トル・ロゾヴィウク『ボヘミアにおけるドイツ語民 俗学』を中心に─
タイトル(英) History of research about Czech modern history and folklore/ethnology Petr Lozoviuk
Interethnik im Wissenschaftsprozess (in Japanese)
著者 森下, 嘉之
雑誌名 茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーシ
ョン学論集
号 5
ページ 143‑165
発行年 2019‑09
URL http://hdl.handle.net/10109/14325
『人文コミュニケーション学論集』5, pp. 143-165. © 2019茨城大学人文社会科学部(人文社会科学部紀要)
─ペトル・ロゾヴィウク『ボヘミアにおけるドイツ語民俗学』を中心に─
森下 嘉之
要約
本稿は、チェコの民俗学者ペトル・ロゾヴィウクの研究を整理・検討することを通して、
同国の現代史において「民俗学
/
民族学」が果たした役割を考察するとともに、「国民史(ナ ショナル・ヒストリー)」の形成過程をアカデミズム/
ディシプリンの側面から問い直すこと を目的とする。具体的には、19
世紀末のハプスブルク帝国統治期から、1918
年のチェコス ロヴァキア独立時において、同国の主要民族(ネイション)であった「チェコ人」「ドイツ 人」が、自らの「民俗学/
民族学」をチェコ国内のアカデミズム制度の中にどのように構築・設立したのか、その過程を整理する。ディシプリン・研究分野の成立過程、「言語島」「イン ターエスニック」などの当時の「民俗学
/
民族学」理論のチェコにおける導入とその問題点を、チェコ現代史の文脈の中で考察することで、民俗学・民族学と歴史研究の接点を探る。
はじめに
本稿は、現代チェコの民俗学者ペトル・ロゾヴィウク(
Petr Lozoviuk
)の研究を整理・検 討することを通して、同国の現代史において「民俗学/
民族学」が果たした役割を考察する とともに、「国民史(ナショナル・ヒストリー)」の形成過程をアカデミズム/
ディシプリン の側面から問い直すことを目的とする。近年、チェコ近現代史とりわけハプスブルク帝国崩壊からチェコスロヴァキア独立(
1918
) に至る歴史研究は目覚ましい進展を見せている。チェコ社会1においては、19
世紀末から20
世紀前半にかけて、地域住民が「チェコ・ネイション」「ドイツ・ネイション」さらには「ユ ダヤ」へと分化していく「国民史」の構築過程に焦点が当てられている。研究手法や対象も 拡大し、メディア、言語教育、福祉、文化史、結社など様々な角度から地域社会の変容過程 が分析されている2。他方で、チェコ社会においては、ハプスブルク帝国末期の19
世紀末か ら20
世紀初頭にかけて本格的に「民俗学/
民族学」のディシプリンが研究機関の中に制度化 されていくが、この流れは1918
年の独立を経て、チェコ社会諸集団の「国民史」構築に少 なからぬ役割を果たしたと考えられる。周知のように、近代歴史学と密接に結びついた「フォルクストゥーム=民衆の伝承文化の
学」として「民俗学(フォルクスクンデ
Volkskunde
)」を位置づけるという発想は、19
世紀 ドイツのグリムやリールの影響によるところが大きい3。ドイツ「民俗学」のディシプリンは、ハプスブルク帝国末期(
19
世紀末)のチェコ社会のドイツ語・チェコ語両アカデミズムに も受容されるが、ドイツ本国とは異なる形で独自の発展を遂げることになる。19
世紀末の チェコ社会においては、国内に点在するドイツ語話者を「ズデーテン・ドイツ人」とカテゴ ライズする政治運動が現れたが、この傾向はチェコスロヴァキア建国以降、彼ら・彼女らが「マイノリティ」の立場に置かれたことで一層顕著になった4。他方、同地のチェコ語話者に おいては、ドイツ民俗学を方法的基盤に、ドイツ語話者との差異化を目指すチェコ語「民俗 学(ナーロドピス
národopis
)」がハプスブルク帝国末期に提唱された。同地における両言語 の「民俗学」の制度化は、新国家チェコスロヴァキアにおける「ズデーテン・ドイツ人」政 治運動に影響を及ぼすのみならず、チェコ語「民俗学」そのものも後述するように「民族学(エスノグラフィー
ethnografie
)」として制度化されることになった。第二次世界大戦とその 後のドイツ系住民の「追放」、1948
年の社会主義体制の成立によって、19
世紀以来のチェコ におけるドイツ語「民俗学」の人脈とアカデミズム機関はほぼ一掃され、チェコ系「民族学」が共産党政権下の科学アカデミーで制度化された5。チェコのドイツ系社会を対象とした「民 俗学」は、追放先のドイツ、とりわけミュンヘンの「ズデーテン・ドイツ人研究所」におい て研究が継続され、被追放民の政治運動と密接にかかわることになった。
チェコにおけるこれら一連の「民俗学
/
民族学史」を整理したのが、本稿で扱うロゾヴィ ウクの研究、とりわけ2008
年に刊行された『学問プロセスにおけるインターエスニック−ボヘミアにおけるドイツ語民俗学とその社会的作用』(以下、『ボヘミアにおけるドイツ語 民俗学』)6である。本書は、
19
世紀末からチェコスロヴァキア建国に至る「ドイツ語民俗学」の形成と発展が、「ズデーテン・ドイツ人」政治運動とどのように関連していたのかについ て、プラハ大学の民俗学研究室の設立や主要民俗学者の活動に焦点を当てて分析している。
本書の対象は「ドイツ語民俗学」と表裏一体で形成された「チェコ語民族学」にも及んでお り、両者の対立関係だけでなく相互作用について「インターエスニック」概念(後述)を通 して分析している。これらの研究は民俗学のみならず歴史研究にも示唆するところは大きい が、ロゾヴィウクの研究は
21
世紀EU
の地域統合や境界社会など多岐にわたるものであり、本稿でそのすべてを紹介することはできない。本稿では、ハプスブルク帝国末期(
1890
年 代)から第二次世界大戦前チェコスロヴァキア(1930
年代まで)に至る時期に対象を限定し、ロゾヴィウクの研究に沿ってこの時期に登場した「民俗学
/
民族学」ディシプリン概念やア カデミズム諸制度を整理・紹介することで、チェコ現代史研究との架橋を試みる。第1章:研究の背景
1−1:ロゾヴィウクの研究活動
ペトル・ロゾヴィウクは
1968
年生まれ、2018
年現在、チェコ共和国プルゼンの西ボヘ ミア大学哲学部・人類学研究室にて教鞭をとっている。プラハ・カレル大学「エスノグラ フィーethnografie
」研究室の在籍時に1989
年の体制転換を経験した後、1990
年代に大学図 書館で戦間期の「プラハ・ドイツ人大学」に開講されていたドイツ民俗学講座史料を大量に「発見」したことが、チェコのドイツ語民俗学研究を始める契機になったという7。プラハ・
カレル大学は神聖ローマ帝国以来の歴史と伝統を有するが、
1882
年に「チェコ人」と「ド イツ人」の大学に分かれることとなり、「プラハ・ドイツ人大学」は第二次世界大戦の終結 によって廃止された。第二次世界大戦以前、チェコのドイツ語話者は300
万人を超えていた が、戦後そのほとんどは国外に追放され、40
年にわたる共産党政権下において彼ら・彼女 らの歴史が語られることは稀であった8。1990
年代に入ると、両国間での「和解」が、チェ コの「ヨーロッパ回帰」とりわけEU
加盟と連動する形で進められ、歴史研究においても数 多くの国際共同研究が組織されるようになった。こうした成果の一つが、ライプツィヒ大学 の「講座ザクセンの歴史と民俗学」シリーズから2008
年に刊行された『ボヘミアにおける ドイツ語民俗学』である。ライプツィヒ大学の民俗学研究所は、ザクセン州がチェコと接し ているという歴史的関係もあり、チェコやポーランドとの間で国際共同研究が近年進められ ている。ロゾヴィウクはチェコのドイツ語民俗学に焦点を当てた実証的研究で成果を上げる一方で、
ドイツでの共同研究の経験から、ヨーロッパ規模での「民俗学」ディシプリンの戦後におけ る変容過程をチェコに向けて紹介している。これは具体的には、ドイツ民俗学がナチズムに
「協力」したことへの反省が戦後積み重ねられ、「ヨーロッパ・エスノロジー」への学問分野 の改称と英米系人類学の方法論導入に関する議論が該当する9。ただしチェコの場合、戦後
40
年にわたって共産党政権がアカデミー内でチェコ語「民族学(エスノグラフィー)」を再 編し、新たに支配体制の学として特別な地位を有していたという事情があり、ディシプリン の変化は二重に錯綜している。ロゾヴィウクによれば、1989
年の体制転換に伴ってチェコ 語「民族学」は、ドイツの方法論に由来する「民俗学(フォルクスクンデ)」の「ヨーロッパ・エスノロジー」への転換と、英米系の「人類学(アンソロポロジー)」の方法論の導入とい う二つのパラダイム転換を同時に経験した。チェコにおいては
1990
年代に、アカデミー研 究所や大学における民俗学講座の名称が変更され、とりわけ英米系人類学の影響が強くなっ ているが、その成果が表れているとは言い難いという10。ロゾヴィウクはこのような国内外 の状況を考慮しつつ、積極的に国外の研究動向をチェコに紹介し、ヨーロッパと旧東欧諸国 における研究の架橋とディシプリンの刷新を図っている。代表的な成果としては、『中欧に おけるヨーロッパ・エスノロジー』(2005
年、単著)、「エスニックな無関心とそのエスノロジーへの反響」(
2005
年所収論文)、「ボヘミアにおけるドイツ民俗学史」(2006
年所収論文)、「国民的学としてのエスノグラフィー」(
2011
年所収論文)があげられる11。ロゾヴィウクは、編著『
20
世紀のエスニシティとナショナリズム−集合的アイデンティ ティ研究のためのチェコ出身知識人の論集』において、カール・ドイッチュやハンス・コー ン、ヴァルター・クーン(後述)といった、チェコに縁のあるドイツ系歴史学者・民俗学者 らのテキストをチェコ語に翻訳して紹介している。また、逆にチェコにおける近年の民族学 研究の成果もまた、『チェコ・エスノロジーにおけるエスニシティとインターエスニック』(
2012
年刊、編著)でドイツ語に翻訳して紹介している12。これらの研究においては、社会 主義期のアカデミー制度における歴史学・「民俗学/
民族学」研究の展開も論じられているが、本稿では紙面の都合上、社会主義期に関しては取り扱わない。
1−2:第二次世界大戦後の中東欧における「民俗学/民族学」研究をめぐる動向
本節では次に、ロゾヴィウクの研究の背景にある、第二次世界大戦後のドイツ語圏におけ る民俗学の制度変遷について整理しておく。ドイツ民俗学の第二次世界大戦後における制度 変遷やディシプリンの変化については、河野眞氏の浩瀚な研究が存在しており、詳細はこち らに譲る13。本稿の対象に限定すれば、戦後ドイツ民俗学において重要な役割を果たしたの が、チェコをはじめとする東欧諸国からのドイツ系被追放民の存在であった。旧ドイツ東部 領、現ポーランド西部やバルト諸国、そしてチェコから戦後ドイツへと「追放」された住民 の数は
1200
万人以上に及び、後に「被追放民」として補償を求める政治運動を行うことに なる14。ドイツ人被追放民の中には、アカデミズムに籍を置く歴史学者や民俗学者も含まれてお り、戦後、彼らは自らもそうであるように被追放民そのものを研究対象とし、戦後西ドイツ の民俗学において研究を継承した15。このような研究の受け皿となったのが、
1950
年代に相 次いで設立された「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー研究所」(マールブルク)や「コレ ギウム・カロリヌム」(ミュンヘン)、「ヨハネス・キュンツィヒ研究所」(フライブルク)な どの諸機関であった。これらの研究所は戦前、ヴェルサイユ体制によって失われた東部領土 の回復を目指す「東方研究」に携わった研究者によって設立されたものであり、中世のドイ ツ東方植民に由来する歴史研究のナチズムとの共犯関係は、戦後ドイツの歴史学・民俗学に おいて鋭く問われることになった16。そして近年、東西冷戦の終結とEU
の東方拡大に伴い、国境を越えた地域交流とそのための住民相互の歴史理解の必要性が現実的な課題としてドイ ツと東欧諸国の間に立ち現れてきた。ドイツ・ポーランド・チェコ間の過去から現在におけ る「隣人」関係についての調査を行ったロートの研究や、チェコ国境地域から追放されたド イツ系住民の「移住」社会について、バイエルン州とチェコの国境地域に焦点を当てて調査 を行ったアイシュの研究などがあげられる17。このようなドイツと東欧諸国の国際共同研究 は、歴史学や社会学、民俗学などにおいても活発に組織されるようになり、改めて戦前から
戦後にかけてのドイツ「東方研究」の歴史を問い直す動きが現れた。
2005
年にミュンヘン 大学のモーザーが編者となって刊行した『民俗学・文化科学の専門化の歴史叙述における問 題と展望』において、ロゾヴィウクや歴史学者トビアス・ヴェゲルら当時の若手研究者が数 多く寄稿し、民俗学と歴史学の共同研究の可能性を示している18。2015
年に刊行されたヨー ラー編『東部ヨーロッパにおける民俗学・エスノグラフィーの視点−回顧・プログラム・展 望』や、モーザー編『1945-1970
年における民俗学−冷戦期の学問の位置づけ』は、戦後ド イツにおける東欧諸地域の民俗学研究の歴史的変遷を比較整理しており、そこではドイツ語 民俗学だけではなく、東欧諸民族との相互関係が歴史的に問い直されている19。歴史研究においても、第二次世界大戦前のドイツ語圏をめぐる「東方研究」の問い直しが 民俗学と連動して進められている。ドイツにおいて近年これらの研究を進めている前述の ヴェゲルは、『終わりなき民族間闘争?
1945-1955
年のズデーテン・ドイツ人組織』(2008
年)や『大シレジア?大フリース?大ドイツ!シレジアとフリースラントのエスノナショナリ ズム』(
2017
年)を通して、第二次世界大戦前後のチェコやポーランドのドイツ系住民の組 織化を歴史的に再検討している20。また、編著『中東欧の国境を越えたバイオグラフィー−作用・受容』(
2009
年)や『文化的景観−東部ヨーロッパにおけるドイツ文化・歴史の作用 のトランスアトランティックな見解』(2015
年)においては、東欧諸地域を中心に歴史学と 隣接領域との架橋を試みている21。以上のように、ドイツ東部・東欧諸地域の相互関係を扱う歴史学・民俗学の研究動向は、
国際共同研究の進展によって多様な方向性を示している。今やドイツ人被追放民は移民研究 の一環としても扱われ、被追放民が「故郷(ハイマート)」としたチェコ・ドイツ国境も「境 界地域」と位置付けられたうえで、住民の「可動性(モビリティ)」研究の分析対象とされ ている22。「境界地域」に着目した研究成果としては、ロゾヴィウクが前述のライプツィヒ 大学民俗学講座から刊行した、『研究分野としての境界領域−境界地域のエスノグラフィー・
文化史研究』(
2009
年刊、編著)、『生活世界としての境界地域−ザクセン・チェコにおける 境界構造、境界認識、境界の議論』(2012
年刊、単著)、『可視化されたマイノリティ−エス ニック・ナショナルなマイノリティの博物館展示の問題と可能性』(2012
年刊、編著)など があげられる23。以上、本章ではまず、ロゾヴィウクの研究業績を簡単に紹介した。前述のように近年の研 究では、チェコ・ドイツ「境界地域」における人の移動、国境開放と
EU
統合が「境界地域」に及ぼした影響に重点が置かれているが、
EU
統合の人の移動・越境は本稿の主題からは外 れるものであり、本稿の課題はチェコ社会における歴史学と「民俗学/
民族学」の関係を整 理・紹介することにとどまることを断っておく。第2章:帝政末期からチェコスロヴァキア成立時における両「民俗学」の制度化
2−1:チェコ語「民俗学(ナーロドピス)」の形成
現 代 チ ェ コ の ア カ デ ミ ー の 説 明 に よ れ ば、同 国 に お け る「民 俗 学(ナ ー ロ ド ピ ス
národopis
)」はドイツ帝国からの「フォルクスクンデ」の「輸入」によって形成されたという。これに対してロゾヴィウクは、チェコ国内のドイツ語民俗学にとっては、チェコ語民俗学
(ナーロドピス)のほうがドイツ本国の民俗学よりも強い相互関係を持つと捉えている24。 ロゾヴィウク『ボヘミアにおけるドイツ語民俗学』は、チェコ社会におけるドイツ語および チェコ語「民俗学」の学問的・制度的な形成過程を、ハプスブルク帝国末期の
1880
年代か ら1890
年代を起点に考察している。ここで問題となるのは、「民俗学」と称される概念がど のような経緯で構築されたのか、ということである。ドイツの民俗学は19
世紀以降、「フォ ルクスクンデ」または「フェルカークンデ(Völkerkunde
)」と呼ばれたが、その背景には、ドイツ統一以前の民俗学者らが「フォルクストゥーム(
Volkstum
民衆の伝承文化、民族性)」にドイツ語圏統一の精神的価値を見出そうとしたことがあった25。
他方、チェコ語では「フォルク」に該当する語は「リド(
lid
)」であるが、ドイツ語の「フォ ルク」が「民衆」のみならず後にはナチズムと結びついたのに対して、チェコ語の「リド」は字義通り「人々」を表象する傾向がある。「フォルク」と同様に、「リド」においても民族 主義的なニュアンスが投影される場合もあるが、字義通りにとらえた場合、ドイツ語の「フォ ルクスクンデ」に該当する語は「リドピス(
lidopis
)」となる。他方、チェコ語社会におい ては、後の政治的な意味での「民族」を包含する「フォルク」の対応概念として「ナーロド(
národ
)」という語が存在していた。「人々」を指す語として「リド」と共通する一方で、「ナーロド」は「ネイション」(ドイツ語ではナツィオン(
Nation
))に対応する政治的共同 体・民族主義的意味合いが込められる傾向にあったといえる。1890
年代以降のチェコ語ア カデミズムにおいて、「リドピス」はほとんど用いられず、むしろ「ナーロドピス」のほうが、ドイツ語「フォルクスクンデ」の対応語としての機能を果たすようになった。他方、チェコ 語アカデミズムにおいては、「フォルクスクンデ
/
ナーロドピス」に該当するチェコ語として は、「エスノロジー(ethnologie
)」もまた同時期より用いられていた。特に第二次世界大戦 後のチェコ語アカデミーにおいては、ドイツの影響を背景に持つ「ナーロドピス」よりも「エ スノロジー」または「エスノグラフィー」が公式名称として定着している26。ロゾヴィウクは、ドイツ語「民俗学(フォルクスクンデ)」のチェコ語訳として「ナーロ ドピス」を用いている。他方で、「ナーロド」が「ネイション」の対応語であること、後述 のようにチェコスロヴァキア新国家形成に伴う「国家形成民族」の学として成立したという 背景を鑑みれば、「ナーロドピス」は「民族学」の訳語も成り立ちうる。さらに、第二次世 界大戦後の社会主義政権下でのアカデミズムにおいては、「ナーロドピス」よりも「エスノ
ロジー
/
エスノグラフィー」が公式名称とされているため、「民族学」のほうがチェコ語訳と して適切である27。ただし、チェコ語「ナーロドピス」がドイツ語「フォルクスクンデ」の 訳語として用いられてきたという歴史的背景を重視すれば、主に第二次世界大戦以前のチェ コ語アカデミズムにおいては「民俗学」の訳語のほうがふさわしいと考えられる。このため 本稿ではロゾヴィウクの用語法を踏まえつつ、「ナーロドピス」の訳語として「民俗学」、「エ スノロジー/
エスノグラフィー」の訳語として「民族学」を用いることにしたい。ロゾヴィウクによれば、チェコ社会における「民俗学(ナーロドピス)」の形成は、ゲー テからヘルダー、さらにはグリム兄弟やヤーンに至るドイツ・ロマン主義の影響を受けて、
19
世紀前半より「国民再生運動」と結びついて、「スラヴ」の詩や民謡、伝承を収集する動 きとして始まったという28。このことは、チェコにおける民俗学がハプスブルク帝国統治期 の民族運動と結びつく要因となった。チェコ社会においては、工業化の進展や帝国内の諸改 革に伴い、1880
年代以降、民族(ナーロド)別の大衆政党の設立や言語政策など多くの面 でチェコ系・ドイツ系の民族別分化が進展したが、学問分野としての「民俗学」形成におい て重要な役割を果たしたのが民族別の博覧会開催であった。1895
年にプラハで開催された「チェコ民俗学博覧会」は、農村家屋などに代表されるチェコ人社会の「スラヴ的」な文化 を展示するものであった。ロゾヴィウクによれば、博覧会はチェコ人のナショナリズムと結 びつき、ボヘミアにおいて独自ディシプリンとしての民俗学を際立たせる契機になった。こ のため、チェコ「民俗学」は、学問としての専門化とチェコ・ネイション全体を対象に下方 拡大するという、相反する状況の中で発展したという点で著しい特徴を示したという29。チェ コ民俗学は、ハプスブルク帝国からチェコ人のエスニックな解放を目指すという政治的意図 と結びつくことになり、このような政治との結びつきは、後述するドイツ語民俗学よりも早 い段階で現れたという30。
学問領域におけるディシプリンの制度化において重要な役割を果たしたのが、専門機関誌 の刊行であった。現在、チェコ語「民俗学
/
民族学」においては数種類の定期刊行物があるが、最も重要なものが、
1891
年に考古学・人類学者ルボル・ニーデルレ(1865-1944
)によって 創刊された『チェコの民(Český lid
)』誌であった。本誌は歴史学においても重要な刊行物 であるが、刊行当初はその編集方針は決して明確なものではなかった。同誌の編集に、チェ コの「古い民族文化」再興を目指す歴史・文化史家チェニェク・ジーブルト(1864-1932
) が加わったことで、「スラヴの民族学(エスノロジー)」に重点を置くニーデルレとの間で編 集方針の食い違いが生じ、『チェコの民』誌は以降、ジーブルトらのチェコ民族主義的な方 針に従い、多くのチェコ人「民俗学」研究者を集めることになった31。『チェコの民』と袂を分かったニーデルレは、プラハ・チェコ人大学哲学教授で後に大統 領となるトマーシュ・ガリグ・マサリクが
1893
年に創刊した雑誌『わが時代(Naše doba
)』に合流した。同誌はマサリクを始め、プラハ・チェコ人大学の研究者が関わっていたが、そ の中の一人が、
1902
年にプラハ・チェコ人大学のスラヴ文献学講座の正教授をつとめることになる言語学者イジー・ポリーフカ(
1858-1933
)であった。彼は1919
年、新国家の教育 文化省に、「国立民謡研究所(Státní ústav pro lidovou píse
ň)」を設立し、新国家のアカデミ ズムにおいてチェコ語民俗学の指導的地位を占めることになる32。プラハ・チェコ人大学で1927
年にポリーフカの後を継いだイジー・ホラーク(1884-1975
)は、「民俗学(ナーロド ピス)」を通したチェコ人の「民族」教育を、学校やメディアを通した「成人教育」におい て行うべきという見解を示した33。ニーデルレもまた、自らの専門である考古学を基盤に、チェコスロヴァキア独立後に国立考古学研究所の設立に携わり、より現実主義的な「エスノ グラフィー」的民俗(族)学を指向した。
『わが時代』誌に集った民俗(族)学者たちが中心となって組織されたのが、前述の「チェ コ民俗学博覧会」であり、
1896
年には民俗学者カレル・ホテク(1881-1967
)を編集者とし て機関誌『チェコスラヴ民俗学論集(Národopisný sborník
českoslovanský
)』を刊行した34。 ホテクは新国家チェコスロヴァキアにおいて、ブラチスラヴァ・コメンスキー大学とプラ ハ・チェコ人大学の民俗学講座で教鞭をとることになるが、アカデミズムで彼が提唱したの が、民俗学における「チェコスロヴァキア主義」であった。これは、スロヴァキアの「民族 文化」を、「チェコスロヴァキア民族文化」の一部と位置付けることで、チェコ人とスロヴァ キア人は統一されたチェコスロヴァキア国家ネイションの二つの「枝」と考えるものであり、いわば同国の「公式史観」ともいえる思想であった。このようにチェコ語民俗学は新国家 において、「チェコスロヴァキア国民」形成のための「政治的民俗学(
politický národopis
)」の様相を帯びたという35。
このように、『わが時代』誌に集った民俗学者とその継承者が、新国家チェコスロヴァキ アのアカデミズムにおいて「主流派」を占めることになった。プラハ・チェコ人大学という アカデミズムの内部において進展したチェコ「民俗学
/
民族学」の制度化は、19
世紀末に台 頭してきたチェコ系政治運動を補強する役割を果たすことになった。2−2:チェコスロヴァキア共和国におけるドイツ語「民俗学」の制度化
チェコ社会において「民俗学」をめぐる用語法が複雑化した背景には、ハプスブルク帝国 統治下におけるチェコ語・ドイツ語両住民の社会的地位の問題があった。帝国統治下のチェ コでは長らくドイツ語が公用語とされ、アカデミズムの場において、チェコ語が用いられな い時代が長く続いた。このため、チェコにおけるアカデミズムはドイツ語によって制度化さ れることになり36、民俗学もまた例外ではなかった。チェコ社会における「フォルクスクン デ」の概念は、系譜的に遡れば、地域住民の地誌研究の際にプラハ大学のドイツ法制史・国 家学(
Staatenkunde
)教授ヨーゼフ・マーダー(1754-1815
)によって1787
年に用いられ た37。1860
年代には、オーストリア統計局長のチェルンハウゼンによって3
巻本の『オース トリア君主国エスノグラフィー』が刊行され、137
の「民族の幹(Volksstämme
)」と22
の「言 語の幹」が分類された38。ハプスブルク帝国末期チェコのドイツ語「民俗学(フォルクスクンデ)」の確立において 主要な役割を果たしたのが、プラハ・ドイツ人大学のアドルフ・ハウフェン(
1863-1930
) であった。現在のスロヴェニア・リュブリャナ(ドイツ名ライバッハ)生まれのハウフェン はウィーン大学でドイツの歴史・地理学を学んだ後、グラーツ大学でアウグスト・ザウアー(
1855-1926
)の薫陶を受けた。ザウアーは「ドイツボヘミア」の学問・精神史を専門とし、ドイツ民俗学の第一人者であったヴィルヘルム・リールらの影響を受け、「民族性(フォル クストゥーム)」研究としての民俗学の重要性を説いた人物であった39。
1892
年にザウアー がプラハ・ドイツ人大学ドイツ語・文学正教授に招聘された後、1898
年にはハウフェンも 同大学のドイツ語学特任講師として着任した。当時、プラハ・ドイツ人大学には「民俗学」の講座はなく、彼が所属したのはドイツ文献学であった。彼はドイツ語学・文学を教える一 方でドイツ民話・民謡に傾倒し、ゼミで民俗学を扱うようになったほか、講義では「ボヘミ アにおけるドイツ民族(フォルクストゥーム)」を主題としたことで、「ドイツボヘミアにお ける学問的民俗学の創始者」とみなされるようになった40。前述のチェコ人の博覧会に対抗 する形で、
1906
年にはチェコ北部のドイツ人都市ライヘンベルク(チェコ名リベレツ)に おいて、「ドイツボヘミア博覧会」が開催され、ドイツ人「民族文化」を強調する展示が行 われた41。ドイツ語「民俗学」が正式に制度化されるのは、チェコスロヴァキア独立以降であった。
独立直後の
1919
年12
月、プラハ・ドイツ人大学のハウフェンの講座は、「ドイツ語民俗学・ドイツ語ドイツ文学」と改組され、「民俗学」は必須科目として位置づけられることになった。
この「民俗学」は言うまでもなく「ドイツ民族」を対象とした学問分野であり、
1922
年には、同大学内に民俗学研究の専門機関・ゼミナールを設立する動きが哲学部の教授陣の間に現れ た。これは、「民俗学」を基盤にチェコにおけるドイツ人入植の歴史、ドイツ人の「民族教
育(
Volksbildung
)」を目指すものであった。しかし、独立直後に新国家からの分離運動を引き起こし、国内に
300
万人以上という「マイノリティ」にしてはあまりも大きな民族集団 となったドイツ語住民の存在に直面したチェコスロヴァキア政府は、このような民族色の濃 い機関設立に難色を示し、大学のドイツ語民俗学ゼミナールの認可が下りたのは1929
年11
月のことであった。その翌年に死去したハウフェンの後任として、方法論的にも「民族教育」の主唱者であるグスタフ・ユングバウアー(
1886-1942
)が正教授の地位に就き、ハウフェ ンの民俗学研究を継承・発展させた42。ユングバウアーの狙いは、チェコ・ドイツ「境界地 域」、後に「ズデーテン地方」と称される地域に集住するドイツ語話者を念頭に、国内ドイ ツ語民俗学を「境界民俗学(Grenzlandvolkskunde
)」に再編することであった。彼はチェコ 教育文化省管轄の「国立民謡研究所」と密接な関係を持ち、1928
年に『ズデーテン・ドイ ツ人民俗学雑誌(Sudetendeutsche Zeitschrift für Volkskunde
)』を刊行した43。この雑誌は、表向きは民俗学研究という形で政治的な主張を控えたが、「ズデーテン・ドイツ人」という 名称を用いることで、地域と民族を一体化させた集合的アイデンティティの形成を図った。
こうした研究活動においてドイツ語民俗学者らは、「国家形成民族」チェコ人に対する自ら の集合的アイデンティティを、「故郷(ハイマート)」に求めた。ドイツ民俗学における「故 郷」の重要性はしばしば指摘されるが、チェコ社会のドイツ語民俗学者にとって「故郷」と は新国家チェコスロヴァキアではなく、別の形で構築されなければならなかった。
1921
年 にハウフェンが設立した「故郷研究機関(Kommission für Heimatforschung
)」が後任のユ ングバウアーによって1933
年に「民俗学機関(Kommission für Volkskunde
)」と改称された ことは、「ズデーテン・ドイツ人」の民俗学が「故郷」研究(Heimatkunde
)と同一化した ことを意味していた44。新国家チェコスロヴァキアにおけるドイツ語民俗学の特徴は、プラハ・ドイツ人大学 と並んでアカデミズムの外部においても研究機関が設立されたことである。ユングバウ アーとともにドイツ人「境界民俗学」の確立に寄与したのが、社会学者エミール・レーマ
ン(
1880-1964
)であった。彼は、プラハなど国内各地でギムナジウム教員を務めたのち、1928
年にチェコ北部の中心都市ライヘンベルク(チェコ名リベレツ)に、「ドイツ民族教育 団体(Gesellschaft für deutsche Volksbildung
)」を設立した。レーマンは「ズデーテン地方」を「境界地域」として位置づけ、「境界民俗学」の確立を目指した。
1930
年代にはプラハ・ドイツ人大学と並んで、地理的にもアカデミズムにおいても「境界」に位置するライヘンベ ルクがドイツ語民俗学研究の拠点となっていく。ここでは、プラハ以上に明確に、「ズデー テン・ドイツ人」とチェコ人との「民族間闘争(
Volkstumskampf
)」が掲げられ、前述のザ ウアーの弟子であったエーリヒ・ギーラハ(1881-1943
)らプラハを離れた民俗学者らが合 流していった。ライヘンベルクを中心とする「ズデーテン地方」がナチス・ドイツに割譲さ れた後の1939
年、ギーラハは同地に「地域・民族研究のためのズデーテン・ドイツ研究所(
Sudetendeutsche Anstalt für Landes- und Volksforschung
)」を設立することが認められ、民 俗学を基盤とするドイツ語「民族・故郷教育」はここに実現を見ることになった45。同研究 所にはギーラハやレーマン、ユングバウアーに加えて、戦後の西ドイツにおいて被追放民 の社会学・民俗学を主導することになるユージン・レンベルク(1903-1976
)やブルーノ・シール(
1902-1984
)、ヨーゼフ・ハニカ(1900-1963
)らが参加していた。ハニカはプラハ・ドイツ人大学においてユングバウアーの下で学んだ後継者的存在であり、戦後のドイツ人 追放を経験した後、
1950
年代にミュンヘンにおいて「ドイツ比較民俗学研究所(Institut für
deutsche und vergleichende Volkskunde
)」を設立し、戦後の「ズデーテン・ドイツ人被追放 民の民俗学」に寄与した46。帝政末期からチェコスロヴァキア建国時におけるドイツ語民俗学の制度化の特徴をロゾ ヴィウクに従ってまとめると以下のようになる。まず、「帝国期のドイツ語民俗学の流れを 引く、民族主義的な要素をもたない「エスノグラフィー」」から、博覧会開催や機関誌刊行 を経て、プラハ・ドイツ人大学において民俗学(フォルクスクンデ)の方法論が導入された。
チェコスロヴァキア建国後に、プラハ・ドイツ人大学において「自立した専門分野」として
「民俗学」の講座が置かれたほかに、大学外の民俗学者らによって「ズデーテン地方の故郷・
民族研究」が形成された47。
チェコスロヴァキア独立時におけるチェコ語・ドイツ語両民俗学はいずれも、チェコ社会 の民族対立が顕在化した
1890
年代において制度化の道を歩み出したという点で共通している。アカデミズム内外の専門機関誌の発行や大学研究室における講座設立は、両言語とも軌を一 にしていた。ディシプリン構築のこのような歴史的背景から、両民俗学は自民族(言語)内 の「民族(
Volk/národ
)文化」に関心を集中させ、国民形成の政治運動と不可分に結びつく 一方で、両者はアカデミズム内外で相互交流の機会を減らしていった。このように両民俗学 のディシプリン構築過程には多くの共通点を指摘しうる一方で、チェコスロヴァキア独立後 における両者の立場は相違点も現れた。新国家のアカデミズム制度において、チェコ語民俗 学はチェコ人・スロヴァキア人という「国家形成民族」の歴史的正統性を支える役割を担う ことになり、「民族文化」研究が政府の国民形成・教育政策と密接に結びついた。新国家に おいて「マイノリティ」の地位に置かれたドイツ語アカデミズムもまた、チェコ人に対抗す る自らの存在の歴史的正統性を民俗学に求め、プラハ・ドイツ人大学を民俗学研究の拠点と した。新国家におけるドイツ語民俗学の特徴は、プラハ・ドイツ人大学というアカデミズム 制度の外部で、より政治的な主義主張を内包する民俗学研究の拠点を形成する動きを生み出 したことであった。彼らは、プラハではなく「ズデーテン地方」の中心地ライヘンベルクに おいて研究機関の制度化を目指し、チェコ人との「民族間闘争」を掲げて民俗学を位置づけ た。このような動きの中で、ドイツ語民俗学からは様々な方法論が生まれることになる。第3章:ロゾヴィウクの提起する論点
3−1:「エスニシティへの無関心」
これまで見てきたように、チェコ社会における民族別の分化は
19
世紀末に進展を見せ始 めており、とりわけチェコ語話者の政治的伸張は著しかった。このため、ドイツ語話者の側 からは、チェコ語話者に対抗する学術理論の必要性が認識されるようになっていた。プラ ハ・ドイツ人大学の統計・行政学者ハインリヒ・ラウフベルクは帝政末期の1905
年に、「ド イツボヘミア」の「チェコ化」を防ぐため、チェコ(ここではボヘミア王国)内ドイツ人の 領域を統計・地理的に把握することを目指す「国民資産(Nationalbesitzstand
)」概念を提 唱した48。他方、新国家チェコスロヴァキアは、「国家形成民族」たる「チェコスロヴァキ ア人」の地位を確立させるため、「チェコ(スロヴァキア)人」の「民族(ナーロドノスト)」帰属について、言語を基準に客観的に定義することを試みた。チェコの人口統計学者アント ニーン・ボハーチは
1921
年の建国後初の国勢調査において「民族」を、母語を基準とする「客 観的に確証しうる社会的指標」と定義した49。しかし、当時の民俗学者らも関与した、新国家チェコスロヴァキアにおける政治的共同体 としてのネイション形成の試みは、とりわけチェコ「境界地域」の社会的実情によって、民 俗学者らの意図した通りには進展しなかった。ロゾヴィウクの分析において、鍵概念のひと つとして用いられるのが「エスニシティへの無関心(
etnická indiference
)」である。この概 念は、ロゾヴィウクがドイツの民族学者ゲオルグ・エルヴェルトが西アフリカで行った集合 的アイデンティティ調査に示唆を得た造語である50。ロゾヴィウクによれば、「エスニシティ への無関心」とは、「エスニック」や「ナショナル」とは異なる住民の分類概念として、様々 なアイデンティティ形態の共鳴・衝突に着目するための概念であるという。彼によれば、当 時の民族政治家や民俗学者らは、「エスニシティに無関心な共同体に対して、様々な形でエ スニックな思考法の必要性を納得させる」ことで、「エスニシティ」の集合的アイデンティ ティへのナショナルな意味づけを試みた。換言すれば、当時の民俗学者は、チェコの「境界 地域」住民における民族意識の「無関心」を「発見」し、その「克服」を目指していたとい う51。この例としてロゾヴィウクは、
1918
年にドイツ領(旧プロイセン)からチェコスロヴァ キアに割譲されたフルチーン地区や、チェコからほど近いドイツ(現ポーランド)領内のクゥ オツコ(ドイツ名グラッツ/
チェコ名クラドスコ)などを挙げている。「民族自決」の原則に 従ってチェコに割譲されたフルチーン地区では、住民の大部分がチェコ方言を母語としてい るにもかかわらず、彼ら・彼女らは自らの言葉を「チェコ語」としてではなく、「自分たちの言葉(
ponašemu
)」を話す「モラヴィア人(Moravci
)」と認識していることを、チェコ人民俗学者らは「発見」した。チェコスロヴァキア建国時に「モラヴィア人」たちはドイツへ の帰属・残留を希望しており、自らの集合的アイデンティティとして、「チェコ人」よりも 地域共同体とりわけカトリックへの帰属意識を重視していたことが明らかにされた。新国家 による武力併合への反発とドイツへの帰属意識から、当地では
1930
年代には「ズデーテン・ドイツ人党」への得票率が
75
%に達したという52。他方、クゥオツコは
1945
年までドイツ領シレジア、第二次世界大戦以降はポーランド領 という変遷を経験した地域である。領内のチェコとの国境沿いに、チェコ語話者が多く居住 する「チェコ人の谷(Český koutek
)」と呼ばれる地域が存在していることが、チェコ人民 俗学者から注目されてきた。チェコスロヴァキア政府は独立時に、チェコ語・スロヴァキア 語話者の居住地域を「自然的権利」として自国領の根拠としたため、同地域もしばしばチェ コ側の「領土修正主義」を引き起こしてきた。しかし当地でもフルチーン地区と同様、チェ コ語話者住民は自らを「チェコ人」とみなさず、「プライズ(Prajz
=プロイセン人)」と答 えていた53。チェコ人民俗学者は、「プロイセンの精神が根付いている」クウォツコ地域住 民の状況を嘆き、「正しい」帰属意識を植え付けるための教育の必要性を実感することになっ たという54。このように当時のチェコ人民俗学者らは、住民がチェコ語を日常的に用い、言語基準では
「客観的に」チェコ人とされるにもかかわらず、チェコスロヴァキア国家への帰属意識を有 さないという「エスニシティへの無関心」に度々直面した点をロゾヴィウクは指摘している。
「境界地域」の住民を「国家形成民族」に取り込むという政府の課題は、「エスニシティへの 無関心」によって頓挫する一方で、ドイツ語話者の「境界地域」住民の「集合的アイデンティ ティ」を形成するための理論が、新国家のアカデミズムにおいて登場することになる。
3−2:言語島民俗学、在外ドイツ人・チェコ人
これまで、ハプスブルク帝国末期からチェコスロヴァキア独立にかけて言語別の民俗学が 形成された経緯を概観したが、「チェコ語民俗学」と異なり、新国家における「ドイツ語民 俗学」に最も大きな影響を及ぼしたのが、「言語島民俗学(
Sprachinselvolkskunde
)」の理 論であった。「言語島(Sprachinsel/jazykový ostrov
)」とは、中世から19
世紀にかけて東欧 に移住したドイツ語話者が、地元のスラヴ系住民に囲まれた「島」のような共同体を形成 し、先祖代々のドイツ語・民族文化を「防衛」し続けてきたとする考え方である。この考え 方自体は以前から存在していたが、この時期に注目されたのが、ハプスブルク帝国のドイツ 人都市ビーリッツ(現ポーランド領ビェルスコ=ビァワ)出身の民俗学者ヴァルター・クーン(
1903-1983
)であった。彼は帝国崩壊後の1920
年代初頭に、同郷のドイツ人民俗学者と「ワンダーフォーゲル」を結成し、主にポーランド・ガリツィア地方やウクライナ、スロヴァ キアなどに点在するドイツ人村落のフィールドワークを敢行した55。これらの成果をもとに、
クーンは
1931
年にウィーン大学において学位を取得した後、ドイツ・ブレスラウ大学に招 聘され、気鋭の「言語島」民俗学者として名をはせた56。東欧におけるドイツ人(語)社会の歴史は、中世の東方植民にさかのぼるものであり、バ ルト諸国からバルカン半島に至る、「故郷」の外部に存在するドイツ人社会は
19
世紀以来、多くの民俗学者の関心を引いてきた56。東欧のドイツ人村落への関心が高まった背景には、
第一次世界大戦におけるドイツおよびハプスブルク帝国の敗北と領土割譲によって彼ら・
彼女らが「在外ドイツ人マイノリティ」として政治的に位置付けられたことがあげられる。
1920
年代には、ケーニヒスベルクやブレスラウなどで、在外ドイツ人研究を主体とする「東 方研究」の機関が相次いで設立され、歴史学や地理学、民俗学といったディシプリンがドイ ツによる「失地回復」の正当化のために動員された57。クーン自身も、第一次世界大戦後に 自らがポーランドの「ドイツ人マイノリティ」へと立場が変わったことが、「言語島」研究 に向かう契機となったと述べている58。クーンはチェコのアカデミズムに属していたわけではなかったが、彼の「言語島」理論は チェコスロヴァキア建国時のドイツ語民俗学において、時を置かずして紹介された。その背 景にあったのは、
19
世紀末に登場し、新国家チェコスロヴァキアにおいて徐々に制度名称 となり、ナチスの占領と第二次世界大戦後のドイツ人追放によって広く膾炙することになっ た「ズデーテン・ドイツ(人)」という地域名称と民族アイデンティティであった。「ズデーテン地方」「ズデーテン・ドイツ人」が地理的な実体ではなく政治的意図をもって創り出さ れたことは、今や多くの研究で指摘されている。すなわち、現在のチェコの領域に居住する ドイツ語話者は、中世以来ドイツとの国境沿いに集住する傾向があったが、プラハやブルノ など中心都市部にも数多く居住しており、歴史的背景も「民族文化」も地域によって大き く異なっていた。このようにチェコ領内に散在するドイツ語話者を単一のカテゴリーで呼 称する発想は、すでに
18
世紀より「ドイツボヘミア人(Deutschböhme
)」として知られて いた。しかし、19
世紀末にハプスブルク帝国内での民族運動が活発化したことで、帝国各 地のドイツ語住民を居住地域と結びつけて呼び表す運動が形成された。この運動を主導した のが、ドイツ民俗学者リールの影響を強く受け、プラハ大学のザウアー(第2
章参照)の下 で学んだ文化史家・民俗学者フランツ・イェッサー(1869-1954
)であった。彼は、現在の チェコ・ポーランド(当時はドイツ領)国境に広がるズデーテン(チェコ名スデティ)山地 に由来する「ズデーテン・ドイツ人(Sudeten- deutsche
)」という名称を1902
年に用いた60。 これは、同時代に用いられていた「アルプス・ドイツ人Alpendeutsche
」「ドナウ・ドイツ人(
Donaudeutsche
)」「カルパチア・ドイツ人(Karpathendeutschen
)」概念に範をとったもの であった。「ズデーテン・ドイツ人」はチェコスロヴァキア建国時に武力紛争に至る分離運 動を引き起こし、300
万人の「マイノリティ」としての地位に置かれたことが決定的な影響 となった。1930
年代には、前述のように「ズデーテン」の名を冠する学術誌が刊行された ことに加え、民族主義的な主張を掲げる「ズデーテン・ドイツ人党」が結成され、チェコ語 においても「ズデーテン・ドイツ人(sudet
ʼáci
)」という語が現れるようになった。さらに 戦後、チェコ各地域から追放されたドイツ人は追放先で「運命共同体」として「ズデーテン・ドイツ人」を自称し、「故郷(ハイマート)」という「共通の記憶」を「ズデーテン地方」に 込めるようになったという61。
再びチェコスロヴァキア建国時の民俗学に話を戻すと、「言語島」理論は「ズデーテン・
ドイツ人」を実体化するうえで、極めて重要な役割を果たした。「言語島」理論は元来、東 欧のドイツ語住民と「故郷」ドイツとの結びつきを正当化するためのイデオロギーであった が、
19
世紀のドイツ人移民の中にはドイツ本国のみならず、「ズデーテン地方」を「故郷」とする者も多くいた。例えば、クーンが調査を行ったガリツィアのドイツ語住民は、
19
世 紀にチェコ西部エーガー(チェコ名ヘプ)から移住してきた人々であった。同様の事例は、ルーマニアやスロヴァキア(
19
世紀当時はハプスブルク帝国領ハンガリー)に移住したド イツ語話者にも当てはまる。19
世紀後半のチェコ社会では、社会の近代化、資本主義化と 人口増によって多くの余剰労働力が国外に送り出された。ルーマニア・バナト地方への移住 者は当初、移住先で「ボヘミア村(Böhmischen Dörfer
)」「ドイツボヘミア人」と称されて いたが、ドイツ語民俗学者は彼らを自らとのアナロジーで「バナト・ドイツ人」「バナト・シュヴァーベン(
Banater Schwaben
)」と呼び表すようになった62。このように、チェコ領 内のみならず国外ドイツ語「言語島」の存在は、言語集団を一つの閉じられた世界とみなし、ドイツ人とチェコ人の「民族間闘争」にも適合的な理論を提供した。さらに、この理論 は新国家チェコスロヴァキア内に点在するドイツ語住民を「ズデーテン・ドイツ人」へと変 換する役割をも果たした。例えば、チェコの小都市イグラウ(チェコ名イフラヴァ)はハプ スブルク帝国末期に「チェコの大海に浮かぶドイツ語住民の島」と呼ばれていたが、「言語 島」理論は各地に点在するドイツ語話者を「ズデーテン・ドイツ人」として政治動員するう えで有効なツールを提供した。プラハ・ドイツ人大学のハウフェンやユングバウアー、さら に社会学者のレーマンらは前述のドイツ語民俗学の専門誌「ズデーテン・ドイツ人民俗学雑 誌(
Sudetendeutsche Zeitschrift für Volkskunde
)」において、国外のドイツ語住民社会を広 く紹介したうえで、「言語島」理論を、チェコ人と隣接する「ズデーテン・ドイツ人」その ものに適用し、チェコ人との差異化と文化的な対抗をはかった。ロゾヴィウクによれば、「ズデーテン・ドイツ人」及び「チェコ人」両民俗学の特徴は、
互いの相違を強調することで成立した点、互いにチェコスロヴァキア外部に自らの「民族文 化」のつながりを求めようとした点にあるという。「ズデーテン・ドイツ人」の民俗学にお いて「言語島」という方法論が重要な意味を持った一方、チェコ人の民俗学においても、チェ コ域外の「スラヴ人」の「民族文化」とのつながりを見出す「スラヴ民族学(エスノロジー)」
が提唱されたことは、チェコスロヴァキアにおける「国民国家」と「民族」の不一致を象徴 的に示していた63。
3−3:インターエスニック論の応用
新国家チェコスロヴァキアのドイツ語民俗学に大きな影響を及ぼした「言語島」理論は、
第二次世界大戦の破局を経て、方法論的にも、イデオロギー的にも否定されることになっ た64。戦後におけるドイツ語民俗学の刷新をもたらしたのが、
1960
年代以降に提唱された「イ ンターエスニック」の方法論であった。これは、1959
年にオーストリアの民俗学者インゲ ボルグ・ヴェーバー=ケラーマン(1918-1993
)が、「言語島民俗学」の批判として打ち出 した概念であった。ヴェーバー=ケラーマンは、主にバルカン半島や東欧のドイツ語話者を 中心とするエスニック集団の関係を、「島」のように言語で分類する発想は、民族間相互の 敵対意識を醸成することにつながると批判し、各言語集団の相互関係・影響を分析すること の必要性を説いた65。「言語島」理論への批判が現れた背景には、戦後のドイツ民俗学「フォルクスクンデ」が、
「フォルク」を掲げたナチズムへの想起という観点から、厳しい再出発を余儀なくされると いう状況があった66。他方、「ズデーテン・ドイツ人」被追放民の間では、自らをナチズム の「被害者」と位置付ける集合的アイデンティティが形成されたことに加え、被追放民組織 がドイツ各地に設立した「東方研究」諸機関が、被追放民による補償要求・政治運動と密接 に結びつくという事情があった。ナチ期に東方研究を主導した歴史学者や民俗学者らが、戦 後における「ズデーテン・ドイツ人の民俗学」を再興したことで、戦後の「東方研究」と戦
前のドイツ語民俗学との方法論的・人的つながりは明らかであった67。
その一方、
1970
年代に入ると被追放民の「東方研究」諸機関の中からも、「言語島」論を 乗り越える動きが現れ始めた。ミュンヘンの民俗学研究所において戦後の「ズデーテン・ド イツ人民俗学」を牽引したゲオルグ・シュロウベク(1922-2008
)が打ち出そうとしたのが、「ボヘミア民俗学(
böhmische Volkskunde
)」であった。彼は、1950
年代にミュンヘンで民 俗学研究所を設立したハニカの薫陶を受けており、帝政期以来のプラハ・ドイツ人大学民俗 学を担ったハウフェン、ユングバウアー、ハニカに続く「第四世代」ともいえる存在であっ た68。ロゾヴィウクによれば、「第四世代」のシュロウベクは1960
年代以降、これまでの民 族対立史観や民族・エスニシティの垣根を乗り越える必要性を主張した先駆的存在であった という69。彼が掲げた「ボヘミア」は、同国の民俗学において、常に複数の地域名称によっ て表されていた。ハプスブルク帝国期において、現在のチェコ共和国の西半分は中世以来「ボ ヘミア王国」として存在しており、ドイツ語・チェコ語においては「ベーメンBöhmen/
チェ ヒČechy
」として呼称された。字義どおりにとらえるならば、「ボヘミア民俗学」とは、民族・エスニシティの垣根を超えた「ボヘミア」という地域の住民社会を対象とするディシプリン となるはずであった。しかし、これまで見てきた通り、「ボヘミア」の地における民俗学の ディシプリン・制度は、チェコ語・ドイツ語両社会の分化によって成立した概念であり、民 族・エスニシティを超えた「ボヘミア」の民俗学は「原理的に」存在しえなかった。
19
世 紀末に形成されたチェコ社会の「ドイツ語民俗学」は帝国崩壊後、「チェコスロヴァキア人 の国民国家」への対抗を意図した「ズデーテン・ドイツ人の民俗学」と呼びうるディシプリ ンを生み出したことは先にみたとおりである。シュロウベクは、戦前のドイツ語民俗学に特徴的であった「自己」「他者」二元論を克服 するために、「親密な他者としての隣国」を理解する必要性を訴えた。彼は「ボヘミア」の 民俗学が内包していた「ナショナルな偏見やナショナルな憎悪に反対し、そのメカニズムを 意識する」ために、宗派や文化、言語などの相互浸透プロセスの分析を通して、「隣人への 関心」を持つ「インターエスニックな比較民俗学」を試みた70。ロゾヴィウクは、シュロウ ベクの議論を発展させるうえで、チェコの民俗学の形成過程において両「民俗学」の間に「イ ンターエスニック」な交流が存在した点に着目した。ハプスブルク帝国末期には、両民族の
「民俗学」はほとんど互いを参照することはなかったが、ロゾヴィウクによれば、両者は全 くの没交渉ではなく、ドイツ人民俗学者の中には「スラヴ」に基盤を持つチェコ民俗学の成 果を認め、ドイツ民俗学に取り入れる必要性を主張する動きもあったという。また、当時の チェコ民俗学者も、自らの学問的ディシプリンを確立するために、英仏、ドイツに加えて、
ロシア、ポーランド、南スラヴなどのスラヴ系諸国の研究動向を参照していた71。さらに、
前述のチェコ語民俗学者ポリーフカが設立した「国立民謡研究所」が、
1922
年にドイツ人 部門を設立し、プラハ・ドイツ人大学のハウフェンを部局長として受け入れたことで批判さ れた事例を挙げている72。ハウフェンやユングバウアーといったプラハ・ドイツ人大学が確立したドイツ語民俗学は、チェコ人の「スラヴ民俗学」を参照し、文化的境界と言語は必ず しも一致しないことを踏まえていたという。他方、チェコ語民俗学の間でも、ポリーフカを 中心にドイツ語民俗学の成果を取り入れる動きがみられ、各民族の機関誌上で相互に参照す る論説も掲載されていた。民俗学での「インターエスニック」な交流はプラハ・ドイツ人大 学のスラヴ学講座に限定されており、後に「民族間闘争」に向かうドイツ語民俗学「主流派」
の前に影響力は限定的であった。さらに、戦後の社会主義政権下のアカデミズムで、チェコ におけるドイツ語民俗学の「忘却」が図られてきた73。
ロゾヴィウクは、歴史研究ならびに「インターエスニック」の成果を発展させ、チェコ・
ドイツ国境「ズデーテン地方」を、ヨーロッパの国境開放に伴う人の移動の現場空間として、
新たな「境界地域」としての意味づけを図った。具体的には、「ユーロリージョン」として 制度化される国境沿いの地域における歴史の記憶と国境を超えた人の動き、さらにヨーロッ パ内外からの移住者の統合という課題を見据えたフィールドワークである74。これらの研究 は、帝政末期からチェコスロヴァキア建国の歴史研究を、移民、
EU
統合政策、歴史記憶政策、新自由主義の展開という現代ヨーロッパの諸課題と接合する有用な視座となりうる。
おわりに
以上、本稿ではロゾヴィウクの研究に沿って、ハプスブルク帝国末期からチェコスロヴァ キア建国期に登場したチェコ語・ドイツ語両「民俗学
/
民族学」のディシプリン概念やアカ デミズム諸制度の形成過程を整理した。それでは、本稿で紹介した議論は、チェコ現代史研 究とどのような接点を持ちうるだろうか。
1
点目は、アカデミズムの制度化という観点についてである。ロゾヴィウクの『ボヘミア におけるドイツ語民俗学』では、かなりの部分がこの議論に割かれている。これはチェコに おける「民俗学/
民族学」という学問分野の制度化を主題とする以上当然ではあるが、20
世 紀前半のチェコ社会におけるチェコ系・ドイツ系民族別分化を論じるうえで、民俗学を取り 上げることでアカデミズムの制度化が果たした役割の大きさを改めて示すことになった。確 かに、ロゾヴィウクの研究は大学研究室や民俗学者などアカデミズムという制度内に焦点を 当てるものであり、地域社会や「エスニシティに無関心な人々」に迫ることを意図していな い。しかし、大学研究室の講座開設と研究者の人的継承、言語別の専門誌発行、そして「ズ デーテン・ドイツ人」を冠した機関誌の創刊は、ロゾヴィウクが整理したように、民族分化 が進展したチェコ社会における「ネイション」の認知過程に確かな影響を及ぼしたと考えら れる。歴史学をはじめとして、19
世紀における知の制度化が国民国家の形成と密接に結び ついてきたことはつとに指摘されているが、チェコ社会において「民俗学/
民族学」の制度 化が言語・民族別に進展したことは、国民国家チェコスロヴァキアにおける知の制度化にねじれをもたらした。チェコ語民俗学は新国家チェコスロヴァキアにおいて、「国家形成民族」
の学として制度化される一方、ドイツ語民俗学は「国家形成民族」たる「チェコスロヴァキ ア民族」に対抗する「ズデーテン・ドイツ人の民俗学」を生み出し、戦後は国境を越えて継 承されたという点で、ドイツ本国とは大きく異なっていた。「ズデーテン・ドイツ人の民俗 学」はチェコ社会に出自を持ちながら「チェコスロヴァキアの民俗学」ではない「失われた 故郷」の学として、「国民史」の狭間で制度化されたディシプリンであった。
2
点目は、ディシプリンの制度化と密接に結びついた議論としての「言語島」、その批判 概念としての「インターエスニック」論の問い直しである。戦間期に形成された「言語島」理論は、「ズデーテン・ドイツ人」のみならず、東欧やバルカン半島さらにはアメリカ大陸 へのドイツ系・チェコ系移住者への関心を呼び起こした。国外に移住したドイツ語住民をど のように「ズデーテン・ドイツ人」に包摂するのかという課題に、ドイツ語民俗学は直面し たのである。「言語島」理論そのものは、言語・民族文化の原初性を自明視し、民族間の対 立を強調することでナチズムの東欧侵攻と共犯関係に陥ったとの批判から、「民族文化」の 相互作用の分析を目指す「インターエスニック」概念が生み出された。ヴェーバー=ケラー マンの研究を礎にした近年の研究によれば、
19
世紀以降にルーマニア・バナト地方に入植 したのはチェコ語話者も同様であり、チェコ出身のドイツ語話者とともに「チェコ出身入植 者」としての「インターエスニック」な交流があったことが明らかにされている75。これら の研究の展開によって、在外ドイツ人/
チェコ人と「故郷」の関係を問い直すという視点も 開かれた。もっとも、「エスニシティへの無関心」であれ「インターエスニック」であれ、「エ スニシティ」という集合的アイデンティティを所与の前提とすることは、「集団主義」の再 生産として批判される。他方で、「ズデーテン・ドイツ人」「在外チェコ人」といった「カテ ゴリー」がいかに「エスニシティ」として「認知」「実践」されてきたのかについては、ロ ゾヴィウクの研究が示したように、アカデミズムの制度化という観点もまた有効な視座を与 えうる。「エスニシティ」そのものが、「カテゴリー化」に基づく「世界についての見方」で あり、「認知的視座」であるというブルーベイカーの論点に従えば、チェコ民俗学に代表さ れるアカデミズムの制度形成過程も、「エスニシティが実践の相互作用のなかで作動する」事例を提供しうるのではないだろうか76。