第七章 熊本・京都時代
一 熊本英学校へ
神の与えた同伴者
内村鑑三の生活は、妻しづを得てようやく安定してきた感があっ た。 し づ は 前 々 章
(第五章の四)で 詳 し く 述 べ た が、 当 時 京 都 地 方 裁 判所の判事であった岡田透の次女で、未だ十代、容貌に恵まれた女 性であった。しかも、貞淑で、貧しさにもめげず鑑三の生涯をよく 支えた。彼女は単純ながらキリスト教信仰をすでに持っていた。こ れは兄、 寛
ひろむの影響・感化であったかも知れない。アメリカの友人ベ ル 宛 書 簡 に は、 「彼 女 の 抱 く 信 仰、 す な わ ち 極 め て 単 純 な キ リ ス ト 教を除けば、 彼女は全く 「異教」 の女性です」
(一八九三・一・一一付)と書き付けていることも先に記した。やがてしづは、鑑三の感化で 確たる信仰を抱くようになる。鑑三はしづを、神が与えてくれた同 伴者と固く信じていた。 結 婚 後 二 人 は 協 力 し て、 結 婚 翌 月 の 一 八 九 三
(明治二六)年 一 月 八日から大阪基督教会の老松町講義所に日曜学校を開設する。来会 者はベル宛書簡では最初は八名、後には「内村夫妻以外に二〇名ぐ らい」になったという 。この年一月十日、勤務する大阪泰西学館の 第 四 回 卒 業 式 が 大 阪 基 督 教 青 年 会 館 で あ り、 鑑 三 は 式 辞
(告示)を 述 べ て い る。 卒 業 生 は 尋 常 科 二 名、 高 等 科 三 名、 計 五 名 で あ っ た。 それにしても泰西学館は在学生が少なく、経営は容易ではなかった ようだ。当時のベル宛の書簡にも、そのことは出てくる。
(1)
内村鑑三 闘いの軌跡㈦
A Critical Biography of UCHIMURA Kanzō (Part 7)
関 口 安 義
SEKIGUCHI Yasuyoshi
当時鑑三は、財政的には極度に苦しい新婚生活を送っていた。し づはそうした鑑三を精神的になにかと支えた。彼女は若く、健康に も恵まれていたので、多少のことにはめげなかった。が、鑑三には 自分たちの生活ばかりか、東京にいる老いた両親と弟妹を支える義 務 が あ っ た。 す ぐ 下 の 弟 達 三 郎 は、 中 等 学 校
(旧制中学)の 教 師 や 翻訳で、何とか独立していたが、他の肉親は彼の援助に期待してい たのである。その負担は容易ならぬものがあった。 個人の精神の自由を第一に考える鑑三ではあったが、一方で彼は 幼少時から四書・五経をたたき込まれていただけに、 「父母に孝に」 の教えからの離脱は考えられなかった。そのためには、長男である 自分が稼ぎ、家族を養わねばならないとの義務感から、一時も抜け 出すことはできなかった。彼は経済的に富みたいとの思いが尽きな かった。鑑三は京都時代の著作『後世への最大遺物 』でも説くよう に、金銭を得ることを単純に否定しない。彼には金銭の必要が、そ の貧しい状況の中で痛いほど知らされていたのである。 では、彼に出来ることは何か。教師という職業は、彼には打って 付 け の 仕 事 と 思 わ れ た。 し か し、 帰 国 後 す ぐ に 勤 め た 北 越 学 館 は、 宣教師の横暴を指摘したことや、学校の運営方針をめぐる紛争で追 われる。次に彼には最もふさわしいと思われた最高の学府としての 職 場、 第 一 高 等 中 学 校
(後の第一高等学校)も、 不 敬 事 件 で こ れ ま た 追われる。 他の諸学校でも、彼はそれなりの努力をしたものの、非常勤教師 の待遇など高が知れており、一家を養うなど到底出来るものではな かった。 彼は常勤の仕事を求めて、 はるばる大阪まで来たのである。 泰西学館の生徒は、 鑑三には満足できる 「 慧
かしこい青年」 の群れで、 「つ まらぬ 僕
しもべなる私の命のままに、右にでも左にでも、よろこんで従お うとしています 」と、これもアメリカのD・Cベル宛書簡に書いて いるほどであった。 けれども大阪泰西学館の待遇は、専任とはいえ給与は微々たるも ので、結婚して家庭を持ち、しかも東京にいる両親と弟妹を支える には到底足りるものではなかった。鑑三の生活は、貧窮のどん底に あった。彼はしづとの生活と老父母と弟妹のためにも、転職を考え ざるを得なかった。
大阪泰西学館を退職し、熊本英学校へ
一 八 九 三
(明治二六)年 の 春 四 月、 内 村 鑑 三 は 愛 着 の あ っ た 泰 西 学館を依願退職し、アメリカ時代からの友、 蔵
くら原
はら惟
これ郭
ひろが校長を務め る熊本英学校に赴任した。 熊 本 英 学 校 は 一 八 八 八
(明治二一)年 四 月 二 〇 日、 熊 本 市 に 設 立 されたミッションスクールである。初代校長は鑑三とも面識のあっ た海老名弾正で、蔵原惟郭は二代校長にあたった。この学校は当時 学 校 騒 動
(奥村禎次郎事件とも呼ばれる)を 蒙 っ て い た。 そ の 概 略 を 記 す と、 一 八 九 二
(明治二五)年 一 月 十 一 日 に、 蔵 原 惟 郭 が 校 長 に 就 任する際、同校の教員奥村禎次郎が演説を行った。その演説の中で 国際的な博愛平和主義を述べたところ、これが教育勅語の趣旨に反 す る 発 言 だ と さ れ、 『九 州 日 日 新 聞』 な ど が 奥 村 を 批 判 中 傷 し た。 こうした記事に扇動された保守的な地元の青年の中には、英学校に 決闘状を送る者さえ出現する。 熊本県知事松平正直は、同年一月二十五日に英学校に奥村の解雇 を命じた。が、蔵原校長は奥村を弁護し、評議会も知事に解雇命令
(2) (3)の撤回を要求する。しかし、生徒会が集会を開いて知事命令の支持 を決議し、評議会もこれに同調するという新たな事態を迎え、柏木 義円ら優秀な十一名の教員は、学校側に対して知事命令の撤回を要 求するものも、聞き入られなかっため辞職するという事件に発展し た。 すでに記したように、鑑三は蔵原惟郭との友情もあり、この事件 には同情の立場を取っていた。それゆえ、事件後の学校側の教員補 充の依頼に際しては、当時は仲のよかったすぐ下の弟、達三郎を含 む 札 幌 農 学 校 の 卒 業 生 に 当 た っ た り し た が、 望 む 人 材 は 得 ら れ な かった。鑑三は泰西学館に勤務することで、以前専任として勤務し た 官 立 学 校
(第一高等中学校)と の 経 済 的 格 差 を 身 を も っ て 実 感 し て いたものの、蔵原らからの教員推薦依頼に応えられなかったことも あって、自らが熊本行きを決意する。 この辺の事情と熊本生活初期の様子は、D・C・ベル宛、一八九 三
(明治二六)年 五 月 十 三 日 付 の 英 文 書 簡 に 詳 し い。 こ こ で も 山 本 泰次郎訳によって、その骨子を書き抜いておきたい。鑑三は、はじ めに 「 文
もんなし、 心なし、 信仰なし、 その他の 「無しども」 を相手に、 八カ月以上も大阪で善き戦を戦った後、私はその地の学校を手離し てしまいました。サタンの手に渡した、とは申しませんが、少なく とも運命の手に引き渡し、そしてしばらくの勤めのため、当地へ来 ました」と書く。次に泰西学館の校長宮川 経
つね輝
てるの偽善性に及ぶ。読 み手は外国人、しかも英文であるからこそ、以下のように、率直に そ の 事 情 を 記 し 得 た も の と 言 え そ う で あ る。 鑑 三 の や り き れ な さ は、極度に達していた。 とにかく昨秋申上げたように、私が始めて仕事に関係した時 には、学校はすでに収拾すべからざる状態にあり、その起死回 生 の た め に 身 を 投 じ よ う と す る 者 は、 私 の よ う な 馬 鹿 者 だ け だったのです。組合協会の牧師で学校長なる宮川牧師は、私を 学校に引き留めておく望がすっかり絶えたと知るや、親切にも 私に向って、自分や同僚は君に半年以上俸給を払うつもりは全 くなかった、 ただ一つの試みとして君を迎えたに過ぎなかった
4444444444444444444444の だ
44! と 告 げ て く れ ま し た。 そ れ ば か り か 彼 は 友 人 た ち の 前 で、内村に近づくにはお追従さえ言えばよい、そして、この学 校を破滅から救い得る者は君だけだ、と言ってやれば必ず喜ん で働く、と語った由です。この一部始終が分った時、もちろん 私は一ときも自分の位置に留まることはできませんでした。た だこんな事業にアナタのご援助とご同情とを仰いだことを、こ の上なく悲しみます。
鑑三にはプライドがあった。宮川経輝の本心を知り、生徒たちに は愛着があったものの、泰西学館を直ちに去ることにして、友人蔵 原 惟 郭 が 校 長 を 勤 め る 熊 本 英 学 校 へ 短 期
(三ヶ月)の 応 援 教 師 と し て赴くのであった。
熊本英学校と当地での生活
ベル宛の手紙の続きには、新たな赴任地熊本英学校と、そこでの 当初の生活が記されているので、引き続き引用しよう。
この熊本は九州島最大の都です。この地に私の友人で、東京
とボストンで一緒に勉強した蔵原博士が立派な学校を経営して おり、ちょうど教師を一人望んでいましたので、同君の客分と して、また協力者として、やって来ました。この学校は大阪の ものよりははるかにしっかりしており、職員もしっかりしたク リスチャンでかためられ、その上校長は子供の時からよく知っ ていますので、二度と再び欺かれるおそれはありません。これ は 独 立 の キ リ ス ト 教 的 学 校 で、
―生 徒 は 目 下 百 二 十 名
―、 先月より五十名以上も増加しています。この地にもアメリカ宣 教師団が伝道所を有し、私はすでにその宣教師諸君と楽しい交 友を結びました。われわれはお互に近くに住んでいますが、こ んな文化に遠い土地で、アメリカ流の歓待を受けうることは実 に愉快です。私と妻とは静かな田舎家に、善良な信者の一家と 共に住んでいます。庭は大変に広く、色々な温帯植物が茂って います。出たての竹の子の成長を観察することは何よりも面白 く、時には二十四時間に十インチものびます。ある朝、ちょう ど私の丈けだったのが、翌朝は私の指先がほとんど届かぬほど になりました。また家にはカイコがかってあり、四周は皆、桑 畑です。目下茶摘み中で、ツツジとシャクヤクとが咲いていま す。天然は皆、昔ながらの力と美とを保っていますが、ただ人 のみが悪にそみ、罪に死んでいます。
鑑三は熊本に来て、生き返った思いを持つ。彼を悩ました不眠症 も快癒に向かっていた。妻しづにも熊本行きは、新婚旅行的効果を もたらした。 「静かな田舎家」で、 「庭は大変に広く」て温帯植物が 生 い 茂 る と い う 環 境 は、 二 人 の 生 活 に よ い 結 果 を 与 え た よ う で あ る。熊本では最初蔵原惟郭の家の二階に仮住まいし、すぐに大江村 是 法
(現、熊本市大江町)の 二 階 建 て の 古 い 大 き な 家 に 移 っ た。 そ れ まで鑑三は東京の狭い家や大阪の貧しい借家暮らしで息詰まってい た。それが三ヶ月という短い期間ではあったものの、竹の子の生え る広い庭があり、周囲は桑畑や茶畑で、ツツジやシャクヤクが咲く 自然環境は、新婚の二人にとって神からの何よりものプレゼントと 思われたことであろう。が、熊本での生活は夏までの三ヶ月で、そ の 先 の こ と は、 目 安 が 立 っ て い な か っ た。 「今 秋 以 後 ど こ に 勤 め る かは、 まだ何もきまっていません」 とこの手紙で鑑三は記している。 鑑三の右の便りを含むベル宛の書簡は、どれもが若き日の内村鑑 三という類い稀な思想家の出発を知るのに貴重である。右の便りに は、続いて鑑三の著作『基督信徒の慰』の反応と以後の著作計画が 記されている。以下のようだ。
私の著作が善い働きをしていることは感謝に堪えません。売 れ行きは頗るよく、その善き働きの結果を報ずる手紙が、全国 到るところから来りつつあります。もし現在只今、どんな仕事 を一番望んでいるかと問われるならば、聖書の分り易い注解書 を書くことを先ず第一にあげます。
在野の教育者
内村鑑三の神に捧げた生涯の出発は、ここにあった。旧約聖書三 十九巻、新約聖書二十七巻、合わせて六十六巻の聖書研究は、彼の 生涯の大事業となるが、その覚悟は熊本時代に早くも現れていたの である。
D・ C・ ベ ル 宛 の 次 の 便 り
(熊本にて、一八九三・六・二五付)の 一 節 に は、 「私 ど も は 来 る 七 月 十 一 日 に 当 地 を 去 り、 海 浜 に 四 週 間 を 過ごした後、秋から京都に落ちつくつもりです」とある。京都には 妻 し づ の 実 家 が あ り、 し ば ら く 過 ご す に は 好 都 合 だ っ た の で あ ろ う。彼は教育事業には未練があった。自身の能力・適性も教育にあ ると彼は信じて疑わなかった。物事に対する知的関心、人を説得さ せる弁舌、自然と備わったカリスマ性、
―これらは教育者には必 須の条件である。それらが彼には豊かに備わっていた。重ねて言お う。鑑三には教育者としての豊かな資質があったと。 しかし、現実の学校は、不敬事件を生んだ第一高等中学校のよう な公立学校のみならず、帰国後最初に勤めた北越学館のような私学 のミッションスクールにも、さまざまな制約や問題があった。自身 の 教 育 上 の 主 義 や 方 策 が 歓 迎 さ れ な い の が 分 か る に つ れ、 鑑 三 は 「教 育 事 業」 か ら 手 を 引 か ざ る を 得 な か っ た。 け れ ど も、 制 約 の 少 ない日曜学校や青年たちへの教育には、生涯関心を持ち続けた。そ ういう意味からすると、内村鑑三は生涯在野の教育者であったと言 えそうだ。以後、彼は一時勤務した名古屋英和学校を除くと、公私 学を問わず、教育機関には一切携わることなく、東京に居を定めた 後は、角筈の自宅で、さらに柏木に移ってからは、今井館聖書講堂 に恵まれ、深い聖書研究に基づいた教育に生涯当たったのである。 今 井 館 聖 書 講 堂 に 関 し て は、 後 章
(第九章)で 詳 説 す る。 鑑 三 を 慕 う 青 年 た ち に は、 早 く は 文 学 者 の 国 木 田 独 歩 が、 続 い て 有 島 武 郎・ 小 山 内 薫・ 正 宗 白 鳥 ら が い た。 し か し、 彼 ら は 皆 鑑 三 の 厳 格 な教育について行けず、 その許を離れる。 柏木に居を移してからは、 より若い世代の一高生を中心とした優秀なメンバーが、新渡戸稲造 の 紹 介 で、 鑑 三 の 門 下 生 と し て 集 う よ う に な る。 鶴 見 祐
ゆう輔
すけ・ 前 田 多
たもん聞 ・藤井武・塚本虎二・黒崎幸吉・川西實三・三谷隆正・森戸辰 男・高木 八
やさか尺 ・田中耕太郎・矢内原忠雄・三谷隆信らの「柏会」の 人々、南原繁・坂田祐・松本実三・石田三治・ 高
たか谷
や道雄などを中心 と し た 白
はく雨
う会 の 人 々 な ど で あ る。 彼 ら の 中 に は、 後 年 日 本 の 知 的 リーダーとして名を残した人が多い。そうしたことは、後章で追い 追い述べることにしている。再び言おう。鑑三は豊かな教育者とし ての資質に恵まれていたと。それが発揮できないところに、当時の 彼の遣り場のない苦しみ、苛立ちがあったのである。
著作による収入
この頃、鑑三は著作による収入を考え始めていた。彼の初期の優 れ た 著 作 は、 苦 難 の 中 で 書 か れ て い る。 処 女 出 版『基 督 信 徒 の 慰』 をはじめ、 『求安禄』 『 路
ル得
ツ記』 『後世への最大遺物』 、 訳詩集 『愛吟』 など、 皆然りである。 英文で書かれた
How I Became a Christian(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』)も こ の 時 期 の も の で あ る。 こ れ は 自 身 の 日 記 を 基 に、 読 者 対 象 を ア メ リ カ 人 に 限 定 し て 書 か れ た。 が、アメリカでの刊行はなかなか進まず、結局、昵懇となっていた 福永文之助の警醒社書店から英文のまま刊行
(一八九五・五)された。 これらの著作には当時の鑑三の現実の反映が認められる。当初はや り切れない現実からの解放としての執筆活動であった。が、それが 著書となって世に出、好評を博すると、彼は己の才能がここにあっ たかと思うようにもなる。 鑑三はもともと書くことが好きであった。父から教わった四書五 経、少年時代から受けた英語教育、札幌農学校時代からの聖書の熟
読、 そ れ に ヨ ー ロ ッ パ 文 学 へ の 親 炙、 さ ら に は 留 学 時 代 に ふ れ た ヨーロッパ諸国語、また、ヘブル語・ギリシャ語など聖書研究に落 とすことの出来ない言語の習得は、彼を優れた言語表現者にもして い た。 彼 に は 文 章 表 現 で も、 口 頭 表 現
(講演や説教)で も 抜 群 の 能 力 が具わっていたといえよう。初期の『基督信徒の慰』は、文章表現 の代表であり、後述する『後世への最大遺物』は、もともとは口頭 表現であったものを文章化したものである。鑑三は日本語ばかりか 英 文 で も 優 れ た 文 章 を 書 い た。 そ の 代 表 は、 右 に あ げ た
How I Became a Christianである。彼は文筆家として生きることを決意す る。 そ の 主 要 な 舞 台 は、 後 年 の 雑 誌『聖 書 之 研 究』 で あ る こ と は、 言うまでもない。 『基 督 信 徒 の 慰』 の 出 版 上 で の 成 功 は、 彼 に 物 書 き と し て 生 き る こ と を 覚 悟 さ せ た 第 一 歩 で あ っ た。 世 は 新 し い 歩 み を は じ め て い た。書くことで生活を維持する志向は、なにも鑑三独りに留まらな い。 当 時 の 知 的 青 年 一 般 の 動 向 と も 重 な る。 一 八 八 五
(明治一八)から翌年にかけて、坪内逍遥が文学理論『小説神髄』を刊行して以 後、 二 葉 亭 四 迷 の「浮 雲」
(一八八七~一八八九)に は じ ま る 近 代 小 説 の試みが続き、一方、尾崎紅葉・山田美妙などが硯友社という文学 結社を興して、小説を書く青年が出る。また、三宅 花
か圃
ほ・樋口一葉 ら女性作家の誕生もあって、文筆活動が生計を助けるという気運が 盛り上がっていた。しかも、彼らの書くものには、娯楽中心の江戸 戯作とは一線を画すものがあったのである。 前章で詳しく述べた『基督信徒の慰』をはじめとする内村鑑三の 初期の文筆活動も、近代の意識に目覚めたこれらの人々の表現活動 と、まったく無縁とは言えないであろう。鑑三は漢文や和文のみな らず、英文でも多くの本を読んでおり、日本語の表現活動にも 長
たけ ていた。 そうした中で生計を助けるため、 なにがしかの金銭を稼ぐ、 その方法としての文筆活動に、彼はいつか慣れ親しんでいく。彼は その才能にも恵まれていたと言えよう。私小説ふうの『基督信徒の 慰』や訳詩集『愛吟』は、この時期の彼の代表作でもある。 『基 督 信 徒 の 慰』 に 続 い て、 鑑 三 は『紀 年 論 文 コ ロ ム ブ ス 功 績』 を前著と同じ 警
けい醒
せい社
しゃ書店から刊行した。奥付によれば、前著刊行二 日 後 の 一 八 九 三
(明治二六)年 二 月 二 十 七 日 の 刊 行 で あ り、 立 て 続 け の 刊 行 で あ っ た。 鑑 三 は『六 合 雑 誌』 の 前 年 九 ~ 十 一 月 号
(一四一~一四三号)に、 「コ ロ ム ブ ス 文 学」 「コ ロ ム ブ ス の 行 績」 「米 国 発 見事業の事務官 ピンゾン 兄弟」を発表していた。また、コロンブス に関する史伝を 『基督教新聞』 の四八三~四八九号
(一八九二・一〇・二八~一一・四)に 連 載 し た。 本 書 は こ れ ら の 論 文 を 集 め、 一 本 と し たものであった。
警醒社書店の出発
発行元の警醒社書店は、日本のプロテスタント最初の超教派に立 つ出版社であり、現在の新教出版社の前身の一つでもある。創立は 一 八 八 三
(明治一六)年) 七 月 で、 発 起 人 は 植 村 正 久・ 湯 浅 治 郎、 小崎弘道らであった。当時は福永文之助が社長を務めていた。福永 に は『回 顧 二 十 年』
(警醒社書店、一九〇九・一)と い う 編 著 も あ る が、 キ リ ス ト 教 出 版 に 生 涯 を 捧 げ た 人 物 で あ る。 彼 は『 七
しち一
いち雑
ざっ報
ぽう』、 続 いて『福音新報』を創刊した今村謙吉の許に少年文選工として入っ たのが、キリスト教出版とのかかわりであった。 西
にし阪
ざか保
やす治
はる・ 河
こう本
もと哲 夫・秋山 憲
のりえ兄 著『日本キリスト教出版史夜 話
(4)』という小冊子ながら
貴重な証言集がある。本書の冒頭に西阪保治が「日本文書伝道の発 祥」 を 書 い て い る が、 中 に「今 村 謙 吉 と 福 永 文 之 助」 、 そ れ に「警 醒 社 の 出 発」 と 題 し た 項 目 が あ る。 今 村 謙 吉 は 金 沢 の 士 族 の 出 で、 当時は神戸組合教会の会員で、英国聖書教会の邦語訳聖書など、キ リ ス ト 教 出 版 物 の 印 刷 製 本 を 手 広 く 行 っ て い た。 以 下、 『日 本 キ リ スト教出版史夜話』から今村と福永のかかわりに関しての、さわり の部分を引用しよう。
今村謙吉の印刷所に働く工員は五十余名その中に福永文之助 という少年文選工がいた。工場主は聖日を厳守し、工員を引き つ れ て 自 分 の 属 す る 神 戸 組 合 協 会 に 出 席 し た。 そ う す る 中 に、 少年文選工福永は遂に入信、松山高吉牧師から受洗、のち主人 の信用を得、抜擢されて当時元町に、今村が印刷所と共に経営 し て い た キ リ ス ト 教 書 店 福 音 社 の 主 任 と な っ た。 こ の 福 永 こ そ、警醒社を経営した福永文之助なのである。 福永は紀州熊野の産、今村の工場に入ったのは年齢十八、幼 名 を 熊 之 助 と い っ た と き く が、 も し、 そ れ に 誤 り が な け れ ば、 紀州の山奥から出て来た熊さんは、その一生をキリスト教の文 書 に 奉 仕 す る 文 さ ん、 文 之 助 に な っ た わ け で あ る。
(以上、「今村謙吉と福永文之助」)これより先、東京では文書によるキリスト教宣教を目的とす る何らかの団体あるいは会社の如きものを作ろうという議が牧 師有志の間に持ち上がっている。結局湯浅治郎、植村正久、小 崎弘道らの諸氏が、その 肝
きも煎
いり役となって出発したのが警醒社で ある。その後、この警醒社の経営がむずかしくなったのを聞い た今村謙吉は、直ちに福永を上京させたのである。この時から 警醒社の経営は福永文之助の手に引きつがれた。かくして、そ の一生をキリスト教出版に捧げつくした福永文之助の功績は今 さら言うまでもないが、明治の中期より大正を経て昭和の中期 に至る約七十年の間に、警醒社が発行したキリスト教書類の数 は約二千種、発行部数は五十万、著書もまた六百を数えるので あ る。 特 に 圧 巻 は、 一 九 一 一 年
(明治四四)に 刊 行 さ れ た 高 木 壬
みず太
た郎
ろう著『基督教大辞典』であろう。
(以上、「警醒社の出発」)内 村 鑑 三 が 右 の よ う な 経 歴 の 福 永 文 之 助 と 出 会 っ た の は 幸 運 で あった。鑑三が福永と親しくなるのは、不敬事件一年後、生活困窮 の最中にあった頃のことである。 年譜
(『内村鑑三全集担っていた。 京 橋 講 義 所 に 通 い、 教 会 の 会 計 係 を し、 月 々 の 謝 礼 を 渡 す 役 割 を 橋 講 義 所
(教会)時 代 に 鑑 三 は 福 永 文 之 助 と 知 り 合 う。 当 時 福 永 は 一八九二年一月とは不敬事件からちょうど一年後に当たる。この京 義 所 で 毎 日 曜 日 朝 の 聖 書 講 義、 夕 の 説 教 の 担 当 に き ま る」 と あ る。 一 八 九 二
(明治二五)年 一 月 の と こ ろ に「日 本 組 合 基 督 教 会 京 橋 講
40』収録)には、
福永文之助
福 永 は 鑑 三 の 力 強 い 説 教 と 祈 祷 に、 深 く 共 感 す る と こ ろ が あ り、 何かと便宜を図るのであった。警醒社書店は東京京橋にあり、京橋 講 義 所 と も 近 か っ た の で、 鑑 三 は 以 後 し ば し ば 立 ち 寄 る こ と に な る。福永はそれを喜び、来れば鑑三好みの鰻丼と 羊
よう羹
かんとを出しては 歓待したという 。鑑三が京橋講義所を去り、大阪の泰西学館に赴任
(5)するのは、同年九月のことであるから、福永文之助との交流は、こ の時期がピークであったようだ。 鑑 三 が『基 督 教 新 聞』
(一八九二・九・二、九)に 載 せ た「未 来 概 念 の現世に於ける事業に及ぼす勢力」という論文を、警醒社書店から 小 冊 子 と し て 出 し た の は、 泰 西 学 館 時 代 の 一 八 九 二
(明治二五)年 十 月 二 十 四 日 の こ と で、 厳 密 に 言 う な ら 鑑 三 の 最 初 の 著 書 と な る。 が、なにぶん小冊子ゆえ、これを以て処女出版とは言い難い面があ るとは、前章でもふれたところだ。 そ こ で 世 上 一 般 に は 鑑 三 の 処 女 出 版 は、 『基 督 信 徒 の 慰』 と さ れ る の だ が、 そ れ は と も か く、 鑑 三 が 警 醒 社 書 店 の 経 営 者
(社長)の 福永文之助と知り合った意味は大きい。鑑三初期の代表的著作の多 くが、警醒社書店から出ることになるからである。書物は著者に惚 れ込んだ出版人やパトロンがいて、はじめて後世に遺るものだ。そ の意味では鑑三は常に恵まれていた。後述するところだが、鑑三の 代 表 的 著 作 と さ れ る『 羅
ロ馬
マ書
しょの 研 究』
(向山堂書房・聖書研究社、一九二四・九)に し て も 然 り で あ る。 こ れ は 鑑 三 フ ァ ン の 古 賀 貞 周 が 出 版費用を全額提供し、七〇〇ページを優に越す美本として日の目を 見 た も の で あ っ た。 な お、 『羅 馬 書 の 研 究』 に 関 し て は、 第 十 一 章 で詳説する。
二 京都に移り、著作に打ち込む
舞子の浜の夏期学校
一 八 九 三
(明治二六)年 七 月 十 一 日、 鑑 三 と 妻 し づ は 熊 本 を 去 り、 しばらく須磨に滞在の後、京都に落ち着く。京都には妻しづの実家 が あ り、 何 か と 好 都 合 だ っ た の で あ ろ う。 須 磨 で は こ の 後 記 す が、 舞子の浜で開催された基督教青年会の第五回夏期学校に参加し、演 説
(講演)をしている。 後年鑑三は、 「故横井時雄君の為に弁ず」
(『聖書之研究』三三四、三三五、一九二八・五~六)を 書 い た 折、 こ の 演 説 を 回想して次のように書く 。
舞子の浜に開かれし青年会の夏 [期] 学校に於て、横井君が 現
4世的基督教
44444を主張せられし後を受けて、私は同じ高壇に立ちて 来 世 的 基 督 教
444444を 主 張 し ま し た。 至 つ て 仲 は 善 く あ り ま し た が、 宗教論を闘はすたび毎に議論は終に物別れになりました。要す るに君は外に広がらんと欲し、私は内に深からんと欲したので あります。
現世的基督教
444444と 来世的基督教
444444とは、なかなか含蓄に富んだことば だ。しかも、二人の神学的立場の違いをはっきりと示している。横 井の後半生の悲劇が 現世的基督教
444444にあったことも語っているかのよ う だ。 こ の 夏 期 学 校 で 鑑 三 は 海 老 名 弾 正 に 会 い、 熊 本 英 学 校 の 近 況 も 伝 え た。 前 述 の よ う に 海 老 名 は 熊 本 英 学 校 の 初 代 校 長 で あ り、 話は当然熊本の英学校の様子にも及んだ。海老名弾正は、その時の 様子を以下のように記している 。
内村君が悲境にあつた頃、熊本の英学校でひそかに教鞭を取 つて呉れた事がある、その学校は私が建てた学校である、然し 私に相談した訳ではない。その帰りに須磨に夏期学校があつた 時である。熊本の英学校といふのは当時蔵原 惟
これ郭
ひろ君がやつてを
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つたが、学校に問題があつた。それは宣教師と蔵原君との衝突 であつた。私は宣教師を迎へた方で、宣教師に半分、蔵原君に 半 分 の 態 度 を 取 つ て ゐ た。 内 村 君 が 言 ふ の に、 「海 老 名 君、 学 校は蔵原君に一任だよ、あれは一生懸命にやつてゐるから、あ れにやらせるより他ないよ」と。斯くして私が内村君の勧告を 採用した――兎に角私を決心せしめたといふことがある。
鑑三はアメリカ時代からの友人蔵原惟郭を信じていた。鑑三の熊 本滞在は、わずか三ヶ月とはいえ、新婦のしづとの新婚生活でもあ り、また、先にも記したように、寄寓した大江村是法の家の庭は広 く、季節は春とあってさまざまな花々、竹の子など珍しい植物の観 察も出来、鑑三としづにとってはよき体験であった。学校はもとも と三ヶ月の臨時採用であり、不満があって辞めたのではない。この ことは強調しておきたい。それゆえ蔵原惟郭には感謝の念はあって も不満はなかったはずだ。 舞子の浜の基督教青年会夏期集会は、この年七月八日から十九日 まで、十二日間にも亘って開催された。ちょうど各学校は夏期休暇 中 で、 出 席 者 は 六 三 四 名 も の 多 く を 数 え た と さ れ る。 各 地 の ミ ッ ションスクールの生徒も多く参加した。鑑三は期間全部の参加では なく、後半に加わり、十七日の講演会に合わせて参加したものと思 わ れ る。 そ れ ま で は し づ と 旅 館 に 籠 も り、 ひ た す ら 原 稿 執 筆 に 当 たったのであろう。 『基 督 信 徒 の 慰』 再 版
(明治二六年八月一四日刊行)の「第 弐 版 に 附 す る 自 序」 に は、 「明 治 廿 六 年 七 月 十 八 日 鉄
てっ拐
かい山
さんの 麓 に 於 て」 とあることからすると、この再版の「自序」は、夏期集会の講演会 翌 日 に 書 か れ た こ と に な る。 鉄 拐 山 と は 源 平 の 古 戦 場 と し て 名 高 い、六甲山地南西端の山である。
居を京都に移す
さて、舞子の浜の基督教青年会第五回夏期集会に参加し、無事講 演 も 終 え た 内 村 鑑 三 は、 前 述 の よ う に 八 月 に は 居 を 京 都 に 移 し た。 何度も書くが、京都は妻しづの実家のある街である。当初彼は妻の 實家、岡田家の下立売通室町の家に何日か寄寓し、やがて近くの京 都市上京区小川西大路町五に居住することになる。定収入もない極 貧の日々であり、おそらく岡田家から多少の生活援助を受けていた ものと思う。しかし、それは自尊心の強い鑑三には、屈辱以外の何 物でもなかったのである。 鑑 三 に 師 事 し た 政 池 仁 が 後 年、 鑑 三 夫 人
(しづ)か ら の 直 話 な ど と し て 伝 え る と こ ろ で は、 「彼 女 の 実 家 の 父 母 が 心 配 し て 彼 女 に 公 債証書などを渡してくれたこともあった。しかし、それはわずかで あって、後年内村は「僕らが今日あるを得たのは岡田の父が、僕ら がどんなに貧乏しても放っておいてくれたからである」と語った と ある。 政 池 仁 は 右 の 証 言 に 続 い て、 「あ る 年 の 暮、 内 村 が 岡 田 家 を 訪 問 し た 際、 岡 田 の 両 親 は 正 月 に な っ て も 餅 も つ け な い だ ろ う と 察 し て、 みやげに餅を贈った。 内村はこれを持ち帰る途中、 鴨川にかかっ て い る 一 つ の 橋 の 上 に 来 た 時、 「男 子 が 正 月 の 餅 を さ え 他 人 に 恵 ま れるとはなさけない」と言って、それを水の上に投げ込んでしまっ たという話が残っている」と書く。出典は定かでないが、鑑三なら ば、さもありなんと思わせる逸話であると言ってよい。
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折角の餅を鴨川に捨てた話しは、新保祐司の『内村鑑三 』にも出 てくる。こちらは餅を捨てるために、鴨川まで行ったことは、生活 をどうすべきか何かと考えあぐねて歩きまわったことの証であると す る。 新 保 は ま た 鑑 三 の 京 都 時 代 を、 「信 仰 的 ド ン・ キ ホ ー テ」 で あったと書する。京都で鑑三は、今後の生活をいかにすべきかに思 いを巡らす。教師生活には未練があったものの、とりあえずは生活 の糧を得るには、書いて稼ぐほかなかった。彼は妻の実家に近い家 で、終日執筆に励むこととなる。一方で関西学院基督教青年会を助 け、 依 頼 さ れ る な ら ば 演 説
(講演)を し た り、 三 高 基 督 教 青 年 会 の 日曜学校での聖書講義を引き受けたりした。 先 に 題 名 の み 挙 げ た 訳 詩 集『愛 吟』 は、 こ の 時 期 に ま と ま っ た。 そ し て、 一 八 九 七
(明治三〇)年 七 月 五 日、 こ れ も ま た 福 永 文 之 助 の 警 醒 社 書 店 か ら 刊 行 さ れ て い る。 『国 民 之 友』 を は じ め、 い く つ かの雑誌や新聞が取り上げ、鑑三言うところの〈精神訳〉の意味を 論 じ て い る。 現 全 集 の「解 題」
(亀井俊介担当)では、『愛吟』を、原詩を基とした「鑑三の半創作的な翻案詩」と評している。なお、亀井によると、「この詩集は、内村鑑三の生前に二五版を重ね、彼の最もよく読まれた本のひとつとなった」とのことである。わたしは『愛吟』が当時の日本の青年層に、どのように読まれた か に 関 心 が あ っ た が、 森 本 穫 の『阿 部 知 二
原郷への旅』 に、 そ の 例 のいくつかを見ることができた。森本は阿部知二研究の途次で、知 二の従兄弟で、志半ばで肺病で亡くなった阿部舜次という人物に注 目する。森本の調査では、舜次は明治文化史研究家となる木村毅と も親戚関係があり、 木村は舜二から英語を学び、 同時に鑑三訳の 『愛 吟』を勧められ、読んだという。そうした『愛吟』にまつわること どもを、入念な調査で明らかにしている。また、同じ頃の正宗白鳥 も、鑑三ファンであり、 『愛吟』の愛読者あったことも指摘する。
国木田独歩が訪れる
鑑三はこの時期、次々と書物をまとめた。彼は文章を書いて本に することが、経済的に多少生活を潤すことを知って、それが生き甲 斐ともなっていた。自己の考えを他者に理解してもらうには、演説
(講演)も い い が、 書 物 に 勝 る も の は な い。 た と え 五 〇 〇 ~ 一 〇 〇 〇 部ほどの小出版であろうと、書いたものは、なにがしかの金銭とな り、それは永遠に残る。しかも、それが己の生きた証明ともなるこ とを彼は知ったのである。 熊本から京都に移った頃の内村鑑三には、文筆生活こそ己にふさ わ し い 仕 事 で あ る と い う 考 え が 次 第 に 分 か り は じ め て 来 た の で あ る。彼は己に鞭打って日々執筆に当たった。幸い彼を支え、その出 版を支えた書店があった。先に触れた東京京橋の警醒社書店がそう で あ り、 こ の 年
(一八九三)年 七 月 下 旬 に 脱 稿 し、 十 二 月 十 五 日 の 日 付 で 刊 行 さ れ た『
貞操美談路
ル得
ツ記
き』 を 刊 行 し て く れ た 大 阪 の 福 音 社もそうであった。 福音社は先に警醒社書店のところで触れた今村謙吉が、大阪の土 佐堀ではじめた出版社であり、当初は印刷、製本、書籍販売を業と していた。その後、今村が金沢から呼び寄せた矢部外次郎の手に移 り、 「場 所 も 新 町 通 り に 移 転、 大 阪 に お け る 唯 一 の 聖 書、 讃 美 歌、 キリスト教書類取次販売店福音社となった 」 出版社である。 『
貞操美談路 得 記』 の 内 容 や 反 響 に 関 し て は、 こ の 後 に 述 べ る こ と に し て いる。
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ところで、京都時代の鑑三の許に、彼を慕う国木田独歩が訪れる の は、 一 八 九 六
(明治二九)年 の 夏 の こ と で あ っ た。 独 歩 は 一 八 七 一
(明治四)年 八 月 三 〇 日、 千 葉 県 銚 子 市 の 生 ま れ で、 広 島 や 山 口 県で育つ。 鑑三とは十歳ほどの年齢差があった。 東京専門学校
(現、早稲田大学)英語政治科中退。 早くからワーズワースやツルゲーネフ、 カ ー ラ イ ル な ど を 愛 読 す る。 一 八 九 一
(明治二四)年 一 月、 日 本 基 督教会一番町教会で、牧師植村正久より洗礼を受けている。独歩は 徳 富 蘇 峰 の 国 民 新 聞 社 勤 務 時 代『国 民 之 友』
(二三三~二五一号、一八九四・八・二三~一八九五・四・二三)に 連 載 さ れ た 鑑 三 の「 流
りゅう竄
ざん録
ろく」 を 読 み、 は じ め て そ の 存 在 を 知 っ た と い う。 「流 竄 録」 は 鑑 三 の ア メリカ時代、エルウィンの障害児施設で半年ほど働いた時の体験が 基になって生まれた話である。近年の河内重雄の労作『日本近・現 代 文 学 に お け る 知 的 障 害 者 表 象』 で は、 独 歩 の「春 の 鳥」 は、 「流 竄録」のかかわりが強く意識された小説との考えを示す 。
「欺かざるの記」の鑑三評
独歩が尊敬していた鑑三と、書信を通して親しく交わるようにな る の は、 徳 富 蘇 峰 の 民 友 社 に 入 り、 『国 民 之 友』 の 編 集 に 従 う よ う に な っ て か ら の こ と で あ る。 独 歩 は 一 八 九 一
(明治二四)年 一 月 の 鑑三の関わった不敬事件を深く心に留めており、彼を慕い、やがて は書信の交わりがはじまる。独歩が「流竄録」にはじめて触れたの は、 日 記「欺 か ざ る の 記」 に よ れ ば、 一 八 九 四
(明治二七)年 八 月 二 十 六 日 の こ と で、 翌 一 八 九 五
(明治二八)年 一 月 二 十 二 日 の「欺 か ざ る の 記」 に は、 「昨 日 内 村 鑑 三 氏 の 流 竄 録 を 読 ん で、 突 然 一 ッ の恐ろしき決心吾が胸間に浮び出でたり」ともある。とにかく独歩 は、 こ の 尊 敬 す る 先 人 の 言 行 に 無 関 心 で は い ら れ な か っ た の で あ る。 この年四月から、 独歩は 『国民の友』 の編集に携わるようになり、 鑑三と書信を介しての深い交わりを得ることになる。まだ電話など 十 分 普 及 し て い な か っ た 時 代 ゆ え、 手 紙 で の 交 流 は 重 要 な 意 味 を 持 っ た。 「欺 が ざ る の 記」 の 一 八 九 五
(明治二八)年 六 月 十 日 の 項 に は、 「内 村 鑑 三 君 と 書 信 の 交 を 結 び た る 事、 吾 れ 非 常 に 此 の 剛 毅 な る人物を慕ふ事」とある。そして十九日の項に「内村鑑三君より来 状ありたり」とあるので、その交わりがはじまったことが判る。七 月 六 日 の 項 に は、 「内 村 鑑 三 氏 と の 交 り を し て 益 ゝ 真 率 深 情 な ら し め給へ」とあり、十一日の項には「夜。内村鑑三氏のハウ、アイビ ケ ー ム エ ク リ ス チ ヤ ン を 読 む。 明 日 は 必 ず 読 み 了 は ら ざ る 可 か ら ず」と出てくる。が、この時点でも、未だ独歩は鑑三に直接会って はいない。 こ の 頃、 独 歩 は 明 治 の 女 権 運 動 家 と な る 佐 々 木 豊 寿
(新宿中村屋を創設する相馬黒光の叔母にあたる)の 娘 信 子 と 恋 愛 関 係 に あ っ た。 独 歩 は 信 子 と の 新 婚 生 活 の 地 を 北 海 道 の 山 林 に 持 つ 夢 を 抱 く よ う に な り、鑑三に相談する。独歩はこの時点でも、鑑三に直接会ってはい ない。けれども、鑑三は当時母校札幌農学校の助教授として札幌に 在住していた新渡戸稲造あての紹介状を独歩のため英文で認めてい る。こういう点で鑑三は親切であった。 国 木 田 独 歩 は 鑑 三 の 作 品 を 読 み、 彼 を「剛 毅 な る 人 物」 と 認 め、 京都まで会いに行った。留学費用の一部でも援助して貰えるのでは ないかという期待も、密かに懐いていたに違いない。が、京都時代 の鑑三は極貧の極みにあり、生計を維持するのが、やっとの状況で
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