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明るい世紀末

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Academic year: 2021

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明るい世紀末

竹 徹

1)大国ニッポン

 今日ほど,日本的な価値のネガティブなイメージが,世界に蔓延した時代は無かったの ではないだろうか。動植物の乱獲を含めた環境破壊から経済文化摩擦に到るまで,日本の 国は全く無神経で破壊的に見える。現在の日本は,欲しがるだけで何も与えず垂れ流しば かりする,グロテスクで未成熟なかルガンチュアという事になるのかも知れない。

しかし,当事者である日本人には加害者として意識は希薄で,逆に被害者意識の方が強い 様に思われる。「オレは,ナソも悪い事はしてないゼ」という訳だが,問題は「悪い事」

をしなかったかどうかではなく積極的になにか素晴らしい事をしてきたかどうかだ。

2)愛が足りない

 近代西欧の没落が指摘されてすでに久しいが,では我々の日本は例えばかつてのギリシ ャ文明に匹敵するような,あるいはフランス革命における人権宣言の様な,人類共通の財 産となりうる貢献を世界に対してしてきたか?ワシントンD.C.のジェファーソン廟に は,やさしく短い文章で独立宣言の思想が刻み込まれている。これを読む人は誰でもきっ

と深い感動を覚えるに違いない。アメリカが大好きになる瞬間だ。その時あなたの念頭か らは,自分がアメリカ人ではない事など感激のあまり吹き飛んでいるだろう。翻って日本 は,世界を感動させるような仕事をしてきたか?高性能なテレビやセクシーなスポーツ カーといったハードも結構だが,人類にとって普遍的でしかも精神的な喜びをもたらす様 なソフトを,政治や文化の壁を越えて産み出せるかどうかが,今我々の喉元に突き立てら れたナイフの様に問われているのだ。あなたは今まで何をしてきたのか?そしてこれから 具体的に何をするのだろうか?

3)日本的美徳の改造法

 従来,我々自身でさえ特殊なものと見なしていた日本的なものを,グローバルな価値と して通用しうる形に再編成し直した上で世界に対して提示する事はできないだろうか?こ れを言い換えれば,日本の文化を人類共通の資産として世界文明の古典の一つにする試み という事になる。これを侵略的な政治力で押しつけたりせず,愛の力で,いつでも参照可 能な利用価値の高い百科事典の様に,さりげなく提供できないだろうか?「謙虚」な日本

人は,かつてこんな事を考えた事はなかったかも知れない。しかしこれは,今後の我々の 責任として理解されるべき事だ。フランス語が意識的な努力によって美しく響くような言 葉にされたのと同様,私はこれを意識的に日本の国民的プロジェクトとする事を提案した い。多少窮屈で面映ゆいが,歯並びが矯正されて美しくなる様なものと思えば良いではな いか。従来からも虫歯等を直す「構造的努力」は積み重ねられて来てはいるのだが,虫歯

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をいくら直したところで外からは見えない。無理に見える様にする為に,笑うと下品な金 の総入れ歯を作ったりするから妙な文化摩擦をひきおこす。これはセンスの問題でもある のだ。本稿の目論見は,以上で提起された問題に対して,芸術的な方向からの解決策の一 例を示す事である。以下ではいくつかの典型的な問題を浮き彫りにし,その事によって自 然に答えが見えてくる様にしたいと思う。

4)境界の成立

 大雑把に言えば,我々が慣習的に「芸術」と呼んでいるものは,近代ヨーロッパで完成 された芸術様式の事であると言って良いだろう。この様式の,個々のスタイルに通注する 根本的な特徴は,境界の設定にある。つまり,時間と空間を境界線で切り取り,その内部 にあるものだけを「芸術」として認知するのだ。具体的に言えば,例えば額縁に閉じ込め られた絵画や,台座上で安定を得る彫刻等を挙げることが出来る。音楽の場合は,近代の 産業革命以後に増大した環境騒音を排除する場として,コンサートホールという内部空間

を作り上げ,ここにおいて特定の時間帯でのみ成立する音楽が完成するのである。大規模 な建築の様に,環境と呼んでも良いような場合でさえ内部空間は外部から切り取られてい ると感じることが多い。この自律的な内部環境には,同様に自律的な,近代西欧の理想と する「個人」が入れ子になって〜・るという訳だ。良く知られている様に,西欧の都市は城 壁で囲まれ,外部から切り取られた空間を核として発達してきた事を考えれば,境界の存 在は自然と人間を対立的に捉えていた西欧にしてみれば,当然といえるだろう。現代の欧 米の都市では,城壁が取り払われたかわりにゾーニングがある事も御承知の通りである。

これが必ずしも悪いという事では勿論なく,そのような特性を持っているという事だ。私 は,最大級の敬意と愛着を近代ヨーロッパの芸術に対してずっと持ち続けて来ているが,

ただそこにはこの「境界様式」の持つ限界もある。従って我々の課題は,いかにしてこれ を乗り越えるかという事である。

5)境界の喪失

 今日的な現象の一つとして,境界の喪失を挙げることが出来るだろう。内側からも外側 からもこの現象は進行している。人工臓器や臓器移植は言うに及ばず,精子・受精卵銀行 やクローンそして遺伝子操作の技術は生と死の,つまり我々の存在自体の境界を内側から あいまいにするし,高度に情報化されつつあるこの地球は,国境,言語,文化等の境界を,

延ては我々の自己イメージやアイデンティティを外側からあいまいにする。この状態は,

コピーの発達による著作権侵害の問題からファッションやエスニック・グルメに至るま で,実に幅広いスペクトルを持った日常生活の中で既に我々の現実となっており,これを 避けて通る事は出来ない。その結果,従来最高の価値とされてきた独創性が次第に困難に なり,スタイリッシュな差異のゲームが目紛しく展開される事になる。美意識も大きく変 化し,首尾一貫した重厚な様式的統一感は忌まわしいものとなり,感覚的な面白さが追求 される。いきおい,継ぎ接ぎだらけになったパッチワーク人間の使い捨OKの自我は,フ ロッピーディスクのようにかる一く入れ替わる。

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6)妙に明るい世紀末

 かくして,19世紀末に死んだのは神だったが,20世紀末に死ぬのは我々人間の番という 訳だ。かつて天上界で神々が黄昏を迎えていた頃,世俗人間界でもニヒリズムや実存主義 が流行し,この死に到る病は二度にわたる世界大戦として現実のものとなった。従って戦 後20世紀中葉の音楽の担い手達が,ドイツ,フランス,イタリー,ポーランド,日本等の 戦争で破壊された国々から,既成のあらゆる価値一とりわけ最も「男性的」な価値である 戦争一の否定という前衛主義を掲げて現われて来たのは,エディプス・コンプレックスの 原理からしても,納得の出来ることであった。しかし不幸な事に,多感な青春時代を陣ど ったのが戦争であったから,彼らの音楽からは爆撃音や悲鳴の通奏低音に乗って,引き裂 かれたままで癒えることのない自己への苦しみや怒りが裂烈し,放射線の様にそれを聴く 者を突き通す。難解なものにこそ価値があるという神話と共に,今日に到るまで現代音楽 の持つ暗い響きは,亡霊達の記憶の様に墓地の上をさまよったままだ。(もっとも,戦争 の被害が比較的軽かったアメリカでは,明るい実験音楽の方が主流であると言ってよい)

ところが注目すべき事に,20世紀も最終ラウンドに入った今日の人間の死に際して,当事 者である我々は苦しむどころかその事を逆に快楽とし,自堕落な遊びに耽っている様に見 える。前世紀末からの文化的遺産である崇高な苦しみは,脳のシワと共にきれいさっぱり と消え,今や死そのものが死につつある。境界が消滅すれば死も消滅するのだ。死を遊び として楽しめるなら,何度死んでも良いではないか。

7)倒錯の快楽

 何倒死んでもすぐに生き返る無節操な快楽への誘惑は,ゾソビ,ドラキュラ,フランケ ンシュタイン等のアイドル・スターとして結実した。今日では,これらB級ムービーの子 孫達は,ビデオショップの怪しげなコーナーに陣取って,私の純な心を悩ませる。ジキル

とハイドの様に,人格の呪縛から逃れるという極上の快楽を撃った者には,道徳的,倫理 的,そして時には最終的な罰が期待されようというものだが,生憎「ファウスト」や「さ まよえるオランダ人」の様に放蕩の限りを尽した挙げ句の果に,何と魂が救済されてしま うという,とんでもなく調子のいい場合だってあるのだ。日本にも,親鶯の「いわんや,

悪人をや」という慈悲深い悪人正機があるではないか。ただ「ドソ・ジョバンニ」の様に,

最後のドタン場になっても改心しないヤツは本当に地獄へ落ちる事もあるし「ファウスト」

にしても救済されるのはゲーテの場合だけの様なので,御用心!

 自我の死には,人格の死というネガティブな側面があることを見逃す訳にはいかないが,

同時に様々な文化的コンテクストやタブーからの開放というポジティブな一面もある。首 尾一貫した高貴な人格に価値が認められたのは,天体運航の美しい整合性という近代的な 概念が宇宙のイメージのみならず人間社会をも支配していた結果であるが,今日の様にブ ラックホールがあったりして空間が歪んでいるような世の中では,透視図法的に明快なビ ジョンを持つ事は不可能なので,首尾一貫した人格の方が遥かにフランケンシュタインで あると言えなくもない。そうだとすれば,それは破綻を厚化粧の下で,バカでかいホチキ スかなにかで縫い付けてやっと保たれている「人格」にすぎず,不気味で醜悪だ。が,こ れこそ倒錯の快楽の真骨頂というものだろう。最近このテのアブナイ人格が,至る所で分 裂増殖している模様である。

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8)個人主義

 西欧世界と違って,日本には民主主義は勿論,個人主義など存在していなかったのだし,

この輸入品は日本には遂に定着する事はあるまいという議論がある。私には海外での生活 を9年間楽しんだ体験があるので,この議論にはそれなりに納得できる部分もあり,そう 考えていた時期もあったのだが,しかしそれは見当違いではないかと最近では考える様に なった。例えばアメリカは,出身国,言語,文化の違う人間により成立している国なので,

人間は一人一人違っているのは当たり前であり,またそれは良い事だという前提がある。

従って,民主主義や個人主義が発達するのは当然といえる。出発点も到達点も自分にしか ないのだから,常に自分を証明しアピールするというアメリカ的文化の中では,成功も失 敗も個人の責任という訳だ。そんなアメリカから見れば,確かに日本には個人主義は存在 していないと言えるかも知れない。しかしながら,既に見てきた様に,一枚岩的な人格を 前提とした近代的個人主義は事実上破綻しつつある。ここで興味深いのは,破綻した個人 主義と,存在しなかった負い目により傷だらけになった個人主義とが,20世紀末のシュー ルな日本で,手術聖上の破れ傘と壊れた掃除機の様に出会っているという事実だ。この両 者を放っておけば,似て非なる者同士が,おi義理でする挨拶の交換に終わってしまう可能 性もあるが,危機を迎えている今こそ,シゲキ的な稲妻の快感が背骨を駆け上り,その勢 いで両者の間でマテガイが起こる可能性も高い。これは絶好のチャンスだ。

9)日本の学校教育

 しかし,大きな問題がある。それは,日本の音楽界は西欧コンプレックスの塊であり,

しかもそれは体制の中に組み込まれて制度化されてしまっているという点だ。この最も顕 著な例が,ほんの一部の例外を除けばいまだに西洋音楽一辺倒の,日本の学校音楽教育だ。

いかに壮麗とはいえ,西欧文明は世界文明の一部でしかなく,この地球上には同等な文明 が他にも沢山ある事が,こんなにはっきりしているのにだ。優秀な指揮者やピアニストが

日本から輩出する事自体は,世界文明への貢献という観点から見ても素晴らしい事だし,

アーティストとしての人生を個人が選択する権利は,保証されていなければならない。が,

この世界をより豊かなものにするのがアーティストや教育者本来の仕事であるなら,既に 十分すぎるほど確i立されており,血統書付きでその上保証書も付いている近代西欧文明の 保守点検整備作業員になり下がるより,新たな世界文明の創造をこそ担うべきではないの か。そして,そのような人材を育成するための創造的な方法と内容が,学校教育の中でも 特に大学の教育学部で確i立されなければならないはずだ。しかし残念なことに,社会の中 で最も後ろ向きなのが,現在の日本の学校なのだという事に,日本の学校の中だけで育っ て来た先生達は全く気が付いていない。全んど役に立たないどころか逆に弊害を産み出し ているとさえ言える学校教育制度は,根本的に変わる必要がある。もっと研究予算を増や し,欧米のように5−6年毎に一度,先生達が一年間程度の長期有給休暇をとれるように するべきだ。また教育内容にしても,19世紀のヨーロッパをお手本にする様な滑稽なこと は止めて,現在のありのままの日本から発想すれば良いのだが,ところがこれが難しい。

何しろ日本も継ぎ接ぎだらけで,何が「本当の」日本かなんて分からないのだから。そん な時には,フラリと一人で旅に出るのが良いだろう。

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10)アジア的視点

 バリ島へ行くと,有り余る生命力の懐に抱れてとても優しい気持ちになる。生と死が宇 宙的な規模で循環していて,人間の命も母なる大地から発芽するのだ。ここでは,すべて が意味に満ち,美しい。死は生の終わりではなく,また生まれ変わるための準備にすぎな い。このように豊かな自然の中では,西欧的な個人主義など育つ訳もない。あなたも私も 同じ根っこから分岐して,たまたま別の枝に咲いた同じ花だ。そしてこの自然や宇宙との 一体感こそが、我々の忘れていたアジア的な感性の源泉なのだ。

なのではあるが,現実のバリの若い友人達を見ていると,高価な腕時計だとかホンダの車 なんかを買ったりして,魔術的世界から資本主義的世界へ急降下しつつある様に見える。

彼らが楽園を追われたアダムにならない事を,本気で祈りたい。

11)サイバーンディ

 一方,とつくの昔に楽園を追い出されてしまっている我々は,人工的な環境を作り出さ ざるを得ず,それを文明と呼んできた。言い換えれば,文明は母の胎内の様な,永遠に失 われた原始ユートピア世界の記憶の代替品だ。だから,我々を(少なくとも私を)突き動 かすものは,失った楽園を取り戻そうとする本能のインパルスであり,あらゆる文明が,

再び帰っていく故郷=楽園としての墓にこだわって来たのはこのためだ。典型的なのは沖 縄の墓だろう。母なる大地から突き出たあの形は,女性の下腹部を模したものであり,人 は死後,女性の性器を通過して再び子宮へ帰るのだという話を,沖縄で乗ったタクシーの 運転手から聞いた事がある。死は,永遠のエクスタシーという訳だ。

 そこで想い出されるのが,近未来のサイバーンディのイメージである。これは私の独断 であるが,サイバーンディとは,都市自体が一個の統一的な生命体としてふるまう様な環 境である。つまり,都市環境全体のインフラストラクチュアーが,生命体のそれと同等な 神経系や循環器下等を備え,従って呼吸や新陳代謝等を自律的に行ない,知性はもちろん 意志や感情を持ち,その中で生活する人間も含めたDNA型の生物とコミュニケーション を行ない,ロボットやサイボーグ達が極く普通になる世界である。これはSFではなく,

現在展開中の様々なテクノロジーの延長線を伸ばして行けば,やがてそれらの交わる地平 線上で,そう遠くないうちに現実のものになるに違いない。実際今日では,上記のような イメージは新奇さよりもむしろ不思議な懐かしさを誘う。先端的なテクノロジーによって 実現される高度に人工的な環境の正体は,原始の胎内世界であったという訳だ。まさに,

未来への回帰と言えるだろう。このサイバーンディでは,人間の肉体も環境も同様な素材 で造られ,しかも環境が生命体として機能するのだから,へその緒で繋がれた胎児と子宮 との間に自他が無いのと同様,「境界」は存在しない事になる。これは継ぎ接ぎの究極の 姿だ。自然との一体感は,ここで一応完成する。しかし問題は残る。この「自然」は,文 明としての人工的なエコスフェアにすぎないという点だ。「本当の」自然は,依然として この文明の外側にある。もしも「本当の」物理的な自然宇宙と人間をボーダーレスにする ものがあるとすれば,それは多分,宗教工学みたいなものだろう。レリジョン・テクノロ ジーなんて,UFOと遭遇しそうでカッコイイ!いや,アブナイ?

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12)環境へのまなざし

 UFOに乗ってサイバーンディへ飛んで行く前に,環境芸術について検討したい。環境 芸術は,テクノロジーの質的に高度な発達によりもたらされるメディア環境にこそ相応し いアートの様式であるだろう。従来,人工的な環境にはネガティブなイメージが付きまと っていた。しかし,機械的な不細工さの目立つ非人間的な人工環境のイメージは,美しく 快適なメディア環境の登場と共に過去のものとなる。物を生産する限りにおいて「合理的」

である「近代的」生活との腐れ縁を,もうそろそろ解消してもいい頃ではないか。そして,

ここでこそ,我々のアジア的な感性が活かされなければならない。

 振り返ってみれば,日本の伝統的な第一級の美術品は屏風や襖に描かれていたし,いん ろう,刀剣,壷,食器類等の様に,実用を通して生活空間へと連なっていた。この連なっ て行くという所が,田中優子氏のおっしゃる通り非常に重要なのだ。論理的に展開される 粗筋によってではなく,即興的なノリによって連なっていく連歌など,正にその良い例だ。

墨絵には,ぼかし,にじみといった方法があり,実体とそれを取り巻く空間が互いに浸透 しあっている。良く知られた造園における借景も,人工庭園と背後の自然とを互いに浸透 させるための方法であり,たとえ襖の枠に松の絵が収まっていてもそれは閉じ込められて いるのではなく,庭やその背後の自然と共振するための仕掛けなのだ。環境芸術の,高度 に洗練された形がここにある。これは,単に世界に誇りうる文化であるばかりでなく,今 後の都市空間の造形原理として活かされるべきテクニックでもある。ここで,建築,都市 計画,空間デザイン,映像デザイン等と共に,環境芸術の重要な一翼を担うのが音空間デ ザインであり,将来はこれらを統合したマルチメディア・デザインの確立が望まれる。

13)音空間デザイン理論の確立へ向けて

 さて,やっと音の問題に到達した。従来の,作曲(音楽)理論と呼ばれているものは,

音の持つ様々な問題と可能性に対して無知無力である。コンピュータ・ミュージックが曵 く普通のものとなった今日では,音に対する様々な解析的アプローチが身近なものとなっ て来ており,音響学やサイコアコースティクス等の最新の成果を土台にした,新しい包括 的な理論を創る必要がある。その場合,ちょうど粘土をこねる様に自分の手で音を作り出 す事を支援する道具としての,実践的な理論であることが大切である。私は,音空間デザ インの基礎学として,音響形態学(Sonic Morphology)の構築を計画しているが,成果を 発表できるのは何年か後の事になるだろう。作曲は何やら神秘的で,天才の仕事という印 象を持っている人が今でも多いが,これはロマンチックな想い違いである。私は,コンピ ュータの助けを借りて,誰でもが作曲を簡単に楽しめるだけでなく,知的な好奇心と美的 な探求心の両方の満足をも得られる様な方法を確立したいと考えている。そのために,認 知科学や人工知能の応用が検討される事になるだろう。

 さてそれでは,私の本来の仕事である作曲にとりかかる事にしよう。後から後から追い かけて来る締め切りに,何とか追いつかなければ。しかし,やはり作曲はそう簡単に出来 るものではない。エッセイを書く方が遥かに簡単だ。何故,文章を書くような感じで,作 曲が出来ないのだろう!

注)本稿は,日本航空株式会社(JAL)の発行する小冊子「OAガイド」1989, VOL 14に掲載された私のエ ッセイ「OAと快適環境」を基に展開されたものである。

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