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慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出熊本大学大学院社会文化科学研究科後期三年博士課程文化学専攻社会文化構造論分野学生番号〇六七 G九一〇八林千寿

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Academic year: 2021

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熊本大学学術リポジトリ

Kumamoto University Repository System

Title

慶長五年の戦争と戦後領国体制の創出

Author(s)

林, 千寿

Citation

Issue date

2009-09-25

Type

Thesis or Dissertation

URL

http://hdl.handle.net/2298/22302

Right

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慶長五年の戦争と戦後領国

体制の創出

熊本大学 大 学 院社会 文 化 科学 研究 科後期三 年 博士課程 文化学専攻 社 会文化 構 造論分野 学生番 号 〇六七 ― G九一〇 八

千寿

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序 章 1

第一

戦争の本質

3 はじめ に 3 第一章 戦争 の基本的特質 4 第二章 大坂 ・ 伏 見 の 戦 い か ら 関ヶ 原 合 戦ま で 9 第一節 大坂・伏見の戦 い 9 1 戦前の政治状況 9 2 豊臣 奉行衆による大坂・伏見城攻め 11 第二節 細川 忠 興 領 に おけ る戦 い 13 第三節 旧領 回復 の た めの戦 い 16 1 陸奥刈 田 ・伊達・信夫郡の戦い 16 2 越後 の戦い 19 3 美濃 郡上郡八 幡・恵那郡苗木 の 戦い 20 第四節 領地 拡大のため の 戦い 21 1 黒田如 水 の豊前・豊後侵攻戦 21 2 加藤清正 の肥後 小 西領 侵攻 戦 22 第五節 自力主義 ・当 知行主義 24 第六節 関ヶ原合戦 25 1 豊臣 奉行衆 の 動 向 25 2 家康の動 向 27 第三 章 関ヶ 原 合 戦後の戦 い 28 第一節 身上確保のための戦 い 29 1 美濃大 垣 の戦い 29 2 丹波福知山の戦い 30 3 豊後 臼杵 の戦い 31 4 筑後 の戦い 32 5 日向宮崎の戦い 34 第二節 肥後 芦北郡 の 戦 い 35 第三節 土佐 浦戸の 戦 い 38 小 括 40

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第二部

戦後領国体

の創出

~九 州地域 を 中心 に~ 41 はじめ に 41 第四章 没収地の 創 出 42 第一節 黒田 如水に よ る 豊 前・豊後西軍 大名領 国の没収 42 第二節 加 藤 清正 によ る肥 後小西領の没 収 44 1 宇土・ 八 代城の占拠 44 2 知行宛行 状の発給 45 3 禁制の発給 46 4 年貢の収 納と勧農 47 第三節 家康 の戦後 処 理 48 第四節 没収地の再分 配 51 第五節 没収地の引継ぎ 52 1 豊前・豊後国東郡の引継ぎ 52 2 土佐長宗我部領の引継ぎ 55 第五 章 安堵の 地 の 創 出 57 第一節 九州の特殊性 57 第二節 当知行の維持 62 1 中川・鍋島氏の当知行の維持 62 2 島津 氏の当知行 の 維持 64 第三節 島津領の安堵 68 小 括 72 終 章 73

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序章

本論は、一般的に関ヶ原合戦と呼称される慶 長五年(一六〇〇)の戦いをとりあげ、 こ の戦 いが戦後領 国 体制の創出にいかに関ったのかについ て 考察しようと い う も の で あ る。 徳川幕藩体制史研 究の進 展 の中で 、 関ヶ原合 戦は、徳川幕藩体制の成立基盤を築いた戦 いと して 位 置 づけ ら れ る よ う に な っ た。 たと えば、北島正元氏は、関ヶ原合戦の戦後処理 にともなう徳 川一門・ 譜代大名の創 出 と 全国 的配置 が 、徳 川氏 を最高権 力者 と す る幕藩体 制機構の政治 的骨格 を 作り出し、徳川直轄地の関東外への拡大 が 徳川氏の物質 的基礎 を 飛 躍的に 強 化す る 役 割を果 た したと し た。 また 藤野保氏 は、徳 川 幕府権 力 の拡大過 程が、徳 川一門・ 譜代大 名 の創 出・ 増強 の過 程 である と い う 理解 の も と、 そ の 戦 後 処理 を通し て 徳 川 一 門 ・ 譜 代 領 国 が 東海、 東山、 北陸・ 東北の一部、および畿内東辺地帯に拡大した点 に、関ヶ原合戦の歴史的意義が求められる とした。 このよ う に、徳川直轄 領ならびに徳川一門・ 譜代領国の創出・増強を可能にした点に関 ヶ原合戦の歴史的意味の多くが求められ てきた わ け で ある。た だし、戦後の大名配置図を よくよく眺め て み るならば、中国、四国、九州と い った西国地域には、徳川一門・譜代領 国が 一 つ も 設 置 さ れて いな いこ と に 気づ く 。 こ の 点に 着目す る な ら ば 、 関 ヶ 原 合 戦 が も た ら し たのは 、 徳川 一門 ・譜代領 国が 増 強 されなが らも 、西 国地域につ い て は その拡大が抑 止されると い う戦後領 国体制だ ったと い うことになろう 。 なお、 戦後領国体 制 が こ のよ うな特質 を も つ と い う 事実そ の もの は、 藤野氏 ら によっ て すで に 指摘されて き た ことで も ある。 た だ し 、 藤 野氏が そ れを 「関ヵ原の役の意義と 限界」 と い う 言 葉だけで 片付け た よう に 、 かくな る 戦後領 国 体制がで きあが っ た背 景を 、戦 いの あり方と関連付 け て 論 じるよ う な試 みは長らく行 われ てこなかった。 こ の ような中 、関ヶ原合戦 そのも の を正面からとらえなおし、その歴史的意味を再定置 しよ うとしたの が 笠谷和比氏 で ある。笠谷氏 は、 西国地 域 に徳 川一門・ 譜代 領国 が設置さ れなかった点 に着目し、 こ のよ うな大名配置地 図 が形成された背景 を次のよ うに説明 する。 東 軍 豊臣系大名による岐阜城攻略戦が 家 康の予想を超え て 早期に決着したため、徳川秀 忠率いる徳川主力 軍が九月一五日の関ヶ原合戦に間に合 わ な い とい う事態が発生した。徳 川主力軍 の不在は 、東軍 豊 臣系大名の 軍 事的 貢献度を高め、 こ の事実 が 論功行賞に反映さ れ た 結果 、没収 高 の八○パーセント 強が 豊臣系大名に恩 賞 と し て 宛 行わ れ、西 国 地域のほ とんどが 豊臣系国持大名の領国 で 占 められると い う 地 政学的状況 が 生成された。 ( 1) ( 2) ( 4) ( 3)

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従来 の研 究 で は 、 関ヶ 原合戦 の 戦 い のあ り方がも つ歴史的意味を追求す る よ うな 試みは ほとん ど なされ て こなかった。その意味 で 、 徳 川 一門・ 譜 代 領 国の全国 的拡大 が 抑止され た背 景を、関ヶ原合戦 の軍 事的展開から説明しようと した笠谷 氏の取り組みは 、 関ヶ原合 戦研究を飛躍的に前進させたと いえよ う 。 ただ し、笠谷 論には次のような 問題 点がある。それは 、美濃関ヶ原 で 勃 発した戦 いのみ から すべ てを説明しよ うとした点 である。笠谷氏 が 指摘 するよ う に、論功行賞に際し家康 が、関ヶ原合戦における東 軍 豊 臣系大名の 軍 功を重視したのは確か であろう。しかし、戦 い は 美濃関ヶ原だけで 勃発した わけではな い 。その他の地域 で も多くの戦い が勃発・展開 して お り 、こ れ ら の戦 いに 目 を 向 け る な ら ば 、 そ れ が 戦 後 領 国 体 制 の 創 出 に 大き く 関 って いた ことに気づく。 た とえば、 肥後国 で は、 加藤清正 軍と小西行長軍 の 戦 い が 勃 発したが 、 清正 がこの戦いを通し て占領した 領 域 ( 小西領 ) が、 そ の ま ま 加 藤 領に編 入 された 。 つ ま り、 清正の肥 後一国 ( 相良領を除く) 領 有 と い う 戦後領国体制は、肥 後 国における戦いを通し て創 り 上 げられた とい う側 面 を もつの で ある。した が っ て 、 戦 い の あり 方 と 戦 後 領国 体 制 の関係性を追及 す るには、関ヶ原以外の地域 で 勃 発した 戦 い に も目を向ける必要 があると いえ よう 。 ところで 、近年 に おけ る戦 争研 究の 高ま りの中で 、 前 近 代 の戦 いを 局地的な 「 合 戦 」 で は な く、 全国 規模の 「 戦争 」 と し て とらえよ うと する試 み が 行 わ れるよ う に な っ て き て い る。たとえば、一般的に源平合戦と称される治承 ・ 寿永期の戦 い を、全国的な「戦 争」と して と ら え な お し た川 合 康 氏は 、 地 域 社 会 の 動 向 に 着 目す るこ とで 、こ の戦 いが 地 域 的 な 領主間競合に基 づ い て 全国 に拡大し て い った こと、 こ のよ うな全国 規模の 戦 争 が 組織 され る中 で 、 鎌倉幕府権力の基礎 と なる荘郷地 頭 制や鎌倉 殿御家人制が形成され て い った こと を明らかにした。また、南北朝期の戦 争をとり あげ た小林一岳氏は、九州 地域の紛争を題 材に する こと で 、 この 戦争の基礎 に は一族・地 域 紛争 があった こと、そ れ が 公戦とリンク することで 地 域に戦 争 が拡大し て い った こと、 こ のよ うな南北朝期の戦 争を通し て 、 村落 と領主の関係が再構築され、一元化し て いった こ とを明らかにした。さらに、小牧・長久 手の戦 い に関す る 共同研究を行った織豊期研 究会は、 こ の 戦 い が小牧・長久手エリ ア に限 定される局地 戦 で はなく、広範 囲に わたる大規模 な戦役 で あった こ とを検証し、 この戦争 を関ヶ原の戦 いに比肩しうる「天下分け目の戦 い 」と位置づけ た。 これらの 研究 成果に示されるよ うに、 主 戦以外の 戦い や地 域の 動向に目を向 ける こと で、 戦いの実態が明らかにされ、戦いのもつ歴史的意味が 新たに見い だ されよ う とし て い るわ ( 5) ( 6) ( 7)

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けで ある 。ところ が 、 慶長五年 の戦 いに関 し て は 、関ヶ 原 以外の地域で も 多 く の 戦 い が 勃 発した と い う 事実そ の もの は認識 さ れ な がら も、 この 戦い を全国 規 模の 「戦争 」 とし てと らえよ う とする試 みはほとんど行 わ れ て こなかった。い う なれば、戦いの本質 を 見過ごし たまま、その歴史的意味が問 わ れ て きたの で ある。 以上の よ うな 問題 点を 踏まえ 、 本 論 で は 、全 国戦 争と いう 観 点 からこ の 戦 争 の本 質をと らえなおし、その本 質 に規定された戦 い のあり方が戦後領国体制の創出にいかに関ったの かにつ い て 考 察 す る。 なお、本 論 で は 、慶長五年の戦 い が関ヶ原に留まる局地戦で はな かった こ とを考慮し、 こ の 戦 い を 「 慶長五年 の戦 争」 と 呼 び、 九月 一五日に 美濃関ヶ 原で 起 こ った戦 い のみを 「 関 ヶ原合 戦 」と呼ぶ ことに す る。

第一部

戦争の本質

はじめに かつて 伊 東多三 郎 氏は 、 関 ヶ原合戦を、 「領土の拡張と征 服を目的と し た従来の戦 争 とは ちがい、政争の武力的解 決 手 段 とし て の 戦争 である」と定義した。 関ヶ原合戦の本 質 を政争 と 見 な すこ のよ うな 見解は、今もなお通説とし て の 地位を保っ て い るところである。また、本論 で 後 述 するよ う に、関ヶ原合戦は徳川家康と 石 田三成が 戦 前から抱 い て い た政治的欲求、すなわち 政 権の主導権を掌握す る と い う欲求を、戦 争と い う 手 段 で 実 現しよ う とした こ とで 勃発した もの であり、確かに政争 と 位置づけられるべ きもの で ある。 ただ 、ここで 問題にし て お き た いのは 、 関ヶ原合戦が 政争と し て の 特質を 有 す る からと いっ て 、 慶長五年の戦 争そのものが、家康や三 成の政治 的欲求だけ で 成り立っ て い た と は 限らな い と い うこ とで あ る 。序章で 繰り返 し 述べ たよう に 、戦 いは関ヶ 原だ けで 起こ っ た わ け で は な い 。全 国戦 争と いう 観 点 からす る な ら ば 、 関ヶ 原合戦は戦 争 の一 構成 要 素にす ぎず、 関 ヶ原合 戦 だけ でこの 戦 争 全 体 を 定 義 する ことは で き な い の である。 し た がっ て、 この 戦争 の 本 質 を 明 ら か に する に は 、 全 国 諸 地 域 で勃 発 し た 戦 い を 網 羅 的 に分析し、そ れぞれの 戦い がもつ特質から、 戦争の全体像を再構築 する必要 があるとい え よう 。そこで 、こ の第一部 で は 、諸 地域で 勃 発した戦 いを 可能な 限 りと りあげ 、 検討を 加 えて み た い。 ( 8)

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第一章 戦争 の基 本的特 質 個々 の戦 い を 具体的 に 分析す る 前 に 、こ の 戦 争の大ま かな 全体像 を 提 示 して お き たい。 【表1】は、慶長五年に勃発した戦 いを網羅的に拾い上げ 、時系列順に 並べたも の で 、い つ、 どこで 、 どのよ う な戦い が 勃発したのかを把握 す るために作成した もの である。 以下、 本表をもとに戦争の基 本的特質 を確認し てみよ う 。 まずそ の 特質 とし て第一 番 目にあげられるの は、 全国 を ほ ぼ 網 羅 す る形 で戦い が 勃発し たと いう 点 で あ る 。本 表に 示される よう に 、 筆者 が確認した だ け で も、 戦闘地 域 は四 九ヶ 所を数える。ま た 、その範囲は 、北は出羽国から南は日向国まで 二 二ヶ 国に 及んで お り、 全国 規模 で戦い が 勃発した ことがわかる。 第二番目にあげられるのは、戦 いの多くが 、 近隣大名どう しの城郭争奪戦とし て 展開し て い った点 で ある。 本 表の 「戦闘形態」の 項目を見 るとわかるよ う に、四 九 戦の内四二戦 が攻城戦 である。また、その「戦闘経過」に着目 すると、城攻めの主体をなしたの が 近隣 大名 で 、 開城が 実 現した場合は必ずと言っ て いいほど、その近隣大名によっ て 城 が接収さ れた ことがわ かる。 こ こ に 示されるよ う に、 こ の 戦 争 の大部分を構成し て い たのは、近隣 大名どう しの城郭争奪戦で あ っ た。 第三番目にあげられるのは、 関ヶ原合戦後も 新 た な 戦 い が 勃 発し続け たと い う 点 で ある。 本表に示されるよ うに、 九 月一五日以降に勃発した戦いは一八 (番号 32 49 を 数 え る 。 この 中に は、 関 ヶ 原 合 戦の 結 果 が伝 わる前 に 勃 発 した 九州や東北地域の戦い も含まれるが、 少な くとも番 号 33・ 34 40 49に関し て は、 戦いの実行者た る 大名 が関ヶ原合 戦 の結 果、 つ ま り政争 の 帰趨 を 承 知した 上 で、新 た に始 め た 戦い である こ と が 確認 できる。 この こと は、 この 戦争 が政権 主 導者 を決定 す るため だ けに戦われた もの ではない ことを示し て い る とい えよ う。 ( 9)

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【表 1】慶長5年に勃発した戦い No. 時期 場所 戦闘形態 戦闘経過 典拠 1 7/15~7/19 摂津国東成郡 大坂 攻城戦 豊臣奉行衆の要請を受けた毛利輝元(安 岐広島城主)が軍勢を率いて上坂。西の 丸の徳川軍を駆逐し大坂城を占拠。 松井416、浅野 113 2 7/19~9/13 丹後国加佐郡 田辺 攻城戦 西軍の小野木公郷(丹波福知山城主)ら が細川幽斎の居城田辺城を攻撃。籠城 戦を経たのち勅命講和により田辺城は開 城。小野木軍が田辺城を接収。 松井420・423・ 424、浅野113、 中川91・94、綿 考(1)192- 276、戦史306-313 3 7/21~8/1 山城国紀伊郡 伏見 攻城戦 西軍の宇喜多秀家(備前岡山城主)・島 津義弘(大隅帖佐城主)・小早川秀秋(筑 前名島城主)らが徳川家臣鳥居元忠の 守る伏見城を攻撃。攻防戦を経たのち伏 見城は陥落。 浅野113、真田 42、戦史115-127 4 7/24~7/25 陸奥国刈田郡 白石 攻城戦 東軍の伊達政宗(陸奥岩出山城主)が上 杉景勝領の白石城を攻撃。攻防戦を経 たのち白石城は陥落。伊達軍が白石城 を接収。 朝野(22)575- 634、戦史241-245 5 7月下旬 陸奥国伊達郡 川俣 攻城戦 伊達政宗配下の桜田元親(磐城宇多郡 駒嶺城主)が上杉景勝領の川俣城を占 拠。攻防戦を経たのち上杉軍が川俣城を 奪還。 戦史245 6 8/1~8/3 加賀国江沼郡 大聖寺 攻城戦 東軍の前田利長(加賀金沢城主)が山口 宗永の居城大聖寺城を攻撃。攻防戦を 経たのち大聖寺城は陥落。前田軍が大 聖寺城を接収。 家康(中)617、 朝野(23)504- 645、戦史275-286 7 8/1~8/3 越後国北魚沼 郡下倉 攻城戦 上杉景勝(陸奥会津若松城主)の軍勢が 小倉政熙(堀秀治家臣)の居城下倉城を 攻撃。堀軍の反撃を受け上杉軍は撤退。 家康(中)559-560、朝野(23) 443-446、戦史 267-271 8 8/3 越後国古志郡 橡尾 攻城戦 上杉旧臣が神子田基昌(堀秀治家臣)の 居城橡尾城を攻撃。蔵王城主堀親良が 援軍に赴き上杉旧臣軍を撃退。 家康(中)726、 朝野(23)434-442、戦史271 9 8/7~8/8 越後国南蒲原 郡三條 攻城戦 上杉旧臣が堀直次(堀秀治家臣)の居城 三條城を攻撃。溝口宣勝(越後新発田城 主)・村上義明(越後本荘城主)が援軍に 赴き上杉旧臣軍を撃退。 家康(中)728、 朝野(23)470- 486、戦史271-273 10 8/9 加賀国能美郡 浅井畷 野戦 大聖寺の戦いを終え金沢に帰還しようと する前田利長軍を丹羽長重(加賀小松城 主)の軍勢が攻撃。 朝野(23)646- 785、戦史289-293 11 8/16 美濃国安八郡 福束 攻城戦 東軍の横井時泰(尾張赤目城主)・徳永 寿昌(美濃松之木城主)・市橋長勝(美濃 今尾城主)らが、丸毛兼利の居城福束城 を攻撃。攻防戦を経たのち福束城は開 城。市橋軍が福束城を接収。 朝野(22)147- 173、戦史139-140 12 8/19 美濃国下石津 郡高須 攻城戦 東軍の徳永寿昌らが高木盛兼の居城高 須城を攻撃。攻防戦を経たのち高須城は 開城。徳永軍が福束城を接収。 朝野(22)174- 204、戦史141-142 13 8月下旬 美濃国恵那郡 苗木 攻城戦 東軍の遠山友政(旧苗木城主)が川尻直 次の居城苗木城を攻撃。攻防戦を経た のち苗木城は開城。遠山軍が苗木城を 接収。 戦史142 14 8/21~8/23 美濃国厚見郡 岐阜 攻城戦 東軍の福島正則(尾張清州城主)・池田 輝政(三河吉田城主)・細川忠興(丹後宮 津城主)らが、織田秀信の居城岐阜城を 攻撃。攻防戦を経たのち岐阜城は陥落。 福島・池田軍が岐阜城を接収。 家康(中)626- 639、戦史155-164

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15 8/23 美濃国羽栗郡 竹ヶ鼻 攻城戦 東軍の黒田長政(豊前中津城主)・田中 吉政(三河岡崎城主)・藤堂高虎(伊予板 島城主)らが杉浦五左衛門の居城竹ヶ鼻 城を攻撃。攻防戦を経たのち竹ヶ鼻城は 陥落。 戦史158-159 16 8/23 美濃国方縣郡 合渡 野戦 大垣城をめざす黒田長政・田中吉政・藤 堂高虎ら東軍と大垣城から出撃してきた 西軍が長良川の合渡の渡場で衝突。 家康(中)643、 戦史165-168 17 8/24~8/25 伊勢国安濃郡 安濃津 攻城戦 西軍の毛利秀元(周防山口城主)・吉川 広家(出雲富田城主)・安国寺恵瓊・長宗 我部盛親(土佐浦戸城主)・鍋島勝茂(肥 前佐賀城主)・長束正家(近江水口城 主)・山崎定勝(伊勢竹原城主)・松浦久 信(伊勢井生城主)・蒔田広定(伊勢雲出 城主)らが富田信高の居城安濃津城を攻 撃。攻防戦を経たのち安濃津城は開城。 山崎・松浦・蒔田軍が安濃津城を接収。 中川94、浅野 113、朝野(21) 450-524、戦史 129-134 18 8月下旬~ 9/5 美濃国加茂郡 城ヶ根 攻城戦 東軍の遠藤慶隆(美濃小原領主)が遠藤 胤直(美濃犬地領主)の守る城ヶ根城を 攻撃。小戦を経たのち城ヶ根城は開城。 戦史149 19 8月下旬~ 9/15 伊勢国桑名郡 長島 攻城戦 西軍の鍋島勝茂と原勝胤(美濃大田城 主)が福島正頼の居城長島城近郊に侵 攻。関ヶ原敗戦の知らせを受け鍋島軍は 撤退。 朝野(21)544- 565、戦史135-136 20 8/28~9/4 美濃国郡上郡 八幡 攻城戦 東軍の遠藤慶隆が稲葉貞通の居城八幡 城を攻撃。和議により八幡城は開城。遠 藤軍が八幡城を接収。 家康(中)542-543、朝野(22) 205-313、戦史 146-149 21 9/1~9/15 美濃国恵那郡 岩村 攻城戦 東軍の妻木貞徳(美濃妻木領主)・丹羽 氏信(美濃伊保領主)・遠山友政らが田 丸忠昌の居城岩村城を攻撃。攻防戦を 経たのち岩村城は開城。遠山軍が岩村 城を接収。 朝野(22)314- 347、戦史142-144 22 9/5~9/9 信濃国小縣郡 上田 攻城戦 徳川秀忠が真田昌幸の居城上田城を攻 撃。家康の西上命令により攻撃は中止。 黒田6・7、浅野 112、真田51、 戦史317-322 23 9/6~9/24 伊予国伊予郡 三津浜 野戦 毛利輝元配下の宍戸景好・村上景房・木 梨景吉らが加藤嘉明(伊予松前城主)の 所領に侵攻。対する加藤軍が三津浜に 在陣する毛利軍を襲撃。攻防戦を経たの ち毛利軍は撤退。 朝野(24)155- 198、戦史331-333 24 9/8 越後国南蒲原 郡下田 野戦 堀親良(越後蔵王城主)が下田村に立て 籠もる旧上杉家臣軍を攻撃。 家康(中)727、 朝野(23)496- 497、戦史274-275 25 9/9~9/13 豊後国速見郡 木付 攻城戦 西軍の大友義統(旧豊後国主)が細川忠 興領の速見郡木付城を攻撃。対する細 川軍は黒田軍の援軍を得て石垣原で大 友軍を撃退。 松井450、黒田 13・31、戦史 338-339 26 9/11~9/13 志摩国答志郡 鳥羽 攻城戦 東軍の九鬼守隆(志摩鳥羽城主)と西軍 の九鬼嘉隆(守隆父)・堀内氏善(紀伊新 宮城主)が鳥羽城下で衝突。攻防戦を経 て鳥羽城は開城。守隆が鳥羽城を接収。 家康(中)671、 朝野(24)722- 783、戦史314-317 27 9/12~9/13 出羽国東村山 郡畑谷 攻城戦 西軍の上杉景勝が最上義光領の畑谷城 を攻撃。攻防戦を経たのち畑谷城は陥 落。上杉軍が畑谷城を接収。 朝野(23)167- 196、戦史250-252 28 9/12~9/15 近江国滋賀郡 大津 攻城戦 西軍の立花宗茂(筑後柳川城主)・毛利 秀包(筑後久留米城主)らが京極高次の 居城大津城を攻撃。攻防戦を経たのち大 津城は開城。立花軍が大津城を接収。 朝野(21)595- 720、戦史322-327

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29 9/12~10/2 豊後国国東郡 富来・安岐 攻城戦 東軍の黒田如水(豊前中津城主黒田長 政の父)が垣見一直の居城富来城と熊 谷直盛の居城安岐城を攻撃。攻防戦を 経たのち両城は開城。黒田軍が両城を 接収。 黒田175・220、 松井450、黒譜 429-441、戦史 338-341 30 9/14 美濃国不破郡 杭瀬 野戦 西軍の島左近らが杭瀬川を渡り東軍の 陣所を攻撃。東軍の中村一栄(駿河府中 城主中村一忠の叔父)らと一戦に及ぶ。 その日の内に両軍とも撤退。 戦史187-188 31 9/15 美濃国不破郡 関ヶ原 野戦 大垣城に集結していた石田三成ら西軍と 赤坂に集結していた徳川家康ら東軍が 関ヶ原で衝突。戦いは東軍の勝利に終わ る。 伊達706、戦史 199-218 32 9/15~10/1 出羽国南村山 郡長谷堂 攻城戦 西軍の上杉景勝が最上義光領の長谷堂 城を攻撃。最上・伊達軍の反撃を受け上 杉軍は撤退。 伊達715、朝野 (23)197-402、 戦史254-262 33 9/17~9/18 近江国犬上郡 佐和山 攻城戦 小早川秀秋・朽木元綱(近江朽木城主)・ 脇坂安治(淡路洲本城主)・田中吉政・宮 部長熙(因幡鳥取城主)らが石田三成の 居城佐和山城を攻撃。攻防戦を経たのち 佐和山城は陥落。徳川軍が佐和山城を 接収。 伊達706・710、 朝野(21)721- 764、戦史219-222 34 9/17~9/23 美濃国安八郡 大垣 攻城戦 徳川軍と東軍に寝返った相良頼房(肥後 人吉城主)・秋月種長(日向財部城主)・ 高橋元種(日向縣城主)が福原長蕘(旧 豊後府内城主)らの守る大垣城を攻撃。 攻防戦を経たのち大垣城は開城。徳川 軍が大垣城を接収。 相良876、戦史 327-331 35 9/19~ 10/17 肥後国宇土郡 宇土 攻城戦 東軍の加藤清正(肥後熊本城主)が小西 行長の居城宇土城を攻撃。攻防戦を経 たのち宇土城は開城。加藤軍が宇土城 黒田175、松井 457、浅野115、 宇土(近)80、 36 9/22 紀伊国牟婁郡 新宮 攻城戦 東軍の桑山一晴(紀伊和歌山城主)・杉 谷氏宗(紀伊田辺城主)が堀内氏善の居 城新宮城を攻撃。攻防戦を経たのち新宮 城は開城。 朝野(24)149-154 37 9/24~ 10/11 肥後国芦北郡 佐敷 攻城戦 薩摩の島津軍と肥後人吉の相良軍が加 藤清正の支城佐敷城を攻撃。攻防戦を 経たのち島津・相良軍は撤退。 関ヶ原71・73 38 9月下旬 豊後国日田・玖 珠郡 攻城戦 東軍の黒田如水が毛利高政の居城日田 城と支城角牟礼城を攻撃。小戦を経たの ち両城は開城。黒田軍が両城を接収。 黒田220、松井 450、黒譜440-441、戦史341 39 9/27 豊後国北海部 郡佐賀関沿岸 海戦 薩摩帰国の途にある島津義弘の船団を 黒田如水軍が攻撃。 黒譜434-439、 戦史341-342 40 9/27~10月 上旬 丹波天田郡福 知山 攻城戦 細川忠興(丹後宮津城主)・谷衛友(丹波 山家領主)・藤掛永勝(丹波上林領主)・ 川勝秀氏(丹波何鹿領主)・木下延俊(播 磨姫路城主)・前田茂勝(丹波亀山城主) らが小野木公郷の居城福知山城を攻 撃。攻防戦を経たのち福知山城は開城。 細川軍が福知山城を接収。 関ヶ原(参) 10、綿考(2) 373-389、戦史 358-363 41 9/28~10/4 豊後国北海部 郡臼杵 攻城戦 中川秀成(豊後岡城主)が太田一吉の居 城臼杵城を攻撃。攻防戦を経たのち臼杵 城は開城。黒田軍が臼杵城を接収。 黒譜439-440、 黒田34、戦史 342-345 42 9/30~10/1 日向国宮崎郡 攻城戦 伊東祐兵(日向飫肥城主)の軍勢が高橋 元種の支城宮崎城を攻撃。攻防戦を経 旧記1249、黒 譜453-454、戦

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表註 ①戦闘らしい戦闘が行われなかった場合でも、出軍が確認できたものについては記 載した。 ②〔No.48〕と〔No.49〕は慶長 6 年に入ってから勃発したものであるが、本戦の延 長線上に位置づけられることから記載した。 ③典拠の記載については下記の通り略した。 「松井」=『財団法人松井文庫所蔵古文書調査報告書』(八代市立博物館、1997 ~1998 年)、「浅野」=東京大学史料編纂所編『大日本古文書 浅野家文書』(東 京大学出版会、1968 年覆刻)、「中川」=神戸大学文学部日本史研究室編『中川 家文書』(臨川書店、1987 年)、「綿考」=石田晴男・今谷明・土田將雄編『綿考 輯録』(出水神社、1988 年)、「戦史」=参謀本部編『日本戦史 関原役』(村田書 店、1977 年、初版は 1893 年)、「真田」=大阪城天守閣編『真田幸村と大坂の陣』 (大阪城天守閣特別事業委員会、2006 年)、「朝野」=『朝野舊聞裒藁』(汲古書 院、1984 年)、「家康」=中村孝也『新訂徳川家康文書の研究』(日本学術振興会、 1980 年)、「黒田」=福岡市博物館編『黒田家文書』第 1 巻(福岡市博物館、1999 年)、「黒譜」=川添昭二校訂『黒田家譜』第 1 巻(文献出版、1983 年)、「伊達」 =東京大学史料編纂所編『大日本古文書 伊達家文書』2(東京大学出版会、1982 年覆刻)、「相良」=東京大学史料編纂所編『大日本古文書 相良家文書』2(東京 大学出版会、2001 年覆刻)、「宇土」=宇土市史編纂委員会編『新宇土市史』資 料編第 3 巻(宇土市、2004 年)、「吉村」=大阪城天守閣所蔵「吉村文書」、「関 ヶ原」=『関ヶ原合戦と九州の武将たち』(八代市立博物館、1998 年)、「旧記」 =鹿児島県歴史資料センター黎明館編『鹿児島県史料旧記雑録』後編 3(鹿児島 県、1983 年)。数字は、「松井」「浅野」「中川」「黒田」「伊達」「相良」「宇土」「吉 村」「旧記」が史料番号、「真田」「関ヶ原」が出品番号ならびに参考資料番号、 「綿考」「戦史」「朝野」「家康」「黒譜」が頁数を示す。( )内の数字は巻数を 示す。ただし、「関ヶ原」の(参)は参考資料番号を「宇土」の「近」は近世編 を示す。 43 10/3~ 10/14 豊前国田川郡 香春・企救郡小 倉 攻城戦 東軍の黒田如水が毛利吉成の居城小倉 城と支城香春城を包囲。交渉の結果、両 城は開城。黒田軍が両城を接収。 黒譜442-443、 旧記1249、戦 史341 44 10/5 因幡国邑美郡 鳥取 攻城戦 東軍の亀井茲矩(因幡鹿野城主)が宮部 長熙の居城鳥取城を攻撃。攻防戦を経 たちのち鳥取城は開城。亀井軍が鳥取 城を接収。 朝野(24)118- 148、戦史363-366 45 10/6 陸奥国信夫郡 福島 攻城戦 東軍の伊達政宗が上杉景勝領の福島城 を攻撃。上杉軍の反撃を受け伊達軍は 撤退。 伊達715・717・ 718、戦史296-305 46 10/14~ 10/25 筑後国山門郡 柳川・三潴郡久 留米 攻城戦 加藤清正・黒田如水・鍋島直茂が立花宗 茂の居城柳川城と毛利秀包の居城久留 米城を攻撃。攻防戦を経たのち両城は開 城。黒田軍が久留米城を加藤軍が柳川 城を接収。 旧記1256、宇 土(近)86、吉 村18、黒田15・ 35、黒譜445- 452、戦史366-373 47 11/30~ 12/5 土佐国吾川郡 浦戸 攻城戦 徳川家臣の鈴木重好らが長宗我部盛親 の居城浦戸城を接収するため土佐に入 国。これに対し長宗我部家臣が反乱を起 す。戦闘を経て浦戸城は開城。徳川軍が 浦戸城を接収。 朝野(24)198- 234、戦史373-375 48 慶長6年4月 出羽国飽海郡 酒田 攻城戦 東軍の最上義光(出羽山形城主)が上杉 景勝領の酒田城を攻撃。攻防戦を経た のち酒田城は開城。最上軍が酒田城を 接収。 朝野(23)404- 424、戦史262-265 49 慶長6年4月 出羽国飽海郡 菅野 攻城戦 仁賀保擧誠(出羽仁賀保領主)が上杉景 勝領の菅野城を攻撃。攻防戦を経たのち 菅野城は陥落。 家康(下)63

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第二章 大 坂 ・伏見の 戦いから 関 ヶ 原合戦ま で 第一節 大坂 ・伏見の 戦い (七月一五日~八 月一 日) 1 戦前の政治状況 本章 では、先 に列挙した 戦 いの内、関ヶ原合 戦ならびにそれ以前に勃発した諸地域の戦 いをと り あげ 、具体的に 検 討を 行う 。 本節 で は 、も っとも 早 い時期に勃発した大坂・伏見の戦 い をとりあげる。 この戦い は、豊臣奉行衆(石 田 三成・前 田玄以・ 増田長盛・ 長 束正家) が、 毛利輝元ら 西国大 名 に大 坂・ 伏見 城への出 軍を要 請 した こと で勃発した も の で ある が、 なぜ彼 ら は、 この 二 つ の 城 に 軍 勢 を 向 け た の か 。 この 問 題 を考 え る た め に ま ず は 、 戦 前 の 政治 状況 に つ いて 確 認 して み よ う 。 豊 臣 秀吉 はその遺言 で 、 五 大 老 (徳 川家 康・前 田 利家・ 宇 喜 多 秀家・ 上 杉景勝・ 毛利輝 元) ・ 五 奉行 (前 田玄以 ・ 浅野長政 ・ 増 田長盛 ・ 石 田 三成 ・ 長 束正家) の合議による政権 運 営を指示 するとともに、利家 は豊臣秀頼の 後見 人と して 大坂城に 居住す る こ と 、 家 康は 伏 見城で 政 務を司るこ と 、 奉 行衆は 交 代 で 大坂 ・ 伏 見城の留 守番をつと め るこ とを 指示した。 この遺言か ら は、政治 の 中 枢 で ある伏見 城 と 秀頼の 御 座所 である大 坂城を家 康 と 利家 に分 掌させるこ と で 、 政治権力が 家 康に集中 して しまう 事 態を防ごうとす る 秀 吉 の意図を 見 て 取る ことができる。つまり、家 康の政治権力を制限しつつ、合議体制の維持を図るとい う のが秀 吉 の遺志 で あ っ た。ところが 、秀 吉の死 か らお よそ一年 の内に、豊臣政権の実権は 家康に掌握され て し まう。 秀 吉 が 没 した直後 から 家康は 、 伊達 政宗ら 有 力 大 名と 婚姻関 係 を 結 ぶなど 、 自己 の 勢 力 拡大につとめた。 これに対し、豊臣奉行衆と毛利輝元は、反家 康 の同 盟関係を取り結ぶと ともに、家 康 暗殺の謀 議を重ねた。 秀吉の死から半年たっ てもなお、家 康 が伏見城に入 城 す る ことなく、伏見城下の自邸に留まり続け たのは、 こ の ような反 家康 勢力の動向を警戒 したため で あ ろう 。ところが 、 前田利家の死を契機に、家康の政治権力は い っきに拡大し てい く こ と に な る 。 慶長四年閏三月三日に利家 が死去 す ると、朝鮮出兵の論功行賞をめぐり三成と対立し て いた加 藤 清正・ 浅 野幸長・蜂須賀家政・福島正 則 ・藤堂高虎・黒田長政・細 川忠興の七将 が蜂起し、大坂・ 伏見 城を占拠 する。 こ れにより三成は、居城佐 和 山への撤 退を余儀 なく され、政権 運 営の場から追 われることになっ た。いっぽう の家康は、長政らの庇護のもと 閏三月 一 三日に伏 見入城を果 た し、その半年 後の 九月には大坂城西の丸 に居 を構 えた。 ( 10 ( 11 ( 12 ( 13 ( 14

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かくし て 、大坂・伏見の両城が 家康の掌中に収められることになった わ けであるが、 こ れにより家康の命令は、たとえそれが 大 老・ 奉行衆の合意に基づかな い 命令 であっ て も、 公儀の命 令とし て 諸大名から受け止め ら れるよ う に な った。 次 の史料はその ことを示 すも ので あ る 。 【 史 料1】 ( 慶長 四年 )九月二一日 付島津 忠 恒宛 島津義弘 書状 尚以帖佐 ・ 山 田 ・ 蒲生 ・ 吉 田 之 人衆出水表へ可被召移之由、 度 々御談合申定候キ、 然処、庄内堺へ御城取ニ付、右四ヶ所之人数被召移之由相聞候、無心元存候、當 時之地 頭 ニ内談いたし、移望申儀 も 可有之候、併庄内事ハ一節の儀ニ候、いつミ の儀ハ肥筑表之一の城戸に て 候 間、彼表之儀手かたく御かくこ 候ハ て ハ 、貴所御 為ニ罷成ましく候、其御心得専一候、我 等事ハ老躰に て 候 間、後年 貴所御手前可 然様ニ可被仰付候、はや肥筑表きざし候之由申 来 候、就夫も い つミ表之儀於不審 ハ、庄内口の御行も 急 ニ 難 済候之条、さて 申 入候、以上、 態令啓達候、 一今度於大坂 内府様天下之 御仕置被仰 定 候ニ付 、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前 守殿當時賀州へ在 國候 ヲ 、 無上洛様にと被仰下候、自然強而於上洛者、越前表に て 可被相留 之由候 て 、 刑少殿の養子大谷大学殿 ・ 石治少之内衆一千餘、越前へ被下置 候事 、 一加 藤主事も無 上 洛様にと被仰付候、其上ニ 罷上ニお ひて ハ、淡路表にて 可 被相支之 由候 て 、 菅平右衛門尉殿 ・ 有馬中 書 両人ニ被仰付、彼表へ被指越候 、如 斯必 定承付 候間、為心持申入候、乍不申諸人不承様に、校量肝心候、其故ハ京都出合、國元へ 申通候と 露顕候へは 、 爰元之仕 合も 難計候之事 、 一出水表之儀心遣候之条、 竜 伯 様江被遂御熟談、彼境之番尓々可被仰付事、頼入候 之事 、 一加 主事ハ連々氣任之 仁候 間、 無 思 慮 弓 箭 を も被取出儀 も 可有之候之歟、 左 様 な る時、 出水 表於 不番ニ者、油断ニ 可罷成候、殊佐敷 表之儀も、小摂・相良なと被乗取躰ニ 候て ハ 、 後 年 御 為 如 何 敷 候 、又加主方・手色不見処ニ、従御方角佐敷表へ楚忽 な る 儀をも仕出候へは、一揆の手初に可罷成候間、いかにも丈夫なる仁を被召置、其仁 壱人迄ニ内證被仰聞、油断をも不 仕 、又楚忽 なる儀をも不申出様ニ能 々 被仰付、彼 表之様子被聞届、賢慮頼入候事、 ( 後略) 大坂に入城した家康は、前田利長と 加藤清正の上洛差し止めを決定し、その決定を貫徹 ( 15 ① ④ ② ③

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す べ く諸大名に越前 ・ 淡路表への出動を命じ て い る ( 傍線部② ・ ③ ) 。 こ の 家康の命令を義 弘は、 「 天下之御仕置」 ( 傍線部①) と 表し て い る。 すなわち義弘は、家 康 の命 令を公儀の 命令と 認 識して い る の で あ り、 「 家 康 の 命令」 = 「公 儀の 命令」 と いう 秩序が 形 成されつつ あった こ とがわ かる。 同様の こ とは、次の史料からも窺うことがで きる。 【史料2】 ( 慶長五年)四月二七日付島津義久宛島津義弘 書状 (猶々書 略) 追而奉啓上候、仍今朝 内府様へ罷 出 、庄 内一着之 御礼申 上 候、 別而 御氣 色能 、入 来 院又六・善載坊 被 召出、御前ニ て 御 食被下候 、随而長尾殿之上洛延引ニ付、様子為可 被聞召、伊那圖書 頭殿并御奉行中よりも使者 を 被 相添 、去月十日伏 見御 打立 、會津 へ 下向候、必六月上旬 之比者可為上洛候条、御返事 申はな さ れ候ハ ゝ 、依其返事、内府 様御出馬 可被出ニ御定候、就夫伏見之御城可致御留 守 番 之 由、御面を以拙者へ被仰付 候、當座言上候ハ、何も御意之段承候、於様子者、御間之使迄可申上由申候而、御前 を罷 立候、然 者爰 元御知人 中へ も尋申 候 、 各 被仰 候ハ、何之道 ニ て も公儀候条、 御下 知次第仕候而、可然候ハん由被仰 事 に候、 (後略) 慶長五年に入 ると家 康 は、 領国 で 不 穏 な 動きを見せる上杉景勝 に上洛を命じるとともに、 上洛が拒否された場合、 自 ら兵を率い て 会津へ出兵 す る方針 で ある ことを諸大名に示した。 その際、伏見城の留守番を 命じられた義弘は 、こ の 命 令 に 従う べき か 否 かを 周 囲 の 知 人に 相談し て いる。 傍 線部は知人た ち の 返答内容を示すが、 誰 もが、 「 公儀の こ となの で 、 家 康 の 下 知 に 従 う べ き である」 と答 えた とい う。 この ことか ら も、 「家 康の命 令 は、 公儀 の命 令 である」と い う 秩 序が形成されつつあった こ とがわ かる。 こ の よう に、大坂 ・伏 見城が 家 康に占 拠 され、家康の独断に よ っ て 公 儀 の意 志が 決せら れると い うのが 、 戦 前 の政治状況 で あった。 2 豊臣奉行衆によ る 大坂・伏見 城 攻め さ て 、 こ のよ うな政治状況の中、豊臣奉行衆が反家 康 の 軍 事行 動を開始 する。慶長五年 七月、家 康 が 会 津 出兵のため大 坂城を離 れる と、豊 臣 奉行 衆は、 毛利輝元 を 味 方 につ け、 家康討伐の挙兵を宣言した。その際発せられた 「 内府 ち か ひ の 条々」には、家康が独断 で 政権 運営を行っ て い る こと、その家 康を討伐 するため「鉾楯」に及んだことが 述 べられ て おり、彼らの挙兵の目的が、先 に述べたよ う な政治 状 況を打破 する ことにあった ことがわ ( 16 ( 17

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かる。すなわち 豊 臣奉行衆は 、 家康独 裁 体制の打破と いう 政治目標を達成す るために挙兵 に及ん だ わけ である。そし て 、 このよ う な目 標を掲 げ た彼 ら が 最初 に行ったの が 、大坂・ 伏見 城攻め で あった。 会津出兵に際し家康は 、大坂城西 の 丸に徳川 家臣五〇〇 ~ 六〇〇 人 を、伏 見 城に一、八 〇〇 人余の 軍 勢を残し置いた。 こ の 大坂・伏見城を攻撃す るため、豊臣奉行衆は毛利輝元 に上坂を要請 するとともに、 宇喜多 秀 家・島津義弘・ 小 早 川 秀秋ら西国大名の 軍 勢 を伏見 城に派遣した。 毛利 軍が 大坂城に押寄せると、西の丸の徳川軍はほどなく伏見城に撤退し て いるの で 、 大坂 城で は 戦 闘 ら しき 戦 闘 は 行 わ れ な か っ た も の と 考 え ら れ る 。 し か し 、 一 方 の 伏 見 城で は、鳥居元忠率い る徳川 軍 が籠 城し て 抵 抗したため、激しい攻防 戦 が繰り広 げられる こと にな った。 こ の よう に、豊臣奉行衆が 徳川軍 の 守る大坂 ・伏 見城を攻撃したため、戦 い が 勃 発す る ことに な った わけ である が 、 こ こで注目し て おきたいの は 、 こ の城攻め が城郭の占拠を到 達点 とし て 行 われた と い う 点 で ある。次の史料はその ことを示 すもの で ある。 【史料3】 ( 慶長五年)八月一〇日付真 田昌幸・ 幸村宛石 田三成書 状 (前 略) 一先書にも 如 申、臥見之城、家康留守居鳥居彦右衛門をはしめ、七頭歟千八百余残置 候處、 此 時宜候間、 関東へ明退候へと 申 候へ共、 りくつ申候間、 去 朔日四方・乗入、 一人 も不残討 果候、 鳥彦右首ハ御鉄炮 頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雑人はら ふミけがし候間不残焼拂候、大坂之儀 も 西之丸ニ人数五六百ほと残置候を追出、臥 見へ追入、輝元被入替候、是又臥見ニ て 同前ニ討果候、臥見に て 各 手を砕乗崩候、 九州なとの衆別而手柄を被仕候、大坂ニハ増右被居候、輝元在城候、臥見ニも六七 千にて 、 掃除普請以下 申付候、然間 京都 大坂静ニ候、 (後略 ) 本状は、伏見城攻めの顛末を信濃上田城の真 田氏 に伝 えるため に書 か れ た も の で ある。 三成は そ の経緯につ い て 、「鳥居元忠に関東へ明け退く よう 申したけれども 、 こ れ を 拒 否し たの で 、 城に乗り入れ悉く討 ち 果たした」 ( 傍線部)と述べる。 こ の三成の言葉に従えば、 伏見 城攻め は 、伏見 城 の明け渡しを実現 する手 段 とし て 行 われた こ とに なる。つまり、彼 らが 大坂 ・伏 見城を攻撃したのは 、 こ れ を守る徳川軍 を殲滅す る た め で はなく 、 そこ から 徳川 軍を追い 払い、代っ て これを占拠 す るため で あった。 では、 彼 ら が そ れ を企 図した の は な ぜ か 。 先 に述 べたよ う に、 秀吉 死後の家康は、 大 坂・ ( 18 ( 19

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伏見 城を占拠 する こと で 、 豊 臣 政権の公儀を独占し て いった。そし て 、 豊 臣 奉行衆が挙兵 したの は 、 こ のよ うな政治 状況 を打破 す るため で あった。 これらの ことを考 え合 わせる な らば、彼らが 大坂 ・伏 見城の占 拠を 企図 したのは 、家康の命令が公 儀の命令で あ ると いう 秩序を瓦解 さ せ、代っ て 彼 らの命 令が公儀の命 令 で あるとい う秩序を創り出 す ため だった といえよ う。 すなわち 、 こ の戦い は 、政権の主導権を取り戻そ うとする豊臣奉行衆の政治 的意図に基づき引き 起 こ された も の で あった。 第二 節 細川忠興領における戦い (七月一九日 ~九月一三日 ) 細 川 忠興の所 領 で ある丹 後 国 と 豊 後 国速見郡 では、七月から九月にかけ て戦い が 勃発し て い る。 この戦い は、忠興の速見 郡 領有問題を原因の一つとし て 勃 発した も の で ある。よ っ て まず は、忠興 が速見 郡 を 領 有 す るに至った経緯 を 確認し て お こ う。 速見郡はもともと福原長堯 (石 田三成の女婿) の 所領 であった。 長 堯は慶長二年に速見 ・ 大分両郡の内に知行を与えられ府内城に居住。さらに翌年、蔚山城籠城戦(慶長二年一二 月 ~ 慶長三年一月)における 蜂 須賀家政・黒 田長政・藤堂高虎・加 藤清正・早 川長政・竹 中重信の行動を怠慢と評する報告を秀吉に上 げる こと で 、 豊 後 国内に領地を加 増 された。 ところが 、秀 吉の死後 、こ の報 告を 不服とす る黒田長 政・蜂須賀家政らが 訴 訟を 申し立て ると、家 康は長堯の所 領を没収し、その一部 である速見 郡 六万石 を 忠興に分け与えた。そ の際発せられた知行方目録 (慶長五年二月七日付) に は、 「内府公被任御一行之旨、 全可有 御知行之状如件」 と記され て お り、 こ の 知行給付が 家 康の独断 で 決 せられた ことがわ かる。 秀吉の 死 に際し家 康 は 、 五 奉行 に起 請文を 提 出し、 秀 頼 が 成人 するま で は知行 に 関 す る 取次ぎを行 わ な い ことを誓っ て いる ( 「 御知行方之儀、 秀 頼様御成人之上、 為御分 前 不被仰 付以前ニ、不寄 誰 御訴訟雖有之、一切不可申 次之候、況手前之儀、不可申上候、縦被下候 共、拝領 仕 間 敷事 」 ) 。し たが って 、こ の 知 行給 付は 、五 奉 行 と 取 り 交 わ し た誓約 に 違 反 す る行為と し て 位置づけられる。現に 豊臣奉行衆は 、先に示した「内府ち か ひ の条々」の中 で 、 こ の 知行給付を家康討伐の根拠とし てあげて いる ( 「 知行方之儀、 自 分 ニ被召置候事者 不及申、 取 次 をも有 間 敷由、 是 又、 上巻誓帋之筈を ち かへ、 忠 節 も 無之者共ニ被出置候事」 ) 。 そして 、 丹後 ・豊後 速 見郡 の戦 いは 、こ の知行給 付を 不当とす る 豊 臣奉行衆が 、 諸 大 名に 忠興所 領 の攻撃を指示した こと で 勃 発した も の で あった。 慶長五年七月、家康討伐の挙兵を宣言した豊臣奉行衆は、丹波・但馬の諸大名に対し、 次のよ う な書 状を送っ て い る。 ( 20 ( 21 ( 22 ( 23 ( 24

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【 史 料4】 ( 慶長五年 )七月 一 七日付別 所吉治宛 豊臣三 奉 行連 署状 写 羽 柴 越 中 守 事 、 何 之 忠 節 も 無 之 、 大 閤 様 御 取 立 之 福 原 右 馬 介 跡 職 、 従 内府公得 扶助 、 今 度 何 之 咎 も 無 之 、 景 勝 為 発 向 、 内 府 江 助 勢 、 越 中 一 類 不 残 罷 立 候 段 、 不 及 是 非 候 、 然 間、 従 秀 頼 様為御成 敗、各差遣候条、可被抽 軍 忠候、至 于下々も 、依動 、 可被加御 褒美候、 恐々謹言、 長束大 蔵 七月十七日 増田 右 衛 門 尉 徳善 院 別所豊 後 守 殿 豊臣奉行衆は 、忠興が 福原長堯の「跡職」を 家康から「扶助」された こ とを理由に、そ の成敗を命じ ており、忠興の速見郡領有 が丹後攻めの根拠となっ て いた ことがわかる。そ し て 、 こ れを受けた丹波・ 但馬衆が、丹後細 川領に攻め入ったため、丹後 で は戦い が 勃発 する ことに な った 。した が っ て 、 こ の 戦 い は 、忠興の速見郡領 有を不当なものとし て 否定 しよ うと する豊 臣 奉行 衆の 意志 に基 づき勃発した もの と捉 えられよ う。 同様のこ とは 、 豊 後 速 見郡 の戦 いにつ い て も 言える 。 家康 から 速見郡を与えられ た忠興 は、 重臣 松井 康之 らを速見 郡に派遣し、 木付城を守らせた。 こ の康之 に 対し豊 臣 奉行 衆は、 次のよ う な連署 状 を発 給し て い る。 【史料5 】 ( 慶長五年)八月四日付 松井 康之 宛豊 臣四奉行連署 状 写 急度令啓候、 内府去々年以来、 大閤様被背御置目、 上 巻之誓帋 ヲ 被 違、 恣ノ働ニ付而、 今度各申談、及鉾楯候、関東之 義も、伊達・ 最上・佐竹・岩城・相馬 ・ 真田安房守・ 景勝申合、色を立候ニ付而、則、八州 無正躰事候、上方・罷立候衆も、妻子人質、於 大坂相究候故、是又種々懇望候、就其、越中方之事、大勢兄弟之内、一人秀頼様へ御 見廻をも申 さ せ す 、悉、関東へ罷 立 、其上何之忠節 も 無之、新知召置候義、不相届ニ 付而、 丹後 之事 、城々悉請 取 、田 邊一城 町 二 ノ 丸ま て 令 放火、責詰 仕 寄申付候、落居 不可有 程 候、貴所之事、大閤様別而被懸 御目、知行等ま て 被 下候間、秀頼様へ御忠 節可在之義候、於様子者、太田 美作守方へ申渡候 て 差 下候、其郡 之 事、速、可被明渡 候、何かと候 て ハ 不可然候 、恐々謹 言、 長大正家 八月四日 石治三成 増右長盛 25 ( 26 ( 27

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徳善玄以 松佐 御宿所 豊臣奉行衆は、 「 何の 忠節もな いのに忠興が 速見郡を拝領した こと は 不 届きなことで あ る」と し 、その明け渡しを 要求し て いる。つま り 豊臣奉行衆は 、速見郡における忠興の領 有権を否定し、 こ れを没収しよ うとした わけである。 本状は、臼杵城の太 田 一成(臼杵城主太 田一吉の息)を介し て 康之の も とに届 け られた が 、 康之は 速 見郡の明け渡しを 拒否す る 態 度 をと った。康之が 忠興に送った(慶長五年 ) 九月一九日付の戦 況報 告には 、「 速 見郡 之義 、 可 相渡旨、 輝元 ・ 備 前中 納言殿 ・ 奉行衆 ・ 石 治少 ・大形少 ・太田 美 作を 指下 、松 井かたへの 書 状 共 被越 候、不及返 答 なけ 返し、重 而使 被越候者、 首 を可切由申遣候、 其通美作方・大坂へ申登ニ付、 先手大伴ニ遣、 当 月八日晩 、 熊谷城・懸樋城之間 へ 舟をつけ 、其夜木 付之沖を通、高崎表ニ舟懸仕 、 九日ノ朝、立 石へ あかり陣取申候事」と記され て おり、康之 が 速見 郡の明け渡しを拒否した こ と、 これを受 け た 豊臣奉行衆が 旧豊後国主の大友義統に命じ て 速見郡を攻撃させた こ とがわ かる。 このよ う に、 速 見 郡 を 没 収 しよ うと する豊 臣 奉 行 衆 が 、 大 友 義 統 に 攻 撃 を命 じ た こと で、 速見郡で は戦 い が 勃発 することにな った。し たが って 、 速 見郡 の戦 いは 、 丹 後 の 戦 い と 同 様、忠興の速見 郡 領有 を不 当なもの とし て否定しよ う と す る豊 臣奉行 衆 の 意 志 に 基 づ き勃 発したものと位置づけられよ う 。 ただ 、こ こで 注 意 して おき た い のは 、戦 いがこ の よう な 豊 臣 奉 行衆 の意 志だ けで 勃 発 し たわ けで はな いと いうこ と で あ る 。 豊 臣 奉行 衆 は 、義 統 を 速見 郡に派遣 するに先 立 ち 、 速 見 郡 の 進 呈 を 義統 に 約 束し て い た 。 康之 が忠興 に 送った ( 慶 長 五 年 ) 八 月二八 日 付の 戦況 報告 に は 、「 一大伴よ し む ねへ 当郡之 義 、 奉行衆 ・ 進 之 、中 国まて 被 下 候 由候」と 記されて お り 、 豊 臣奉行衆が義 統の 速見郡領 有を保証し て いた ことがわ かる。 もともと義統は豊 後一国を領する大名 で あった が 、秀吉から所領を没収され て 以 来、大 名 領 主 と して の 地 位 を 喪失 して い た 。こ の よ う な 状 況 に 置 か れ て い た義 統が 、 所 領 の 回復 を切望し て い た こ とは 想像に難くな い わ けで 、こ の領 有保証は 旧領の一部 で はあるにせよ、 義統 を動か す に足る も の だ った とい えよ う。 つまり、豊 臣 奉行 衆は、 義 統の旧 領 回 復 欲求 を利用 す る こ と で 、速 見 郡 の没 収 を 実 現 しよ うとした わけ であり、 この 戦い に は 旧 領 を回 復せんと欲す る義統の意 志 が 介 在し て い たの で あ る。 ( 28 ( 29 ( 30

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なお、九月八日に豊後 国 東郡安岐に上陸した義 統は 、大友 旧 臣を糾 合 しなが ら 速見郡に 攻め入り、 木付城 を 襲撃 した 。 こ れに対し細 川 軍は、 豊前 中 津 の黒田如 水に援 軍 を要請。 黒田軍 の 到着を待っ て 攻勢に転じ、九月一三 日の石 垣 原合戦 で 大友 軍を撃退した。かくし て、 義統 の旧 領回 復は実 現 され る こ と な く、速 見 郡の 戦い は終 結 す る こ とに なった 。 以上、本節 で は、細 川 忠興領 で 勃発した戦いについ て 検討を行った。冒頭 で 触れたよ う に、 この 戦いの発 端となったの は、 朝鮮出兵の 戦 後処理をめ ぐ る豊臣大名間の対立 で あり、 そ の 帰結 とし ての忠興の速見 郡 領有 であった。 ま た、そ れ を不 当なもの とし て否定 す る豊 臣奉行衆が諸大名に忠興領の攻撃を命じた こ とで 、丹後と豊 後 速見郡 で は戦い が 勃発 する ことになった。た だし、速見郡の戦いについ て 言 えば、そ こには旧 領を回 復 せんとする大 友義統の意 志 が 介 在し て い た。すなわち 、義統の旧領 回復欲求が戦 いの一因を成したわけ であるが、実のところ 、 こ のよ うな 旧 領 回復欲求によっ て 引き 起 こ されたと見られる戦い がそ の 他 に も 複数 確認 できる。 次節 では、 こ れ ら の 戦 い を とり あ げ てみた い 。 第三節 旧領 回復のための 戦い 1 陸奥 刈田・ 伊 達・信夫郡 の 戦 い (七 月二四日 ~一〇月六日 ) 慶長五年六月、家康が上杉景勝討伐のための 会津出兵を発動す ると 、こ れに呼応す る 形 で 伊 達政宗(陸奥岩出山城主)が上杉領に攻め入った。七月二四日、政宗は上杉領の刈田 郡白 石城を 攻 撃し、翌 二五日にこ れ を 陥 落さ せて いる 。ま た、同時 期、政宗の 家 臣桜田 元 親(磐城駒嶺城主)が伊達郡川俣城を攻撃し て い る。川俣城は、梁川、福島、二本松に通 じる交通の要衝 で 、伊達 軍 と上杉 軍 は川俣城をめぐり攻防戦を展開した。さらに、関ヶ原 合戦後の九月下旬から一〇月上旬にかけて 、政宗は刈田郡湯原・二井宿、伊達郡梁川・桑 折城、信夫郡福島城を攻め立て た。 こ の ように、政宗が上杉領に侵攻した こ とで 、刈田 ・ 伊達 ・信夫郡で は伊達軍 と上杉軍 の戦い が 勃発 することになった わけであるが、政宗の上杉攻め は、家康の会津出兵を契機 に発 動された もの である。よっ て 、 まず は、会津出兵 を発 動した家 康の意図につい て 考察 して み よ う 。 家 康 の会津出兵 は 、景勝 が 領内諸城の修 復増強 を 行い、かつ、その釈明のための上洛を 拒 否 した ことを直接の理由 とし て 発 動された もの である。家 康 は景勝の行 動 を豊 臣政権 に 対す る反逆行為と位置づけ 、諸大名に 景 勝討伐のための 軍 事出動を 命じた。 ただ し、秀 吉 死後 の 家 康 の 行動 を 考 えるな ら ば 、 家康が 豊 臣政 権のために 会 津出 兵を 企

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図した と は考 え難い 。 秀吉の 死 後、政権 は五大 老 ・ 五 奉行の合 議によっ て運営されるべ き ものとされた が、 家 康 は三成を政権の中枢から排除 す るなどし て 、 政権の独裁化を図った。 さらには、自己の裁量 で 諸 大名を動員 で きると い う立場を利用することで 、 有力大名を自 己に服従させ て い った。た とえば、前 田 利長と細 川忠興に対し ては、家康暗殺計画の嫌疑 をかけ、討伐を ち らつかせることで 、彼らから人質をとることに成功し て い る。 こ の よ う な当時の状況 を考 え合 わせる な らば、会津出兵 に おける家 康の狙い は、自 己 に反抗 す る者 は 討 伐の憂き目に会うことを天下に知らしめ、諸大名の服従を 強化す る ことにあ ったと い えよ う。 また、 こ のよ うな意図 で発 動された 会津出兵をき っかけに、東北諸地域で は 戦 い が勃発 す る こ とに なった わ け で ある。 ただ 、 こ こで 重 要 な の は、いったん会津出兵が 発 動されると 、 家康よりも 政 宗の方が上 杉攻めを積極的に推進しよ うとした こと である。 会津出兵は 、 豊臣奉行衆の上方挙兵を受け 、 いったん中止されることになる。 こ れに対 し政宗は 、次 の よ うな 書状を送 り、会津出 兵 の決 行を 家康に進 言して い る 。 【史料6】 ( 慶長五年)八月三日付井伊直政・村越直吉宛伊達政宗書状 (前 略) 一上邊之義 如 此 之 上者、 尚白河表会津へ之御 乱入 火急 ニ被 成候様 ニ 、 達 而可被仰 上候、 万一御手延ニ候而者、必々諸口之覚違、尚々御凶事出来可申由存事候、縦上者闇ニ 成申候共、御遺恨之筋与申、長尾被討果候 得者、上之事も即可被属御存分事、案ノ 内ニ存候、 ( 後略) すなわち 、政宗は 、上方平定 よ りも 会津出兵を優 先 す べきだと主張 し て いるの で あり、 政宗が上杉攻めを 強く望んだことがわ かる。 政宗のこ のような態 度 は 、 関ヶ原合戦後 、よ り顕著 な 形 で 現れる。関ヶ原合戦に 勝利し た家康は、会津出兵のさらなる延期を決定す る。家 康 が会津出兵に消極的だったのは、天 下の帰 趨 が決した上は 、武力で 景勝を制圧す ることはさほど意味をも た な い と 考 え た から であろう。しかし、政宗の上杉攻め は停止される ことなく、一〇月に入っ て もなお継続さ れた。 次 の史料はその ことを示 すもの で ある。 【史料7】 ( 慶長五年)一〇月一四日付今井宗薫宛伊達政宗書状 (前 略) 一去六日より、福島へ動仕候 、得大利申候、様躰先達具ニ條々申入候キ、最上へ人衆 遣、又動、其外ニ人衆悉草臥申候へ共、内府 様無 御下向以前、何 と そ 仕 度候、日本 ( 31 ( 33 ① ( 32

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之神 そ 、努々不存 油 断候、 (中略) 一寒天ニ候へハ、 年中も是非一人仕候而も、 仙道筋迄申付度候 、 か ゝ る 御 目 出 度 上 ニ 、 千万一不慮之凶事候 て ハ、如何ニ存、遠慮 仕 事も候へ共、少々手前之者五百三百討 死仕候とも、年中ニ一途相着度存候 、 ( 後略) 宛名の今井宗薫は、 家 康と政宗の取次ぎをつとめた人 物である。 こ の宗薫に対し政宗は、 一〇月六日より福島攻めに着手した ことを報じるとともに (傍線部①) 、 伊 達 軍 単 独 でも上 杉攻めを強行 する予 定 である こ とを伝え て い る(傍線部②) 。 こ の ように政宗は 、上杉攻めを主体的に推進しようと したわけで あ るが 、な ぜ政宗は 、 これほどま で に上杉攻めに執着したのか。 政宗が 攻 め入った刈田 ・伊達・信夫郡は、もともと 政 宗の所領で 、 天正一九年(一五九 一) の奥羽再仕置 で秀吉から取り上げられた もの である。 した がっ て 、 政宗の 軍 事行動は、 旧 領 に向けられた ことに な る。 この こと自体、政宗の上杉攻め が旧 領回 復を目的に発 動さ れた ことを示唆し て い ると言 え る が 、そ れを裏付 け て い る の が 次の史料 である。 【史料8】慶長五年八月二二日付伊達政宗宛徳川家康知行宛行状 覚 一苅田 一伊達 一信夫 一二本松 一塩松 一田村 一長 井 右七ヶ所、 御 本領之 事 候之 間、 御家 老衆中へ 為可被 宛 行、 進之候、 仍如件 、 慶長五年八月廿二日 家康( 花 押 ) 大崎少将殿 本状は、関ヶ原合戦 前 の八月二二日に、家康が 政宗に対し発給した知行宛行状 で 、 政宗 の旧 領回 復を保 証 した もの である。 本状 が発 給された 経緯 は詳らか でない も のの、 本 状 が 政宗の求め に 応じ て 発 給された ことは間違い ない だろう。つまり、 このよ う な知行宛行状 が発 給された ことは、政宗 が旧 領回 復を望ん で い た こ とを示し て い るの である。 ただ 、 こ こで 注意し て おき たいのは、家康がこ れ を保証したからと いっ て 、 それが 旧 領 回復 の 実 現を意 味 し た わ け で は な い と い うこ とで あ る 。 政 宗 の 旧領 を 現 に占 拠して い る の は上杉 軍 であっ て 、政宗がこ の 領 有 保証を現実のものとするには、当 該 領域から上杉 軍 を 駆逐 する必要 があった。 こ の こ とと、家康が会津出兵を先送りにし て い た こ とを考え合 わ せるならば、家康の会津出兵を待っ て い ては、旧 領回復はいつま で たっ ても 実現しな い と いう のが 政宗 の 置 かれ た状 況だ っ た と い うこ とになろう。つまり政宗は、旧 領に居座る上 ( 34

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杉軍 を 自 力で 駆 逐 す る 必 要 に迫 ら れ て い たので あ り 、 ゆ え に 、 上 杉 攻 め を 主 体的 に 推 進 し たの で あ る。 このよ う に、上杉攻め は、旧 領 を回 復しよ う とする政宗の意志 に基 づき推し進め られた もの であった 。 す な わ ち、 この 戦い を成り 立 た せ てい た の は、政 宗 の旧 領回 復欲 求 で あっ た。 なお、政宗の上杉攻め は 慶長六年に入っ て も継続された が、結局の と ころ政宗は、上杉 軍 の 根強い抵抗の前に、伊達・信夫郡を攻略す る ことがで きな かった。そし て 、 戦後の領 地配分で 政宗に加増されたのは、刈田郡だけ であった 。 つ まり、政 宗 が 唯一攻 略 し え た 刈 田郡だけが伊達領となり、攻略 できなかったその他六ヶ所につい て は、領有を認められな かった わ けである。 2 越後の戦い (八月 一 日 ~ 九月八 日 ) 越後国はもともと上杉景勝の所領 で あった が 、慶長三年に秀吉 が行った大名の配置替に より、景勝の所 領 は陸奥会津に移され、以後、越後国 は 堀秀治 ( 春日山城主) とこれに与 力せられた村上義明(本荘城主) 、 溝口秀 勝 (新発田城主) 、 堀親良(蔵王城主)の領 有 す るところとなった。 天下 争乱の事態に至ると 景 勝は 、 越 後に残留す る 上杉 旧臣を煽動 し 、 秀 治配下の諸城 (下 倉、橡尾、三 條、新発田、本荘)を攻撃した。 こ のため、越後諸地域 で は、上杉軍と堀 軍 の戦 いが 勃発す る こ と にな った。 なお、越後攻めを開始 す るに先 立 ち 景 勝 は 、石 田三成から次のよ うな 書状を与えられ て いた。 【史料9】 ( 慶長五年)七月一四日付直江兼続宛石田三成 書状 六月廿九日御状到来、 其表諸口丈夫ニ被申付候旨、 大 慶不可過之、 先書にも 申入候通、 越後ノ儀ハ上杉本領に候へは、中 納 言 殿 へ被 下置候旨、秀頼公御内意に候 、彼國成次 第、手段御油断不可有候、中納言殿勘當ニテ越後に残居候牢人、歴々有之由、柿崎三 河守、丸 田右京、宇佐美民部、 萬貫寺加治等御引付、御尤に候 、此 節候間 、 聊 不 可有 油断候、堀久太も 大坂方御奉公ノ志に候、能登へハ上 條民部可指遣と 存 候、尚、追々 可申入候、恐惶謹言、 七月十四日 石治部少輔三成 判 直江山城守殿 ( 35 ( 36 ① ②

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三成は、 「越 後は上杉氏の本領であるの で 、 景勝にこれを下し置かると い う のが秀頼の内 意 で ある」 ( 傍線部①) と し、 秀頼の名のもとに景勝の旧 領回復を保証し て いる。 政 宗のケ ース と同様、 このよ う な領有保 証がなされた こと自体、景勝 が 旧 領 回 復 を望ん で いた こと を示 すが、同時に注目したいのは、三成が「 越後の こ とは成り次第に、油断なく手 段 を講 じるよ う に。 越後に残留する上杉旧臣を味方に取 り込むことは 尤もなことで ある」 ( 傍線部 ②)とし、景勝の越後における 軍 事 行動を認め て いる点 で ある。 す なわち三成は、旧 領回 復の実現を、景勝の「油断なき 手段」に委ね たの で あ り、 こ の 領 有 保証が 自 力による獲得 を前提としたもの で あ った ことがわ かる。 景勝の越後攻めは、 こ のよ うな領 有 保証を受けた上 で 発動された も の で あり、その目的 が 旧 領 回 復の実現にあった ことは明白 で ある。すなわち 、 旧領を回復せんと欲す る 景 勝の 意志 がこの戦い を 勃発させたの である。 3 美濃郡上郡 八 幡・恵那郡苗木 の 戦い (八月下旬~九月上旬 ) 八月下旬から九月上旬にかけて 遠藤慶隆(加茂郡小原領主)は、稲葉貞通の所領郡上郡 を攻撃し て い る。郡上郡はもともと慶隆の所領 で 、天正一五年(一五八七)に秀吉から取 り 上 げられた もの である。 した がっ て、 慶隆の 軍 事行 動は、 旧 領に向 け られた こ とに なる。 なお、郡上攻めに先 立ち慶隆は、旧 領 の回 復を保証する次のよ う な 書 状を家康から与え られ て い た。 【史料 10 ( 慶 長 五年)七月二九日付遠藤慶隆・胤直宛徳川家康書状 濃州之内郡上、其方本地之儀候間、如前々可有領知候、其表萬事才覚尤候、委細従金 森法印可被申候、恐々謹言、 七月廿九日 家康( 花 押 ) 遠藤左馬助殿 同 小八郎 殿 家 康 は、 慶隆 が郡上郡を前 々の如 く 領知 する ことを認め る とともに、そ の 実現 を慶隆の 「才覚」に委 ねて いる。 す なわち慶隆は、自力による獲得を前 提とした旧 領回 復を家康か ら保 証され て いたの で あり、慶隆の 軍事行 動 もまた、旧 領 回 復 を目的に発 動 された も の と 理解 できる。 同様の こ とは、 遠 山友政の恵那 郡苗 木攻め に つい ても言 え る。八 月 下旬、 友 政 は 西 軍 方 に付いた川尻直次の居城苗木を攻撃し、その開城・接収に成功し て いる。苗木はもともと 37

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友政の父友忠の所 領 で 、天正一一年(一五八三)に秀吉によっ て 没 収された もの である。 した がっ て 、 友政の 軍 事行 動も旧 領 に向けられた ことになる。 慶隆のケースよ う に、家康が事前にその領 有 を保証した こ とを示 す 史料は確認しえな い ものの、 戦後の 領 地配 分 で 苗 木 は友政の所 領 と な っ て い る 。 こ の 事 実 を 加 味 する ならば、 友政の 軍 事行 動も旧 領 回 復 の実現行 動とし て 位置づけられよ う 。 こ の ように、慶長五年に勃発した戦 いの中には 、 旧領を回復 せ んとす る 大名領主の意 志 に基づき勃発した もの が複数確認 で きる。また、彼らが回 復しよ う とした旧 領は、いずれ も秀吉から没収されたも の で あ り、秀吉の行った転封・改易政策に対す る反動が 、全国戦 争勃発の一因をな した ことがわ かる。 第四節 領地拡大 のための戦い 九 州 地 域 では、豊 後速 見 郡 以 外 の地 域 で も複数 の 戦い が勃発 し てい る。 これ らの 戦い の 多くは 、 豊前中津の黒田 如 水と 肥後熊本 の加藤清正が 近隣の敵方 所 領 、 つまり九州西軍 大 名領国 に 侵攻 する こと で 勃 発した も の で ある。以下、 本節 では、敵方所 領に攻め入った如 水・清正の目的を考察 する こと で 、 全国 戦争 勃発の構造をさらに明らかにし て み たい。 1 黒田 如 水 の 豊 前・ 豊 後 侵 攻 戦 (九 月上 旬~ 一〇 月中 旬) 黒田 如水 は 、 息長 政が 家康 の 会 津 出 兵に 従軍 す べ く中 津 城 を 離 れると 、 その留 守 を 預 か った。そし て 、天下争 乱の事態に至ると、九州 で 挙兵 する意志のある こ とを家康に伝え て いる。次に示 すのは、 これに対する家康の返書 で ある。 【史料 11 ( 慶 長 五年)八月二五日付黒田長政宛井伊直政書状 自如 水公此中 貴様へ参候御状共数通被下候、拝見仕候、内府披見ニ入可申候、今度於 御国 本ニ、 別 而御精ニ被入、殊御人数数多御抱被 成、内府 次第、何方へ成共御行候ハ ん由候、此節ニ御座候間、何分ニも 被入御精 、又御手ニ可入所ハ、なにほとも御手ニ 被入候へと 被 仰遣候、何事も面上ニ可申上候、恐惶謹言、 八月廿五日 直政(花押) 本状の記述から、如 水 が九州の敵方所領に攻め入る計画を立てて い た こ と、家康が そ れ を承認し て い た こ とがわ かる。 さ て 、如 水が実 際 に 軍 事行 動を開始 するの は 九月に入っ て か ら の こ と で ある。 九 月九日 に中津を出馬した如 水は、豊 後国東郡に 軍 勢を進め、垣見一直の居城富来城と熊谷直盛の ( 38

参照

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