論 文》
保障国家と公法理論
ドイツ規制緩和における国家任務の位置
三 宅 雄 彦
一 序 論
郵政改革を憲法学からみるならば, それは憲法 違反である, となる。 つまり最高裁判所の判例法 理では, 憲法は, 福祉国家的な理想の下, 社会経 済の均衡のとれた調和的発展を企図し, それゆえ, 積極的な社会経済政策の実施を国の任務としてい る, とされるのだが, 国の郵政民営化は, 憲法が 予定する国の任務を放棄することを意味する(1)。 郵政民営化法2条の設定する理念には, 社会経済 情勢の変化への即応, 経営の自主性・創造性・効 率性の向上と公正かつ自由な競争の促進, 国民の 利便の向上と経済の活性化という, 大略3つがあ るとしても, 「地域社会の健全な発展及び市場に 与える影響」 は, 上記の目的に精々付随的に考慮 される事由でしかない。 ゆえに, 違憲である, と。
とはいえこの結論は, 憲法の守備ラインを下げる ことで変わりうる。 いわば, 福祉国家の理想や積 極目的の任務が憲法に予め決定されて, これを突 破すれば違憲, 自重すれば合憲, という判断が導 出される。 あるいはこうだ。 国家任務または国家 目標が憲法上確定されていて, このコアな領域を 侵さない限りで民営化は憲法拘束なく実行でき る(2)。 規制緩和は無規制でなく再規制であること は, 行政法学の指摘だが(3), 上記の発想では, こ の再規制自体が憲法と無関係に採用可能となる。
だがこの憲法の守備ラインは, 憲法改正により, または解釈により上げ下げできる。 この改正や解 釈のメタ尺度となるのは国家論だが, 法治国家で あれ社会国家であれ, 客観的な線を引けるわけで
はない。 判例法理解釈の問いは別にし, 郵政改革 を憲法違反と断言するのは, それほど単純ではな いのではないか, これが本稿の問題関心である。
日本より先にドイツで郵政改革が実施されたこ とは周知のことだが, 自衛隊が違憲かのごとく, 民営化自体を違憲かを論ずる日本と異なり, ドイ ツでは改革をめぐる個別論点で憲法上の議論が交 わされている。 改革前に憲法改正を準備した国と の比較は無理との批判もあろうが, また, 改革の 背景にEU法の要求があることを忘却すべきでな いが, ドイツ国法学での学界, 論文は, こうした 改革一色の雰囲気もあり(4), ドイツ連邦憲法裁に 上がる事件にも, 関連するものが増えつつある(5)。 とりわけドイツ国法学で注目されるのは, 保障国 家なる概念である。 現在もドイツ公法を刻印づけ る法治国家, それと対抗しつつも発展してきた社 会国家, この2概念の狭間を縫ってこれは登場し てきた。 もっとも興味深いことに, この保障国家 は, 個別解釈に影響せずに, むしろ公法解釈の方 法論に決定的なインパクトを及ぼしているのだ。
本稿は, 究極的にはわが国の構造改革論議を射程 に入れることを目指して, この保障国家概念をめ ぐるドイツの議論を追うことにする。 第1に, 郵 政改革など各種民営化の中で保障国家が担う役割 を問う。 まず, そもそも保障国家の概念にはいか なる意味が付与されるのか, 次に, その理念は基 本法や行政法の中でどのように実現されたのか, そして, この概念は公法学方法論でいかなる役割 を期待されるのか。 第2に, 公法教義学の諸概念 に与えた保障国家のインパクトを問う。 1つは, 基本権教義学におけるいわゆる三段階審査図式へ
の影響を, 2つは, 保障国家の各種活動を統制す るはずの法律の留保の変遷を, 3つは, 保障国家 が前提とする国家概念それ自体の必要性を, 診る。
二 保障国家と方法論議
1 保障国家概念の意味 現実政治と保障国家
保障国家コンセプトを登場させたのは, 元々現 実政治の流れである。 その原因の一つは98年成 立のSPD/緑の党連立政権の政策にある(6)。 閣 議決定された 「現代国家/現代行政 連邦政府 の理念と綱領」 によれば, G・シュレーダー内閣 は 「活発化させる国家
アクティフィーレンダー シュタート
」 を目指す(7)。 つまり, 国 家と行政を国家の像の変遷や行政任務の変化に合 わせること, すなわち国家と行政の近代化が, 連 邦政府の目標なのである。 だがこの目標を実現す る方法は, 任務削減や組織縮小 つまり, 国家 撤退を促すCDU/CSU的な 「スリムな国家シュランカー シュタート
」(8) には見出せない。 国家のみが任務を背負込む, 国 家が固有任務を放棄する, ではなく, 国家と社会 が共通目的の達成のため応分の任務を遂行する, である。 ここでは, 社会が独自の規律ポテンシャ ルを保持することを前提に, 国家が社会の自律能 力を促進し, 必要な自由空間を創造するわけだ。
ならば国家は, 介入や規律か, 完全な撤退か, の 二者選択ではなく, その中間を進まねばならない。
国家と社会の責任配分は見直される。 国家は 「活 発な社会」 のため, 一方で市民の自由と安全を保 護する。 だが他方で, 公的任務の大部分を国家自 らが実施するべきではない。 国家がするべきは, 社会が公的任務を実施するのを 保障する
ゲヴェールライステン
こと だ(9)。 1990年代後半以降の欧州各国の左派政権に 共通だが, なるほど, 自ら公的任務を実現する大 戦後のハードな社会国家を放棄する点で, 保障国 家論は, CDU/CSU流の 「スリムな国家」 とも 共通する。 だが, 「活発化させる国家」 は単なる 新自由主義ではない面を持つ(10)。
こうした事情もあり, ここ10年で保障国家概 念は一気に普及した。 その発端は, マルティン・
アイフェルトの学位論文であるというが(11), 後に
触れる 「新行政法科学」 派, 特にW・ホフマン リーム, G・F・シュッペルト, A・フォスクー レらがこれを積極的に論ずるし(12), 多くの若手に より, 保障国家を取扱う学位論文も続々と公表さ れる(13)。 流行する保障国家コンセプトは, 「生産 国家」 や 「規律国家」 とも換言されるが, だが
「保 障 国 家
ゲヴェールライストゥンクスシュタート
」 とは一体どんなものか。 こ こでは, その主要人物ホフマンリームを参考に して, 構想の概略を見よう(14)。 まずホフマンリー ムは, 保障国家を次のように簡潔に定義している。
「自身の具体的な公共福祉責任をがっちり保持す るが, 自分の手で直接的に任務を実現する道具を 部分的に放棄しており, それでいて, 社会の中の 特定の積極的な諸関係や諸状況を目掛けて, 引き 続いてこの諸関係や諸状況への最終責任を負う, そのような意味で自身の社会形成的な原理的要求 を続けて提起する, そうした国家である」(15)。 彼 自身はこの保障国家概念が, 後述する如き記述機 能を持つと言い, 行政法改革を目指す法学者らの 間で議論対象となってきたと言うが, 本稿流にま とめれば, この定義は次の要素3つから成立つ。
つまり, 第1に, 保障国家は社会全体での公共善 実現に最終責任を負うこと, 第2に, そのとき保 障国家は社会による自主的規律に期待すること, 第3に, そして保障国家は公共善を直接実現する 手段は放棄するが, 社会による公共善実現のため の枠組を保障する任務を引受けること。 以下では, この観点3つから保障国家概念を分説することに しよう。
保障国家の各種責任
まず, 保障国家は, 依然として公共福祉に配慮 しなければならない。 確かに, 近時の行政手法は規 制緩和や民営化など一歩退いてはいる。 だが, 公 共福祉や個人利益を確保すること, 現代の各種社 会問題を解決するため現代社会を支援することが, 国家活動に依然期待され, 世の人々が不安定性の 拡大を見て, 危機意識を高めていくとなれば, そう した国家活動にはブームのように益々期待が向けら れるだろう(16)。 当然ながら, 私人活動を強制的手 段で嚮導する領域 (規制・監視), 給付を実施す る領域 (福祉), 不当な結果を阻止する領域 (安
全) など, 国家が直接的な 充 足 責 任
エアフュールンクスフェアアントヴォルトゥンク
を 果す既存の領域は存続するのだが, しかしこの 他に, 調達責任, 受皿責任, 緩衝責任を保障・・・・ ・・・・ ・・・・
国家が担う。 ホフマンリームが言う責任のう ち, ここではまず後二者が重要だ。 つまり第2 の 受アウフファンクスフェアアントヴォルトゥンク皿 責 任
とは, 保障国家の補充的 活動に関連するもの。 言わば保障国家は, 公益を 実現する最終責任として受皿責任を負う。 サッカー で言うと保障国家とはリザーブ選手である。 試合が 順調に進む限りベンチで待機し, 戦況に応じてばアッ プして交替するのだ。 「試合」 には警察法的手段が 投入される。 環境法の大半がそうだが, この手段 がもつ私人を望ましい方へ向ける圧力が当てにされ ている(17)。 もう1つの 緩 衝 責 任
アップフェデルンクスフェアアントヴォルトゥンク
も, 保 障国家が持つ補充的な責任領域に関わる。 つまり 国家はサッカーの救護員でもある。 選手が負傷す れば試合を止めずに治療する。 救護員がいるから 選手は安心してプレーできる。 例えば, 労働法や 社会法がこうした緩衝法の役割を演ずるであろう。
経済のプロセスから脱落した者 (例:失業者) に 援助が用意される(18)。 だが, リザーブや救護員が 出る前のサッカー選手とは一体誰なのか。
実はホフマンリームが言うサッカー選手と は, 私人のことである。 つまり保障国家は, 先 発選手がプレーすることを期待しているのだ。
ただし先発選手の目標は個人技の披露でなく, チームの得点にある。 ここでは個別利益の追求 のみならず, 全体利益の考慮も必要となる。 す なわち人が自由に人格発展するとき, 他者の個 別利益にも配慮し, 安全や環境や文化など全体 の公共福祉にも留意しなければならない。 その 点 , 保 障 国 家 は 自 由 な 社 会 発 展
フライエ ゲゼルシャフトリッヒェ エントファルトゥンク
と 社 会 の 自 己 規 律ゲゼルシャフトリッヒェ ゼルプストレグリールンク
を信じている(19)。 そう なると, ここで注目すべきなのは, 公共福祉の実現 態様である。 そもそも, 公共福祉の如き曖昧な概 念は具体化せずして把握できぬ。 だが保障国家構 想では, その定義権能は国家に独占されるのでなく, それ以外にも, 政治家や報道家や科学者, 営利企 業や市民団体など, 多様な公共福祉アクターが参 加する社会的プロセスで, 産出される。 このプロセ スは, 最終的に国家に彫琢され立法で認証される
のだが, 公共善の一元独占が破られ, 公共善の多 元的実現が開拓されるのだ(20)。 その結果, 保障国 家には従来の国家にない新しい役割が期待される。
つまり, 国家と社会, 国家と世界との境界と分断 が解消されていく。 まず, 現代国家は, 私人や官 民融合主体と協 働コオペラチオンで国家任務を遂行し, 私人が 定立した法 (労働協約等) を国法秩序に編入する ようになる。 また, 国内的な任務はEUやWTO など国際機構に影響を受けたり, 商 慣 習 法レックス メルカトーリア
や 電 脳 慣 習 法
レックス エレクトロニカ
など 「国家なき世界法」 の存在も認 められる(21)。 要するに保障国家では, 公共福祉の 担い手が国家以外にも容認され, これら公共福祉 アクターの脱境界化エントグレンツンクとネット化フェアネッツンクが進行しているの だ(22)。
結局, 保障国家とは社会の自己規律と公共福祉 の実現に信頼を寄せ, その意味で, 市民の自発的 意思が息づく市 民 社 会 論
ツィヴィルゲゼルシャフト
に依拠している(23)。 そ うなれば, ともかく保障国家の役割は従来にはな いものになろう。 さて, 論及したが未検討の保障 国家の責任がある。 調ベライトシュテールンクスフェアアントヴォルトゥンク達 責 任
で ある。 たった今, 社会自身の公共福祉実現が当て にされると述べたのだが, 保障国家は, この社会 的自己規律が順調に進展することを保障する。 つ まり, 公共善を推進する構造を創造しその機能を 維持するべきで, さらに, 個別利益追求に向くが, 同時に公共善の実現にも役に立つ, そのような行 為が選択されるよう, 刺激を創出しなければなら ない。 各種組織の法的枠組を用意し (商工会議所 など組合や社団や財団), 諸制度を機能不全か ら保護し (カルテル法で市場を歪みから守る), 各種の法令の遵守を監視する (建築行政における 監視制度), など, 自己規律のための枠組条件・
インフラを, 保障国家が調達するのだ(24)。 勿論, ここでは国家自身が公共善を実現するのでなく (充足責任), 国家の受皿/緩衝責任が発動される まで, 私人が公共善を実現する。 けれども, 保障 国家は, 国家責任の解消や国家の撤退を意味しな・・・・・・・ ・・・・・
い。 国家は保障を通じ, 私人や半官組織の自己規 律力を利用するだけだ。 これは国家制禦の形式転・・・・・・・・
換, 国家と社会の責任配分の変更に過ぎぬ(25)。 ホ
・ ・・・・・・・・・・・・・
フマンリームは言う。 現代社会ではこの任務変
更は当然である。 投入可能な資源に限界があるの に, 社会からの要求は次々と現れる。 この条件下 で国家活動を維持し, 状況変化に対応しなければ ならぬ。 任務充足する形式の, 取壊しでなく建替 えが必要となる所以である(26)。
保障国家構想の要点
つまり, ホフマンリームの語る保障国家とは こういうことである。 第1に, かつての社会国家 は公共福祉の実現を自らの任務とし且つ, その任 務を国家自身の手で実行する充足責任を引受けた のであるが, しかし保障国家は, 公共福祉の実現 を任務とする点は変わらないが, 受皿責任や緩衝 責任は残すが, この充足責任から基本的に撤退す る。 その意味では, 限定的に 「国家の撤退」 があっ たと言うべきである。 第2に, では国家が放棄した その公益実現の任務は誰が充足するかというと, そ れは, 市民や企業からなる市民社会がこれを遂行 する。 すなわち, 公共福祉の実現を目指すのはもは や国家だけに限られず, 本来私益を追求する私的 アクターも公共善追及に参画するのである。 別言す れば, 公益実現は社会の 「自己規律」 に一旦委託 されたのだ。 第3に, だがこの社会の自主規制が 予定調和をもたらすはずがなく, 社会の公共福祉 実現の最低限が一定程度確保されなければならな い。 すなわち, 国家から社会への委譲された公共 善が実現されるように, その枠 組 条 件インフラストルクトゥーア
を整備す る保障責任を国家が引受けなければならない。 この 意味で, 社会の自己規律は 「規律された自己規律
レグリールテ ゼルプストレグリールンク
」 なのである(27)。 要するに, 公共善を自ら実現する 充足責任を捨て, 私人の公共善の実現に前提枠組 を提供する保障責任を負う国家が, 保障国家なの だ(28)。 又はこうも言える。 高権国家の規制原理か 社会的経済的競争構想か, 一方を誇張するのでな く, 両者を結合させるのが, 保障国家なのだ。 或 いはこうも言える。 侵害行政の法治国家か給付行 政の社会国家か, 一方に決断するのでなく, 両者 の中間を行くのが, 保障国家なのだ(29)。
結局 「保障国家」 とは, 現代国家のどのような 容姿を表現するのか。 それは, 主権国家以来の最 終的公共福祉責任を従来通り保持しつつ, だが, その責任の直接的実現を放棄し社会の自発的規律
に期待して, その自律のための枠組条件を保障す る責任を果す国家, なのである(30)。 もっとも保障 国家の重要性は, その思想的体系性にあるのでは ない。 つまり, 保障国家とは, 国家概念の変遷を 示す記号であり(31), 国家の過少と過多の中間, 国 家と市民の新しい責任関係を表現すればよい(32)。 国家が公的任務を抱込むのでなく, 社会とこれを 共有するわけだが, この責任の再配分が表現であ るならば, 概念的厳密さは不要である。 保障国家 が別概念に代替可能なのは, この事態の証左かも しれない。 さらには, 公共福祉の決定者でなく,・・・
最適者・保持者としての国家(33), 国家の保障責任
・・・ ・・・
に準備される 「規律された自己規律」 としての社 会(34)。 保障国家の内実を想起させる各種スローガ ンだけで十分なのである。 しかしこの希薄な意味 内容でも, それは保障概念では重過ぎないか。 元々
「保障」 とは, 基本法に18回も登場する特殊でな い概念だが, 「プレスの自由は…保障される」 (基・・
本法5条1項2文) の保障は, 「既存のものがそ の状況のままに保証される」 という意味であるし,・・
「所有権は…保障される」 (基本法・・ 14条1項1文) での保障でも, 立法者に形象化の自由はあるが, 基本的に保証機能が前提とされる。 だが, 行政サー・・
ビスの 「確保」 という, これまでと全く違う意味 で 「保障」 に論及する条項が存在する。 それは基 本法87f条である(35)。
2 民営化と保障行政法 ドイツ郵政事業改革
この条項は, ドイツ連邦郵便を郵便業務と郵便 銀行とテレコムへと, 三つの公企業へと分割した 1989年の第1次郵便改革に引き続き, 94年に, 連邦郵便民営化のために (第2次郵便改革) 新設 された。 それまでの旧基本法87条1項1文は, 連邦郵便は連邦行政として実施するとしていたた め, 基本法を改正する必要が生じたのである(36)。 現行基本法87f条は下記の通り規定する。 同1項
「連邦は, 連邦参議院の同意を要する連邦法律を 尺度として, 郵便制度及び遠隔通信の領域で, 適 切かつ十分なサービスを全国に保 障 す るゲヴェールライステット
」。 同 2項 「前項の意味のサービスは私経済として, 特
別財産たるドイツ連邦郵便の後継企業及びその他 の民間サービス業者により, 実施される。 郵便制 度及び遠隔通信の領域における高権任務は, 連邦 による行政として施行される」。 同3項 「連邦は 前項2文に関わらず, 連邦所轄の公法上の営造物 の法形式により, 特別財産たるドイツ連邦郵便の 後継企業に関する個別任務を, 連邦法律を尺度と して施行する」。 まず, 郵便業務と遠隔通信の実 施は連邦行政ではなく, 民間企業により実施され なければならぬ (2項1文)。 だが, 私経済活動 では質的量的に満足いく, しかもユニバーサルな サービスは確実でない。 公共福祉を実現する民間 企業の郵便業務と遠隔通信に期待しつつも, 先の 受皿責任・緩衝責任・調達責任を, 連邦が引き受 けるのである。 つまり連邦行政は自ら給付しは しないが, 郵便と通信の条件整備を保障し (1 項), 場合により高権手段を投入するのだ (2項2 文)(37)。 この条項が, 先の保障国家の構想を反映 しているのは明白であろう(38)。
連邦憲法裁の新任裁判官の論及を借りて, 本条 項を再説してみよう。 すなわちマージンクは言う。
基本法87f条は原 則 規 範
グルントザッツノルム
である, と。 これによ り, 第1に, 市場原理に基本法上初めて拘束力が 付与され, 憲法裁の確定判例であった基本法の経 済政策的中立性が廃棄された。 また第2に, 国家 自身が給付する伝統的な生存配慮思想が放棄され, 社会の自己規律を信じて国家が行動する規制行政 思想が採用された(39)。 ここには先の2項1文と2 項2文の間に, 緊張と均衡の関係がある。 つまり, 2項1文は郵便/通信サービスが私経済的になさ れること, 2項2文はサービスの規制が連邦行政 により高権的になされること, この両者の間に矛 盾対立があり, この関係に調整が加えられるのだ。
2文1項がサービスに要求するのは, 組織と行為 が私法によること, 目標が利潤獲得に向くこと, 市場経済的競争が起こること, である。 これによ り, サービス供給が職業自由など基本権保護の対 象となり, 他方, 行政自身は給付行政の主体から 侵害行政の主体へと転換する(40)。 では, 高権的な 規制を要求する2項2文にはいかなる意味がある か。 マージンク曰く, この条項には連邦の2つの
義務が含意されている。 1つめは, 競争構造を維 持するオルドー・リベラル的な任務であり, 2つ めは, 最低サービスの量と質を確定して, 保証す る任務である(41)。 結局, この市場原理の社会国家 的な調整こそが, 1項のいう 「保障する」 の意味 であるが, これが2項や法律により具体化される のだ(42)。 だからこそ, マージンクは基本法87f条 が原則規範であると言う。 本条項を国家目標(43) や制度保障(44)と呼ぶ見解も, これと同趣旨であ ろう。
この条項を原則規範とする理解を仮にそのまま わが国に持ち込めば, 郵政改革の憲法判断におけ る審査基準は, 経済的自由権を制約する公共の福 祉の充填ではなく, 各種の社会権を実現する抽象 的権利の具体化に依拠することになろう。 それに は, 具体的には生存権等がサービスの全国均一性 や一定の品質を要求するか, 吟味するべきだ(45)。 さて, ともかく連邦が87f条を受け実行したのは 保障責任だった。 同条項は, 「適切かつ十分」 で
「全国」 のサービスを求める。 連邦行政は郵便業 務と遠隔通信につき, 競争秩序の確立と全国共通 サービスの確立を, 第2次および第3次の郵便改 革で目指すことになる。 まず第2次改革 (1994 年) では, 連邦郵便新秩序法が制定され, 従来の ドイツ連邦郵便はドイツ郵便株式会社に移行, 民 営化される。 だが株式全ては連邦が管理するので, 民営化は形式的なものであり, 2000年までにそ の半分を放棄するものとされた (143b条)。 書簡 配達業務では期限付きでドイツ郵便に一部独占権 を承認したが (郵便法51条), 許可制度を導入し 新規参入を可能にして (同法5条以下), この分 野に業者間の競争を導入し促進することとした。
他方, 新規参入者にユニバーサルサービスの提供 を法的に義務づけ (同法11条以下), 地域間格差 が生まないための仕組を整備した(46)。 遠隔通信分 野の民営化はさらに進んだ (第3次改革 (1996 年))。 遠隔通信法により, ここでも競争秩序と全 国サービスが目標となり, テレコム社の回線接続 と通話業務の独占権は廃止され, 許可制度とユニ バーサルサービス義務が規定される (同法6条, 17条以下)(47)。
ドイツ鉄道事業改革
この通信制度の民営化ですでに明らかなように, 実は保障国家とは, 結局は, 民営化や規制緩和の 潮流を弁証するための論理なのである。 保障責任 を語る条文は, 93年新設の基本法87e条4項に もある。 「連邦は, 連邦鉄道の路線網の拡張及び 維持, 並びに, 近距離鉄道旅客運行を除く, この 路線網への鉄道運行の供給にあたり, 公共の福祉, 特に運行需要を考慮することを保障する。 詳細は 連邦法律でこれを定める」。 当然この規定の前提 は, 連邦鉄道の民営化である。 同条3項1文は次 の如く規定する。 「連邦鉄道は, 私法形式の経済 企業として行われる」。 通信行政と違い鉄道行政 では, 鉄道所有は連邦が行い, その株式も半分超 が連邦に残される (同2文, 3文)。 すなわち, 基本法87e条と87f条とは基本的に同じ構造を持 つ。 まず, 鉄道自体は, 鉄道整備と鉄道運行の上 下分離を採って, これらを, 連邦に全株式を留保 したままだが, 民営化する (3項1文)。 だが, 十分なインフラと必要な運行業務が切下げられぬ よう, 運行需要を特に勘案する保障責任を連邦が 引受ける, のだ (4項1文)。 ただし, 鉄道改革 の内実は郵便改革のそれと異なるのも確かである。
民営化されるのは鉄道全体ではなく連邦鉄道のみ だから, 87e条3項1文は, 競争秩序の実現を必 ずしも要求していないことになる。 また鉄道所有 の連邦への留保を求めれば (3項3文), 鉄道整 備に新規参入を期待するのは無駄だから, 結果的 には連邦の保障責任は競争秩序の行過ぎの恐れの ある, 鉄道運行の供給に限定されてくる(48)。 とは いえ, 保障責任の構造は鉄道改革と郵政改革で本 質的に等しい。
保障行政法の教義学
そして, こうした規制緩和や公私協働を弁証す る新たな学問体系を, 保障国家論は要求する。 そ の候補に多種多様な構想が提出されるが, マージ ンクと同時に連邦憲法裁に入ったフォスクーレの 説を見よう。 国法学者大会を機に彼が打ち出した の は 保ゲヴェールライストゥンクスフェアヴァルトゥンクスレヒト障 行 政 法
の プ ラ ン で あ る(49)。 まず, 保障国家の構想を立憲主義化で固め るには限界があるという。 確かに, 基本法87e条
や87f条に保障国家は固定されてはいる。 だが, そもそも憲法の適用自体が国家権力の行使を前提 としている。 例えば公私協働の際に, 最終決定権 限を握るのは行政官庁なのだが, 必要な知識や資 源を投入して任務に当たるのは, 勿論, 私人であ る。 しかしだからといって義務を課すなら, 社会 独自の活力は失われる(50)。 保障国家のコントロー ルで憲法にそれほど決定力がないのであれば, 公 私両部門の役割分担には, 行政法上の既存の制 度が有益であろう。 行政契約を始め, 権力委託ベ ラ イ フ ン ク
, 行 政 援 助
フェアヴァルトゥンクスヒルフェ
, 私 人 徴 用
インディーンストナーメ プリヴァータ
の語はその ためだ。 けれどもこれら教義学上の概念はそのま までは役に立たない。 これだけでは, 協働する私 人の選抜や資格の基準は決定できないからだ。 こ れらの概念は, 法的体系
レ ヒ ツ レ ギ ー メ
に依拠しさらに具体化し なければならぬ(51)。 そこでフォスクーレがうち出 すのが, 保障行政法の概念なのである。 すなわち, 公的任務と私益追求の協働は, 教義学上の個別概 念でも, 危険防禦中心の侵害行政や生存配慮志向 の給付行政の体系でもなく, 第三の柱として, 保 障行政法を体系化することにより, 解決される。
公的任務の分業的遂行過程を, 公共善の最大実現 の観点から誘導し, 具体的解決策を選択する際の 方針を行政や立法に付与するのである(52)。
3 新行政法科学の構想 新行政法科学の構想
さて, この保障国家を積極的に論証するのは, 実は行政法学である。 とりわけその中心にあるの は, 1990年代の 「行政法総論改革」 の運動を継 承する, 「新 行 政 法 科 学
ノイエ フェアヴァルトゥンクスレヒツヴィッセンシャフト
」 と自らを 名乗る潮流であろう(53)。 連邦憲法裁での, ホフマ ンリームの後輩の見解を引用してみよう(54)。 そ のフォスクーレ曰く, 「新行政法科学」 とは, 従 来の行政法学が 「法 学 的 方 法
ユリスティッシェ メトーデ
」 を維持したこと への反省として登場してきたものだ。 彼の述べる 法学的方法とは, 法的行為や規範言明のみに関心 を持ち, 国家諸機関に法律拘束をかけるため司法 審査中心的な見方を採用し, さらに, この法律拘 束を継続的に保障すべく, 実定法や法実践の中反 復される言明や過程を取集めて, それを概念や制
度へと形象化し, そして定義や原則を体系化して 法教義学の構築を目指す思考である(55)。 フォスクー レによると, この法学的方法の支配が19世紀半 ばから20世紀末まで続き, 1990年代から作業方 法の変化が始まった。 法学的方法克服の既存の試 みに無言及なのには大いに疑問があるが(56), 「新 行政法科学」 を必要とする原因として彼は三つ に論及している。 第1が, 命令や禁止, 許可留 保や刑罰威嚇で名宛人に行動せしめる旧来から ある規制的な法, つまり広義の警察法が危機に 陥ったこと。 特徴的な現象は2つある。 現行環 境法の多くは実際には強行されず, その意味で
「執 行 欠 損フォルツークスデフィツィッテ
」 があること, 行政が所轄する 企業や私人と, 問題を共通に解決するため多様な
「協 調
コーオペラツィオン
」 を選ぶこと, これである。 だが, 行政 法学がこの行政実務の分析から対応を採るわけで はない。 インフォーマル活動に法的限界を引く
「病 理 学 志 向 の 考 察
パトロギーオリエンティールテ ベトラハトゥンクスヴァイゼ
」 に留まる(57)。 従って, フォスクーレにとり重大であるのは残 り2つの原因である。 つまり, 社会および技術の 変遷と公法の欧州化と国際化が, 肝腎だ。 まず挙 がるのが, 知識問題すなわち 「知識ジレンマ」 の 克服である。 一方で, 消極的な法治国家から積極 的な福祉/予防国家への変遷は, 行政目的実現の ために, 膨大な量の情報や知識を必要とするに至 る。 だが他方で, 環境や情報や技術の分野では, 規律領域の複雑さやリスク評価の困難等, 行政の 情報処理能力が簡単に超えられてしまう。 この問 題を克服するべく, 十分な情報フローを確保し, 状況に適う柔軟な指示を示すため, 規律戦略や組 織形式の提案が必要となろう。 実際に機能し問題 に適った法秩序を行政法学は形成するべきなの だ(58)。 近時ヨリ重要なのが, ドイツ憲法/行政法 の欧州化と国際化である。 自由貿易や環境保護や ネット規制など国際問題がEU法や国際法を通じ て, 各国国内法の改革を強制する。 それには既存 法律の新解釈などでは不十分で, 全く新種の道具, 規律類型, 構想が必要なのだ。 そのとき各国は, 独自に提案を考案し世界に提示しなければならぬ。
つまりここに, 各国独自の法秩序につき国際競争 が展開されるのだ(59)。 この提案競争に参加するべ
く, 行政法学者も作業方法を変化させる。 いわば, 欧州化や国際化による要求や期待は規範レベルを 重層化・連続化させ, しかもEU法・国際法の規 定自体が目的的性格を持ち, そのため, 法化の進 展と反比例して, 認識の指針となる教義学上の構 造枠組が貧弱なものとなってしまう。 正しい決定 を産出する前に, その法的で組織上の枠組条件を 行政法学が提案する, というわけだ(60)。
では, 新行政法科学はこの課題にいかにして解 決策を提示するのか。 最初にフォスクーレは, 新 行政法科学を 「制 御 科 学
シュトイエルンクスヴィッセンシャフト
」 と特徴づける。
このアプローチは, 計画が政治を合理化するとの 楽観主義の衰退後, 政治機構の内部構造でなく, 政治とその環境との関係に視点を移す。 そのとき の政治審級による環境形成が, 「政 治 的 制 御
ポリティッシェ シュトイエルンク
」 と呼ばれる。 ただし, 1970年代以降のこの制御 概念と制御理論は様々である。 行政法学で支持を 集めた制御アプローチとは, 下記のようなものだ。
まず, 「制 御シュトイエルンク」 というとき, 制御するものと制 御されるものがいる。 そしてこのとき, 制御主体・・・・
は制御客体に対し制御目標と制御手段で, 制御活・・・・ ・・・・ ・・・・
動と制御結果の相互作用に関する制御知識を用い, 制御する。 しかしこの制御行為が成功するかは, 個々の制御条件や制御媒体や制御道具に決定され る。 とりわけここで注目すべきは, 主体である。
すなわち, 制御の語義に反しここにいるのは, 単 一の主体ではなく, 単元的自我である。 多様なア クターが相互にネットワークをつくる。 要は制御 アプローチとは, この相互作用に着目する視座な のである(61)。 加えてフォスクーレ曰く, この制御 アプローチには効能三つがある。 第1に, 考察対 象を多様に幅広くできる。 つまり, 強制を伴う法 的行為のみならず, 指導や誘導や協調その他の活 動型式も検討できる。 第2に, 多様な制御主体, 制御客体, 制御媒体, 制御道具, これらの間の包 括的作用連関を考察して, これらの長所短所を検 討できる(62)。 第3に, 特定の制御領域 (経済など) での作用連関や真理や法則を提示する説明手段を 用いることで, 別の隣接科学へと接合できる(63)。 キー概念の保障国家
つまりフォスクーレのいう制御アプローチを採
る新行政法科学とは, 積極的政策提言のため, 解 釈のみならず立法や執行にも考慮を払い, その意 味で, 適用関連の解釈科学でなく立法志向の決定・・・・・・・・・ ・・・・・・・
科学であり, しかも, 法自体を制御目的の実現手
・・
段と見つつ, この制御に関わる多元的諸アクター を観察する, 行為志向の制御アプローチを採用し,・・・・・・・・・・・・
そして, 法的行為以外の非規範的決定要素の科学 的合理化を目指し, 基礎法学や隣接科学の知見を 法的討議に導く, 学際性をも強調する(64)。 ここで は, 法政策, 比較法, 立法学, 外国法などの重要 性も語るが, 中でも, 法学内部では, 民法・公法・
刑法を分かつ障壁に拘泥せず, 横断的法領域 (環 境法・情報法) や全体的な考察(保ゲヴェールライストゥンクスレヒト障 法 ) を求め, 法学外部では, 経済諸科学, 社会諸科 学, 技術研究, 行政諸科学等, 他の科学分野と の, 間分野的・超分野的・多分野的な対決を求め る(65)。 さて, この学際性の文脈で登場するのが
「キ ー 概 念
シュルッセルベグリッフェ
」 の概念である。 つまりこれは, 各々 特殊の関心や方法で刻まれた専門討議の間の中, 人が共通に注意や作業が振向けるべき領域を指し 示し (諒解機能), 多数の情報や思想をたった1 つの語句で束ね構造化し (説明機能), 様々な視 座をまとめ (ネット化機能), 未来への手引きを 提示する (方向づけ機能)。 キー概念は思考に答 えでなく, 道筋
ヴェーク
を指し示す。 これは, 社会学的分 析と法学的教義学の間に位置するものであるが, 学問領域相互間のコミュニケーション活性化を担 う役割を意識して, 制度や規律の既存レパートリー を, 実在条件の変化を考慮に入れて新たに検討し 直し発展させるための必要な上位基本観念なので ある(66)。
さ て , キ ー 概 念 と 同 類 機 能 を 持 つ も の に
「嚮導イメージラ イ ト ビ ル ダ ー
」 があるが, これは, 前述の 「ス リムな国家」 や 「活発化させる国家」 のように, 名宛人となる者の思考や行態を, 特定目標へと嚮 導するものである。 いわば, イデオロギー的・政 治的な強い衝撃力と示唆力を装備して, 特定のイ メージを望ましいものに (「環境国家」, 「事前 配慮」), 又は疎むべきものに (「太った国家フェッター シュタート
」,
「お役所主義ビューロークラティー」) 仕立てる。 その意味でイデオロギー 的・政治的で強い衝撃を持つ (政治機能)。 従っ
て, 国家現象に関わる基本潮流や機能変更を立体 的に可視化し, 現実と理念の乖離を解析する分析 枠組を成すとしても (分析機能), 政治機能ゆえ に, 科学的討議での分析役割は限定的なものに留 まる(67)。 もっとも, キー概念と嚮導イメージの区 別は, 必ずしも明確でない。 まず第1に, キー概 念に認めた諒解機能, 説明機能, ネット化機能, 方向づけ機能を, フォスクーレは嚮導イメージの 中に認めているし, 第2に, 決定科学としての行 政法学が提言をするとき, このキー概念がインス ピレーションのための展 望 台
プラットフォーム
として働く, その 点自体に, 生産的ながらも不明確である, という 危険性を見ているからである。 とりわけ後者が肝 腎で, キー概念に法原理としての性格を与えれば, なるほど, キー概念は公法教義学の中でも取扱い 可能なものになる。 だがそれでは, 当該キー概念 が記述概念か理念型概念か規範概念か, その概念 に如何なる内容が含意されるか, 一致した説がな いままに, 法律や行政が違憲/違法判断の強烈な サンクションを受けてしまう(68)。 結局のところ, キー概念と嚮導イメージの差は余りないことにな る。
このキー概念の一つが, すでに我々が検討した 保障国家なのである(69)。 キー概念と嚮導イメージ を一応区別するフォスクーレとは異なるが, ここ で嚮導イメージ=保障国家の効能を探るシュッペ ルトを見よう。 彼は, 嚮導イメージの重要機能と して分析機能と政治機能を挙げる(70)。 第1に, 現 代国家の任務が, その分量と性質につき分析可能 となる。 つまりシュッペルト曰く, 1つに, 近時 の民営化や規制緩和動向は, 国家/民間/第3セ クター間の領土獲得戦でなく, 各セクター間の作 業・機能・責任の新たな配分と見るべきだと, 保 障国家は教える。 またもう1つ, 保障国家概念か らは, 変化するのは国家任務でなく, 任務了解そ れ自体であり, すなわち国家にインフラ責任があ るとき, それは, 全て国家が実現する充足責任で なく, 最終責任はあっても非国家部門に委任しそ れと協力する保障責任であることが, 分かる(71)。 第2に保障国家は, 或る国家像を体現する政治的 メッセージである。 つまりこの嚮導イメージは,
現代国家はネオリベラルな国家でなく, 次の4つ の観点で保障国家となれと求める, 政治的通告な のである。 1つに, 直接充足でなくとも公共福祉 に責任を持つアクターであれ, 2つに, 公共福祉 を実現する市民社会の力量を引き出す主体であれ, 3つに, 私人の誤った任務遂行はこれを正す公共 福祉の番人であれ, 4つに, 私人との協働を実現 するための多種多様な役割を駆使せよ。 法律制定 や政策提言に以上の要求実現を保障国家は求める のである(72)。 新行政法科学を唱えるフォスクーレ も, 保障国家というキー概念にこの分析機能と政 治機能を期待していると見て差し支えないだろ う(73)。
保障国家概念の難点
さて, 保障国家の概念が新行政法科学構想を基 礎に持つのであれば, 保障国家の概念はこの構想 の長所も短所も抱込むことに, 必ずなる。 利点は この構想自身が語るものとし, ここではありうる 問題2つを, すなわち, 方法論上の問題と政策論 上の問題を, 簡単に瞥見しよう。 さてフォスクー レは, 上記の如く, 方法と対象の双方につき大幅 に戦線を拡大した自身の構想に, 合理性喪失の危 機がある点を認める(74)。 そのための処方箋は, 法 学的方法の維持と方法論議の活性化である(75)。 つ まり, プラグマティックな7段階モデルという作 業方法がそれで, 公法学者に, ①自身の認識動機,
②問題の背景事実, ③解決提案の現状, ④その理 論的前提, ⑤法枠組との適合, ⑥決定案の基礎づ け, ⑦自分の案の結果, これらを順序立てて分析 せよと, 彼は要請する(76)。 だが, この主張が法学 者の研究の心構え以上のものを含むだろうか。 他 方, 新行政法科学が, 情報化や技術化, 欧州化や 国際化の文脈で, 政策提言を支援するために登場 したことを想起しなければならない。 法を政策実 現の手段と見ることに問題がある点はここでは問 わぬが, これを新自由主義と同視するかはともか く, 制御科学アプローチや新制御モデル (NSM) の思考に立脚し, 新公共経営 (NPM) や公私協 働 (PPP) の流れを弁証したのに, 疑念の余地は ないのだ(77)。 その他にも, 電子政府 (Eガバメン ト) などが話題に挙がるものの(78), 結局, 政府の
政策を裏書し, 精々その軌道修正する程度かもし れぬ(79)。 既述の通りホフマンリーム, フォスクー レ, さらにマージンクが連邦憲法裁判所入りした ことも, この文脈上で議論の余地もあろう。
三 保障国家の憲法理論
1 基本権論と保障内実 保障国家と基本権論
ところで, 保障国家を含む新行政法科学が決定 志向であるとしても, その方法論は, 飽くまで憲 法秩序を前提とした限りであるに過ぎぬ(80)。 基本 法, つまりドイツ憲法は, 保障国家をどのように 論証するのか。 さて先に, 保障国家とは, 社会の 自己規律に, すなわち私人による公共善実現に期 待するものと述べたが, 自己規律や公共善実現自 体, そもそも, あらゆる人間に発展の自由がある ことを前提としている。 つまり, 全ての個人が自 分の利益を追求することは当然なのであり, それ と同時に, 他者の利益の実現やその他目的の達成 が配慮される。 個人発展を可能にし, 公共福祉を 確保する枠組条件を揃えることが保障国家の調達 責任=保障責任であることは, 論及した通りであ る(81)。 ホフマンリーム曰く, この責任を定礎す るのが基本権なのである。 勿論それは, 社会発展 を国家侵害から守る防禦機能のことではない。 そ うでなく, 自由の行使が他者利益や公共福祉をも 配慮するという, こうした市民相互の関係を規律 する法的秩序が必要なのであるから, そうした秩 序を形象化してくれる, 客観法的次元が肝要とな るのだ(82)。 これ以外にも, 法治国家・社会国家・
民主主義など国家目標規定も憲法規範による保障 国家を定礎すると, ホフマンリームは言うが, これらや基本権が, 自由秩序を確保し保障する立 法委託として働き, 拘束抜きで私法秩序や私的自 己規律へと浸透して, その結果私人が私人同士の 関係において基本権の価値尺度に嚮導されること になる(83)。 要するに, 基本権の価値秩序や各種国 家目標規定が, 保障国家論が念頭に置く私人によ る公共福祉の追求に, 法的根拠を付与するのだ(84)。 ところが保障国家は, 基本権規範の支持をとり
付けるばかりでなく, 基本権教義学そのものの構 造にも重大な影響を付与することになる。 さて, 法律など或る国家施策による基本権違反をチェッ クする場合, ドイツ憲法実務では, 周知の通り3 段階審査図式が採用されてきた。 ①法律に規律さ れる行為は基本権保護領域に当たるか (保護領域)。
②法律による規律はその基本権保護領域への介入 となるか (侵害)。 ③保護領域への介入は比例原 則により正当化できるのか (正当性)(85)。 けれども, 保障国家コンセプトの重要性を説くホフマンリー ムは, 保護領域
シュッツベライヒ
の概念を保 障 内 実
ゲヴェールライストゥンクスゲハルト
の概念 に代えることを提案するのである(86)。 まず第1に, 保護領域の保護シュッツ概念が持つ限定的な意味に理由が ある。 元々保護領域は, 国家活動から防禦すると の論から出発するのだが, 基本権は, その発展か ら見ると, 近代に移行する立憲主義初期では, 自 由な法秩序をまずは打ち立ててみる立法者への委 託の役割を担い, その後も, 手続保障や保護義務, 全法秩序の基礎原理 (第三者効) といった, 防禦 権や参与権以外にも様々な次元を得るに至ってい る。 この基本権構想を記述するには, 最早 「保護」
領域では適切でない(87)。 ホフマンリーム学説の 第2の根拠は, 保護領域の領域ベライヒ概念にある。 つま り, 領域という言葉には, 国家に侵害される前か ら, 各個人に予め境界線で仕切られた空間が配属 されているとのイメージがある。 しかし, 協働や 協力など国家と社会の責任と活動が多様にネット 化している現代社会に, こうした 「空間思考」 は 適合的とはいえない(88)。 保障内実概念へのこの転 換を, 保障国家の観点から詳述してみよう。
既に見た通り, ホフマンリームのいう保障国 家とは, 国家任務を直接充足する国家でなく, 市 民が公共善をできる限り自ら実現することを前提 に, これを可能にする枠組を整備する国家のこと だった。 つまり保障国家は, 私人による公共善確 保を信頼するのであるから, 或る基本権行使が基 本権に保護された他者利益を切り詰めないよう, 強者の権力投入を枠付け緩和し, 全ての人の自由 を守らねばならぬ。 その指針を提供するのが, 保護・・
領域ならぬ基本権の保障内実なのだ(89)。 そうなる
・・
と基本権保障は孤立した主体の発展でなく, 他者
の自由も考慮した発展自由を意味することになるが, ホフマンリーム曰く, この他者なるものが, 基本 権現実化で二重の観点で配慮されている。 つまり 基本権の形象化と制約設定,・・・ ・・・・ 2つの高権的規律が それである(90)。 まず, 基本権の形 象 化
アウスゲシュタルトゥンゲン
とは, 自由行使の法的条件を確保することだ。 ここで は, 同一の基本権に複数の者が関わるとき, 利益 と負担とが混合した状況が法律により整序される のだが, これは制約ではない。 自由行使のチャン スに, 保障内実に照らし形 象ゲシュタルトを与えるだけであ る(91)。 自由に制約を課すのは, 形象化とは一応別 の制 約 設 定
シュランケンゼッツンゲン
の過程である。 ここでは, 自由行 使と, それと衝突する法益とが法律で調整される。
すなわち, 法律を根拠として, 基本権を侵害する 国家活動を授権し, しかも同時に, とりわけ比例 原則を用いてこの侵害活動を制限するベ シ ュ レ ン ケ ン
(92)。 この 形象化と制約設定に先立つのが, 保障内実把握 (具 体 化
コンクレティジールンク
) だが, 要するにホフマンリーム では, 保護領域→侵害→正当化ではなく, ①基本 権の具体化→②形象化/②制約の図式が採用され るのである(93)。
中でもホフマンリームが強調するのは, 保障 内実の具体化である。 つまり, 各種の基本権の特 殊な保障内実を確定しなければならない。 しかも その保障内実を論ずるのは, 国家が侵害する場合 に限らない。 基本権とは自由な発展としての全て 人の行為を刻印づけるのだから, 保護や給付の保 障, そして万人の自由行使の可能性を配慮する保 障, こうした基本権の客観法的内実の場合にこそ, 具体化が重要なのだ(94)。 基本権規範の構成要件解 釈という前提問題が優先的に処理された後, 次の 審査段階, すなわち, 侵害審査と正当性審査に進 むのであるが, この保障内実が, 現実化のための・・・
憲法規範上の指針として作用する, つまり, 後続・・
審査のための基本法規範上の方針として影響する のだ(95)。 実はこれは, 連邦憲法裁判所判事ホフマ ンリームの見解でもある。 彼は, 勿論彼自身が 参加したグリコール決定とオショー決定を引く。
前者は, グリコール混入ワインリストを公表した 連邦政府の行為が, ワイン業者の職業の自由 (基 本法12条1項) の侵害ではないとし, 後者は,
瞑想団体 「オショー」 をカルトと述べた連邦政府 の情報が, 当該団体の思想良心の自由 (基本法4 条1項) の侵害でないとした(96)。 ホフマンリー ムが語るに, 2002年6月26日のこの両決定は, 最初に保障内実を具体化し, そこから法律留保の 射程を導き出した。 従って, 憲法教義学の反転や 三段階図式の放棄はここには存しない(97)。 結局の ところ, 各人の自由行使のためにはその条件の整 備が肝要で, この方向づけのためには当該基本権 の保障内容の確定が重要である, これが保障国家 の要請する基本権教義学の内容だということにな る(98)。
憲法裁と保障内実論
果たして憲法裁の立場は, ホフマンリームの 言う通りなのである。 その第1法廷はグリコール 決定でかく判断した。 異物混入ワインのリスト公 表は, これに記載されたワイン業者に不都合に働 くことは否定できぬが, 市場参入者の競争行為に 有意味な情報につき, その内容が個々の競争者に 不利に作用する情報であっても, その情報が市場 に出回らないように要求する権利は, 元々基本権 ではない, と(99)。 つまり保護領域が狭く設定され て, 業者の利益は入口で退けられた。 ここで第1 法廷が重視するのは, 市場や競争が機能する条件 である。 市場で活動する企業は皆, 商品を販売す るために広告を打つだろう。 だが己に不利な情報 が出たときも, 自社製品の品質を宣伝するはず。
他方で消費者の側から製品を購入するか決定する には, 当該製品の品質や種類につき十分に情報が 必要である。 兎にも角にも情報, だ。 つまり, そ もそも市場が機能するに, 売る側買う側, 市場参 加者が必要事項につきできる限り多くの情報を持っ ていなくてはならない。 情報が十分に流通して初 めて, 市場の自己制御力が十分に機能する(100)。 だが, 市場独力でそうした十分な情報状況を保証 できるわけがない。 不正情報対策, 競争ルールの 整備, 消費者保護など, 市場の透明性, つまり, 競争の機能条件を法的秩序により確保しなければ
ならない(101)。 そこで国家が, この公的コミュニ
ケーションへの参加権を持ち出す。 国家は, 政治 的正統性を探求する国家嚮導の任務を持つからで
ある。 市民の自己責任に依拠する政治秩序では, 市民がその責任を果たし諸問題克服に参加できる ため, 政治自身が情報提供をするのである(102)。
この第1法廷の傾向は, 2003年10月7日判決 にも見て取れる。 ところで, 先に見た基本法上の 郵政自由化は硬直したものではなく, 87f条以外 に143b条2項1文で, 連邦郵便の後継企業に連 邦郵便の独占権限を付与することが, 移行期間に 限り容認されている。 これを受け, 郵便法51条 がドイツ郵便に独占権を付与したのだが, 本来 2002年末までのその期限が, 同法の3次に渡る 改正により結局2007年までに延長されてしまっ
た(103)。 同法5条による免許を得て新規参入した6
つの郵便サービス企業が, この独占権延長で基本 法12条の職業の自由を侵害されたと, 憲法異議 を提訴したのだ。 そこで, ホフマンリームを擁 する連邦憲法裁判所の見解であるが, それによる と基本法143b条2項1文は, 連邦郵便の後継企 業に独占権限を承認して, 87f条2項の競争秩序 の例外を設定するが, この143b条の適用ある限 り12条1項が排除されるのだと言う(104)。 だが, 143b条2項1文の独占権限は当然限定されるべ きである。 ただ第1法廷は, この独占権限の内容 に87f条から限定を加える。 本条項の構造はすで に見た。 その2項は民間業者の活動を, 1項は国 家の保障責任を規定するが, 一見矛盾する両者は, 結合している。 憲法裁は, 87f条が規定する競争 原理と保障委託とのこの調和を, 143b条2項1 文がまさに国家の保障責任として求める, と言う。
したがって独占権限は, 連邦郵便の後継企業が自 由競争を生存するため, 郵便サービスの量と質と を確保するためにのみ, 承認される(105)。 143b条 の保障責任が働く限りで12条の保障内実が退く わけだ。
ベッケンフェルデ説
さて, この保障内実の構想は基本権固有の領 域でも反響を見出だす。 例えばベッケンフェルデ は, 保護領域と侵害の二段階審査 (正当性を含 めれば三段階) に代えて, 三編成審査 (同四編 成) を提唱する。 すなわち, 彼は保護領域を 事 物 / 生 活 領 域
ザッハ・ウント レーベンスベライヒ
と保 障 内 容
ゲヴェールライストゥンクスインハルト
とに分割
する(106)。 彼は保護領域の概念の中に, 当該基本 権に関連する領域を指示する記述的モメントとそ の関連領域の保護を保障する規範的モメントと, 2つの要素を見出すのだが, これらを別々に判断 しようというのだ。 つまりこの区別が曖昧な保護 領域の概念では, 規範的要素の意味も曖昧となり, 保護されるべき自由が包括的な自由の意味に理解 され, その結果, 享有主体が自分で決めた任意の 内容が保障されてしまう。 そうなると, この保護 領域の拡張は侵害の拡張で帳尻が合わされて, さ らには, この侵害の正当性を測る審査に負担がか かることになる(107)。 本来は, 侵害の根拠は実定 憲法上は厳格に制限されているはずだが, いわゆ る憲法内在的制約の発明で正当性審査の範囲は大 幅に拡張し, ついには, 裁判官が自身の比較衡量 をもって基本権違反を判断するとの, 憲法に内在 する権力構造に大幅な変更が起こる, のだとい
う(108)。 それを回避するために, 事物/生活領域
と保障内容を分割するのだ。 曰く, 事物領域はた だ単に当該基本権の関連領域を記述するのみで, 保障内容が, その関連領域で保障される保護や自 由や参加の内容や範囲につき規範的に要請を行う のであり, そして, この保障内容を, 自由という 抽象的・統一的な観点でなく, 各基本権固有の個 別的・特殊的な観点から, その権利の成立史を踏 まえて解釈するのである(109)。
結局ベッケンフェルデの 「新しい教義学」 では, 侵害審査に先取り, 成立史解釈を中心に保障内容 が狭く解釈されることになろう。 さて, この保障・・ ・・
内容概念に, 保障内実概念との一致を予想するの・・
は易しい。 実際, ホフマンリーム自身もベッケ ンフェルデをそう理解するし(110), ベッケンフェ ルデの側も事物領域と保障内容を区別する事例と して, 連邦憲法裁判所によるグリコール決定を既 に提示しているのである(111)。 だがしかし, この 判断にはいくつかの留保を付けなければならな
い(112)。 第1に, ベッケンフェルデが強調するの
は規範的モメントであるが, ホフマンリームは 基本権の実在領域レ ア ル ベ ラ イ ヒ
への関連に力点を置いている。
だからこそ, 自由行使の条件整備, 例えば, 社会 経済発展のためのインフラ整備が, すなわち保障
国家的視点が重要になるわけである。 ベッケンフェ ルデも実在領域に触れるが, 補充的なものに過ぎ
ない(113)。 第2に, ベッケンフェルデは基本権解
釈の合理化を目指しているが, ホフマンリーム は飽くまで保障国家構想に立脚して論を展開する。
彼は, ベッケンフェルデのアプローチを肯定的に 紹介しはするが, それとは違い, 侵害/正当性問 題がなくなるわけではないと示唆する。 また, 保 障内実把握でも抽象的比較衡量がある点を正面か ら認める(114)。 ヨリ決定的なのは, ベッケンフェ ルデは防禦権を前提としているが, ホフマンリー ムは基本権の客観的な次元から出発していること だ。 保障国家が, 私人による公共善実現に期待し ていることからすでに, 客観法秩序に批判的なベッ ケンフェルデと矛盾するのは予想がつく(115)。 保 障国家と保障内容は無関係だとの指摘は, 彼につ いてなら正しい(116)。
この保障国家と保障内実の関係で, メラースの 指摘が正当であろう。 つまり判例では, 集会自由 の行使が民主主義の実現に仕えるごとく, 個別の 職業自由の行使も市場メカニズムの実現に奉仕し ている, と。 メラース曰く, 保護領域が保障する のは個人的自由それ自体でなく, それとは別であ る市場, 個人的自由が実行された結果としての市 場, この市場という制度の機能なのである。 保護 領域は機能保護となる。 ならば, 職業の保護領域 が市場の成立条件に制限されるのは当然で, 政府 情報がこの条件を構成するとき, この情報にも制 限されてくる(117)。 この意味で, 一見ただの広狭 を語るのみの連邦憲法裁の保護領域が, 規制緩和 の弁証を企図した保障国家と結びつくのは, 必然 的である。 だがメラースの指摘は, 判例理論にお ける憲法強化の傾向にも及ぶ。 すなわち, 保護領 域確定にあたり, 関連する法律規定の全体像から, 必要な尺度が引出されている。 これは実質的に正 当化の問題である。 法律から審査基準を引出すの は違憲審査の否定だ, ともいえようが, 法秩序全 体という体系的正義を論ずるには, そもそも外か ら尺度を援用しなければならず, その意味で憲法 内在的目的が必要となろう。 その点で, 民主的規 律 余 地 が 憲 法 規 範 に よ り 制 約 さ れ る こ と に な
る(118)。 憲法拘束のこの強化傾向には, 基本権を 社会問題解決の尺度とする, 第三者効力論や一般 的自由権といった, 立憲主義化の傾向が重なる。
だがこの流れは, 現代民主主義でなく戦後復興時 代にこそ相応しい(119)。 であれば, 基本権の能力 や機能の拡充を支えたF・ヴェルナーの語, 「憲 法法の具体化としての行政法」 は, もはや廃棄す るべきだろう(120)。
2 法律留保の意味変化 法律留保の縮小傾向
さらに保障国家の構想は, 法律の留保の概念に も変革を迫るだろう。 この問いについても, ホフ マンリームの考え方を追尾してみよう(121)。 さ て, 保障国家が社会による規律された自己規律を 信頼することは, すでに述べたが, これは新種の 国家活動の増大をもたらすことになる。 例えば保 障国家の行政活動は, フォーマルで命令を下す古 典的活動でなく, インフォーマルで人々を方向づ けるものへと拡大している。 日本流にいえば行政 指導など, インフォーマルな行政の活動形式は, 高権的手段の投入前に実施されるが, 一方的な権 力行使を中和させ, 行政と私人の情報不均衡を直 し, 情報共有の手続を確保してくれる。 さらに注 目の環境税など, 経済的刺激を用い政策目的へと 嚮導する刺激付与的行政活動は, 私人の自己判断 を尊重し, その私益の追求のみならず公共善追及 を促進する, 保障国家典型の活動形式である(122)。 これも言及済みだが, 公共善の国家独占が解除さ れ, 私人も公益を推進するなら, この主体双方の 協力, つまり公私協働が通常となり, さらに, 国 家による高権的な承認や変換を条件に, 私人が定 立する規範も正規になる。 これは保障国家が前提 とする自己規律であった(123)。 だが, こうした新 種の行政手法を従来の法律留保は想定していない。
すでに言い尽くされた論点だが, インフォーマル で間接的な作用を古典的法律が敵視する, 古典的 な侵害行為と評価はできないのだし, 行政と協働 する市民や組織は法律による正統化の射程には入 らずに, その意味で憲法上のフォーマルな手続が 出し抜かれてしまうからだ(124)。 ホフマンリー
ムが保障国家下で法律留保の転換を語る所以であ る。
結局, 国家活動の拡張や私人の立法参画にも正 統性が必要なのだが, これをどうするか。 まず, 法律留保の射程範囲の拡張が予想される。 すでに 著名な本 質 性 理 論ヴェーゼントリヒカイツテオリー
は, 従来の法律留保に備わっ た権利保護と民主主義の2要素のうち, 前者を一 旦外して後者に特化することで, 法律根拠を要す る国家活動の範囲を大幅に拡張することに成功し た。 つまり, 基本権の保障内実を侵害する行為の みならず, 自由行使の法的条件を整備し確保する 行為も, 議会法律が必要となるのである。 もっと も周知の通り, この理論では, 法律を制定するか は明瞭でも, 規律の深さと濃さをどこまで求め るかは確定する基準が存在しない。 その結果, 規律する強度と細部を決める指針を決めるのは 連邦憲法裁判所で, 議会自らは本質的なるものを 何も具体化できないとして, 結局, 議会実務には 逆 さ ま の 本 質 性ウムゲケールテ ヴェーゼントリッヒカイト
しかないと揶揄される程で ある(125)。 それゆえ, 厳格な本質性説から憲法裁 はすでに撤退したとも言うが(126), 実際, 先に見 たグリコール決定やオショー決定にもその兆候が ある。 連邦政府の情報提供は, 保護領域→侵害→
正当性の三段階審査の中, 侵害段階でなく保護領 域段階で, 憲法上保障されないと言うのだが, そ こで言う侵害とは法律を根拠とする国家活動を意 味するのだから, この決定は, 情報提供には法律 留保の適用はないと述べたに等しい(127)。 基本権 の保護内実は基本権毎その都度確定するべきとの 立場からは, 保護領域を一般的自由権の如く扱い, 侵害を本質性概念で見て取り, 正当性を包括的な 比例原則で推し量る見解は, 非難さるべきなのだ。
すなわち, ホフマンリームの基本権理論は本質 性理論を排除する(128)。
法律留保概念の改鋳
では, 新種の国家活動には法律留保が不要だと いうことになるのか。 必ずしもそうではない。 ホ フマンリームの立論を続き見てみよう。 彼曰く, 法律とは, 自由確保の品質を規範的に保障する手 段である。 したがって法律留保とは, 問題解決の 品質を規範的に確保せよとの要請と理解される