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一︑年 番 ビ 生 活  

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(1)

一︑年 番 ビ 生 活  

人間宗潤表芸㌢︑\嘉表芸迫慧美的︒易的荒に嘉貰誓宗得監必然性に立つ克   憬を︑・ここ鱒﹁生酒﹂に封する﹁生存﹂として理解する︒生物としての人間は︑諸他の叫絞生物と同戌に︑個籠  

の保存と子孫の雑婚畿過と教永由繭首欲求するものであり︑そのために1買われの﹁切ゐ欲望単票現われる︒   されば︑﹁生存の原則﹂は︑凡そ生命をもつ蒜の生物監ハ通する本然の支配力であり︑生命力の伸張後展を飽く   患も適求せんとする羞の検向で警︒蒙の原則豊つ隕・り∵人間生活と 

り得ずLて︑等しく平等にその支配をうけねぼなちぬ︒   警に︑生物一般芸然的慧﹁生存め政如﹂に勤して︑特に﹁生活﹂観念む封著しめんとする意園疫何塵  

に存するので・めるか︒それ汰﹁生活﹂を以てーひとり人間の発布にのみ特有なる︑従つて汚他め十般生物他界に d   ぉいては存在し得ない軍資と⊥て理解せんとする要求に基づく︒われわれは︑′時に坐存及び生活なる用語につ   き︑厳格なる漁酌む用いずして︑殆んど同義に使周する場合もある︒そのような場合には︑例えば壷良の生活﹂   生活の現賓態に関する基本的考紗    盤活の現欝愚ぷ銅ずる基本蘭考察  

巨よ慧讐讐時の本像究明への序静Tl  

l■  

大  泉   ︼丁  

一分m﹂  

御言い∴★  

(2)

欝十二各 軍ニ︒三耽  

′  

二  

というが如くに.﹁生活﹂なる富強が人間以外の生物にも璃太しで用いられるであろう︒けれども︑日常用譜の  

ユふアシス紅海いても︑﹁生存﹂ノにぉいては生物としての生命力の維持塗炭が主として比意を持つに封し︑﹁生  

活﹂は人馬的・文化的・理性的孜る契機にぉいて理解せられるのがL般である︒道雄事故に放て紘﹁生存宥﹂と  

して取上げられ︑決して﹁生活者﹂としでほ取上げられぬ消息は︑明らか忙日常の理解・においても両者の明確な  

︵1︶   る慣別が人々\を姜配していることむ寛認する 

人乳蜜清紅為ける生存の側面は︑入園を主として自然の存在とする摘角からの観察であるに封し︑とれを特に  

生活た/らしめる契機は︑根本的には人間把内在する塑性・︑意志に在ると曹謬ねぼならぬ︒かかる人間の内在的能  

力は︑.一面自然の尾野的支配に☆つべき人間の生存をして・︑他面かかる絶対性からの解放をすら意図せしめる︒  

ここに人間生活における昌由の他界があり︑慣値判断の領域があり︑従って行劫における選掩の課題が形成せら  

れる各遥︒宛は生物二服掟みつて必然的なる自然の支配で雷.人間を慧た孟宗カの褐劉性から兎れ得  

ぎる側面において︑その旨賂的生存関係が親られ為のであるが︑同時に人は︑.死自身を反省し省察し︑時には自  

ら之む選揺する自由をすら秘する所忙︑この褐封性のもつ二瑚的支配力からの解放があり/﹁偲存﹂から・﹁生活﹂  

への饅展が形成せられる︒   

生存から生活を今つぺき契機が︑人間の理性及び意志に在かとすれば︑これは人間が白由の世界計もつこ・とり  

根基む成すものであり︑ここにおいて必然の支配から秒解放が成就せられ︑人間の碗自なる判断︒志向′●欲求等   ヽヽ   ヽヽ   が行劫の基調となるのである︒人の生存をして生活たらしめるものは︑賓忙このような行動の基調が︑・日英本能  

の帯封支配から晩卸せしめられ︑理性による思惟の作用として表現せられを鮎に存する︒換言す/れば︑生活にお   

いては︑生存に加えるに璽心的なるもの︑ぉち債備の重責の存許することを特質とするαである︒諾し︑人が自   

(3)

戯本髄から解放せられ︑理性的判断によつて意志的行動む葦嘩せんとすれば︑かくの如を判断の基準たるべきも  

ぁ︑議は雲仙の志向すべき規範たるペきものが先づ想定せられねぼならぬ℃盛らざ▲る限り︑行動計選繹し︑判断  

を決定すべき塊賛の拭件は︑仝ぐ不可能だからである︒かく是清挽人の慣億庶現の過程で膚㌔このことほ空  

た︑人間がその生存において︑右こに生存の窓昧k塗鬼Lてゆく過程であるとも旨い得るのであるつ   

かくの如くに考琴すれば︑芸はひとり人間急いてのみ認められ壷警めり︑而七この鮎にこそ人の生  

存を路地示切め生物的生存・か︑ら離別すべ・を基準が存す碧落われぬぼならぬ︒人は虚言とつ由擬制に基づと﹂  

動物の催界に人細の璧心的判断や感坪数移入し︑号Lに史塑杓或は繭埋的なる北原の描叫む意圏する︒蟻は常々  

として猛威に劫螢して厳冬の日のために食物を服適する主扇い︑炊の虫は端々として哀切なる晋を奏すると富う  

\ も︑■これ教勤螢と槻︑哀切と感ずるは人の生活に如いてであつて︑決して蜂や秋の虫にぉいてではな㌢彼等に  

おいて1功労や貯絨や璧Hな&の意志と訃音があるのではなく︑ただ生物本能としての︑従って確韓の飴地ない  

必然り衣硯なのである︒をれは言わば∵植物が豪打運行隼ト∴三保ほ五時賞するのと本館において選ぶところ  

がない喜われぬ酢彗ぬ︒庵生活賢哲如くー︑浪費芸讐華ルで劫勉蒜約があ・て明朗や撞倣宗麟  

と共に哀愁賽蓼あ感揃が率り︑それ等の閲に嘉づて朝排し淡揺⊥洪整昌軋下すが如き紺係に在るものではない   ︵2  からである︒わで二β尊徳の天撃と人造の差別は︑この期で極めて蕊昧ふかき省察をわれわ蹄に輿える︒   

かくて﹁生活﹂のうちには︑必然に自然的側面としての1ル諒hが存在するものであ・りご克なくしては人間  

生活と雉も春立一を許されぬ︒そうLてかかる敦在が︑先様匠ねいて根佃追求のための健件を形成してゆくところ  

に︑生活の意味は存するのである︒﹁人生は認棒針もづh∵その忍城む見倒すことが︑わが食事でありわが酒で一あ  

る︒﹂とのブラウニノダの富美は︑このよう故意蛛で︑極めて舎蓄の盟かなることを覚えしめる︒    生活の現質感に即する′基本的考容  ノぎ   /革  

(4)

・第二十二怨 解ニ・三野  

′  

野   

蛮らば.人間の﹁生存﹂′をして﹁生活﹂食らし臥る意味藍たは債佑は︑如何にして典えられるか︒人間行動の       〆 

J 規範たる倣値につ仏ての基本的考察は︑後段の課題としてい藍ここに暫く措くが︑聾するに︑かかる意味的なる   

ものの究極者は︑人が人間の存在葱日発する所より︑これ咋封してその存在理由が激発せられ串ば一ならぬとの要  

請に基くものであ川︑かかる要請への信念において成立ずるものなのである︒従って︑これを論理的に追求する  

般りh迭砿は叫偶の形式的規範へと立ち到らざるを得ないこと虹文化債倍の曹革卦により∵その論翠玉義の鐘紡  

としそ示されたるが如くである℃現資生活においてほ︑との意味乃至憧借が︑歴兜的荊勤性を以て具現するので  

ある0   

さて生活が現俸的には歴史的相封性を以て具現せられるというときトこのことは如何に分析検討せられるか︒  

ととに︑生活を生活として表現せしむペを規定者︑機首すれぼ︑生活を存立せしむべ普基本的條件監貰先ず考  

療を加えねばならぬ︒   

生活紘必解約に﹁生空の側面む具有することの塩湖は︑われわれにおい\て塗活と言われるものが︑その基調   と言透る肉餞喜牒行動として︑姦癒せLめられるものであること嘉する︒即ちここ転封  

清とは︑地上の肉髄的生存者の行動たる表現を基底とする︒行動と按更佐正確望百えば︑具鱒的なる態度の保持   /   せあり︑.ヤ定の位筐を持繚し叉捻推進してゆくための精神的・肉鰭的努力む言うのである︒故にこのような意暁  

やの生活は︑必ずや何筆=山奥紛的・な態度の表現でなけれぼ乳㌻ぬ︒著し純潜に観念が翠に観念としてのみどど  

女カ︑′その人の具駿貯鍵爵の決定に何等の作用をも輿えぬ場合には︑をれ抹彼の生活にぉいて何等の意味をも有  

しない庵のである︒精紺色活︒道徳生清或は宗教生活等が︑質に鐘満として存立するとすれば︑そこには彼の精  

細力・道徳心或昧信仰等が︑彼.の具鰭的な態度表現の上に積極的作用を有する場合む指すのである︒然らざる限   

(5)

/   

りは︑そこにはかかる意味の生活は︑現貨には偏在しない′と言わねぼならぬであろう︒夢麻の間鱒︑如何なる想  

念の従来があるとしても︑彼の生活は何等それによつて影響せられぬのと同税である︒けれども迷信深き人が︑ ︵  3︶   夢卜いにかつて︑眉己の態度忍決定するときは︑それは生活め内容を形成することになる′であろぅ︒   

生活の基調たるものが内閣的な1.単なる観念でなく一存社に私るとすれぼ︑このような生活は先天的に時  

間と基準換言すれぼ歴史と暖房とに規定されるこ 

が警んられねばならぬのである︒肉醍むもつ現穿の生活者は︑︑時間と寡聞とによつてその飴遣が規定せられ具象  

化される︒生活は必ず血定の暗礁おいて︑︑且つ仙寛の折に︑その具鴎的な位皆を見出さねぼならぬのである︒鈷  

/活はかくて︑兜ず時所的二璽規定による生存が成立するむとむ第二嘩件として︑そこに醸成せちるべき人間の筒  

底に外ならぬ︒如何なか時︑如何なる夙にも限定せられなで現欝の人間生活なるものは存在し得ないのであ  

る︒従つて︑生活あかくの如せ規質的理解に於ては︑肉髄をもつ地上の生きた行名著にぉいてのみ︑之が認められ  

ると言われねばならぬ︒偉大一なる人格者が︑時基数超越して生きるといi衣現・の如誌も︑ひとつの此喩としでほ  

意味をもつげれ£も︑如上の生活の意義に対照するときは︑罵に生きているものは肉鰻むもつ遡上の人間自性で  

あり︑所謂偉人■の人格だけが雀きていると望百われないのである︒厳正匿普芝ば︑倍大なる人格者の思想正共感  

し之む理解L︑これと波長を同じぐする現貨の生活挙が銀督ているのに外ならぬのである︒叫隆正確に言えば︑  

偉大なる人格者の思想が︑現賓の坐活着によつてその生活の中に生かされていると言わねばならぬのである︒   

人間生活の基本的規定宥が時間と茎問︑由ち時と所で取るということは︑ひとり人間の存在濫限られることで  

はなく︑あらゆるものの存直について共通することであり︑カント佗よる蔽観の形式忙外ならぬものであるが︑  

入間生活が時所的親元恕うけることの尊督は︑贋誓∨天つてその軌静的紺係をも取上げぬ︑ばならぬのである︒  

玉    生清の現琵意に即する基本的考蟹  

(6)

俸こ十巷﹁飾二︒叫二耽   現儀の人間生活は︑先ず叫先の暗闇の上に存■立する︒或は嘲盤の時間の如適の問に鑓減泊長する︒時間はわれ   われ把とつて終始なき連敗ではあるが︑然し現数の集結者にと︑つての時間は限髭せられたもゐである︒われわれ   の埜宿は︑時間の流れの中に︑その二禦型鱒訂裾されることによつて㌻始めて存骨示可鱒と放る︒・時間の成りな   き連披の上で︑個別的・典鴇的なる生帯が這の暗闘の上に駅窟せられるとき︑そてにわれわれは生活における   歴史の両を認め得るのである︒生活の表現は︑時間的限定正よつて有限であり︑綻つて相封的のもゐであるが︑   かくの如き相封削な人間生活が︑妄の北ハ何せられたる綜合として一時間の限玖なき流れの連続の上に整序せしめ  

ちれるとせ︑屯こlに屋兜としての仕i活が表現されるのである︒柴宿敬脛兜の流れにおいて把琴するとき︑そこに  

は内衝的改版絡が見用されるこ㌃誉︒人間の生璧執筆の繚合鷲敷隊を遺賢ぬ蟄展窟て︑即ち粥詮法  

的に理解する立場がここで町侍檻なる川仙つ・の時代の生活表或拭融脅関係は︑その中に来るべき時代を前野せ /  

しめると共にーそのことは又苗き蕉蒲又は敢倉関係−を否定するものである︒このような動向の隕に歴史の蟄鹿が      ︵4︶   認められる︒  

螢清規定着とL七の時間の私ら他の基癖的側面嫁︑姦括賛成の理性的孜出資が時間配分に存する軍賓で優る︒   通常∵深い肢省ぉくして言われる﹁時間の節約﹂ ﹁噂問の奇警の意味を︑蕉潜基底に即して之を掘り下げ︑そ  

こに鉄蹄慧洞の棋基を求め︑これ慧ツセン︵GOSSeロ︶ による経済法別のー叫般生活慧胴への敬展と見あるべ   きことの指摘は︑夙に大熊信行将士による配分原理の堅苦して解明針られた所である︒時閥は絡始なきものと   Lても︑個芸生活に蓋せらるべ叢間遠簑警雪㌫問左の時間二年綜閑︑小にして竺臼の   時間の︑同約への配分に生活の最も基本的な寄驚が横たわる︒  

垂清規定着としての時間のもつ性格の三は︑√その再生産を許さぬ寄驚に係わる︒このことは︑その根礫にお   

(7)

いて︑人間生汚の一回性又は於葛の不可能性に棍接を輿えるものである︒々れ政結局︑人間生潜躍ぉける時間の  

再生産不能なノる鮎に基づくものに外ならぬ︒生活の現琵の螢周は︑ひとたび生活として表現された以よは︑それ  

だげ人間生活の金時問の費拘であ 

この意味にぉいて︑われ転打抜生活¢は肝謂テストや濠習というもの昧あり得ず︑時間?上に表現される生活の  

一切が︑すべて虞皆のもの左考えぬばならぬのである︒その意味は︑仙たび経過した重油現時問は︑永久に乏を  

回敬し得す︑結局それだぼわれわれの生命自照の消炎と放ることを言う▼のである︒これを要するに人間生活は︑ 

限わない時間の申の計る特定の時鮎間に存立せしめられる﹄換写すれぼ歴史の漁れ・竺鮎に︑人間生活は存寛が  

許きれるのである︒  

▲J=∵   

生括の他の﹁つの残党者は︑巷間すなわち場所である︒現貸の生活者が肉他の保持者である限り︑それは地上  

に港げる一定の位軍敬興えられること匿よつてのみ︑始めて存立が許されるのである︒若Lその人の鐸威する敵  

禽が︑両党の餞城巾藍支配する国家を形成するときは︑そこ陀国土が場所与しての典醍賓を形成する︒    \  

︑.  

生活が場所の醜虫をうけて存立するということは︑琴に人の生活が甜上のある位置に孤立していることではな  

い︒ひとつのものが或る桝に鹿て存立すること︑換言すれぼ一定の位橙所占めて表現されることは︑をのしものを  

国縫する環境との関係にあいて︑始めて′可能となることで参る︒ひとつのものは他者との抽聯に溶いて︑始めて  

そゐものの位置が決定せられ冴? 

人間生活匠裁てこの問題を瀬上げるとき︑その環境は︑ひとつは外界即ち自然ごあるが︑同時に彼を囲璃する  

ものほ他の人々の金指これである?かかる生活と生活との交渉と交錯の問に玖軋せじめられる紺係は即ち祀愈で  

ある︒されば生活が場所的規定をう診るととの意味は︑それは敵愈関係の申に叫籍の位拉を興え射れる寄箕とし  

七    生活の′現賢麓に関する基本的考察  

(8)

て取上げられぬぼならぬ︒   

さて人間の敵骨組係換言すれぼ共同生活の箇資は︑夙に古代の哲塾者によつて箪被せられた如く︑人間生活に  

固有なるものと見られる︒このことは︑かかる共同闘係のうちの︑自然牽集約なるものを瑠察すると告白ら明瞭  

とな篭であろう︒人は個人として︑それぞれ猶立の人格者であり白︑蓋的なる個性の保持者として︑自主的存在で  

ぁるべきではあるが︑然し︑かかる野犬楯者と輝も現に孤立軍こして出塊するものではなく∵先の・m族的︵血  

路的︶鈷谷ぁうちに︑始めて人としての螢を尊けるゐである︒換言すれぼ︑人の出生に先行して強め家族と呼ぼ  

るべ蓋ハ野生活釦ち敢脅が存在し七いること・む知らねぼならぬ︒こぃの意味でー夷同敢脅の汲後の基本的構成牒位  

たるものは︑家の生招で・めると買い得る︒かく鶴れば︑人の鐘渦はその畠磯鮎把恕い雷ハ同相係餌ち敵倉のうち  

に︑その位準急ハえられすことによつて︑金満が許され乱のである︒共同関係は自然牽生的なるものにとど敷ら  

す︑種々なる契厳によつての多祓なる表現敲嘉すであろう︒人間生活は︑その赦昏関係なる交錯網の忘に生活 ︵  6︶   欝践の位置む占 

′   

︵7︶   形成麗られるかによつて︑菟に人間生活Ⅵ恐ける諸側面が形成せられるのである︒   

︵1︶ 大熊信行﹁生活の理論﹂へ﹁政治経済殴の問題﹂五〇四頁︶   

称士においても︑生存と生活が明確に区別せられているひとつの例を月る0即ち個人の生活を罷既約側面において︑換言す   

れば︑理性と悪志とにかかわらしめて理解する折に問題を設定して貯く︑﹁それ姥堂命の嘩論でも一堂碍の埋諭でもなくて︑   ヽ︑  ヽヽ    生絡の理論である︒﹂又日く﹁生存から生活へゐ差置は漸次的なるものであり︑生満における行雷の秩序ほ決して初めから    秩序としてほ臼党されるものではない︒﹂   

丸奄富市﹁控折壁清の本質及現袋形堅︵五菩灯おいてや﹁生存﹂と﹁生野が騒倒せられる︒白く﹁欝するに生存お       ヽ ヽ   欝十±巷 夢二●三睨  

(9)

ヽヽ    よび文化の雨着を含む蕊時に於ての我々人薪の生酒捺其の章殴として外界に於ける箔種の有限物を放除する逐得ないもので   

ある︒︺   

︵2︶ 二宮象夜話︒︵岩波文障股︑二〇−二≡︶   カヮ    フレ    翁田夫人道は人造なり︑︑されば自然に行ほるゝ戯の天理とは格別なり︑天理とほ春は生じ釈ほ枯れ∵火徳性けるに付き︑水   マカ    こグキ      ほ単に流る︑遥夜違勤して革盲易らざる是なわ︑人選ほ日々夜々人力を濁し︑保護Lて成る﹂故に天道の貫然に任すれば︑   

忽に後れて行はれず︒  

イセ︑シ 叉日︑人の賂む虎の畜遺ほ天理騒然の遣なり︑魯む賢人遣は︑天埋に臆ふといへども又作焉の勘ばして自然にあらず︒如   

何となれば︑雨にほぬれ日には照られ夙に揉吹れ︑春ほ腎州を喰ひ秋は永の㌍を喰ひ︑有れば飽くまで喰ひ狸き樽ほ喰ずに   

屠る︑是自然の造化をらずし七何ぞ︑居宅を作りて風雨を凌ぎ︑新を作▼りて米菜む貯へ︑衣服を壊して賓蚕を障へ四時共軋   

米を喰ふが相き︑是作篤の遣に′あらずLて何ぞ︑自然の追妃あらざる明かなり︒   

︵3︶ この瓢については︑   

大熊信行r梓滑脱思梅に先立つもの﹂︵﹁文撃と経済塑j所収︶において︑極めて明晰なる解明が輿えられる︒日ぐ﹁もし一   \    入の男が心の中で鋤かなくてはなちぬと考た︑怠けてほいけないと琴㌔−・−その考になやまされながら︑革質たおいて岩   

床の申で中震を.くゆらしているとすれぼ︑彼は串郡民において働くことよりも怠けることを繹んでいるのであつて︑彼の欲望ほ  

猶この問題についてアダム︒スミスが﹁遺徳情操論﹂︵A・Sm︶押h∵つh牲 丁訂Orや○︷.岩○岩−Sり已im仙nts−p.思e 申に述べ  

た二即は︑極めて含蓄に昌むものである︒日く﹁宇宙の大磯構の支配︑あらゆる理性を持てる存在物の叫股的車両に封する  

関心は紳の職分であつて入閣の職分ではない︒人間にほ脚同位級な︑而も力の劣弱さと理解の狭降さとに適㌣せる仕・事︑即   ︑ヽヽヽ1ヽヽヽヽヽ︑  ㌧ヽヽ ち役目身の車蹄︑彼の家族︑・友人︑彼の組闘の寧甫への摘心ということが削充てられている︒高岡な仕串に踊する思壌に晩  

生活町現賢慮に関する基本的琴療  九    噂旭的に馬場所的にも彼の位置を指示し︑彼の生酒内容を決定しているのである︒﹂  

(10)

︵5︶ W登竜ndtもasPr註emderぎーk数詩sc許諾pOgkこ盟試︸ 

︼ ウィルプラントによれば︑最大効果の原則の手近の適用は︑﹁人間経粥﹂︵雰許c訂口許○誓mie︶においてである孟宗れ︑  

﹁これ捺先づ外界財のみ好適用された経臍の原則の︑入射白糖への緒用﹂であると論じ︑即ちわれわれの﹁時間﹂﹁刀﹂ノ﹁催  

猥入間の存衣に囲する基商的規定について︑特た時間との阻聯についてほ︑   堅等について︑吉の許︒n︒乱岩麿を嘗ことに在ると菅︒ここでも﹁時聞﹂が瀬上げられている︒   

天野貞硲.﹁人間の管み﹂︵習評給︑完四八÷︶に於て︑人間の存塞が時間的存在であ云こう警荒ば望の因  

縁と質境との必然的限定孟れざること︑然し真岡時に一人闇雲ほ宋琵契警含むこと︑′イデア︵形︶への言−ス  

︵愛︶の存老すること︑而してぁわわれほ入閣を全警Lて︑必然の面と自由の暫とを共に内行含んだ全輯的具駿的丑鼻にお   

いて考えられねばならぬ>しとが説かれる︒  

︵6︶ノ既存の社食蘭係の申に︑人間生酒の併設が決定せられることの考貫ほ︑例えば︑マルクスの属く知れる表現が之を戻す    所である︒  

欝r鍾芯宍戸昏derp︒寮schen許OnO計こ雷序文︒  第二十二巷 第ニ︒ニ痘   岩   

︑︑︑︑1 1 1 ● 1 1  1 1︑︑J l l l l l l︑1 1︑1 1︐1 1 1 1 ヽ 1 1 ヽ ヽ ヽ  っていたということ捺︑低波な仕箪  を怠つていたことの鮮明に按決してならないのてある﹂と︒︵大河内義﹁スミスとリ   

スト﹂九六巽より援偏︒傍鮎ほ筆者︶  

人間の痕分について・の前申の併託は暫く隙き一級申の高滞な仕醇妃閲す晶系が︑低級な仕事の慨怠へ.の揮偶にほなら警   

は正に我々の言わんと欲する所の疑心に通ずる鴻のk外ならぬのである○  

︵4︶E星sもi¢Eきic粁l羞d竺SO註sm計喜deけ亡首鼠2N彗萄1ss昌SC監−こ∞∞∽・︵大内丘蒜謬﹁藁想より科挙 旭  

へLニニニ貫以下︶ \  

永甲嬰監誓レー■ふソ﹁マルクスとその畢配﹂一七買以下   

(11)

入閣生活従つてまた軌昏関係の総理約分祈において︑歴々都立人の想定が援用せられ︑これが利率約分析に封  

して大いなる買献教典えることについては疑の飴地はない︒敢愈の全般が︑厳密には有轍鰭とLて理解せらるべ   きものではなく︑只敵倉関係のうちに部分的に日野的有機髄と共通する側面む有することが︑時に敢昏有枚既設   を簡甘なる思惟手段とするのである︒敢愈軋衣つてはその仝楔形成の銃にぉいても︑部分照そ 

︵1︶   把没却せられるものでない重賞が︑敢脅と自然的有緻鰹との叔本的差異を成す︒放忙孤立人の生活々動の分析の   ぅちに払︑敢愈にぉける中心的関係を形成すべ奪掠塑とも和すべきものが︑求められると見られねぼならね︒   熱し︑言うまでも頂く硯賢の人間生将は典矧生活として始め与り存威する︒共同の琴驚か︑本邦自然牽生的に  

柴犬的なるものであることは︑桑に之・敬称らかにした朗であつ考︒かかる日英磯巷的なる共同生括の関係が配合 \  

脛臍史的考察において︑大小橿々なる生活協同醍として地政せらる牒こと︑而してその現蜜Q嶺巌段階が主とL   て民族を玉髄とする政治韓割としての観家に︑最も包括的なる結晶を見ることもわれわれの鰹験するととろであ   る︒若し厳に自由なる思惟の懇意壱許すならば︑世界武略人斯というが如き共同関係を認識することも可能で参  

り︑われわれの慧紺のうちに掛︑本発か〜ゐ如きものへの動向の存麗することを︑各党し得べくもない︒ゴツ二卜   ︵71︶ この節において関配せられたる﹁家の垂満﹂の誅勉ほ︑聾者にょり既に岬帯ならず取上げられた所であり︑筆者の思考   

の三の基石を成すものであるが︑最近この誅鎚に同様の硯粘から︑ひとつの大きな照明の輿冬bれた面倒ほ.〟九四入牢  

±月十日のパリにおける鮮≡回観投降合総督で襟搾せられた﹁世界人楼望已︵Cni責邑D鼓a邑iO−:﹃H音aコ知事ts︶   

の第十六條にこれを月る︒甘く﹁家厩ほ敵昏の自然的且つ基本的璧警あわ∵敢督と輯家の保攣盈又ける標利を有する﹂と︒  

二︑鎮活にお汐冴共同︵融合形成︶  

\    生活の現密恕長蝕する基本的考察  

(12)

︵2︶   ルによる生活経済畢の基本的考察がこと碇顧られることは︑極めて至常であろう︒ゴツトルに於ては︑経済は人  

間共同生活の瓢分構成として︑それ自身生活として取上げられる︒而してかかる共同生活は︑入間α這命牡鼎を  

形成するもむであり︑金牌として叫偶の歴史的生起を成し︑そこ忙はそれを貫く秩序が存在する︒慧し生活は   \   ﹁生活ふ′の形成﹂︵GestaltヨgNu訂ben︺として意味■をもつもので︑これは饅験された生起の﹁捧輯と存立への  

統合﹂︵N呂m莞竃d望烏忘d盟Gesc訂訂nsどDau負喜dBe洛a已︶であり︑ここ竺先の秩序が存在し︑この  

構成髄こそ人間共同生活の根源的形態に外ならぬ︒ゴツールほこの構成鰻について︑永濾的なるもの︵家計︒園  

民膳所︶と然らざるもの︵金光の如き自的構成鰻︶とを置別し篭われわれがい蔦コットルの考察に倣って共同  

生括を敬上けるとき︑そこには二偶の慢別が可能とな畠も即ち一つは自然敬重的のも秒であ㌔人間撃汚に内在  

的.本源的なるもので一あつて︑との共同なくしては人間生油自蔑む存立せしめ得ないものである︒衰の鎮痛を基  

調とし︑・その携大せろれたる集園︑厳に.ひとつの民族というが如き協同鰻が之である︒二は特殊なる目的のため  

の協同としてr意志的︒人為的に形成せられるもの▼で︑特足首的の達成に基づきす互こに刷軍規別の秩序が構  

成せられて成立する共同生活である︒この国別は酷食事によるゲマインシャフトとゲゼルシャフトの慣別とLて  

取上げちれる場合とも粕適うもののあるを謎め待よう︒そうしてその何れであれ︑人間生活の共同関係を以て︑  

これを旗く敢骨相係と観↓かくの如き集園的結合む形成す計傾向を人間生活における風食性と貫い得るのであ  

る0   

さて人間生活が先天的にも後天的にも祀倉性によつて秩序づけられ︑共尚生活として形成せられることの凝棍  

には︑そこにかふる秩序を異うペき契機となるものが存在Lなけれぼならぬ︒われわれはそれを︑既に蓮べたる  

意味の顔定に在ると塀るのである︒﹁生存﹂をして﹁発泡﹂たらLめる所の契機の濠発こそ︑欝に人間集荷を全   

&  

第サニ巷 第二・言祝   一二  

(13)

般として秩序つけ︑偵偲を驚現せしめる運行の動因たるものに外ならぬの.である︒悪し共尚の事琵は︑単なる個  

飽の集合又は堆領ではない︒義ハ同のためには個既に共通なるもの︑個憾む流叫Lこれむ同一の地零に立たしめる  

要素が内在しなけれ腰奉らぬ︒勿論︑共向闘略は決して協同又は調和の寄蜜と固叫ひは恋い︒共同生活のうちに  

は︑個鰭問の矛屑︒不調和・統率又は協調等複雑なる態祓が表現せられて︑生括の現茸態む形成するのであるが  

かやの如を祀倉関係の出現を可能苧bLめる椒基は︑個鰹が準め同叫共通の地盤をもち︑そこに叫偶の仝龍とし  

で構成せられていること︑如ち共同関係に凝ることを前提としているのである︒   

人間隼活はこの共同生宿のうちに﹂先の位葺を輿えられることによつ七︑始めて具鰭的忙存・韮を許される︒人  

ニケザ・−ション   が共同関係部ち祀合関係め叫鮎にその地位む興えられ︑そこでの肉酷的並に精神的なるカの作出 −力作− が  

即ち生活の表現である︒そうしてかかる心身¢力作を指導するものは︑究極的意味聴視への指向に外ならぬ︒故  

把︑これを他の解明を以てすれば︑人が共同関係檻おい七の自己の位鑑の持続と擁充のねめの努力にこそ︑人間   生活の具現が認められると富江得るのである︒この解明は︑しかしながら・凝解せられてはならぬ︒﹁共同関係  

把おける位畳ゐ持続と塊充﹂Q意味紘︑通常の意味における保身又は利寄への執着というが如き︑個人の刺青得  

共に基づく解繹とは全く興ることである︒ここでの意味は︑生活存立の棋基の革茸的解明で率り︑人間生活が共  

簡華鱒としてのみ存立を可能ならしめられること︑共同のうち償存立するとは︑瀧愈関係の一難における位遮の  

縫得とLて具現されるものであること︑而して生痛が魂安正螢忽せられることは︑その位置Ⅵ持続と蟻充忙麗る  

という叫般基本軍資む認識せんとするのである︒この根本的事賢の確誰は︑われわれが他の機禽に展開を改定す  

る職髄論的誠に職分論的思索にとつて︑基底む成すべき審資的認粒たるもので執り︑楓慣行動の金牌開聯的忠魂  

を把壕すべき根基を捷供するものに外ならぬ︒   

生括の現題厳に隣する基本的琶察  

\  

ニ   

(14)

共同諾の現慧は︑極めて複雑多端である0をこ些錯放し還する皆の諸紺係が現出する︒この閥係造   還る兢鮎陀よつて把擾見得るこ志︑ゴツト芸構成慣理論に既にそのひとつの場合を観望が如くであ   る︒血縁︒地域・民族・信仰・共晋的品等閲係︒階級等雷多ての契塵が敢倉閲係の構成に作用力むもつ︒  

しかし奈ら︑差等の雷ゆる場合を通じて︑且つ人間生活の歴史的推移.のうちにー不断の形成力富つ根濾  

的誉二つの傾向が慧ノ認められ窪じれぼ慧ぬ︒即ち示ほ﹁差別への票﹂で雷1他誓協同への芸﹂で  

雪︒之等云の動機は︑駄本的には−切の生物的隼存に泰濾的警鐘命カの魔性として認められる盈で管   讐て生物表の本能に羞簡警して蓋カや基調む成す¢人間蓋に放で芝が警自警莞るにとど変   らず︑自覚的︒反省的なる契機とし晶化せられゆく夙に生活の特管構成するのであ怒﹁差別への業﹂は   生活におけ計日出′の蘭であり︑警の雷管︑従つて︑是不芸の雪空︒之に対して﹁協同への貰﹂は   調  用によつて︑人間敢酔の描線係が具視せられてゆくのである︒歴史的推移の過程のうちに︑われゎれはこのこ太  

傾向力が凝互絶交錯Lつつ︑時にはその何れか→宗時代的孟力毘・て進出して砦が後退し︑時鱒はその逆   が茸慧られ衆望蛋琴姦慧ので雪︒人間蓋蒜の蛎向隠︑壷二つの形成カの︑究梗的調和を求め   っっ︑しかも親密に誓の調和が不麟に警れ′っっ︑斬ら窟る調和農学る過管して示されると親られよ   う○  

︵1︶ 上の問題について捺   

l・S・買l−∵ASys肯m︒fL鼠k︶出K.︑5も.∽云ff.   

C∵罫n翼亡n百昌F痘nii訂ワdie畠2t監ニ2㌫愚才issgsc訂ぎ盲dd箪首計訂n象On邑ei邑sO許諾︸    第二†二名 第二・コ盛   ﹁四  

(15)

三︑差別 へ 切翼求   ′    ﹁差別への要求﹂堕その般祇に診いて生物叫般に内在する本能傾向であることは︑既忙これむ指摘し篭こ  

れ彗還ば︑﹁生透るというこ告白偶の魔性であり︑生命は本釆無限伸長の蒐天繭傾向を航興せられ虎るもの  

やあるが級正︑生物それぞれにその輿凍ちれたる生命を︑飽くまでも伸長励んめんとする虜然的傾向は︑必然そ  

こに﹁差別への要求﹂として表現せられるのである︒  

生物界におけりへこの側面む取上げると尊︑われわれは一般生物現象についての競寧と淘汰︑優勝劣敗の専管を  

認め得よう︒ここにある意味にぉいての磯鹿追歩の動因忍者過することが許されぬ︒ ノ   

人間址食生活に関しても亦︑この根本的事欝踪は攣りはない︒われわれ抜生存の出磯鮎において︑児天的に差  

別を輿えられている︒肉嘘的︒精油的な個人の資質から︑′政倉にあける位荘の竣定に率るまで︑一.應はわれ.われ  

の自由なる過捲から超越したる差別の申に寧かれる¢個人的資質匿おける差別を︑岩L旗く個性と呼ぶなちば︑〜  

かかる偶連は本来差別恕こそ己の本質とする馬の主音わなけれぼならぬ︒何となれば︑蓋し個性的差別・が存在せ  

ずとすれぼ︑人間の共同生活は単なる孝群の生存と何等の選ぶところも無いからである︒   

仙五   生鱒の魂頗患に関する基本的考察  

〉〃  

嶺d.﹂ぎS.㌫や苛.  

メソかーは鑓昏形象と軍都的苫麺膿との聞に部分的瞬似を認めるが︑遭大なる相違の存在を指摘する︒▲それは前温が人閲の  

諮努力の結果であるに1射し︑根茎は機械的作用の結果たる所に屈するとなす︒   

伊摺撃↓鐸ミル ﹁徹宵科挙の方放論﹂  

露井や冨田諾メンガー﹁茫弼拳の方法に銅する研究﹂︵岩波文膵︶  

(16)

第十二巷 桑・﹂ニ現  

\   

叫六   

人間赦魯における特質は︑この﹁差別への要求﹂が現に自藤本餞の寧急に廃露せしめられず︑理性的制御を加  

ぇられるところにある︒されば︑人間祀合における﹁差別への要涜﹂は︑魔性的判断に依る﹁力への要求﹂とt  

て具現する︒人がそめ生命の長からんことーそ紗健康の持続されんこと︑その智力・技儲◎情感等の髄紅勝れん  

こと及願う所以は︑要するに︑人のこれ等に対する支配力獲得への欲求であり︑そこに必然差別の出現を見るの  

で・ある︒日常の用語にお小て既にわれわれは﹁櫻カjといい﹁智カ﹂とぃうが如く一機旗・知識に封する撃求も  

その横紙庇おいては﹁力への要求﹂であり︑その﹁力﹂の作用は生活における差別を表現せしめることになる︒  

われわれは人間生活におげる﹁差別へ?要求↑のうちに︑人間生活の意味の基調たる個性虚聞︵E琵琶冒njq de巧 /  

Indi5.告alit警︶ の契械せ認めんとする︒人生に意味む輿えんとする褒術製作の如きは︑汲も端的に個性の展開  

が申梶む成し︑差別への要求を表現する馬のである︒まことに人間生濾における﹁差別への要事﹂の存在するこ  

とによ一って︑人間の絶えざる努力がつづけられ︑彗展と渡歩の動因が典えられる︒発し人間生清のうちに﹁還錮  

への要求﹂が全く存在せずして︑人は只漫然たる無差別の中ね生存するものとすれ柊そこには人間生活が俸史  

的に形成してきた文化の如き掲︑全く有り得なかつた怠学紗弱ばなら隠であろう︒  

人間性・む本殊利己的なものと親たエビクーロス ︵E笠c官長︑或は降つて功利主義思想忙構拳紆る牽絹逼求︑  

更に.恵庭アダム・オミスに翠ける自利心︵S舞int窯St︶の認識等には︑幾多批判の飴地はあるべしとするも︑  

そこには生活に怠ける﹁差別への要求﹂の寄質を捉えた明偏なる眞恕ゐ一語の存在を︑虚心に認め庖ぼならぬの  

ヽI である︒ 

生活匿おける﹁差別への要求﹂が︑個性の旗開に根基をもつとすれぼ︑われわれは管にこの鮎にこそ祀合壁清  

に潜ける人間自由の汲も基本的なる要求の存在む誰め得るであろう︒自由の理念は︑思うに人間存在の究梗的怠  

(17)

暁へとつながやゆくべきものであろうが︑それは硯資の生活銅係においてJへ粒々なる兵牒的義弘堅牢す︒かかる  

兵磯的隼清閑係にお搾る自由を贋く斬静的自由と栴するとき︑個性が祀愈生活の申に具醍的に展開せられゆく要  

求は︑貸に敢禽的自由の基調を成すと貰わねぼなら斡︒従って ﹁差別への要求﹂は︑これ盈﹂般正 ﹁屈曲の要  

求﹂へと還元し得るもゐ.であり︑ょこに恵存個性尊登を意味する個人主義への連繋が認められる︒即ち人間生活 J−  

艦忠伊る本涼的要求たる計由は︑蜜に﹁差別への要求﹂と長の琵践の過程に︒そ︑その現質的表現が唄えられ  

ると思われる︒  

﹁差別への安東﹂は︑すなわち人間自由の要望であり︑そこに偶性の展開が具現せられるものとすれぼ︑その社食  

金将にお抄る関係は︑これ里般監鯛寧の現象として理解し徹るであちぅ︒節季昧必ずや優勝劣敗の結果を庵た  

一  

ハセ.⁚   らし︐膠着と匪者︑支配 

れども︑褒栄を得る着の︑ただ叫人なる整知らねぼならぬ︒︵コリント常吉︑九ノミ哲︒かくして︑支配せら  

れ征服せられる者にとつては︑個性臥展開も紅く礎つて自由なき不平等の状態とノなるであろう︒自由はその本乗  

の展性あうちに︑それ 

感度が時代思想として支配して徳漉ことを数える︒近くは十八性紀における自然法乃至自然的秩序の形而上革的  

思想は︑自然的調和への信仰として︑有力なる支配性を有したので雪たひ然乍七問題を信仰の粧臥ご飛躍 

せしめることなく︒現皆の政倉関係のうちに坂上げるときは︑人為的なる馴鹿︒政策の改攣の中鱒その英機的な  

る整調を求めなければならなくなる︒ベンクムに放る法律制度切改革や︑祀昏改良として︑の敢魯政策の施策の如  

きは之陀外な逐ぬであろう9厳に深く適求すれぼ︑既存の敢密約・経済的櫻勧そのものの根橡に批判の日が注が 

れ1莞自由競壷ふ∵二鱒む率として静珂に推準強しめんとする敵愈の機構に封して 

野路の現腎琴に閲する基本勘考察   ︼七 一   

♂  

(18)

る鰐別の樹立を企固せんとするものである︒組合革命の思想は︑かぐの如き態度に基礎むおく・と親られる︒   

自由競争の矛盾︑その赦昏的不平等と非自ぬの醸成に封Lて︑之を祀骨髄別の根祇において批判し︑これと撃  

瞭的なる思想に宜つて忘正常なるバ㌢赦愈秩序を招歩せしめん左する要求は㌧平等と協同む横基とするもの′で  

ぁ莞そうしてかかる平等と協同の思想が想定される所以のものは︑驚に入間の典同塵活そのものの中に永楽内  

療的なる傾向とし︑て﹁協同への要求﹂の存在を思わしめるのである︒  

壷︶ ﹁差別への穿求﹂ の問題についてほ︑高田保馬博士の多年に亘る勢力軍祝の提唱が︑十分の敬意を以て厩ちれねばなら   ぬと信ずる︒  

ワルター︒オイケンにおいても亦﹁経済的勢力﹂︵一計訂c訂買c訂謬c言が将に盈嬰なる訣題として反省せられる︒ 

国uckeコ示b軒G言nd︸州軒n der宅a叶岩na−¢kOnO邑e.S.NN∽ff.  

﹁薫別への嬰求﹂はマーシアル妃依つても︑その欲望分析に磨て田られる︒了シァルはシー言アの阻めて興味ふかい毒   

素を賛膏を見て引用首︒日く﹁多様防塵︵Desi已︒r邑ety︶は強いには諷いが︑由越豊︵昔i胃叫︒芸snnc冨︶に   

比すれぼなお弱い.︒やの普遍性と永田性とを考ぇ−叉それが義人︒叫′切噂に働くこと︑描産の申から吾々に付き絶つて︑︑   

豪の申に︑入るまで決して離れぬことを考えれば︑との感情は正に人間欲情申の放強力者と断じていい﹂と︒マーシアルほこ   

の串感願置即ち凄別への嬰求を衣服◎住居その他の文化的語願望について酪明する︒猶叉′それ臼陥の一ための優秀願望︵De▲   

≠  

卦り雪e誓券nee︶も同時に椒上げられる︒  

Ma宣−盲in阜sやぎn︒mics毒筆牒︵大坂謬︑警分扮−→七六ユ八〇賞︶   

憮  ﹁差別への要求﹂を政治思想の上より捉えて一人闇敢昏の目顔状敬が聞いk在ることを別決し︑そこから圃凝の存在埋由五   

導くホップス︵苧罫2S手首a−F且 の場合ほ︑箆多の批判を被りつつも眞賢なるものの高にふれていることは動かし得  

ない0    雪盲二熱帯ニ●≡取   一八  

(19)

鱒二鱒由︑へ の蓼 

﹁差別へゐ凄求﹂がその根拭に放い七︑生物一枝に内蔵サる捧能的傾向の.一面であると同じく∵﹁協同への箪  

求﹂′も亦それの他の/州南であることは︑桑に閥詭Lたところである︒自然界に見られる相互扶助の洛同現象は︑  

官うまでもなく先天的白鴎性の傾向むその恩恵竺試すものである遍︑之が人間生活としての祀愈紺係に在って  

は︑自覚せられ意識せられ︑醇化せしめられてゆくことになる︒   q 祀愈の畢蒜構成歯位たる簸の生活を攻上げるとミ㌢に結ぼれち血縁閥償は︑忘で慧瘍本能的に︑他  

面では理性による反省的に︑家族成員ゐ協同を要求する︒そこには︑決してひとり﹁差別への要求﹂としての現  

代 

叫暦撰大せられたる遥命協同髄についても等しく認めちれることであり︑或はまた特定目的のために形成せられ .●′ 

る諸国嘩にぉいても見出される︒日常生活のうち止︑療少なる制度及び粗絨を通じて具餞化せられる諸関係︑.例  

えぼ各種の組合∴示団・敦食倒虚・史化的磯閥︑そうして大きく見れば︑際界的成野においての諸機関および壊t 

構の如きは︑みなこの﹁協同への要求﹂を基調とするものと言われ得る︒現麗には闘争の専管む絶えず反覆しっ  

つもーしかも恒に永久平和べの厨監の路頭することは︑人間生活臼駿に内慮する︷協同への要域﹂の謹左に外な  

らぬとも親られよう用  

卜かくの如く論究するときー﹁協同への要求﹂は︑共同生活を構成する成員のうちに語調記求め︑協力を出現せ  

しめ︑平等を樹立せしめんとの要求とも奮われるα ﹁差別への夢求﹂が必然ぬ自由と結び︑旗竿と不平等を結果  

す\る偶のょすれぼ︑・﹁協臥への嬰求﹂披かかる自然的傾向に謝す牒制御的作用としての︑他面の自然的傾向を滅†  

句  一九  生活の親密感這癒する基本的考狂  

(20)

鱒二十二巷 第ニ・ニ盛  

〝    β  

ヽ 

「  

二〇  

藤樹 すものである︒かかる要求が人問性のうちに如何に拓く根ざしているかの寄賛成︑人顆のもつ倍大なる宗教思想  

に労いて︑常に平等親が基調とせられていることむ想起せしめるのである︒且つ藍たかかる宗教思想に登っく政  

合思想としての′キリスト教祀愈主義を思うとき︑一隊その消息を明瞭にする︒更に藍允経済踊係に立つ祀寧ギ義  

思想山般においても︑そのまアイオ甲ギーは常等を以て指導班念とすることが静められねばならぬ︒眈倉主義と  

いう紙栴概念のうちには幾多の様式が包括せられるのであり︑それ等の†切が競争要式を常に否定するものとは  

固よ旦宇田れない︒汐れども︑をの場合の兢寧の認容は︑一骨高い・琴先において慧守へと止揚せられる漁産にお  

いての競争であり︑境軍自憾が最終日的とせられるものではないのである︒   

論じ℃てこに垂れぼ︑競争と協同或は自由と平等との関係は︑厳に﹁擾内面的なる交錯へと襲腱する︒硯管の  

赦愈閥係匿芝て平等わ賓賂の麿めに︑鍬えば組合蹄俄による協同生活鰭の統言出沸せしめたとすノる聖㌧かか   

る紐職櫻は︑窄等の資質的完成  /   の理想的状態を構想すれぽ︑かかる兢昏躍よつてその雨着を包括したる十暦合理的なる琴二のものへと止揚せら  

れねぼならぬ︒そうしてここで始めて︑求められたる唱嶺及び平等軋︑ひとつの高められたる次元において︑そ   

の新らしい意味を撞得すると言われぬぼならぬ︒すなわち生活に本漁的なる自由と平等の二傾向按︑共にその計  

理的なる形態にぉいて︑自由にして平等なる状態︑︶成徳平等たることが郎ち自由たり得る状態へと志向すること  

忙なるのである︒その極限において︑始めて人々は↓自由苧等﹂が恰も同上窃賓の表其の如くに間際為替状態む  

想定し得るのであ少︑﹁己の欲する所匿従つ︑て建を越えザ﹂との境地をも窺知し得るであろう︒   

されぼ︑生活の究極理念を想定せんとすると針︑人々路をの主義︒世界鶴・イデイオロギ一等の著しい相造に  

も・かかわらず︑扁れも自由と平等の調和せられたる状態を描かんせする態度には共通なるものが認められる︒生   

Q  

(21)

′  めることができる︒   計とき︐われわれは︑これ等二つの自然轍向が相互に飽を制御しっつ人間生活畝推進してきた史的頚巌の跡を認    自由と平等が祀禽生清の規定の裡貯具現せられても別学組絨︒慣習の形態と←て推移しゆく交互の状態を観      伍      ∨↓・   せらるるものと観なげればならぬ心 ㌧  に詭げるが如く︑これ等生活に本塩的なる二つの傾向は︑︑おいの潜秒安富なる位置において語調すべ壷こ上が改定    理念が主事怪訝把り︑時.に平等の理念が主導性を経る︒げれども︑祀倉の共同生活に恕ける想定において兼﹂既    るので一ある︒同時にま允屋敷的螢活の段階が︑特殊なる具慣的閉域′の解決を迫る︒それに封臆して︑時に自由の    滞鷺餞豊国つては†か︑掛る調和の世界が如何なる具鰻的過程によづて招致せられるかに︑程々主張の差別を生ず   

封建政愈に恕 

隷従の事諾に由発するものであり︑かかを松楷からの解放を求遡る近僚自中三義思想が身分的や亀の勢求によつ  

セ封鱒瓜合の制度を崩磯せしめながら︑回路にまた︑その個性展開の要求が斬らたなる不平等︵所有の木琴讐   

へと牽麗してWつたことは極めて興味ふかき事賢である︒そうしてこの新らたなる不平等に封する敢璧義思想   

の批判が︑畢等麺念に立脚することを斬るとき︑︑硯蜜生活にお首るこれ等二︑つ.の自然的僚向の交互作用を如蟹に   

認め得るであろう︒㈹   

人は人生町お吼か極限規範として︑或は生活の・究藤根髄と.して何等かの理念を想定することは自由であだ   

個性の無蓮際なる展開に椙封的横倍を要求せんとするときは︑例えばマ∵サクス︒︑ステイ︑ルナ∴岩a劇Stぎ且   

にお汐る唯一者︵dasEinNigヱ の如きが描出され竃であろう︒或はまた︑人揉拾物蓋の和簑に患いて↓その節  

にぉける万人の照封的平等の理念を設簸することも可能であろう︒  

○  

′  

}   

\  

螢層β現儲恕に関する基本的考察   二叫   

(22)

われわれ.に在つては︑あかる理念的想定或は低値規範の世界から今しぼ.らく離れ︑現笠の垂活着たる人間自髄   帝二十巻 第二ユニ批  

¢   

ニ  

のうちに︑発天的傾向としての﹁差別への薯凍﹂忘ハに﹁協商への蟄求﹂が共に興えられているものであるて  

と︑そうしててれ等 

あぁことを︑正に把捉せんと欲するのである︒   

︵託︶ニジ亘ン︒ロックの政治給︵L︒Cke小甘一計づreat許s︒n′㌘邑GO毒⊇men曾︶ ほその第二諭において囁猷裡匡ホップス   

を批判するものぎ忘れ︑人蘭の本然的なる自然欺態は︑理性の受配する場合であり︑この日怨就使の碓促せられるときに   

人間の猫来托して詐琴なる生清が欝現し︑百に他を俊辞すること偲あり得ずとなす︒ロックにおける盈瓢は︑人間性を以て   

平和蘭︒協調的なるものと見るところに︑われわれに依る﹁協同への野望の緑摘として悪妹深く考察せられる︒  

五∵竺鱒魂鹿の隠題 

入問の生活従つてまたその綜合とLての敢魯闘係が︑意味の想定匿よ′?て打み存立すべ望ものであること絃∵  

褒にこれを開明したところである︒垂汚が生存から博別せられる契麟が人間の理性的︒意志的行動に在りとすれ  

ぼ︑かかる憩志の蟹動のためには︑血定の基準どなるものが存在Lなけれぽならぬ︒或喀意志釣行動に先登っ  

て︑かかる行動を指導すべき視野が発す設定せられねぼならぬ︒黙らざる限サわれわれは︑如何なる行動を鷺践  

すべ早かの掠り研が得られない.からである︒臍く慣億判断︵尋e旨旨i−︶の︑課題として取上掛られる陶磁領域が  

てこに置開せられねばな・らぬので奉る︒ 

剛般に低値判断の課題は所謂慣隠判断論寧︵萄星ur邑裟邑t︶・の形に患いて︑主として政繁の料革性の問題  

として取上げられ畿展せしめられてき寵のであるが︑然し筍くも政策が十般正政琴重恩の賢慮行動である限旬︑  

(23)

むこには政策賓裁としての行動む︑究極咋指導すべき規範の碩社せしめられぬばならぬこと望写までもない︒/  

すなわち低値判断の格率が存放せぬばならぬ︒かくの如く諭すれぼ政策論の本質が↓結毎におい花山般生活の鱒  

警空陸を有すべき︒とほ必戯慧抗警料㌢︑われわれ監くの如姦策の燦枯に閑サる本質的把挺む井藤      ︵ 

1し 年瀬博士或は大熊信行楓士におい︑て夙に轡芥せられている.のむ知ハる︒   

いまここに生活小股打ついて︑術勤や指﹂導者となるべき親範︵低値︒敏感︶を取上げるとき︑布くも生活が意  

味の表観である限り紘︑・かかる意味む蘭すべ普基準たるものが兜ず認められていなけれぼ怒ら聖霊心的・反省  

的行動︵すなわち生活︶のたや控絃︑かかる行動の方向を規定すべ凄規範が存立していなければならぬ︒・然らざ  

渇傲・ク︑人間わ動の叫切は︑革に生物本儲的なるものたる以列には有蓋飴地霊叫いか尋で遜る︒釦ち重荷の講  

評にぉい・て絃︑発す何よりも先にその方牒が輿えられねば放らぬのである用曾○︑邑is〜の教組の解決である︒   

さて生蒲の賛成ぬおいて︑そめ方向を規嘉すげ奮規範を杷鱒せんとすると漕︑先ず達者すべき因錐なる問題傭  

憤催王根性の理給であり︑科革に謝する債低目由乃華汲憤倍性︵尋各f邑heit︶︑の主張之である︒マックス・ウ  

︵2︶   ㌣バーハ罫封書廿erし の名と共に知られる低値判断論争軋ここにその松永課題を旦︒科螢的認恥に佗値判  

断或は政治的翠素ゐ介入を許さざる感度抜︑必ずしもウエーバーむ保たす古典派轄臍単著と買われる人々にも七  

れが詰めら斬る︒︵山粗壁二詩∵︑︑テルダ﹁ル﹁曜臍啓詭と政掩的要素﹂を見られよ︶︒然しながらウニLバー或  

転ソムバルト∴S邑a丘増野品低利断竃題軋訃芸亨浮び上晶以は︑それ等の志がド・イツ敢禽政  

驚畢愈む態度すなわちシ芸ラ・﹂︵哲訂︒−訂エや求−レち阜¢︶やフィリツボウイツチ︵芦茸℃首cF︶等の  

政範凱と鋭く封立すると軒ろに在る︒傭船判断の科蓼性を否定す為紛擾は︑慣倍の主観性掟基づくものであり︑  

人間石亀或は咄般1陀政策琴厳における戯範の設定妹︑紆昂個人的なる倣界親乃至信仰へと拓昇せすんぼ止み無くユ  

ニニ⁝    生章の現賓懲に阻する基本的考拡  

.−℃  

(24)

第二十二督 第二\︒ニ盛   二四   かくてぼ﹁偶の形拍上螢の申に吸収せられて︑料畢の特質たるべき普遍性は認め得す虻凡そ他界観に基づく佃別  

的′遡想は有に封宜し闘争するものであり︑従つてまた相射的たるを見れす︒かくの知音は控除科挙の目的とする  

囁驚︵S軋工認識の課題とは成軒得ないことを好らねぼならぬというに在る︒   

これに封して債倍判断の﹁般怯む主癒せんとする態度は︑政令政策の安常任牢革張せんとするシ云壱ラ一等にJ  

せって支持せられるもむで準針︑その論抜は個別的・主観的なる慣値鞘断と並んで︑山恩威い客観的憤佑判断の   領域霊冨︑これあることによつて︑規静に個人並に鹿骨がその存宜を可能ならしめられる戊のであると説く︒  

㌢ことに硯葦には種芸時代的・人種的・泡状的・階故的義旗段階的等の制約によつて︑輿る慣低利断が行わ  

れる抄れぜも︑然し究極打おいてそれ等は一般的撃帽の達成という晋遍附なるものへ執宗ナぺきものであり︑そ  

の究極に立つべ′きもの竺股的愉鎚低値とも見 

.ルー  

叫︑偶の猫断に過ぎす︑愉琴は人間赦密生治め進歩と共に漸次脛瞼科革と放りゆくものである︒このことは︑われ  

われが隆史を顧み濯頗払徴するとき十分に認められる所であつて︑硯驚の祀愈撃落にぉい.てをれが拭大せられ鞍  

︵3︶ く領域を見るときに︑適格︒・法的規範二絞的評慣等の撃原理が形成せられつつあることむ見るのであるC  

他方忙おいてまた生宿料革の立場から債慣判断の科欒性香屈に封して︑存在論的判断盲s邑○−Ogisch命戸 ︑  ぬ  蚤・das亡邑−詳er das索計ricぎg旦を主張する態度瞥コット 

藍還的︑目的論的︑夜会的並に布衣論的の各種に分ち︑轡衰は客観性む有す鳶墨壷怯むもたす︑信念的判  

賢︑曇規約望もの.露㌢エーバlの 

′ 

意味す軋もので.あり︑厳に′追求すれ・ぼ︑生活鰻を構成する灯常っての内部的並に外部的諸関係の正しさむ意味す   

(25)

さて生酒薯踵担おいては︑必ずや行動を指導すべき規範の定まがなけれぼならぬのであるが︑か↑の如き人間  

生活の鱒憩は本元主観的なるものでや宗ら︑普遍的鯉想なるものは設革せられずどすれぼ﹂生活規範の蒜的  

基準は磯毒し得ずと言わねば誉晶︒若しま兜かかる批判を許しっつ︑衛そ壱何等かの規範を求めんと企てる   1   とき掠︸相封的態度に卦いて為されねぼならなくなる︒   

その・劃は︑技術的関係貯ぬいての評慣関係の成立である︒即ち問題む目的と手段との範囁に限定し︑仮定的命令  

の形式において理想を私党する・むとによつて自足完了的に許慣の鰹系訂形成せんとするものである︒かかる亀時  

の慣低利鹸が科挙的認故にもたらされ得ることは︑ウエーバーにぉいても謎められるとヱろであり︑或はまたウ  

︵5︶   イルブ.テントの所論にも之を見る︒げれども一定の僻定的満場灯おいて1目的に射する手段の適合性rGeeign串  

訂it︶の考察は︑その限りに卑いて一般的踵踏を求め得るけれども︑目的自醍は攻め設定せられて居り︑従つて  

目的の設定咋は何等の閲聯も持ち得ない︒すなわち生活の規範隠その限牒において把接し得ない︒  

その二は静寂的蔑境藍剛捉とL︑その範囲内において一兵の低値む姦的なるものとして先立する与とであ  

るごの場合忙は∵かかる慣修はJその特定條借覧つ敢全品によつて認容せられること・がな監ばならぬ︒   

これ等いずれの場合においても︑相封的なる限境においてⅥみ成立し得るもので︑あり︑︑従ってわれわれが要求  

せんとする生活の究極的指導規範なるもの峰︑その中より′は把超し得られ私ことは明白である︒しからばわれわ  

ヽ    れは敏活の現賓なる規範は︑騒笹主観的世界観jしてのみ放下し去り得るのセあるか︒   

思うに生活む視覚に推進しゆく規範たるペきものは︑野なる一個の観念としての理想ねり得ざるどと嫁言うま  

でもない︒生活の運行は常に過去と将苑とへ連続音るものであり﹂隼活の進行は硯蜜の研輿の将来的攣化に外な   

二五   生活の現祭儀に関する基本的考賛   ︵4︶   るものである︒  

(26)

第二サニ巷葬・≡艶  

▲叩  

二六  

らぬものである︒然りとすれば︑生括の視線たるペきものは︑現驚から遊離したる観念たること登許されすして ︵  6︶   現貸そのものと  性をもち得ないかむである︒  

さて︑饗厳的性格を有する生括親範が︑かての如く現繁忙如し︑硯賓と必質的藤波性をもたねばならぬ必然性   控在りとすれぼ︑このこと自醍が規範の性格を相野的・特殊的たらしめるものであると言われよう︒何となれば   生雷現憲は警づの民族晶家櫻制・緻密経済の襲霞階︒文化品警の他あら慧相鉄的條件庭彗い  

ヽ て︑︑這の時と桝における特殊性を示す軋ゐであち1とれノを前提とする兵醍的貧農規範は従つて尊た必然に特殊  

相対的たらざるむ得ないからで雪︒かくてわれわれの兜サ換言明確に認識せざるべJからざる基本的革質は︑   生活故範如現茸的︒葦既約雷限れ幣必ずや細勤的晶殊的富ことを免れ得ザ︑又かくあちぎれ買鰭的に   塵油の方向を決定すべき能力を弔し徴ざることこれである︒   

然るに︑痩汚損節が相封的に定立喧しめられることは︑それが普渇性と﹂義性とをも.たぎること藍最するこ  

とで・めり︑従つて逐こにぼ唯﹁の規範のみが拒封性を確保し柑ることを保障せす︑之と刻苦統率すべを親節足   立の可能性が預足せられねぼならぬ︒琴七蔓ぢの聖者る兵標的規範の空音見たとき︑これ等を批判また  は統合せんとすれぼ第三の洩離が提出せられぬぼなら風であろう①詳督すれぼ︑具鰻的町壁括方向を規定すべき ︑  

琴数の基準が定立せLめられたるとき︑それ等の樹立を批判Lて硯饗に受賞なる跨践規範を決定せんょすれば︑  

一● かかる批判の基準たるべ賓雷上位のものが・質潰せられねぼならなくなるロこの静態的階暦鱒訳解竺骨上位阻  

ものへと限・差姦求軋らるべき語義挙る︒或は間雷慧如くに提出することもで替るで漂う︒∴妄   具鰭的規範が筑慧られ翠とき︑そこ還その規範・の基調雷ぺき根接が存在しなけれぼならぬ︒若しその基調  

ヽ  

(27)

\   

を更紅具解約たらLめれば一成めて痩たそのものにつ′い︑ての諭接が問われざるを得ぬであろう︒かかる論敵卓轟  

さざる先天的形式娩範へ′と抑サゆくことは論理の必然である︒この究極な呑ものを低値と呼び或紘常鹿と名づけ   轟∵   ′六7︶ に掠る追求臥︑虚位はその究橡たるところに到ら㌻る限り止み難いものと貰われねぽなら沿︒   

かくの如き論撃王義躍掠る限㌔生活の規範はその究睦にぬ炉て具位相内容を有・せざる﹂ノ偶の形式的十梵天的   

規範として要請せられざるべあらざるノことは明首である︒この′=ことは先ず率直に認められねばぼちぬ︒規範の具  

︑   〃   感化は特魔性をもち︑歴兜的制約に立つもゃであり︑賀しこの相封的主観性を脱却せんとすれぼ︑′必琴札内容無   制約なる形式硯馳へと上昇せねばならぬ︒ての論琴烹義に立つ限り︑︑山切の賛成的規範はその普遍性を要求する   ことが許遣れ獲い︒や号トルによる′﹁存在論的判断﹂定鍵うとする  規定せられるとき︑かくの如き︑歪しさトの基準ほ放琴として特殊性と粕謝儀を偏れ得ず†それが論層的適求は ■   痙伺革恕いて形式規範へと到達勉ざるを得ないと息・われる︒これを蟄.す鳥匿︑塵治の革蛛を規定弟べき規範を︑   具標的・特殊的洩るものより︑山厨包括的二般的なるものへと論究してゆくとをは︑究極的には内容鰍約を許  

\   るか・ぼ如何ともあれ十かくの如きものは人間生活に﹁生活﹂姦るの帝妹を竣愛するものであり︑従つて人間蟹澤 

が意味の衣現としてその存立藍円盤せられる限り︑かかる究砂規範は必然の存在と冨われねばをらぬ︒   

然るに︑かくの如き内容別約恵き形式規範は︑罫に論理的要論禿るに外ならす︑従つてその慧まには賛現せ汚  

れ得る戊の℃はない︒既に解明したる如く︑生活の表現株玖資には肉鰹を保持する存雲霞よつてのみー始めて  

行動として可能となる協のセあり︑しかもかくの如蜜生活の存立略時間と笈簡の範噂¢ぬいて麒頭せら弟るもの  

である限甘㌔生活風塵が簸め時朗的制約にせつのせある︒生活たり褐るがため佐は︑ぞの根本匿おいてかくの如  

習制約畝必要上するので恕る︒内容別約なき生活は︑杢外存立し得なぃと冨わ及けれぼならぬ︒然りとすれ庶︑  

生治の現欝態に鍋する基誌的考察   七  

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