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テクストのタイプと人称のタイプ

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(1)

1.問題の所在

 日本語のテクストに見いだされる,つぎのような表現類型を観察することから,議論をはじ めよう。以下に下線を引いてしめす文が,本稿で問題にする現象をになう「たい」による願望 表現である。

 ⑴  [パラグラフ前半省略]①私はあとあとの問題を避けるために彼に余程シャフリング使 用の正当性を確認してみようかとも思ったが,話が長くなりそうなのでやめた。②書類も 正式なものだし,報酬もきちんとしている。③それに老人は秘密を守るためにエージェン トを通さなかったと言ったのだ。④何もそれ以上話をややこしくする必要はない。

    ⑤それに加えて私はその私の担当者が個人的にあまり好きではなかった。⑥三十前後の 背の高いやせた男で,自分がなんでも承知していると考えているようなタイプだ。⑦そん な人間と面倒な話をしなければならない状況に自分を追いこむようなことはできることな ら避けたい。

    ⑧事務的な打ちあわせだけを簡単に済ませると私は電話を切り,居間のソファーに座っ て缶ビールを開け,ヴィデオ・テープでハンフリー・ボガートの『キー・ラーゴ』を観た。

(村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』新潮社 p.101f)

テクストのタイプと人称のタイプ

  願望表現と二人称小説を視座として  

野 村 眞木夫

(平成18年9月28日受付;平成18年11月6日受理)

要     旨

 日本語の「たい」による願望表現や感情表現には,人称制限の現象が指摘されている。本稿では,

一人称小説・二人称小説・三人称小説としてのテクストに現れる「〜たい」や感情形容詞を叙 述表現とする文において,どのような条件で有標形式と無標形式が選択されるのかに関する論 点を整理し,これを理解するためのパラダイムの検討をとおして研究の方向性をさぐる。さらに,

小説のテクストのタイプに応じて,有標・無標の選択には一定のシステムが存在することを明 らかにする。

KEY WORDS

テクスト  text   人称  person

願望表現  desiderative expression   二人称小説  second-person fiction 有標・無標  marked, unmarked

  言語系教育講座

(2)

 ⑵  [パラグラフ前半省略]①俺はいったいもう何時間この暗闇を歩きまわっているんだろ う,と私は思った。②外の世界は今何時なのだろう? ③空はもう白んでいるのだろうか?

④朝刊は配りはじめられているのだろうか?

    ⑤私には時計に目をやることすらできなかった。⑥懐中電灯で地面を照らしながら両足 を片方ずつ前に送っていくだけで精いっぱいだった。⑦私は少しずつ白んでいく夜明けの 空が見たかった。⑧そしてあたたかいミルクを飲み,朝の樹木の匂いをかぎ,朝刊のペー ジをめくるのだ。⑨暗闇や蛭や穴ややみくろはもううんざりだった。⑩私の体の中のすべ ての臓器と筋肉と細胞は光を求めていた。⑪どんなにささやかな光でもいい。⑫どんなみ じめな切れはしでもいいから懐中電灯の光なんかじゃないまともな光が見たかった。

    ⑬光のことを考えると私の胃は何かに握りしめられたように縮みあがり,口の中が嫌な 臭いのする息で充ちた。⑭まるで腐ったサラミ・ピッツァのような臭いだ。

   ⑮「ここを抜ければ好きなだけ吐かせてあげるから,もう少し我慢して」と娘が言った。

⑯そして私の肘を強く握りしめた。

(村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』新潮社 p.357f)

 ⑶①「でも,それじゃあ,わたしはその後どうなるんですか。」

    ②あなたは多少相手の同情を引くつもりで,情けない声を出してみる。[中略]③世界 を見渡せば,ストライキなどできない惨めな国もあるのだ。④そういう国では,お客さま にそんな迷惑をかけるくらいなら,わたくしメが失業して餓死します,と言って自殺して しまうような可哀相な職員だって出てくるのだ。⑤それに比べれば,誇り高くお客を夜行 列車から追い出すフランス鉄道職員は健康で気持ちがいい,ああ,だから,あなたはスト ライキを応援したい。⑥でも,そうすると,パリの舞台とそのギャラはどうなるのだろう。

  ⑦「わたしは仕事でパリに行かないとならないんですけどね,どうしてくれるんです?」

    ⑧あなたはつい責めるような口調になってしまう。

(多和田葉子『容疑者の夜行列車』青土社 p.10f)

 ⑷  ①しかし,精神は,中学生のあの頃の真っすぐな気持ちに戻っているのだ。②君には,

君の少し前方を走っているあの頃の少女の後姿が見えている。③ブルマーを穿いて,揺れ る短い髪の少女。④白いスニーカーの裏側が,彼女が土を蹴りあげる度に見える。⑤君は,

どうしても追い越したかった。⑥追いついて追い越すことが,君のたった一つの自己顕示 であった。⑦少女を追い越す時,君は胸を張った。⑧あがりきっていた顎を戻し,まっす ぐに前方を睨みつけていた。⑨追い越した後も暫く,君は,背すじに神経を集中させてい た。⑩その瞬間,君だけを少女が見ているのだから。……

   ⑪スースー,ハーハー     ⑫スースー,ハーハー

  (辻仁成「ゴーストライター」『グラスウールの城』新潮文庫 p.149f)

 ⑸①「書式があるんでしょうけれど,それがはっきりしないんです」

    ②この年の四月から,就学困難な児童のための(教科用図書の給与に対する国の補助に 関する法律)が施行された。④志野田先生はその補助を,クラスの三人の子供のために申 請してやりたい。⑤しかし新しい規定であるだけにその手続きが解らない。⑥教育委員会 へ出すのか民生委員に出すのか市役所へ出すのか,まだだれも知らないらしい。

   ⑦「そんな書類,こしらえたって無駄じゃないのかねえ」と一条太郎は自分の机のうえを

(3)

かたづけながら言った。  (石川達三『人間の壁(上)』新潮文庫 p.103)

 ⑹  ①乗った人間が一人だから,一つの名前で通したと思いこんでいたのが錯覚であった。

②どうして早くこれに気がつかなかったのか。③三原は人目がなかったら,自分の頭を拳 でなぐりたかった。④どうも頭が硬化しているぞと思った。

   ⑤信号は青になった。⑥三原は歩きだした。  (松本清張『点と線』新潮文庫 p.173)

 各例をふくむ部分テクストのタイプは,⑴⑵が一人称者を主人公とする小説(一人称小説),

⑶⑷が二人称者を主人公とする小説(二人称小説),⑸⑹が三人称者を主人公とする小説(三 人称小説)であり,Longacre(1996)の提案した概念によるならば,偶発的な時間連続と動 作主指向という概念的なパラメータで規定される「物語」として区分できる。

 下線部の叙述表現は,それぞれ「〜たい」と「〜たかった」という願望表現であり,願望の 主体としての経験者格1)は提題表現の形式が選択されていて,⑴⑵が一人称,⑶⑷が二人称,

⑸⑹が三人称である。

 ⑴〜⑹の例であるが,着目する部分テクストの中核は,それぞれ一人称者,二人称者または 三人称者に関する描出表現(いわゆる体験話法,自由間接話法,描出話法)2)として類型化 される。⑶〜⑹の類型性については,既に野村(2000,2005)で指摘したところであるが,さ らに顧(2006)の重視する「周辺テクスト」にも着目して,表現の類型性が,それぞれ一定の 範囲で維持されていることを,願望表現を中核にすえながら観察してみよう。

 ⑴は,①「私は……思った」という一人称者による思考を展開する表現が先行パラグラフに あり,⑦の「〜たい」の文を含む次のパラグラフでもその思考が維持されていると理解できる。

⑴と⑵は同じテクストであり,「私」は同一指示である。そのイディオレクトとしての一人称 詞は,⑵①によって「俺」だと判断できる。このことにより,思考の維持される部分が自由直 接思考だとは認定しにくい。⑧「……電話を切り,……観た。」の文にいたって,その思考の 表現は,外的な描写に切りかえられる。以上のことから,⑴⑦の願望表現「〜たい」を含む,「私」

の思考の内容を表現する部分テクストの類型は,描出表現として認定される。

 ⑵も最初のパラグラフに,一人称者による思考に言及する表現が見える。ただし,その「思っ た」を含む冒頭文①は,他の「私」と異なって「俺」が選択されていること,および「と」の 使用から,直接引用であることがわかる。が,その次の②〜④については,自由直接引用か描 出表現かの識別はつきにくい。⑤以降は人称詞が「私」に切りかえられ,文末が「た」を基調 としていることから,直接引用の部分との差異が認められ,以下「……娘が言った。」の文の 直前まで,その描出表現の類型性が維持されると理解することが可能である。2つの「〜たかっ た」の文は,思考の表現の中に含まれ,描出表現として認定可能である。

 ⑶は,⑤「それに比べれば,誇り高くお客を夜行列車から追い出すフランス鉄道職員は健康 で気持ちがいい,ああ,だから,あなたはストライキを応援したい。」の波線部のように,願 望表現の先行文脈に,感覚的な評価をおこなう部分が見える。評価の主体は明示されていない が,この評価の部分と願望表現の部分には,接続表現「だから」によって理由説明の関係性が 明示されている。また,後行文脈には,括弧でくくられた直接引用の発話の部分がおかれてい る。これらの部分テクストの環境から,「あなたはストライキを応援したい。」が,二人称者の 内的な願望を記述した描出表現であり,前後を直接引用でかこまれた部分全体に,この類型が 維持されていると見なすことができる。この描出的な記述をおこなった主体は,この部分テク

(4)

ストに顕在化していない。

 ⑷も経験者が二人称者であり,⑶の類例である。⑤「君は,どうしても追い越したかった。」

の先行文脈には,①「精神は……真っすぐな気持ちに戻っている」という思考の推移を指示す る表現,②「見えている」④「見える」という知覚動詞による叙述の反復がある。これらから,

二人称者「君」の思考,願望,知覚が描出される部分テクストであることが明らかなのである が,ここでも,その思考などを描出する表現主体は,明らかではない。願望表現の後行文脈は,

その願望の強さに関する理由説明である。この理由説明を行う主体も,唯一的に特定すること はできない。⑩に後続する「……」は,部分テクストの表現類型を切りかえるマーカーとして 機能する様相がたかい。⑪⑫は,「君」が走るときの呼吸の擬音表現である。

 ⑸の引用部の冒頭①は,「志野田先生」の発話の直接引用である。引用部の「はっきりしない」

と,願望表現に後行する⑤「その手続きが解らない」および⑥「だれも知らないらしい」とは,

法律に関する情報のあいまいであることにおいて一貫性がある。また,⑸に認められる主題は,

「一条太郎」に切りかえられるまで「志野田先生」が維持されるので,「解らない」の経験者,「だ れも知らないらしい」と判断する主体は,志野田先生と一致するか,または志野田先生を含む 集合的または総称的な主体である。⑶と同様,直接引用の表現にかこまれた部分テクストを描 出表現と認めることができる。

 ⑹は,願望表現③の先行文脈に①「錯覚であった」②「気がつかなかった」,後続文に④「思っ た」があり,思考の主体が「三原」だと理解できる。①〜④の部分が描出表現と認められる。

⑤⑥は,外的に観察可能な情報である3)

 さて,⑴〜⑹で注目した叙述表現,「動詞+たい」「動詞+たかった」は,願望表現の基本形 とタ形とであるが,これを無標形式とみなすとき,他のモダリティの形式をになう有標形式と のあいだで対立をみとめることができる(cf. 森山 2000;宮崎 2002)。願望表現には,文末が 無標形式か有標形式かに応じて人称制限(人称制約)があり,たとえば,談話において⑴⑵の ような一人称を経験者格とする無標の形式は使用されるが,⑶〜⑹のように二人称と三人称を 経験者格とする無標の形式は用いられにくい,という傾向が認められてきている。⑶〜⑹は,

物語というタイプのテクストに使用されている,という条件において許容され,それ以外のタ イプでは一般に有標化されることになる。このことは,三人称小説のタイプに関しては,既に 共通理解が成立していると思われる。二人称小説のタイプについては,野村(2005)が一通り の記述をおこなっている。ただ,なぜこのような人称制限の現象が生じるのかということにつ いての説明は,後に述べるように,多様な観点が提示されており,統一的な見解が成立してい る状況にはない。

 さらに,願望表現について,「たい」と「たがる」の対立をめぐる議論があり,これにまつ わる人称制限の問題をふくめ,近年は関連性理論や認知言語学の観点からの説明が展開されて いる(内田 2004;澤田 2004)。

 このような「たい」による願望表現,さらに感情形容詞を叙述表現とする文について問われ てきた人称制限(人称制約)の問題に関しては,無標形式と有標形式,または「〜がる」を選 択する文法論的な条件,さらにテクスト言語学上の条件とそのメカニズムの説明が問題にされ てきている。以下,この問題に関わる論点の整理,これを理解するためのパラダイムの整理を とおして研究の方向性を探ることとする。

(5)

2.テクスト言語学のシステムと文法論のシステム

 前節でとりあげた問題に関する主な論点を整理しておこう。指摘されている人称制限の現象 によって,文法論の観点での説明が求められるものとテクスト言語学による説明が求められる ものとに区分される。以下,文字言語による表現を文章,音声言語による表現を談話と呼び,

両者を一括するときテクストと呼ぶ。

 まず,感情表現等が文末または発話末に出現するばあい,談話においては人称制限が認めら れ,経験者が一人称であれば無標形式の選択がなされるが,二人称・三人称 では何らかの形 態での有標化が義務的である,という一般的な制限が認められている(三上 1960;寺村  1971,1973;Kuroda 1973;大江 1975;仁田 1980 等)。このいわゆる人称制限の現象が 以下の議論の出発点の1つになっている。

 感情表現に関わる制約をはじめとする人称制限の現象,または,適切な人称を選択する条件 を規定することと,人称制限とその解除にあずかる条件が,以下のように多くの側面から検討 され続けている。

 ⑺a.人称とこれに対応する述語形態が従属節において選択される現象

    a−1. 連体節において選択される現象(南 1993,2002;澤田 2004)

      a−1−1. 同格節において選択される現象       a−1−2. 関係節において選択される現象       a−1−3. 叙実節において選択される現象     a−2. 副詞節において選択される現象(澤田 2004)

  b. 人称とこれに対応する述語形態が「〜(で)ありたい」「〜れ / られたい」の類型に おいて選択される現象(劉 1997)

  c. 人称とこれに対応する述語形態が総称表現において選択される現象(野村 1991;劉 1997)

  d. 人称とこれに対応する述語形態がテクストまたは部分テクストのタイプとの関係性に おいて選択される現象(Kuroda 1973;東 1992;野村 1983,2000)

  e. 共同発話において先の話者の立場で,後の話者が発話を成立させる現象にともない人 称制限が解除される現象(ザトラウスキー 2003)

 次に,テクストを理解するためのレベルとして,⑻の3つを想定しておこう。

 ⑻a.マイクロのレベル: 形式的な特徴や語の意味,文法論の範疇を指標として,文相互の 関係性を規定する。

  b. メ ゾ の レ ベ ル: 文の意味・機能あるいは表現類型の範疇を指標としてテクストお よび部分テクストのまとまりの組織を規定する。

  c. マ ク ロ の レ ベ ル: テクストおよび部分テクストの組織や類型性を指標としてテクス トを文化的・社会的あるいは制度的に規定する。

(6)

 この3つのレベルは,理解しようとするテクストのサイズのいかんにはかかわらない。独立 したテクストが1個の文のみから構成されているばあいにも,⑻は適用される(野村 2003)。

⑻で文法論の範疇は,テクストを理解するための指標としてマイクロのレベルに帰属しており,

たとえば,文法論の規則が文化的な規則によって規定されたり,書き換えられたりすることは ない。だから,テクスト現象を理解し説明するためには,文法現象において認定されていない,

あらたなシステムがもとめられる,ということである。ここに,テクスト言語学のシステムと 文法論のシステムの異なりが認められるのである。

 ⑺の各項が言語のシステムとして,文法論のシステムに帰属するのか,テクスト言語学上の システムに帰属するのかは,対象とされる言語表現の構造と人称制限または人称制限の解除に 機能する要因の関係領域と抽象度に依存する。いま単純に,言語のシステムを文法論に帰属す る現象とテクスト言語学に帰属する現象の2つに分割したが,このばあい,一般的に,次のよ うなシステム上の関係が想定される。

 ⑼  文法論的な現象にかかる規則から,テクスト現象にかかる規則が派生されることはない。

しかし,文法規則としてあらかじめ設定されていない,より上位のレベルの原理が,テク スト現象に関係する一定の条件と選択圧で産出される可能性がある。

 このような観点をたてるならば,

7a 7b

は文法論のシステム,

7c

は,さらに指示に関する 意味論のシステムにも依存し,

7d 7e

はテクスト言語学の

8b

またはそれより上位のシステム に依存する,とみなされる。たとえば,澤田(2004)のあげる⑽⑾の許容度の差は,文法論的 に説明可能であるためにテクスト現象としてとらえるべきものではなく,テクストのシステム にあずかる条件のいかんにかかわらず,変化することはないのである。

 ⑽  長英の[江戸に戻りたいという]希望に,内田は反対しなかった。(澤田の例 )  ⑾  長英の[江戸に戻りたがっているという]希望に,内田は反対しなかった。(澤田の

例 )

 それに対し,しばしば諸家の言及する願望表現,さらに一般的にとらえて感情表現のテクス トの類型にそくした運用の可否は,文法論のパラダイムでは十分な説明が可能ではない,と考 える。たとえば,次の⑿と⒀の構造的な差異は,文法論的に記述,説明が可能であり,現に行 われているが,そのことがただちにテクストにおいてこれらの表現が具体的に運用される様相 を説明するものではない,ということである。

 ⑿ 太郎は水{を/が}飲みたい。

 ⒀ 太郎は水を飲みたがっている。

 また,谷守(1999)は「人称制限が緩やかに解除される」現象を指摘しており,これもテク スト言語学のシステムによるものとして位置づけられる。谷守のあげるのは,作例と思われる が,⒁⒂のような表現である。要するに,話し言葉の感情表現で,提題表現に二人称・三人称 の経験者格を有し,述語を無標とする発話がなされうる,という指摘である。

(7)

 ⒁ 君も行きたい。あいつも行きたい。みんな行きたい。誰が残るんだ!(谷守の例⒇)

 ⒂ お前もつらい。俺もつらい。みんなつらい。(谷守の例 )

 これまで⑺の諸現象は,

7e

の問題を除いて多くの研究が言及しており,研究の手法や観点 も多様である。その観点を,現象を理解するパラダイムとしてとりだしてみると,次のように なる。

 ⒃a.文法構造(寺村 1971,1973;南 1993;澤田 1993,2004)

  b.主語の意味論的な性質(尾上 1998;東郷 2003)

  c.文の類型性(仁田 1980)

  d.モダリティ(寺村 1971;仁田 1991;東 1992;劉 1997)

  e. 視 点・ 描 写 の 方 向 性・ 認 知 の 主 体(Kuroda1973; 澤 田 1993,2004; 池 上 2003,

2005)

  f.「わがこと」「ひとごと」「よそごと」,「関与」「非関与」(渡辺 1991;南 2002)

  g.「叙述の立場」の観点(金水 1989,1990;東 1992)

  h.テクストのタイプ,表現類型(Kuroda1973;工藤 1995;野村 1983,2000)

  i. テクスト・コミュニケーションの参加者,談話の参加者(野村 2000;ザトラウスキー 2003)

 なお,タイプの異なる複数の言語をとりあげる対照言語学の観点を考慮するならば(大江 1975;澤田 1993;東郷 2003;王 2004),感情や感覚の認識に関する一般的な,あるいは 汎言語的な理解に有効性の認められないことが明かなので,この観点は⒃から除いてある。

 ⑺にあげた人称制限に関与する諸現象と,⒃にあげたそれらの現象を理解し説明する観点と は,一定の相関性を示す。すなわち,大略,

7a 7b 7c

は,

16a

文法構造から

16b

主語の意 味論的な性質,

16c

文の類型性,

16d

モダリティに関係し,

7d

16d

モダリティから

16e

視点等,

16f

「わがこと」等,

16g

「叙述の立場」,

16h

テクストのタイプ,

16i

テクスト・

コミュニケーションの参加者に関係する。また,

7e

は,

16h

テクストのタイプと

16i

談話 の参加者の立場に関係する。

16e

視点等の説明概念は,複合的に認定してあるため,

7a 7b 7c

の現象と

7d

の現象と にわたって有効性をもつものとして位置づけられる。

 このように整理すると,

16h

テクストのタイプが説明概念として関与するか否かを境界条 件とすれば,

7a 7b 7c

の現象と,

7d 7e

の現象とが,区分されることになる。

 鎌田(2002)は,感情形容詞の人称制限は統語的な面から捉えることに意味がないと主張す るが,東(1992)がすでに指摘していたように,シンタクスによる現象と,叙述の立場すなわ ち対話モードと語りモードの差異による現象などを区別しておくことが,先決事項であろう。

これを⑼にそくして言い換えるならば,文法現象とテクスト現象とを区別して位置づけておき,

両者の連携を想定しつつ,専らテクストのレベルでふるまう現象は,文法論とはことなったパ ラダイムによって説明する,またはテクストのシステムにおいて説明する,という方法に生産 性がみとめられるということである。

 以上,本節では,⑺にあげた人称制限の諸現象と,⒃にあげた人称制限の現象を理解し説明

(8)

するための諸パラダイムとを整理し,そこに一定の相関性のみとめられることを主張した。

3.テクストのタイプと人称のタイプ

 本節では,

7d

としてとりあげた,特定のタイプの(部分)テクストにおいて,人称とこれ に対応する述語形態が叙述表現との関係性で選択される現象,特に⑴〜⑹の事例を典型とする 現象を視座として,⒃にあげたパラダイムの有効性の検討をはかることとする。

 最初の6例であるが,願望表現の部分は描出表現の類型であり,この類型は,それぞれ一定 の指標によって開始され,ある範囲で維持されて,後行文脈において異なった表現類型に切り かえられる。個々の表現類型は,何らかの選択圧で具体化されると思われるが,その具体的な 選択がどのように行われるのかについては,一定の制限が加えられているはずである。以下,

このことについて,先にあげた小説のテクストを対象とし,表現の「無標−有標」形式の選択 と,テクストの参加者(登場人物)の人称性,テクストの表現主体の認定とその人称性等との 関連で考えてみることとする。

 ⑴〜⑹は,人称と無標の叙述表現の形態の組み合わせによって表現類型が形成されているの であるから,この現象は

7d

に属し,したがって先に述べたように

16d

から

16i

までの観点 で理解,説明される性質のものである。叙述表現における「たい」の願望表現や感情形容詞は,

人称制限の現象が問題にされてきている。その類型の叙述表現を願望の「たい」で代表させる と,⑴〜⑹のよう,無標の形態が3種類の人称にわたって現実に観察される。ただ,すでにみ たように,1文のみで独立に無標の形態が選択されるのではなく,ある範囲の部分テクストに 維持される特性との関係性において,その選択が行われているのである。

 さて,⑴〜⑹は,ともにジャンルが小説(物語)であるが,人称に関しては,一人称小説,

二人称小説,三人称小説という差異がある。ゆえに,テクストの参加者の組織に相違があり,

したがってテクストの参加者と,そのテクストを表現し理解するコミュニケーションの参加者 との関係にも相違がある。

 一人称小説の⑴⑵にもどろう。これらの願望表現を有標化するとき,一定の制限がある。渡 辺(1991)の提案する「わがこと/ひとごと」の対立があらわれ,談話や一人称小説において,

一人称者の願望表現に「らしい,だろう,う」や様態の「そうだ」は用いにくい。仮定条件の 文脈では,「だろう」が許容されうると思われるが,⒄より⒅のような主体の心的変化の形式 のほうがすわりがよいように感じられる。

 ⒄    3日も海外にいたら,僕は,梅干しでも何でも,日本のものが食べたいだろう。

 ⒅    3日も海外にいたら,僕は,梅干しでも何でも,日本のものが食べたくなるだろう。

 あるいは,次の例のように話し手の内省の表現においても可能であるが,すでに「のだ」に よって一人称者の願望がいったん名詞化されているため,「たいだろう」の形態以前に有標化 された表現である。

 ⒆ なぜ僕はこうも日本食ばかり食べたいのだろう。

(9)

 一人称小説のばあい,コミュニケーションのシステムにおいて,テクストの語り手と,一人 称者としてのテクストの参加者(登場人物)は,指示対象として一般に一致する。このシステ ムは,通常の談話コミュニケーションのシステムと同様である。談話において話し手が自分の 経験を語る,いわゆる「自然な物語」(野村 2000:第2章)と一人称小説のシステムは同型と みなされる。このかぎり,

7d

の人称制限の現象は,渡辺(1991)の「わがこと/ひとごと/

よそごと」,または南(2002)の「関与/非関与」の対立に従うといってよい。そうすると,

小説の人称のシステムは,「語り手―読み手」という関係,すなわち「一人称―二人称」とい う談話のコミュニケーションの関係に従うことになるはずであり,たしかにこれは一人称小説 において主張できる。あるいは,一人称者と二人称者とが,談話のコミュニケーションに準じ る書簡体小説においても主張できる。

 このことと同時に,三人称小説においては,三人称者を経験者とする「たい」の願望表現や 一般に感情形容詞を叙述表現とする文が,⑸⑹のような描出表現として無標で運用されうるが,

談話においては原則的に有標化されることは既に共通理解とされている。ここにも「わがこと

/ひとごと」や「関与/非関与」の対立概念の有効であることが主張できる(渡辺 1991;南 2002;東郷 2005)。

 ところが,ここに二人称を考え合わせると,つぎのような問題が生じてくる。

 渡辺のとらえかたでは,日本語は,一人称と二人称・三人称とが対立関係を成立させ,二人 称と三人称は「ひとごと」の範疇にくくられることになる。このことは,「たい」による願望 表現を含む感情表現の形容詞系の語句を叙述表現とする類型において,無標・有標の選択とし て大局的に主張することができる。ただし,これまでにも主に文法論のレベルで指摘されてい るところであるが,コミュニケーションにおける話し手(送り手)と聞き手(受け手)の対立 として,一人称と二人称の間にモダリティに関する対立が見いだされる(仁田 1991;澤田 1993,2004;工藤裕 2005)。そこで,一人称小説,三人称小説にあわせて二人称小説のタイプ をとりあげて考察をすすめる必要が生じる。

 二人称小説とは,Fludernik(1996: p. 226)が「虚構の(主たる)主人公の指示において呼 びかけ代名詞を使用する物語」であると定義する「二人称フィクション(second person  fiction)」に相当するタイプである。このタイプにも,野村(2005,2006)で指摘したように 描出表現が認められる。先にあげた⑶⑷の例はこれにあたる。一人称小説とことなり,現代の 二人称小説と三人称小説では,通例,語り手は無人称4)であり,したがって明示的な語り手 が読み手(受け手)と談話のシステムを構成することはない。

 しかし,二人称小説にあっては,無人称である語り手が,テクストにおける二人称の参加者,

つまり二人称小説における主人公と明示的なコミュニケーションの枠組みを構成する表現が選 択されるばあいがある。たとえば次のような例である。

 まず,⒇と の②の部分は,語り手から二人称者「おまえ」あるいは「きみ」への呼びかけ の表現である(Fludernik 1993;野村 2006)。どちらのテクストも語り手を直接指示する表現 を欠いた部分テクストだが,その無人称の語り手がテクストの参加者に呼びかけることで,談 話的コミュニケーションの場が構築されているのである。

 ⒇  ①おまえは数えることのかなわない雪をまなざしいっぱいに受けながら,少しだけ泣い た。

(10)

   ②シュウジ。

   ③ おまえの物語は,「にんげん」のために初めて流した,その涙で始まる。

  (重松清『疾走』角川書店 p.23)

    ①こんなふうに,飢えと寒さにときどきうんざりしながらも,のどかな日常がつづいて いたある朝,突然,きみの自殺宣言が行われたのであった。

   ②原口統三。

    ③そのような場合の宣言とは,一体なんだろう? ④聡明なきみが,そのことの表裏を 知らないはずはない。  (清岡卓行『海の瞳』文藝春秋 p.99)

 次の ⑤は,呼びかけ表現は欠くものの,語り手から二人称者「きみ」への語りかけの表現 として理解される可能性がある。別の理解の方法として,二人称者の自問の描出表現または自 由直接引用とする可能性もある。語りかけとしての理解を選択したばあい,無人称の語り手と 二人称者とのあいだに,談話的コミュニケーションを想定することができる。

    [パラグラフ前半省略]①しかし,やっぱり朝になっていた,とわかって,いくらかき みは安心する。②こんな頭の状態で,夜中に目がさめるのは,つらいことだ。③肩から上 を,犀の頭にされたみたいなその気分の,原因は酒にきまっている。④罅われそうな喉の 渇きで,きみにもそれは察しがつこう。⑤まったくゆうべは,やけに飲んだものじゃない か。

    ⑥きみの目も,ようやく光りに馴れてきた。

(都筑道夫「やぶにらみの時計」『女を逃がすな』光文社文庫 p.10)

  の①〜⑤と⑨〜⑩の部分では,それぞれ括弧でくくられた発話と地の文とのあいだに,質 問応答の関係が成立している。地の文の語り手は,この部分テクストにおいて無人称であり5) 括弧の部分を発話する主体は,その無人称の語り手から⑥⑫に見るように,「君」として指示 されるテクストの参加者である。

   ①「タイヤも腹八分目でいいでしょう。暑いと空気がふくらむし,わたしは軽いから」

    ②どこに行くの?

   ③「図書館」

    ④え?

   ⑤「《午前中》に行ったところに,もう一回行ってみるの」

     ⑥やることが見つかった君は,てきぱきと動く。⑦黒のスパッツを,長いパンツには き替える。⑧町内の図書館だから,上はこのままでいいだろう。

    ⑨自動車は?

   ⑩「置いて行く。何だか気持ちが悪いもの。少し,体を動かして来る」

    ⑪門を出て,前の道に出る。⑫君は途端に――恐くなる。

  (北村薫『ターン』新潮文庫 p.51f)

 以上,⒇〜 の例によって指摘したように,二人称小説では,無人称の語り手とテクストの

(11)

参加者である二人称者とのあいだで,呼びかけ,語りかけ,質問応答のような談話的コミュニ ケーションが明示的に行われている。このとき,テクストの受け手,すなわち読み手自身が二 人称者でもありうる属性を,二人称詞を媒介として,テクストの参加者である二人称者の属性 と類比化させることができる(野村 2006)。この類比化が成立しているとき,無人称の語り手 とテクストの読み手とのあいだに,談話的コミュニケーションが仮構される。その類比化され る程度は,読み手の理解の方法によって多様だと考えられるが,二人称の内在する「ひとごと」

性は「わがこと」性に接近することになる。要するに,二人称小説の二人称者は,テクスト内 の談話的コミュニケーションに位置づけられると同時に,無人称の語り手と現実の読み手,つ まり本来一人称者である主体との間に想定される談話的コミュニケーションに組み込まれる可 能性がある,ということである。

 このような事態は,野口(1994)が一人称・二人称に対して三人称を同列に遇さないことと 対応する。しかしまた,談話において,叙述表現としての「たい」の願望表現や感情形容詞類 が一人称を経験者とするとき無標が使用されるのに対し,二人称・三人称を経験者とするとき には,それら叙述表現が無標の形態で使用されにくいという事実とは一線を画する。すなわち

「わがこと」性と「ひとごと」性のパラダイムとは明確に区別されるのである。

4.テクストからみた日本語の人称のタイプ

 日本語の現代小説を資料に,願望表現の無標/有標の別を出発点として,テクストのタイプ と人称のタイプを瞥見してきた。以下,本稿と野村(2005,2006)の検討によって理解可能な 事項をまとめる。

 本稿では,日本語について,一人称,二人称,三人称,総称人称および無人称の存在を仮定 している。総称人称と無人称はもとより,一人称,二人称,三人称についても,先に言及した 野口(1994)の指摘や,いわゆる敬語的人称(石坂 1944,1969;菊地 1994)の体系を考慮す るとき,これらの範疇が単なる指示性の相違として,並列してとらえられるものでないことが 明かである。くわえて,渡辺(1991)や南(2002)の提案した人称制限に関与する範疇がある。

また,これらと類似の言語現象を検討しながら,池上(2005)が,「一方では,〈自己〉(1人称)

対〈他者〉(2/3人称)という対立,他方では,〈言語行為参与者〉(1/2人称)対〈言語 行為非参与者〉(3人称)という対立」としてのシステムを提案している。

 上記の諸説は,それぞれ提案されているシステムとして鮮明なのであるが,たとえば本稿で とりあげた小説のタイプでの言語表現のありようを考慮すると,事態はより動的にとらえるべ きものだ,との認識にいたる。一人称と二人称は,それぞれ言語表現の送り手対受け手として の運用上の制約をになっている。語り手が無人称であるがゆえに,そこに語り手と一人称者と の間に,言語表現上の同一性が想定されるが,しかし⑵に見たように,一人称者の人称詞のイ ディオレクトは,語り手の用いる一人称の人称詞と異なりうることから,その想定がなりたた ないことが主張できる。さらに,たとえば⑵の願望表現「⑦私は少しずつ白んでいく夜明けの 空が見たかった。」は,願望の経験者である「俺」と語りの対象としての経験者「私」と時間 を「〜た」と判定した主体とは,概念上区別される必要がある。上の例で考えるならば,2つ の経験者「俺」と「私」とが,語り手を介して一致するのである。

 二人称にあっても,運用論上の制約にしたがい,表現の有標化がはかられる。二人称小説の

(12)

ばあい,無人称の語り手とのあいだにもその制約が生じる例があり,この意味で談話的コミュ ニケーションと相似のシステムを認めることができる。

 二人称と三人称は,「ひとごと」として統一され,語り手ではないという点において共通性 を見いだすことができる。ただし,このことが,文学テクストが概ね一人称小説と三人称小説 であることを前提にする可能性をおびるとすれば,それは過度の単純化をはたした結果である。

独立した小説としてのテクストにおいて一人称・二人称・三人称の組み合わせが多様に変化し うる事実(野村 2005,2006)が考慮される必要がある。その組み合わせに応じて,二人称・

三人称を経験者とする「たい」の願望表現や感情形容詞による叙述表現の無標と有標との選択 が行われる。

 次のようなとりまとめは,すでに単純化をほどこしてあるのだが,小説のタイプと人称に応 じて,「たい」による願望表現や感情形容詞を叙述表現とする文が,無標形式をとる傾向にあ るか有標形式をとる傾向にあるかについて, の原則を取り出すことができる。ACEGの記 号は,それぞれテクストの参加者の人称の組み合わせによるテクストのタイプをあらわし6) 0とした人称は,当該の人称がそのタイプに欠けていることを意味する。

人称

一人称 無標 無標

二人称 有標 無標

三人称 有標 有標 有標 有標 / 無標

 個々のテクストは,大局的には にしたがうと考えるが,それは一定の様相においてであり,

具体的な運用のレベルでは,一編の小説が,部分テクストとして複数のタイプを内在しうるし

(野村 2005),無人称の語り手にあっても,テクストへの関係性は一様ではない。 から逸脱 した表現も許容され,特に詩的なテクストの運用において(野村 2004),その様相は,より高 くなることが予測される。

 人称制限の現象について,文法論のシステムに基づく規則は,

7a 7b 7c

への適用にとどめ,

7d 7e

などについてはテクスト言語学のシステムによる記述を適用するのが妥当である。

は,テクストのタイプに規制される原則であり,この原則からの逸脱は,当該の表現にテクス トの任意のレベルで制約をくわえる文脈がもたらす機能によるものである。これらの詳細は,

文法論,意味論,テクスト言語学を並列的に連携させながら,さらに検討をくわえる必要があ る。

1) 格の名称は,石綿(1999)にしたがう。

2) 「描出表現」とは,印欧語の「体験話法」「自由間接話法」「描出話法」に対応する日本 語の表現類型であり,「「と」などによる明示的な引用の標識が欠けているか,その作用範囲 のそとで,コミュニケーションの参加者と区別されるテクストの任意の参加者の発話や思考 の内容を対象とし,コミュニケーションの参加者のたちばからテクストの参加者をさししめ

(13)

すモードで表現する類型である。」(野村2000:p.251)と定義できる。ほかに,保坂・鈴木(1993)

も参照。

3) 文⑤は,三原の観察した対象を描出した表現として理解することが可能である。ただ,

この部分テクストの改行の方法を考慮するなら,⑤は,⑥と同じ外的な描写の表現類型とし て理解されやすいと考える。

4) 「無人称」の語り手の概念は,亀井(1983: p.16)による。作中人物の一人ではなく,ま た「作中どこにでも(主人公の内面にまで)自由に出入りできる作者自身とは必ずしも一致 せず,つまり一応は区別された,その場面における自分の位置をそれなりに自覚している」

語り手とされている。

5) このテクストに限定してのことであるが,語り手が「内なる声」として位置づけられ,

さらにテクストの末尾で,語り手とテクストの参加者の1人が一致するように操作されてい る(野村2005,2006)。

6) ACEGとしたのは,野村(2006)と組み合わせの型の記号を対応させたことによる。

【参 考 文 献】

東 弘子 1992「感情形容詞述語文における感情主の人称制限―叙述の立場から―」『日本語論 究3』和泉書院

Fludernik,  M.  1993  Second  Person  Fiction:  Narrative    As  Addressee  and/or 

Protagonist.   . 18.

Fludernik, M. 1996   Routledge.

保坂宗重・鈴木康志 1993 『体験話法(自由間接話法)文献一覧―わが国における体験話法研 究―』茨城大学教養部

池上嘉彦 2005「言語における〈主観性〉と〈主観性〉の言語的指標⑵」『認知言語学論考 № 4』ひつじ書房

石坂正藏 1944『敬語史論考』大八洲出版

石坂正藏 1969『敬語―敬語史と現代敬語をつなぐもの―』講談社 石綿敏雄 1999『現代言語理論と格』ひつじ書房

鎌田精三郎 2002「現代日本語感情述語の人称制限について」『城西大学研究年報 人文・社会 科学編』25

亀井秀雄 1983『感性の変革』講談社

菊地康人 1994『敬語』角川書店(1997 講談社)

金水 敏 1989「「報告」についての覚書」仁田・益岡編『日本語のモダリティ』くろしお出版 金水 敏 1990「述語の意味層と叙述の立場」『女子大文学 国文篇』41

顧 那 2006「自由直接話法と自由間接話法の周辺テクスト」『言葉と文化』7 工藤 裕 2005「文の機能と叙法性」『国語と国文学』82- 8

工藤真由美 1995『アスペクト・テンス体系とテクスト―現代日本語の時間の表現―』ひつじ 書房

Kuroda, S-Y. 1973  Where Epistemology, Style and Grammar Meet : A Case Study from  Japanese. in Anderson,S.R. et al.eds. 1973   Holt.

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野村眞木夫 2003「テクストの意味と構造」『朝倉日本語講座 7 文章・談話』 朝倉書店 野村眞木夫 2004「「夕焼け」のポイエーシス―テクストとしての現代詩―」『表現研究』80 野村眞木夫 2005「日本語の二人称小説における人称空間と表現の特性」『上越教育大学国語研

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澤田治美 2004「「たい/たがる」の主語の人称制限をめぐって―認知言語学的アプローチ」『月 刊言語』33-10

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(15)

Text Type and Person Type: With a Focus on  Desiderative Expression and Second Person Fiction

Makio  NOMURA

ABSTRACT

It has been pointed out that Japanese desiderative expressions and emotive sentences  have person restriction phenomena. In this paper I investigate the conditions that select the  marked form or the unmarked form in the predicates when we use -  or emotive adjectives  in the first person fiction, second person fiction or third person fiction. And I search for the  directionality of the research by the examination of the linguistic paradigm to understand  conditions of these phenomena. In concluding remarks, I make clear that a constant system  functions in the selection of the marked form and the unmarked form in dependence on the  text type.

  Division of Languages : Department of Japanese Languages

参照

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