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鈴 木 邦 武

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(1)

鈴 木 邦 武

ゲーテ晩年の作の一つである『西東詩集』の成立は,1814年オーストリアの 外交官でオリエント研究者であったハマー=プルクシュタル(Joseph von Hamrner−Purgstall,1774−1856)の手になるドイッ語訳『ハーフィズ詩集』と の出会いが契機となった。

また,ハーフィズの「好ましい歌,聖なる先例」(1)に導かれて創作意欲の湧 きあがりを感じたその時期,郷里への旅の際に,友人の妻で詩情豊かなマリア ンネ(Maria Anna(Marianne)Katharina Therese von Willemer,1784−1 860)とめぐり合ったことが更にゲーテの詩作への熱意をかきたてることになっ た。そのようなことを反映して「西東詩集』を構成する12の巻の中で,「歌び

との巻」,「ハーフィズの巻」のような詩や詩人をテーマとしたものと,「愛の 巻」,「ズライカの巻」,「天国の巻」といった愛をテーマとしたものが,この 詩集の中心をなすに至った。

しかし,上の二つのテーマの中に収らない「巻」をみてみると,それらの中 にはゲーテの晩年の人生観あるいは彼を取り巻く状況との葛藤をテーマとした ものが多く見受けられる。「考察の巻」,「不平不満の巻」,「箴言の巻」がそ れに当る。ここではこれらのうちの「考察の巻」について見ていくことにする。

『西東詩集』は1814年と1815年にその骨格をなす部分が出来上って,1816年 2月24日付の『教養階級のための朝刊紙」には,その発刊予告が載せられ,そ の後この新聞やその他の雑誌等で部分的には発表されるが,『西東詩集』とい う形で出版されるのは,発刊予告が出た3年後の1819年8月のことであった。

そして,この詩集には,ゲーテの他の作品の場合とは異って彼自身の詳細な 研究成果に基づく解説が付けられた。〔2)この1819年に出版されたものをゲーテ

は完結したものとは考えていなかった。この詩集が将来もう少し膨れあがるだ ろうことを予想していて,「西東詩集のよりよき理解のための注と論考」と題

(2)

された解説の中には,「将来のディーヴァーン(詩集)」という項目が収めら れた。その中で彼は次のように語っている。

「もっと若い時代であったらわたしはこの作品をもっと手もとにおいておい たろう。しかし,今は,わたしは,この仕事をハーフィズのように後世の人々 に委ねることはせずに,自らそれを編集する方がよいと判断した。」③

「将来のディーヴァーン」の項は,一応出来上ったものが自分を刺激してこ の詩集をよりよいものにして行きたい気持ちにさせてくれることを念願し,そ の場合,どのように膨れあがって行くかを語っている項である。

こうして出版された1819年の初版のものと1827年に「ゲーテ全集』決定版の 第5巻に収められたものとではかなりの違いが認められる。1番目の「歌びと の巻」,2番目の「ハーフィズの巻」,7番目の「ティムニルの巻」,ll番目 の「パルシー教徒の巻」は変らないが,その他の巻は補充されていて,特に,

「箴言の巻」では5分の1以上,「考察の巻」では3分の1以上,「天国の巻」

では半分近くが付け加えられている。

「考察の巻」で1827年に追加された詩は10編あり,ハンブルク版に従うと16 編だったものが26編,H. A.マイアー編やヴァイマル版に従うと15編だった

ものが25編となっている。(4)

「考察の巻」の詩の数の上で問題となるのは23番目の「フィルドウスィーが 語る」という詩である。1819年の初版本では以下のようになっている。

Ferdusi

spricht

OWelt wie schamlos und boshaft bist du!

Du nahrst und erziehest und t6dtest zugleich.

Nur wer von Allah beg篭nstiget ist,

Der nahrt sich, erzieht sich, lebendig und reich.

Was heiBt denn Reichthum?−Eine w葛rmende Sonne,

GenieBt sie der Bettler, wie wir sie genieBen!

(3)

Es m6ge doch keinen der Reichen verdrieBen Des Bettlers, im Eigensinn, selige Wonne.⑤

この版の他の詩の部分では節と節の間は1行空きになっていて,横線が入って いないので「フィルドウスィーが語る」は三つの詩からなっているとも理解で

きる。ヴァイマル版でも同じスタイルになっている。しかし,この版の編者ブ ルダハがLesartenの中で,最初の2行はフィルドウスィーによるものでルー

ドルフの翻訳(『オリエントの宝庫』第2巻中の「王書』の部分訳)と全く同 じ,次の2行はそれに対するゲーテの返答で韻の上でもそれに符合する,しか し,最後の4行はそのはじめの行のReichtumが二つ目の節の最後のreichと 意味的には関連を持つが,独立した一つの詩で,誤って同じ表題に入れられて いるものであって,印刷の際に明確に区別することが望ましいとしている。⑥ブ ルダハのこの解説の影響によると思われるが,その後の版で上の二つを2節か らなる一つの詩としてさらに最初の2行に引用符を付して扱っているものがあ り(Richter編のFestausgabe,Rychner編, Graf編など),ハンブルク版では 更にそれを4行からなる一つの詩として扱っている。しかし,Kritische Aus一 gabeと銘打っているH.A.マイアー編でヴァイマル版と同じ扱いをしている ので,これに従うのが順当なのであろう。なお,マイアー編では一つ一つの詩 に番号を付けていて,「フィルドウスィーが語る」全部を23番目としている。

しかし,詩の最初の語による索引では,上の三つの節をそれぞれ独立したも のとして扱っている。それはヴァイマル版での目次でも同じになっている。

おお,世間よ,何とおまえは厚かましく悪意に満ちていることか おまえは養い,教え,そして同時に殺す。

という最初の2行は前にも触れたようにフィルドウスィーの『王書』の部分訳 をそのまま用いたものである。ルードルフのドイッ語訳ではこの句に続けて

きみが牧人であれ,群れの1員であれ

すべての者の運命はそうしたもの(7)

とある。「酌とりの巻」の17番目の詩の冒頭の部分に

(4)

あのいやらしい

みだらなだらしないばばあ

人々はあれを世間と呼んでいる(8)

というような表現もみられるように,オリエントの世界では世間が年老いたみ だらな女にたとえられた。 「フィルドウスィーが語る」の最初の2行で語られ ているWeltはそのような世間と受けとめることができるように思う。そのよ うなフィルドウスィーの語りかけに対するゲーテの応答が次の2行である。

アッラーの恩恵にあずかる者だけが 生き生きと豊かに養われ,教えられる

M.リヒナーは,この句と関連づけて,ゲーテが自分をあらゆる点で選ばれ た人間の部類に加えていたと指摘し,その一例としてエッカーマンとの対話

の中の次の部分をあげている。(9)

「イギリスに生まれていたら,わたしは金持の侯爵か,というよりはむし ろ年収3万ポンドの主教だったろう。」とゲーテが言ったのに対してエッカー マンが,「本当に結構なことです,でも,もしあなたが偶然そのような当りく

じではなくて空くじをひいてしまったらどうなさいます。空くじというのも沢 山あるものですよ。」と答えたのに対して,ゲーテは,「きみ,誰もが大当り をひくというわけではないですよ。いったいきみはわたしが空くじをひくよう なへまをするとでも思っているのですか。」と言ったということである。

1830年3月17日に行われたこの対話は,ゲーテが自分の自然科学研究の協力 者であった解剖学者のゼメリング(Samuel Thomas von S6mmering,ユ755一 1830)が自分より若くして亡くなったことから,自分より数週間早く生まれて

(実際にはもう少しひらきがあるが)なお元気なイギリスの急進主義者ベンサ ム(Jeremy Bentham,1848−1832)のことを話題にし,その年であのように 過激であるというのは狂気の限りだと言ったとき,エッカーマンが急進主義は 二つに区別して考えなければならないと思う,一つは将来の建設のために,ま ず純粋な道を作る目的からすべてを破壊しようとするもの,もう一つは強制的 な力を用いずによいことを確立することを希望して行政の弱点や過ちを指摘す ることに甘んじるもので,イギリスに生まれていたらあなたは後者に属してい

(5)

たでしょうと応じたのに対して,ゲーテがとんでもないイギリスにいたら自分 は弊害を食いものにしていたろうと言っていることに続く部分である。ω

ところで,「アッラーの恩恵にあずかる者」という句は必ずしも特権意識と 結びつくとは考え難く,ひたすら神を畏れ,己の罪深さを恐れて神に絶対的信 頼を捧げて日々精進する者のことであると理解できる。そしてそのように受け とめるとき,次の4行の詩句もこれとの結びつきが深く感じられて,ブルダハ の指摘とは反対に初版本のままの形で一つとみる方が自然であるように思えて

くる。

富とはいっ・たいなに,暖めてくれる太陽 乞食もわれらと等しくこれを享受する 気ままに享受する乞食の至福の喜びに 富める者たちも腹を立てないで欲しい

富はここでは金や財産とは関わりのないものであって, 人は社会的状況の 中で貧しくても,自然の存在としては豊かであり得る。ハマー=プルクシュタ ルの訳した『ハーフィズ詩集』の中には次のような詩句も見当る。

乞食は世間のことで口論などしない

彼はその財産のことなど何とも思っていない〔ll)

そしてこれはハーフィズという詩人の姿でもあったようで,彼は何よりも思想 の自由を求め,彼の時代に多くみられた一般の宗教家や信者たちの儀礼や慣習,

形式にとらわれた生き方を強く批判した。つまりハーフィズは心の豊かさを維 持し続けた詩人であって,フィルドウスィーのことばに対して,ゲーテはパー

フィズの生き方に共鳴しつつ上のように答えた。

この「フィルドウスィーが語る」を初版本の形で一つと数えると「考察の巻」

は25編となる。

この25編のうち,詩の形式の点でハーフィズの詩の影響を示すものが2編 ある。8番目の詩と22番目の詩で,ハーフィズが用いたガザルの形式を取って

いる。

ガザルは,元来,アラビアの詩形で,二つの半句(ミスラー)がひとまとま

(6)

   ノ閧ニなって一つの対句(バイト)を構成し,最初の対句では半句の脚韻が互い

に押韻し,2番目の対句以下で後半の半句の脚韻が最初の対句の脚韻を繰返す 形をとり,全て押韻するものである。詩形としては頒詩(カスィーダ)と同じ

であるが,カスィーダの方は一般に15対句以上から成り,長さに制限がないの に対して,ガザルの方は5から15程度の対句でひとまとまりを成している。ガ ザルは叙情詩や恋愛詩の表現に主として用いられ,結びの対句に詩人の雅号

(タハツルス)が詠みこまれる。

ハマー=プルクシュタルのドイツ語訳では半句を1行あるいは2行に訳して いて,詩の行からいうと原詩の行数の2倍あるいは4倍になっている。

「考察の巻」の8番目の詩は, 1行目と2行目が同じ韻になっていないの で,ガザルの本来の形とは言えないが,各偶数行で[・:1t]という音で韻を踏 む形になっていて,ほぼガザルの詩形とみることができる。

Haben sie von deinen Fehlen Immer viel erzahlt,

Und,fUrwahr sie zu erzahlen,

Vielfach sich gequ蕊1t.

Hatten sie von deinem Guten

Freundlich dir erz老Ihlt,

Mit verstandig treuen Winken,

Wie man BeBres wahlt;

OgewiB!das Allerbeste

Blieb mir nicht verhehlt,

Das f琶rwahr nur wenig Gaste

In der Klause zahlt,

Nun als Sch廿ler mich, zu kommen,

Endlich auserwahlt,

Und mich lehrt der BuBe Frommen,

Wenn der Mensch gefehlt.

(彼らはきみの過失について いつもいろいろなことを言った そして実際それを語るのに

(7)

苦心さんたんした

もしもきみの良い点について

どうしたらもっと良いものを選べるか 思慮深く誠実な示唆によって

やさしく話してくれていたら おお確かに最も良いものが わたしに明らかにされただろう それは実際わずかな客しか 庵には招かないのに

今わたしを入門の弟子として 選んでくれた

そして人がしくじるようなことがあったら

蹟罪の効用をわたしに教えてもらいたい)(12)

この詩の中でまず前半においてsie(彼ら)とdu(おまえ)という関係であっ たものが後半ではihrとichの関係に移っている。勿論前半のduが作者自身の ことであり,前半で自分を客観化してduと言っている間はその相手はsieでよ かったが,duをichと明確化するにつれてその相手もihrと呼ぶ必要が出て来た

わけである。

この詩は1827年の決定版のときに追加されたものであるが,この時の編集協 力者ゲットリング(Karl Wilhelm G6ttling,1793−1869)の申し出に従って 10行目のihmを現在のmirに変えた。1人称,2人称,3人称の三つの人称代 名詞が出て来て紛らわしいという指摘であった。しかし,作者が自分のことを 一つの詩の中で1人称以外に2人称あるいは3人称で語るということはハーフィ ズの場合にもみられ,しかもハマー=プルクシュタルも序文の中でことわって いるように(13)それをそのまま翻訳していて,ゲーテがそれに倣ったとも考えら

れる。

また,ゲットリングは1827年に出来上った決定版(Taschenausgabe)を見 て更に15行目の》Und mich lehrt der BuBe Frommen<の部分を》Lehret mich der BuBe Frommen<とすべきことを進言する。ゲーテはそれを受け入

れて1828年に出版された決定版(Oktavausgabe)でそのように訂正している。

しかし,ヴァイマル版,コッタの記念版ではそれに従っているが,マイアーの

(8)

Kritische Ausgabeを含めて最近の版では1827年版の形で編集されている。

この詩はゲーテに向けられた周囲の人々の無責任な冷やかな発言に対する反 撲を示したものである。詩の前半で詩人は自分をduとして登場させてsieと対 峙する。詩人からみると周囲の人々(sie)は真実を認めるだけの心の広さを 持たず,ただ外見だけにとらわれ,詩人の間違いについて仰々しく騒ぎ立てる。

もし彼らがそのように否定的に酷評するかわりに詩人の中にある良い面を激励 してくれ,もっとよい道を示してくれたならばというわけである。

デュンッァー(Heinrich Dhntzer,1813−1901)はこの詩をゲーテの『ヴィル ヘルム・マ・イスターの遍歴時代』のパロディーを書いたプストクーヘン(Jo一 hann Friedrich Wilhelm Pustkuchen,1793−1834)に当て付けたものとみて いる。「 4げストクーヘンはゲーテが上記の作品を完成させる前に彼の「ヴィル ヘルム・マイスターの遍歴時代』を発刊してしまうのであるが,この作品の中 で主人公のヴィルヘルム・マイスターは己に帰り,自分の罪を認めMeisterを 願い下げにしてSchUlerとなり,罪のつぐないをすることになっている。

上の詩と同じくガザルの詩形を取っているのが22番目の詩であるが,これに は「最高の恵み」 (Hδchste Gunst)という題が付されている。この詩は一つ 前の「シャー・シュジャーと彼と同じような方々に」(An Schach Sedschan

und seines Gleichen)と題する詩と共に,ゲーテが仕えた主君を称える詩である。

Ungezahmt, so wie ich war,

Hab ich einen Herrn gefunden,

Und gez且hmt nach manchem Jahr

Eine Herrin auch gefunden.

Da sie PrUfung nicht gespart,

Haben sie mich treu gefunden,

Upd mit Sorgfalt mich bewahrt

Als den Schatz, den sie gefunden.

Niemand diente zweien Herrn,

Der dabei sein GIUck gefunden;

Herr und Herrin sehn es gern,

DaB sie beide mich gefunden,

Und mir leuchtet GlUck und Stθrn,

(9)

Da ich beide sie gefunden.

(無骨ものであったわたしだが 一人の主君を見いだした 年経て無骨さもとれて 大公妃をも見いだした

お二人はためらうことなく試練を課され わたしが忠実であることを認め

お二人が見いだされた宝として 心をくばってわたしを守って下さった 二人の主君に仕えて

幸運を見いだしたものはなかった 大公も奥方も共に

わたしを見いだしたことを喜んでおられる そしてわたしには幸運の星が輝く

わたしはお二人を見いだしたので)( 5)

ゲーテは1775年ll月7日早朝5時にヴァイマルに到着してから生涯そこに留っ て大公カール・アウグストに仕えることになる。Sturm und Drangの旗手で あった25才のゲーテは未だ「無骨もの」であった,大公妃は初めゲーテに好意 を示さなかったという。夫君の野性的所行が8歳年上のゲーテの誘いによるも のと受けとめていたからであった。しかしそのゲーテもやがて宮廷生活の中に 融け込み洗練されてゆき,大公妃の好意も受けるに至る。この詩は初め>Herr und Herrin<と名付けらけられていた。二人に対するゲーテの関わりとそこ から生じた幸福感と感謝の念が偶数行の末尾に現れるgefundenという語の繰 返しによって導かれて行く。

「注と論考」の「将来のディーヴァーン」中の次のような表現は,この詩が 生じる背景を説明しているとみることができよう。

「詩人は自分より身分の高い人々に対して不快感を与えるような思いあがり に陥るというようなことはあり得なかった。幸せな境遇だったので彼は専制政 治と争うようなことは全然なかった。彼が自分の主君である命令者に捧げる賛

美には,実際世の人々が唱和してくれている。」(ユ6)

更に,このことと関連づけて「不平不満の巻」の第4番目の詩の冒頭の部分

(10)

もあげることができる。

諸君にも分っていなければならぬことだが 卓絶した力はこの世から追放することはできない

わたしは洞察力の鋭い人や専制君主と語り合うことを好む㈲

ここでゲーテは「洞察力の鋭い人」,「専制君主」によってナポレオンのこと を意識していたとみられている。ともあれゲーテは専制体制の維持者カール・

アウグストとは極めて親密な関係を保った。それに反して,彼の周辺との関係 は彼にとって必ずしも好ましいというものばかりではなかったようである。

「詩人は上からは窮屈な思いをさせられることはなかった。しかし,彼は下

からや横あいからは悩まされた。」(18)

「将来のディーヴァーン」の中ではそうも語っているが,そのような中での 考察の記録が「西東詩集』4番目の巻「考察の巻」であると言える。

「考察の巻」の第1番目の詩を構成している二つの節のうちの前の方の節は 次のようになっている。

H6re den Rat, den die Leier tδnt;

Doch er nutzet nur, wenn du fahig bist.

Das g1廿cklichste Wort, es wird verh6hnt,

Wenn der H6rer ein Schiefohr ist.

(堅琴のかなでる忠告をきけ

でもそれが役立つのはきみに能力があるときだけ どんなに適切なことばでも聞き手の耳がゆがんでいれば

笑いものにされてしまう)( 9)

この4行のうち前の2行はハマー=プルクシュタル訳の「ハーフィズ詩集』の 中からそのままとったものである。ここでゲーテはハーフィズの詩句2行に続 ける形で彼の詩を作りあげている。ゲーテが「ハーフィズの巻」の中で願って いたこと(「あなたの韻のふみかたにわたしは従いたいと思う/[ガザルでの]

語の繰り返しもまたわたしには気に入るだろう」⑳)を実際に行ったわけである。

(11)

このようにハーフィズの詩行を取りあげてそれに「まねび」 (Nachbildung)

して作りあげられた詩が『西東詩集』の中には幾つも見当る。

ところで,忠告を響かせている「堅琴(Leiθr)」は詩人の換喩として用い られている。またペルシアにおいて堅琴は「神の秘儀の保持者,果しない秘密 をわきまえているガブリエル」,あるいは,「学識の人,清潔の人,名声の高 い秘伝の保持者」を表わしている⑳ともされているが,いずれにしても,この 詩での堅琴はゲーテその人をも表わしている。こちらがどのように心込もった 忠告をしてあげても,それが忠告として受け入れられるか否かは受け止める側 の気持次第であることは世の常である。われわれはここで「旧約聖書』の「雅 歌」の中で異教徒について語られている次のようなことばを思い起すことがで

きる。

「彼らは口を持つが語らず,目を持つが見ず,耳を持つが聞かず,手を持つ がつかまず,足を持つが歩かず,彼らは心から語らず(sie reden nicht durch

ihren Hals.)」(認)

「雅歌」の中で「耳を持つが聞かず」 (sie haben Ohren,und hδren nicht.)

と言っていることと同じことをこの詩の中では,「聞き手の耳がゆがんでいれ ば(字義的には「聞き手が斜めの耳であれば(Schiefohr)」)となっている。

Schiefohrはゲーテの造語である。多くの場合,聞き手の耳がゆがんでいるこ とを予想しながら,しかしそれでも詩人は黙していることはできず,忠告する。

そしてその忠告は次のようなものである。

きみがわれらの数に入りたいと思うなら

きみは最も美しいもの,最も良いものを望まなければならぬ(器)

詩人はここで人々に高貴で(edel)あることを求めている,「高貴であるこ とが人間をわれわれが知るすべてのものから区別する」四からである。

「考察の巻」の2番目の詩は「五つのもの」 (FUnf Dinge)と題されてい て,人が戒めるべき五つのことをあげる。戒めるべきとしてあげたものは,

「高慢さ」 (die stolze Burst),「いやしいことに馴染むこと」(der Niedrig一

keit Genossen),「悪人であること」 (ein B6sewicht),「ねたみ深い人」

(der Neidische),「嘘つき」 (der L賃gner)の五つである。しかし,これは ペルシアの神秘主義詩人アッタール(Farid al−Din Attar,ll42頃一1221)

(12)

の「忠告の書』のシルヴェストル・ド・サシ(Silvestre de Sacy,1758−1838)

によるフランス語の部分訳㈲の中にあげられているものに従ったものである。

さらに,「考察の巻」の3番目の詩「もう五つのもの1 (恥nf andere)は 上の詩に対応する形で作られたもので,上の詩が制作されたのが1814年12月15

日イエナにおいてであったが,同所でその翌日に出来上った。「ヴィースバー デン目次表」で「実りのある五つ」 (FUnf fruchtbar)となっていたが,必ず しも実りのあるもの五つをあげたわけではないので,改正された題の方が適当

と言えよう。

時を短くしてくれるものは何 活動

時を耐え難く長くするものは何 無為

負担を感じさせるものは何 辛抱強く待ちわびること 利益をもたらすものは何 長く思案しないこと 名誉に導くものは何 身を守ること㈱

前の詩ではアッタールのあげたものに従って五つのものをあげたのに対して,

この詩では運命に打ち勝ってゆくべき積極的な徳目を並べていて,いかにもヨー ロッパ的感覚が強く感じられる。

「考察の巻」の4番目と5番目の詩は共に1814年7月26日ライン・マイン地 方へ向う旅のアイゼナハからフルダへの途上で出来上ったものであるが,1817 年グービッッ(Friedrich Wilhelm Gubitz,1786−1870)の編集する雑誌「慈 悲の贈物』 (Gaben der Milde)に「施しの喜び」 (Wonne des Gebens)と いう題でまとめられて発表された。

ウインクする小女の視線は愛らしい 酒飲みの飲む前の視線は愛らしい 命令することのできた主君の会釈も

(13)

きみを照らしてくれる秋の太陽も

だがこれらすべてより愛らしいものとして肝に銘じよ わずかな施しを求める手が可愛らしく差出され きみが渡すものを愛らしく感謝して受けるときの様を 何という視線,何という会釈,何という物言いたげな面差し

それをよく見よ,そして常に施しをせよ囲

ゲーテは旅の途上,特に散策の時など小銭を用意していてよく施しをしたとも 言われている。施しを受けて口では何か言おうとしてもことばが出て来ないが,

喜びと感謝の気持を伝えている視線の純粋であることを詩人の目はとらえてい る。4番目のそのような体験を感じさせる詩に対して5番目の方はオリエント のアッタールの『忠告の書」に書かれてある施しの勧めに従ったものである。

2番目の詩と同じくシルヴェストル・ド・サシが『オリエントの宝庫』にフラ ンス語訳したものに依ったもの。後半の4行は次のようになっている。

すすんで1ペニヒを施せ 黄金の遺産を積むな 喜び急いで

思い出よりも現在を選べ㈱

6番目の詩も旅の途上の作品で1815年5月27日フランクフルトで出来上った。

鍛冶屋,野中の小屋,道で出会う美少年,野ブドウといった,旅人が足を進め る過程で目に入った光景をよりどころにして,「ヴィースバーデン目次表」の 題「不確かなこと」 (Ungewisses)が示すように,人の世の不確かさを歌っ たものと受け止められる。

鍛冶屋の脇を馬で通り過ぎるとき

彼がいつきみの馬の蹄鉄を打つかをきみは知らない 広々とした野原に立つ一軒屋をみて

そこにきみの恋人が匿われることになるかもしれないことをきみは知ら

ない

美しく勇敢なわか者に出逢えば

(14)

やがて彼がきみをあるいはきみが彼を征服することになるかも知れない しかしきみはブドウの樹について確実にこう語ることができる

それはきみのために良い実をつけるだろうと このようにきみはこの世にゆだねられている

その他のことは繰返すには及ばない〔29〕

「考察の巻」の7番目の詩はユ827年の決定版全集作成の際に追加されたもの である。この詩は解放戦争のときのプロイセンの最高指揮官グナイゼナウ将軍

(August Wilhelm Anton Graf Neithart von Gneisenau,1760−1831)に贈 られたもので,1819年7月ll日に制作された。その頃,ゲーテの息子夫妻はべ ルリーンを訪れていたが,解放戦争での勝利で名をあげた将軍にオッティーリ エがゲーテのために何か書いて欲しいとねだった。その要請に応じて将軍がゲー テに手紙を書いた。将軍は以前若い頃,ゲーテを間近かに見る機会もあったが,

その時はゲーテに面と向う勇気がなかった。しかし,手紙では,直接話しかけ るのとは違って顔を赤らめ,どもる必要もないので,30年程前に口で話しかけ ることができなかったことを今手紙によって始めたいといった旨のことを書き 送って来,最後に「精神において常にわたしは閣下のもと近くにあります,そ してわたしの願いは常に閣下と共にあります」⑳ということばで手紙を閉じた。

個人的にゲーテはグナイゼナウを知らなかったが,グナイゼナウの手紙をゲー テは非常に喜んだ。それが詩の1,2行目,11行目の次のような詩句に示され

ている。

知らない人の挨拶は本当に大切にせよ 旧友の挨拶と同じくらい大切なものと思え

● ■ o

かつての信頼が新しい結びつきを生み出す

この詩はごくありふれた道義について触れていて,それは最後の2行で示さ

れている。

最初の挨拶は幾千もの挨拶に値する

だから挨拶をくれる人にはどのような人にでもあたたかく応えよ(31)

(15)

9番目の詩

市場はきみの買い気をそそる しかし知識は人を高慢にする 静かに囲りに視線を向けるものは 愛がいかに教化するかを知る

きみが日夜励んで

多くを聞き多くを知ろうとするならば 別の戸口で耳を傾け

どのように知ることが適当であるのか聞くがよい 正しいことを内に取り入れたいなら

神のもとで正しいものであるようにせよ 清らかな愛に燃えているものは

神によって認められる(認)

1827年,ゲーテ全集決定版において追補されたもの。多くの知識を持つことが 重要なのではなく,清らかな愛の絆によって一つに束ねられていてこそ知識は 真実に導くのであって,そのような知識が必要なのだと言おうとする。人が耳

を傾ける「別の戸口」とは神であり,それは人の徳を高める愛である。

この詩については,「コリント人への第1の手紙」の第8章の冒頭の次の部 分がよりどころになっていることが指摘されている。

「知識は人をうぬぼれにし,愛は人の徳を高める。もし人が自分が何かを知っ ていると思うなら,その人はいかに知るべきかについて何も知っていないのだ。

しかし,人が神を愛するなら,その人は神によって知られているのだ。」⑬ また,この詩との関連で「温和なクセーニエン』の中の次のような詩もあげ ることができる。

どのようなことが数千もの書物の中で真理として あるいは寓話としてきみの前に現れても

愛がそれを束ねていなければ すべてバベルの塔にすぎない岡

(16)

10番目の詩

わたしはこんなに正直だったのに うまくはいかなかった

それも何年にもわたって 苦労をしつくした

それだけのことだった これはどうしたことなのだ 今度は悪者になってやれと思い そう努めた

ところがどうにも性に合わなかった 心乱れる思いであった

そこで考えた,正直であることが やはり最善だと

乏しいものではあったが ゆるがぬものだ㈹

1827年の決定版の中で追加されたもので,「正直は最上の策」 (Ehrlich wahrt am langsten.)といった類の諺を敷街したもの。

ll番目の詩も1827年の決定版の際に追加されたものである。

おまえがどんな門を通って 神の町へ来たかは問うな

ともかくおまえが居付いた 静かな場所に留っていよ

それから囲りをめぐらし賢者を そして支配する権力者を求めよ 賢者は教示してくれるであろう 権力者は行動力を鍛えてくれる

(17)

おまえが有益にかつ冷静に 国に誠実であり続ければ

知れ!誰もおまえを憎まないことを 多くの人々がおまえを愛するだろうことを

そして君主は忠誠を認め 忠誠は行為を生かし続ける

こうしてはじめて新しいものも

古いものに続いて確かなものとされる(駈)

この詩はもともとヴァイマルの二人の官吏の勤続50年を祝うため,次にあげ る三つの詩節を加えた形で完成された。

そしておまえは完成させよ,おまえの経歴の 清らかで,たくましくも和やかな輪を おまえもまた,おまえなりに若ものたちの 模範となることだろう

今日祝賀をうけ,あまたの人の中から 選ばれてあなたがたは

あなたがた二人にとって常に神聖であった あの義務を改めて感じておられる

喜ばしいお二人に

この遅ればせの慶びの歌が快く受け入れられんことを 古いドイツのラインから

あなたがたのよき日を祝うのだから(37>

この祝賀の詩を贈られたのは,ヴァイマルの枢密顧問官キルムス(Franz Kirms,1750−1826)と侍従シャルト(Ernst Karl Constantin Schardt,1744一 1833)の二人であった。1815年5月30日に行われたこの祝典のための詩作だっ たわけだが,その日までには完成せず6月ll日になって息子アウグストを通し

(18)

て二人に贈られた。ゲーテの日記では1815年5月19日のところで「5月30日の 記念祝典に関して」(錦)とあるので,この日に上の詩の草稿が作られたものと思 われる。そしてこの日の日記の中では『カーブースの書』についても触れてお

り,更に,「カーブースの書』については3月18日以降この日まで触れられて いないことから,K.モムゼンは,この詩の制作の手がかりを得るためにゲー テが『カーブースの書』を取り上げたとしている。(39)この詩が出来上らぬまま ゲーテは5月24日に郷里フランクフルトに向ってヴァイマルを出立し,旅の途 上から息子に託して上記の二人に献呈している。

詩の第1節目は「カーブースの書』の第9章「老齢と青春について」の中で の記述との関連が窺える。つまり,『カーブースの書』の著者カイ・カーウー ス(Kay Kaus,1021/22−1098/99)は,預言者マホメットがメディナにお いて彼の計画の進展をみてからは,生地メッカを征服した後でもメディナから 離れなかったことに触れた後で,次のように記している。

「そのようなわけで,もしおまえも有利な居場所を見付けたら,そこから離 れようなどとはせずに,ずっとそこに留っていよ。」 (Wenn also auch du einen vortheilhaften Ort gefunden:so such nicht, dich wieder davon

zu entfernen sondern verblieb daselbst bestandig.)(4°)

この第1節目の部分は祝典を受ける二人には直接関りのあるものとは思えな い。だからこそゲーテは,この詩を祝典に間に合わない形になっても,祝典に 相応しい形の詩句を追加できる6月11日まで待っていたものと思われる。

更に,この詩の第3節,第4節と「カーブースの書』の37章と40章との関係

についてはC.ヴルム(4 )以来指摘されているところである。

「考察の巻」の12番目の詩

わたしはどこから来たのか,それはなお疑問だ

ここまでのわたしの道のり,それはわたしにも殆ど分らない 今日,今ここでこの晴れわたった日に

友だちの出会いのように悲しみと喜びとが出会う

この両方が一つになるとき,何という甘い幸せがあることか 離ればなれになって誰が笑うだろうか誰が泣くだろうか(劒

この詩も1827年の決定版の際に加えられたもので,1818年9月13日にフラン

(19)

ッェンスバートで制作された。この年の7月25日にカールスバートへの途中,

この地でゲーテはオーストリアの皇后マリーア・ルドヴィーカの侍女を勤めた オドネル伯爵夫人(Josephine O donell von Tyrconell,1779−1833)と会っ た。二人の問では当然2年前に29歳で亡くなった皇后への追憶が話題になった。

「オーストリアの皇后の死は,その時のショックが決してわたしから消える ことはない程の状態にわたしを陥しいれた。」(43>そう『年代記』 (Tag−und Jahresheft)の中で記しており,また,ラインハルト (Karl Friedrich von Reinhard,1761−1837)には次のようにも語っている。「故人となられた皇后

の死からの痛手からまだ回復しておりません。まるで,夜にまた見ることが楽 しい習慣になっていた中心的な星を空から見失ったような感じです。」叫カー ルスバートで過す夏の一時にマリーア・ルドヴィーカに会うことはゲーテの楽 しみの一つであった。

1818年9月に,カールスバートからの帰途再びフランツェンスバートでオド ネル夫人と皇后の思い出に耽ることを期待したが,夫人とは会えなかった。

上の詩はこのような状況のもとで制作されたものである。最初の2行》Wo一

her ich kam?Es ist noch eine Frage,/Mein Weg hierher, der ist mir

kaum bewuBt;<はハーフィズの》Weshalb ich kamm, und wo ich gewesen,

ist immer noch dunkel,<(何のためにわたしが来,どこにわたしがいたかは 依然として不明)(4 )や「ソロモンの箴言」の20章24節の》Jedermanns Gange kommen vom Herrn. Welcher Mensch versteht seinen Weg?<(人の歩み は主によるもの。どのような人がその道を理解しようか。)圃と表現上の類似

がみられる。

13番目の詩も1827年に追加された。

人はつぎつぎにこの世を去って行く なかには人に先立つものもあろう だから勢よく勇ましく大胆に 人生の道を歩もうではないか 道端に目をやり,沢山の花を摘もうと 立止ることもある

しかしきみがごまかしをやったときほど

(20)

足止めを食ったことがおぞましく思われるときはない(47)

この詩は「同じもうけ」 (Gleichgewinn)と題されて現在「警句的』 (Epi一 grarnmatisch)に収められている形で1821年に雑誌》{jber Kunst und Alter一 thum<に発表された詩を土台にしている。『警句的』では最初の4行は殆どそ のまま,5行以下を8行に仕上げている。

1行目は『警句的』での,>Geht einer nach dem andern hin<を>Es

geht eins nach dem andern hin,<に,3行目の「忠実に」(treu)を「勢よく」

(rasch)に,また,4行目の「人生の道」を意味するLebenspfadeをLebenswege

に改めている。

『警句的』の方の5行目以下は次のようになっている。

若い兵士が最初の戦で 倒れることがあろう 他の者はずっと老年まで

露営で夜を過ごさねばならないだろう しかし彼と主君の名誉を

高めることができれば 彼の最後に手にするものは 間違いなく名誉の床團

なおこの詩の冒頭の1行は,1775年クネーベル(KarユLudwig von Knebe1,

1744−1834)に宛てた手紙の中で用いられている。〔49)また,ペルシアの神秘主 義詩人ルーミーの次のことばとの類似性も感じさせる。

「今日はこの人が,そして明日はあの人が亡くなる,チャンスをすすんで利

用せよ,今がこの世でうまく振舞うべき瞬間なのだから。」〔5°)

15番目の詩(51)も1827年の決定版のときに追加された。

人生だなんてくだらぬざれごとだ

こちらではあれが足りない,あちらではそれが足りないと 誰も少しでは不満で多過ぎるくらい求める

(21)

それに能力と運がからんでくる しかも不幸だって落ちてくる どんなに嫌でも背負わねばならぬ 結局相続人が何のこだわりもなく

能なし・意欲なし氏の肩書をあの世まで運んで行くことになる(52)

人には誰にでも欠けた部分があり,それに意欲とか能力とか偶然がからんで くる。一般の人々の人生に対する不満をユーモラスな調子で示したものとみる ことができる。次の詩との関連でここに入れられたものと考えられる。

16番目の詩

人生は一種のガチョウ双六 前に進めば進むほど 誰も止りたくない

目標に着いてしまう

ガチョウは怠かと人々は言う

おお,そんなことを信じないで欲しい そのうち1羽が振りむいて

ひき返すように指示することもあるのだから

ところがこの世はまったく違う 誰もが前へとひしめきあう 踵く者や転ぶ者があっても

誰も振りかえりはしない(昭)

1814年12月15日に制作され,初版のときから入っていた。人生をガチョウ双 六に喩えたもの。Gansespielを「ガチヨウ双六」としたが,これは盤の上を サイコロを振って出た数に従ってガチョウの形をした駒を進めるゲームで,途 中にガチョウが後向きに画かれている目があって,ここに入ると後からくる駒 に助けられるか一定の目の数だけ後退しなければならない。特に58番目の目は

「誰も止りたくない目標」でここには大鎌を持った死神か死んだガチョウの絵

(22)

があって,ここに止るとゲームから退かなければならない。

なお,ゲーテが人生をガチョウ双六に喩えている表現は,例えば次の手紙に

もみられる。

少年時代の友人リーゼ(Johann Jakob Riese,1746−1827)の死について 触れて,マリアンネに宛てた手紙で。「わたしたちの親しいリーゼが亡くなっ たことでわたしは遥か昔を振り返らざるを得ませんでした。彼は,此度このガ チョウ双六から消えて行くまで,ずっとわたしの最良の友人でした。」 (1827 年1月3日付)働

友人で作曲家のツェルター(Karl Friedrich Zelter,1758−1832)に宛てて,

二人の生き方を比較した後で。 「最後まで活動的であり続けられますように,

われわれ二人に力と平静さとが与えられますように。そのためには,時折後を 振り返りながらこのガチョウ双六の中を悠然と前進することに致しましょう。」

(1830年12月14日付)( 5)

「考察の巻」の17番目の詩も1827年の決定版のときに追加された。

きみは言う「歳月は多くのものを奪い去った 官能の働きの真のよろこび

昨日のいとも快かった愛の戯れの思い出も 遠く広くの散策も

もはや何の役にも立たぬ

王から認められた名誉の飾り,かつては嬉しかったあの称賛すらも 自己の行為からすら快適な気分がもはや湧き出しては来ない おまえには大胆な勇気が欠けている

一体,特別などんなものが残っているというのだ」

わたしには充分残っている!イデーと愛が!     「

制作されたのは1818年2月ユ9日。引用符の中で語られるよる年波が多くのも のを奪い去ったという見方は「歳月」 (die Jahre)という詩でも取り上げら

れている。

歳月はこよなく愛すべき人々だ

(23)

彼らは昨日をもたらし,今日をもたらしてくれる それでわれわれ若者はまったく

いとも快適な安逸な生活を送る

やがて歳月は突然もうこれまでのように 快適ではなくしようと思う

もはや何一つ与えようとも貸そうともしなくなる 彼らは今日を奪い,明日を奪う㈲

上の「考察の巻」の詩の中で,きみが言う形で語られた9行までの引用符付 で語られたことに対して,最後の行で詩人は力強く言う>Mir bleibt genug!

Es bleibt Idee und Liebe!<と。ここにわれわれはゲーテの生に対する強靱 な意志を見ることができて,例えば『箴言と省察』の中の次の文は,上の詩の 理解に役立つ。

「思索する人々はすべて,カレンダーに目をやり,時計をのぞくとき,この 恩恵が誰に負っているのかを思い起すだろう。しかし,数学者たちに畏敬の念 をこめて時間と空間の中で望むがままにさせたなら,彼らは次のことを認める であろう,つまり,すべての人の内にありながら,時間と空間を超越していて,

それなしには彼ら自身行動することも影響を与えることもできない何かが,わ れわれには与えられているということを。そしてその何かというのは,イデー

と愛であることを。」(57)

老年は力の衰退ではなく力の変態であり,完成への高揚である。老年の愛は 若い時代のような己の欲求に基づくものではなく,より包括的な,すべてを包 み込む宇宙的な力である。そのようなことを感じさせる詩である。

「考察の巻」の第18番目の詩も1827年に追補されたものであるが,1819年ll 月16日完成した『西東詩集』をアイヒホルン(Johann Gottfried Eichhorn,1 752−1827)に贈呈した際に,その本に添えられたものである。〔詔〉

19番目の詩

気前の良い人はぺてんにかけられ しまり屋はしぼられ

理屈屋は迷わされ

もの分りのよい者は拡げ過ぎてとらえどころが無くなってしまう

(24)

厳格な者は避けられ お人よしはひっかかる この嘘いつわりにうち勝て

騙された者は騙すがよい(59)

1819年の初版のときから収められている。人の世の常にみられる欺瞳,そし てそれが人間の虚を突く。それを見つめる詩人の鋭い視線を感じさせる。

20番目の詩も1819年の初版のときから収められている。

命令することができる者は褒めるだろう

そしてまた叱りもするだろう        だから忠実な下僕よ

いずれももっともなことと思わねばならぬ

なぜなら彼はつまらぬことを褒めることもあれば 褒むべきときに叱りもするから

しかしきみがいつも機嫌よくしていれば 最後にはきみの確かさを認めるだろう

そういうことなので,あなた方高位の方々よ

あなた方もまた神に対して下僕のようでなければならぬ なるがままに行動し,耐え

いつも機嫌良くしていなければならぬ㈲

制作日は定かでないが,「ヴィースバーデン目次表」には「主君の権利と従 者の義務」 (Herrenrecht und Dienstpflicht)となっている。賢明で良心的 な君主による公明正大な支配は可能であり,これが維持されるかどうかがその 時代が恵まれたものになるか不幸なものになるかを左右するとゲーテは考えた。

しかし,賢明な王の場合にあっても公正を欠くこともあって,不適切な褒め方 をする場合も,早まった叱責をする場合もあり,それを戒めなければならない のは,下僕が君主に仕える場合の心掛けと変るところがない。この詩のよりど ころとなったものとしてオレアーリウス(Adam Olearius,1603−71)訳のサ

(25)

アディーの「バラ園』の次の詩句があげられる。

もしもきみが主君に対するように神を畏れ敬うなら

きみは天使そのものだと言わない者があるだろうか(6°〉

「考察の巻」の最後,25番目の詩(6 〉の制作日は不明だが,1819年の初版の中 に収められた。 「ズライカが語る」 (Suleika spricht)という題が付され,ズ ライカが語る形になっている。

鏡はわたしにわたしが美しいと言う

あなた方は老いて行くのもわたしの定めとおっしゃる 神の前ではすべてが永遠でなければなりません

わたしの中に神を愛しなさい,この瞬間に(62)

移ろい行くものの中に永遠なるものが表れる,そしてそれを美なるものが示 してくれるとゲーテはみた。そして,そのことを「考察の巻」の最後のところ でズライカに語らせているが,このズライカがやがて『西東詩集」の中の「ズ ライカの巻」,「天国の巻」を中心としてハーテムと相聞を展開させていくこと

になる。

以上ここでは「考察の巻」に収められた25編の詩について見てきた。多くは 道徳あるいは人生知といったことを内容としたものである。

「考察の巻」は,1816年の「教養階級のための朝刊紙』 (Morgenblatt fUr die Gebildeten)に掲載された発刊予告の中では「友人の巻」に次いで5番 目に紹介されたが,実際に発刊された「西東詩集」の中では「友人の巻」は無 くなっていて,「歌びとの巻」,「ハーフィズの巻」,「愛の巻」に次いで4 番目にあげられている。

「教養階級のための朝刊紙』の中でのこの巻の説明は,「オリエントの慣習 と表現法に従った実践的道徳と人生知にささげられている」(63>となっている。

また,「注と論考」の「将来のディーヴァーン」の中では次のように記され

ている。

「「考察の巻』はオリエントに住む者にとっては日ごとに膨れあがる。とい

(26)

うのは,オリエントではすべてが考察であって,しかもそれが感覚的な領域と 超感覚的な領域との間を波打つように行き来し,どちらか一方に決ることがな いのだ。人々に求められるこの考察はまったく独特なものであって,それを最 も強く求めるのは賢明さであるが,考察はそればかりに奉仕するのではない。

地上の生活の奇妙きわまる諸問題がわれわれの真正面に容赦なく立ちはだかり,

偶然の前に,つまり天意とその極め難い決定の前にひざまずき,絶対的帰依を 政治的,道徳的,宗教的最高法則と表明するようわれわれに強いるところまで 考察は導かれていくのだ。」團

このようにゲーテはオリエントの人々の生活の中で考察ということが非常に 大きな要素になっているとみていた。

「西東詩集』制作の時期にゲーテは「格言的』 (Sprichwortlich), 『警句 的』 (Epigrammatisch),『神と心情と世界』 (Gott,GemUt und Welt)に 収められた格言的な詩を多く制作しているが,このことからも晩年の彼がいか に人生知や道徳といったことに関心を示していたかが分る。そしてそれがオリ エントへの関心の中で大きく膨れあがっていたものと考えられる。

(1) Goethes Werke,Hamburger Ausgabe(以下H.A.とする),Bd.2,S.13.

(2) 「西東詩集のよりよき理解のための注と論考」と題した解説を付けたことに 関連して,その序のところでゲーテは,以前作品を発表する際に作品の意図をほん のすこしでもほのめかしたりしないように,序文を付けなかったが,それが即座に 効果をあげることもあったりそうでない場合もあったことを振り返りながら,「し かし,今回は,この出来上った小冊子の最初の良い印象が何ものにも妨げられない ことをわたしは望む。それで,わたしは解説し,説明し,実証することに決めた,

勿論,オリエントのことについて殆どあるいは全く知らない読者がそこから直接の 理解を得られることを意図してのことである。」 (H.A.Bd.2,S.126)と語って

いる。

(3) H.A.Bd.2,S.195.

(4) ハンブルク版では23番目の詩「フィルドウスィーが語る」を4行からなる一 つの詩とし,「富とは一体何,人を暖めてくれる太陽」で始まる4行からなる1節

を一つの詩としている。しかし,マイアー編やヴァイマル版ではこの二つを一つの 詩としている。

(5) Goethe,West−6stlicher Divan,Faksimile der Erstausgabe von l819,

S.77.

(27)

(6) Goethes Werke,Weimarer Ausgabe(以下W. A.とする),1.Abt.,Bd.

6,S,393.

(7)  Fundgruben des Orients,Bd.2, S.64.

(8)  H.A.Bd.2, S.94.

(9) Goethe,West一δstlicher Divan,Vorwort und Erlauterungen von Max Rychner,Manesse Bibliothek der Weltliteratur, S.460.

(10) Goethe,Samtliche Werke nach Epochen seines Schaffens,M廿nchner Ausgabe(以下M. A.とする),Bd.19, S.664f.

(11) Mohammed Schemsed−din Hafis, Der Diwan,Aus dem Persischen

zum erstenmal ganz廿bersetzt von Joseph von Harnm就一Purgstall.(以

下H.H.とする),Bd.1, S.196.

(12) H.A. Bd.2, S.36.

(13)  H.H. Bd.1,S,V11.

(14) Deutsche National−Litteratur(K廿rschner), Bd.85, S.56.

(15) H.A. Bd.2, S.41.

(16) H.A. Bd.2, S.199.

(17) H.A. Bd.2, S.44.

(18) H.A. Bd.2, S.200。

(19) H.A, Bd.2, S.34.

(20) H.A. Bd.2, S.23.

(21) The Divan,translated for the first time out of the Persian into Eng一

!ish Prose, with critical and explanatory remarks, with an introductory

preface,with a note on sufiism,and with a life of the author, by H.Wi1一 berforce C!arke,P.274.

      1      0 9

i22) Das Alte Testament nach der deutschen Ubersetzung D. Martin

Luthers, S.605.

(23) H.A. Bd.2, S.34.

(24) H.A. Bd.1,S.147。

(25)  Fundgruben des Orients, Bd,2, S.10.

(26) H.A. Bd.2, S.34f,

(27) H.A. Bd.2, S.35.

(28) ibid.

(29) ibid.

(30) Goethe,West一δstlicher Divan,Vorwort und Erlauterungen von M.

Rychner, S.453

(31) H.A. Bd.2, S.36.

(32) H.A. Bd.2, S.36f.

(28)

(33)D・・N・u・Test・m・nt na・h der d・utsch・n Uberset・ung D.M。。ti。

Luthers, S.197.

(34) W.A.1.Abt.,Bd.3, S.279.

(35) H,A. Bd.2, S.37.

(36) H.A. Bd.2, S.37f.

(37) W.A.1.Abt.,Bd.6, S.389.

(38) W.A.皿.Abt.,Bd.5, S.161.

(39) K.Mommsen,Goethe und Diez, S.120ff.

(40) Buch des Kabus, S.425.

(41) Commentar zu Gδthe swest一δstlichem Divan bestehend in Materia一 lien und Originalien zurn Verstandnisse desselben herausgegeben vonCh.

Wurm,1834, S.115.

(42) H.A. Bd.2, S.38.

(43) W.A.1.Abt。,Bd.36, S. ll4.

(44) W.A. IV.Abt.,Bd.34, S.150.

(45) H.H. Bd.2, S.180.

(46) Das Alte Testament, S.636.

(47) H.A. Bd.2, S.38.

(48) W.A. LAbt., Bd.3, S.161.

(49) W.A. IV.Abt.,Bd.4, S.519,

(50)  Fundgruben des Orients,Bd.5, S.216.

(51) 1815年5月30日以前に作られた14番目の詩は,拙著『ゲーテとコーラン』で 触れたので,ここでは省略する。

(52) H.A. Bd.2, S.38f.

(53) H.A. Bd.2, S.39.

(54) Briefwechsel,Goethe−Willemer, S,192f.

(55) Goethe−Zelter Briefwechsel, S.353。

(56) H.A. Bd。2, S.309.

(57) H.A. Bd.12, S.456.

(58) 拙著『ゲーテとペルシアの詩人たち』16ページ以下。

(59) H.A. Bd.2, S.40.

(60) Schich Saadi, Persianischer Rosenthal, durch A. Olearius,1654, S.33.

(61) 「考察の巻」21番目の詩と24番の詩については省略した,拙著『ゲーテとぺ ルシアの詩人たち』49ページ以下と224ページ以下で取りあげた。

(62) H.A. Bd.2, S.41.

(63) H.A. Bd.2, S.269.

(64) H.A. Bd.2, S.197.

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