神武東征とアイヌ文化
( 2 )
木 曽
一.はじめに
二︑アイヌ語地名が意味するもの
三︑日本各地に残存するアイヌ語地名
(以上﹃架橋﹄第四号掲載)
四︑アイヌ神話と民俗
五︑神武東征の謎 朗生
四︑アイヌ神話と民俗
中田千畝著﹃アイヌ神話﹄によれば︑世界の天地創造は︑コタンカラカムイによってなされたとしてい
る︒その頃︑世界は水陸混沌として︑ただ広漠たる沼の様な一霧の様な有様を呈していた︒空をとぶ烏もな
く︑土に繁る草木もなく︑生命を有するものは何もなかった口この有様を見たコタンカ一ブカムイが︑生物
を生存
JT
J
なるために︑先︑ずみ一キレイをつくって降したという︒神座より降って来たセキレイは︑万物の
混沌とした状態を見て︑何からはじめょうかと思いわずらったが︑水上に両翼をのばしてはばたき︑足を
もって谷地を打つと︑谷地は乾き陸地となり︑水は海となった︒コタンカラカムイも︑自ら大銭(まさか
り)と鍬(くわ)をもって荒地を聞き︑セキレイにその羽で平に掻きならさせて︑平地を造った︑︒コタ
ンカラカムイは︑かくして天地を創造したが︑まだ人が住まうには不適当な事︑があり︑子供の中から最も
賢いチキサニカムイ(火の樹の女神)を人間の国に天降らしめた︒
その時︑シニシコロカムイ(真天の神)の弟ポニウネカムイは︑チキサニカムイにとりいり︑人間の閏
に降った︒コタンカラカムイ︑が世界を創造し終わらない頃︑天上の鳥獣魚類の神々はコタンカラカムイが
創造された山河の明美なる様を見て︑コタンカラカムイに来往することを願った︒コタンカラカムイは︑
﹁なんじ等の願いは今ききとどけてやるから︑なんじ等は世界に下ったならば人間の変災︑病難︑飢餓に
対して︑欠くべからざる必要の物を給すべきである﹂と言って許した︒鳥獣魚類の神々は︑天から世界 の山河に降って相婚い相交わりて繁殖する様になっ問︒
他の神々はチキサニカムイが選ばれ一番先に人間の国土に天降って行った事に嫉妬し︑エンカムイ(悪
神)やベケレカムイ(善神)はチキサニカムイとポニウネカムイの所に押し寄せた︒人間の国では︑チキ
サニカムイとポニウネカムイの子オイナカムイが大きくなると︑ポニウネカムイ︑が神の国に再び昇天した
ので︑トカプチュプカムイ(日の神)︑が天降りして育てた︒
悪魔神アラエンカムイは︑トカプチュプカムイ(日の神)が邪魔であったので︑幾度かトカプチュプカ
ムイを襲った︒パスクルカムイ(烏の神)はトカプチュプカムイを救うために︑アラエンカムイの大口の
なかにその一族の一人をとびこませたので︑トカプチュプカムイは難を逃れる事が出来た︒アイヌの人た
ちは︑太陽が凶悪な悪神に呑み込まれようとした時︑烏が悪神の舌を鳴で突っついたため︑悪神は太陽を
吐き出したと信じている︒アイヌの人たちは︑太陽を八チュプカムイ弘光り輝く神)と呼び崇め︑烏を 人類のために貢献した鳥として︑殺すことも︑その肉を食べることもない︒
N ・ G ・マンロ!著﹃アイヌの信仰とその儀式﹄によれば︑アイヌの神は︑人々から遠く離れた所(天
上界)に住んでいる八カムイ v と︑地上に住む八カムイ v があり︑大空と関わる神々の中には︑八カントコ
ロ カ ム
v は人々の住むこの世を創り上げて行く仕事を八 イ v と呼ばれる天空の支配者があり︑この︿カムイ
モ シ リ カ ラ カ ム イ
v に代行させたとしていお︒イギリス聖公会宣教師にしてアイヌ研究者のジョン
・バチエラ!は︑この位の高い神の存在を根拠にアイヌの人びとはもとは一神教であったと考え︑アイヌ
の人たちが﹁神々の中の真の大神﹂と名付けている︿パセ であるとしていお︒
アイヌの人たちの古謡では︑天上界の大神八リコマカムイ
v が
送 っ て く れ る 光 を 賛 美 す る が
︑ での位の高い神々の中の一人に︑︿オイナカムイ﹀と呼ばれる神がいる︒アイヌの女性はこの神の到来 を 踊 り で 表 現 し て い る
︒
︿ ヒ エ ラ ン ナ カ ム イ エ ラ ン ナ ヒ エ ラ ン ナ ト オ エ ラ ン ナ
V(
降りて来たよ︑︿カムイ v
が降りて来たよ︒ほら︑降りて来たよ︑あそこに降りて来たよ))︒古い時代
の伝承では︑八オイナ v
神の名前は﹁教師﹂という意味で︑この神はアイヌの人々に生活の仕方を教えた
師として語り草となった神である︒パチエラ!は八オイナ﹀を悪霊や悪人たちと︑戦ったと言う伝説上の英
雄八オキクルミ v
と同一神と考えていたが︑アイヌの人たちはこの神を自分たちの祖先として崇め拝むこ
立はしなかった︒この神はアイヌの人々に生活・文化を教え終わると︑再び天上界に一戻って行ったとい
v
つ ' ︒
カムイ v を﹁創世の神である天上界の支配者﹂
アイヌの人たちは︑北の空に轟く雷神︿カンナカムイ
v に︑特別仕立ての八イナウ v が供えられるが︑
この︿カムイ v
には大地を豊かにするとの言い伝えがあり︑蛇が稲光に乗って天上界から降りて来たとの
伝説︑がある︒火の女神を崇めるアイヌの人々にとって︑火の神を拝むことは祖先を崇拝することであるが︑ その火の神は蛇といっしょに天から降りてきたと信じてい(ぷ)ロ
アイヌの人たちが家屋で行う﹁祖霊祭﹂においては︑家の主人が祖先の霊に向かって祈りの言葉を唱え︑
礼拝の儀式を取り仕切るむ家の主人を除いて︑他の男性は参加するととは許されず︑女性だけが礼拝の儀
を行う︒めったに︑酒を飲まない女性たちも︑存分に酒を飲み︑濁り酒の入った︿シントコ
V
(
行器)
蓋の周りに円座を作り︑八ウポポ
V
(
v 座歌)を歌って楽しく時を過ごす︒長老︑が部屋の上座で八タプカラ
(男性の舞い)を始めると︑女性たちゃ若い男たちは︿シントコ
V
(
行器)の蓋の周りで踊り始め︑やが
て囲炉裏の周りに大きな輸を作って八リムセ
V
(
輪になった踊り)を続ける︒この輪舞は何時でも右廻り
に進むことになっており︑左廻りに進むことは不吉であるとされている︒アイヌの人には人間の霊魂は
死後︑烏の姿に変身するという伝説があり︑酒宴の終わりに八ハララキ
V
(
野鴨の踊り︑水鳥の踊り)を
行 う
︒
他方︑地上には︑地上の八カムイ v
たちの名目上の長とされる︿シランパカムイ
v と
呼 ば
れ る
神 ︑
が あ
り ︑
この︿シランパカムイ
v は大地をしっかりと支えている神である︒︿シランパカムイ
v は︑また植物の
神でもあり︑その八ラマツ
V
(
霊・霊魂)を他の樹々に分け与えている︒樹々は︑アイヌの人たちに食糧︑
家屋︑道具類︑薪を与えてくれるだけでなく︑天上のコタンカラカムイから人間のために地上に遣わされ
た鳥獣魚類の棲息になくてはならぬものである︒
アイヌの人たちの思想では︑万物がみな神(カムイ)であり︑生活有用なものが善神で︑有害なものは
悪神とされる︒それ故︑人間の生活に欠かすことのできないものを遣わしてくれる天上界の神々に︑常に
敬意が払われている︒熊の霊を神の国へ送る儀式である熊祭りにおいて︑胴体から切り離された熊の頭が
毛皮の上に安置され︑消え去ろうとしている熊の霊魂に向かって感謝の意を表し︑捧酒が行われ︑神聖な
火が燃えるなかで熊の生き血で満たされた椀を廻し飲みされるのも︑その一例である︒北海道アイヌの
の
熊祭りには︑樺太︑ロシア沿海州でもみられるような飼育された熊が送られ︑山猟で得た熊を送るユーラ
シア北部︑北アメリカのものと区別される︒江戸時代の記録には﹁熊も子の家に飼置く・・女房の乳を呑
せて育てあげ︑祭の時是を殺して喰ふ﹂とある︒
アイヌの人たちは︑熊に限らず︑すべての食肉に供する鳥獣魚類をイナウを立てて霊魂を送る口イオマ
ンテ'の種類には︑クマ送り︑キツネ送り︑タヌキ送り︑オオカミ送り︑シカ送り︑クジラ送り︑シャケ送
り︑フクロウ送り︑ワシ送りなどがあるが︑フクロウ送りが︑クマ送りよりも重い儀式とされている︒
アイヌの人たちは︑動物だけでなく植物や道具の霊魂も送る︒特に粟︑稗などの籾穀は家の外の神聖な
場所に集められ︑イナウ(木幣)を立てて記られる︒平素愛用していた蓋︑杯︑行器(ほかいて椀など
も︑破損したり不用になった時︑人里を離れた清浄な場所でイナウ(木幣)を建て神酒を献じてそのラマ
チ(霊魂)を天に送る︒
アイヌ人の生活のなかには︑原始日本人が行っていた習俗が残存している︒アイヌの人たちは︑天上の八
カムイ v や地上の八カムイ v とは別に︑姿かたちを見せずに人々を護ってくれる八カムイ v を信じている︒人
の頭の先から後頭部にかけて張り付いて背後に隠れて守護してくれる神々は︑人々がいつも健康でいられ
るように︑またそれぞれに運が向いて来るようにと計らってくれるむ善い八トゥレンベ
V
人が亡くなった時に︑その人の魂を祖先の地まで運んでくれると信じられてい(ぷ)︒死者の霊魂は通常地 窓き神)は︑
(下の世界にたどり着き︑そこでは︑霊魂たちは地上にいた時と全く同じような世界を営む︒自殺したり︑
誰かに殺されたり︑苦悶のうちに死んで行った者たちの霊魂は︑この地下の世界に赴かず︑生前の仇をさ
がし出して復讐を遂︑げようとして︑現世の中をさまよい続ける巴
アイヌの人たちの悪霊払い︿ウェポタラ v の儀式には︑一二つの方式があり︑川岸でお被いをする︑樹木
でお被いをする︑家屋の前庭でお被いをする
3
アイヌの人々は病気にかかった時︑薬草を用いて治療す
るが︑極めて重い病気の時には︑年の取った人々はその原因を性悪な悪霊の仕業と判断する︒女性の原一
術師から悪神に取り懇かれたとの宣託を受けると︑長老が祈祷を行う
c人々を狂わせる神を払い落とす儀
式では︑病人は籾穀などを積み上げた祭壇のそばで︑笹の束を用いてお被いを受ける︒アイヌ人が悪霊 を退散させる儀式の行列の中で製鉄の刀剣を振り回すが︑これはヨモギで作った剣を身に付け︑自分を 守 っ て く れ る
︿ シ ュ ト ヮ イ ナ ウ カ ム
v イ
の存在を信じてのことである︒
アイヌの人たちは︑寺院や神社を造営することをしなかった︒アイヌ人はケンルと呼ばれる家に定住す
ると︑それぞれの家は聞炉裏に火を把り︑個々の家屋をその家の寺社とした︒火の女神はすべての祖先の
霊 を 代 表 す る 神 で
︑ ま た 祖 先 の 垂 直 は 八 ア ベ ラ ウ ン カ ム
イ v
( 囲炉裏のすぐ下に住む神々)と呼ばれ
ている︒家屋のすぐ外には︑八イナウ﹀を立てる棚に神々の︿ラマツ
V
(
魂・霊魂)を杷る祭壇があり︑家
内安全のために悪霊たちが家屋周辺に潜まないように︑悪霊被いの儀式を行う
c
埋葬においては︑古い時代︑アイヌの人々には死者を葬る一定の墓地というものはなかった︒亡くな
った人々の霊を供養する際には︑大事な品物を壊し︑そこに内在している︿ラマツ
V
魂・霊魂)を品物
(から離して送っている︒遺体は莫産でくるむ前に︑埋葬のために着せられた衣服の数箇所が切り裂かれ
る︒切り裂かれない場合でも︑切り裂くしぐさが行われ︑肉体に内在する霊魂を解き放つ
cアイヌ人の葬制でも墓を士で埋め終わると墓標を立てるが︑墓標は故人を追悼するためのしるしという
よりは︑祖先を杷るための︿シュトヮイナウ﹀(棒状のイナウ)に代わるもので︑故人の霊を悪神から
守るためのものと考えられている︒墓標がす一てられると︑ヨモギなどを束ねた﹁浄め草﹂で墓の上を掃
くようにしてお献がなされる︒参列者たちは墓地から一戻る途中︑清めの草の束で自分たちの身体から悪霊
を払い落とし︑家では墓地から戻って来た人々が手や顔を洗うために︑水を満たした桶が家屋の入り口に
用意される︒
アイヌの人の信仰の中では︑人が死後に再び生まれ変わるという考え方はほとんど見られない︒ただほ
んのわずか︑善良で極めて優れた人物だけが︑ごく例外的に生まれ変わることが出来ると言われている︒
生前に善行を積んだ者は︑死後その八ラマッ v
が祖先のもとに帰り︑一方悪行をおかした者は戻って行く
所︑がないために大抵の場合﹁幽霊﹂になる︒
墓地で埋葬の儀式が行われている問︑家屋に残った人々は家の中を掃除し︑みんなで食べる食事の用意
をする
D︿ ウ エ ン ベ オ ツ タ マ ラ ッ ト
V
(
不幸の後の宴)と呼ばれるこの宴では︑肉や魚を野菜と一緒
に煮た汁︑黍類で作った団子︑鮭︑鮭の卵︑栗の実などの野生の堅果が出される︒食べ物すべて膳の上に
載せるが︑一部︑囲炉裏のそばの神聖な莫産の上に置かれる︒アイヌの人には以前︑墓前に食べ物を供 える風習がなかった︒アイヌの人たちは︑食べ物を神々に捧げることを︿イナウエタイヤ
V
(
イナワを
引き抜く)と言うが︑マンロ!は家屋がまだ土問で︿イナウ v
が地面に突き挿されていた古い時代を思い
起こさせるとしてい(出
) O
マ ン
ロ
11
は︑シヌラパ(霊魂供養・祖霊祭)の折に祖先の霊と相伴される御馳
走に関して︑かつて明確に二つに分かれていた祭り︑が︑いつしか一つに融合したからではないかとしてい
る ︒
この問題に関連して︑柳田国男は﹁行器考﹂において︑﹁盆﹂という慣習の起こりについて仏教学者の 所謂ウラブンナの講釈に疑問を目玉(は)︑行器(ほかい)の事を考察している︒行器とは食物を野外に運ぶ
器物のことで︑古来の日本語でホカヒと呼ばれたものであるが︑墓の前の棚かき物を供することもホカヰ
と い
う ︒
長崎では︑盆にホカヒメシという他の地方では餓鬼の飯に相当するものを盆棚の片端また一段低いとこ
ろの外精霊に供える︒土佐では︑ホカヒを盆の火のことと解されることもあるが︑それでもその柱松の前
に食物を供える︒岩手青森秋田の東北三県には︑秋の初めの満月の頃に︑食物を亡霊に供養する風習があ
る︒柳田国男は︑長崎︑士佐︑東北三県といった相互に接触の少ない地方に残ったこのような風習を︑中
央では既に改まった前代の生活様式が遠い端々に消えずに残っていたものであるとした︒
この他︑盆の行事に関連してホカイという言葉には︑踊りに関連するものがある︒静岡愛知の二県の聞
の天龍豊川二つの流れの間に在る村々には︑新ボトケのある家の表庭で踊ってもらうホウカという行事が
ある︒また︑京都と山一重の丹波山国村の下という部落には︑北海念仏という行事もある︒ホカイとい
う言葉一つとっても︑地方には様々な風習が残されており︑仏教儀式以前の生活様式を仕切梯とさせるもの
もあるが︑その当事者にもその本来の姿が忘れ去られたものも多い︒墓地の変遷もその一つである︒
柳田国男は﹁葬制の沿革について﹂において︑墓所が家々専属の斎場の意味に用いるのに対して︑所謂
墓原には別にムシヨという語があったとしている︒ムショは通例共同墓地を指すが︑﹃奇異雑談集﹄など
には罷物所と書いてハモツショと訓ませている︒柳田国男は︑諸国のサイノカワラの中には地形から見て︑
かつて葬送の地であったと推測されるものがあるが︑陸中遠野郷の村では墓地をサイノカワラといわず︑
小高い丘陵の上に在ってデンデエノ(蓮台野)と呼んでいるところから︑古くは祭地であった可能性があ
るとしている︒
九州南部及び沖縄には二段に分かれている墓地が残されているが︑柳田国男は奄美大島の阿室という村
落で見た墓地の事を述べている︒下の段は葬地で︑食器︑紳立︑杖︑履物など種々の葬器が陳列してあり︑
柳田が祭地とみなした上段の一区画には石碑が立ててあり︑奄美大島一般の風習では︑葬後ある期間を過
ぎると遺骨を新墓から移すことになっている︒
遺骨を墓地から祭地に移す風習は︑何によるものか︒アイヌ研究者の河野広道は︑﹁員塚人骨の謎とア
イヌのイオマンテ﹂において︑員塚は少なくともアイヌの場合︑﹁物送り場﹂の跡であって︑物の霊を天
国に送った﹃骸﹄の置場であるとして︑本邦に於ける先史時代貝塚には︑人骨が埋葬されているものが
甚だ多く︑本州先住民にも現代アイヌのイオマンテの思想に似た宗教的思想が存したことが想像出来ると
している︒
アイヌ人の伝説に依れば︑自分たちが住む前に︑この島に小人︑が住んでいたことを伝えている︒穴居民
の女たちが入国軍をしているのを見て︑アイヌの女たちが唇や腕に入墨をするようになったいう︒より小さ
いアイヌはみな︑これらの女の子孫であるとしている︒アイヌの女性たちは︑それぞれの母親固有の八
ク ツ
V
と呼ばれる等麻の繊維で編まれている貞操帯を受け継いでいるが︑それらは︑八ワッカウシカ
ムイ
V
(
﹁淡﹂水の神)︑八キムウンウシカムイ
V
(
山に住むカムイ・熊の神)︑︿レプウシカムイ
v
(海に住むカムイ)の三通りの母系の血統をしるしている︒入墨は南方民族起源のものであるところから︑八
レ プ ウ シ カ ム イ
V
(
海に住むカムイ)の系統のものがもたらしたものと考えられる︒
河野広道は︑貝塚の起源を狩猟神の祭り場即﹁物送り場﹂の跡が骨塚又は貝塚となったと事を示唆して
いる︒河野の仮定に基づけば︑九州南部及び沖縄における遺骨を墓地から祭地に移す風習も︑海洋民族
の習俗を先住の狩猟民族の習俗に先祖返りさせたものと考えられる口北海道で発見されている厚手土器時
代の貝塚には︑例外なしに人骨︑が葬られているが︑年代の下った石器時代後期から石金併用時代の全期に
わたる北海道式薄手縄文土器期の遺跡では︑物送り場と墓とは区別されて居り︑墓地は見晴らしのよい E
陵上にある︒最新のミトコンドリア
DNA
研究によれば︑茨城県中妻貝塚の縄文人骨二十九個体の九
種類の塩基配列のうち︑少なくとも二種類はアイヌ人と沖縄人と共有しているものとの結果を得ている
) O
同じく
D N A
研究によれば︑現代人の起源の地は︑十四万年前のアフリカにあり︑その一部が二度の
脱アフリカを試みたとされる︒アフリカ大陸を北上した集団は︑中東に達し︑さらに北に向かい︑今のヨ
ーロッパ人の祖先たちとなり︑別の集団は中東を東に進みユーラシア大陸を横断していった︒その移動経
路には南回りの海沿いを通り海洋民族色してオセアニアに進出した集団と︑ヒマラヤ山脈の北側を通り中
国南部に至った集団があった
D
これらのアフリカを脱出し中東を経て北と東に向かった集団とは別に︑
マンモスを追ってシベリアに進出した集団があった︒この集団は︑五万五 000 年前にモンゴロイドとコ
!カソイドに分かれ︑二万一
0 0
0 1
一 万
四 000 年前に東アジアに進出した一群がアメリカ大陸と日
本に向けて分かれ移動した︒
宝来聡は九ミトコンドリア
DNA
の突然変異の研究から︑縄文時代には日本列島を担った﹁縄文人﹂
には︑アイヌ人の人々の祖先と沖縄の人々の祖先︑少なくとも二つの集団があったとしている︒また︑本
土日本人には︑アイヌ人や琉球人よりも︑韓国人との間に共通の塩基配列があることから︑弥生時代(二
三 001
一 七
OO
年前)とそれに続く古墳時代(一七 001
一 四
OO
年前)に︑大陸から渡来人が九州か
ら次第に本州に移り︑先住していた縄文人と混じり︑日本本土人の遺伝子にかなりの影響を与えたとして
い る
︒
宝来聡は︑アイヌ人と琉球人の集団︑が分岐したのは︑弥生人渡来の遥か以前の一万二 000 年前のこと
とし︑その頃︑アイヌ人と沖縄の人々の祖先集団とは別に︑日本列島中央部に暮らす別の縄文人集団を想 定出来るとしている)︒二万一千年から一万八千年の昔︑最後の氷河期(ヴユルム氷期)の最寒冷期のこ
ろ︑海面は現在より百四十メートルも低く︑日本海は閉ざされた大きな水湖状態であったが︑それ以前に
日本列島には︑三万年以前のナイフ型石器とそれ以後の細石刃石器が存在している︒その後︑本州中央部
を境に東はくさび型細石刃核︑西は半円錐型細石石核と技術を発展させて行った︒二万五千年前には関
東北部に石刃技術が出現する︑が︑これは久しく住みついた前期石器時代人が新たに考え出したものか︑そ
れとも︑大陸から渡来した後期石器時代人がもたらしたものか︑判明していない︒
氷河期が終わり︑気温の上昇による海面上昇が起こると︑日本列島は大陸から孤立するが︑西日本はそ
れまでの亜寒帯性の針葉樹林からブナやナラの落葉広葉樹林が茂るようになる︒長谷部
4一 一
同 人
は ︑
縄 文
土 器
人の起源として︑新石器時代の初め頃︑華南に住んでいた東亜人の一部が陸路九州に達した集団を考え︑ 朝鮮海峡が出来る以前︑九州と中国大陸との聞に陸橋があったとしてい(出
)
この陸路は海底に没したが︑
O山海の幸に恵まれた九州に達した華南人は︑大いに繁殖し︑漸次日本全土に分散し︑縄文土器時代人とな
ったとし︑アイヌ人先住民説の根拠となっていたアイヌ人縄文土器創作説を否定した︒
同じく日本石器時代人としてのアイヌ人先住民説に異を唱えた清野謙次は︑日本人が日本'局に住む以前
の日本島は無人島であり︑その無人島に如何にして人が来たか︑地球上に於ける人類発生史の一部分と併
せて考える必要があるとした︒その際︑日本石器時代人種は広く日本全国に亘って居住していた大種族で
あり︑しかも上古の軍隊において遠征の将士がその地方の婦女と結婚した事を考えれば︑古住民が後世に
その血を残さずして消滅したとは考えられないとした︒
古代人の頭蓋骨を研究した清野謙次は︑朝鮮人との関係において︑石器時代人は縁遠く︑古墳時代に至
りやや接近し︑現代畿内人に至って最も近接しているとし︑頭蓋骨の変質に関しては︑縄文人から弥生人
の変質より︑弥生人から古墳人の変質の方が著しいとした︒その古墳時代においても︑金属用具の使用に
よる四肢骨の急激な変化をもたらしたが︑頭蓋骨の変化は石器時代と現代との中間に位置しているとした︒
一方︑アイヌ人に関して︑清野は古代日本人の朝鮮半島からの劇的な変化に対して︑北地にあったアイ
ヌ人は︑石器時代から金属時代への脱化が遅延したために︑原始日本人の古俗の保持者たらしめたとして
いる︒清野はアイヌ人はその体質において日本石器時代人の血を可なり受け継いでいるが︑然し純粋な日 本石器時代人と見なすことはできないとした︒清野はアイヌ人が石器時代人の津雲員塚人より古墳人に
近いという研究結果をもとに︑もしアイヌ人が日本石器時代人の祖先であったならば︑結果は逆になる筈
だと主張した︒
北海道の初期旧石器は︑ナイフ型石器(切出しナイフと祖形ナイフ)の系列に属し︑石刃技術は存在し
ないか︑否定的な見解が一般的であるロ道央から西南地域が石器使用を略々完全に脱却していた十世紀
前後︑道北東奥地特にオホーツク海沿岸に於いては︑石器時代の文化が色濃く残っていた︒その網走川河
口付近のモヨロ遺跡の墳墓からは︑仰臥屈葬のオホーツク人の副葬品として石器・骨角器と共に︑鉄製直
刀・蕨手大刀・刀子・鉄斧・鉄鋒の本州製金属器が出土している︒
アイヌ人をめぐっては︑これまで暗色コ l カサス民族説︑オセアニア人種説︑古代アジア人種説︑モン
ゴル人種説と様々な説が唱えられて来たが︑日本石器時代人説は︑千島アイヌが近時︑石器時代にあった
ことからである︒現在︑日本の前期旧石器の研究は︑二 OOO 年十一月の担造事件で︑その手掛かりにな
る石器研究の信溶性を失い︑更新世人類の起源をさぐるものは港川人の人骨だけで︑日本の更新世人類を
語るには不十分である口
更新世の何時︑どこから︑どのような人々が日本に来たのかは︑これからの研究課題であるが︑アイヌ
語地名や
D N A
の研究から縄文時代に日本本土でアイヌ人の祖先と琉球人の祖先が日本本土縄文人と接
触︑交流があったことは確かなことであり︑文化面から日本人の精神的古層を探るには︑アイヌ文化に残
された遺制を探ることは有効な方策であると考える︒次章では﹃日本書紀﹄に登場する﹁蝦夷﹂がアイヌ 人であったのかという人種論ではなく︑原始日本人の習俗を共有した集団の視点から神武東征の謎を探る︒
五︑神武東征の謎
﹃日本書紀﹄にみられる
武尊に斧と銭(まさかり) ﹁蝦夷﹂(えみし)に関する記述で最も注目に値するものは︑景行天皇が日本
を援けた時のものである︒
﹁私は︑その東夷︑が識性強暴で︑侵犯することを︑もつばらにしていると聞いている︒村には長がお
らず︑邑には首(おぴと)がいない︒それぞれ境界を侵して︑おたがいに奪いあっている︒また︑山に
は悪い神がおり︑野には姦しい鬼がおって︑道を遮り︑多くの人を苦しめているロその東夷の中でも蝦
夷がもっとも強力である︒男女が雑居し︑父子の別がない︒冬は穴に宿り︑夏は木のうえに家を構え住
んでいる︒毛皮を着て︑血を飲み︑兄弟がたがいに疑いあい︑山に登るときは︑飛んでいる烏のようで
あり︑草を走るときは︑逃げる獣のようである︒思をうけても忘れ︑恕(あだ)をみればかならず報復
する︒しかも︑矢を髪を束ねた中に隠し︑刀を衣の中に帯び︑あるいは党類を集めて︑辺堺を犯し︑農
桑(なりわい)の時をねらって人民を略奪している︒攻撃をしかければ草に隠れて︑追って行けば山に
入ってしまう︒それゆえ︑往古より以来︑まだ王化に従っていない︒いま私は︑おまえを観察すると︑
人となりは︑身長が高く大きくて︑容姿は端正で︑力は強く鼎を持ち上げることができ︑勇猛なことは
雷電のようである︒向かうところに敵なく︑攻めれば︑かならず勝利をおさめる︒すなわち︑形はわが
子でありち中身は神人(かみ)であることを知った︒実に︑天は私が不敏で︑また国が乱れているのを
悲しまれて︑天業(あまつひつぎ)をととのえさせ︑宗廟(くにいえ)を絶たしめないようにおさせに
なったのであろうか︒﹂
この﹁景行紀﹂の前半の記述は︑往古より王化に従わない東夷の後進性を論う記述であるが︑それが突
然︑容姿は端正で︑勇猛なことは雷電のようでと記述し︑仕舞には﹁形はわが子であり︑中身は神人(か
み)である﹂とするのである︒﹃日本書紀﹄は︑養老四年(七二 O 年)に編纂された日本初の勅撰正史で
あるが︑﹃日本書紀﹄には﹃古事記﹄にはない反天皇的記述が随所にみられる︒例えば︑雄略天皇が葛城
山で狩猟している時︑骨量烏が昌一仰に飛んで来て︑次のように言ったとの記述がある︒﹁にわかに追われてい
きり立った猪が︑草の中から突然出てきて人を追いかけた︒猟徒(かりびと)は︑樹に登って大いに恐れ
た
c天皇は︑舎人に詔して﹃いきり立っている猪も︑人に逢えばしずまろう
c符ちうけて射て︑刺しとど
めろ﹄と仰せられた︒舎人は樹に登って顔色をかえて︑おそれおののいた︒いきり立った猪は︑まっすぐ
天皇のところに来て︑食いつこうとした︒天皇は弓をもって刺しとだめ︑御脚をあげて︑踏み殺された︒ そうして狩猟が終わって︑舎人を斬ろうとされた口これを聞いた皇后は﹃いま陛下が︑いきり立った猪の
ために︑舎人をお斬りになれば︑陛下はたとえていえば︑新狼(おおかみ)と異なりません﹄と申し上げだ
o﹂ 同じく﹁雄略紀﹂には︑工匠の猪名部真根(いなべのまね)が石を台にして斧で材を削っていた時︑天皇
は采女を集めて︑着物を脱がせてフンドシを締めさせ︑皆の前で相撲をとらせた︒相撲に気を取られた真
根は誤って斧を台座の石にぶつけ斧を傷つけてしまったのを︑天皇は責めて処刑を命じたとある︒
勅撰正史である﹃日本書紀﹄が何故︑このような記述を載せたのであろうか︒これも雄略天皇の個人的
資質の問題なのだろうか︒筆者は︑この反天皇的記述を﹃日本書紀﹄の編纂に携わった者の歴史認識が反
映されたもので︑﹁神武紀﹂の九州日向から大和への東征記事からも窺えるものと考える︒
後に神武天皇と称される神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらのみこと)は︑天津日高日
子波限建鵜草葺不合命(あまつひとひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子で︑母は海神豊
玉彦(わだつみとよたまひこ)の二番目の娘・玉依姫(たまよりひめ)である︒祖先は天神︑母は海神で
ある︒講(ただのみな)八実名 v を︑彦火火出見(ひこほほでみ)といい︑十五歳で皇太子となり︑日向
国吾田邑(ひむかいのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を婆り︑手研耳命(てきしみみのみ
こと)をも・つけるが︑四十五歳の時︑東征の意向を兄弟や子供達に告げる︒
磐余彦尊は︑自ら諸皇子と舟軍をひきいて日向を出︑東征の途にのぼるが︑速吸之門(はやすいなと)八
豊子海峡 v を通ると︑珍彦(う︑ずひこ)という国神(くにつかみ)の漁師の導きで筑紫国の宇佐(うさ)
の菟狭津彦︑菟狭津媛の宮に招かれるパこのとき勅命によって菟狭津媛(うさつひめ)を侍臣(おもとま
えっきみ)の天種子命(あまのたねのみこと)に要らせた︒その後︑筑紫国の岡水門︑安芸国の挨宮(え
のみや)に入り︑翌年春︑吉備国に移り行館(かりのみや)を造って入る︒一一一年間︑船舶と武器︑食糧を
蓄え︑波速国(なみはやのくに)に至る
Dさらに皇軍は川をさかのぼって河内の草香邑(くさかむら)八
日下村 v の青雲の白肩津に至り︑歩行で竜田(たった)に向かうも︑路狭く︑引き返し︑さらに東方の胆
駒山(いこまやま)を越えて内国に進入しようとする︒ここに有名な長髄彦(ながすねひこ)との戦いが
始まるが︑﹃日本書紀﹄は︑長髄彦は天神(あまつかみ)の御子たちがやって来たのは︑﹁かならず私の国
を奪い取ろうというわけだろう﹂と言ったと記している︒
磐余彦尊の兄の五瀬命(いっせのみこと)は︑孔本一口衛坂(くさえのさか)で長髄彦軍の抵抗に遭遇し︑
流れ矢を受け命を落とすと︑磐余彦尊は日の神の子孫である自分が日に向かって賊を討つことは天の道に
そむいていると︑あらためて天神の神々に対して祭杷を行い︑日の神の綾威を背にして︑その光に照らさ
れた影をふみながら敵に向かうこととした︒こうして︑熊野の神邑(みわのむら)に至り︑さらに軍を進
め海を渡ろうとすると︑暴風が吹き︑進軍が阻まれる︒磐余彦尊の兄の稲飯命(いなひのみこと)が嘆い
てニ一一日う︒﹁わが祖先は天神︑母は海神であるのに︑なぜ陸でも海でも進軍を阻まれねばならんのか﹂と︒
もう一人の兄︑三毛入野命(みけいりぬのみこと)が続けて言う︒﹁我が母と叔母は二人とも海神︑だ︒な
のに何故︑我々が波によって進軍を阻まれねばならんのか﹂と︒更に﹃日本書紀﹄は記す︒磐余彦尊(い
われひこのみこと)は︑皇子の手研耳命(てぎしみみのみとと)と軍をひきいて︑熊野の荒坂津に至るが︑
ここで丹敷戸畔(にしきとべ)という女賊を抹殺したため︑神が毒気を吐いて︑人々はすべて病み伏して しまったと︒
磐余彦尊の軍は︑皇祖天照大神が遣わした頭八腿烏(やたのからす)の案内で険しい道を越え漸く大和
に入る︒日向を出て六年︑畝傍山(うねびやま)の東南の橿原の地に山林をひきはらい︑宮室を経営し︑
皇位に就いて人民を治めることになる︒その間も︑磐余彦尊の軍は天神の神威をかりて︑巣や穴に住む凶
徒を弛仲裁する︒層富県(そほのあがた)の波多丘岬には新城戸畔(にいきどべ)という者︑が︑また和現(わ
に )
八 天
理 市
v の坂下には居勢祝という者がおり︑瞬見長柄(ほそみのながら)の圧岬には︑猪祝(いの
ほふり)という者がいた︒この三ケ所の土蜘昧(っちくも)は︑その武力をたのんで帰順しなかったので︑
磐余彦尊は軍を遣わして︑みな諒殺した︒高尾張邑(たかおわりむら)にも土蜘妹(っちくも)がおり︑
そこの土蜘妹は︑身長が低く︑手足が長くて徐儒(とびと)と似ていた︒ここでは皇軍は葛の網(かつら のあみ)をつくり︑これを覆いかぶせて捕らえて殺し︑この邑を葛城と名付けが
) O
土蜘妹のほかにも八十島帥(やそたける)が︑皇軍に刃向った︒磐余彦尊(いわれひこのみこと)は︑
吉野の地から蒐田の高倉山の山頂に登り︑国の中を展望すると︑国見丘の上に八十鳥帥(やそたける)が
盤蹄しており︑女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)が︑男坂(おさか)には男軍(おのいくさ)がお
り︑墨坂には炭火を起こして皇軍を待ちうけていた︒
これらの﹃日本書紀﹄の記述は︑何を意味しているのであろうか︒この絶え間ない殺裁の記述は︑日本
初の勅撰正史に相応しいものといえるのだろうか︒何故︑﹃日本書紀﹄の編纂者は︑このような記述を厭
わなかったのであろうか︒その答えは︑積項杵尊(ににぎのみこと)を曾祖父とする磐余彦尊の出自にあ
った︒﹃日本書紀﹄の記すところでは︑磐余彦尊の東征の誘因は︑塩土老翁(しおっちのおじ)の話であ
る︒その話では︑東の方に美しい国があり︑青山が四方をめぐっていて︑その中に天磐舟(あまのいわふ
ね)に乗って飛び降りてきたものがあり︑その土地は国家統治(あまつひつぎ)の大業をひろめるには好
都合なょいところで︑たぶん天から飛び降ってきたというのは︑'鏡速日(にぎはやひ)であろうというも
のであった︒磐余彦尊の出自に関して︑﹃日本書紀﹄は﹁昔︑高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天
照大御神(あまてらすおおみかみ)が︑この国を磐余彦尊の曾祖父である寝泊捜杵尊に授けた︒このとき世
はまだ野蛮で草昧であった︒天祖(理由哩杵尊)が降臨されてから︑このかた百七十九万二千四百七十年余
り︑しかしまだ葦原中国(あしはらのなかっくに)全土にそれが行き渡っているわけではない﹂と記す
も︑儀速日の方が早く大和に土着していた事は事実であり︑現に長髄彦は磐余彦尊に使者を遣わし上言し
ている︒﹁むかし︑天神の御子が天磐舟に乗って︑天から降ってこられました︒これを櫛玉鏡速日命(く
したまにぎはやひのみこと)と申し上げます︒この方が私の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を要って︑
児をお生みになりました︒この児を可美真手命(うましまでのみこと)と申します︒そこで私は︑この鏡
速日命を君として︑お仕えいたしております︒いったい︑天神の子︑が二はしらおられるはずがありません︒
それなのに︑どうして︑さらに天神の子と名のって︑人の土地を奪おうとされるのですか︒私の考えでは︑
これはきつとにせものにちがいない﹂と︒これに磐余彦尊は﹁天神の子といってもたくさんいるのだ︒お
まえが君として仕えているものが︑ほんとうに天神の子なら︑かならず徴表(しるし)のものがあるはず
だ︒それを見せよ﹂と応じると︑長髄彦は鏡速日命の天羽羽矢(あまのははや)一本と歩鞍(かちゆき)
を見せる︒磐余彦尊は︑﹁これはつくりごとではなかった﹂と自分の天羽羽矢一本と歩戦とを長髄彦に示
したが︑結局︑長髄彦を殺害してしまう︒
そもそも︑この天羽羽矢(あまのははや)は︑日くのある矢であった︒皇祖の高皇産霊尊(たかみむす
びのみとと)は︑天照大神の御子である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやびあめのおし
ほみみのみこと)と女(むすめ)の拷幡千千姫︿たくはたちぢひめ)の問に生まれた天津彦彦火噴瑳杵尊
(あまつひこひこほのににぎのみこと)を葦原中国の君主にしようと思われたが︑八十諸神(やそもろか
み)の薦めで天国玉神(あまつくにだまのかみ)の子の天稚彦(あめのわかひこ)を地上に派遣した
D地
上に遣わした天稚彦(あめのわかひこ)が報告に参上しないのを怪しんだ高皇産霊尊は︑婚を遣わして様
子を探らせたが︑天稚彦は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)から下賜された天鹿児弓(あまのかごゆ
み)と天羽羽矢(あまのははや)とを手にとって︑維を射殺してしまった︒その矢は維の胸を射通して高
天原に飛んで行き︑高皇産霊尊の御座所までとどいた︒高皇産霊尊はその矢を御覧になって︑ご﹂の矢は︑
むかし余が天稚彦に賜うた矢である︒見ると血がついている︒回ゅうにこれは天稚彦が国神と戦って︑その
血がついたのであろう﹂と仰せられ︑矢をとって投げかえされた︒その矢は地上に向かって落下して行き︑
天稚彦の胸に命中した︒ちょうどそのとき天稚彦は新嘗の行事のあと仰臥しているところであった︒
﹃日本書紀﹄には︑この矢が天鹿児弓(あまのかごゆみ)であったのか︑天羽羽矢(あまのははや)で
あったのかも記して居らず︑また長髄彦と磐余彦尊が示した天羽羽矢(あまのははや)が︑本物であった
かも示唆されていない︒﹃日本書紀﹄の記述から︑長髄彦の天羽羽矢(あまのははや)も磐余彦尊の天羽
羽も本物で︑同族の先発組と後発組の違いと受け取る事ができるが︑ここでは何故︑天稚彦が新嘗の行事
のあとに高皇産霊尊が投げ返した矢に当たって死ななければならなかったのかを考えることとする︒
その問題を暗示するものに︑﹃日本書紀﹄は一室開(第十一)から月夜見尊と保食神(うけもちのかみ)の
記事を載せている︒天照大神は天上においでになって︑﹁葦原中国に保食神がおられるそうだ︒月夜見尊︑
お前行って見できなさい﹂と命じられた︒天照大神の命を受けた月夜見尊は︑保食神(うけもちのかみ)
のもとに赴くと︑保食神が首を回し︑陸に向かわれ口から米の飯を出し︑海に向かわれ口から大小の魚を
出し︑山に向かわれ口から毛皮の動物たちを出し︑沢山の机の上に載せて月夜見尊を持て成した︒このと
き月夜見尊は色をなし︑﹁けがらわしいことだ︒いやしいことだ︒口から吐き出したものを︑わざわざ私
に食べさせようとするのか﹂と言って︑剣を抜いて保食神を殺してしまった︒月夜見尊は天上に戻り︑事
の次第を詳しくし申し上げると︑天照大神は非常に怒り︑﹁お前は悪い神だ︒もうお前に会いたくない﹂
と言って︑月夜見尊と昼と夜とに分かれて住まわれた︒天照大神は天熊人(あまのくまひと)を遣わして︑ 保食神を見に行かせた︒保食神は死んでいたが︑その神の頭に牛馬が生まれ︑額の上に粟が生まれ︑眉の
上に蚕が生まれ︑眼の中に稗が生じ︑腹の中に稲が生じ︑陰部に麦と大豆・小一旦が生じていた︒天熊人は︑
それらすべて持ち帰ると︑天照大神はご﹂の物は人民が生きて行くのに必要な食物だ﹂と喜ばれた︒そこ で栗・稗・麦・豆を畑の種とし︑稲を水田の種としたと﹃日本書紀﹄は記してい(引
) O
この一章夫第十一)から窺えることは︑保食神(うけもちのかみ)の葦原中国では︑客人に陸から米の飯 を出し︑海から大小の魚を出し︑山から毛皮の動物たちを出し︑机に載せて持て成しをするが︑月夜見尊
はその習俗を嫌い︑保食神(うけもちのかみ)を殺してしまったことである︒門脇禎二は﹁初期ヤマト国
家を構成した諸地域首長の結合形態はまだ官僚制の形式などにはいたらず︑首長の相互間の結合様式には︑
共飲共食といったより古式の共同体的慣習が生かされてと思われる﹂としている︑が︑ここでは︑大化の 改新前後の慣習を遥に遡り︑神武東征以前の古い大和の共同体の慣習を考察することにする︒
﹁神武紀﹂には︑磐余彦尊が頭八問問烏(やたのからす)の案内で大和に入ると︑吉野の地に軽装兵を率
いて巡幸する︒そこで︑井戸の中から光りかがやき尻尾のある国神の井光(いひか)と申す者が出て来た
という︒そこから少し進むと︑また尻尾のはえた人が磐石(いわ)を押しわけてあらわれ︑﹁私は磐排別
(いわおしわけ)の子でございます﹂と名乗った︒さらに川にそって西に行くと︑梁を作って魚をとって
いる人があったと記している︒この記述は何を意味するものであろうか︒尻尾のはえた人とは︑如何な
る 人
で あ
る の
か 口
神武天皇東征出発地である日向の椎葉村には︑現在でも猟師がシシを射止めると内臓を七切れにして山
の神に捧げる風習があり︑猟師は一見修験者の家に猪の尾を貰い受け︑お礼の肉とともに獲物の尾と授か
った猪の尾をお返しする︒この椎葉村の風習は︑古くは柳田国男︑が﹁後狩詞記﹂や﹁山神とヲコゼ﹂で
紹介したものであるが︑柳田園男はオコゼというグロテスクな海魚を山の神に﹂配るという風習に注目して
いる︒椎葉村では︑猪を打ちに行く猟師は︑狩の前にはオコゼを手に持ち﹁ヲコゼ殿ヲコゼ殿︑今日は一
頭の猪を捕らせて下され︑其御礼にはあなたに此世の光を見せませう﹂と祈る︒紀州熊野路の八木山と
いう村にも︑オコゼを山の神に捧げる習俗があり︑柳田国男は次のように紹介している︒祭礼は霜月(旧
暦十一月)の八日︑先ず社頭の広庭に蓮を布き︑氏子一同之に座り神酒を戴く︒氏子の中で当番の者が真
中に坐り︑女や子どもは蓬の外に立って祭りの式を見物する︒当番の懐中には︑一尾の干したヲコゼが入
れてあり︑神酒一巡後︑氏子一同から当番の者に向かって︑貴殿御懐中のヲコゼを見せて下されと言う︒
当番︑がいやいや見せ申すまい︑皆の衆は御笑ひなさるであろう故にと言えば︑氏子一同は笑いますまい︑ 一目でよいから見せて下されと言(引
} O
これらの風習から天孫族降臨以前の九州日向地方や紀州吉野地方には︑猪の尾に関して何らかの信仰を
有する種族が存在して居り︑山の神を頂点として海の神︑川の神と共存していたことが想像できる︒柳田
国男は︑土佐ではヲコゼの事をキミヲコゼといい︑昔︑回舎で一度女をキミと呼んで尊敬していたことから︑
オコゼは亙女の持った叶
0 8
5 (
たましろ)の一種ではないかと考えている︒このような信仰を柳田国男
は﹁山島に拠りて居を為せる﹂日本の如き国に非ざれば起こらないものとし︑﹁紀州の如き海に臨みて高
山ある地方に似つかわしき伝︑説﹂と述べている︒筆者は前章でアイヌの女性は母親固有の八クッ
ばれる貞操帯を受け継いでおり︑それらには︑八ヲッカウシカムイ
V
(
﹁淡﹂水の神)︑八キムウンウ
シ カ ム イ
V(
山に住むカムイ・熊の神)︑八レプウシカムイ
V
血統がしるされていることを紹介した(料)︑これは原始的農業の始まる以前の日本列島に広範に存在した
(海に住むカムイ)の三通りの母系の
生活形態で
1日本列島各地に残存するアイヌ語地名に関係する問題と考える︒﹃日本書紀﹄の編纂者も︑
磐余彦尊による吉野巡幸の事をある関心を持って書き留めているが︑それと﹃日本書紀﹄の反天皇的記述
とどのような関係にあるのか︒
﹃日本書紀﹄の反天皇的記述のなかで目を引くのは︑猪に関連した記事である︒仲哀天皇の子の廟坂王
(かごさかのみと)は東国に兵を起こす際︑菟餓野(とがの)で祈狩(うへいがり)八狩で賭をして︑戦 の勝否を占いをすること v
を行ったが︑赤い猪が急に出てきて︑桟敷にど矯坂王を食い殺している︒
﹁雄略紀﹂には︑近江の狭狭城山君韓袋(ささきやまのきみからふくろ)が﹁いま近江の来回綿の蚊屋野
(かやの)に︑猪や鹿が多くいる﹂と言って︑市辺押磐皇子を馳射(かり)に連れ出した時︑大泊瀬皇子
( 雄
略 天
皇 )
が 馬
を 馳
せ て
︑ 偽
っ て
大 声
を 出
し ︑
﹁ 猪
が い
た ﹂
と 一
一 一
一 日
っ て
︑ 市
辺 押
磐 (
い ち
の べ
の お
し い
わ )
皇子を射殺してしまったとある︒これは︑穴穂天皇が市辺押磐皇子に皇位を伝えしようとした事を恨んで
のことであったと﹁雄略紀﹂は︑記している︒
豚の家畜化は︑紀元前七 000 年から五 000 年にチグリス川とユ!フラテス川に固まれた丘陵地に成 立したとされる︒シュ!メ i ルでは紀元前三 000 年に豚が広く飼育され︑豚飼は湿地で放牧し︑豚を太 らせるのは女奴隷の仕事であったとい(日
) O
古代エジプトでは︑畑にまかれた種子を豚に踏ませ︑収穫期 時には穀物の脱穀をさせたとギリシアの歴史家ヘロドトスは記録してい{ぷ
) O
パレスチナでは︑遊牧民の へブライ人(ユダヤ人)が移住してくるまで︑定住性のカナン人は豚を家畜として利用してい(出}︒古代
エジプト人は︑咳には豚の歯を細かくすり潰した粉を︑盲目には豚の眼を︑血管の衰えに豚の糞を︑寄生
虫には豚の内臓を服用した︒薬草のなかには豚の名を持つものがあるが︑雄豚の草(カ!リンソウ)や 雄豚のトネリコ(ナナカマド)などは︑魔法の働きを持つとか︑魔法から守ってくれると信じられてい{ぷ
) O
中国の創生神話では︑帝王伏義(ふくぎ)が人に馴れた猪の飼育を強く要求している︒中国では︑豚を
あらわす﹁家﹂の字の上に屋根を付けて﹁家﹂の字︑が生まれ︑家庭︑家屋︑家族の概念を表わすようにな
った︒中国古代では︑神に供える犠牲のうち牛・羊・豚を三牲といったが︑オリエントやインドでは︑
農耕地帯に広くあらわれる月を象徴とする大地母神が︑牛の角と結びつけられ︑牛が崇拝されるようにな
った︒ 原始農業と神秘な薬草が結び付いた豚であるが︑六世紀ころの中国揚子江中流域における民間年中行事
を記した﹃荊楚歳時記﹄によると︑五月は悪月とされ︑人々は五日に水辺で薬草を採り︑よもぎの人形を
作って門戸に掛けて毒気をはらい︑菖蒲をきざんで酒を浮かべ飲んで邪気を除いたとされている︒
高句麗では︑瑠璃王が都を飼豚の逃げた尉那岩に遷したが︑そこの土壌は五穀に適しており︑狩︑猟にも
漁業にも適していたという︒古くは高麗の太祖王建は︑妻竜女の勧めで七宝のかわりに仔豚をもらい︑仔
豚を放ち寝ころんだ地に新居を構えた︒高匂麗では三月三日に鹿を狩る﹁会猟﹂が宮廷行事として行わ
れるが︑これは北方遊牧民の影響である︒高句麗では鹿と猪を狩って天と山川の神に記っていたが︑いつ
しか猪・豚は不潔な獣とみなされ︑鹿のみが薬猟の対象となった︒
日本古代の薬猟は︑古代中国の民間で行われていた五月五日の採薬習俗に起源を有するが︑それが宮廷
行事として鹿狩を伴うようになったのは高句麗の影響である︒薬草により邪気を誠除する風習は︑菖蒲の
撃を着用するようになり︑鹿狩は宮内での騎射や走馬と形骸化されたが︑その古形は賀茂祭の賀茂競馬に
留めている︒﹃山城国風土記﹄逸文に﹁馬に鈴を掛け︑人は猪の一娯を蒙(かがふ)りて︑駈馳(は)せて︑
祭記を為して︑・・五穀成就(たなつものみの)り︑天の下豊平なりき﹂とあり︑猪と五穀が結びつけ
ら れ
て い
る ︒
日本の宮廷行事としての薬猟には︑高句麗の影響がみられるが︑五穀に関しては︑﹃日本書紀﹄に興味
深い記述がある︒それは︑斉明天皇五年︑石布(いわしき)と吉祥(きちぞう)の二人の遣唐使︑が陸奥(み
ちのく)の熟蝦夷(にきえみし)男女二人を連れて唐の天子(高宗)に謁見した時の記述である︒
﹁天子問ひて日く︑﹃其の国に五穀(いつつのたなつもの)有りや﹄とのたまふ︒使人謹みて答へま
うさく︑﹃無し︒肉を食ひて存活(わたら)ふ﹄とまうす︒天子問ひて日く︑﹃国に屋舎(やかす)有
りや﹂とのたまふ︒使人護みて答へまうさく︑﹃無し︒深山(みやま)の中にして︑樹の本(もと)に
止住(す)む﹄とまうす︒天子重ねて日はく︑﹃朕(われ)︑蝦夷の身面の異なるを極理(きはま)りて
喜 び
怪 む
︒ ﹄
﹂
この時︑高宗が﹁此等の蝦夷の国は︑何の方に有るぞや﹂と問うと︑使節は国は東北に有り︑遠いのを
都加留(つかる)と名づけ︑次に飽蝦夷(あらえみして近いのを熟蝦夷(にきえみし)とよび︑三種の
蝦夷がいると答えている︒
何故︑遣唐使が蝦夷を唐の天子に謁見させることになったのか︑﹁斉明紀﹂には︑その経緯を記してい
ないが︑本章冒頭で紹介した﹁景行紀﹂には︑王化に従わない東夷の人となりを︑身長は高く大きく︑容
姿は端正で力は強く︑﹁形はわが子で'あり︑中身は神人(かみ)である﹂としている︒前章で紹介したア
イヌの古い時代の伝承に依れば︑この神人はアイヌの人々に生活の仕方を教えた師として語り草となった
オイナ神である可能性がある︒ただ︑アイヌの人たちはこの神を自分たちの祖先としては崇め拝むことを
して居らず︑高宗も蝦夷の容貌から蝦夷を神人の子孫とは思えず︑喜び怪しんだのではないか︒
その他︑遣唐使が蝦夷を唐の天子に謁見させた理由として︑大和朝廷が東夷を従わせている事を誇示す
るためとも考えられるが︑﹃日本書紀﹄には︑その経緯を明記できない内情︑があった︒後に編纂された﹃続
日本紀﹄の﹁聖武紀﹂には︑天神・地祇を祭る諸国の神社内には多くのけがれた悪臭があり︑各種の家畜
を放し飼いにしており︑国司の長官自らが幣吊を神に捧げ︑謹んで神社の清掃を行い︑それを年中の行事
とせよと記している︒同じく﹁聖武紀﹂には︑平城宮に見られる板屋や草ぶきの家について︑大昔は人
間が淳朴で︑冬は土中に居室をつくり︑夏は樹上をすみかとしていたが︑後の時代の聖人が宮室をつくっ た名残であるとの注目に値する記述があ(引い
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この事は︑古文献では﹁夷﹂﹁東夷﹂﹁蝦夷﹂をエミシまた
はエビスと読ませていたが︑平安朝の末より﹁蝦夷﹂という文字は︑エミシとエゾとの二つの意味をもつ
ようになり︑いつしかエミシとエゾの区別がなくなり︑エゾと読むようになったととと関係している︒
この背景には︑日本の宮家をめぐり︑猪鹿食いの高句麗人百済人と牛食いの新羅人との確執があった︒
﹁雄略紀﹂には︑百済は日本国の宮家として︑由来が深いことを聞いた高麗の王が︑﹁その玉(百済王)
が︑日本国に行って天皇に仕えておることは︑四隣の国々がみな知っているところである﹂と言ったと記
している︒
百済は古くから日本の宮家に女人を奉り采女としていたが︑加須利君(かすりのきし)︿蓋歯王
池津媛が焼き殺されたと聞き︑女を奉らなくなったり確執の発端は︑任那にあった︒﹁垂仁紀﹂には︑
任那人の蘇那国伺叱智(そなかしち)が国に帰るとき︑新羅人が道を遮り︑朝廷より賜った赤絹一百匹を奪
ったとある︒また一説には︑活目天皇に仕えた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が赤絹を賜って弥摩那
国(みまなのくに)に帰ると︑新羅は軍を起こし︑赤絹をみな奪ってしまったとある︒この説では︑都怒
我阿羅斯等の逸話として︑弥摩那国(みまなのくに)の郡公(むらつかさ)が黄牛を殺して食べてしまっ
たので︑都怒我阿羅斯等は︑一人の老人の言に従い︑牛の弁償として郡内に祭っている神を求めると︑白
い石を得たという話を記載している︒﹃日本書紀﹄で牛肉の話は古く︑﹁神武紀﹂に兄猪(えうかし)が
自ら仕掛けた畏に落ちて圧死した時︑弟猪(おとうかし)は磐余彦尊が分け与えた牛肉と酒でさかんに饗
宴をしたと記している︒
新羅系渡来人の影響力が増すにつれ︑古くからの宮家と海人蝦夷との友好的な関係にも変化が生じた
D﹁応神紀﹂には︑武内宿禰の弟の甘美内(うましうち)宿禰が︑仲哀天皇に﹁武内宿禰はつねに天下を望
む野心をもっております︒いま︑筑紫にあって︑ひそかに謀って﹃ひとり筑紫を裂いて︑一二韓を招き︑自
分に従わせ︑そのうえで天下を支配しよう﹄と言ったと聞いております﹂と言わしている︒﹁仁徳紀﹂
には︑海人が鮮魚を贈り菟道宮に献上した時︑菟道稚郎子(うぢのわきいらっこ)は︑﹁私は天皇ではな
い﹂と難波にたてまつらせ︑難波の大鵜鵜尊(おおさざきのみこと)八仁徳天皇 v もまた返されている︒
﹁箭明紀﹂には︑大仁上毛野君形名(だいにんかみつけののきみかたな)︑が朝貢しなかった蝦夷の征伐に
赴いたが︑逆に蝦夷に包囲され︑妻が﹁あなたの祖先の方々は︑青海原を渡り︑万里の道をふみ越えて︑ 海のかなたの国を平らげ︑武勇を後の世に伝えました﹂と嘆いた事を載せてい(引
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