﹁
原
雨
城
﹂
の
世
界
ー杜鵠を中心として|
一、雨城の小伝 熊本市から北へ約三十キロ、山鹿温泉を通り抜けると、 小高い山々が見えてくる。その一つに竜王山と呼ばれる松 林に蔽われた小さな丘陵がある。その麓・舞鶴渓流のほと り、山鹿市杉、乙乙が原雨城の生誕の地である。雨械の系 図によると、原家は﹁近江源氏の支族、馬測孫七郎信茂よ り出ず:::宝永正徳の頃一族肥後細川候に仕官し肥後に移 り て 、 山 鹿 郷 小 原 に 住 す 。 : : : そ の 後 御 総 庄 屋 と な り : : : ﹂ とあり、山鹿の郷では、かなり格式のある家柄であったよ うだ。現在は当時の姿はないが、年老達の聞では原屋敷と 呼ばれている。彼はその地から鹿本中学校︵現在の鹿本高 校︶を経て、熊本師範の第二回生として入学、同窓に宗不 牟 が い た 。 卒業後、外地に渡り、朝鮮︵現韓国︶では校長を務め、帰 国後、京都に居を得てからは学校長として又、会社の指導 者として活躍する。しかし南画に対する夢が捨てきれず、 田能村直入に師事して南画の主流を学び、師亡きあとは、 大阪の南画の泰斗、姫島竹外の門に入った。しかし進歩的 言 明 qt ∼μ 洋 一 d r ︾ 脅 迫 事 叫 匂 看 守 理 長 剣 M F a 治 哀 惜 迫 活 気 軍 事 吊 ︵六
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森
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芳
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な性格は、これまでの措法に満足できず、独自の﹁南京以 文派﹂を創始するに至った。京阪にあるとと四十年、その 問、描かれたものは、山水、人物、花鳥獣など独自の構想 描写による異色の画趣は、当時の京阪美術界の認めると ζ ろで、大東洋絵画展に第一等の受賞の栄に浴したのを始め、 多くの画展に入賞し、時には審査の任にあたる等自派の権 威を十分発揮した。雨城は又詩人でもあった。早くから詩 文を好み、漢詩は京都の詩人・福田静処、大阪の詩家、春 名栗城に学んだ。彼の漢詩は、賛詩健とでも言うような、 独自の韻文と平易な漢字を主として面倒な平灰等はつとめ て用いず、だれ陀でもわかる漢詩を願ったようで、自作の 画に、自作の詩を題する乙と、これが彼の願いでもあった。 フランスへ留学し、新しい画風の開拓研究に努め、北米を 経由して帰国の途上、船上より遥か雲の上にそびえたつ富 士の雲峰を望んで、その雄姿に感動、﹁帰帆太平洋上富岳 を望んで感あり﹂の詩と、その雄々しき富士の姿を描いた 画は、彼の代表作である。 第二次世界大戦が激しくなるや、戦禍を避けて帰郷し、菊 -60ー大阪の南画の泰斗、姫島竹外の門に入った。しかし進歩的 霧 器 4 湯 寝 予 言 ザ t n J 刊 道 官 i J 池川のほとり、山鹿市大宮神社に隣接して住居を定め、堂 号を﹁以文山荘﹂と構した。終日清淡な画室に独りとじ乙 もり輿到れば、一気に画筆をとって、山水を画き飽きれば 詩集を繕どいて、詩詞の流麗さにあとがれた。戦後門弟の 強い上洛を請う声にも耳を傾けず、晴耕雨読の晩年を過し た 。 その雨城の詩を読むと、非常に多く﹁杜鵠﹂を見る乙と が で き る 。 漢詩を読むと、詩情は詩語によって支えられているし、 詩語は詩情によって色づけされている。即ち相互作用があ る と 考 え ら れ る 。 烏の中でも臼本名、﹁ほととぎす﹂と呼ばれる烏が雨城 の漢詩の中でどうとらえられているか。更に中国人では又 その漢詩を学んだ日本人では、とたどり、わずかな資料を 手がかりに、雨城の詩風を考察してみたいと考える。 ニ、漢詩の中の﹁杜鶴﹂考 村 、 原 雨 城 の 場 合 聴杜鵠 ①撒緑封庭雨漸時 何来夏信控詩袖 棟蔭滴処著煙軽 聞得晴鵠第一声 ②庭院幽々雨未晴 夢中探得推厳句 淡雲低地悩吟情 眠覚新鵠第一声 第二次世界大戦が激しくなるや、戦楕を週けて帰銅剣し、 g A 山川庭院粛篠雨漸晴湿雲低地碧苔生 唯 心 探 得 夢 中 句 賦 到 新 鵠 第 一 声 以上の三首は、詩趣が似ている。杜鵠の第一声であり、 今期、初めての声である。夏の季節の到来であり、他に先 がけての、夏の感知であり、喜びである。その喜びは歓声 をあげるかのような詩情である。詩人の心をとらえて詩句 の成立を得た瞬時の歓喜である。乙れは、雨域独自の領域 を思わせるのである。 小 宮 ト 居 山 角 避 塵 気 社宇一斜掠抄去 冷夢閑窓苔気薫 声々晴破募天雲 ⑥ 出 国 春 秋 幾 去 来 又 看 庭 院 早 涼 回 杜 鵠 暗 破 露 亭 タ 想 起 家 山 鶴 水 隈 ④⑤では、﹁晴き破る暮天の暦一司﹂﹁晴き破る露亭のタ﹂ と、ともに不透明な世界におこる亀烈であり、その衝動を 伴なった杜鵠の声である。﹁晴き破る﹂の語の設定では、 一段の迫力を備え、いっそうの清涼感を伝えてくる。﹁暗 き破る﹂は、雨城の造語ではないかと考える。 ⑥ 居 卜 郊 南 遠 世 縁 仰 看 新 樹 翠 始 煙 春 風 吹 去 杏 無 信 満 地 清 涼 晴 杜 鵠 清涼感としては、乙の詩の﹁満地の清涼﹂が示す通り、 もっとも鮮やかなものとなっている。そしてその清涼さが 杜鵠を晴かすかと思わせる語順をとっている。雨城自身は、 結句を﹁杜鵠晴く﹂と読ませているが、語順からすれば、 1 i n h u
﹁晴く杜鵠﹂或は﹁杜鵠を晴かす﹂が的を得ているが、雨 城の心は﹁晴く杜鵠﹂又は、﹁杜鵠を晴かす﹂であったは ずであり、乙の語順は作品の中でもただ一つである。 ⑦ 落 托 江 湖 二 十 年 客 遊 猶 未 賦 帰 田 社 鵠 斜 掠 抄 梢 去 暗 血 一 声 過 暮 天 ⑥ 雨 後 夏 山 煙 霞 晴 杜 鵠 叫 血 幾 声 々 有 人 客 舎 空 叉 手 勿 惹 孤 心 万 里 情 ⑦⑥では詩情としては、郷愁の点で共通しており、資料 ⑤もその類である。⑤では﹁晴、き破る﹂⑦では﹁晴血﹂⑥ では﹁血に叫んで﹂と順次、痛切さが高揚してくる。暗き 具合を具象化したのはこの三首であり、④をのぞいて郷愁 というものに集中しているのは傾向として、李白や臼本の 他の詩人にも共通するものが、あるのではないだろうか。 ﹁血に暗いて﹂と﹁血に叫んで﹂とは、ともに血を入れて 痛々しきを強めており、中でも﹁血に叫んで﹂の方が濃度 が高いことは言うまでもない乙とである。﹁血に叫んで﹂ は李白では﹁叫ぶ﹂として用いられ、日本の他の詩人︵松 口月城の石動丸︶にも﹁血に暗いて﹂等の例はあるが、 ﹁血に叫んで﹂の熟語としての詩語は、雨城の造語ではな いかと思われる。彼の郷愁の詩を見た場合、雨城の郷愁の 中にはむしろ、﹁きわやかさ﹂﹁清涼感﹂といったものが 感じられる。乙れは他の詩人とは異る点の一っと考える。 彼は郷里を離れ文人として、画人としての研鐘期の半ば にして戦火をのがれ、やむなく山鹿への疎開に至った事情・ 理 又若くして教職も退、き、隠遁の身であった事などから、杜 鵠の訪れは、むしろ友の到来のような感じさえあったので はないかと思う。だからこそ、杜鵠の訪れは、清涼感さえ 感じさせるのではないだろうか。 ⑨ 寓 居 郊 北 絶 鹿 縁 残 月 微 風 欲 暁 天 醒 後 猶 側 夢 中 句 小 窓 擁 枕 聴 新 鵠 聞社鵠 ⑮ 節 入 梅 天 己 亘 句 陰 雲 低 地 雨 頻 々 飽書独筒茅軒立社宇声中月一一輪 竹林幽居間杜鵠 ⑪ 避 噌 悠 々 楽 半 生 竹 林 幽 居 侶 孤 繁 無 明 無 泊 問 烹 著 杜 宇 窓 前 月 有 声 ⑨⑮⑪は、ともに月を配した点に共通している。⑨は詩 情としては①②伽に近いものであるが、それらは、月を配 していない点で異っている。乙の詩も喜びの詩である。⑪ は菊池三渓︵後述︶の考え方﹁残月杜鵠﹂の中の﹁人言声 在 月 吾 疑 月 有 声 月 落 声 遷 断 一 川 卯 花 明 ﹂ の ﹁ 月 に 声 有り﹂を踏襲しているように思う。⑬の﹁声中月一輪﹂は ﹁月に声有り﹂からの発想の転換で、その裏がえしである ような感じがする。 匂当内侍 ⑫ 秋 光 遍 照 唐 垣 下 月 下 弾 琴 佳 人 姿 離 情 恋 々 借 老 誓 天 運 無 常 幽 明 異 庵 裡 幽 聞 冥 福 祈 杜 鵠 一 声 残 月 高 吊弘慮画伯令息 ヮ “ n b
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− − 4a ⑬ 泣 制 一 残 燈 賦 吊 詩 春秋十七真如夢 田原坂懐古 ⑭ 義 魂 一 片 報 国 情 事 違 志 英 傑 末 路 残月影昏社鵠不晴悲雨惨風撫古松 ⑫⑬⑬は雨城詩集の中で雑の部に入れられている。⑫は 昭和三十九年二月の作で、雨域自身、吟詠詩と記している。 常に売名を好まず、悟淡たる人柄で世俗とある間隔を保ち ながら、清暇に甘んじた生活を送っていた雨城も、敗戦に よる社会秩序の変革は、彼のもっとも憂いとするところで あったようだ。彼の義弟の子、即ち甥と吟詠家﹁伊藤秀峰﹂ との交宜が縁となり雨城と吟詠家達との出逢いが始まった のが、昭和三十年代の早々であったようだ。 そう考えて来ると、乙の作品も当然吟詠の為の詩で、月、 離情、無常、幽明、等と、無常の詩にかけては、意外と周 囲をかためて、﹁杜一声﹂とすんなりとおさめるのも、雨 城の世界であると考える。 ⑬は弔詞である。﹁吊﹂は弔と同じ意味に使われている。 杜鵠を詩語として用いたのは、乙の詩だけである。杜鵠一 声を主情的にとらえ﹁悲しみをたたず﹂と表現したのは珍 らしい。⑪は昭和三十七年五月の作で、彼自身民謡詩と記 している。社犠とのかかわり方が、丹心を思わせる﹁義魂﹂ とむずばれ、悲雨、惨風等、荒涼たる悲痛さは、雨城一世 の力作である。晩年に近くして作ったものであり、彼の最 愛の詩でもあった。今でも彼の家の床にはこの詩がかけて 由来人事奈難願 社宇一声不絶悲 あ る 。 乙とで留意しなければならない乙とは﹁残月影暗うして﹂ と﹁杜犠晴かず﹂の結合である。月を消し去る時は杜鵠も 晴かせない。乙れが悲痛の極地であり、杜鵠を晴かせる時 は、彼の詩情はまだ救われている感があるのである。 以上資料を一読して来たが、①t
⑪までは世俗から退いて の画人、詩人としての、即ち文人としての生活の中で生まれ たものである。﹁塵気を避け﹂﹁世俗を遠ざけ﹂﹁落托江 湖﹂﹁麗縁を絶ち﹂﹁噌を避け﹂等の詩句がその事情を語 っている。そのような語がなくても、趣きから見ると、そ の領域内であるのは容易にうかがえる。俗縁の外に住む者 の杜鴇とのめぐり合いである。そのめぐりあいの喜び、楽一 しみ、そして郷愁でもある。杜鵠は同じく俗縁外のそして、日 雨城の友として当然雨城には喜び迎えられたのである。雨− 城は、杜鵠、鵠、杜字の三種を用い、子規は用いていない。 ⑬⑪では表題では杜鵠を用い、詩句の中では杜宇を用い杜 鵠の別名が杜字であることを明示している。杜鵠を用いて 歓喜を表現したのも、雨城の特異さであろう。 一方杜鵠で郷愁をうたって、伝統を踏まえながらも、杜鵠 を晴かせない乙とによって表出された悲痛の極の世界は、 乙れまた雨城の独自の世界でもある。 詩集では⑫⑬⑭が雑の部に入れられているので、のとりは 十一首となる。それらは夏の部に入れられている。夏の部 の作品が六十八首であるので、その中の十一首を杜鵠がし めている。乙の割合は実に大きい。そうしてみてみると、雨城は杜鵠の愛好家であった:・と言えるかもしれない。 口、李自の場合 それでは中国人は﹁ほととぎす﹂をどうとらえているだ ろうか。李自の詩を見てみる乙とにする。 資料①聞王昌齢左遷竜標造有比寄 揚 花 落 童 子 規 暗 聞 道 龍 標 過 五 渓 我 寄 愁 心 輿 明 月 随 風 直 到 夜 郎 西 とあり、乙の詩では子規、愁心、明月の語に留意しておき
﹄ 亡 、
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︼弔/ l v ②浬渓東亭寄鄭少府誇 我 遊 東 亭 不 見 君 沙 上 行 将 白 鷺 享 白 鷺 行 時 散 飛 去 又 如 雪 貼 青 山 雲 欲 往 浬 渓 不 辞 遠 龍 円 建 波 虎 限 転 杜 鵠 花 開 春 己 闘 帰 向 陵 陽 釣 魚 晩 ﹁君を見ず﹂﹁遠きを辞せず﹂﹁杜鵠花﹂の組み合わせに 注目しておく。ω
宣城見杜鵠花 萄 国 曽 聞 子 規 烏 宣 城 還 見 杜 鵠 花 一叫一一畑腸一断三春三月憶三巴 とあり﹁子規烏﹂﹁杜鵠花﹂﹁二一巴を憶う﹂に留意してお き た い 。 ④奔亡道中五首 森森望湖水 帰心落何庭 敵馬傍春草 理 誰 忍 子 規 烏 連 声 向 我 晴 ﹁帰心﹂﹁誰か忍びん﹂﹁子規烏﹂に留意する。 約一千首と一言われる李自の全詩の中から、以上の四首を 関係あるものとして選び出した。李自の詩語の面から見る と 、ω
の﹁子規の晴く﹂伺︶の﹁子規の烏﹂めの﹁子規の鳥﹂ では、ほととぎずの烏は全て、子規で表わされている。② の﹁杜鵠花﹂仰の﹁杜鵠花﹂これは全て、つつじの花のこ とであり、加では﹁子規の烏﹂と対語になっている。 次に詩情をみると、①は子規の晴き声からの王昌齢への愁 心であり、②は鄭誇に寄せる愁心を杜鴎花による高めであ り、併は子規の連声による帰心の高揚であり、﹁誰か忍び ん﹂まで高められていくのである。 旬は屈曲を表面に提示してみせている。起句と承句は対句 関係にあり、眼前では異郷で杜鵠の花を見て、郷里の萄で は以前に子規の烏の声を耳にしたと語っている。乙こでは 社鵠花から子規の鳥へと線がたどられている。杜鵠花から、 その花をのぞけば、杜鵠となり子規の別名となる。従って 社鵠花から社鵠、そして子規の鳥へと展開して郷愁と連繋 していくのであろうと考えられる。 古来中国では、﹁杜鵠花発社鵠叫、烏臼花生烏臼晴﹂と言 う言葉があり、杜鵠と杜鵠花は深い縁があったものとして 用いられているようである。①と②は人への愁心であり、 叫一と糾は郷里への愁心であると見ることが出来る。即ち子 規の烏と杜鵠の花との型を守り、愁心の主題を詠じたので ある。ただ①では更に﹁月﹂と﹁子規﹂の組み合わぜがあ -64-其五 青 車 問 腫 葉 斉 日没大江西 欲行遠道迷ることに留意したい。
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と②の友人への愁心にくらべて叫︸州一の郷里への秋山心では ﹁腸一断﹂﹁誰か忍びん﹂等の痛切な語が、表出されてい るのにも留意しておきたい。 日、他の日本詩人の場合 次に中国の漢詩を学んできた日本人の漢詩では、ほとと さすと呼ばれる烏が、どんな色合いをもって用いられてい るか考察してみよう。ただし、日本漢詩他的︵明治書院︶ と吟剣詩舞道漢詩集ω m w
︵日本吟剣詩舞振興会編︶新編和 漢名詩選︵みずほ出版︶以上の本の中に限ってその中から 選 ん で み た 。 資料ω
残 月 社 鵠 菊 池 三 渓 人 二 = 口 声 在 月 五 口 疑 月 有 声 月 落 声 遷 断 一 川 卯 花 明 ①では﹁残月﹂﹁社鵠の声﹂に留意しておく。 資 料 ② 舟 中 間 子 規 城 野 静 軒 八幡山崎春欲暮杜鵠暗血落花流 一声在月一声水声裡離人半夜舟 ﹁社鵠﹂﹁月﹂﹁離人﹂に留意したい。 資 料 は 聞 社 鵠 森 春 譲 水 精 花 上 月 依 徴 著 意 聴 時 間 得 稀 但 是 空 山 人 寝 後 雲 埋 老 樹 一 声 飛 ﹁月﹂﹁杜鵠﹂に留意しておきたい。 資 料 比 棄 児 行 作 者 不 詳 斯身飢斯児不育斯児不棄斯身飢 捨是邪不捨非邪人間恩愛斯心迷 哀愛不禁無情涙復弄児顔多苦思 児 A つ無人命伴黄泉児今有命斯心知 焦心頼属良家枚欲去不忍別離悲 橋畔忍驚行人語残月一声杜鵠晴 山川では﹁残月﹂﹁杜鵠﹂﹁無常﹂﹁別離﹂に留意したい。 尚乙の作者については雪井竜雄と一一百う説もあるが定かで は な い 。 資料小川乱後出京到江州水口一条覚恵 憶得三生石上縁一庵風雨夜無眠 今朝更下山前路老樹居一式深突杜鵠 ﹁雲深くして﹂﹁杜時間﹂﹁突く﹂に留意したい。 資 料 ぜ 舟 至 由 良 港 土 口 村 黄 庵 回首蒼荏浪連城蓬窓又聴社鵠声 丹心一一片人知否不夢家郷夢帝京 ﹁杜鵠﹂﹁家郷﹂﹁丹心﹂に留意しておく。 資 料 ⑦ 一 谷 懐 古 梁 川 星 巌 二十余春夢一空豪華吹散海喚風 山排殺気参差出潮道寛声日夜東 憶音満官悲去踊欲将往事問飛鴻 欄斑剰見英碓血新一一樹鵠晴染宋紅 ﹁血﹂﹁鵠﹂﹁紅﹂に留意しておく。 資 料 ⑨ 石 動 丸 相 官 口 月 城 花有雨今月有雲悲風亦吹苅萱関 繁氏翻然入仏道出家遁世高野山 -65ー故郷遺児石動丸可憐当年十四才 伴母雲山尋父来人間誰耐比思愛 霊峰揖嵯鋒雲間仰之一夜喜不眠 悲哉女人禁制処残母登来伽藍辺 訪西尋東不得父夕陽沈山己蒼然 無明橋畔過僧侶右手花桶左珠数 感想撫肩情殊深比僧或莫是吾父 鎚袖欲語無限思道心聴之扶肺鵬 瑳仏道是耶思愛非熱涙梼抱落法衣 忽聴暮鐘無常響杜鵠一声晴血飛 ⑥では﹁月﹂﹁誰か耐えん﹂﹁肺胴を扶らる﹂﹁熱涙﹂ ﹁無常の饗﹂﹁杜犠﹂﹁血に暗いて﹂等に留意したい。 以上の資料をもとにしてみてみると、資料①②叩糾に共 通するものは、﹁月﹂と﹁杜鵠﹂との組み合わせである。 しかしもう少し細にみてみると、①と②は﹁声月に在り﹂ の系統を踏んでおり、
ω
は﹁月に声有り﹂と発展し②は ﹁一声は水﹂と発展する。その意趣の発想の奇抜さが、生 命であろうし日本的なものと考える。②では更に表題では ﹁子規﹂と言い、詩中では杜鵠を用いて、子規と杜鵠のつ ながりを明示している。 詩情の面から見ると資料ω
は自然の風致であり、②では一 声を聞き得た得意きであろう。老樹を配したのは、詩に風 格を与えた乙とと考えられる。乙れ等は日本独自の世界で あるように思う。資料②は離人の語で自分の身の上を明か すと乙ろからすれば、郷愁であろう。郷愁であるとすると、 李自の詩の中でも郷愁のものに限り、一段と痛切な響きの 語が用意されていた。﹁誰か忍びん﹂﹁腸一断﹂などがあ ったが﹁血K
暗いて﹂も同じ線上をたどるような気がする。 資料向、も別離の情の痛々しきであり、生と死の別離であり、 無情の世界である。資料@は﹁雲深くして﹂とあり、月と はまさに逆である。しかし②と④の離人、別離と同じく詩 情としては郷里からの離別である。﹁更に下る﹂が向郷里 から遠ざかることを意味すると恩われる。 社鵠に﹁晴く﹂を﹁突く﹂と吾一回う字を当てたのは独得なも のと思われる。@⑦では杜鵠は﹁丹心﹂﹁血﹂﹁紅﹂と結 びつけられている。杜鵠花はさっき又は、つつじ類と言わ れているが、杜醜からまっ赤な杜鵠花を暗にたどっての、 丹、血、紅でありそして丹心の語が示す通り忠義へと昇華 されている。資料④では李白が郷愁に見せる﹁腸一断﹂﹁ ﹁誰か忍びん﹂を思わせるもの﹁肺胴を扶る﹂﹁誰か耐え ん﹂があり、更に無常の響きと杜携の一声が組み乙まれ血 に暗いてが組み ζ ま れ て い る 。 ②にあった﹁血に晴く﹂は白楽天の琵琶引に﹁其の間旦暮 に何物をか聞く、社鵠血に晴き猿哀鳴す﹂と又、李山甫の ﹁子規の晴くを聞く詩﹂には﹁断腸故郷を思い、晴血芳枝 に織ぐ﹂とあり、日本の独想ではない。しかし詩の長短に も大いにかかわるだろうが、無情の情趣の領域においては 日本人の独意さが見られるようである。 -66一
之 後 主 、 名 秒 争 号 望 帝 、 譲 位 瞳 霊 望 帝 白 逃 後 欲 不 得 死 為 骨 毎 春 月 間 昼 夜 悲 鳴 局 人 間 之 日 我 妻 乃 禅 位 亡 去 時 此 烏 鳴 故 萄 人 見 杜 鵠 鳴 而 悲 望 帝 プ l w ク イ チ ユ イ う 。 のの素地に立脚して郷愁、帰心にその切なるものが多いの で あ る 。 原雨城の場合は、むしろ別の要素の色彩を強めた感がある。 それでもやはり乙の伝説の素地を無視出来ない。その理由 は﹁望帝禅位於開明、升西山隠君。﹂の升西山隠震の要素 である。即ち隠遁の身である。社鵠と杜宇は、その杜が示 す通り山中の、ひいては脱俗の境地を意味するのである。 原雨城は、脱俗の友一として杜鵠を暖かく迎えている。中国 の伝説中の望帝を迎えるかのような謙虚な姿がそ乙には、 あるようである。他の詩人は俗界の煩悩との緋として杜鵠 をとらえるのに、雨城は非俗界から、非俗界への鮮として とらえるのである。絶対的ではないかもしれないが、その 傾向が強く認められることは歪めない。