報告」欄記載の各商館 番号(あるいは商人名)と照合し、 輸出入取引記録を確認する方法をとっ 13. た 。 分析の限界について述べるならば、 「絹細工物 一箱」 、 「薬種 2019 斤」 など、品物・個数から単価が断定できない取引も少なからずあるため、 「取引品目」の単価と「数量」より取引金額を算出して、年間貿易額・量 と比較しがたい点があろう。また、これらの「商況報告」は、各年の傾 向を知るには欠損している年・日数が多く、その意味では不完全である。 しかしながら、貿易統計にみられる横浜港からの輸出入において、それ をどの商会が担ったのかを把握することが通常きわめて困難であるこ とを考慮すれば、明治初期-中期の外国商会の貿易の様子を知る一助と して重要であろう。. 3 横浜居留地の英系インド商会の基本構造 本節では、英系インド商会の貿易取引や商業ネットワークを検討する ための基礎的な情報として、上述の典拠史料に基づいて英系インド商会 の基本的な構造と動向を把握したい。 3-1 商会数 居留地貿易中、英国商会は開港・開市における外国商社総数の 40% を占め、英国人の居留人口も横浜・神戸/大阪を中心に800-1200 人と 総人口の50%を占め、商会数・居留人口ともに欧米諸国の中心的な存在 であった[杉山・ハンター 2001 : 9] 。横浜の英国商会は、表1 のとおり開. 港から1890 年代までに約 50 -90 社に増加しており、JDと「商況報告」を. 主として確認できる英系インド商会数と比較すると、1870 年代後半には 3%程度にすぎなかった英系インド商会は、20 年後の1890 年代後半には 約 22%を占めるまでに増加していることがわかる。したがって、たしか. 37.

(5) 南アジア研究第28号( 2016年). 表 1 英国商会数 年. 横浜 兵庫 (インド商会) 大阪. 他. 計(%). 他の 欧米商会. 総計 中国商会. 1870. 54(0). 31. 16. 101(39.5). 155. 1875. 65(2). 32. 12. 109(42.4). 148. 256 257. 1880. 53(4). 47. 8. 108(41.9). 150. 258. 約 200. 1885. 53(5). 26. 7. 86(42.2). 118. 204. 約 200. 1890. 64(8). 40. 9. 113(43.6). 146. 259. 約 200. 1895. 85(20). 56. 7. 148(41.7). 207. 355. 約 200. 典 拠: 杉 山・ ハ ン タ ー[2001: 8] に 掲 載 の Commercial Reports for Japan for 1870, 1875, 1880: Diplomatic and Consular Report on Trade and Finance, Nos. 47, 961, 1727, 1758, 1779, 1786. に、伊 藤[1989] 、JD、 「商況報告」 、横浜税関書類を加えて作成。 「他」は長崎、函館、新潟、東京。1885 年の函館、新潟、東京は該当データなし。. に「日清戦争以後に急増」 [二見 1958 : 11]し、英国系商会の中でその存 在感を増していたと言えよう。 3-2 時期と商業集団 居留地貿易中に横浜に参入した英系インド商会は 27 商会あり(表 2) 、 いずれも「General (Indian) Merchant」 (一般商) 「 、Commission Agent」 (代 理商) もしくは兼務して 「General Indian Merchant and Commission Agent」 (一般商兼代理商)として貿易を行っていた。一般商というのは、自商会. の本店・支店の注文に応じて輸出入貿易を行う商会であり、代理商は国 内外の需要者の注文に応じて手数料を取って輸出入を行う業務である。 事業形態は、概して一般商兼代理商が多かった。 商業規模は、表 2 にみられるとおり、数十の商会員を抱えることもあっ た大手の「英国」商会と比較すると、1 -3 名の商会員が大多数を占める というきわめて小さい規模であった。19 世紀の半ば以降は、アジアの諸 地域がヨーロッパを中心とする国際政治経済秩序の中に組み込まれて 大きな転換を経験した時期であり、公的な貿易インフラストラクチャー (海運、銀行や電信技術)の飛躍的な発達による世界市場のネットワーク. 化の時期であった。その結果、大資本を持たないこうした中小規模の商 会にも移動や貿易への参入が容易になり、横浜やアジアの諸開港場へ進. 38.

(6) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 表 2 居留地貿易下の英系インド商会 商会. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27. 横浜滞在年. Abdul Khayyam J. Pestongee J. Eduljee H. A. Esmail & Co. A. M. Essabhoy H. H. Josuph H. M. Ebrahim M. M. Rahimkhan W. Assomull A. H. Josuph K. S. Munshi A. Shaikally India and Japan Co. Empress D. Nanoomal M. H. E. Ellias Kaliandas C. M. Bhesania K. A. J. Chotirmall P. M. Papasian J. B. Bhesania Topunsing Motoomull Tarachand Rijoomal Pohoomull Bros. Dhanamal Chellaram A. M. Curmally M. N. Gobhai. 1878 1879-1880 1881-1882 1882 1882-1913 1884-1901 1886-1890 1887-1889 1885-1950s 1890-1905 1890- 〓 1891-1910s 1892-1894、1898 1895-1898 1895-1898 1896-1898 1896-1900s 1896-1920s 1896-2010s 1897-1898 1897-1910s 1897-1920s 1897-1900s 1898-1920s 1898-1910s 1898-1900s 1899-1920s. 商会員数. 商業集団. 〓 〓 1 2 1-3 1-6 1 1 3-9 1-3 〓 2 1-2 1 1 2 7 3 3 1 2-3 1-2 1 1 2 1 4. M P P (M) BM (BM) (BM) BM S (BM) 〓 (BM) (BM) M S (M) S P S 〓 P S S S S (BM) P. 典拠:JD、 「商況報告」、税関書類をもとに筆者作成。P はパールシー、M はムスリム、BM はボーホラ・ ムスリム、S はシンディー商会を指す。〓は不明、商業集団の()は推定。. 出することが可能となったのである。このように、 英系インド商会は概し て小規模であったものの、総数の3 分の1は開業から20 年以上貿易を続 けていた。そのうち、 事業年数と商会員数から判断するとA. M. Essabhoy 14. 商会、H. H. Josuph 商会 、W. Assomull 商会、K. A. J. Chotirmall 商会が比 較的事業に成功しており、30 年から114 年もの長きにわたって横浜の商 会を経営していた。. 39.

(7) 南アジア研究第28号( 2016年). これらの英系インド商会は、移入の時期により、大別して(1)1870 80 年代初期のイギリス東インド会社型、 (2)1890 年代前半の東インド会 社からの独立型、 (3)1880 年代以降の支店開設型の3 つに類型化できる。 (1)1870-80 年代初期のイギリス東インド会社型 まず、英系インド商会の中では最も早い1880 年代前半から、J. Eduljee. 商会とH. A. Esmail & Co. 商会のように「East Indian Merchant」すなわ ち東インド会社と関係のあった商会として参入した商会がみられた。東 インド会社は、事実上1858 年に活動が停止になり、The East India Stock Dividend Redemption Act 1873により解散していたため、 この記載は両商 会が東インド会社として横浜に進出したという意味ではなく、商会の信 用を示すために JDに明記したものだと考えられる。しかし、これらの商. 会はいずれも長期的な貿易の担い手となりえなかった。 例えば、 J. Eduljee. 商会はボンベイから香港のジャーディン・マセソン商会にアヘンを輸出 する傍ら、1881年に早くも横浜に支店を開設したものの、1 -2 年の短期 間しか貿易に携わっていなかった。 (2)1890 年代以後の東インド会社からの独立型 次に、 (1)で述べた会社が 1880 年代前半に横浜から撤退した後、A. 15. H. Josuph 、A. Shaikally のように当該商会に勤務していたインド人商会 員が 1890 年代初頭に独立し、 「A. H. Josuph」商会、 「A. Shaikally」商会 として貿易を始めたケースがみられた。すでに居留地における輸出入の 方法について熟知し言語にも精通し、かつ取引上の人的ネットワークも 形成していたため、単身で事業をはじめ、その後商会員を拡大しながら 15 -20 年の長期にわたり事業を続けることが可能であった。この点を示 すため、ここでは A. H. Josuph の例をみてみたい。. A. H. Josuph 商会(1890 -1905)の事業主の A. H. Josuphはボーホラ・ム. スリムであると考えられ、 「East India Merchants」として来日したムス. リム商会の H. A. Esmail & Co.(1882)にて代理商として1年間貿易業務 に携わっていた。1883 -86 年には横浜を離れ、1887 -88 年には横浜に支. 店を持つH. H. Josuph 商会のボンベイ本店にて勤務し、1889 年にはボン ベイで独立の準備をしていたと思われる。1890 年に再度横浜を訪れて 自身の名を冠した商会を設立し、単身で「Indian Merchant(インド商) 」. 40.

(8) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. [JD 1891]として貿易を始めた。初めの数年は商館の確保に苦労したよ うで、165 番館、185 番館、145 / 146 番館を転々としていた。貿易事業 は、H. H. Josuph 商会での勤務時にすでに手掛けていたように、絹物と 「Japanese Curios」の輸出、そしてボンベイからの山羊皮の輸入を行って いた[JD 1895 -1900、 「商況報告」: 明治 27 年11月10日] 。広告の変化を 見ると、1896 年頃より輸入に比重を置いていったことが分かり、さらに 1906 年には加えて「Commission Agent(代理商) 」の業務にも手を広げ. ていったことがうかがえる。この間の1900 年には、W. Assomull 商会と 同じ 31 番館へ移動している。横浜の事業が安定しはじめたと思われる 1896 年になると、A. H. Josuphはボンベイに戻り、代わりにマネージャー を含むインド人商会員3 名を横浜に駐在させた。しかし次第に商会員の 人数は減り、1900 年代に入ると主に1人で横浜支店を経営するようにな り、1905 年を最後に横浜から撤退した。 A. H. Josuph 商会の軌跡は、 「Far East」の横浜での貿易および内地取 引の経験を通じて一代理商が商会主となった過程を示しており、こうし た独立の例は居留地貿易以降に来日した英系インド商会の中にも散見 できる。 (3)1880 年代以降の支店開設型 そして最後は支店開設型、すなわち1880 -90 年代に貿易の拡大と多角 化のために横浜に支店を開設した商会である。上記の(1) 、 (2)以外は すべてこの支店開設型で、とりわけ1890 年代に顕著な増加がみられた。 詳細は後述するが(第 3 項) 、JDで国内外の本店・支店や代理商とのつな がりを検討すると、これらの商会はボンベイ/マドラス/ハイデラバー ド(シンド州)などの英領インド内に本店を置いており、南アジアから 東アジアの各港・市にまたがる自商会の商業ネットワークを形成してい た商会も少なくない。資本規模は、販路の面ですでに安定しているW. Assomull のような商会[Markovits 2000]から、船員から転向し零細商. 人として貿易に着手したEmpress 商会[熊沢家聞き取り調査 2011]まで 様々であった。 さて、こうした移入の時期による特徴とともに、商業集団別の特徴も 指摘できる。1890 年代初頭までの来浜商会をみると、 確かに従来「最古. 41.

(9) 南アジア研究第28号( 2016年) 16. 17. 参」とされていたパールシー商会 は J. Pestonjee(1879 -1881) や J.Eduljee (1881 -1882)の例にみられるように早くから参入しているが、より際立つ. のは Abdul Khayyam、H. A. Esmail & Co、A. M. Essabhoy、H. H. Josuph. のようなムスリム商会の参入である。居留地貿易中に来日した27 商会 中、ムスリム商会は12(うちボーホラ・ムスリムは7) 、パールシー商会は 18. 5、シンディー商会は 8、不明が 2で 、先行研究で指摘されてきたパー. 表 3 主要輸出入品(年間数量) 表2 番号. 商会名. 3 J. Eduljee 4. 1882 輸出品 茶(112 斤) 絹細工物(1 函). H. A. Esmail & 陶器(7 樽) Co.. 5 A. M. Essabhoy. 硝石(18,200 斤) 磁器(83 函) 陶器(24 樽) 刀(100 本) 扇刀(2,000 本). 1882 輸入品. 1891 輸出品. 木綿糸(201,600 斤) 綿羊毛(549 斤) 象牙(124 斤) 山帰来(4,200 斤) 甘草(3,280 斤) 薬種(3,515 斤) ゴム(2,300 斤). 6 H. H. Josuph. マッチ(198 箱). 薄荷精(105 斤). 雑貨(112 箱) 漆器・青磁器(〓) 絹手巾(681 打) 羽二重(48 反). 7 H. M. Ebrahim. 綿縮(50 反) 絹手巾(40 打). 9 W. Assomull. 雑貨(5 箱) 漆器(12 箱) 陶器(8 箱) 絹手巾(741 打). 11 K. S. Munshi. 絹手巾(150 打). 13. India and Japan Co.. 12 A. Shaikally 21. J. B. Bhesania. 17 Kaliandas 典拠:各年「商況報告」より筆者作成。〓は文字の判読不可。. 42. 1891 輸入品. 紅花(16,840 斤) ゴム(22,561 斤) 象牙・海獣牙(2,873 斤). 丁子(11,144 斤) ゴム(5,328 斤) 丁子(4,326 斤) 海獣牙(1,457 斤) 象牙(334 斤) 油(〓). 丁子(1,795 斤) 象牙(361 斤) 五倍子(216 斤) ゴム(37 箱) 五倍子 (1,268 斤、1,946 封) 革類(34,889 斤、93 担) 丁子(5,051 斤).

(10) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. ルシーとシンディー以外にムスリム商会が存在し、広告や雇用人数か ら推定できる商業規模から1890 年代前半まではムスリム商会(とりわけ ボーホラ・ムスリム)が英系インド商会の中で主流であったことが推察で. きる。一般に、英領インドを拠点にムスリム商会は皮革や織物に特化し た貿易を行っており、1930 年代までに17の有力な商会がボンベイ、カル カッタ、カラチ、ラホール、マドラスに存在したことは指摘されている. 1893 輸出品. 1893 輸入品. 1897 輸出品. 1897 輸入品. 種物(87,300 斤) 胡麻(36,111 斤) 繰綿(11,085 斤) ゴム(1,340 斤). 象牙(333 斤). 時計(15 打). 干生姜(5,737 斤) 絹手巾(195 打). 絹羽二重(40 反) 絹シャツ(208 枚) マッチ(10,200 打) 乾〓(13,636 斤). 43.

(11) 南アジア研究第28号( 2016年). ものの[Markovits 2008 : 109 -111] 、日本への進出については明らかでな く、来日したムスリム商会の日本進出の背景を知るには、本稿で扱う典 拠史料のみならず香港発行のディレクトリーなどを含めたさらなる検 討が必要である。 パールシーは、 1870 年代の初期に J. Pestonjeeと J. Eduljeeの2 商会が数 年の短期間で離港した後しばらくは来日がみられず、25 年後の1895 年 以降に新しく3 商会(C. M. Bheasania、J. B. Bhesania、M. N. Gobhai)が参入 した。このように、先行研究とは相違してパールシーは横浜の貿易に定 着するのは遅く、数も少なかった。しかし、後半に参入した商会はいず れも「有力なるパーシー商館」 [二見 1958 : 116]として14-25 年の長期 にわたり商業活動を行う有力商会に発展していった。 シンディー商会の参入は、東アジアの商業販路開拓における先駆的 な存在であった W. Assomull 商会を除き、すべて1895 年以降すなわち日 清戦争以降にみられる。シンディーは、1890 年代初頭にハイデラバード (シンド州)をおそったコレラの蔓延により、すでにインド国内外へと積. 極的に移出して事業を拡大しており、欧米人向けに「オリエンタル」な 品物をもとめて東・東南アジアの主要港に拠点を広げている最中であっ た[Markovits 2000 : 110 -155] 。そうした社会経済背景に加えて、日清戦 争の開始により日印貿易に携わっていた中国人が横浜港から退去する という好機[二見 1958 : 110]が重なったことで、日本に進出したのであ る。その結果、 シンディー商会が 1890 年代後半に急増してムスリム商会 とならぶ英系インド商会の主流の商業集団となったことが確認できる。 本節では、居留地貿易中の「英系インド商会」の、時期と商業集団に よる移入の傾向が明らかになった。すなわち、1870 年代から1890 年代 19. 前半までは、ムスリム商会とりわけボーホラ・ムスリム の貿易活動が 盛んであり、1890 年代の半ばからパールシーがやや増加しシンディーの 数は激増していったのである。付記すれば、パールシーやシンディーと ともに移動商人集団として知られるマールワーリーやグジャラーティー の横浜への移入がほとんど見られないことも特徴的であった。. 2 英系インド商会の貿易取引と流通経路 44.

(12) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 表 4 横浜港からの輸出入港(1882、1891 年) 1882年 輸出先(10 件). 輸入元(40 件). 1891年 輸出先(33 件). 輸入元(54 件). 香港 8. 香港 37. ボンベイ 16. 香港 30. ボンベイ 2. ロンドン 2. 香港 12. ボンベイ 14. 上海 1. シンガポール 4. シンガポール 6. マニラ 1. ハンブルグ 2 西貢(サイコン) 1 ロンドン 1. 典拠:「商況報告」より著者作成。. 2-1 英系インド商会の貿易商品-隙間貿易品の確立- 次に、上述の英系インド商会がどのような貿易を行っていたのかを検 討したい。英系インド商会の貿易取引の特徴を把握するにあたり、まず 居留地貿易の基本的な貿易・流通構造とその担い手を確認しよう。 開港から19 世紀後半までの日本の貿易構造は、生糸、茶、石炭などの 原材料・半製品を輸出し、綿・毛織物製品などの工業製品を輸入すると いう、典型的な後進国型の構造であった。対英および対英帝国諸地域が 日本の最重要貿易相手で、平均して全体貿易のうち輸出の25 -30%と輸 入の50%強をしめ、貿易収支は日本の輸入超過であった。このうち、英 国、香港、インドが三大貿易相手国・地域である[杉山・ハンター 2001 :. 7 -19] 。後述するように(表 4) 、英系インド商会の取引も対英帝国領内. が主であったので、ここでは対英帝国貿易内での貿易品とその担い手を みてみよう。 日本の対英帝国領内での主要貿易をみると、取引額の大きい順から、 英国へは1880 年代半ばは米、銅、絹製品を輸出し、綿糸、綿織物、毛 織物、蒸気船、鉄鋼、機械を輸入するという構造であった。対香港貿易 は日本から銅、石炭、マッチ、海産物を輸出し、精製糖を輸入するとい う構造で、対インド貿易は日本から石炭、マッチ、絹製品を輸出し、綿 糸(のちに棉花) 、米、インディゴを輸入するという構造であった[杉山 ・ハンター 2001 : 18] 。シンガポール(海峡植民地)はこの時期主要な貿易 相手国ではなかったが、ゴム、錫、棉花の輸入と石炭、燐寸、綿織物等. 45.

(13) 南アジア研究第28号( 2016年) 20. の輸出が主であったと思われる 。 こうした貿易構造の中で、英国商会は当然他の内外商会を凌駕して対 英・英帝国貿易を牽引しており、明治前半の輸出は主に茶・生糸を、輸 入は織物・綿糸・金巾・鉄・毛布・セメントなどを扱い、1889 年には綿 製品、砂糖、鉄類の輸入ではほぼ独占的か圧倒的なシェアを占め、生糸 と茶の輸出も2 割から3 割を占めるようになった。他方、中国商会は海 21. 産物と乾物・薬種の輸出、砂糖、米穀、綿花の輸入を主とし 、日本商 会は米や石炭の輸出と綿花や機械器具の輸入に力を入れていた。 [横浜 市編 1965 : 23 -27 ; 伊藤 1989 ; 杉山・ハンター 2001 : 10 -11] 。 それでは、英系インド商会はどのような貿易に従事していたのだろ うか。表 3 は、 「商況報告」の分析に基づき、1880 年代から1890 年代の 各商会の輸出入品とその年間数量を、表 4 は1882 年と1891年の輸出入 先港の推移を示したものである。1882 年の例としては J. Eduljee、H. A. Esmail & Co.、A. M. Essabhoy の3 商会の輸出入取引が確認でき、1890 年. 代に入ると、1891年に A. M. Essabhoy、H. H. Josuph、H. M. Ebrahim、W. Assomull、K. S. Munshi、India and Japan Co.(印度日本貿易商会) 、1893 年. に A. Shaikally、1897 年に A. Shaikally、J. B. Bhesania、Kaliandasの計 9 商 会の取引が確認できる。. まず輸入の傾向をみると、 1882 年に横浜へ輸入していた商品は大別す ると香港から輸送された薬種、木綿糸、外国の服飾品であった。薬種は 種々輸入していたが、いずれも土茯苓、山帰来、麝香、甘草など、すで に明治以前から一般に「唐薬」として広く知られて需要があり、その解 毒・鎮痛作用で胃薬や強心薬などに用いられていたものを多く輸入して いた。また、件数は少ないものの、上海からも薬種を、ロンドンからは 質の良い縞布や帽子を輸入していた。1891年に入ると、輸入品は薬種を ほとんどの商会が扱い、加えて硝石やゴム、油類も頻繁に取引されるよ うになった。具体的には、香港からは、硝石、紅花、丁子、シエラック ゴム、革、カストル油、五倍子を輸入し、ボンベイからはゴム類、五倍 子、丁子、椰子敷物、サフラン、象牙・海獣牙、山羊皮を輸入しており、 その他、シンガポールから油類(シトロネラ油、豚油、アボカド油) 、皮革 (羊革、山羊皮)を、ハンブルグから木香や山帰来を輸入している。. 46.

(14) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 輸入元の変化を見ると、1881年には香港が主要取引港であり、1890 年代に入っても横浜-香港間の貿易の比重は大きいものの、ボンベイと シンガポールとの直接取引が増えたことが特徴的で、その他ハンブル グ、西貢、ロンドンも若干数みられる。 一方、輸出の傾向をみてみると、1882 年には大多数が香港・ボンベ イ向けの「Japanese Curios」すなわち磁器、陶器、扇刀、刀、絹細工物 と、ボンベイ向けの少量の茶を輸出していた。1890 年代に入るとより広 範囲にわたる貿易を行うようになり、1882 年には香港、ボンベイの順で 主要輸出先であったが、1890 年代にはボンベイが約半数を占めるよう になり、香港、シンガポール、マニラがそれに続いている。全体的な輸 出品の傾向を見ると、引き続き「Japanese Curios」が主であるが、漆器、 陶器、青銅器、竹簾など多様な種類を扱うようになっていった。加えて、 早くも絹織物(綿縮、絹手巾、羽二重)を輸出し始め、マッチ、雑貨、唐 辛子、薄荷精の輸出も行うようになった。これを輸出港別にみれば、ボ ンベイと香港へは上述の「Japanese Curios」 、新興産業品・日用雑貨品を 輸出し、シンガポールへは綿縮や絹手巾といった絹織物と唐辛子を輸出 していた。つまり、概して「Japanese Curios」 、絹織物やマッチといった 新興軽工業品・日用雑貨を輸出していたわけである。 このような英系インド商会の輸出入には、主に欧米海運会社の船舶が 利用された。1882 年の「商況報告」には船舶の国籍が記載されていない ため不明であるが、1891年分によれば、5 割強が英船(主にP & O 社) 、4 割弱が独船、残り1割弱が仏船、米船、日本船(日本郵船)によるもの であった。 こうした貿易取引の位置づけを知るために、こころみにボンベイを 見てみよう。ボンベイ港の対外貿易の詳細が記載されているAnnual Statement of the Trade and Navigation of the Presidency of Bombay 1888-89によ れば、1888-89 年の貿易総額(輸入 263 ,838 ,591ルピー、輸出389 ,084 ,729 22. ルピー) 中、英国(41 .6%) 、フランス(9%)とベルギー(5 .8%) 、香港 (10 .8%) 、と比較すると、日本は貿易額のわずか1 .5%(輸入 208 ,352ルピー、 輸出9 ,366 ,427ルピー)を占める貿易相手国にすぎなかった。ボンベイ港. の主要輸入品を見ると、綿製品(総輸入額の35 .8%) 、金属類(5 .4%) 、機. 47.

(15) 南アジア研究第28号( 2016年). 械類(4 .3%) 、砂糖(4 .7%)などであり、横浜から輸出された Japanese. Curiosは、絹製品の他は「その他(7 .2%) 」に分類される少額の取引で 23. あった。絹織物は上記の品とともにボンベイ港への「主要な輸入品」. と報告されていたが実質的な輸入額は約 2 .8%と少なく、マッチもまた 0 .3%といまだ主要な輸入品ではなかったことが分かる。 しかし英系インド商会の扱うこれらの品は、季節により貿易の変動が 起こりにくい品であった。1882 年分は 6 -11月にかけて、1891年分は1 -7 月にかけての取引が確認できたが、各年に共通する輸出入品は薬種(輸 入)と「Japanese Curios」 (輸出)である。薬種はその種類が異なるが、. 季節を問わず輸入していたことがうかがえる。 「Japanese Curios」もまた 季節により供給が大きく左右される品ではなかったため、通年で輸出さ れていた。その他の軽工業品もまた、季節により需要や供給が大幅に左 右されない品であり、そうした品物を扱うことで恒常的な貿易を可能に していったと思われる。また、ごくわずかながら輸出されていた綿縮は、 欧米、オーストラリア向けへは輸出時期に多少の繁忙/閑散期があった 24. ものの、 「印度方面のみは価格の廉なる限り殆ど年中時を選ばず輸出」. されており、こうしたインド商会の貿易取引の特徴は内商に広く知られ ていたのである。 以上のように、横浜の英系インド商会は、日本国内で安定して需要の あった様々な薬種を輸入する一方で、19 世紀後半のヨーロッパ・北米で の「日本趣味」の蔓延により各地で需要の高まりつつあった奢侈品の類 である「Japanese Curious」と、 他商会に専有されていない新規の軽工業 品・日用雑貨(絹織物、マッチ)などを香港やボンベイに向けて輸出して いったのである。これはいわゆる「英国」商会の貿易の実態とは全く異 なり、英国との取引関係はごくわずかで、英国商会の扱う主要な貿易品 も扱ってはいなかった。英系インド商会の貿易取引は、英国商会を含む 各商会の主要貿易品を避けて隙間貿易品に特化していたといってよい。 また、貿易を仔細にみてみると、アジア間貿易の中の日本の対インド・ 対東南アジア貿易構造において一次産品の輸入と工業品の輸出の一部 を担っていたものの、それが綿業関連の輸出入を中心としていなかった ことは明らかで、大阪・神戸のインド商会の綿業を基軸とした商業ネッ. 48.

(16) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. トワークとは異なる貿易の形成が指摘できよう。 2-2 流通市場と消費者―隙間市場の確立― 居留地貿易下では、外商の商業目的の旅行(内地通商権)が禁止され ていたために、外商は横浜居留地内で内商(売込商、引取商)と取引を 行うという特徴的な流通体制をとっていた。したがって、外商は、日本 各地の問屋・生産者から売込商が仕入れた品を居留地にて買い付けて 輸出し、輸入した品は居留地内にて引取商に売り渡していた。こうした 流通体制の中、横浜開港から20 年も後に居留地貿易に参入することに なった英系インド商会は、どのような市場を開拓していったのだろうか。 輸入品の日本国内市場の流通に関しては、明らかなことは少ない。一 般に、外商から引取商が購入した品は東京の問屋へ売り渡され、織物 (唐繻子・南京繻子・羅紗・リンネルなど)と小間物、鉄鋼類、皮革などの. 諸輸入品は東京での消費が多かったとされている。地方での消費が多 かったのは綿や毛織物で、東京の問屋を通して地方へと分送されていっ た[横浜市編 1963: 275 -279] 。 先述のとおり、英系インド商会が 1880 年代に輸入していたのは薬種・ 木綿・服飾品、1890 年代には薬種・ゴム・油類・硝石とインド・東南ア ジア産品(椰子敷物、サフラン、象牙・海獣牙、山羊皮)である。したがっ て、引取商と英系インド商会の取引関係や流通経路の詳細は不確かであ るが、輸入品から東京での消費が多かった可能性が示唆される。 輸出品に関しては、先に見た通り横浜-香港間が最も多かったもの の、香港から再輸出されていた可能性は高く、輸出品の最終消費地で あったかが定かでないため、ここではボンベイ向けの「Japanese Curios」 と新興軽工業品・日用雑貨の流通過程を見てみたい。 英 系インド商 会 が 横 浜 居 留地で 売 込 商から仕 入れた「Japanese Curios」と新興軽工業品・日用雑貨は、直接もしくは香港/シンガポー ル港経由でボンベイの本店・支店や提携商会などに輸送されていた。ボ ンベイにはすでに欧米商会は参入していたものの、地方生産品の買付と ボンベイ内での輸入品の販売に特化しており、国内の市場へは既存の取 引関係に基づいて、英系インド商会の本店 / 支店と現地のインド商会間. 49.

(17) 南アジア研究第28号( 2016年). で行われた。 英領インドの主要集散地であったボンベイは、欧米商会が有力であっ たカルカッタとは異なり、インド商会の商業拠点であった。この時期商 権を握っていたのは、パールシー、ヴァニヤー、ジェイン、ムスリムの 商会で、輸入品はこうした地域の有力なインド商人によりインド国内へ 流通していった。輸入品は鉄道もしくは汽船にて、ボンベイ州内(アー メダバード、スーラト、バローダなど)のみならず、パンジャーブ州(カラ チ、ラホール、アムリトサル、シムラーなど)から「連合州」 (ラクナウ、ア ラハバード、アグラ、ベナレスなど)まで広く輸送されていた。各地方の. 大市場・集散地に運ばれた後は、さらに鉄道や牛馬で近郊の小市・町・ 村落に運ばれ、週に1、2 度開かれる市にて消費者の手に渡っていった [外務省通商局 1908] 。こうした卸売り、小売りのレベルでは、現地の流 通ネットワークに依存していたのである。 ボンベイへ輸出された「Japanese Curios」は、インド国内のインド人 および欧米人富裕層向けであったと考えられる。例えば陶磁器は「多ク ハ大小花瓶、置物、茶珈琲茶碗及皿、皿、鉢ノ類ニシテ装飾ヲ主トシタ ルモノ」で、各地の「富豪王侯抔ノ座敷ニ愛用セラレ」るものか、植民 地政府とともに財を成したパールシーが主に使用するものであった[外 務省通商局 1908 : 116] 。英領インドの夏の首都であったシムラーでも、. 1887 年にはすでに日本の磁器や漆器が「貴顕の間で人気」 [渡辺 1934 :. 24]であったとされている。中には、安価な陶磁器の皿やコップなどの. 日用品の販売を試みたインド商会も存在したものの、純白を尊いとみな し皿の内部の文様を好まないヒンドゥー教徒や日月星辰以外の模様を 好まないイスラム教徒には、日本の陶磁器の模様が受け入れられなかっ た[外務省通商局 1908 : 116] 。そのため、英系インド商会の輸出してい た「Japanese Curios」は、比較的高価な品物に限られていた。 一方、軽工業品として1880 年代後半から日本で量産されはじめた絹 織物やマッチは、インド各地の需要に合わせて異なった品質の品物が輸 出されていた。絹織物は、はじめは絹手巾を輸出していたが、日本の紡 績業が飛躍的に発展するにつれて次第に羽二重が主軸になり、消費者は 高価な質の良い品を求める層から軽くて安価な品を求める層まで様々. 50.

(18) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. であった。 『最近印度事情』 (1908)には、絹織物の中でもとりわけ白羽 二重や琥珀といった白無地が好まれ、インド各地の染物工場にて現地の 嗜好にあった染色を施し光沢を出していた様子が記されている。例えば 「ブローチ」 (バルーチ)市では質の良い絹の衣服を好むパールシーが高 品質な羽二重をもとめ、アーメダバード市では、目方が重く値が張るイ 25. ンド産の絹織物に手の届かない「中以下」 の社会階層が、廉価な日本 の絹織物を好んで購入していた。その他、日本製の日用雑貨はこの時期 概して品質が悪く、 「各品共頗フル粗悪ニシテ中以上人物ヲ顧客トナシ 難シ」とされている[外務省通商局 1908 : 26 -27] 。 このように、ボンベイ向けの英系インド商会の輸出品は、 「Japanese Curios」や高価な絹織物のような奢侈品と粗悪で廉価な日用雑貨で、英 領インド内のインド人および欧米人に向けたものであった。横浜貿易の 観点から言えば隙間貿易であったとはいえ、インドという広範な市場と 消費者が保障されていたのである。 以上、本節では、英系インド商会の扱っていた貿易品と流通市場の 2 つにおいて、英国商会のような一次産品の輸出と工業製品の輸入には 携わらずに、奢侈品と新興軽工業品の輸出と薬種の輸入に従事したこと と、重要輸出先のボンベイでは富裕層と下層の消費者を対象にしていた ことが明らかになり、独自の隙間貿易の形成を確認できた。このような 隙間市場の開拓は、国内外の需要を的確に判断した結果であり、国内と 国外の商業ネットワークなしには成しえなかった。. 3 日本国内外の商業ネットワークの特徴 中小規模の英系インド商会にとって、安定した隙間貿易を行うには国 内外の商業ネットワークが不可欠であった。本節では、主要な商業ネッ トワークとして機能した、内商との取引関係、居留地内の英系インド商 会間の互助関係と安全網、そして英系インド商会の保持していた本店・ 支店網を提示する。 3-1 国内の商業ネットワーク 3-1-1 内商との取引関係. 51.

(19) 南アジア研究第28号( 2016年). 表 5 商館所在地 年. 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900. 5. 6. 51 52 52 52 51 51 51 51 51 51 51 51-A 51-A 51-A 51-A 51-A 45 45. 52 52 52 52 70 70 70 70 70 70 70 70 70 70 70 70 70. 7. 8. 71 71 80 70-A 80 52-A 80 52-A. 9. 52-B 52-B 31 31 31 31 31 31 31 31 31 31. 10. 表 2 商会番号 12 13 14 15. 16. 19. 22. 23. 25. 26. 165. 185 145 146 146 146 146 146 31. 52-A 52 80 52-A 80 31 52 80 31 52 185 31 52 185 31 185 80 185 31 157-A 31 157-A 59. 157 157 157 157. 151 157 127 127 157 127 127 185 157 185 157 127 127 典拠:各年の JD より筆者作成。. まず内商との取引関係について述べたい。来日したインド商会が、 いったいどのように売込商・引取商と交渉し取引に必要な信頼関係を築 くに至ったかは定かでない。明らかなのは、居留地貿易下では、特定の 品物に特化した売込商、引取商が存在し、英系インド商会はその貿易品 から、1888 年には「西洋小間物引取商」 、 「洋糸織物引取商」および「雑 貨売込商」と取引があり、1898 年には、 「諸品引取商」および「絹物売 込商」 、 「陶器売込商」 、 「漆器売込商」 、 「雑貨売込商」らと取引があった 26. という点である 。 この中で、絹物取引についての仔細が最も豊富であるため、検討し てみよう。日本の絹織物は、1870 年代には微々たる生産量にすぎなかっ たものの、紡績業の進歩により1880 年代半ばから急速な発展をみせて 1892 年には茶や銅の輸出額を超え、明治期後期を通じて綿織物とともに 生糸に次ぐ重要輸出品となっていった[横浜市編 1965 : 305] 。この間の. 52.

(20) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 絹織物の売込みは、1888 年には「雑貨売込商」が扱っており、独立した 「絹物売込商」がみられるようになるのは1895 年から1900 年代にかけて のことであった[横浜市編 1965 : 21 -22] 。したがって、 「Japanese Curious」 の買付のためすでに「雑貨売込商」との取引関係を有していた英系イン ド商会にとって、絹織物は入手しやすい品であったと推察できる。実際、 堀越商会や茂木合名会社などの先駆的な日本人直輸出商以外は、1890 年代後半以降に絹織物貿易に着手していたことを考えると、1891年にす でにボンベイに羽二重の輸出を始めていたH. H. Josuph 商会は、いち早 く絹織物に商機を見出していたといえよう。つまり、英系インド商会は すでに「雑貨売込商」との人的ネットワークを確立していたことで、新 興産業品の絹織物の輸出を先駆けて、香港やインド市場を開拓していっ たのである。 内商の側からすると、インドへの直輸出の経路を確立していない間 は、横浜の英系インド商会との取引に依存せざるを得なかった。一般的 に、インドのインド商会は銀行を使用せず信用の程度が判断しにくい上 に外国人との取引に不徳義でも意に介さないため[外務省通商局 1908 : 38] 、開港場のインド商人に仲介を頼まざるを得なかったのである。 3 -1-2 横浜のインド商会間の互助関係と安全網 内商との取引関係とともに、横浜のインド商会間のネットワークも重 要であった。JDの分析からは、部分的ではあるが、英系インド商会間で 互助関係や安全網を構築していたことが推測できる。まず、商会の所在 地より(表 5) 、横浜に移入した直後に英系インド商会同士で商館を共有 していた様子が伺え、とりわけ 52 番館は、横浜に移入したばかりの英 系インド商会の拠点となっていた。また、英国商会同様、商会員は通常 横浜の商館と日本内外の自商会の他店舗間を1 -3 年程度のサイクルで還 流していたのであるが、何らかの理由で所属商会が横浜を撤退する際に は、商会員がすぐに別の英系インド商会へと移動する例がいくつかみら 27. れ、ローカルな横のつながりが構築されていたことがうかがえる 。小 規模商会やそこで働く商会員にとっては、このような互助関係と安全網 は、横浜に進出する際や継続して貿易取引を行うための重要な商業ネッ トワークの一つであった。. 53.

(21) 南アジア研究第28号( 2016年). 表 6 横浜の貿易ネットワーク 取引先. 輸入. 輸出. ボンベイ. 丁子 海獣牙 ゴム 椰子敷物. Japanese Curios(絹手巾、漆器等) 生姜. シンガポール. シトロネラ油 豚油. 唐辛子. 香港. 紅花 ゴム. ロンドン. アボカドオイル. カルカッタ. Japanese Curios(絹手巾、青銅器) 典拠:JD(1884-1901) より筆者作成。. このほか、共同経営や取引関係の有無については、史料の制約により 確定できない。しかし、個人商会ではなく本店の資本という後ろ盾のも とに横浜居留地に進出していたことをふまえれば、共同経営の必要性は 低かったと思われる。 3-2 国外の本店・支店ネットワーク 最後に英系インド商会の本店・支店ネットワークの範囲とその特徴に ついてより詳しく明らかにしていきたい。英系インド商会の本店・支店 ネットワークは、JDやその他の史料から確認できる限りでは、ボンベイ を拠点とする商会が圧倒的に多く(9 商会) 、次いでハイデラバード(シ ンド州) 、ネガパタム、マドラス、カルカッタ、香港、広東、シンガポー. ル、神戸に所在していたことを示しており、これらの国際貿易港を拠点 とする広範な商業ネットワーク上に横浜店での貿易活動が接続されて いたことが見てとれる。こうした商業ネットワークの構築過程を示すた め、前掲の支店開設型の英系インド商会の中で、ボンベイを拠点とし居 留地貿易中に最も事業を拡大したH. H. JosuphとW. Assomullの2 商会の 事例を検討したい。 まず、H. H. Josuph 商会(1884 -1901)についてみてみよう。ボーホラ・. ムスリムと考えられるHassamjee Hajee Josuphにより設立されたH. H. Josuph 商会は、 ボンベイを拠点とするA. H. Joseh & Co.(事業主は Abdoola. Hajee Josuph)の代理商として横浜に参入し、1884 年に横浜の52 番館に. て「Merchant and General Commission Agent(商人兼代理商) 」として貿 易をはじめた[JD 1885] 。1886 年にはシンガポールにもA. H. Josuph &. 54.

(22) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. Co.の支店が所在してB. Coddadat が代理商として経営しており、1893 年. には神戸の “Native Bund 41” にも支店が開設された[JD 1887 , 1894] 。し たがって、ボンベイ-シンガポール-横浜-神戸間の事業ネットワーク を形成していたことが分かる。実際の貿易ネットワークはより広範囲に わたり、1891年の「商況報告」によればボンベイ、シンガポールに加え て香港、カルカッタ、ロンドンとも直接取引を行っていた(表 6) 。 貿易取引の詳細を見てみると、横浜参入初期の1886 年頃までは、陶 28. 器と骨董品の輸出とペパーミントの生産をしていた 。また、1887 年か らは輸入にも力を入れ始め、倉庫を借りてインド・ヨーロッパ・アメリ カ・カナダの品(婦人用帽子、洋服、服地)を輸入するとともに服の仕立 ても行っており、卸売りと小売両方にも携わるなど多岐にわたっていた [JD 1888 : 広告] 。貿易業に特化する商会がほとんどである中、縫製業を 行う商会は横浜では極めて異例であった。しかし、香港、上海、マカオ 29. とは違い横浜では縫製業の需要が少なかったのか 、移入後すぐに貿易 業に専念している。移入して3 年目の1886 年から3 年間は早くも広告を JDに掲載しており、居留地内で自商会を周知させるための経営努力がみ られる。 1890 年代に入ると貿易が多角化していた様子がうかがえ、それまで 扱っていたインド・ヨーロッパ・アメリカの品に加えてフランスの品物 やインドの宝飾品と飲食料品の輸入を行うようになった。表 6 のとおり、 1891年の「商況報告」からはボンベイとの取引が多かったことが示唆で き、ボンベイからは丁子、アラビアゴム、象牙・海獣牙、椰子敷物、チャ ツネを、香港から紅花やゴムを、シンガポールからはシトロネラ油や豚 油を、ロンドンからはアボカドオイルを輸入していた。輸出は、ボンベ イへの「Japanese Curios」とりわけ絹手巾、漆器、竹簾、青銅器雑貨を 主に扱っていたが、カルカッタへも絹手巾や青銅器を送っていた。また、 頻繁にではないもののボンベイへ生姜を、シンガポールへ唐辛子を輸出 していた。こうした輸出入には英 P & O 社の船舶が主として使用されて いた。 事業経営をみてみると、H. H. Josuph 商会は、設立当初は Hassamjee. Hajee Josuph が単身で貿易業務を担っていたが、3 年目にはインド商会. 55.

(23) 南アジア研究第28号( 2016年). 員の A. F. Mahomedを雇い、2 人で操業し始めた。翌1887 年には 70 番地 に単独で商会をかまえるほどに成長して、商会員もインド人 3 人(M. H. Sheedeek、M. Kaderdina、M. Hoosen)と日本人の「Assistant」2 人の計 6 人. を擁する、中規模の商会に発展していった。1890 年代に入ると、1890 年 にはインド人マネージャーのEssabhoy Abdulhoosein 1人と日本人・中国 人各 1人の3 人で業務を行うようになった。1891年から1893 年には H. H. 30. Josuph が再度来浜し、1893 年に神戸支店を開設した。神戸支店は、以. 前横浜店で働いていた W. H. H. Josuph(マネージャー)とS. N. Mahomet. の2 人が経営した。1895 年には H. H. Josuphはボンベイに戻り、 代わりに. M. E. Jamal がマネージャーとなって日本人 2 人と計 3 人で横浜から取引. を行い、それ以後はインド人 1 -2 人のみで経営して1901年に日本より撤 退した。このように、18 年にわたる横浜支店の事業経営にはムスリムイ ンド商会員が主体で経営を担っていたものの、中国人や日本人商会員も 携わっていた。 次に、 W. Assomull 商会(1889 -1950 s)の事例を見てみたい。W. Assomull 商会は、ハイデラバード(シンド)を拠点としてボンベイからコロンボ、 カルカッタ、シンガポール、そして東アジアへと商業販路を東に拡大し たシンディー商会の中で、Phoomull Bros(1858 -)とともに、 「母会社」と して最も早くから広範囲に、また長期にわたり貿易を手掛けていた商会 31. である 。Wassiamall Assomull Mahtaniによりハイデラバード(シンド州) に1866 年に設立された W. Assomull 商会は、1873 年頃にはいち早くシン ガポールとスラバヤに支店を出し、1880 年代にはすでにボンベイ、シン ガポール、香港などに本店・支店を所有していた。メルボルンにも1876 年に支店を開設したものの、数年間撤退し、1892 年に再度進出して1898 年には 80 人もの商会員を抱えていた[Markovits 2000 : 124 , 134]こうし た事業ネットワーク拡大の最中の1885 年に、横浜の52-B 番館に支店 32. を開設した 。居留地貿易中にさらに支店は増加し、1908 年にはマニラ、 サイゴン、バンコク、シンガポール、スマラン、スラバヤ、バタヴィア、 パダン、マカッサル、バンドン、ペナン、ラングーン、ボンベイ、ハイ デラバード、メルボルン、香港、広東、神戸など、南-東アジアの主要 貿易港に支店が所在した[JD 1909] 。. 56.

(24) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 1890 年代の横浜支店の貿易取引先をみると、香港が圧倒的に多く、香 港から薬種(五倍子、丁子)や象牙を輸入する一方、漆器、陶器、絹手 巾、雑貨各種を主に輸出していた。また、マニラにも雑貨を輸出してい た例もみられた。 [商況報告 1891] 移入当初より、国外に上記のような広範な販路が担保されており、見 込み輸出をせずに本店・支店からの注文に応じて需要を確実にみたす品 物を輸出できたために、輸出事業が容易に成功したことがうかがえる。 また、他の商会と際立って異なるのは、横浜参入年と思われる1889 年 にインド人が事業に携わらず中国人と日本人の商会員計 4 人のみで商 会を立ち上げていることであるが、開業 2 年目からは D. T. Mahitani、R.. Hamandas、H. Gangaramと日本人 1人で「Indian Merchant(インド商) 」. として貿易を始め、インド商会員を中心とした経営を始めている。横浜 に参入したインド商会の7 割が 1 -3 人で事業を経営していたことに比べ ると、W. Assomull 商会は開業直後から雇用人数が極めて多く、4 人で始 めた横浜支店は、1890 年代後半にはインド人 5 人(基本的にシンディーで あり、数年で商会員の入れ替わりがある)と日本人 5 人の計 10 人の商会員. を抱える有数の発展を遂げたものの、その後次第に商会員数は減ってい く。なお、横浜支店は1920 年代に入ってもインド人 3 人と日本人 1人で 営業し、長期にわたり貿易を行っていた。商会員の入れ替わりを経年的 に検討すると、マネージャーおよび中心的な商会員はインド人であった といえよう[JD 1887 -1920] 。 以上、本節では、英系インド商会の貿易は、第一には地縁・血縁に基 づいた同商業集団の国際的商業ネットワークを基軸としたもので、第二 に横浜のインド商会間のローカルな互助関係や、内商や日本人商会員と のネットワークも重要な役割を果たしていたことを示した。付記すれば、 国内外の商業ネットワークが、概して排外的な性格と強固なつながりを 有していたことが、日本国外のインド商会が「直接商談は絶対にやらな い必ず横浜、神戸における各自の支店またはエーゼントを通ぜねば一品 だに買はない」姿勢を貫き、商会間で「実に功名なる連絡をとり絹織物 33. 及び加工品は彼らの独占的な商売」であった と指摘されていることか らうかがえる。このように、英系インド商会が横浜の貿易における地位. 57.

(25) 南アジア研究第28号( 2016年). を確立し得た背景には、国外での需要を確実に満たせる商品の輸出を可 能にした、複層する国内外の商業ネットワークがあったのである。. 4 おわりに 本稿では、明治後期の商工録と貿易取引記録の経年的な分析から、 横浜居留地における英系インド商会の貿易構造をその貿易活動と商業 ネットワークを中心に検討した。その結果、日清戦争以後の対インド絹 織物貿易を寡占するようになった横浜の英系インド商会の嚆矢を、居留 地貿易中にみることができた。 第1 節では、英系インド商会が 1870 年以降の25 年間で「英国」商会 のうち2 割強を占めるまでに増加したことを明らかにした上で、商業集 団と移入の特徴を検討した。その結果、移入初期の1880 年代初頭まで は日英通商条約のもと東インド会社と関係のあった商会として来日した パールシーが主であったが、1880 年代には東インド会社とは無関係の インド商会として移入したムスリム(とりわけボーホラ・ムスリム)商会 が主流の商業集団となり、続く日清戦争以後にはヒンドゥー教徒のシン ディー商会が急増し中心的になったことを確認した。大多数の商会は小 規模で、英領インド内のインド商会の支店もしくは代理商会として来日 していた。 第 2 節では、英系インド商会の貿易取引と貿易品の流通経路を精査 し、 「英国」商会とは明らかに異なる貿易構造を形成していたことを示 した。すなわち、一次産品の輸出や工業製品の輸入には参入せず、薬種 の輸入や「Japanese Curios」と軽工業品の輸出を基軸とする雑多な隙間 貿易品を扱っていたことが明らかになった。加えて、奢侈品を英領イン ドやアジアの開港場のインド・欧米富裕層向けに、廉価な日用品をイン ド中下層向けに輸出するという隙間産業を形成していったことも確認で きた。 第 3 節では、国内外の重層的な商業ネットワークにより、新たな貿易 品への着手や横浜での事業経営、国外での販路の担保が容易になった こと、そして、地縁・血縁に基づいたやや排他的な商業ネットワークを 維持することで、他商会との競合や継続的な隙間貿易を可能としていっ. 58.

(26) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. たことを示した。 全体を通してみえるのは、居留地貿易中の「英国」商会から英系イン ド商会への推移、すなわち、英系インド商会自身が持つインド国内やア ジアの主要貿易港間のネットワークに重点をおく貿易構造へとシフトし、 主導権をもって独自の貿易を可能にしていった点である。それを傍証す るのが、 「東インド会社」から「インド商会」への移行と、香港への輸出 からボンベイへの直輸出の比重が高くなったという事実、そして主流な 貿易品目と販路が、インドやアジアの各開港地の欧米富裕層向けの骨董 品から、インド向けの絹織物やマッチといった軽工業品に変化していっ たという事実である。したがって、英系インド商会の貿易は、ヨーロッ パ-アジア間の第一次産品の輸出と製品輸入に従事していた日本の英 商会のそれとは異なっており、かつアジア間貿易の基軸であった綿関連 製品の生産のための国際分業上に位置する貿易でもなかったことが指 摘できるのである。開港後およそ 20 年後に横浜港での貿易に参入した 英系インド商会がこのような独自の貿易を形成し得たのは、19 世紀半ば から末にかけてのイギリスの工業の国際競争力の低下による、 「世界の 工場」から「世界の銀行家・手形交換所」への変容とそれに伴う貿易へ の比重低下が招いた貿易均衡の変化と、中小商会が遠隔地貿易に参加 できるような貿易インフラの飛躍的な向上、そして市場オリエンタリズ ムを背景にした「真の」 「東洋的な」品の供給地の確保の必要性という 状況が複層して存在したためであったと言える。しかしながら、本稿の 分析は既述のとおり日本の史料に依拠するところが大きく、インド側の 史料による裏付けは限定的である。英領インド期の史資料も用いた、居 留地貿易中および条約改正以後の英系インド商会の商業ネットワーク の形成過程は、今後の課題としたい。 註. 1 商業史においては石井寛治、 石井摩耶子によるジャーディン・マセソン商会の研究や杉山に. よるスワイヤ商会の検討などから、 アジア間貿易における英国商会の商業活動が明らかに なっている。 中小規模の英国系商会については、 杉山・ハンタ―による長崎のグラバー商会 やオールト商会、 神戸のハンタ―商会の研究や、 菅によるマリアンズ商会, ロットマン/ スト ローム商会などの英系美術商会についての研究蓄積がある。. 59.

(27) 南アジア研究第28号( 2016年). 2 チャップマンは「英国」 商会といっても実際はイギリス人商会がすべてではなく、 地域によ. り様々な商人(英領インドではシュロフやパールシー、 ビルマやマレーシアではチェッティ ヤール、 東アジアでは買弁など) が携わる多民族的な商会であったことを指摘している[杉. 山・グローブ 1999: 312] 。. 3 マールワーリーは、 ラージプターナー(現ラージャスターン) のマールワー出身の貿易と金. 融を生業とする商人で、 英領インド内の湾岸都市・町に移動し、 植民地経済の発展と結びつ いて莫大な利益を得た。 主に仲買人や貿易商として英帝国領を移動し、 金、 穀物、 種、 木綿、 ア ヘンを取引する商人と、 町で零細小売店主として宝石、 金融、 質屋などを営む商人に分かれ る。 4 グジャラーティーとはグジャラート地方出身の商人を指す。 グジャラーティーは18世紀後. 半から19世紀前半のアヘン貿易ではカルカッタの欧米商から資本投資を受けながらボンベ イを拠点とした貿易に携わり、 財を蓄積していった。 5 シンディーとは現パキスタンのシンド州、 とくにシカルプールとハイデラバード地方を出. 自とする商人を指す。 シンディー商人は、 19世紀後半から英領インド内外の主要貿易港に数 多く商業拠点を設けていった。 6 パールシーとはゾロアスター教徒であり、 大英帝国と中国とのアヘン貿易においてはアー. メダバードとボンベイからアヘンをインド西海岸の各港へ輸送するために、 また茶貿易に おいては貴金属の流出を防ぐという問題に対処するために外国貿易に携わって財を成した。 英領インドに移り住んだユダヤ商同様、 当時のパールシー商人を「インド商」 とみなすかに ついては議論が分かれるが、 本稿ではインド商に含めて考察する。. 7 [籠谷 2000] 。. 8 1860年代から第一次世界大戦にかけてパナマから横浜にまたがる主要貿易港に支店網を拡. 大したシンディー商会の国際商業ネットワークを詳細に検討したMarkovits は、 シンディー 商会が欧米市場での「市場のオリエンタリズム」 の需要に応えるため、 小規模なシンド工芸 品の輸出から「オリエンタル」 な「Japanese Curios」 の輸出に転向すべく1870年代に日本に支 店を開設したことを示した。 シンディー商会が日本商社に先んじて商機をつかめた理由に ついて、 政治的な参入障壁がなかったこと、 つまり「大英帝国臣民」 として移動の自由を有し ていたことをあげている。 9 中国商会同様、 インド商会は商習慣として個人名を商会名として使用しているため、 まず. 1868年から1900年の各年のJD から、 山下居留地内に事業所を設けていたインド系商館• 商. 人を推定した後、 JD 内の本店・ 支店情報及び補足資料[小林 1909; 横浜商況新報社 1980; 石 井 1998] によりインド商会かを確定した。. 通常、 JD が発行されるのはその年の1月( 例えば1880年版なら1880年1月発行) である。 このた. め、 商館や商人が初めてJD に掲載された場合、 その前年に来日し事業を始めたとみなすこと ができる。 また、 掲載されなくなった場合には、 最終の掲載年を持って転出もしくは閉鎖し. たとみなすことができる。 後述の表は、 JD 掲載年の前年の状況を示すもの (例えば、 1880年出. 版JD の商会数は1979年のそれ) として作成した。 JD の特徴については立脇[1996] が参考に. なり、 ディレクトリーを利用した研究には宮田[1985] がある。. 10 1897(明治30) 年8月20日に、 横浜税関の要求により輸出入商館名及び人名は不掲載となった。. 60.

(28) 英系インド商会の貿易と商業ネットワーク-横浜の居留地貿易の事例から-. 11 1882(明治15) 年には6月(1) 、 8月(16) 、 9月(22) 、 10月(25) 、 11月(7)の計71日分が、 1891(明. 治24) 年には1月(23) 、 2月(21) 、 4月(23) 、 5月(12) 、 7月(27) 計82日分が残っている。 このうち、 1891年1月3日および2月1日、 1893年7月9日の2件以外のすべてに「商況報告」 が掲載されてい る。 12 1893(明治26) 年には1月 (1) 、 7月 (2) 、 12月 (1) の計4日分が、 1894(明治27) 年には11月 (1) の1. 日分が、 1897(明治30) 年には5月 (1) 、 6月 (1) 、 8月 (1) 、 9月 (1) の計4日分が現存するが、 件数が 少なく取引の推移を考察することは困難なため、 商会と輸出入品の確認のための補足資料 にとどめた。 13 鷲崎[2007] が指摘するように、 商館の移動を各年のJD が常に繁栄していたとは断定しがた. く、 また同番館に複数の商会が存在したため、 通常はこのような照合の方法では確定し難い。 しかしながら、 小規模であることが幸いし、 同じ商館内の他商会との誤認を避けるために英 系インド商会については商館番号と商会名が併記されていた。 14 「H. H. Josuph」 はJD の表記に準じた。. 15 H. H. Josuph 同様、 「A. H. Josuph」 もJD の表記に従った。. 16 『横浜絹業輸出史』 を典拠として、 パールシーの最古参で後にインド商人の来浜の面倒をみ. たとされていた「熊澤インプレス」 は、 実際はJaffa Abdul Kaza というムスリム商人であった。 Kaza はEmpress 商会を設立し、 後に横浜で商会を営んでいた熊澤家に婿入りして対ロシア. 貿易をはじめた[熊澤家聞き取り調査2011] 。 また、 同史料からこれまでパールシー商会とさ れていたA. M. Essabhoy 商会は、 後述するようにボーホラ・ムスリムであった。. 17 J. Pestonjee はJD には87番館に「商人」 として記載されており、 商業活動の詳細は記述がない. ものの単身で来日したことが分かる。. 18 Mukesh Williams、 Claude Markovits、 Rohit Wanchoo 各氏にご教示を頂いた。全ての商会の帰. 属を確定できるわけではないが、 表2 に示した。. 19 ボーホラ・ムスリムは、 ボンベイに本部をおくDawut-e-Hadiya をコミュニティの中心として、. インド国内外に点在しながら今日まで緊密な関係を保っている商業集団である。 20 「時事新報」 1912.1.22. 21 伊藤[1989] によれば、 中国人商会の海産物商は乾物・ 薬種商をかねて薬種を扱っていた。 例. えば主要な中国商会の東同泰、 採芝林が会津や米沢の朝鮮人参を香港・ 上海に輸出したり、 大徳堂や同順利が樟脳・ 茯苓・ 大黄を香港・ 上海・ シンガポールに輸出するなどの例から、 薬 種の輸入ではなく輸出に力を入れていたように思われる。 22 “Merchandise”の総貿易額で、 ”Treasure”の貿易は除く。 23 The Imperial Gazetter of India, Vol.VIII, pp.330.. 24 1913、 「季節の木綿縮」 『 、書上タイムス』 、 第3巻第5号、 30-31頁。 25 1907(明治40) 年の在孟買領事による報告書である「最近印度事情」 には、 「中流」 がどの層か. は明示されていないが、 本文中に「富マサル人々」 は銅製か真鍮製の盆、 水飲壺、 香水器を使 用し、 「少シク富メル印度人」 の家では銀製を、 「最下等ノモノ」 は土器を用いるという表現が みられる。 したがってここでの「中流」 とは、 植民地化下で英語教育を受けたエリート層、 す なわちカルカッタにおける土地所有者やボンベイにおける実業家、 法律家、 医者、 下級官吏、 教師などの「中間層」 [Felnandes 2006; Kidambi 2012] のみを指しているわけではない。. 61.

参照

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