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第二の歴史家論争

    

ホルスト・メラーのエルンスト・ノルテ顕彰を巡る論争(二〇〇〇年)の展開

今野

 

 

 

       二つの歴史家論争 一 九 八 六 年 の「 歴 史 家 論 争 」 は よ く 知 ら れ て い る が、 二 〇 〇 〇 年 の 「 歴 史 家 論 争 の 再 来 (( ( 」 は あ ま り 知 ら れ て い な い。 エ ル ン ス ト・ ノ ル テ が 「 ド イ ツ 財 団 」 か ら「 コ ン ラ ー ト・ ア デ ナ ウ ア ー 賞 」 を 授 与 さ れ、 そ の 顕彰役を「現代史研究所」所長ホルスト・メラーが引き受けたことが、 大きな論争を呼び起こしたのである。この事件については、当時のドイ ツで大いに話題になったにも拘らず、いまだに研究が存在しない。これ は歴史家論争が多くの分析を生み、しかもそれが大抵の場合、ハーバー マス側への連帯表明になっているのとは異なってい る (( ( 。このように研究 動向が違う理由は、この論争の展開過程にあるのではないだろうか。本 稿では、その事実経過を整理したいと考える。   こ の 事 件 に 関 し て は、 現 代 史 研 究 所 文 書 館 所 蔵 の 史 料 が あ る( ID 34-226, ID 34-334 )。 こ れ は 同 研 究 所 が メ ラ ー 関 係、 ヴ ィ ン ク ラ ー 関 係 の 当 時の新聞・雑誌の記事を集積したもので、バイエルン地方紙などの切り 抜きもある。授賞式のパンフレットなど、関係者しか入手できない史料 もあるため、利用価値は高い。本論の3は主にこの史料に依拠して記述 する。なおメラーの顕彰講演、ノルテの受賞講演・謝辞、ヴィンクラー の辞任要求など主要文書は、史料紹介的な意味で、紙面上可能な範囲で 抄訳を載せた(/は段落の切れ目) 。        論争勃発の歴史的文脈     (1) 「一九六八年の理念」の支配:           エルンスト・ノルテの「発言禁止」   エ ル ン ス ト = ヘ ル マ ン・ ノ ル テ は 歴 史 哲 学 者 で あ る。 一 九 二 三 年 一 月 一 一 日、 ル ー ル 地 方 ヴ ィ ッ テ ン 郊 外 の カ ト リ ッ ク 家 庭 に 生 ま れ、 ハ ッ テ ィ ン ゲ ン で 育 っ た ノ ル テ は、 左 手 に 生 来 の 障 害 が あ っ て 兵 役 を 免 れ、 フ ラ イ ブ ル ク 大 学 教 授 マ ル テ ィ ン・ ハ イ デ ッ ガ ー な ど に 学 ん だ。 同教授オイゲン・フィンクのもとで論文「ドイツ観念論及びマルクスに おける自己疎外と弁証法」で博士号取得後、一旦バート・ゴーデスベル ク の ニ コ ラ ウ ス = ク ザ ー ヌ ス・ ギ ム ナ ジ ウ ム の 教 師 に な っ た ノ ル テ だ

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ったが、テオドル・シーダーに見出されて、その編集する『史学雑誌』 ( Historische Zeitschrift ) に 論 文 を 採 用 さ れ、 一 九 六 四 年 に ケ ル ン 大 学 に 教授資格論文として認定された最初の著書『その時代におけるファシズ ム』では、世界的名声を得た。一九六五年にマールブルク大学に招聘さ れ、やがて一九七三年にベルリン自由大学教授となったノルテは、比較 フ ァ シ ズ ム 思 想 研 究 で 有 名 に な り、 ハ ヨ・ ホ ル ボ ル ン 教 授 の 招 聘 で イ ェイル大学客員教授となり、国内でもベルリン自由大学教授トーマス・ ニッパーダイなどから高い評価を受け た (( ( 。日本でも「ドイツ現代史研究 会 」( 京 都 ) の 翻 訳 に よ り、 ノ ル テ の フ ァ シ ズ ム 論 は 紹 介 さ れ、 基 本 的 には高い評価を得てい た (( ( 。 と こ ろ が 一 九 八 六 年、 フ ラ ン ク フ ル ト 大 学 教 授 ユ ル ゲ ン・ ハ ー バ ー マ ス( 一 九 二 九 年 ‒ の あ る 批 判 が、 ノ ル テ の 学 者 的・ 社 会 的 人 生 を 変 えた。ハーバーマスは、ノルテのレーマーベルク講演「過ぎ去ろうとし な い 過 去 」( 一 九 八 六 年 六 月 六 日『 フ ラ ン ク フ ル タ ー・ ア ル ゲ マ イ ネ・ ツァイトゥング』掲 載 (( ( )を、ソヴィエトの「アジア的」蛮行に責任転嫁 し て ド イ ツ 国 民 社 会 主 義 の「 過 去 」 を 相 対 化 す る も の だ と し て 批 判 し た の で あ る。 ハ ー バ ー マ ス は、 ノ ル テ と 並 ん で ア ン ド レ ア ス・ ヒ ル グ ルーバー、クラウス・ヒルデブラント、ミヒャエル・シュトゥルマーの こ と も、 歴 史 を 動 員 し て ド イ ツ 国 民 意 識 を 煽 動 し て い る と し て 批 判 し た (( ( 。このタイミングでのハーバーマスの批判は、もちろん前年の連邦大 統 領 リ ヒ ャ ル ト = カ ー ル・ フ ォ ン・ ヴ ァ イ ツ ゼ ッ カ ー 男 爵( 一 九 二 〇 年 ‒ 二〇一五年)の五月八日連邦議会演説からも刺戟を得ているだろう が、単なる「過去の克服」の唱道ではない。一九八二年にシュミット政 権( S P D・ F D P ) が 崩 壊 し て コ ー ル 政 権( C D U / C S U・ F D P)が誕生し、十三年ぶりの保守勢力に政権が回帰したことは、左派知 識人にとっては警戒すべき事態だった。彼らは、一九七〇年代の緊張緩 和、一九八〇年代のペレストロイカと、東西融和の機運が高まっている こ と を 歓 迎 し て い た の で、 「 共 産 主 義 」 脅 威 論 は そ れ に 水 を 差 す 不 都 合 な議論だと思われたのである。冷戦期に資本主義=自由主義圏の左派知 識人(社会主義者・左派自由主義者)が、マルクス主義に多かれ少なか れ好意を寄せ、マルクス主義に疑いを隠さない者を「保守派」と呼んで 敵視し、ソヴィエト連邦やドイツ民主共和国との交流にも熱心だったこ と は、 一 九 八 〇 ・ 九 〇 年 代 の 知 的 雰 囲 気 を 体 験 し た 世 代 な ら、 ま だ 誰 も が記憶している「過去」であ る (( ( 。 ノ ル テ は「 歴 史 修 正 主 義 」 と の 批 判 を 受 け た こ と で、 生 涯 に 亙 り ド イ ツ で 社 会 的 抹 殺 の 扱 い を 受 け た。 「 過 去 の 克 服 」 を 徹 底 し、 ド イ ツ 国 民アイデンティティを批判するというのが、学生叛乱以降のドイツ連邦 共和国で支配的となった「一九六八年の理念」である。それでもヒルグ ルーバー、ヒルデブラント、シュトゥルマーへの更なる批判はなかった のに対し、ノルテにだけは徹底した個人攻撃が継続された。どうしてノ ルテのみが死去に至るまで、しかも「共産主義」批判がドイツ連邦共和 国で解禁され、流行にすらなった一九九〇年以降も、村八分のままだっ た の か、 そ の 理 由 は 判 然 と し な い。 恐 ら く、 ( 一 ) 哲 学 者 ハ ー バ ー マ ス の「過去の克服」論の出発点が哲学者ハイデッガー批判であり、その直 弟 子 で あ る 歴 史 哲 学 者 ノ ル テ が 目 立 つ 存 在 だ っ た こ と、 ( 二 ) 現 実 政 治 の 左 派 的 主 導 を 唱 道 す る ハ ー バ ー マ ス の「 社 会 哲 学 」 に 対 し、 ノ ル テ の歴史哲学はニュルンベルク裁判なども含めた戦後政治秩序を超越した 内容を展開し、時流を揶揄することも止めないので、政治的に正しくな い、 空 気 を 読 ま な い、 不 遜 だ と い う 印 象 を 与 え た こ と、 ( 三 ) ノ ル テ の 生産力、普遍史的な思想体系が、反対派にとっては戦後政治秩序を掘り

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崩しかねない知的脅威に、いわばカール・シュミットの再来に思われた こと、などがあったものと推測される。ノルテはその思想内容を批判さ れただけでなく、ドイツでの刊行自体ができなくなり、ノルテに対する 暴力行為も始まった。ノルテによると、彼の通勤用の自家用車が放火さ れ、講演に向かう彼に反対派から未確認の液体が投げつけられ、病院に 緊急搬送されたという。ベルリン自由大学を一九九一年に退官したノル テに手を差し伸べたのはイタリアやフランスの研究者たちで、ノルテの 研究が国外で刊行された時期もあった。晩年のノルテは西洋文明論に傾 斜 し、 「 共 産 主 義 」、 「 フ ァ シ ズ ム 」 に 続 く「 第 三 の 急 進 的 抵 抗 運 動 」 と しての「イスラム主義」を考察の対象にするようになっていっ た (( ( 。 反 ド イ ツ・ ナ シ ョ ナ リ ズ ム を 掲 げ る「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 は、 「 ド イ ツ 再 統 一 」 後 も そ の 勢 い を 増 し て い っ た。 「 ゴ ー ル ド ハ ー ゲ ン 論 争 (( ( 」、 「 ホ ロ コ ー ス ト 警 鐘 碑 建 設 問 題 ((1 ( 」 な ど に つ い て は、 従 来 も 論 じ ら れ て き た通りである。     (2) 「一九九〇年の理念」の反抗:           現代史研究所の「全体主義」論への傾斜   とはいえ一九九〇年の「ドイツ再統一」は、ドイツ連邦共和国の政治 文化に変動をもたらさずにはいなかった。社会主義体制崩壊はマルクス 主義者だけでなく、マルクス主義者の果敢な「保守派」攻撃に共感し、 資本主義・社会主義陣営の共存及び西独内の左派主導を目標としてきた 左派自由主義者たちにとっても、一大痛恨事であった。ドイツ国民国家 が復活したことは、西独の「ポスト・ナショナル」な秩序を称揚してい た 彼 ら に と っ て 青 天 の 霹 靂 で あ っ た。 「 ド イ ツ 再 統 一 」 に 違 和 感 を 表 明 するハーバーマスやギュンター・グラスの言論活動は、日本でも入念に 紹介された通りであ る ((( ( 。   「 ド イ ツ 再 統 一 」 の 刺 戟 を 受 け て、 ド イ ツ 社 会 の 一 部 に ド イ ツ の 国 家 的・国民的主体性を恢復しようという思想的潮流も勃興していった。こ れを「一九九〇年の理念」と呼んでおこ う ((1 ( 。その代表作は、論文集『自 意識を持った国民』である。これはボート・シュトラウスの「高まる山 羊の歌」に呼応して編まれた論文集で、ライナー・ツィーテルマン、カ ールハインツ・ヴァイスマンら若手文筆家のみならず、ノルテ、CSU 政治家ペーター・ガウヴァイラーも寄稿してい る ((1 ( 。かつてハーバーマス の親友だったマルティン・ヴァルザーが、一九九八年にホロコーストを 「 道 徳 の 棍 棒 」 扱 い し て い る と 論 じ、 ユ ダ ヤ 人 中 央 評 議 会 議 長 イ グ ナ ッ ツ・ブービスと論争になったことも話題になっ た ((1 ( 。 こ う し た な か、 一 九 九 二 年 に ホ ル ス ト・ メ ラ ー が「 現 代 史 研 究 所 」 ( Institut für Zeitgeschichte ) 所 長 に 就 任 し た こ と は、 ド イ ツ 歴 史 学 界 の 転 換 点 と な っ た。 一 九 四 三 年 ブ レ ス ラ ウ 出 ま れ の カ ト リ ッ ク 教 徒 メ ラ ー は、 ベ ル リ ン 自 由 大 学 で ニ ッ パ ー ダ イ の 下 で 博 士 号 を 取 得 し、 そ の 助 手 を 務 め て い た 人 物 で、 エ ル ラ ン ゲ ン = ニ ュ ル ン ベ ル ク 大 学 教 授( 一 九 八 二 年 ‒ 一 九 八 九 年 ) を 経 て、 パ リ の ド イ ツ 史 研 究 所 所 長 ( 一 九 八 九 年 ‒ 一 九 九 二 年 ) を 務 め て い た。 メ ラ ー は 博 士 論 文 で は フ リ ードリヒ・ニコライを扱い、ドイツ啓蒙思想研究者として業績を積んだ が、同時にヴァイマール共和国史に視野を広げ、現代史研究所の副所長 として学術機関運営の実務経験を積んでいた。このメラーがミュンヒェ ンの現代史研究所の所長に就任したのであ る ((1 ( 。 現 代 史 研 究 所 は、 連 邦 及 び 七 州( バ イ エ ル ン・ バ ー デ ン = ヴ ュ ル テ ンベルク・ブランデンブルク・ヘッセン・ニーダーザクセン・ノルトラ イン=ヴェストファーレン・ザクセン)の出資で運営される、いわば国

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立歴史学研究所である。その出発点は国民社会主義研究だが、いまでは 第一次世界戦争以降の時代を包括的に扱うに至っている。この現代史研 究 所 は、 『 現 代 史 四 季 報 』( Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte ) を 刊 行 し、 学術会議を企画し、史料を保存・整理し、史跡を管理するだけでなく、 政 府 機 関 か ら の 歴 史 に 関 す る 鑑 定 依 頼 に 答 申 す る 任 務 も 負 っ て い る た め、憲法問題における連邦憲法裁判所のように、ドイツ政治に直結する 機関だとも言える。 こ の 現 代 史 研 究 所 の 所 長 に メ ラ ー が 就 任 し た こ と は 大 き な 政 治 的 意 義 を 有 し た。 ブ ラ ン ト・ シ ュ ミ ッ ト 政 権 下 の 研 究 所 を 率 い た の は、 マ ル テ ィ ン・ ブ ロ シ ャ ー ト( 一 九 二 六 年 ‒ 一 九 八 九 年、 在 職 一 九 七 二 年 ‒ 一九八九 年 ((1 ( )であった。ブロシャートはドイツ「過去の克服」論の先駆 者 の 一 人 で、 そ の 著 書『 ド イ ツ の ポ ー ラ ン ド 政 策 の 二 百 年 』( 一 九 六 三 年)は西独側からのドイツ・ポーランド政策批判の草分けであ る ((1 ( 。歴史 家論争でもブロシャートはハーバーマスに加勢し、シュトゥルマー、ヒ ルデブラントら「歴史家ツンフト」を揶揄しつつ、ノルテが歴史学を侮 辱したと非難してい る ((1 ( 。とはいえ死後十四年が経った二〇〇三年になっ て、歴史家ノルベルト・フライの指摘により、ブロシャートのNSDA P党員歴が明るみに出ることにな る ((1 ( 。このブロシャートが一九八九年に 在職のまま死去すると、所長職が空席のまま副所長が事務を引き継いで いたが、そこにブロシャート所長の下で副所長(一九七九年 ‒ 一九八二 年 (11 ( )を務めた経験があったメラーがパリから戻ったのである。しかもメ ラーは、それ以前の所長とは異なり、レーゲンスブルク大学(一九九二 年 ‒ 一 九 九 六 年 )、 ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学( 一 九 九 六 年 ‒ 二 〇 一 一 年 ) の 正 教授職を兼ねることができ た (1( ( 。メラーは、後述のようにベルリン自由大 学の助手時代に教授ノルテと協力して学生叛乱に対処していた。歴史家 論争でもメラーは恩師ニッパーダイと歩調を合わせ、感情的批判を問題 視 し て 議 論 の「 即 事 化 」( Versachlichung ) を 要 求 し て い た (11 ( 。 し か も メ ラ ー は 一 九 九 〇 年 代 に は ヘ ル ム ー ト・ コ ー ル 連 邦 宰 相 の 顧 問 を 務 め て お り、一九九八年連邦議会選挙ではコール再選のために運動していたとい うの で (11 ( 、メラーの所長就任が現代史研究所の方針転換との印象を与えた ことはいうまでもない。 メ ラ ー 就 任 後 の 現 代 史 研 究 所 は、 ( 一 ) 国 民 社 会 主 義 研 究 の 史 料 的 基 盤 整 備、 ( 二 ) 国 民 社 会 主 義 研 究 以 外 の 領 域 開 拓、 を 行 な っ て き た。 ( 一 ) に つ い て、 特 に 目 を 惹 く の は『 ゲ ッ ベ ル ス 日 記 』 編 纂 で あ り (11 ( 、 ま た( メ ラ ー 所 長 就 任 前 の 一 九 九 一 年 か ら 始 ま っ て い る が )『 ヒ ト ラ ー

演説・文書・命令』は『我が闘争』を除くアドルフ・ヒトラーの文 書を網羅的に収集したものであ る (11 ( 。ちなみに、爆破されたオーバーザル ツベルクのヒトラー山荘を展示施設にし、現代史研究所が管理するよう に な っ た の も メ ラ ー 就 任 後 で あ っ た (11 ( 。( 二 ) に つ い て、 注 目 す べ き は 現 代史研究所が支所をベルリンに二箇所設けたことである。一箇所はベル リン=ミッテのドイツ外務省内で、これは『ドイツ連邦共和国外交文書 集』の編纂のためである。この支所は、外務省がボンにあった一九九〇 年にはすでに同地に設けられていたのが、首都移転に伴い移転したもの で あ る。 も う 一 箇 所 は ベ ル リ ン = リ ヒ タ ー フ ェ ル デ の 旧 米 軍 駐 屯 地 内 で、これは同地にあるベルリン連邦文書館所蔵の旧ドイツ民主共和国文 書を用いた社会主義体制研究のためであ る (11 ( 。国民社会主義研究及び社会 主義研究は、現代史研究所の分類では「二〇世紀の独裁」として一括さ れるに至った。二つの独裁を一括して批判する発想は「全体主義」論を 想起させる。社会主義体制の批判的研究は、メラー時代に現代史研究所 の新しい目玉となっていった。

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  一 九 九 九 年 か ら の「 国 防 軍 展 覧 会 」 開 催 と そ れ に 対 す る 批 判 は、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 と「 一 九 九 〇 年 の 理 念 」 と の 激 突 の 予 兆 と な っ た。 「 国 防 軍 展 覧 会 」 は、 大 手 煙 草 製 造 業 者 の 父 か ら 遺 産 を 相 続 し た 億 万 長 者 ヤ ン・ フ ィ リ ッ プ・ レ エ ム ツ マ( 一 九 五 二 年 ‒ の 率 い る「 ハ ンブルク社会研究所」が企画した。NSDAPと比較して好意的に評価 されてきたドイツ国防軍についても、その犯罪を明るみにするというの は、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 を 突 き 詰 め た 企 画 で あ る。 こ れ に 対 し 各 地 の 展示会場では、国防軍擁護派による抗議行動が起こり、ときとしてそれ は暴力化した。それだけでなく、ポーランド人歴史家ボグダン・ムシア ウ( 一 九 六 〇 年 ‒ ら が、 「 国 防 軍 展 覧 会 」 が 使 用 す る 写 真 に ソ ヴ ィ エ ト 軍 の も の が 混 在 し て い る と 指 摘 し、 メ ラ ー が こ の 機 会 を 捉 え て、 『 フ ランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』でこの展覧会を「失 態であって、本当に先駆的功績でも何でもない」と叱責した。ノルテ受 賞はその半年後の出来事であっ た (11 ( 。        ノルテ受賞を巡る論争の勃発     (1)ノルテの「コンラート・アデナウアー賞」受賞 論 争 の 発 端 は C D U / C S U に 近 接 し た「 ド イ ツ 財 団 」( Deutschland-Stiftung ) が 二 〇 〇 〇 年 に ノ ル テ に「 コ ン ラ ー ト・ ア デ ナ ウ ア ー 賞 」( 学 術部門)を授与することを決定し、メラーが受賞者の顕彰講演を引き受 け た こ と に あ っ た。 前 年 の 同 財 団 式 典 で は、 C D U 党 首 ア ン ゲ ラ・ メ ルケルが受賞者ヴォルフガング・ショイブレへの顕彰講演を行ったが、 メ ル ケ ル は ノ ル テ へ の 讚 辞 を 求 め ら れ た 際 に は、 「 受 賞 者 と の 個 人 的 困 難 」 を 理 由 に 断 り、 授 賞 式 典 へ の 出 席 す ら 見 送 る 方 針 を 打 ち 出 し た (11 ( 。 ノ ル テ に よ る と、 メ ル ケ ル が 断 っ た た め メ ラ ー に 顕 彰 講 演 が 依 頼 さ れ た の だ と い う (11 ( 。 こ の 賞 は、 学 術( W issenschaft )、 文 芸( Lite ratur )、 言 論 ( Publizistik ) の 三 部 門 に 加 え、 「 自 由 賞 」( Freiheitspreis ) が 設 け ら れ て おり、歴史家では学術部門でハンス=ヨアヒム・シェプス、アンドレア ス・ヒルグルーバー、ハンス=ペーター・シュヴァルツなどが、言論部 門でアルミン・モーラーが受賞していた。政治関連ではオットー・フォ ン・ ハ プ ス ブ ル ク = ロ ー ト リ ン ゲ ン 大 公( 言 論 部 門 )、 ル シ ア ス・ ク レ イ米陸軍大将(自由賞) 、アルフレート・ドレッガー(自由賞) 、ヘルム ー ト・ コ ー ル( 自 由 賞 )、 ヴ ォ ル フ ガ ン グ・ シ ョ イ ブ レ( 自 由 賞 ) が 受 賞してい た (1( ( 。 ノ ル テ 受 賞 が 知 れ 渡 る と、 新 聞 雑 誌 に は 早 速 批 判 が 出 始 め た。 二 〇 〇 〇 年 五 月 二 二 日、 『 南 ド イ ツ 新 聞 』 文 芸 欄 に、 ビ ス マ ル ク 批 判 で 知 ら れ る 歴 史 評 論 家 ヨ ハ ン ネ ス・ ヴ ィ ル ム ス( 一 九 四 八 年 ‒ が、 ノ ル テ の フ ァ シ ズ ム 論 に 改 め て 疑 問 を 提 起 し、 同 財 団 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム 体 質 を 攻 撃 す る と 共 に、 メ ラ ー の 讚 辞 披 露 を「 ス キ ャ ン ダ ル 中 の ス キ ャ ン ダ ル 」 と 呼 ぶ 記 事 を 発 表 し た (11 ( 。 同 日 に は ま た『 フ ラ ン ク フ ル ト・ ル ン ト シ ャ ウ 』 が、 「 ド イ ツ 財 団 」 議 長 ク ル ト・ ツ ィ ー ゼ ル( 一 九 一 一 年 ‒ 二 〇 〇 一 年 ) が、 当 時 若 い 体 制 派 ジ ャ ー ナ リ ス ト と し て、 一 九 四 四 年 七月二〇日のヒトラー暗殺計画者の「抹殺」を要求していた事実を報道 し た (11 ( 。同年五月二八日には、ダッハウ収容所協会会長のマックス・マン ハイマー(一九二〇年 ‒ 二〇一六年)が、ノルテの受賞、メラーの讚辞 披露を非難する声明を「ナチ体制被迫害者連盟」に送付し た (11 ( 。五月三一 日には中道左派エリートの週刊新聞『ディ・ツァイト』に、ジャーナリ ス ト・ 歴 史 家 の グ ス タ フ・ ザ イ プ ト( 一 九 五 九 年 ‒ が 記 事「 エ ル ン ス ト・ノルテへの顕彰講演はどう行うのか?」を発表し、メラーを「ツン

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フトの代表者」と呼び、CDUの国民社会主義との連続性、ブラント東 方政策への反対を改めて糾弾し た (11 ( 。同じく五月三一日には『フランクフ ルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』が、ベルリン大学教授ハイン リ ヒ・ ア ウ グ ス ト・ ヴ ィ ン ク ラ ー( 一 九 三 八 年 ‒ の 批 判 を 掲 載 し た。 ヴィンクラーはミュンヒェン現代史研究所の学術顧問でもあるが、研究 所への被害を考えて、メラーに顕彰講演を断念するよう書簡で要請した という。ヴィンクラーによれば、ノルテの名前は一九八〇年代以降、ド イツ史像の国民弁護論的修正と結び付いており、彼の多くのテーゼが急 進右派のそれと異ならないのだとい う (11 ( 。ヴィンクラーはすでに一九八六 年にもノルテを非難する論説を発表しており、歴史家論争の一当事者で あっ た (11 ( 。 六 月 二 日 に は ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 な ど 同 市 内 の 左 派 系 諸 団 体( 緑 の 党 系、SPD系、PDS系など多数)が連名で現代史研究所にファックス で「ホルスト・メラー教授への公開書簡」を送り、メラーに顕彰講演を 断念するよう訴え た (11 ( 。同日の『デル・ターゲスシュピーゲル』ではシュ テファン・ライネケが、ヴィンクラー書簡を全文引用しつつ、ブロシャ ート所長時代の現代史研究所を称讚し、後継所長の「保守派メラー」が 「社会・自由系のブロシャート時代を終わらせた」という「元研究所員」 の 苦 情 を( 実 名 を 挙 げ ず に ) 引 用 し た (11 ( 。 六 月 三 ・ 四 日 版 の『 南 ド イ ツ 新 聞 』 で は、 エ リ ザ ベ ー ト・ バ ウ シ ュ ミ ー ト が 記 事「 黒 い 穴 の な か で 」 で、 や は り 匿 名 の「 事 情 通 」「 か つ て の 学 派 の 共 感 者 」 の 意 見 を 交 え つ つ、連邦宰相コールの意向でメラーに所長が就任してから同研究所は没 落したとし、直前に現代史研究所が「国防軍展覧会」の事実誤認を指摘 し た こ と を、 同 研 究 所 の「 国 民 保 守 主 義 的 」( nationalkonservativ ) 転 換 の表れとし た (11 ( 。     (2) 「コンラート・アデナウアー賞」授与式典   「 コ ン ラ ー ト・ ア デ ナ ウ ア ー 賞 」 授 与 式 典 は、 予 定 通 り 二 〇 〇 〇 年 六 月四日にミュンヒェン王宮ヘラクレス・ザールで行われた。パンフレッ トの冒頭に歓迎の辞を載せたのはバイエルン自由国首相エドムント・シ ュトイバー(一九四一年 ‒)で、更にCSU政治家などが続いた。   ホルスト・メラーの「エルンスト・ノルテ教授への顕彰講 演 (1( ( 」は次の ようなものであった

異例ながらこの顕彰講演には前置きが要る。高 い水準や紛れもない個性を備えたノルテの作品は国内でも国際的にも注 目を集め、いわゆる歴史家論争以来、猛烈な批判の対象になった。彼は 論争を恐れず、寧ろその強い個性及び解釈で煽りもした。授賞式典は学 問的対決の場ではないが、一言付け加えたい。私はノルテの幾つかの物 言いに同意しない。特にヒトラーの大量虐殺を伴う反ユダヤ主義の意図 を「歴史的に理解する」という意味で追体験しようとした試みで、それ でノルテは(NSのユダヤ人殺戮の罪を)相対化したとの非難を受けた の だ っ た。 / ノ ル テ は 国 民 社 会 主 義 を ま す ま す ボ ル シ ェ ヴ ィ ズ ム へ の 反動及びその暴力体制の模倣として説明しようとし、私はこれに同意し ないものの、ノルテが六百万以上の欧州ユダヤ人の殺害など国民社会主 義の犯罪のいかなる無害化、相対化とも無関係だということは確信して い る。 そ う 思 え な か っ た ら こ こ に 立 っ て い な い だ ろ う。 な ぜ な ら 私 は この犯罪は許せないと確信しているのだから。J・フェストは一九九三 年に、ノルテが弁護論を展開したという批判は的外れだと述べている。 実際ノルテは厳格な道徳主義者で、困難を厭わず、寧ろ自分で困難を探 しているかのようだった。彼は、あるイデオロギーが唯一の正当性を主 張することで起きた大量虐殺を非難する必要を感じたのであり、彼はド イツ国民社会主義が最悪だが、それが決して唯一のものでも、最初のも

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現在でもある。ノルテ講演「過ぎ去ろうとしない過去」を想起して欲し い。歴史家であれ非歴史家であれ、この時代を他の時代と同じく怒りも 情熱もなく扱うことは難しい。価値中立的な客観性は、かくも軽蔑に値 するこの残虐なイデオロギーや独裁を扱うには方法的に不十分なのであ る。/同時に学問の原則は断念されるべきではなく、好き勝手に歴史を 描いてよいということにはならない。歴史家が大虐殺を前にしてどれほ ど「茫然自失」し「悲嘆」にくれたとしても、学問の原則は残る、いや 却 っ て 必 要 に な る の で あ る。 ブ ロ シ ャ ー ト の 言 葉「 国 民 社 会 主 義 も ま た『 歴 史 化 』」 さ れ な け れ ば な ら な い 」 は こ う し た 意 味 を 帯 び て い る。 /門外漢には常に共感可能ではないかもしれないが、極端に非合理的な ものも合理的に説明されなければならない。この合理性は学問には不可 欠で、同情する気持ちがないのだと思うのは誤解である。解釈の次元と 経験的再構築の次元とは区別されなければならない。/多くの事実が経 験的観点で確定していても、解釈は大抵の場合確定していない。ノルテ 作品の場合も、経験的に再構築された事実を踏まえながらも、メタ次元 で「普通の」歴史学に大きな挑戦をしようとしてきた。H・ルドルフは ノルテを、歴史家の間では「一匹狼」だと呼んでいる。私はノルテを、 歴 史 家( Historiker ) と い う よ り 歴 史 思 想 家( Geschichtsdenker ) だ と 思 っている。/アウシュヴィッツも異なる解釈がなされているが、ノルテ が 依 拠 し た 全 体 主 義 モ デ ル は、 ブ ジ ェ ジ ン ス キ、 C・ フ リ ー ド リ ヒ、 H・アーレント、K・D・ブラッハーが共有し、またヒトラー・スター リンの二重の伝記を書いたA・ブロックにとっても、全体主義イデオロ ギーの双子の性格というのは指導的観念だった。アーレントが両者の共 通性を探究したので国民社会主義を相対化したことになるというのは、 馬鹿げた仮定だろう。/全く逆に、大量虐殺及び第二次世界戦争が生ま のでもなかったと考えたのである。/だが不当にもすでにノルテのこの 種の表現が誤解された。二〇世紀に起源を有する他の全体主義イデオロ ギーがあることは、国民社会主義を許すことにはならないし、逆もまた 真である。ノルテはそんなことを言ってはおらず、比較や時系列的整理 をしただけである。/ノルテの作品と対決することは正当であり必要だ が、その議論が排除、中傷、憎悪を伴いがちなのは、ドイツにおける言 論 の 自 由 に と っ て 悪 し き 現 象 で あ る。 「 自 由 と は い つ も、 別 な 考 え を す る と い う 自 由 で あ る。 」 こ の R・ ル ク セ ン ブ ル ク の 金 言 は、 残 念 な が ら ドイツでは定着していない。私はベルリン自由大学での、学問の自由を 巡るノルテとの共闘の日々を思い出す。当時私はT・ニッパーダイのも とで博士号を取り、助手をしていた。左派過激主義の脅迫から身を守ろ う と し て い た の は、 国 民 社 会 主 義 か ら の 亡 命 を 経 験 し た R・ レ ー ヴ ェ ンタール、E・フレンケル、O・v・ジムゾンで、若い世代ではR・シ ョルツやニッパーダイだった。ノルテの政治的位置づけは簡単ではない が、過激主義に反対し思想の自由を守る姿勢は明瞭だった。/アウシュ ヴィッツのあとでは詩は書けないとT・アドルノは言ったが、ドイツで 歴史を書いたり政治をしたりすることはできるだろうか。できると、ア デナウアーは一方について、ノルテは他方について証明した。/アデナ ウアーはドイツ「特有の道」を終わらせ、キリスト教信仰の上に法治国 家・民主制を築いた。対抗馬のシューマッハーも、反全体主義という基 本合意を共有していた。/西ドイツではアウシュヴィッツ後の政治とは あらゆる狂信的イデオロギーの排除だった。/二〇世紀を扱う歴史家の 課題とは何か。アウシュヴィッツを理解することは不可能で、同意する ことが不可能なだけでなく、我々とは縁遠い当時の原則で解釈すること も不可能である。/国民社会主義は歴史研究の対象であるだけでなく、

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れた起源としての今世紀の全体主義イデオロギーを分析する研究文献こ そ、政治における反全体主義的基本合意と関係しているのである。つま り歴史認識から政治的教訓を得るのである。/今世紀の世界戦争やイデ オロギー史に関する重要著作で有名になったほとんど全ての著者が茫然 自失している。A・ミッチャーリヒが嘆いたような「悲しむことのでき ない性格」なのではなく、繰り返さないために解明するのである。/数 十 年 に わ た る ノ ル テ の 功 績 は こ の 点 に こ そ あ る。 彼 の 作 品 は 独 特 な の で、多くの批判や無理解に遭遇したが、彼の現象学的で弁証法的な思考 様式もその原因だった。全体主義イデオロギー対自由民主主義法治国家 原理の衝突、独ソの両イデオロギーの戦争は歴史的文脈及び両者の連関 性においてのみ理解され得るのである。/ノルテはM・ハイデッガーの 学生で、E・フッサールの現象学にも通じた。ギムナジウム教師となっ たノルテは「若きムッソリーニにおけるマルクスとニーチェ」でT・シ ーダーに見出され、 『その時代におけるファシズム』で高い評価を得た。 /この著作で教授資格を取ったノルテは、マールブルク大学を経てベル リン自由大学に移り、引退まで教えた。/ノルテはイェイル大学、マサ チューセッツ工科大学、イェルサレム・ヘブライ大学などで客員教授を 務めた。/「ファシズムは反マルクス主義である」というノルテのテー ゼは一九六三年以来のもので、当時は最大限の同意を得たものが、のち には反撥を買うようになった。/イデオロギーに煽動された大量殺戮の 比較研究も正当で必要な手法だった。比較は歴史家の道具であり、決し て犯罪の赦免ではない。厳密にいえばどんな大量殺戮も比類なきもので ある。ユダヤ人共同の記憶にとってはショアは比類なき意義を有してい る。/だが残念なことに、欧州内外では複数のイデオロギー的に狂信化 した独裁が数百万単位の殺戮を起こしたのであり、その説明が必要であ ることもまた事実である。/ノルテの最初の著作の功績の一つに、政治 的にインフレになっていたファシズム概念を学問的に使用可能にしたこ とがある。更に時系列的整理により、ボルシェヴィズムとファシズム、 国民社会主義との近接性・弁証法的関係を論じたのも功績である。その 問いの正当性は、共産主義独裁の崩壊後、 『共産主義黒書』が証明した。 /だがソヴィエト収容所がアウシュヴィッツと比較して「より本源的」 だ、国民社会主義者がボルシェヴィストの階級憎悪を人種憎悪に置き換 えたというような表現は、有益とは言えない。時系列や構造だけでなく イデオロギーの内容が問われるからである。/「自由主義体制」や市民 的・キリスト教的価値観などを共通の敵とし、支配手法の一部がボルシ ェヴィズム起源だったとしても、国民社会主義独裁はボルシェヴィズム 独裁のコピーではなく、因果関係には限界がある。そこでは「大ドイツ 的生存圏」や「反ヴェルサイユ・コンプレクス」が軽視されている。/ ただノルテとの間で必要なのは、ハーバーマスのような誹謗ではなく、 即事的対決である。仏伊ではF・フュレなどの歴史家もノルテと議論し てきた。ノルテを読んだ上で反論するべきだと、哲学者・作家B=H・ レヴィは述べている。/ノルテは国民保守主義史学の論者だというのも 誤りで、彼の歴史学は国民国家的枠組を越えている。/ノルテは歴史哲 学 的 に「 現 代 の 位 置 づ け 」 を 行 っ た の で あ り、 ヘ ー ゲ ル、 カ ン ト、 デ ィ ル タ イ、 シ ュ ペ ン グ ラ ー に 連 な る 者 で あ る。 / ノ ル テ の 作 品 は テ ー マ的に広範で、手法的に革新的なものもある。一九七四年の『ドイツと 冷 戦 』 は、 ド イ ツ 分 断 を 第 二 次 世 界 大 戦 だ け で は な く、 「 進 歩 的 」 大 国 たる米ソの世界史的対決によって説明する試みだった。/一九八三年の 『 マ ル ク ス 主 義 と 産 業 革 命 』 は、 産 業 革 命 と 国 民 経 済 学 及 び イ デ オ ロ ギ ー史の発展との弁証法を論じたもので、工業化初期のイギリスからレー

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ニン主義の発展までを見据えたものである。/このようにノルテは、内 なる連関性を有しながら国民社会主義とは全く異なる現象をも扱ってい る。/ニッパーダイはノルテのファシズム比較を高く評価しつつ、ノル テ退官記念論文集に彼への応答を掲載したが、こうした対応をする者が 少なかったのは残念である。   ノ ル テ の 受 賞 講 演「 「 歴 史 修 正 主 義 」 と は 何 か ? (11 ( 」 は 次 の よ う な も の であった

一九九九年のドイツ出版界平和賞受賞の際、独系ユダヤ人 だった米歴史家F・スターンは謝辞で、西欧諸国の多くが「歴史修正主 義 の 潮 流 の な か に あ る 」 と 述 べ た。 「 最 大 の 重 荷 を 負 う 」 ド イ ツ は 一 番 早く、四十年以上も前にこの修正主義を始めた、だが開かれた議論はよ うやく獲得されたものだから、これからも続いて欲しいという。実際ド イツは一九四五年の直後に、小ドイツ主義的=プロイセン的歴史観の自 己礼讚から訣別したのであり、その歴史修正主義の代表格がF・マイネ ッ ケ の 小 品『 ド イ ツ の 破 局 』 な の だ。 / だ が 六 〇 年 代 初 め に な る と、 A・J・P・テイラー『第二次世界戦争の起源』及びD・ホッガン『強 要された戦争』が、正反対の意味での歴史修正主義を展開した。型破り とはいえ英歴史家ツンフトで認められた一員だったテイラーは、当時の オーデル・ナイセ国境否認に見られるドイツの一貫した修正主義的傾向 を指摘し、ヒトラーを特別視するべきでないとした。教職のないアメリ カの若者だったホッガンは、ヒトラーを擁護し、寧ろ英ハリファクス外 交が戦争の原因だったとした。/だがすぐに新たな修正主義がドイツ及 び国外に登場した。M・ブロシャートやH・モムゼンは、欧州ユダヤ人 の絶滅政策を、ヒトラー個人の意図ではなく、戦時ドイツ社会で徐々に 発達した機能であり、主要責任を追うのはビスマルク創建の帝国の「指 導 層 」 だ と の 機 能 論 を 展 開 し、 ヒ ト ラ ー の 責 任 を 強 調 す る の は 進 歩 派 の、あるいは社会民主党の意味でのドイツの根本的再編成を妨げる「弁 護的」議論だと非難したのである。/逆説的なことに、ヒトラーにもド イツ指導層にもドイツ民衆にも責任を課さない否定論者には、目立った 政治的意図が見られない。彼らは仏人P・ラシニエ、R・フォリソン、 米人A・バッツといった外国人である。元収容所囚人でのち社会党国民 議会議員となったラシニエは、解放された元囚人幹部があまりにSSに 責 任 を 負 わ せ、 「 囚 人 頭 」 や「 抵 抗 」 の 側 に そ れ に 劣 ら ず 問 題 が あ っ た ことには触れないのを問題視した。/ここ十年のドイツ及び外国の文献 では、歴史家論争からS・クルトワの『共産主義黒書』にかけての現象 に「歴史修正主義」が結び付いている。つまり「共産主義の犯罪」の強 調によりホロコーストが「相対化される」というものである。/「修正 主義」を辞典で引くと、E・ベルンシュタインの「窮乏化テーゼ」批判 を否定的に見る呼び方だとの説明がある。また毛沢東の紅衛兵が「文化 大革命」で「修正主義への闘い」を呼号して儒教的伝統を破壊したのも 記憶に新しい。/戦間期ドイツでは「ヴェルサイユの命令」を批判する 歴史家も「修正主義」の名称で呼ばれていた。/アメリカでは、南北戦 争に勝った北部が南部の奴隷州に勝った進歩と自由の力を称揚する歴史 観を広め、これに批判が提起されたことがあった。/古典古代にはヘロ ドトスがペルシャを描写する際、ペルシャ由来の誇張された表現を除外 したが、これも「修正主義」である。同じことはトゥキュディデスにも 言える。/「何が「歴史修正主義」なのか?」という問いは正当で必要 である。/過去十五年でいうと、皆さんの前に立っている男が「歴史家 論 争 」 の 元 兇 だ と し て、 「 修 正 主 義 」 の 名 で 呼 ば れ て い る。 R・ ツ ィ ー テ ル マ ン ら が「 ノ ル テ の S A 」 だ と 呼 ば れ た り、 『 フ ラ ン ク フ ル タ ー・ アルゲマイネ・ツァイトゥング』が「オールド・ファシスト」ノルテを

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再び迎え入れたなどと表現されたりもした。/ハンブルク二〇世紀社会 史 財 団 の K・ H・ ロ ー ト は、 『 歴 史 修 正 主 義

全 体 主 義 理 論 の 再 生 』 を刊行し、全体主義理論は大量の人権侵害を正当化する理論だと説いて いる。/J・メクレンブルクとW・ヴィッパーマンは『共産主義黒書批 判』を刊行し、階級殺害を人種殺害と区別し、懸命に擁護している。/ ファシズムはもう五十年も存在していないのに、いまだに彼らと対決す るという反ファシストがいて、 (体制として崩壊した共産主義の) 「死体 に 鞭 を 打 っ て い る 」 と し て 反 共 産 主 義 者 に 憤 慨 し た り と か、 マ ル ク ス 主 義・ 半 マ ル ク ス 主 義( halbmarxist isch ) の 論 者 が、 ( ブ ル ジ ョ ワ と い う)近代の最古・最強の敵イメージを掲げつつ、同時にシュミットの友 敵論を批判するだとか、ニュルンベルク判決からの如何なる逸脱も民衆 煽動罪に問うだとかいう光景は、まさに諷刺にしかならない。/イタリ アではデ・フェリーチェのような反ファシズム神話の批判者でも、批判 されこそすれ排除されることはない。以下でマルクス主義的起源を隠さ ないD・ロスルドの一九九六年の著書『歴史修正主義』を見ていく。/ ロスルドはE・バーク、C・シュミットからH・アーレント、A・v・ ハイエク、F・フュレ、E・ノルテに至る反革命の系譜を広く「歴史修 正主義」に勘定し、彼ら「修正主義者」が「白黒図式」を描き、英米の 先例を度外視して仏露革命のなかにのみ「ホモ・イデオロギクス」を見 ていると批判した。/ロスルドは、米大統領T・ルーズベルトにもヒト ラーのイデオロギーを先取りするものがあったとし、第一次世界大戦で のイギリスの反独扇動にも厚顔無恥なものがあったとした。/こうして 修正主義批判者ロスルドは自ら修正主義者になっていった。ロスルドの 指摘によれば、西欧列強と違いソヴィエトは初めから植民地解放の側に いたのであり、カティンなどでソ連に殺されたポーランド軍将校には、 反ユダヤ主義ゆえに処刑された者もいるという。/ロスルドを単なる共 産主義やソ連の弁護者と見るなら不当で、彼はカティンの虐殺を正当化 したのではなく、理解可能にする試みに批判的に取り組んだのである。 /ロスルドはまた「第二の三十年戦争」論を提起し、国民社会主義がア ン グ ロ サ ク ソ ン 式 帝 国 主 義 の 極 端 な 形 態 だ っ た と の 考 え な ど を 示 し て いる。/自分はこの講演を批判者よりましな「修正主義」の定義をする ことによってではなく、どこに歴史修正主義の困難及び必要性があるか を示すことで終えたい。/修正は学問の最も日常的な課題で、盛んに宣 伝された展覧会でも不適切な展示があれば修正が必要だが、それは修正 主義ではない。/ユダヤ人中心主義によるホロコーストの「唯一性」主 張 は、 シ ン テ ィ・ ロ マ や ア メ リ カ 人 の 被 害 者 を 貶 め る こ と に な る。 / ソヴィエトと国民社会主義とを同列に置く構造的「全体主義」に対して は「 左 派 的 」「 進 歩 的 」 修 正 主 義 が 戦 っ て い る。 構 造 で は な く 過 程 に 注 目 す る「 全 体 主 義 」 論 は、 「 赤 」 が「 茶 」 に 先 行 す る こ と に 注 目 す る。 /この歴史修正主義がいかに大きな困難に直面しているかは(NSの評 価が二転三転したことを想起すれば)すぐ分かる。ヒトラーやNSは欧 州のほとんど全ての政党から罵倒されつつ政権につき、内戦のような野 蛮さでその権力を固め、近代欧州に比類がないほど苛酷に少数派を弾圧 した。ヒトラーやNSは数年間、ドイツや他の欧州諸国で多大な共感を 浴びたが、そこで表明された共感は、彼らの敗戦後は隠蔽されなければ ならなかった。戦後はNSの犯罪が大々的に暴露され、ヒトラー個人の みならず、NS体制全体も、遂には一つの大きな国民全体が糾弾される という前例なき事態が生じた。理解可能にしたいという歴史学の原則の 対象から、この体制やこの男を除外しなければ、非難を想定しなければ ならないのだろうか。/当時の記憶が薄れるにつれ、全体主義論が後退

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し、NSを「絶対悪」とみなして、その再来を防ぐという考え方が擡頭 したが、そのなかで反ファシストが自由主義・民主主義批判をNSと共 有していたことが忘却されていった。/ 『その時代におけるファシズム』 は刊行当時「全体主義」論を克服したと称讚されたが、実際はそれを洗 練 し 歴 史 化 し た の で あ る。 「 歴 史 修 正 主 義 」 は 国 を 越 え た 現 象 で、 特 定 の学派ではなく、各地で並行した思考である。   ノルテは更に受賞謝 辞 (11 ( を披露した

「ドイツ賞」受賞に際しドイツ についても語る必要があるが、私は自分についても語らねばなるまい。 /M・ライヒ=ラニツキは、私が「歴史家論争」でユダヤ人を害虫に 準 なずら えたという。/また彼はハーバーマスのノルテやヒルグルーバーら「修 正主義的」歴史家との対決をも称えている。/「ドイツ財団」がライヒ = ラ ニ ツ キ や ハ ー バ ー マ ス の 批 判 を 間 違 い、 少 な く と も 一 面 的 だ と 勇 気 を も っ て 認 め て く れ た こ と に 私 は 感 謝 す る。 / ハ ー バ ー マ ス や ラ イ ヒ=ラニツキとの対立は初めからのものではない。我々の世代はドイツ を単純に愛することができなかったが、C・フランツ、F・W・フェル スターのようにカトリック的=大ドイツ主義的な家庭に育った自分は特 にそうだった。/『その時代におけるファシズム』は、一方で「東部戦 線」を「怖るべき侵略・奴隷化・絶滅戦争」と性格規定してイスラエル の歴史家にも褒められたが、他方でファシズムを特殊な反マルクス主義 と 位 置 付 け た。 /『 欧 州 内 戦 』( 一 九 八 七 年 ) は、 ソ ヴ ィ エ ト 共 産 党 が 最初で最強の絶滅組織であり、のちにそれに呼応してできたNSDAP は そ れ ほ ど 包 括 的 で は な い、 「 歪 ん だ コ ピ ー」 以 上 の も の で は な い と 説 い た。 「 十 月 革 命 」 へ の 共 感 拡 大 に ヒ ト ラ ー ら が 反 応 し た の は 明 ら か で あ る。 / ヒ ト ラ ー の「 反 ユ ダ ヤ 主 義 」 に も、 そ こ に 虚 構 や 誤 解 が 含 ま れ て い た と し て も、 我 々 が 理 解 可 能 な「 合 理 的 中 核 」、 つ ま り あ と か ら 理 解 し 共 感 が で き る そ れ な り の き っ か け が あ っ た の で あ り、 「 全 く の 妄 想」だったというわけではない。/知識人はその実存的敵対者に対して も、それが没落したあとであっても、客観性への意志を示さねばならな い。 「 欧 州 内 戦 」 か ら「 世 界 内 戦 」 へ と い う パ ラ ダ イ ム は、 肯 定 的「 ド イツ中心主義」 、否定的「ドイツ中心主義」 、マルクス主義、進歩主義、 ユ ダ ヤ 主 義、 構 造 的 全 体 主 義 論 に 続 く 第 七 の パ ラ ダ イ ム、 つ ま り 歴 史 的・生成論的全体主義論である。/否定的ドイツ主義は一九六八年以来 発 達 し、 「 ホ ロ コ ー ス ト 」 を 重 視 す る ユ ダ ヤ 主 義 と 融 合 し た。 ポ ジ テ ィ ヴな「ドイツ」概念が再び獲得されうるとしたら、それは国防軍展覧会 やゴールドハーゲンの巡回のような運動に抗したのちに、ようやくのこ となのである。/こうした(六八年以来の)攻勢のなかにも「合理的中 核」はあるわけで、それはつまり「世界文明」への止まらない移行過程 での経験なわけだが、この過程はそのイデオローグたちが思っているほ ど単純ではない。人間は境界を抜け出そうとするだけでなく、境界を設 定しようとする生き物である。歴史学は「デリケートな」領域でも「理 解可能にする」営みを断念することはできない。被害者や道徳主義者が それを道義的正当化だと批判するとしてもである。私は人間の理性を信 頼している。/挨拶はここで終え、実践的原則を三つ述べる。①「集団 帰 責 」 は 国 民 社 会 主 義 の 主 要 な 特 徴 で あ っ て、 「 ド イ ツ 」 に 向 け ら れ た それは克服されなければならない。②国民社会主義の目指したことの反 対物が何でも良い、正しいという発想は卒業するべきである。出発点で は正当な敵意が結果的に内なる依存性を生み、自分の道を見失うことが あるから。③計画中のホロコースト警鐘碑は、否定的ドイツ中心主義の 一面性を記念碑化するものであるのみならず、傾向としては永遠化にも な る。 そ れ は ド イ ツ 国 民 の 多 数 派 の で は な く、 「 物 知 り の 少 数 派 」 の 作

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品である。ただ事実として存在するに至った警鐘碑は、ユダヤ人に限ら ず「二〇世紀のイデオロギー諸国の全ての犠牲者に」捧げられたものと 見ればよいのではないか。     (3)授賞式後の論争   式典直後から受賞への反応が新聞雑誌に続々と現れた。二〇〇〇年六 月五日の『ディ・ターゲスツァイトゥング』では、ダニエル・ハウフラ ーがメラーは現代史研究所所長を辞任するしかないと主張し た (11 ( 。六月五 日の『ディ・ヴェルト』では、ペーター・シュマルツがメラーのノルテ 顕彰が条件付きのものであったことを強調し た (11 ( 。六月六日の『フランク フルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』でも、ライナー・ブラジウ スがメラーのノルテ評価の文面を引用しつつ、その内容が顕彰と批判と を含んでいたことを指摘し た (11 ( 。   六月一四日、現代史研究所の研究員二十九名が、連名で『南ドイツ新 聞 』 に 読 者 投 稿 を 行 い、 六 月 三 ・ 四 日 の バ ウ シ ュ ミ ー ト の 記 事 を 批 判 し て 以 下 の 三 点 を 述 べ た。 ( 一 ) メ ラ ー の ノ ル テ 顕 彰 及 び そ の 報 道 に つ い て は 研 究 所 内 で「 激 論 が あ っ た 」( kontrovers diskutie rt ) ノ ル テ の 命 題 には研究所の多くの研究員がすでに以前から批判的に取り組んでおり、 い ま も そ う で あ る。 ( 二 ) 現 代 史 研 究 所 で は メ ラ ー 所 長 就 任 後 も 批 判 的 研究を行い、学問の自由が保持された。その点でバウシュミート氏を説 得しようとは思わないが、彼女も『南ドイツ新聞』を注意深く読むなら ば、同紙がいかに頻繁に現代史研究所について肯定的に報道してきたか が 分 か る だ ろ う。 ( 三 ) バ ウ シ ュ ミ ー ト 氏 が 匿 名 の 非 公 式 研 究 員 の み に 依存するのは問題だろう。本当に言うことがある者は、公の場で意見を 言う勇気を持つべきだろう

以上のような内容の投書は、現代史研究 所の公式サイトにも掲載され た (11 ( 。とはいえ新聞は、メラーの一件が現代 史研究所にいま身を置いている若手研究者の経歴を傷つけるのではない かと報じ始める。彼らはこれから博士論文、教授資格論文を書き、定職 を探さなければならない。メラーはこれまで競争的資金の獲得が抜群に 得意だったが、今後状況が変わってくるとの予想も出され た (11 ( 。 ヴ ィ ン ク ラ ー は 二 〇 〇 〇 年 六 月 一 五 日 の『 デ ィ・ ツ ァ イ ト 』 に 以 下 のようなメラー宛書簡を全文掲載した

メラーは私が五月二六日書簡 で止めるよう願ったことを敢えてした。/ノルテの幾つかの中心的命題 に距離を置いても、称讚が留保を上回っている。/メラーは個人の立場 だと言うが、彼は現代史研究所所長及び独露現代史研究共同委員会議長 に他ならない。/メラーは両官職に被害を 齎 もたら した。この授賞式は政治的 なものである。/ノルテは国際主義的左派を攻撃する右派過激主義の論 客である。/彼は第二次大戦を欧州統合戦争だったとまで言った。/こ ういう人物だからメルケルCDU党首は顕彰するのを避けたのである。 /メラーがノルテを顕彰したのは、七〇年代の連帯意識からである。/ 前 回 の 同 研 究 所 学 術 顧 問 会 議 で 私 は、 国 防 軍 展 覧 会 批 判 は 概 ね 正 し い が、研究所が「反レエムツマ研究所」 、「右派の闘争研究所」に見られぬ ようにと警告した。/メラーは自分の功績を自分で汚してしまった。/ メラーが六月四日以降も所長で居られるとは思わない

以上のような ヴィンクラーの辞任要求には、ビーレフェルト大学教授ハンス=ウルリ ヒ・ ヴ ェ ー ラ ー( 一 九 三 一 年 ‒ 二 〇 一 四 年 )、 ベ ル リ ン 自 由 大 学 教 授 ユ ル ゲ ン・ コ ッ カ( 一 九 四 一 年 ‒ ら 歴 史 学 界 の 名 立 た る 左 派 言 論 人 た ち も歩調を合わせ た (11 ( 。 六 月 一 五 日 の う ち に、 メ ラ ー は 現 代 史 研 究 所 所 長 と し て ヴ ィ ン ク ラ ーの辞任要求への応答を執筆し、翌日発表した。メラーは、ヴィンクラ

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デ ン 工 科 大 学 教 授 ク ラ ウ ス = デ ィ ー ト マ ー ル・ ヘ ン ケ( 一 九 四 七 年 ‒ な ど )。 メ ラ ー こ そ 研 究 所 の 体 面 を 損 な っ た と す る 彼 ら の 宣 言 は、 メ ラ ー が ド イ ツ 代 表 団 議 長 を 務 め る 独 露 現 代 史 研 究 共 同 委 員 会 の 準 備 会 議 ( 六 月 二 二 日 ベ ル リ ン ) で 行 わ れ た。 そ の 会 員 で も あ っ た ヴ ィ ン ク ラ ー は、その場でメラー議長の退任を要求したが、これに賛同する声は上が らず、メラーは翌日の独露現代史研究共同委員会の本番でもドイツ代表 団議長を務め た (1( ( 。 メ ラ ー 批 判 者 は、 現 代 史 研 究 所 の 基 金 評 議 会 が メ ラ ー 排 除 に 動 く 可 能性に期待し始めた。この機関は、研究所に出資する連邦及び七州の代 表者からなるが、当時は連邦及び三州がSPD主導、四州がCDU/C SU主導であり、議長はバイエルン(CSU政権)であった。バイエル ン代表は、メラーの件を話し合うことは可能だが、メラーは個人の決断 の自由の枠内で行動したのみで、それを尊重するのがバイエルンの研究 政策の原則だと述べ た (11 ( 。 新 聞 雑 誌 は「 歴 史 家 論 争 」 の 再 来 を 語 り 始 め、 メ ラ ー の 授 業 に も 影 響 が 及 ん だ。 『 南 ド イ ツ 新 聞 』 は「 歴 史 家 論 争 」 と 題 し、 ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 で 教 授 と し て 講 義 中 の メ ラ ー に カ メ ラ を 向 け、 歴 史 学 科 の 多 く の 同 僚 が 沈 黙 し て い る と 報 道 し た (11 ( 。『 ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 歴 史 学 者・ 政 治 学 者・ 考 古 学 者 雑 誌 』 は、 「 ミ ュ ン ヒ ェ ン の 歴 史 家 論 争?」 と 題 し、 メ ラ ーを批判はするが辞任要求はしないという、ボーフム大学名誉教授ハン ス・モムゼン(一九三〇年 ‒ 二〇一五年)のインタヴューを掲載し た (11 ( 。 メ ラ ー 排 斥 運 動 を 見 て 仲 裁 に 動 い た の が、 元 バ イ エ ル ン 文 部 大 臣・ ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 政 治 学 名 誉 教 授 ハ ン ス・ マ イ ヤ ー( 一 九 三 一 年 ‒ で ある。マイヤーは『ディ・ヴェルト・オンライン』に公表されたヴィン クラーへの書簡(六月二八日)で、ノルテへの懸念を共有しつつも、ヴ ーが一九九七年に、ムッソリーニ及びヒトラーの擡頭には共産党に共同 責任があることを左派が理解しようとしない、ノルテの命題は馬鹿げて いるが、彼の出発点の問いは間違っていないと述べていたとし、ヴィン クラーにとって肝心なのはノルテではなく、自分や現代史研究所を誹謗 する見え透いた運動なのだとした。メラーは、所長や現代史研究所を攻 撃したいのなら、文脈から切り離したノルテの一節ではなく、現代史研 究所やその所長の作品を批判するべきだとし、ヴィンクラーも他の批判 者もそれをしていないとした。メラーは、ヴィンクラーや他の批判者が 「 五 十 年 の 歴 史 の な か で 国 民 社 会 主 義 の 独 裁 及 び そ の 犯 罪 の 解 明 に 最 大 の功績を果たした研究所」の体面を意図的に傷つけているとし、自分の 就任後も研究所の役割は変わっていないと主張した。メラーはこの運動 の理由として、自分の国防軍展覧会への批判を封じようとしているのだ とし、しかもメラーの批判を「かなりの部分正しい」としていたヴィン クラーの行為を「裏切り」と呼んだ。メラーは、現代史研究所所長にも 論争で自分の立場表明をする権利があるとし、自分が講演をする許可を ヴィンクラーから得る必要があるのかと問うた。メラーはヴィンクラー が、自分が学術顧問でもある現代史研究所の体面を傷つけたが、それ以 上 に 自 分 の 体 面 を 傷 つ け た の だ と し た。 最 後 に メ ラ ー は、 「 言 論 の 自 由 は、我が国では法的・政治的にではなく、公共での威嚇の雰囲気によっ て脅かされている」と述べた。ここでメラーは辞任要求については触れ ず、黙殺した形となった。この態度表明も、現代史研究所の公式サイト に掲載され た (11 ( 。 こ の メ ラ ー の 反 撃 に は、 か つ て 現 代 史 研 究 所 で 研 究 員 を 務 め た 八 名 が抗議を行った(ベルリン工科大学ヴォルフガング・ベンツ(一九四一 年 ‒ )、 ボ ー フ ム 大 学 教 授 ノ ル ベ ル ト・ フ ラ イ( 一 九 五 五 年 ‒ )、 ド レ ス

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ノ ル テ を 問 題 視 す る も の が 多 く、 ノ ル テ が 村 八 分 の 扱 い を 受 け る こ と に な る。 第 二 の 歴 史 家 論 争 で も、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 は 攻 勢 に 出 て、 限定的なノルテ支持をも排除する勢いを示したが、最終的には擡頭した 「 一 九 九 〇 年 の 理 念 」 を 駆 逐 す る に 至 ら な か っ た。 そ の た め か、 こ の 事 件を扱う研究も出なかった。このような違いは、ドイツ再統一による状 況変化の帰結と見るべきだろう。両派は共存するようになり、主導権争 いが続くことにな る (11 ( 。一方でヴィンクラーはシュレーダー政権の軍師、 政界一般の相談役としてベルリンで重きをなし、その著書『長かった西 欧への道』 、『西欧の歴史』は、彼の西欧主義的歴史観を遺憾なく表現し た。なおメラーも指摘したように、ヴィンクラーの統一後の議論は「共 産主義」への嫌悪感、イスラム圏への警戒、ドイツ国民国家の称揚と言 う点ではノルテに近い。他方でメラーも最後まで辞任しなかった。シュ レーダー政権の連邦教育研究大臣エーデルガルト・ブールマンもメラー 罷免に向けて動いた(基金理事会を動かそうとしたか)という が (11 ( 、実現 はしなかった。唯一の正当性を主張するイデオロギーというメラーの表 現は、学生運動家や、メラー排除を狙ったヴィンクラーらへの揶揄でも あ る。 二 〇 〇 五 年 に は メ ル ケ ル 政 権 が 誕 生 し、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 を 体現した赤緑政権の時代は終わった。二〇一一年に六十八歳になったメ ラーは、現代史研究所所長、ミュンヒェン大学教授を退任した。後任の 所長には、アウクスブルク大学正教授となっていたメラー門下生アンド レ ア ス・ ヴ ィ ル シ ン グ が 就 任 し、 彼 は ミ ュ ン ヒ ェ ン 大 学 正 教 授 も 兼 ね た。二〇一二年夏には、メラーを長年支えた副所長ウド・ヴェングスト の後任として、メラー門下生のマグヌス・ブレヒトケンが就任した。メ ラーが残した最後の大プロジェクトだった注釈付き『我が闘争』の編纂 は、まさに国民社会主義を「理解可能にする」試みである。それはメラ ィンクラーの「脅迫」を無作法だとし、ヴィンクラーは「検閲官」では ないだろう、ヴェーラーやコッカがメラー辞任を要求しているのはヴィ ンクラーとの共同作戦だろうと指摘した。マイヤーは、自分がゲルハル ト・リッター及びフランツ・シュナーベルという異なる方向性の恩師を 持った「幸運」を語り、この二人の一方が他方をメディアで攻撃するこ となどなかったとし、異なる立場の共存を許さない現代ドイツ社会の風 潮を嘆いた。またマイヤーは、時事問題に関するノルテの片言隻語を文 脈 か ら 切 り 取 り、 ま た 即 興 の 言 葉 を 論 あげつら っ て 非 難 す る 風 潮 を 問 題 視 し、 ノルテの学問業績についても真剣に検討するべきだとし た (11 ( 。 な お『 国 民 と ヨ ー ロ ッ パ 』、 『 ユ ン ゲ・ フ ラ イ ハ イ ト 』 と い っ た 右 派 急進主義の雑誌は、これを契機にノルテを評価する記事を載せている。 前者は、ノルテが学界に新風を呼び起こし、国民社会主義犯罪の「唯一 性 」 を 疑 い、 冷 戦 終 焉 後 の『 共 産 主 義 黒 書 』 の 先 駆 と な っ た と 称 讚 し た。後者は、ノルテの受賞演説の全文を掲載し、シュレーダー政権の文 化・メディア大臣ミヒャエル・ナウマンが現代史研究所所長メラーを批 判する声明を出したと報じ、また「実存的敵対者に対しても客観性への 意志を示す」のがノルテの学風だと、その挨拶を肯定的に引用し た (11 ( 。        論争後の展開   第二の歴史家論争は三十年戦争に似ている。二つの信仰を掲げる勢力 が激しくぶつかったが、どちらも相手を倒せなかった。第一の歴史家論 争 で は、 「 ポ ス ト・ ナ シ ョ ナ ル 」 が 呼 号 さ れ ド イ ツ 統 一 も 見 通 せ な い 状 況 下 で、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 が 圧 倒 的 優 位 を 占 め、 反 対 派 は 影 を 潜 め た 印 象 が あ っ た。 こ れ に つ い て の 研 究 も、 ハ ー バ ー マ ス の 主 張 に 沿 い

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ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 の フ ァ シ ズ ム 運 動   1 9 1 9 ‒ 1 9 4 5』 上 下 巻 (福村出版、一九七三年) 。 ( () Ernst Nolte, „V er

gangenheit, die nicht ver

gehen will“, in:

„Historikerstr

eit“.

Die Dokumentation der Kontr

overse um die Einzigartigkeit der

nationalsozialistischen Judenvernichtung , 9. Aufl., München: Piper , 1995, S. 39-47 ( エ ル ン ス ト・ ノ ル テ( 清 水 多 吉 / 小 野 島 康 雄 訳 )「 過 ぎ 去 ろ う と し な い 過 去 」、 三 島 憲 一 ほ か 編 訳『 過 ぎ 去 ろ う と し な い 過 去 』( 人 文 書院、一九九五年) 、三九 ‒ 四九頁。 ) . ( () Jür ge n Ha be rm as, „ Ein e Art Sc ha de na bwi ckl un g“ , i n: „Hi st ori ke rst rei t“ , S. 62-76 (ユルゲン ・ ハーバーマス(辰巳伸知訳) 「一種の損害補償」 、『過 ぎ去ろうとしない過去』 、五〇 ‒ 六八頁。 ) . ( () 例 え ば 姫 岡 と し 子( 一 九 五 〇 年 ‒ の 最 終 講 義「 私 と 女 性 史・ ジ ェ ン ダ ー 史 」( 二 〇 一 六 年 三 月 一 九 日 東 京 大 学 文 学 部 二 番 大 教 室 ) に も、 当 時 の 勤 務 先 で あ る 立 命 館 大 学 と 提 携 し て い た フ ン ボ ル ト 大 学 で 日 本 語 教 師 に 就 任 す る こ と を 夢 見 て い た の に、 東 独 政 変 で そ れ が 実 現 し な か っ た と 慨 嘆 す る 一 節 が あ る( https://www .youtube.com/watch?v=Ko_ c2KE3I0A :二〇一九年一一月一三日視聴) 。木村靖二 (一九四三年 ‒ の 『兵士の革命

1918年ドイツ』 (東京大学出版会、 一九八八年) にも、はしがきに留学したフンボルト大学の関係者への謝辞がある。 ( () Nolte,

Rückblick auf mein Leben und Denken

, S. 72-92;

Siegfried Gerlich im

Gespräch mit Ernst Nolte, Einblick in ein Gesamtwerk

, Schnellroda: Edition Antaios, 2005, S. 27-43. ( () 大石紀一郎 「ゴールドハーゲン論争と現代ドイツの政治文化

挑発、 演 出、 そ し て〈 歴 史 〉 と 〈 記 憶 〉 の 闘 い に つ い て 」、 『 ド イ ツ 研 究 』 第 二四号(一九九七年) 、七七 ‒ 一〇八頁。 ーの門下生たちの下で、クリスティアン・ハルトマンを責任者として進 められ、二〇一三年にユダヤ人団体からの抗議でバイエルン州政府から 援助を打ち切られたにも拘らず、二〇一六年一月に刊行された。なおこ の年の八月一八日、ノルテはベルリンで死去した。   二〇二〇年現在のドイツ連邦共和国は両極化している。一方で「ドイ ツ の た め の 選 択 肢 」 が 擡 頭 し て C D U / C S U が 後 退 し、 他 方 で 緑 の 党 が 擡 頭 し て S P D が 激 減 す る と い う よ う に、 「 一 九 六 八 年 の 理 念 」 と 「 一 九 九 〇 年 の 理 念 」 と の 間 の 溝 は 深 い。 思 え ば 二 〇 〇 〇 年 の ノ ル テ 受 賞を巡る論争は、再統一後のドイツ社会がこのように両極化していく過 程に存在した、一つの一里塚だったのかもしれない。      ( () デ ル・ シ ュ ピ ー ゲ ル 』 は「 歴 史 家 論 争 は 再 来 す る 虞 おそれ が あ る の か 」 と いう記事の題目を掲げている( Reinhard Mohr , „V erwilderung der Sitten“, in: Der Spiegel , Nr . 25, 19. Juni 2000, S. 264. )。 ( () Ha ns-Ul ric h W eh le r, E ntso rgu ng d er de utsc he n V erg an ge nh eit ? E in

polemischer Essay zum „Historikerstr

eit“ , München: Beck, 1988; W olfgang W ippermann, Umstrittene Ver gangenheit. Fakten und Kontr oversen zum Nationalsozialismus , Berlin: Espresso 1998; Richard J. Evans, Im

Schatten Hitlers? Historikerstr

eit und V

er

gangenheitsbewältigung in der

Bundesr

epublik

, Frankfurt(Main): Suhrkamp 1991, usw

. 

()

Ernst Nolte,

Rückblick auf mein Leben und Denken

, Reinbek/München: Lau-Ve rl., 2 01 4, S. 11 -4 9; De rs. , Di e d ri tte ra dik ale W ide rst an dsb ew eg un g: De r Islamismus , Berlin: Landt, 2009, S. 413. ( () エ ル ン ス ト・ ノ ル テ( ド イ ツ 現 代 史 研 究 会 訳 )『 フ ァ シ ズ ム の 時 代

参照

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