特集◎21世紀の中国政治
中 国 政 治 の 行 方 と 日 中 関 係
全面的な市場経済化を推進する中国は︑なぜ﹁社会主義﹂地球一体化が進む21世紀に中国はどこへ向かうのか?日中関係は相互信頼を築きうるか︑を論じる︒ の看板を外さないのか?
白鋼︿中国社会科学院政治学研究所研究員﹀×張琢︿鞘鍛黙財﹀司会加々美光行︿驕弊禦中﹀
文革から改革へ
白私には悪習があります︒ヘビー・ス
モーカーなのです︒ただいつから煙草を
吸い始めたか︑正確に申し上げられるの
です︒一九六六年六月三日午後四時三十
分のことでした(笑)︒その日︑朝目覚
めてみると︑大字報が貼り出されていて︑
その大字報の終わりの方に私の名前があ
り︑大きく﹁?﹂マークがつけられてい
たのです︒さらにもう一枚の大字報では 名指しされていました︒そんなわけでそ
の三日に私は現行反革命であると宣告を
受けたわけです(笑)︒全体集会でしたが︑
﹁引きずり出して隔離する﹂という宣告
でした︒﹁どうにもわけの分からぬ奴は︑
引きずり出せ﹂という文革当時の言い方
がありますが︑加々美先生のお仲間たち
が﹃文化大革命事典﹄を出すとかですが︑
もう出たのですか?
加々美出たばかりです(一九九七年三
月︑福岡︑中国書店刊)︒ 白とにかくその日︑私はお手上げで研
究所のビルの向かいにある胡同(裏小路)
の露店に駆け込んで﹁北海牌﹂の煙草を
買ったのです︒以来煙草を吸い続けて三
十一年になりました︒
加々美当時︑白先生はどの研究機関に
所属していたのですか?
白当時社会科学院の歴史研究所に所属
していました︒張琢先生は哲学研究所で
したね︒
張一九六七年に私たちは隔離を解かれ
中国政治の行方 と 日中関係
..
張 琢[ZhangZhuo]
たのですが︑その年始めの一時期︑私た
ちは一緒に某紅衛兵連隊の大批判組の執
筆・組に入りました︒劉再復(前中国社会
科学院文学研究所所長)も組員の一人で
したね︒文章を書くのですよ︒私や白鋼︑
劉再復といった連中は︑どの派閥に属し
ていようと︑境遇は結局同じでしたか
ら︒
加々美最初に文革の昔話から始まりま
したが︑改革開放以後の現在の皆さんの
状況も︑そうした過去の状況から影響を
被っているわけですね︒その意味では︑ 中国の現在と過去は切り離しがたいと言
えますし︑さらに言えば︑現在を過去と
結び付けて考察することによってこそ︑
未来も見えて来るということだと考えま
す︒
そこで今日の座談会でみなさんにお話
しいただく話題について申し上げます
と︑第一に都小平時代の中国政治につい
てどう評価するかということ︑第二に郡
小平死後の中国の状況について︑とりわ
け今世紀末の現在から二十一世紀にかけ
ての中国のゆくえについてどう見るか︑
第三に同じく現在から二十一世紀にかけ
ての中日米の国際関係のゆくえについ
て︑国際政治の動向をまじえてお話しい
ただく︑ということです︒
最初に都小平の改革開放の時代がどの
ように登場したかについてまずご議論い
ただこうと思います︒
私の考えでは都小平の改革開放政策の
根幹にある考え方は︑かつて毛沢東が一
九四〇年に提起した﹁新民主主義革命論﹂
を出発点とする﹁過渡期論﹂︑さらに人
民共和国成立直前直後に劉少奇が強調し た﹁新民主主義建設﹂の考え方に一定程
度の親近性があると思っています︒
改革開放の時代はみなさんご存知のよ
うに︑中国が大変な災禍を潜り抜けて産
み出したものでした︒郵小平の創見であ
る改革開放の発想はいつの時期に生まれ
たものかといえば︑一般的には大躍進︑
人民公社︑総路線の三面紅旗政策が失敗
したのち︑調整政策が開始した一九六二
年七月に都小平が発表したいわゆる﹁猫
論﹂︑﹁黄色い猫でも黒い猫でも︑鼠を獲
る猫は良い猫だ﹂というやつですが(笑)︑
あの議論こそ七八︑七九年に提起された
改革政策の出発点だったと見てよいと私
は思います︒
ところで︑この﹁猫論﹂は毛沢東が革
命前に提起した﹁新民主主義論﹂への一
定の回帰を意味するものではなかったで
しょうか?一九五三年を境に毛沢東が
推進するようになった﹁社会主義路線﹂
は︑この﹁新民主主義論﹂からの明らか
な逸脱︑乖離だったように思います︒
﹁猫論﹂ひいては改革開放は突き詰めて
見れば︑この毛沢東の逸脱を批判する結 2
果になっていると私は思います︒この点
からまず議論していただきたいと思いま
す︒
新民主主義論と改革政策
白二十世紀の中国史の全過程には時代
を画する歴史的人物が登場しました︒最
初の偉大な歴史人物は孫中山(孫文)に
ほかなりません︒孫文は満清王朝の君主
専制国家体制を終焉させ︑近代国家建設
の発展の方向に向けて新たな道を切り拓
きました︒孫文の提起した三民主義は︑
白 鋼[BaiGang]
さっきお話しのあった新民主主義革命の
時代の開幕のために道を拓いたものと言
えます︒しかし孫文は中国が進む発展の
方向を示すという問題の解決には力が及
ばなかった︒さらにその結果として国共
の新旧二大政治勢力を生み出すことにも
なったのです︒
二人めの時代を画する人物は毛沢東で
した︒毛は新民主主義革命・建設の課題
と社ム李王義革命・建設の課題を提起しま
した︒前者は成功を遂げたのですが︑後
者は﹁左﹂の路線の行き過ぎによって大
きな挫折と失敗を見たわけです︒社会主
義改造の完成後︑一九五八年に人民公社
化がなされて﹁左﹂の行き過ぎが起き︑
大変な災害が起きたわけですが︑一九六
〇年九月に﹁調整︑強化︑充実︑向上﹂
の﹁八字方針﹂が出されて調整政策が開
始されたのでした︒
さらに十一月﹁農村人民公社の当面の
政策問題についての緊急指示﹂︑いわゆ
る﹁十二条﹂ですが︑この指示が公布さ
れ︑それ以来︑農村で疲弊した農業生産
力を回復させるための緊急措置を展開す べきであるという点が強調されるように
なったわけです︒﹁農家生産請負責任制﹂
いわゆる﹁責任田﹂もこの時︑登場する
ようになったのです︒
一方︑これに前後して︑一九五九年鷹
山会議の際︑彰徳懐を始め党内で敢然と
真実を語る指導者たちが﹁右傾﹂として
厳しい批判を受けてからは︑いよいよ
﹁左﹂の路線が強まり︑六〇年に提起さ
れた調整政策や﹁十二条﹂によっても︑
結局︑﹁左﹂の行き過ぎの趨勢は改めら
れなかったのです︒それでまず﹁四清運
動﹂が展開され︑ついで文革が引き起こ
される結果になりました︒
こうして毛沢東が主導した社会主義建
設路線は確かに中国の国民経済を崩壊の
縁まで追いやったと言ってよいものでし
た︒
三人めの歴史人物は郡小平です︒これ
まで述べた﹁左﹂の行き過ぎの過程で︑
その流れに抗して︑一人は郡小平︑もう
一人は郡子恢が︑党内最高指導層の中で
一九六二年に﹁三自一包(自留地︑自由
市場︑企業自主権を多くし︑農家生産請
中国政治の行方 と日中関係
M
負責任制を行なう)﹂政策を提起しまし
た︒この政策こそ︑加々美さんが言われ
たように︑文革終結後に︑都小平が切り
拓いた改革開放路線の出発点となったと
言うべきでしょう︒
鄭小平の改革開放路線は︑十一期三中
全会以来︑今日まで約十八年間の実践に
よって︑正しいものであることが十分証
明されたと言ってよいと思います︒郡小
平の実事求是︑思想の解放の思想路線は︑
中国のこの間のおよそ二十年来の発展の
基礎をなすものと言うべきです︒確かに
郡小平の路線の淵源は︑建国前夜に劉少
奇によって提起された﹁天津講話﹂に代
表される新民主主義経済建設にまでさか
のぼることが出来るかも知れません︒
加々美私が強調したいのは︑毛沢東が
一九四〇年に公表した﹁新民主主義論﹂
の構想と︑新中国成立後五八年から大躍
進︑人民公社︑総路線の三面紅旗政策を
強行する過程で実現しようとした構想と
の間に大きなギャップがあるという点で
す︒ご指摘の四九年の劉少奇の﹁天津講
話﹂にせよ︑あるいは四八年九月の報告
加 々 美 光 行[KagamiMitsuyuki]
﹁新民主主義建設の問題について﹂にせ
よ︑いずれも毛の﹁新民主主義論﹂に依
拠したものでした︒つまり革命達成後た
だちに社会主義の政策を採用することは
できず︑余りに早く資本主義を消滅する
ことは﹁左傾﹂の誤りだとする論点です︒
とくに重要だったのは︑農業の機械化を
可能にする高度な重工業の発展を実現す
るまでは︑富農経済化を継続し︑機械化
達成後に初めて農業集団化が可能になる
とする観点があったことです︒ 機械化なしの農業集団化
毛の主導下に五三年から行われた農業
合作社化は︑劉少奇構想に反して機械化
なしの集団化を性急に推進したもので︑
毛自身の﹁新民主主義論﹂に反したもの
でもありました︒なぜ毛が﹁新民主主義
論﹂の当初の構想を省みなくなったかは
真剣な考察の対象とすべきですが︑ここ
では郡小平︑郡子恢らが提起した﹁三自
一包﹂政策が︑毛の﹁新民主主義論﹂か
らの逸脱を事実上批判するものだったと
いう点から議論してみたいと思います︒
私の考えを先に述べますと︑三面紅旗
政策の悲惨な失敗は︑何より社会主義建
設と共産主義の理想実現を余りに急ぎす
ぎたせいだという認識が︑郡小平︑鄙子
恢︑劉少奇ら党内指導部の中にあり︑調
整政策期に軌道修正がなされたと思いま
す︒本来なら﹁新民主主義論﹂に基づい
て資本主義の擁護を十五年から二十年間
続け︑生産力の高度な発展を達成したの
ち︑資本主義の社会主義改造に着手する
という手順を踏むはずでした︒﹁新民主