第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、
1951年‑1954年
‑チャーチル、イーデン、マクミランと
「大国」イギリスの将来(2)
益 田 実
目 次
序章 3つの予備的質問とそれらへの簡単な答え‑
(1)1950年までの西ヨーロッパの経済復興の中でイギリスが 果たしてきた役割とは何だったのか?
(2)1950年までに西ヨーロッパの経済復興と西ヨーロッパの 統合運動はいかなる関り合いをもつようになっていたのか?
(3)1950年までにイギリスにとって西ヨーロッパ統合運動は どういう意味を持つようになっていたのか?
第1章 フランス製西ヨーロッパ統合プラン2種に対してアトリー政
権はいかにして対応したのか?
(以上、「法経論叢」第12巻第2号、掲載)
第2章 チャーチル政権ほいかにしてECSCと「協力」したのか?
第3章.チャーチル政権はいかにしてEDCと「協力」したのか?
(以上、本号掲載)
第4章 チャーチル政権はいかにしてWEUの誕生に「貢献」したの
か?
結章 チャーチル、イーデソ、マクミランの考えの比較および労働
党政権、保守党政権の対応の比較
第2章 チャーチル政権はいかにしてECSCと「協力」し たのか?
1
これまでに物語って来たように、チャーチル政権が誕生した時にほす でに、イ.ギリス政府としての西ヨーロッパの大陸諸国間での統合・連邦 化にむけての運動に対する公式の政策(依然として大まかな枠組みにす ぎないが)は、すでに労働党政権によって、対外的にも明示されていた わけである。それはすなわちそのような動きとの「協力」(association) の政策であり、もう少し具体的にいうと、イギリス自らほあくまでも西 ヨーロッパの外にその身を置き、そこから統合を目指す大陸諸国へでき るだけの支援をおこなうことによって、それらの国々の統合を通じた完 全なる経済復興への歩みを助けるということである。これだけ聞けば何 とも莫しく聞こえる政策であるが、もちろんそれは、当時のイギリスー 国の利害の計算に基づいた利己的政策であった。この政策を考え出した 人間たちの頭の中でほ、そしておそらくは、その政策を聞いた諸外国の 政策決定に携わる人々にとってもイギリスはなお、米ソとほ格は違うに せよ西ヨーロッパの中小諸国などと十把一からげにされることのあり得
ない、あるいほあってはならない、「大国」であり、「世界帝国」であっ た。イギリスは中東、東南アジアになお多くの軍事的コミットメソトを 持ち、コモンウェルス諸国・スクーリング地域諸国との間の特別の政治・
経済関係も存在していた。そして何より大事なことは、これらが、イギ
リスの政策決定者たちによって、イギリスが世界規模の大国である証し
として受け止められ、「重荷」ではなく「財産」であると見なされていた
ということである。したがって、イギリスはOEECやNATOといった
超国家主権的強制力を持たない政府間協力(intergovernmentalco‑
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
operation)の形での西ヨーロッパでの国家間の交流拡大、政策協調の拡 大には積極的に参加はできても、それ以上は無理であると考えられてい
たのである。
1951年10月、1935年以来、3度目の外相の座についたイーデソに対 して、外務省高官の側が示した、西ヨーロッパ統合問題についてのイギ
リス政府のそれまでの立場を説明した"Brief
for the Secretary ofState;ParisTalks,EuropeanIntegration"と題する10月31日付け
の覚書(これは11月6日からパリで開催されることになっていた第6回 国連総会に先立って11月4日に予定されていたフランス外相シューマ ンおよびアメリカ国務長官アチソソ(DeanAcheson)との会談に備えて 作成されたもの)の中に、このような考え方ほ明確に示されているので、
ここにそれを引用させてもらう(かっこ内ほ私の補足):
1.シューマン氏は政権の交替が、9月のワシントンでの3ケ国声明に 示されたイギリスの政策からの何らかの変化をもたらすのかを尋ねる
ことであろう。
2.我が国の置かれた立場の要約
(a)我々は政府間のものである限りは統合に向けてのすべてのプラン において積極的役割を担う用意がある;
(b)防衛問題、コモンウェルスとの関係そしてスターリング地域(の 存在)のために、我々はいかなる超国家主権的なヨーロッパの機関
に対しても我々自身および我々の政策に対しての支配権を委ねるこ
とはできない;
(c)しかしながら我々はそのような計画(超国家主権的機関による統
合)を推進できると考える国々に対してほ、それを奨励して来たし、
我々の友好的態度と実際の参加に至らない限りにおいてそれらの
国々の作業に対して緊密な関係を持ちたいとの意思を保障して来
た;
(d)我々ほ欧州審議会(theCouncilofEurope)の諮問機関としての 役割を発展させ、それに対して、特に経済・社会問題での意味のあ
る仕事を与えたいと希望している:
(e)我々の目的ほヨーロッパのではなくむしろ大西洋の共同体の育成 にあるが、超国家主権的なヨーロッパでの取極めが、このより大き な存在(大西洋共同体)の中でも存在しかつ機能しうると信じてい
る;(f)我々は我が国とヨーロツ/くの超国家主権的な統合のための機関あ るいは計画との間の「協力」(association:原文イタリック)のため の方法を考慮する用意がある:
3.最近に公式に明らかにされた我が国の立場
(a)我々は1950年11月に、欧州審議会の枠内で、参加諸国政府ほ互 いにより緊密な協力関係(政治的連邦化も含む)に入ることを可能 にするような協定を、もしそう望むなら結ぶことができる、との合 意に達した。これほストラス/ミーグ(欧州審議会の所在地)におい ては「部分的合意」("partialagreement")のシステムと呼ばれて
いる。(b)1951年4月外務担当国務大臣は下院において、シューマン・プラ ン条約の締結を仏独協力のための重要な現実的一歩であるとして歓
迎し、イギリス政府ほ同条約の批准後にイギリスとシューマン.プランのための機関との間で協力のための議論が開始されうるとする
同条約中の条項に満足していると述べた。
(C)1951年8月の欧州審議会閣僚委員会の席で、モリソソ外相はイギ
リス政府のヨーロッパ統合のための計画への好意と、我が国がその
ような計画に参加できないという事実が、それらの計画への反対あ
るいはその成功を歓迎していないという意味ではないことを強調し
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
た。外相は我々は常に、そういった計画から誕生する機関との間に、
できるだけ緊密な協力関係をもち、最も現実的な方法で協力する可 能性を検討するような用意が必要であるとも述べた……(後略)。
(d)1951年ワシソトソとオタワでの会合においてモリソソ外相はイ ギリス政府はヨーロッパ軍創設のための計画に好意的であると述 べ、……(中略)、ワシソトソ会談の結びに、イギリスの態度は1951 年9月14日付けの3ケ国宣言により公式に表明された。
4.将来の政策
我々のヨーロッパ統合に対する態度は基本的には変化していないが、
昨年中を通じて我々のアプローチはよりリベラルなものとなり、我々の 側で(ヨーロッパ統合に対する)興味と好意の増大を示すものとして与
えて釆たサインは、海外では同情と協力の意思を示すものとして受け止 められている。このような事態の展開は(海外では)深い満足をもって 迎えられ、当初の我々のより慎重なアプローチが産み出した(ヨーロッ
パ統合に対する)敵意と妨害をしているという印象をはば消し去った。もし今我々が元に戻るあるいは後退するという印象を与えるならば、間 違いなくかつての疑惑がよみがえりヨーロッパ諸国との関係に打撃を与
えるであろう。他のすべてのことはさておいても、ヨーロッパ統合ほ伝 統的な仏独の対立を解消し、ドイツを共同の防衛(体制の構築)という 我々にとって最重要な目的も含むすべての目的のために、西側民主主義 諸国に結び付ける唯一の方法を提供するようである。
5.政治的連邦
シューマン氏はヨーロッパの超国家主権的政治的機関の構想を取り上
げるかもしれない。彼が最近その問題を提示した文脈、つまり(EDCが
予定している)ヨーロッパ軍の政治的コントロールという文脈では、こ
の構想は北大西洋条約上の義務と抵触するおそれがあり、極めて慎重に
扱われなければならない。我々ほすでにNATOとEDCの関係について
の公式の3ケ国協議が必要であるとの提案をおこなっており、この方面 が検討されるまではヨーロッパの政治的統合機関という構想は宙に浮か せておくのが最良であろう。
6.勧告
(1)外相ほシューマン氏とアチソソ氏に対してイギリス政府はワシソ トソでの3ケ国宣言を順守すると保障すべきである。
(2)ヨーロッパの超国家主権的政治的機関についての考慮は、NATO とEDCの関係の問題が検討されるまでは延期されるべきであ
る(1)。とまあ、またいささか長きにわたりすぎた感のある引用であるが、こ こで長く引用しておくと、後で説明が省けて楽になるのである。楽にな るというのほつまり、この後イーデソは素直にこの覚書とその勧告を受 け入れ、それを彼の率いる外務省の当面の対西ヨーロッパ統合運動政策 とすることをいささかもためらわなかったのであって、したがって、少 なくとも、この1951年11月という時点では、これ以上イーデンが具体 的にどういうことを政策構想として持っていたのかくわしく解説するこ
とは不要になる。簡単にいって、イーデソの当初の考え方は、1951年中 に形成されていた労働党政権の西ヨーロッパ統合についての考え方とほ とんど変わるところのないものであった。イーデソは大陸諸国の経済統
合、連邦化へ向けての努力を喜んで支援するつもりであったが、イギリスをそういった大陸諸国によって形成されるであろう超国家的機関に加 入させることは不可能であると信じていたし、イギリス外交の最も重要
な目的ほその帝国とコモンウェルスの資源を動員し、同時に大西洋同盟
の中で西ヨーロツ/くと北アメリカを結ぶリンクとして行動することに
よって独自の世界大国としての地位を確立することにあると、いささか
の迷いもなく信じてもいた。ヨーロッパはあくまでもその大きな大西洋
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
共同体を構成する3つの軸の1本にすぎず、それ自体同等のもう1本の 軸たるべきイギリスが、ヨーロッパと統合されることによって、その軸 の一部にしか過ぎないものとなることなど彼にほ考えもできないことで あった。
しかし、その彼にとってもヨーロッパ人の仲間内での協力、とくにフ
ランスとドイツの間の和解は、大陸の安定にとって欠かせない、繁栄し た西ヨーロッパの形成のためには奨励されるべきものであった。こういう考え方をイーデソ自身がしていたということをはっきりと示している といって良いと思われるのが、次に引用する、1951年12月のイーデソか
ら首相チャーチルにあてた書簡である。この書簡の中でイーデソほまず、
親ヨーロッパ統合論老たちのいうようなイギリスのリーダーシップの下 でのヨーロッパの有機的統合体(an
organic union of Europe underBritishleadership)というようなものの構築に反対である旨を言明し以 下のように書いている(かっこ内ほ私による補足):
それ(=anOrganic
union ofEuropeunderBritishleadership)ほ 我々がヨーロッパの連邦体(federation)に吸収されること以外のなに ものでもありません。しかし、あなた自身が防衛問題についての議会 答弁で述べられたように、我々は欧州防衛共同体の構築のためのプレ ヴァソ・プランのような計画に飲み込まれるわけにはいかないのです。
我々はただできるだけそういった計画と我々の間の関係を緊密にする
ことしかできないのです。我々はヨーロッパ諸国の政府間の共通の目
的のための協力体(association)に、完全に参加することもできますが、それほ、各国政府の手の下に支配権が残っている場合に限られる
のです。我々ほそういったことをOEECにおいておこなってきまし
た。我々はそれをNATOにおいておこなってきました。……(中略)
私ほ我々の政策を次のように定義しても良いかと思います:
第一に、我々ほ統一された(unified)ヨーロッパを求めています。
その点についての我々の誠意についてはなんの疑いの余地もありませ
ん。第二に、ヨーロッパの統一を支援し、強化するために我が国政府が
できることは二つあります:‑
(i)我々は、各国家の努力を政府間レヴェルで統一する計画に関して
は積極的役割をこれまでも果たすことが可能でしたし、これからも
果たしつづけます;
(ii)我々はまた大陸ヨーロッパ諸国に対して彼らが彼らの間で連邦的
組織を形成しようと望むなら、それに対してあらゆる支援をし、奨励をすることが可能です。そして、我々自身はそのような連邦的紅 織に組み込まれるわけにほいきませんが、我々は常にそういった組 織との間に緊密な関係を形成するための最も現実的でかつ有用な手 段を見つけるべく努力します。これが、我々がシューマン・プラン の例においてなしつつあることであり、またプレヴァソ・プランに おいてもしてもよいことなのです(2)。
外務省の側がイーデンを洗脳してしまったのか、あるいは外務省高官 の考え方がたまたまイーデソの好みにあっていたのか、そこまでは私に はわからないが、見事なまでの省内での意見の統一ぶりである。とにか
く、そのよって釆たる過程は定かでほないが、1951年12月という時点
で、外相就任後ほんの2ケ月も経ずして、イーデンは既存の外務省の政 策を継承してゆくという姿勢をはっきりと示していたのであり、後につづくのほ、当然この姿勢の具体的政策(構想)への反映ということにな
る。ECSCとの緊密な関係の形成という問題に関してのその第一歩が、
1952年2月にイーデソによって閣議に提案された、いわゆる「イーデン・
プラン」である。
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
2
第2次大戦後、1950年代半ばまでの時期を、私はひそかに「プランの 時代」と呼んでいるのだが、そのわけはいうまでもなく、とにかくやた
らと何々プランと称するものがこの時期、国際政治の舞台の上を飛び 交ったからである。おそらく一番有名なのがマーシャル・プランであり、
次に有名なのがシューマン・プランであろう。もちろんこれら二つは「成 功」したから有名なのだが、これが失敗したものとなると、その知名度
ほぐっと下がる(というのがすくなくとも、私に関する限りはいえるこ とである)。先にもいったようにプレヴァン・プランですら今や一般の耳 目にふれることのめったにない、すでに「死んだ」歴史的名称であると いってよいと私は思うのだが、イーデソ・プランとなると、そのさらに 上をゆく、ほとんど生まれることすらなく死んでいった、つまり流産し た、あるいは堕胎されたといってよいようなプランであり、私がこのよ うな研究に手を染めることがなければ一生、その名を耳にすることなく 暮らしてゆけたであろうようなプランである。ということはこれが失敗
した、あるいは当初の目的を達成することなく姿を消していったという ことをすでに結論としてお話したことになるのだが、この物語の中でほ、
その表題からくる当然の要請からいっても、以下にその短い一生を物語 るのが、私の仕事である。
イーデソ・プランの目的というのは、ごく簡単にいって、既存の欧州
審議会の機構と、̀ECSCの下で形成される予定であったヨーロッパの超 国家主権的機関との間に、制度的な結び付きを持たせることによって、
イギリスと西ヨーロッパの関係を強化し、ワシントン3ケ国宣言での国
際公約をも果たそうというものである。説明が遅くなって大変申し訳な
いが、欧州審議会(TheCouncilofEurope)というのは1949年5月にイギリスを含むヨーロッパの西側諸国によって設立されたストラスバー
グに本部を置く機関で、加盟各国の代表(これは加盟各国が好きな方法
で任命できる)から形成され純粋に諮問機関的な役割しかもたないヨー
ロッパ総会(theEuropeanAssembly)と加盟国閣僚の構成する閣僚委
員会(theCommitteeofMinisters)から成り立っていたが、これまで のところその実際の活動は、各国代表による欧州統合の理想を議論する 空理空論の飛び交う"apowerlessdebatingforum"というのがふさわ
しいような存在にすぎなかった。
で、この欧州審議会を通じたイーデソ・プランによってイーデソと外 務省が期待したことは何なのかということだが、それは、この欧州審議 会にイギリスが正規のメンバーとして加入しているということを利用す れば、ECSCとの間に、直接の加盟をしなくても、制度的な、しかしイギ
リスがECSCに過度に引きずり込まれてしまうことのないような緊密 な協力関係が形成されうるのではないかというものだったわけである。
もっと具体的には、イーデソ・プランでは、閣僚委員会とヨーロッパ総 会の双方でそれぞれ3つの異なるレゲエルの会合がもたれることになっ ていた。一つはECSC参加6ケ国のみの会合、もう一つはその6ケ国お よびイギリスのようなECSCの協力国("associate")による会合、そし て最後にこれまで同様の全加盟国による政府間機構としての会合、とい
う3つである。外務省の考えでほ、この計画が実現すれば、西ヨーロッ パの世論ほイギリスが独自の建設的イニシアチヴをとったことを認め、
イギリスのヨーロッパ統合運動への協力姿勢の真剣さを疑うようなこと はなくなり、イギリスによる統合の「妨害」などという疑念を持つこと ほなくなるであろうと予想されていた(3)。
しかし、この構想を大陸諸国に対して提示する前にまず、イーデソほ
閣内からの強い批判に直面することになった。保守党内にも、小数の勢
力に過ぎなかったが、ヨーロッパ統合運動に対して、イーデソおよび外
務省が提唱する、これまでの労働党政権下での政策を受け継ぎ、それを
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
発展させた政策とは異なるアプローチがなされなければならないと考え るものがいることほいたのであり、当時、住宅大臣の任にあったマクミ ランがこの小数意見の、閣内でのほとんど唯一といっても良い代弁者で あった。マクミランほ野党時代から欧州審議会での活動に積極的であり (労働党政権は西ヨーロッパの政治統合に引きずり込まれてしまうこと を怖れ、欧州審議会へのイギリス政府としての公式のコミットメソトを 増やすことには積極的ではなく、欧州総会でのイギリス代表ほ、これを 労働党政府批判の場として利用することに利点を見出していた保守党の 政治家たちに偏っていた)保守党内での最も親西ヨーロッパ統合的な人 物であるとの評判をすでに確立しており、その彼がイーデソ・プランの
ような政策構想に対して、何か一言いわずにすますという方が、むしろ おかしいのであって、事実ほやほりおかしくはならなかった、つまり、
マクミランによる異議申立がなされたのである。
ただし、ここで注意しなくてはならないのは、マクミランの西ヨーロッ
パ統合への積極的関心の背後にあった動機、あるいほ彼にとっての理想的な西ヨーロッパ統合のあり方、それとのイギリスの関り方がいったい
どんなものだったのかということであり、それは彼がその身にまとって いた、親ヨーロッパのラベルが示唆するような単純なものではなかった のである。まず第一に彼もまたイーデソ同様、これまで大陸諸国によっ て提案されて釆たようなヨーロッパ統合計画(つまりECSCとEDC)へ
のイギリスの直接参加にほ全く反対であった。ではどのような点が彼と
イーデソや外務省高官たちとの間で異なっていたのであろうか。それは、
すでにECSCとEDCという具体的プランの実現に向けて大陸諸国は動
き始めており、イギリスもそれらのプランに対するできる限りの協力を
公約してしまい、いかにそれを実行するかを考えなくてはならなくなっ
ていた、この1952年2月という時期に至ってもなお、マクミランは、イ
ギリスはヨーロッパ内での協力促進のために既存のプランとは異なる選
択肢を提示し、大陸で起こりつつある超国家主権的統合への流れを食い
止め、イギリス自身が参加でき、その中で単独のリーダーシップを発揮
できるような方向へと流れを変えることもできると考えており、そのよ うな行動ほ、イギリスの世界大国としての地位・影響力・威信というよ うなものを維持するためにほ、不可欠であるとまでみていたということ である。マクミランにとって最大の恐怖は、このまま放置しておけば長 期的には大陸6ケ国からなる西ヨーロッパの連邦体がイギリスの国際的 地位を脅かす強力な政治的、経済的なライヴァルとなるかもしれないと いうことであり、したがってそのような危険な芽ほ、できるだけ早くに 摘み取られなくてはならなかったのである。そのような考えから彼ほ、
2月29日付けで閣議に対して「欧州審議会の将来」と題する自作の覚書
を提出したわけである(このように住宅相という内政専門と通常考えら れる閣僚が、自らの任務とは直接の関係が無い外交問題についての覚書 を閣議に正式に提出するということ自体、極めて異例、というか私の知
る限りは他に例のないことであり、いかにこの問題がマクミラン個人に とって重要なものだったかを物語っているといえるだろう)。以下にその 覚書から彼の主張を引用する(かっこ内ほ私による補足):
(a)もしEDCが実際に成立した場合……(中略)ドイツを西側に結び 付けるような純粋に大陸諸国からのみなるシステムの方が、何の
ヨーロッパのシステムもないという状態よりは、イギリスの視点か
ら見て間違いなく好ましいものではある。しかしながら、そのよう
なシステムほ、特にそれがドイツの支配下に置かれてしまったなら
ば、我が国の利益に対して深刻な経済的・政治的脅威となりうるの
である。イギリスの産業界が深刻な石炭、鋼鉄、屑鉄、鉄鉱石の不
足に悩んでいる時に、これらの物資を扱う巨大なカルテルが大陸に
誕生することは、我々の直面する問題をより深刻なものとしても何
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年一1954年
らおかしくない(もしそれがドイツに支配されたものとなるのなら 事態ほさらに悪化するだろう)。ドイツに支配された大陸諸国のシス テムが、ある種の状況下でほ、ソヴィェト側と手を組むという重大 な政治的危険もある。……(中略)もしそれが大西洋共同体の枠紅 みの中に形成され、その中に閉じこめておけるのなら、我々は大陸 諸国による連邦体を歓迎もできるだろう。そうするためには、ヨー
ロッパの組織と制度との我々の結び付きが強ければ強いはどよいだ ろう。我々が、その発展に対して影響力を行使できる限りにおいて は、我々は大陸諸国の連邦体の持つ危険を減らすことができるだろ
う。……(中略)大陸6ケ国からなる連邦体の組織が欧州審議会の 枠内で発展することが最も望ましいという点でほ外相の見解に賛成 である。(しかし)我々の目的は、大陸諸国の連邦体を欧州審議会に 従属せしめることであって、欧州審議会を大陸の連邦体に従属させ てほならないのである。
(b)もしEDCが実現しなかった場合:ドイツおよびフランスによる EDC条約の批准は疑わしい。(西ドイツの西側への軍事的組込みの ための)新たな提案が、必要となるだろう。そのような提案が得ら れなければ、フランスとドイツの間のナショナリスティックな対立
の再燃かあるいほドイツの中立化という結果になるだろう。新たな 提案として我々は我々の当初の構想(というのほ、野党時代にチャー
チルを含む保守党議員たちが欧州審議会で提唱していたというこ と)であったイギリス自身も完全なメンバーとして参加できるよう な統一ヨーロッパ("a
UnitedEurope")の構想を再生させるべき である。それは連邦でほなくコモンウェルスの線にそった組織、連 邦に至らない統一体("unity
short offederation")(a
EuropeanUnionorConfederation:これはマクミランによる原注)となるべ
きである。これは具体的にほ次のことを意味する:
(1)欧州審議会の閣僚委員会を通じた政府間の継続的交流の保障、
(2)諮問総会(theCosultativeAssembly)を通じたヨーロッパ規 模の世論の形成、
(3)ヨーロッパの通貨の個別的あるいほ集団的なポンドとの連動 化、
(4)専門化した、しかし超国家主権的でほなく、究極的責任は各国 政府に存在する諸機関の設立(これにヨーロッパ軍も含みうる:
これもマクミランによる原注)
次回の閣僚委員会は欧州審議会の組織変更を提案するにはふさわしい 時期ではない。EDCとECSCの命運が定かになるまでほ待つべきであ
る。というわけでまたまた長きにわたる引用であったが、当時のマクミラ ンの西ヨーロッパ統合問題についての見解ほこの覚書に尽きるといって も良いと私は思うので、こうまでさせていただいた次第である。結局の ところ、彼も欧州審議会を利用しての何らかのイギリス側からのイニシ アチヴがあってもよいと考えてはいたわけであるが、その「何らかのイ ニシアチヴ」の性質がイーデソおよび外務省の考えたものとは大いに異 なっていたわけである。彼が求めていたのは、再びイギリスの側に西ヨー ロッパ諸国間の協力体制構築の主導権を取り戻すような提案であり、そ れほ彼の予想では極めて実現困難と思われていたEDCが失敗に終わ
り、西ヨーロッパ諸国が何らかの新たな提案を向こうから求めてくるよ
うな時にこそなされなくてはならなかったのである。したがって、イー
デソ・プランのごときは彼にしてみれば、まず第一に時期を得えておら
ず、さらにその内容も大陸諸国に随分と遠慮したものである、というか
むしろ積極的に欧州審議会を大陸側の超国家主権的統合機関に従属させ
てしまい、欧州審議会のイギリスによるイギリスのための利用の機会を
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
奪い去ってしまう怖れがあると見られたというわけである。先にいった ように彼は西ヨーロッパ統合がECSC、EDCともに順調に進んだならば それはやがてはイギリスにとっての脅威となる可能性をもたらすと警戒 しており、その危険を減らすためにほ何とかしてイギリスによる西ヨー ロッパ統合の行方への影響力行使の余地を拡大する必要があると思われ たわけである(4)。
しかし、このマクミランによる覚書を審議した1952年3月13日の閣 議においてイーデンほ、大陸の6ケ国はすでにイギリスが性質の異なる 提案をしたところでその針路を変更することはできないほど深く連邦主 義にコミットしているということを強調し、マクミランの反論をやすや すと論破した。イーデンによれば、マクミランによってなされたコモン
ウェルスの線にそったヨーロッパの統一体の形成は「連邦主義を推し進 めようとしている大陸諸国の希望を満たしそうにな」く、その通貨のポ ンドとの連動化も、「スクーリング地域およびコモンウェルスの結束を弱 めることになる」のであった。もっと平たくいえば、マクミランのいう ような提案をイギリスがおこなうことは、大陸諸国からの反発をかい、
イギリスの評判を下落させるだけである、ということである。結局この 閣議の席では、当時内務大臣でマクミラン同様の数少ない親ヨーロッパ 統合派(というよりは統合欧州警戒派という方が正確か)であったマッ
クスウェルーファイフ(D.Maxwell‑Fyfe)のみが「もし我々がヨーロッ パの出来事から離れた立場に身をおけば我々はいつかは統一されたヨー ロツ/くにドイツが支配的影響力を持つという事態を許すという危険を犯 すことになるだろう」と述べて、マクミランを支持したのみで、他の閣 僚たちほはとんど、イーデソの支持に回り、彼らの意見ほ国璽尚書のソー
ルズベリ卿(LordSalisbury)の次のような発言に集約されていたといっ
てよいだろう。
連合王国が大陸のブロックに完全なメンバーシップをもってコミット することなど決してあってはならない。……(中略)我々ほ大陸の民 族でほなく、植民地帝国を保有し、コモンウェルス内の独立諸国と特 殊な関係をもつ島国である。……(中略)我々が大陸ヨーロッパの国々
と緊密な関係を維持することは有り得ようが、我々は決して彼らとの 間で、意思決定を完全に共有することほできないのである(5)。
しかし、マクミランという男はまた非常に粘り強い男であり、この明
白な敗北のあともなお、首相チャーチルその人に対し書簡を送り働きかけることで、政府の対応の変更を目論んだのである。(チャーチルはこれ までの議論では沈黙を守っていたのだが、ということほつまりイーデソ のいうところに特に不満も覚えていなかったということであり、マクミ ランの意見に動かされるとも私などには思えないのだが、マクミランは なおチャンスはあると思ったようである。)以下に訳出するのが、3月 17日付けのマクミランからチャーチルへの書簡の一部である:
私はこれまで常にアメリカ人の構想である、イギリスとコモンウェル スを除く連邦化された西ヨーロッパというものは誤っており、長期的 には我々の利益に反するものであると感じておりました。それはおそ らくは失敗するのでしょうが、それが成功することもまた危険なので
す。私はNATOへの加入で充分であるとの議論には納得できません。NATOほすでに我々をコモンウェルスの大半から切り離してしまい
ました。もしEDC提案が実現されたならそれは我々を我々の最も重
要な大陸での友好諸国から切り離してしまうでしょう。私の愚考する
ところでほ、我々が自然に保有する帝国のリーダーシップに、ヨーロッ
パにおけるリーダーシップを加えてこそほじめて、我々ほ拡大された
NATOを通じて、世界情勢に対して我々が当然もってしかるべき影響
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
力を持てるようになるのだと思われるのです。
この書簡の写しをチャーチルから送られたイーデソによる3月18日 付けの反論の書簡(これはチャーチルあてに書かれた)の一部を下に引 用する(かっこ内は私による補足):
私から見て、マクミランの書簡が無視しているように思われることは、
ヨーロッパの大半が連邦化したがっているという事実です。我々には そうする(=連邦化する)ことはできません、がしかし、私はだから
といって他国がそうすることを止めようとすることは正しい政策でも なければ、良い政策でもないと考えます。全体としては私は、たとえ その方が我々の影響力は増すのだとしても、フランスとドイツがお互 いに敬遠しあっているよりは、混乱ほしていても、お互いに抱擁しあっ ている方がよいと思います。
チャーチルは明らかにこのイーデソの意見に賛成したようである。と いうのも彼のマクミランあての返事というのは、以下に引く3月20日付 けの書簡のようなそっけない物であったからである;
私としては、今のところ我々には彼(イーデン)が計画している以上 のことはできないと思う(6)。
こうしてようやく政府内部のやっかいものが片付けられた後、1952年
8月のECSCのthe HighAuthorityの設立までの間、イギリス政府に ょる'ECSCとの協力関係構築の努力ほイーデソ・プランの実現に集中さ れることになったわけである。3月に欧州審議会に対してイーデソ・プ
ランを提出した後、イーデソほ彼のプランが西ヨーロッパでのイギリス
の評判を高めるであろうと極めて楽観的な調子で予測していた。3ケ月 後の6月にも、閣議あて覚書の中で彼はこの楽観的予測を次のように披 露している:
ストラスバーグでの我が国の評判は今や上々である。これは我々が自 らヨーロッパの諸共同体(theEuopeanCommunities)との間に緊密 な技術的・政治的リンクを設定したいという意思の証明として受けと られるような提案をおこなったという、我々の側のイニシアチヴによ るものである。もし、私が望むようにこの提案が実現することになれ ば、我々は面倒な問題を乗り越え、我が国の欧州審議会との関係を、
ヨーロッパ大陸での連邦化にむけての運動を奨励し、我が国もそれに 対して直接の加盟に至らない最大限の協力関係をもつという一般的政 策と一致したものとすることができるであろう。
しかし、当初の大陸諸国からのイーデソ・プラン守こ対する歓迎の姿勢 にかもかわらず、この楽観的期待は結局のところ誤りであったことが証 明されるのである。この失敗の最大の原因は、ヨーロッパの統合運動の 指導的設計者の一人であり、シューマン・プランの元々の発案者にして、
1952年7月には初代のECSCの"the
President oftheHighAuthor‑
ity"に就任していたジャン・モネによってイーデソ・プランに対して向
けられた疑惑の念であった。イーデソからのECSCに対しての妨害の意
図などないとの明確な保証にもかかわらず、モネはこのイーデンの提案
の中にイギリスが欧州審議会を通じてヨーロッパの連邦主義的統合運動
を内部から乗っ取り、単なる政府間協力機構‑それではドイツに対す
る充分な拘束が得られないというのがモネの考えであったことはすでに
説明した通りである一に変質させてしまうのではないかという危険を
嗅ぎつけたのである。イーデン・プランにとって、それがモネによって
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
このように「誤解」(といってよいのだろう。イーデン、外務省の側の記 録を見る限り、そのような内部からの乗っ取りといった意図はうかがえ
ないし、それは既に見たマクミランとの間の議論からも明らかであろう) されたということほ致命的であった。最終的には、欧州審議会とECSC との間にストラスバーグの欧州審議会の施設をECSCの総会(Assem‑
bly)のためにも用いるといった程度の、ある種のリンクは設けられたの であるが、1952年9月までにはモネは、欧州審議会とECSCとの間の関
係は、そういった物理的な施設の共有といったもの以上の実質的なもの
とはならないようにすることを確実なものとし、イーデソ・プランは静 かな死を迎えたのである(7)。
3
この失敗の後、外務省の努力は、広い政治的機構を通じたつながりで
はなく、公式の協力関係条約("aTreatyofAssociation")を締結することによって、ECSCとの間に現実的な通商上の協力関係を築き上げる ことに集中されることになった。1952年9月初頭にほ、ルクセソブルグ
の"theECSCHighAuthority"に対して、イギリス政府から常駐の代 表部が派遣され、モネに対して、いかなる形式の協力関係が結ばれるべ
きか、予備的な打診を開始した。ECSCほ一応発足したとはいえその将来 はまだまだ未知数でありこの時点で外務省のとった姿勢は極めで院重な ものであった。そのため1953年5月になり鉄鋼と石炭の共同市場が実際 に動き出すまでの約一年の期間がイギリス=ECSC協力関係の持つ政治 的・経済的意味を検討するのに費やされたのである(8)。
1953年7月になりようやく、イギリス政府各省庁の官僚からなる
シューマン・プラン委員会は対ECSC協力関係のあるべき姿について検
討した長文の報告書を提出した。
この報告書によれば、イギリス=ECSC協力関係を築き上げる際には まず、経済的な要件として、安価な石炭と鉄鋼の供給が維持されること、
イギリスからの石炭・鉄鋼輸出価格が妥当な水準でかつ安定したものと されること、多国間開放貿易主義と帝国特恵制度というより広い通商政 策の原則との調和が確保されること、の3点が満たされなければならな かった。具体的な協力関係の形式としては、報告書は鉄鋼産業と石炭産 業についてそれぞれ異なる形式を提案していた。鉄鋼産業については、
報告書はかなり大胆に踏み込んだ協力の形式、すなわちECSC6ケ国と の間での共同市場の形成を提案していた。報告書によれば、この7ケ国 共同市場の形成によってヨーロッパの鉄鋼市場ほより安定したものとな
り、イギリスの鉄鋼産業にとっても健全な競争の機会が提供され、イギ リスの鉄鋼産業はその効率性において大陸諸国の鉄鋼産業より勝ると考 えれらていたので、鉄鋼市場の拡大によりイギリス側が得をすることほ あっても、損をすることはないと予想されていた。さらに他のイギリス 産業も、イギリスの加わった共同市場内で、健全な自由競争が拡大する 結果として、鉄鋼の安値での安定供給を受けられるという形で、利益を 得るであろうとも予想されていた。鉄鋼に関してはこうして事実上、
ECSCへの参加にも等しいはどの踏み込んだ協力様式が提案されたのに 対して、石炭については、同様の措置をとった際に炭坑夫組合からの強 硬な反対がでるものと予想されたために、報告書の提案ほ控え目なもの で、ただ輸出入協定をECSCとの間に締結することだけが提案されてい た。いずれにせよ、報告書ほECSCをもって、その誕生は、「巨大な経済 力単位」の出現を意味するものであると位置付け、それが「次第に成長
してゆくことによって……連合王国の経済的利益に対する損失も与えか ねない」、したがってイギリスがそれとの間に何らかの友好的関係を築く 必要がある存在であると見なしていた。
しかしこの報告書の中にほすでに、最終的にほイギリスがECSCとの
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年一1954年
間で鉄鋼産業の共同市場を形成するにあたって乗り越えがたい障壁と
なったものが、その存在を垣間見せていた。ECSCとの間での共同市場形 成の是非について、予備的な打診を受けたイギリス鉄鋼産業連合(the BritishIndustryofSteelFederation:イギリス国内の精鋼業者団体) は、共同市場形成による競争増大の予想はあまり歓迎はできないとの回 答を寄せていたのである(9)。
この、鉄鋼産業については共同市場形成も可とする協力形式の持つで あろう政治的意味については、外務省によって別に検討がなされ、1953 年11月末までに外務省ほ、共同市場の形成ほ以下に引用するような形で 要約されたイギリスの基本的ヨーロッパ政策の枠組みに収まるであろう
と見なし、なお慎重でほあったが、基本的に賛成するとの意見をまとめ ていた。その外務省いうところのイギリスの基本的ヨーロッパ政策とい
うのは次のようなものである:
西側同盟を強化し、それを共産主義に対して抵抗力のあるものとする
ためおよび、ドイツを西側の共同体の中にはめ込むために、西ヨーロッ パの政治的および経済的力と安定度を高める手段の一つとして西ヨー ロッパ諸国の政治的、経済的および軍事的統合を支援すること。
さらに、1953年も末に近づくにつれ、外務省は急速にECSCとの協力 関係の強化に対して積極的な姿勢をとるようになっていった。それはな ぜかというと、鉄鋼共同市場の形成という具体的な形でECSCとの協力
関係を強化することによって、イギリスが西ヨーロッパ統合を積極的に 支援しているという姿勢を大陸諸国、特にフランスに印象付けることが でき、したがって共同市場の形成は、1952年5月に調印されながら依然
として、フランス議会での批准には至っていなかったEDC条約の批准
を促進するための手段としても使える‑というよりほ、後で触れるよ
うに、参加6ケ国のみではなくイギリス、アメリカも多大の努力を傾け ることによって3年越しでようやく、後はフランスによる批准を残すだ けというところまでこぎつけていたEDCの実現のためには、ぜひ必要
な側面からの支援であるといった方がより正確であろうーと考えるよ
うになっていったからである。当時の外務省内部の覚書によれば、「フラ ンス人たちがEDCの批准をためらっている間は、我々が6ケ国からな る共同体との間に緊密な協力関係を築こうとしていることを彼らに示す ことができ、その協力関係が単なる上っ面だけのものではないことを教 えてやれるような手段であればいかなるものであれ、それほ彼らに
(EDC批准に向けて)前進することこそ賢明なことなのだと確信させる 役に立つはずであ」ったのである(かっこ内ほ私による補足)。
また、もしもEDCが批准されなかった場合のことを考えても、今の段 階でECSCとの間に緊密な協力関係を築いておくことが重要であると も考えられた。なぜなら、そのような状況においてほECSCだけが、イ ギリスとしてもそれとの間で協力関係が持てるような性質のものであ
り、かつ同時に、西ドイツを西側陣営にとどめておくための統合の枠組 みを持っているような「統合運動が実際的な形で体現された唯一のもの」
として残されるであろうからである。またこの段階で堅固な協力関係を ECSCとの間に築いておくことは、ECSCが将来、東側に接近してしまう
ことを未然に防止し、またECSCによるイギリス経済への打撃も予防す る効果を持つとも考えられた。こうして、1954年の初めまでには外務省 はそれまでと比べて、ECSCとの協力関係条約の早期締結に対して熱心 な態度を示すようになった。そして、この外務省側の変化とはば時を同
じくして、1953年の12月にはモネの側から協力関係条約締結のための
交渉への正式の招請状が送られて釆たのである(10)。
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
4
1954年1月の閣議においてシューマン・プラン委員会の報告書に沿っ た形での協力関係条約の締結を支持する議論が提示され、イーデソ自ら も鉄鋼共同市場への参加を強く勧告してから、わずか数ヶ月の内に、イ ギリス政府は国内鉄鋼産業からの強硬な抵抗に直面することになった。
経済官庁(商務省、供給省)による鉄鋼産業界からの意見聴取の結果は、■
4月までに共同市場参加には絶対反対、価格や設備投資についての限定 的協定以上の協力は不要であるとの業界の回答を引き出したのである。
結局のところ、イギリス政府のECSCとの協力関係条約締結にあたっ て、その最終的な意思決定に際して最も重大な影響をおよぼし、当初の 政府案に対して致命的な打撃を与えたのは、この国内鉄鋼業老団体から
の反対意見の存在であった。石炭については当初より国内圧力団体(=
炭坑夫組合)からの強い反発を予想して、限定的協力しかできないであ ろうと政府側が予想していたことほすでに見た通りであるが、鉄鋼につ いても結果は同じだったわけで、違っていたのは被雇用者側の団体であ るか、使用者側の団体であるか、という点だけだったわけである。こう して、5月までには、このある閣僚いうところの、"pOliticalembarass‑
ment''であった業者団体側の反発によって、イギリス政府は「連合王国 の関連諸産業からの支援を損なわない限りにおいて、できるだけ緊密な 形式の協力を石炭・鉄鋼の両分野において"theHighAuthority"との
間に確保する」ことが、決定されたのである。その結果イギリスがたど
り着いた協力形式というのほ、極めて限定的な活動の余地しか持たされ
ない、「協力関係審議会」("aCouncilofAssociation'')を設置するとい
うものであった(11)。
"theHighAuthority''との交渉が実際に開始された1954年の9月半
ばにはすでにEDCほ死んでおり(フランス国民議会は同年8月31日に
EDC条約の批准を否決していた)、したがって当然、イギリスとECSC との関係強化をもってEDCの批准を促進するという1954年はじめの 時点での外務省の期待も虚しいものとなっていた。(EDC失敗の場合ほ 西ドイツの西側陣営への組込みのためにECSCを利用する必要が生じ
るかもしれないとの外務省の懸念は、後に見るように、ドイツ再軍備問
題が全く別の形で解決されたために、幸いにも杷憂に終わっていた。)1954年12月にはイギリス=ECSC間協定が正式に調印され、情報の交
換、協議および、価格設定・資源供給・研究・安全策といった点での共 同行動をおこなうための、協力関係審議会が設立されることになった。
これが、長い長い検討と交渉の果てにイギリス政府がようやく到達した ECSCとの「できる限り緊密な協力関係」の公約の成果であった(12)。
1952年後半に、イーデン・プランの失敗が明白になって以来イーデソ 自身ほイギリスとECSCとの協力関係構築の問題についてはほとんど 興味を示さなくなっていた(そのこともあって、この話の1952年以降の 部分は、ごく簡単にすまさせていただいたわけでもあるのだが)。また首 相チャーチルは(私の調べた限りでほ)終始この問題については関心ら
しきものを示すことほなかった。これは一部にはこの二人がともにこの 種のややこしい数字の出てくるこみいった実際的な経済問題には関心が 薄かったというより、ほっきり言って細かい数字は苦手だったというこ
とにもよるのだが、それ以上に彼らの関心を引き寄せたより重要な(と
彼らには、そして他のイギリス政府の人間のほとんどにも思われたであ
ろう)政治的あるいは軍事的問題が、この期間を通じて、ヨーロッパ統
合問題に関して、存在しつづけたからである、というべきであろう。す
なわち、イギリスとEDCとの協力関係はいかにあるべきかという問題
であり、またフランスの批准拒否により、EDC条約が宙に浮いてしまっ
た後でほ、いかにして西ドイツの再軍備実現のためのEDCにかわる代
替案を探しだすかという問題である。そういうわけで、これまで見て釆
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
たところでは、イーデン・プラン提案の是非をめぐる論争の中で、イー デソとマクミランの間のヨーロッパ統合問題についての意見の相違、と いうものほ紹介できたが、首相チャーチルはヨーロッパ統合についてい かなる考えを持っていたのか、ということについてはほとんど触れるこ とができなかったのだが、以下に、このEDCとの協力関係のあり方およ びその失敗後のEDCの代替物のあり方をめぐるイギリス政府内部での 論争を見てゆくことで、チャーチルの考えを取り出し、それを他の二人 のものと比較することを私はおこなうつもりである。
注
(1)DBPO,VOl.I,pp,742r744,781T788.Young,B7itain,n7mCe,pp.161,190‑191.
Young,̀The Schuman Plan',pp.110‑112.John Young,̀Churchi11's No'to Europe:TheRejectionofEuropeanUnionbyChurchill'sPost‑WarGovern‑
ment,1951‑1952',771eHisto7icalJournalvol.28,nO.4(1985)(hereaftercited asYoung,̀Churchill'sNo'),p.926.
(2)PREMll/153,Eden to Churchill,15Dec.1951.CAB129/52,C(52)155,
memo.by Eden on the Councilof Europe's Assembly Resolution for a
Europe‑CommonwealthConference.DBPO,VOl.I,pp.754r755,790‑793.Sir AnthonyEden,Bkien Memoir:ndlCiYt:le(1960,London),p.29.
(3)CAB129/49,C(52)40,15Feb.1952,memO.byEden,̀FutureoftheCouncil OfEurope'.DBPO,VOl.I,pp.805‑812,819L825.Eden,Op.Cit.,pp.47‑48.Young,
Briiain and FYunCe,p.115.Young,̀The Schuman Plan',p.113.Young,
̀Churchill'sNo',p.932.
(4)CAB129/50,C(52)56,29Feb.1952,memO.byMacmillan,̀Future ofthe CouncilofEurope'.DBPO,VOl.I,pp,812‑818.Harold Macmi11an,77des qf Fbrtune(1969,London),pp.461‑466.Young,̀TheSchumanPlan',pp.111‑112,
113‑114.Young,̀Churchill'sNo',pp.931A934.
(5)CAB128/24,CC29(52)8,13Mar.1952.CAB128/24,CC30(52)3,13Mar.
1952.CAB129/49,C(52)40,15Feb.1952,memO,by Eden,̀Future of the CouncilofEurope'.CAB129/50,C(52)56,29Feb.1952,memO.byMacmi11an,
̀FutureoftheCouncilofEurope'.,C(52)75,12Mar.1952,memO.byEden,
̀FutureoftheCouncilofEurope'.DBPO,VOl.I,pp.833‑835.Macmillan,Op Cit.,pp.470〜472.Young,̀TheSchumanPlan',p,114.Young,̀Churchill'sNo', pp.934‑935.
(6)PREMll/153,MacmillantoChurchill,17Mar.1952.,EdentoChurchill,18 Mar,1952リChurchillto Macmi11an,20Mar.1952.
(7)CAB129/52,C(52)189,10June1952,memO.byEden,̀FutureoftheCouncil OfEurope'.DBPO,VOl.Ⅰ,pp.846‑847,855¶857,870‑874,906‑907,930‑935,100ト
1003.Eden,Op,Citっp.48.Young,̀The Schuman Plan',pp.114‑117.Young,
̀Churchill'sNo',pp.935‑936,
(8)CAB134/1175,SPC(52)1stmeeting,31July1952.FO371/105953/1,Coulson (FO)toRobertson(Treasury),3Jan.1953.DBPO,VOl.I,pp.848‑855,907r910, 1004‑1006,1008‑1011,Young,̀TheSchumanPlan',pp.117‑118.
(9)CAB134/885,ESC(53)9thmeeting,7Sept.1953.FO371/105954/60,Weir (Luxembourg)toDixon(FO),22Apr.1953.FO371/105955/82,Marjoribanks (Luxembourg)toCrawford(FO),17June1953.FO371/105956/112,minuteby Hope‑Jones,29July1953.Young,̀The SchumanPlan',pp.119‑122.
(10)FO371/105957/162,minutes ofinterdepartmentalmeeting at FO,30Nov.
1953.,/166,FOmemo.̀PoliticalConsiderations',undated(1ateNov.1953)リ/
168,Monnet'sinvitation for UK association with the ECSC,24Dec.1953.
FO371/111250/9,minutebyDixon,31Dec.1953.,ibid.,minutebyCrawford,12
Jan.1954.,/13,Dixon to Strath(Treasury),7Jan1954.,/25,minute by CrawfordforEdenasabriefforCabinetmeeting,18Jan.1954.Young,̀The
SchumanPlan',pp.122L124.
(11)CAB128/27,CC4(54)2,21Jan.1954.CAB129/65,C20(54),18Jan.1954, memo.byEden.CAB128/27,CC27(54)3,7Apr.1954.,CC36(54)7,26May 1954.CAB129/67,C(54)131,19Apr.1954,memO.bySandys(Ministerfor Supply).,C(54)133,6Apr.1954,memO.bytheBoardofTrade.CAB129/68, C(54)173,24May1954,memO.byCommonwealthRelationsOffice.FO371/
111251/39,FOminute,10Feb.1954.,ibid.,minutebyCrawford,12Feb.1954.
FO371/111252/68,minute by Roberts,19Mar.1954.FO371/111253/89,FO minute,30Apr.1954.,/100,minutebyCrawford,14Apr.1954リ/109&/110,
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
WeirtoFO,29,30Apr.1954.,/112,FOminuteforEden,26Apr.1954.,/128, CoulsontoCaccia,18May,1954.,/138,NuttingtoLloyd,22May1954.Young,
̀TheSchumanPlan',pp.124‑126.
(1Z)CAB128/27,CC63(54)3,50ct.1954.,CC70(54)7,250ct.1954.CAB129/
71,C(54)305,40ct.1954,memO.bySandys.CAB129/72,C(54)394,16Dec.
1954,nOtebySandys.FO371/111261/20,24,25,WeirtoFO,10ct.,1,16Dec.
1954.Young,̀TheSchumanPlan',pp.126‑130.
第3章 チャーチル政権はいかにしてEDCと「協力」した のか?
1
1951年10月にチャーチル保守党政権が誕生した時に、前労働党政権 の対EDC政策、すなわち緊密な協力関係は築くが、イギリス自身は参加
しないという政策は特に変更もなく継承された。しかし、この一見スムー
スに見える流れほ、新政権内部で、対EDC政策について意見の対立が全
くなかったということを直ちに意味していたわけではない。ということ はつまり、意見の対立はあったのである。以下にまずお話させていただ くのは首相チャーチルと外相イーデンが、政権の座についた当初、EDC についてどのような見方をとっていたのか、ということである。
1945年以来、6年振りに首相の座に返り咲いたチャーチルは、その野 党時代の欧州審議会等での活動から、周囲からほ熱心なヨーロッパ統合 の推進論老であると思われていた。1946年9月にほチューリヒにおい て、ヨーロッパの中に「ヨーロッパ合衆国」("aUnitedStatesofEur‑
Ope")と称しうるような地域的構造を創設することを求める演説をおこ
なっていたし、1949年には欧州審議会の設立に諸手を挙げて賛成していたし、1950年にほ労働党政権による、シューマン・プランのための交渉
への不参加の決定に対しての批判をおこなっていたし、1950年の8月に ほ(プレヴァソ・プランよりも前に)欧州審議会において、ヨーロッパ 軍(aEuropeanArmy)の創設まで提唱していたのである。しかし、こ のようなチャーチルの野党時代の履歴から、西ヨーロッパ統合推進論老 たちの間にたかまっていた、イギリスは彼の政権下においてより積極的 に西ヨーロッパ統合に参加するのでほないかとの期待は見事に裏切ら
れ、首相となったチャーチルはイギリスのEDC参加などということには断固として反対であった。彼にしてみれば、過去の自らのヨーロッパ 軍創設の呼び掛けなどはあくまでも、純粋に大陸ヨーロッパ諸国だけの 間での統合に向けての運動に対する支持を表明したものにすぎないので あって、そこからほイギリス自身は当然、除外されなくてはならないの であった。さらにいえば、彼が提唱していたヨーロッパ軍はプレヴァン・
プランによる連邦主義的なものなどとほ全く異なるものであるというの が、彼の内心の考えでもあった。彼はEDCの超国家主権的側面を嫌悪 し、そのような「志願兵や徴兵されたものからなる"sludgyamalgam"
にはEDCであれ、他の似たような紐織であれ、それを真剣に防衛するよ うな"militaryspirit"があるのかどうか極めて疑わしい」と彼にほ思わ れたのである。
彼が1951年の11月29日付けで閣議に対して提出した覚書の中に、こ のような彼のイギリスほ決して統合されたヨーロッパの一部になってほ ならないという考え方ほ端的に示されていると思うので、今度もそれを 引用させてもらうことにする(かっこ内ほ私による補足):
1.1946年チューリヒにおいて私はフランスに対して、ドイツとの友好 関係を樹立することから始めて、ヨーロッパの中でリードをとること
をすすめた。……(中略)(それ以降)着実に進歩ほ続いている。‥…・私ほつねに考えて来たのだが、ドイツは潜在的には軍事的にも経済的
第2次チャーチル政権と西ヨーロッパの統合、1951年‑1954年
にもフランスよりもはるかに弓虫力なので、イギリスとそしてもし可能 なら合衆国が、統一欧州("theUnitedEurope")と協力関係を持つこ
とにより、(ドイツに対する)重石となって、統一欧州運動("theUnited Europemovement")を促進すべきである。
2.……(前略)私ほ何もヨーロッパでの連邦主義に反対しているわけ ではないし、そのような連邦化ほ自然にかつ漸進的なものとして起こ
らなければならないという条件さえ満たすのならば、究極的にはそれ が鉄のカーテンの向こう側の国々も含んで良いとさえ考えている。し かし、私ほかつて一度もイギリスあるいはイギリス連邦("theBritish Commonwealth")が、個別にであれ、あるいは集団的にであれ、ヨー
ロッパ連邦の不可分の一部となるべきだと考えたことほないし、その ような考えに対していかなる支持も与えたことほない。しかしながら、
我々はヨーロッパ内での統一へ向けての運動を妨害するべきではな く、むしろそのような運動に対し好意を持ち、合衆国からの支援をえ