Ⅱ.報 告
テロリズムリスクと保険制度について
羽 原 敬 二
1.はじめに
2004年ロンドンで,保険および再保険に及ぼすテロリズムの影響(Insur-
ance, Reinsurance and the Impact of Terrorism
)が,論 題 と し て 選 択 された。これまで,テロリズムの問題に関しては,強調はされていたが,情報不足 のため,総じて言及されていなかった。保険法と保険契約についても,戦争 行為とサボタージュ(破壊・妨害行為)に重きを置き,特に戦争行為に多く を割いていた。テロリズムは非常に古い事象であり,テロリズムリスクの保 険それ自体は新しい概念ではないが,テロリズムへの対応は,過去のものと は実質的に異なってきているといえる。
本稿は,2006年度アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された
AIDA
(Association Internationale de Droit des Assurances)世 界 大 会 で 示 さ れた問題点に基き,その背景に関する補足的解説とともに,報告を行った内 容に追加・修正を施し,まとめたものである。
な お,他 の テ ー マ で あ る
The Influence of Technological and Scien- tific Innovation on Personal Insurance
(人 保 険 に 関 す る 技 術 革 新 の 影 響)については,AIDAのホームページから読みとれ,紙幅の関係と報告の 分量および討議内容から判断して,本稿からは,除くこととした。/平成19年4月23日原稿受領。
2.テロリズムの概念とリスクの評価
2.1 テロリズムの質的変化
2001年9月11日の同時多発テロリズムやバリ島における2002年10月の爆破 テロリズムは,テロリズムの活動が前例のない規模に達したことをはっきり と示している。今では,新たな形態のテロリズム,壊滅的テロリズムなどと も呼ばれ,多くの国で,テロリズムのリスクが現在の社会にとって大きな脅 威になっていることが認識されている。テロリズムが近年どのように変化し てきたかを見ると,従来型のテロリズムが姿を消し,それに代わって,新た な世界的な勢力が生まれているとは必ずしも言えない。昔ながらのテロリズ ムは実際に現在も続いており,甚大な人的,経済的,および社会的犠牲を発 生させている。今後は,新たな形態のテロリズムが,リスクの評価に及ぼし ている影響について分析することも必要である。
2.2 テロリズムの定義
テロリズムとは,抽象的であいまいな概念であり,さまざまな政治状況や 歴史的条件の中における種々の行動を指すために用いられてきた。
法律による定義が存在する場合でも,その定義は場合によって大きく異な っている。たとえば,米国の法律では,テロリズムは, 前もって計画され た,政治的動機に基づく暴力,準国家集団または秘密組織が,通常は一般の 人々に影響を及ぼす目的で,非戦闘員を標的に行うもの と定義付けられて
1)
Emerging Risks in the
21st Century
−An Agenda for Action, OECD, 2003, pp.
103‑107.
( 21世紀の新たなリスク−アクションへの政策提言− 総 合研究開発機構,平成16年,115‑122ページ。)2) テロリズム(terrorism)の定義については,現在,国際的に統一されたも のはない。テロリズムの概念を構成するのは,①政治目的のため,②公衆に恐 怖を与える,③非国家主体または国家の代理主体による暴力の使用という要素 である。国際連合のテロリズム対策に関係する国際連合の条約は,http://
www.un.org/ terrorism
/を参照。いる。
欧州会議の提言では,これとは本質的に異なる要件が用いられており,テ ロリズム行為は 国家やその諸制度,一般市民または特定の個人に対して暴 力に訴えるか,暴力を用いると脅す個人または集団が犯す犯罪で,しかも分 離主義者の野心や,過激派のイデオロギー上の考え方,狂信的態度,または 非合理的で主観的な要因を動機として,政府当局や,社会の特定の個人や集 団,一般市民の間に恐怖に満ちた雰囲気を作り出すことを意図したもの と されている。
国際的には,テロリズムの定義に関して合意しようとする取組みが国際連 盟の下で1937年に始まったが,その後は全く進展していないようである。最 近になって提示された案には,容認された定義における戦争犯罪の考え方
(市民に対する意図的な攻撃,人質をとる行為,囚人の殺害)と,テロリズ ムとを関連付ける案などがある。さらに,テロリズムは, 平和時に行われ,
戦争犯罪に相当する犯罪 であると特徴付けられてきた。しかし,このよう な取組みがなされながらも,世界共通のテロリズムの定義付けはまだ実現し ていない。
テロリズム行為は,その目的,対象,犯人と支援者の身元,および手段の 4点によって,特徴付けることができるとされている。この4つの基準すべ てに照らすと,最近のテロリズム行為のなかには,過去に経験したテロリズ ムとは質的に異なるものが現れている。
2.3 テロリズムの目的
従来のテロリズムは,民族の解放など,特定の政治目的を掲げた組織集団 による行為であった。囚人の解放,占領地域からの軍隊の撤退など,明確な 目的を達成するための交渉手段としてテロリズムが用いられていた。政治情 勢の不安定化だけを狙った作戦もあったが,それはむしろ少数派であった。
新しいテロリズムは,経済,社会,政治,および文化システム全体を持続的 に妨害することが目的だと考えられる点で,従来のテロリズムとは全く異な
っている。
結果的に,新しいテロリズムは,従来のテロリズムよりも国際的なものと なっている。これまでのテロリズム行為は,航空機のハイジャックや大使館 の爆破など,特定集団の属する国以外で実施されたという意味においてのみ,
国際的だった。テロリズムの目標はその対象国にあり,その国の権益が攻撃 されていた。つまり,国際的な次元で作戦が展開されたとしても,国家を基 本とした背景の中で実施されているにすぎなかった。一方,現代のテロリズ ムは,欧米型のシステムを主な対象としている。
2.4 テロリズムの対象
2001年9月11日の同時多発テロリズムからも分かるように,現在のテロリ ズム行為は,多くの市民を標的にするという傾向を強めている。このため,
地下鉄や電車の駅,ショッピングモールや大型のビルなど,人の集まる場所 が,自然とテロリズムの標的になっている。化学プラントや原子力発電所,
ダムなどの危険な施設は,それ以上に壊滅的な被害をもたらしうる場所であ る。
現代社会は,エネルギー,水,交通,医療,金融,情報のシステムなど,
基本的なインフラストラクチャーに市民生活や経済活動の多くを依存してお り,新しいテロリズムがそれらを標的にする可能性がある。テロリズムの攻 撃によって,これらのシステムの主要な部分に影響を与え,長期的にその機 能を中断させるか,それを管理することがあれば,人的・経済的に多大な被 害が生じる。情報・通信,制御システムは,この20年間に,極めて重要なイ ンフラストラクチャーとして社会の不可欠な構成要素となっており,テロリ ストにとっては,非常に魅力的な標的となっている。
2.5 テロリズムの行為者
従来のテロリズムは,しっかりとした組織をもつ過激派武装集団による行 為であり,地方や国の政治勢力の後ろ盾を得ていることが多かった。これに
対し,現代のテロリストについては,地域性の特定が難しい。現代のテロリ ストは,武器の製造に必要な材料と知識を容易に入手できるため,資金や技 術,ロジスティクス面での支援を求めて大規模な組織に依存する必要がない。
1995年にオクラホマシティーで発生した連邦政府ビル爆破事件のように,現 在では,ごく一握りの個人でも,大規模な攻撃を組織し,甚大な被害を生じ させることができ,同時に,人,物,資金,情報の移動性が増しているため,
一部のテロリズム組織のネットワーク化が実現している。アルカイダの例か ら分かるように,このようなネットワークは,無数の中小の構成単位を一つ に結びつけることができる。しかも,一つ一つの構成単位が,運営上多くの 自主性を享受することができる。アルカイダなどの組織は,どこかの国を基 盤としたものではなく,真の意味で国際的な存在である。このために,海外 テロリズムと国内テロリズムとの区別が,意味をなさなくなってきている。
OECD
諸国では,テロリスト組織が掲げるイデオロギーの幅も広がって おり,長い間,何らかの主義を掲げる過激派と,ナショナリズムや民族主義 を掲げる過激派が主流だったが,今では,宗教的原理主義,世紀末カルト思 想,および他の形態の狂信主義が含まれるようになっている。その一例とし て,1995年に東京の地下鉄でサリンガスによる攻撃を行ったオウム真理教が 挙げられる。テロリズム活動への支援を活発化させている国々が一部にある。長年,テ ロリストの組織は,国家の後ろ盾により,随時便益を受けてきた。しかし,
この20年間,特にソ連の解体後には,公然とテロリズムを支援する国がます ます減ってきている。このため,たとえば,航空機のハイジャック件数が減 少した。ただし,実際には,多くの国々が,テロリスト組織との間で,秘密 裏に重要な関係を築いていることがある。テロリズムを奨励・利用し,時に は組織化することが,外交上の影響力を獲得するための戦略になっていたり,
戦争に代わる安価で低リスクの手段になっていたりする国も多い。
2.6 テロリズムの手段
最近の多くのテロリズム行為では,従来型の爆薬,銃器など従来の手段や 携帯ボンベ,刃物など即席の武器が用いられてきた。しかし,1995年に東京 で発生した地下鉄サリン事件や,2001年に米国で炭疽金がばら撒かれた事件 などにより,従来とは異なる手段として,生物学兵器,化学兵器,さらに仮 想的ではあるが,核兵器が使われつつあることに,関心が向けられるように なっている。この3種類の兵器は,一部の政府が生産を続けているうえ,近 年では,拡散する傾向があり,以前よりも入手しやすくなっている。これら が入手可能な限り,阻止することは,政府の役割であり,責任でもある。
生物兵器は,最も危険な手段となりうるものである。致死性がきわめて高 く,生産が簡単なうえ,その痕跡を見つけるのが困難なためである。生物兵 器製剤の生産・調合に必要な施設を隠蔽することは簡単で,しかも,薬品や ワクチンの生産施設との区別もほとんどつかない。幸いなことに,生物兵器 製剤の多くは,密閉されていない環境では,ほとんど死滅し,爆発時に生物 製剤を破壊させない爆弾やミサイルの製造も,難しいと考えられる。
生物テロリズムの攻撃は,新しい感染症の突発的な出現と比較されること が多い。実際この二つを区別するのは難しいともいえる。西ナイル脳炎の症 例が1999年に始めてニューヨークで見つかったときには,情報当局はウイル スが故意に導入されたのではないかと疑った。故意による可能性が低いと認 定されたのは,しばらく経過してからであった。生物テロリズムで用いられ る病原体は未知のものである可能性もあるので,それがどの程度の速さでど のように広がるのか,どのような人たちが影響を受けやすいのか,どの程度 までどのように治療できるのかを予測することは,極めて困難であると判断 される。
皮膚や血液,神経系に影響する化合物を用いた化学兵器も,致死性の高い 手段となりうる。生物製剤については,入手や製造は簡単だが,安定した状 態に維持したり,効果的に拡散させることが難しいと一般的には考えられて いる。しかし,東京の地下鉄サリン事件から分かるように,化学兵器の場合
は,人々を死に至らしめる攻撃も可能である。
核による攻撃には,工業的に生産された核兵器,即席に作成された核爆発 装置,および放射性物質拡散装置の3種類の手段がありうる。テロリズム勢 力が核兵器の製造に必要な原材料を収集することについては,どこかの国家 の積極的な支援がなければ無理だと普通は考えられている。核分裂性物質の 供給については国際原子力機関(IAEA)が厳密に監視しているが,漏れは ある。たとえば,最近のロシア当局の発表によると,ロシアが保存する核兵 器への利用が可能な放射性物質のうち,約半分について警備が不十分で,こ の10年間で一定量が紛失したとの報告がなされたという。このため,こうし た物質の管理に関する国際協力を強化する必要がある。
2.7 テロリズムのリスク評価
テロリズムが,今後数十年において主要な紛争の形態となることは,まず 間違いないであろう。テロリズムは近年変化しており,甚大な人的,経済的 損害が生じやすくなっている。このため,テロリズムが社会に及ぼす脅威に ついてよく理解し,評価することが不可欠である。大量破壊兵器が使用され る可能性については,諜報活動や予防対策,防御対策などの観点に関わらず,
特別な注意を払わなければならない。さまざまな活動や場所,社会・経済・
物流システム(配電網,原発,石油・ガス貯蔵施設などのエネルギー・シス テム,農業,食品・給水システム,情報・通信インフラ,交通システム,都 市部の人口密度の高い地域)について,組織的かつ効果的な方法でテロリズ ムのリスクを評価し,それに対応する必要がある。
ただし,テロリズムは,他の多くのリスクと二つの点で異なっており,そ れが評価を難しくしている。第1の点は,テロリズムのリスクは,この何年 かで大きく変わってきているため,過去のデータを用いて数量化することが できないということである。第2の点は,人間の行動によってテロリズムの リスクが発生するということである。つまり,テロリズムのリスク発現の背 景には,地震や偶発的な人的エラーなどの外的事象によって損害が引き起こ
されるのではなく,セキュリティに対するあらゆる違反行為,場合によって は自分の命を犠牲にする覚悟までしている人間の意図的な行為によって,損 害が引き起こされるという面がある。安全性評価の過程では,大型航空機を 原子力発電所に衝突させる事象や食品の製造工程を致死性の細菌で汚染する 事象などが検討されているが,これらが,意図的な行為の結果として発生す る可能性は極めて低い。このような分野については,方法論として悪意ある 行為のリスクを分析し,そのリスクを数量化する方法を開発する必要がある。
脆弱性を低減するための効果的な防止対策とテロリズム保険などのリスク転 嫁の仕組みを実現するためには,このような手法の利用が不可欠である。
テロリズムリスクのモデル化については,ある特定の場所がテロリズム攻 撃の標的になる可能性と,その攻撃が成功する可能性を評価するもの,損害 シミュレーション・モデルにより,発生する損害の規模を算定するものなど のモデルが策定されている。
このような数量化の手法については,できるだけ幅広く情報を集めるだけ でなく,それを効果的に分析し,人々に伝えていく必要がある。そのための 解決策の一つに,すべての情報源から得られたデータを,情報を統合,分析 する責任を負った独自の機関に送り込むことがある。テロリストのネットワ ークに関する知識やテロリストの行動に関する情報について,国際的な共有 化を進めることが当然ながら重要である。さらに,テロリズムの脅威を評価 するためには,テロリストグループの発生地や手段,組織についてよりよく 理解し,テロリスト組織が用いることが分かっているチャンネルや方法を管 理するだけでなく,テロリスト組織が用いうるチャンネルや方法を見つけて いく必要もある。テロリストは,自らが直面する機会や障害に応じて,その 戦術を絶え間なく変化させることができるので,攻撃のリスクおよび攻撃に 対処するために構築された安全システムの有効性について,絶えず再評価を 行うことが必要である。
3.テロリズムリスクに対する保険の動向
3.1 同時多発テロリズム以後の保険市場
2001年9月11日のニューヨークとワシントンでのテロリズムは,前例のな い規模で保険業界に影響を及ぼした。反動として,ほとんどの保険者は超大 規模テロリズムのリスクは免責であると宣言し,米国内でテロリズムに関連 した保険の付保は停止された。このような反応は,たとえば大規模な自然災 害発生後など,過去にも見受けられたが,そのたびに保険者は最終的には新 しいリスクに対する革新的な対応策を見出しえた。超大規模テロリズムの場 合にも,新しい対応策が生まれつつあるが,それには,とりわけ国際協力に よって適切な保険制度が利用できるようなシステムを構築するために,まず は国の役割を拡充することが不可欠であると考えられる。
3.2 保険業界におけるテロリズム攻撃の影響
9月11日の同時多発テロリズム事件以前,テロリストの攻撃による損害の リスクは,非常に過小評価されていたため,一般にテロリズムは保険の単独 の種目ではなく,ほとんどの契約書には記載さえもなかった。9月11日以降,
保険会社が即座にとった対応は,免責条項は適用されず,保険金請求を担保 するための十分な準備金があると保証することであった。この事件により,
さまざまな保険種目が影響を受けたが,即座に市場は大幅に引締められ,大 幅な保険料の引き上げが実施されて,航空業界では最大400
%にも上った。
再保険会社は,少なくとも商業分野に対しては,将来テロリズムは支払対 象から除外すると宣言した。その結果,主な保険会社は,将来の損失に対す る補償を中止し始めた。ほとんどの保険会社は,その予測不可能性と損害の 規模に照らして,超大規模テロリズムは免責であると主張した。
3)
Emerging Risks in the
21st Century
−An Agenda for Action, OECD, 2003. pp.
249‑251.
( 21世紀の新たなリスク−アクションへの政策提言− 総 合研究開発機構,平成16年,289‑292ページ。)規制当局は,現状では超大規模テロリズムは市場の失敗を構成し,少なく とも短期間は政府による何らかの形の支援システムが必要であることを認識 した。しかし,システムの具体的な形態については,多くの議論が巻き起こ った。すなわち,テロリズムにどのような定義を当てはめるべきか,公的資 金をどの程度,どれくらいの期間投入すべきか,業界の参加は必須なのか自 発的なのか,などである。2001年の末までにいずれの選択肢も議会の承認を 得られなかったので,全米保険監督官協会は,保険対象となる総損失が 2,500万米ドルを超える場合,テロリズムによる損害を免責とする条項を認 可した。これは,多くの資産価値と比べると非常に低い限度額の設定である。
3.3 テロリズム保険の免責に関連するコスト
9月11日の同時多発テロリズムから数カ月間,テロリズムに対する保険は 提供されないか,免責金額,塡補限度額の制限,その他の条件について,非 常に高額か,または厳しい制約付きのものであった。一部の保険者は別の形 態の保険に取り組んだが(類似企業間でのプール組織形成,保険会社数社と の複数の再保険契約など),テロリズム保険の需要の大部分は満たされず,
主な保険者が既存の契約からテロリズムを徐々に除外していくにつれて,状 況は悪化すると判断された。
多くの州の規制や法律(火災保険,労働災害保険,および生命保険など)
に反することとは別に,テロリズムに保険が適用されないことは,数多くの コストとリスクを生じさせる結果となった。企業の中には,資金の手当てが 行えず,破産に追い込まれるものもでるので,保険の適用を除外することは,
経済活動に打撃を与えることになる。たとえば,商業用不動産への保険金支 払いは,2002年当初の数カ月ですでに制限されていた。テロリズムに対する 保険の適用を受けられた企業でさえも,保険料の高騰に直面し,営業コスト が上昇した。
今や多くの事業活動と資産が,テロリズム攻撃のリスクに直接さらされて いる。たとえば,その修復に21億米ドルを要するゴールデン・ゲート・ブリ
ッジについては,現在テロリズムによる損害に対しては保険が付けられてい ない。テロリズムが生じた場合,多くの組織および個人には,通常の業務ま たは生活を再建し,再開するための資金が欠如する。この予測自体が,経済 活動に対する妨げともなりうる。超大規模テロリズムのような大規模リスク に適用される保険がないことは,多大な経済コストを伴うため,できる限り 速やかに対策を講じる必要がある。
3.4 予測可能性と支払能力に関する課題と対応策
超大規模テロリズムのリスクを効率的に分散することには2つの課題があ る。すなわち,そのような事件の発生可能性と影響を予測することおよび発 生時に損害を補償するための支払能力を持つことである。
9月11日の同時多発テロにより,保険会社はこのような出来事の発生可能 性,潜在的な損害の規模,および関連する保険種目に関して,確信をもった 判断ができなかった。最新型のテロリズムに関する過去の経験が乏しく,知 識も限られており,将来考えられる最大損害の分布を予測することが,突如 極めて複雑な課題として発生したためである。
しかし,徐々に革新的な対応策が提案され始め,2002年10月に,主要な保 険会社は,テロリズムのリスク評価に関する新しいモデルを提示した。現在 では,他のリスクと同様,保険業界がテロリズムのリスクに対する料率設定 の適切な手段を徐々に開発していくと予想されている。
支払能力の点で,再保険,共同保険,準備金などの支払能力の問題に対す る従来の対応策は,超大規模テロリズムに対して十分ではなかった。効果的 な対応策としては,大規模災害ボンドなどの証券化手法によって,保険のリ スクを国際資本市場に転嫁することが挙げられる。その膨大な支払能力によ り,理論上,資本市場は様々な投資家の間にリスクを分散することが可能で ある。しかし,大規模災害ボンドには,正確なリスク評価のコストなどのた めに,固有の限界がある。過去数年間における年間保険総額は10億米ドルほ どであり,その市場はまだ揺籃期にすぎない。したがって,今後何年間かの
うちにテロリズムリスクの大部分が資本市場で処理されるとは未だ考えられ ない。
こうした流れの中で,大規模災害の場合に最後に頼ることのできる保険制 度の役割を国が果たすことの認識が高まりつつある。保険会社が必要な引受 能力を拡大するために求められているのは,ごく一時的な政府のプログラム であるという意見がある。別の考え方は,テロリズムの保険は,その独特の 性質ゆえに,公的資金によって恒久的に支援されるシステムを持つ必要があ るというものである。
テロリズムの脅威が投げかける保険の問題は,最終的には,保険会社,再 保険会社,プール組織,資本市場,政府を含む複数の主体を持つリスク分散 システムを構築することによって処理されうる。しかし,これまでに見られ なかった武器による攻撃などの極端なシナリオでは,一国の能力さえも超え る損害が生じる可能性がある。そこで,国際的な解決策を考慮する必要が生 じるといえる。
4.テロリズムのリスク処理と保険制度の課題
2001年9月11日の米国同時多発テロリズムによって,米国の航空会社は,
人的および物的な直接損害に加え,運航中止や航空需要の大幅な減少による 間接損害を被った。その結果,航空運送事業そのものが苦境に陥ることとも なった。そのため,航空運送システムの安全性確保と安定を目的として,
Air Transportation Safety and System Stabilization Act
が2001年 9 月 22日に制定され,同時多発テロリズムのような予想しがたい事態に対応して,航空運送事業を保護するための緊急避難的な措置が定められた。この事件で は,民間航空機自体が武器として用いられ,甚大な被害を地上の第三者に与 えたことから,航空運送事業者の負うべき第三者への賠償責任について,さ まざまな問題が提起されている。
4) 中村克巳 テロに起因する第三者賠償責任の現状と考察 空法 第44号,
日本空法学会,2003年,23‑43ページ。
4.1 航空戦争保険に関する対応
米国同時多発テロリズムによって,航空保険の保険者は莫大な損害を被り,
テロリズムのリスクがかってないほどに高まったと考えられたため,航空保 険制度は,航空保険料の高騰および支払限度額の縮小という措置を余儀なく された。具体的には,2001年9月17日23時59分(グリニッジ標準時)に,航 空保険者から,戦争およびハイジャック等の危険に起因する賠償責任に関す る特約である
AVN52 C
を解約するという通知が,航空運送事業者に対して なされた。AVN52 C
は,航空賠償責任保険におけるAVN48 B
により免責となって いる戦争・ハイジャック,政治テロリズム行為等に起因する賠償責任を復活 担保する特約条項である。本特約では,①保険者は7日前の予告によって,保険料および担保地域に関して再検討する権利を有すること,②保険者およ び被保険者は,7日前の解約予告によって,相手方の同意なく本特約を解除 する権利を有することが定められている。したがって,AVN52
C
の解約予 告が発効することにより,戦争・ハイジャック,政治テロリズム行為等に起 因する賠償責任については,免責とされ,無保険状態となる。これについては,AVN52
C
の解約予告発効直前に,航空保険者から免責 条件を一部復活担保する新しい特約AVN52 D
が提示された。AVN52D
で は,乗客に対する賠償責任については,塡補限度額が1事故および期間中 5,000万ドルとされ,従来の1事故あたりの塡補限度額20億ドルと比較して,極めて低額の補償となった。さらに,本特約の付加においては,有償旅客1 人あたり1.25ドルの追加保険料が要求され,航空運送事業者の負担が増大し た。
4.2 航空保険制度の変化に対する対応
AVN52 D
によって提供された第三者賠償責任に対する塡補限度額は,テロリズムなどに因る事故が発生し,大規模な災害となった場合のリスク転嫁 手段としては極めて不十分である。したがって,航空運送事業者にとって,
事業継続のためには,塡補限度額低減への対応が緊急の課題となった。テロ リズムが発生した直後の保険市場では,十分な塡補限度額を提供する保険の 手配は極めて困難であるため,政府による支援措置がとられることとなり,
AVN52 D
によって担保される5,000万ドルを超える損害に対して,政府が補 償を提供する措置がなされた。日本では,閣議決定により,2001年10月2日から6か月以内に発生したテ ロリズムによる航空機事故に起因する本邦航空運送事業者の第三者賠償責任 につき,国会の議決を条件として,20億ドルを上限に,発生した損害賠償額 の支払が可能となるよう適切な措置をとることとされた。
4.3 新たな航空保険制度の確立
同時多発テロリズム以後,各国政府および航空運送事業者がさまざまなセ キュリティ対策を実施したため,航空機を対象とした大きなテロリズム事件 は発生していない状況にある。そのため,高騰している戦争リスクに起因す る賠償責任保険の提供を事業拡大の機会として,新規の保険会社の進出も増 加しており,保険市場において提供される保険に関しても,選択の余地が広 がりつつある。特に,7日前予告解約条項による解約権のない保険や塡補限 度額を10億ドルまで拡大した保険などが商品化されている。
しかしながら,航空賠償責任保険契約は,通常1年契約であるため,長期 にわたる契約条件が確保されておらず,テロリズムのリスクが再度高まった 場合には,保険者が市場から撤退する可能性もある。
航空運送事業がテロリズムによる大規模な損害を被った場合に危機に瀕す る状態を回避するためには,国または国際機関が参加する形態による戦争リ スク処理の保険制度が確立されるべきである。とりわけ,7日前予告解約条 項または自動契約終了条項により民間保険の担保終了後,あるいは民間保険 市場における戦争関連リスクの消化不能時の対応として,もしくは塡補限度 額を超過する損害については,政府による再保険制度等,国が一定の補償料 を徴収して,補償を提供する措置を講じる制度,すなわち,航空戦争リスク
国家補償制度が必要である。
5.テロリズムリスクに対する保険制度の事例
ブッシュ大統領がテロリズム保険修正法案に署名したことにより,テロリ ズムリスク保険法が2002年11月26日に発効した。その結果,先進国の英米独 仏の4か国において,政府支援付きのテロリズム保険制度が創設されている。
5.1 米国
①補償内容:
1年目−テロリズムによる損害の累計が100億ドルを超えた場合,90
%
政府補償2年目−テロリズムによる損害の累計が125億ドルを超えた場合,90
%
政府補償3年目−テロリズムによる損害の累計が150億ドルを超えた場合,90
%
政府補償*100億から150億ドルは民間保険会社負担,個別保険会社の保有金額は 前年度既経過保険料の7%から15%。
政府負担限度額は1,000億ドルで,1,000億ドルを超過した場合には,
改めて議会において対応協議
②参加企業:企業物件の保険種目を取扱う全保険会社
③対象保険種目:企業物件の保険種目に限定(超過保険,労働災害保険,
保証保険を含む)
④発行条件:1事故あたり500万ドル以上の損害発生時
⑤その他の条件:懲罰的損害賠償責任制限条項を含まず
1事故あたりの損害500万ドル未満のテロリズム損害は 対象外
5.2 英国
英国では,IRAの連続爆破事件を契機として政府所管のテロリズム損害 補償制度(Pool Re)が構築されている。この制度は,1993年再保険(テロ リズム行為)法(Reinsurance(
Acts of Terrorism
)Act
1993)によって 設立されたものであり,企業物件を引受ける財物保険の保険者が会員会社として
Pool Reという再保険組織に再保険料を拠出し,会員会社による保有
金額で,保険種目1種類ごとに適用される10万ポンドを超える火災や爆発な どのテロリズムによる損害を被った場合には,Pool Reからの再保険金で 塡補を受けられる仕組みである。テロリズム損害の総額が,拠出された金額
から成る
Pool Reの資産で処理できないほどの規模になった場合には,超
過額を英国政府が無制限に補償する取決めとなっているが,過去に政府の支 援が発動された事例はない。ただし,Pool Reの資産が,10億ポンドを超 えた場合には,Pool Reが政府に対して予め一定の保険料を支払わなけれ ばならない。
英国の保険市場においては,同制度により,テロリズムリスクは,通常の 財物保険の担保範囲から一旦免責とされ,追加保険料を受領した後に,テロ リズムリスクを改めて復活担保した上で
Pool Reに再保険に出す引受け形
態が一般的となっている。Pool Re制度は,9.11のテロリズム事件を受けて,見直しが 行 わ れ,
2003年1月1日に次のように改訂された。
①担保範囲の拡大
従来の補償範囲はテロリズムによる火災および爆発に限定されていた が,原則として,オールリスクスの引受け条件に拡大された。従来は,
免責されていた原子力リスク(radioactive contamination)が新たに 引受けの対象となる。ただし,コンピューター・ハッキングやコンピュ ーター・ウイルスなどによる損害としてのサイバーリスクは,従来どお り引受け対象とはならない。
②保有金額の変更
会員会社は,引受け割合に応じて1事故あたりの保有金額および年間 あたりの累積保有金額を割当てられる。テロリズムによる損害が割当て られた保有金額を超過した場合にのみ,Pool Reから会員会社への塡 補が行われる。
③再保険料
従来実施されていた成績不良会員会社に対するペナルティおよび成績 優良会員会社に対する再保険料の払戻しの制度が廃止された。この改訂 により,Pool Reに拠出する再保険料は,従来の2倍となるため,テ ロリズムリスクを引受ける元受保険契約の保険料は値上がりしており,
マーケットに引受余剰能力はあるが,保険料は高止まりの状態が続くこ とになると予想されている。
5.3 フランス
同時多発テロ事件以降,再保険マーケットでは各再保険会社がテロリズム リスクを免責とする動きが起こった。フランスでは,保険会社に対してテロ リズムリスクの引受けが義務づけられており,テロリズムリスクを除外した 引受けは不可能であるため,2002年1月の再保険更改以降,再保険を手配で きなくなることに危機感を抱いた元受保険業者が,フランス保険協会を代表 とし,政府に対して国有保険会社を介したテロリズムリスクの引受けを保証 するシステムの導入を要求していた。結果的には2001年12月にテロリズムリ スクプールとして
GAREAT(略称)が創設された。
①対象保険会社:フランス保険協会の会員保険会社および共済保険会社で あり,プールへの出再は強制
② 対 象 リ ス ク:TSI(Total Sum Insuredま た は
Policy Contractual Limited)600万ユーロ(約6.6億円)以上の全ての財物
保険(事業中断保険を含む)。
③年間損害額が,15億ユーロ(約1,650億円)を超える部分については,
国営再保険会社
CCR
の管理運営の下に,発生した損害を無制限に国庫が負担する。
5.4 ドイツ
テロリズムリスクの対策については,政府支援付きのテロリズムリスク専 門の元受保険会社(Extremus AG)が2002年9月3日に設立された。
①運営:GDV(ドイツ保険協会)の会員保険会社が出資し,資本金6,000 万ユーロ(約71億円)。主な株主は
AIG,アリアンツ,ミュンヘ
ン再保険など15社。経営は独自で行い,政府からの関与は受けな い。②参加条件:参加は任意で,年間収入保険料は約5億ユーロ(約600億円)
③補償対象:総額2,500万ユーロ(約30億円)以上の財物保険で,産業用 の建築物,収容物,事業中断の保険(賠償損害保険,航空保 険を除く)
④補償スキーム:100%出再
0から15億ユーロ(約1,800億円)ドイツ国内の再保険 市場で処理
15億から30億ユーロ(約3,600億円)海外の再保険市場 で処理
30億から130億ユーロ(約1兆5,500億円)政府が保障 政府の補償は3年間の限定
5.5 日本における保険業界のテロリズムリスクへの対応
日本では,2001年11月末頃から日本損害保険協会に専門チームを組織し,
テロリズムリスクプールに関する検討を行い,損害額および発生確率から判 断して,保険数理上の制度としては成り立たないテロリズムリスクを民間保 険業界で処理することは不可能であるため,政府支援付きのテロリズムリス クプールが必要であるとの結論に至っている。
政府における同プール設立の検討は進んでおらず,2002年4月の国内損害
保険会社と海外再保険会社との再保険契約の更改では,テロリズムリスクは 免責とされ,現在,各損害保険会社とも概ね10億円を超える大規模企業物件 については,テロリズムリスクを免責として保険契約を更改している。
損害保険業界は,政府支援付きのテロリズムリスクプール制度の必要性を 政府に対して説明していきているが,政府は法改正と予算措置が必要な制度 を創設するためには,テロリズムリスク保険に対する強いニーズが不可欠と の考えを示している。一方,潜在的にテロリズムリスクを保有している産業 界から,保険会社と政府に対し,テロリズムリスクの保険を求める声は多く はない。
先進諸国では,政府支援付きのテロリズム保険制度がそれぞれ創設され,
国家危機管理の観点からも,政府が主導的にテロリズム保険制度を検討する 必要性が高まっている。さらに,テロリストの標的となるような大規模施設 や社会のインフラストラクチャーを維持する産業界としても,テロリズムリ スクを潜在的に保有している現状を認識し,対処すべき状況にある。
6.おわりに
自然災害や技術社会の災害と共に,通常は異常リスクとみなされるテロリ ズムは,一般人,保険者と再保険者によって,最も恐れられている事象と考 えられる。OECDの後援のもとに実施されているさまざまな研究が,警鐘 を鳴らしているが,テロリズムの有害な結果を保険と再保険に転嫁すること は,適切に行われていない。
テロリズムの概念は,現在ほぼ明らかになっていると考えられるが,テロ リズムリスクの付保可能性,テロリズムリスクの転嫁可能性,テロリズム保 険の保険料と保険金額(ディダクティブルおよび塡補限度額),テロリズム 損害の防止および災害の軽減手段,テロリズムに関する情報入手と分析の可 能性については,より一層の検討と研究が求められている。とりわけ,テロ リズムリスクの最終的なリスクマネジャーは,各国の政府であることを認識 し,政府支援のリスク処理システムを構築することが必要とされる。
なお,AIDA World Congress2006の2論題に関する質問内容と取りま とめられた結果は,すべて
AIDA
のWebsite
(http:www.org.uk)より得 られる。(筆者は関西大学政策創造学部教授)
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