P.Natorp 教育學研究
(其の一)
―Natorp 教育學の性格―
熊 _.A一
(緒言) 研究の意圖及び全体的概観。
谷 忠 泰
現代教育學の主流をなすと思われる山高論的立場から爲される所の種汝の批制によって醸成 される所のナトルプ教育面の敏育更的立場が、恰もナトルプ自身が嘗てヘルバルトに封して敢 行せる所の峻烈なる批判によって惹起した結果と、奇しくも極めて酷似せるもののあるのは 興味ある問題である◎けれども批判の陥る最も顯著な危瞼は、批制者が、當乙丸象を極めて簡軍 に類型化するとv・う事である。この事は、叙上の二つの場合におv・て同様に要當すると共に、
一般的にも可成りの正當性を以て主張し得られると思う◎それ故に歴皮は、ともすると、かの
「宥和」の模式的弁証法的思惟様式をもつて押し進められて來たものの如くに思われて來た。
教育の歴史も、又この例に漏れなv・様である。
けれども、歴史には、類型化による断絶と共に、断絶を結果するものとしての矛盾的移行が 内包せられていると見なければならなV・。否、より精確には、この断絶と移行とを、それ自体
としては否定的に止揚する所の歴史意識に支えちれていると云わなくてはならなv・。偉大なる 學詮乃至理論は、正しくこの歴史意識の特殊科學繭領域への湧出であると言う事が出來るであ ろう。か、るが故に、およそ偉大なる思想家の見解には、殆んど必然的にと云ってもよv・程の矛 盾的見解が纏綿してV、る。所が、カ、の類型化は、實にこの矛盾的要素を、恰も文字通りの「矛 盾」であるかの如くに削除してしまわんとするのである。
所で以上の如き歴史意識を基底として包撮しない學論は、恐らく時代の指導力を有し得なv・
と共に、又それの捌出を高高しなV・研究は、恐らぐは軍なる尚古主義に陥るであろう。勿論、
この捌出は、容易になされ得る場合もあるであろうが、然らざる場合もあるであろう。學読が 偉大なものであればある程、その困難は埆大する。それ故に、硫究は、先の断絶的要素と移行 的要素とを、共に歴史意識との切点におv・て正しく把握して行かなければならない。こ、に矛 盾的見解の正確な解繹が課題として提起されるQ矛盾が「矛盾」としてゴはなく、洞察的契機
として解糧されなければならなV・。稀には、解繹が、改繹にまで展開しなければならない様な場 合もあるかも知れなV・。
以上の立場に立って・私は嘗て、ヘルバルト教育學、就中その意志論に封ずるナトルプの批 判を考察した事があった(九州教育學會紀要、Vol.,1、拙稿「ヘルバルト教育學の現代的
意義」参照)。が今や更に、そのナトルプ自身に封ずる現代教育學からの批判を、當のナトルプ 三部學の考察を通して、槍討しなければならなくなって來た。そして若し、以上の所論が一懸 許容せられ得るものとの假定に立つ事が許されるならば、こ\に一つの異ったナ1・ルプ解繹の 立場が出現する事も許.されるであろう。蓋し、或る時代の歴史意識は、それに継起する時代の 歴皮意識の立場から、薪に解寒し直され、且つ生かされてのみ、歴史を一:貫して流れる力とな り得るであろうし、更にその事によって始めて、前時代の歴史意識は、過去的現在としての史 的意義を維持し得るであろうからである。前に私が、歴史意識の捌出を反覆強調したのは、實
はこの様な考慮の下になされたものであり、更にその朝出は、か、る観点に立って研究が進め られる時にのみなされ得るものと云う事が出極る。一つのではなく、多くの解熱がそれぞれの 歴史意識的雰囲氣の.とに醸成されつ、、結局する所企体的な統一止揚に迄もたらされる時、そ こに始めて、比較的埠頭な解繹が形成せられ得るであろう。しかしこの際忘れられてならぬ一事 は:・各個解繹が・常に全体としての學論形成の基底をなす所の歴史意識を飽迄も確胸せん、と努力 するという事である。こ、に岬町の限界がある。
ごの様に考察を進めて來るならば、私はその解繹の方法におV・て、常に相封的矛盾を徹・し て、比較的な限度において、絶封的自同を洞察し、更にその洞察によって矛盾を把捉して行く
という仕方を採用しなければならない様に思われる。との故に、:先づ第一に、ナトルプ教育學 の持つ一般的性格を把握しようと試みた○そしてこ、(本論稿)におV)て明かになされた二言 に立って、個汝の其体的論考に入る事になる。 1
所で、全体的論老におv・て以上の様な考察経路を執ると共に、本論考におv・ても、大凡次の 様な過程に擦って考察を進めたv・と思う。先づナトルプ教育學の全体系を一懸、(1)理論的 基礎付けの部分と、(2)實践的展開の部分に分けて〜(1)から(2)への韓回が如何なる 陛下におV・て、且つ又如何なる様相におV・てなされており、その聖母及び様相の中に、ナトルプ 致知學の目指すものを取り出して行く。次に観点を代えて、:先の理論的部分を一鷹、L. Die Philosophie als Ganzes.と、2. Die Idee als Ganzeslとに分け、又實践的展開の部分に相恕 するものとして、 3.Die Erziehung als Ganzes.を配し1−2−3の展開を、理論一理念
一・サ實の展開として把え、この:最後の部分に藪育學を配し、この展開の意圖の中にナトルプ教 育學の性格を把握して行かうと試みた。以上の如き二側面からの考察の結果、ナトルプ教育學
の性格は、極めて特異なるものを持ってv・るとv・う事が明かになるであろう。そしてその時に 始めて、ナトルプの畿する個汝の命題が、正しく理解せられ得るものと云う事が可能になるで あろう。
A.Die Philosophie als GanezsからDie Idee als Ganzesへ。
1
科學的教育學の父とよばれるヘルバルト、そう彼が呼ばれる所以のものは、藪育學を始めて
2
体系的な學として構成すると共に、その基礎學として倫理學及び心理學をば、それぞれ営爲及 び存在の規定として位置づけたという業績の中に存在する。史上不滅なごの業績に寒して、し かしナトルプは徹底的に反駁する。その理由は、(ナトルプの見解を詳細に分析すれば種汝の 要素が墾示されるのであるが)一言以てこれを蔽えば、その根底に在るナトルプの立場は、今 一磨・ Die Philosophie als Ganzes. なる言葉によって表明する事が可能かと思う。所が 問題は、往汝にしてこの見解が軍に藪:育學の基礎付けの問題、乃至は基礎科學に關する副題と
してのみ取上げられた所に存在する様に思われる。勿論、それは、か、る観点が誤謬を含んで いるというのではなく、解繹の観点が狭隆に偏するとV・うに:すぎなV・。しかし、ナトルプに位 しての als Ganzes の問題は、極めて重要な問題を含んでいる様に思われるから、從ってこ の観点狡商の問題も、軍にそれだけの問題として放置するわけには行かなv・様に思われる。底 幅は、この,,als Ganzes なる一句を正しく把握する事によって、ナトルプの適意を、軍なる 教育學の基礎付}つの問題を越えたより深みの申に探求しようと思う。
所で我汝が、その Die Philosophie als Garzes なる言葉を、軍に基礎付けの問題としての みに取上げなV・という理由の一一つを、こ、で、示唆的に墨げておこう。それは、,,Humanitat に關するナトルプの定義である。ナトルプによれば、
Humaαit琶t d.1. Wissenschaft S1ttlichkeit und Kunst in ihrer wesentlichen Zusarnmengeharigkeit und inneren, organischen Einheit.(Vg1,Sozialpadagogik.
1Auf1.1899. s.324.)
である。それは、 「それら自身の本質的結合と内的有機的統一における」そうした意味にお
いて考察せらるべき所の科學・道徳・藝術でなければならなV・とV・うのであるが、この短V・命
題の中に、ナトルプが藪育學の基礎科畢は、軍に倫理學・心理學のみならす、廣義の哲學、即 ちその中に論理學・倫理學・美學を含んだものと考えねばならぬとv・う主張の眞意を護取る事 が出縛るであろう。この場含、,,H:umanitat を、人間性と課すべぎか人道とi澤すべきかとv・
う様な事は問題でなく、それは飽迄も、「古謡の内における人面の完全なる力」(》9].,Religion imerhalb der Grenzen der Humanitat.1894.1Auf1. s.1.)と解すべきで、從りてこの
「人闇の完全なる力」とV・5観点から、前引用の「科學・道徳・藝術」なる言葉は解繹せられね ばならなV・。この様に見て來るならば、ナトルプにおV・て、教育學一基礎科學(科學・道徳・仁 術)は、人間ぐ一入闇の完全なる力(科學・道徳・藝術)とV・う構造を以て推論し得られるであろ
う。果して然ちば、後者の「科學・道徳・藝術」は、「心力」なる附加語を必要とするであろ う。こう考へて厭なしとすれば、最初の,,Humani悟t の引用の中に現われている「繭糸・道 徳・藝術」なる概念が、如何なる意味におV・て理解せらるべきかも自明の事となるであろう。
こうして,,Die Philosophie als Genzes. の意味は、それが輩なる基礎付けの問題から、む しろ藪育それ自体の根源的把握の問題に迄肉迫せんとするものである事が自ら明白になって來
る。この様な人聞性一教育の緊密不離の構造聯關を深く確信してv・だからこそ、教育の問題に おいて、宗教は常に、,,Religion innerhalb der Grenzen der日:umanitat. でなければなち なかったのであろう。若し我汝が、今、,,Humanitat を・、ナトルプに從って以上の如く積極 的且つ嚴密な意味に解するならば、ナトルプのヘルベルトに封ずる教育面の基礎付けに面する 批判は、一層根源的な個所におV・て理解せられな1つればならなV・という事になるであろう。で
はその根源的な個所とは、一体何処であろうか。 ・ 2
以上の問題を解決する爲の緒として、心魂は先づナトルプの次の言葉を吟味しなければなら な㌔(。というのは、教育の品評的問題において、ヘルバルトとナトルプとの最大の差異は:、正 に以下の引用の中に含まれてV・る意味の有無によって生じ來つたものであると考える事が出顧 るもの、如くであるからである。即ち曰く、
So mag man von,,erzieheαdem Unterricht reden. Ofter freilich hat das a11zu b∋querne Schlagwort gedient zu verschleierD, dass das Zentrurn der Schulerzie−
hung notwendig im Unterricat des Verstandes liegt. Dieser schliesst ein wesen.
tliches St貢ck des WillensbilduDg zwar ein, aber enthalt nicht das Ganze und
Eigentam.1ichste der letzteren. Das verbleibt dem Leben .(Vg1., Sσz pa., S.207 −208.)
勿論この引用は、:文字通りには解する事は出面なV・。とV・うのは、ヘルバルトの教育におけ る窮極の目標は飽迄「道徳的品性」の形成であり、從ってこの限りにおいて、學校敏育におけ る知的教授と意志訓練との關係が、更に詳細且つ綿密に検討せらるべき・であるからである(拙 稿、上掲論文参照)。とは云え、痴者の闇に一線が劃される事は又看過すべからざる事由であ ろう。それ故にこそ・ヘルバルトも特に愼重に,,er3iehe且deゴUnterricht なる概念を使用 してv・るのである。所がナ1・ルプの上文の指摘に由れば、それは實に,Das Leben・ に外なら ぬというのである。換言すれば・所謂 erziehender Unterricht は、學校教育における教授 中心を隠蔽する爲の魔術であって、ヘルバルトに在っては、教授こそは文鳥教育の中心課題で あり・從って、生活による意志陶冶はその増力に置かれざるを得なV・とV・うのである。それで はこの様にして摘出せられた Das Lebbn とは、ナトルプにとっては具体的に如何なるもの を指示するのであろうか。ナトルプは以上の引用の後に、次の様に綾けている。
;dem Leben vor, neben und nach der Schule;auch dem Leben ill der Schule,
denn auch sie ist ja ein Leben, d.1. eine Form organisierter Gemeinschaft,
aber nur eine neben andern;ein Staat m kleinen, wie man richtig gesagt hat;
(a.a.0り)
學校における「生活」が「組織せられた共同肚會の一形式」として學校藪育におV・て最も重
一4_
覗せらるべきものであるとするならば、恩義に教育における「生活」も又、「共同祉會」その ものとして教育にとって不可欠のものと解さねばならなV・。かく解し來るならば、一般的に
「生活」とは、「共同祉會における」生活として、把握せられねばならなV・。だからナトルプ
● ● ● ● .
は云う、
Also muss vor allem die Theorie der Wi11enserziehung von der Voraussetzung des Lebens in der Gemeinヨchaft von Anfang an ausgehen und die:K:onsequenzen dieser Voraussetzung auf Scbritt und Tritt beachten.(Vg1., Soz.Pa., S.78.)
かくしてナトルプにとって「生活」とはそのま、「共同肚會内生活」である事が明かとなっ たが、この「肚會内生活」の採用と、且つ又それを教育の ∂ であり・,ω であるとする所、
そこにナトルプ二二學、特に意志陶冶における三三の課題が浮彫にされるのである。それ故に 我汝は、こ一、にヘルバルトとナトルプとの根本的な相違を置こうとする。されば人は、かくて Humanitat の鰯睾を経て「肚禽内生活」の概念を把漏し得た今、ナトルプの所謂 Die Philo30phie als Ganzes の大略の意圖を察知し得たであろう。 v・わぱそれは基礎付けの問題 に限定されす、留鳥自体を根底におV・て支えている所の「枇會内生活」としての諸文化的活動 の概念的表現である。換言すれば、論理的活動・倫理的活動、藝術的活動が、科學的な概念処
● ● ● ● ● ●
理におv・て抽象化される時、同様に「祉會内生活」としての抽象化・体系化された所の教育及 び學としての教育學の基礎付けをなすのである。とすれば、我・々はこの抽象化された「基礎付 け」の問題もさる事ながら、むしろ,Werden として形成途上にある所の藪育活動自体に覗 点をおいて考察を加えねばならないであろう。
3
以上の如き立脚点の差異は、自ら意志陶冶の具体的實践の相違を結果する。一般的に意志陶 冶には二途が老慮せられる。一は七六の祉會的規矩乃至は規範を前提として提出し、形威的に 青少年の意志を陶冶する途、二は個性の自褒的内部的二三に信回し、自律的に徳(Tugend)
の完成に至らしめんとする方法で、いわば前者は義務論的、後者は徳論的:方法と見徹す事が出 來るであろう。尤も意志陶冶の具体的方途におv・て、これ等の方法が各汝別個に用いられたり、
或は年令段階を顧慮せすに適用せられたりする事は正當ではないが、しかし「観」の相違によ って、このV・つれかに重点が置かれるという事はあり得よう。所でナトルプは、意志陶冶の方 法に關して、:大凡次の様な見解を執っている。
即ちナトルブのv・う所を要約すれば、意志陶冶は、道徳的入格の形成として、特に義務論を ● ●
根幹としなければならな㌔(。この故に道徳上の訓鍮は道徳心が第一の地位を占めねばならな い。之に反して、徳論に基く意志陶冶は必ずしも正當とは云い難v・。何となれば、徳は本官、
先天的素質として人間の素質の中に存在するものであるから、特に:取立て〜なさるべき・必要は なv・であろうからである。かくて學校における意志陶冶は、第一に肚會における義務を指示す
る事が重要な課題となる。それ故に今や、「事柄とv・うものが優位を占め、そして成熟しつ、
ある所の人格性の課題は、か、る事柄の高さに迄昇達するとv・う事になる(Die Sache tritt beherrschend vorar, und die Aufgabe der reifenden Pers6nlichkeit wird es, sich zur
H6he der Sache zu erheben,)。」(Vg1., Soz.Pa・, S.242−3。)これ,はしかし、:大ぎな問題:を
含んでv・る。先づ第一に、,Bildung と,,Erziehuug とをどう旺別するか?第二に、ナト ルプは學三二育において徳論と義務論とを如伺に統一せんと考えているのか? 第三に、何故 ナトルプが特に義務論を重覗せねばならなかったのか? 第四に、果して徳はナトルプが云う 如く、先天的に素質として自己完結的に個体の内部に存在するものであろうか? 等汝。
しかし今は似上の問の個汝に解決を與えるの愚を遜けよう。そして以下の二項目につV・て解 答をを與えづ、二二的にその問に答え.ながら、更に本論考を押し進めて行く事にしよう。所で その二項目とは、第一は(勿論ナトルプ自身はこ,の事を明確に表現しているわけではなV・が、)
それは反ヘルバルト三見鰍こおv・てなされたものであり、第二は、この事によって、ナトルプ 藪育學の性格が今や一暦明白に規定せられるという事である。
:先づ第一項につv・て。知的藪授と意志陶冶との重要性の評贋に關するヘルバルトの見解は、
表象と意志との關係を見る事によって知る事が出來る。結論的に云えば、爾者の關係は、「知 らざるものは欲せす。ignoti nulla cupido.」とv・う命題で表現する事が出下るであろう。そ れ故にヘルバルトは、三門と意志との關係について次の檬に述べてv・る。
Im allgemeinen nimmt die Rohheit ab, wenn der Unterricht den Gedankellkreis erw・eitert;{ndem die Pegehrungen schon dadurcb, dass sie sicぬin diesern}くreise ausdehnen, an eiDsitiger Energie ver】iereD. Wenn ferner der UDterricht asthetische Gegenstande irgend einer Art fasslic:h darbietet, so veredelt sich die Gem誓th・
sstimmung dergestalt, dass sie der ricbtigen Beurtheilung des Willens, das heissち der Erzeuglmg praktischer工deen, sich wenigstens aonahert.(Vgl.,G.日artenstein,
;J.F. Herbarts S含mrntliche Werke.189玉・2・AufL, Bd.10. Schriften zur padago9三k・
Thei互1. Umriss padagogischer Vorle3ungen.§.35. s.198.)
では次に、か、る思想圏 (Gedankenkreis)の掻大が何故に性格形成に役立つのであろう か。これに記してヘルバルトは、次の如くにv・う。
Das Wollen wurzelt in Gedankenkleise;das heisst, zwar Dicht in den Einzelnheiten dessen W a s Einer weiss, wohl aber in der Verbindung und Gesam・
rntwirkung der Vorstellungen, die er erworben hat. Aus dernselben Grunde nun,
weshalb in der Psychologie eber vom Vorstellen als vom Begehren und Wollen gehandelt wird, muss in der Padagogik die Lehre vom Unterricbt Nrorangehn, und
die Lehre von der Zucht ihr r】achfolgen (Vgl., a. a.0.§ 58, s.209.)
_6一
今や問題は;、ヘルバルトにおいて、第一に、意志は正しく思想圏からの派生物であるという
事になるから、從って意志陶冶の根源は、飽迄知的陶冶の媒介に存すると断ぜざるを得なv・と
いう事、第二に、この引用において氣付かれたであろう如く、ヘルバルトにおv・ては、その思 想圏というのは、箪に「誰かゴ知っている唯一つの」事ではなく、「恥部さ勉た所の諸表象の 結合と協:力的作用」を指すという事の中に存在する。所で前者の誤謬は何人も容易に指摘する
事が出送るので問題はなv・のであるが、問題は後者に存在する。では後者は一体何を意味する のであろうか。これは實は:、ヘルバル1・がその教育學体系の前提としてv・る所のかの Das Verb批nis の具体的表現であって、倫理學的には・かの 髄nf Ideerゼ となρて展開する 所のものである。ではその問題とは何であろうか。
以上に明かな如く、ナトルプにとって許容出來なV・ヘルバル杢の欠点は、學の前提自体に、
,Das Verhaltnis を措定しながら、實は五理念読と意志陶冶、二更には前者と藪育全体と の具体的聯繋が何等企てられてv・なとv・う所に存在する。この事に關してナトルプは、かの
● ■ ● ● ●
Gesammelte Abbandlungen zur Sozia1P加agogik.1922.2. Auf1. 第二部 Herbart・
Pestalozzi und die heutigen Aufgaben der Erziehungslehre .におヤ・て(Vg1・, s・19f)
:大凡次の如くに指摘する。成程ヘルバルトは教育學に涌して倫理學・心理學を援用する事によ ってその科學的基礎を與えたと云う事は出來るが、しかし凝念乍らそれ等の諸科學をば、かの べスタロチが心理學を教育學乃至は人聞形成の教育にまで集中的に統一した如くには・綜合化 してv・ない。それ等は結合されたのでは:なく、むしろ分裂せしめられたのである、と。
,bleibt er gewiss in vielem Einzelnen i卑Recht;allein das betrifft nicht rnehr die z e n t r a l e Aufgabe der padagogischen Theorie, sondem bleibt an ihrer
Peripherie. (Vg1., a. a.0。 s.20.)
所が教育におv・て最も重覗せらるべき事は、一切の藪育二二践が入闇形成とv・う一点に集中 統一せられるとV・.う事ではないであろうか。然るに〜ゴD集申統一・が不完全であるとするならば、
如何なる道徳的理念も、所詮室中の縷閣に等しv・であろう。況やヘルバルトの教育理想とする
.「道徳的品性」も結局、意志間の「結合と協力的作用」によって形成されたものであり、然も 學の前提は,,Das Verh瓠tnis に在ったのではないか。若し論ずる所斯くの如くであるとす
るならば、基礎科學闇及び:それ等と全体系間との分裂は、一体何を意味するであろうか。事こ
、に至れば、今やヘルバルトの標警する倫理學には、確乎たる道徳的規範は予想されなV・ので はなv・か。果して然らばかの,,Tugend とは、從って,,lnneren Freiheit とは、 いは∫
軍なる理念に止まらざるを得ないであろう。例えば後者の制断と意志との一致は、何によって確
定せられるのであるか。それ故にヘルバルトは次に Die Vollkom皿enheit の理念を設定し な1つればならなかったのではなv・か。今や理念がかくの如ぎものであるとするならば、か、る 理念としての道徳的品性の輩固(Charakterst註rke der Sittlichkeit, U mriss.,§.14L)は如何 にして達成する事が可能であるか。これ、ナトルプが、藪育學と倫理學との断絶を指摘する所以
である。次に以上の論を展開して行けば、ヘルバノレトの道徳陶冶は必然的に徳論的:方法に陥ら ざるを得なくなる。何となれば、ヘルバルトに由れば、學校にお.V・て直接被教育者に働きかけ る部面は思想圏の陶冶とv・う事になる。道徳的理念は、被藪育者の主観の,,von der Unbes−
tirnmtheit zur Festigkeit (▽91., Ulnrlss.§.14].)移行に存するものとすれば、それは軍 に、,,in einer Befestigung bestehen. (a. a.0.)として、途に教育者の手に届かない所に存 するものと解せねばならなv・。況や既述の如く、道徳的理念は輩に醐係としての理念:であっ た。しかし、成程一懸ヘルパ・レ㍗は、道徳的陶冶の手段として、愛と灌威とを読き (Vgl。,
Allgemeine Pa., Einleitmg.)、或は又、。durch:Kampf6 (a. a O. s.41.)とか、更に注目 すべき事には、
Da die Sittlic:hkeit einzig und allein ln d∋m eignen Wollen nach richtiger Einsicht ihren S1tz hat:so versteht sich zuv6rderst von selbst, die sittliche Erziehung habe Dicht etwa eine gewisse Aeusser!ichkeit der Handlungen, son一一 dern die Einsicht sammt dem ihr angemessenen Wollen im Gemathe des Zδgli・
ngs herr7crzubringen.(a. a.0. s.36.)
とv・う様な事を表明しておりながら、醜述の如く、肝心の「自盛と洞察」或は「現實と理 念⊥更に立地にナトルプの指摘する表現を妊りれば、 Die sittlichen Ordnung des Geme・
inschaftslebens und die individuellen Tugend. (VgL, Gesamm. Abha. z. Sozial.
pa.,2.「Heft. s.38.)との適確なる聯繋が企圖されなv・限り、それ等のものは、結局、それ自 体として止まざるを得なv・であろう。換言すれば、それ等のものが如何に人間教育に迄統合せ られるかの解明なぎ限り、所詮、其体的悪露の面におv・ては、抽象的な徳論の域を一歩も冒す
● ●
る:事は出前なv・であろう。さればナトルプも、So viel von harmonischen Verhaltn1ssen in dieser Ethlk die Rede ist, sie selbst Iasst sie nur allzu sehr verlnissen;diese Gedaakenmusik klingt nicht. Schatzbar わ1eibt der Anlauf zu einer konkreten Duτchf曲rullg der Ethik, die Wiederaufnah・
me der platoniscben Spur in der Systematik der individuellen Tugβnden und
.in dem Parallelismαs der sittlichen Ordnung des Gemeinschaftsleヒens und des
,Individuallebens.(a. a.0。 s,38一一9.)
と評しているのである。 ・
今や二者の差異ほ極めて明汝三六の事實となった。そしてこの差異は、自ら。Das Verh巨・
Itnis を二品しつ\しかも結合と協力の一点を欠いたヘルバルトに面して、その点をば、 v・
わば Das Gemeinschaftsleben als Ganzes 弓に求めたナトルプの立場の根本的な相違に生す ると見直す事が出事るであろう。我々は余りにも七戸とこの第一項に拘泥しすぎた様に感じ られなくもなv・が、しかしこの差異の摘出は、v・くら強調しても過ぎるという事はなv・のであ
一 8 _
る。かの道徳律の奪敬に基く自己立法と、人格性の根源としての自律とを極力強調したカγト そのカγトの直系を以て自任する所のナトルプが、道徳の奪嚴憐と人間性における道徳性の形 成とを、「全体としての二刀内生活」を媒介として教育的に基礎付けんとした眞摯なる意圖を 十分に汲みとらなければならないと思う。だからナトルプは、,Bildung と ErziehUng
との相違を、極めて愼重且つ嚴密に匿思する。かうして論述は自ち、第二項の問題解答に入っ て行く。
4
第二項につv・て。先づ,,Bildung に關するナトルプ自身の引用を示そち。
Es<das Wort Bildung>weist hin auf das innere Gesetz, nach dem ein Gebild,
sei es als Werk der Kunst gestaltet wird oder als Werk der Natur sich selbst
gesしaltet,(Vg1., Sozialp誠., s.4.)
所が Erziehung になると「内部的法則」などという表現は消・失し、 「具案的配.慮」がそ
● ● ●
の前面に滲透して回る。
Es<das Wort Erziehung>ist bezeichnend gerade nach der Seite, die das Wort Bildung unentschieden Iasst. Es weist darauf hin, dass die menschliche Bildung,
wie sebr auch Sache nattLrlicher Entwicklung, doch zugleich einer auf Fδrderung cder wenigstens Schut乙dieser Entwicklung plan▽oll gerichteten Bem廿hung bedarf.
Es liegt darin die Analogie des Aufziehens, des abzichtlichen Z哉chtens, der ,Kultur ......_, im Unterschied vom bloss nat廿rlichen, spontanen Aufwachsen.
Das Wort besagt:durch geeignete Behandlung oder pflege zum gedeihlichen Wachstumわringen.(a. a.0. s.4.)
然らば、その様な匪別は:一体何に由來するのであろうか。曰く、 . Das Wort Erziehung wird. am eigentlichsten von der Bildung des Willens
gebraucht.(a. a.0. s.3.) 1
からである。そこで改めて今、第一項の場合の Das Leben を想起する時、「薩會内生活 における意志」の問題が生起し來るのを感じるであろう。こ、にナトルプ教育學の特性が伏在
する。曰く Die Willenserziehung auf der Grundlage der Gemeinschaft である。換 言すれば、ナトルプ教育學は、かの19世紀に流行した「内部諸能力の調和的嚢展」を教育の第 一理念とする陶冶教育學を越えて、いわば教育の形成的面、詳言すれば、肚會内生活における 規範に由る意志の形成を強調したものであると云う事が出來るであろう。それ故に,,Sozia1・
P議pagogik より6年遅れて世に出た,,Allgemeine Padagogik,in Leitsatzen zu akademi一
$chen Vorlesungen (1905)にお・v・てば、,,Bildung の概念は次の;様に攣化している。
Bilden heisst gestalte血oder zu seiner eigentumlichen Vollkommenheit bringen.
Es setzt also einen Begriff davon voraus, wie das Ding rein so11, das hei5st einen
Zweckbegrifε.(Vg1., allg. p設, S。2.)
この様な含みを頭に描きながら次の文章を讃むと、少くとも當時における(とV・うのは、
1909年 philosophie und Padagogik 以後、個性・に封ずるナトルプの考え方は、極めて愼重 になっているから。)ナトルプの,,lndividualitat に封ずる考へ方が、容易に理解せら・れ得
るであろう。
Schliesslich aber bleibt Individualitat immer auch Schranke, und es ist sittlich Ilotwendig, dass sle a玉s Schrank:e zum Bewusstsein kommt;dadロrcb w五rd nicht die Eigenart selbst zersむ6rt, aber dem DUnkel der Eigenart gestellert. Das ka皿 aber nicht wirksamer geschehen als durch unbedingte Voranstellung der S a c h e,
d.Lder Gemeinschaft, die jede gute Eigenart geltenl註sst und in ihren Dienst nimmt, jeder unrechten P癒tention der lndividualitat aberエnit unwidersprechlich h6heren Ansehen gegenibertritt, ihr zu Diensten zu sein sich unbedingt weigert.
Zur Zielbestimmung der padagogischen Thatigkeit also taugt dieエndividualitat nicht;sie ist f亘r sie durchaus nur verfagbares Materia1.
これは又、何とv・う徹底的な杜會禮讃であろうか。少くともこめ面面から受ける印象は、か の天才の持つ demonisch な力とか、イ固性の持つ創造性等は:一切肚會の内部に没し去ってv・
るもの〜様に思われる。況や藪育の目的規定におv・て、個性的見地を全く抹殺し去らんとする 様な後節の言葉は、v・わば多少極端な嫌もなv・ではなv・。しかし我女は、この様な表面的な表 現にとらわれす、むしろその基底の意圖、即ち何故ナトルプがこの様な表現を敢てしなけれ ばならなかったか、換言すれば、その言外に含む意味を二品しなければならなV・。(この事は 更.に後で再び濡れるであろう。)そしてそれと共に、爾こ》に附加しなければならない事は、:先 程から麗汝鯛れてv・る,,Wi11 なる概念が狡義に解せられてはならなv・という事である。とい
o ㌧
うのは、勿論こ、では,Wi11 は軍に Wi11 として使用されてはいるが、結局はそれは:、
Bewussts.in として把握せられねばならぬ性格のものであると思われるからである。故に 後年、ナトルプは,,Allgerneine p註dagogik にお・v・て、それ・を次の檬に表現している。
Erziehung aber erstreckt sich auf alle wesentlichen Richtungen seeilischer
Tatigkeit, nicht auf den Willen allein.(Vg1., a. a.0. s.4.)
唯この際忘れられてはならなV・一事は
Aber auch dabei denk:t man vorzαgweise an die・Abhangigkeit der intellek・
tuellen, der巨sthetischen, der religi6sen Bildung von der Bildung des Willens cder
an ihre RackwirkUng auf diese。(VgL, Soz. p巨., s.3.)
とv・う事である。こうしてこの事は、再び,,als Ganzes として、知・情・意の全体が最後の
一10一
ものに重点をおきつ〜・,Das Leben の問題に還る、という事を意味するのである。
以上回歴が第二項から取出したナトルプ教育學の性格は、それが極めて強く教育の形成的面
(教師にあっては有意的具案性・被教育者に南っては有意的努力)を代表していたという事で あった。所で何故、ナトルプがこあ面をさ程迄強調せねばならなかったのであろうか。それに は大凡三つの眼目がある様に思われる。第一は、以下直に溢れるであろう如き理念概念の導出、
否更に嚴密に表現すれば、新島γト學派勃興の氣蓮と纒綿して、唯物論的傾向に面して、教育 における理念の強調、第二は、若干は既に述べて來た所の反ヘルバル下的色彩、特にヘルバル トの個人主義的(とナトルプが指摘する)傾向の否定と、更に積極的には,,Das Leben の提 唱、:第三は、より根量的には當時の漱州思想界を風靡せる杜會主義的風潮への提携、に在る様 に思われる。以下これに噛して、若干滴れる事にしよう。
第一項のヘルバルト批判によって、我汝は:前者の教授中心に封してナトルプの意志中心を、
次に前者の個人と油画との直行論に面して後者の「全体としてals Ganzesの肚會内生活」を 導出したが、こ、から第二項の結論は形成教育學(若しこの様な表現が許されるならば。)的 色彩(勿論教育は、如何なる意味においても形成的でなければならなv・とはv・え、省そこには:
種六のニュアンスの相違が存在するであろう。)を多分に持つたものであるという事であっ た。所でしからば、以上の意志と品詞内生活と教育とは如何なる關係を有するのであろうか。
この点に關するナトルプの次の一丈は、余心なくその意を面して面す所がなv・。
Wir lemen wollen nur im Mitwollen des Andern. Erziehen aber ist vornehmlich
.Wollen.Machen;von der Erziehung des Willens hangt die ganze Er乙iehung ab.一
(Vgl., AIlg, pa., s.26.)
上文中の im MitwoUen des Andern が、直にそのま〜,,im Gemeinschaftsleben を指す事はいうまでもなv・。それ故に、.,Sozialpadagogik における今一つのテーマ、即ち、
Die Theorie des WiHens und die der ErziehuDg liegt auf einer Bah麓, der der
Forschung nach der ldee.(Vg1., a. a.0. s.6.)
という事になるのである。教育における意志の問題は、こうしてナ至ルプにとっては,,ldee の問題に蓮って る。故に肚會内生活は理念の其体赤心現の場であり、意志ばその動因であり、
最後に教育は、それ自体理念によって動くという意味での理念の運痴者なのである。されば他 の意志の計心的具体的な行爲としての藪育が、自らの自嚢的意志による自己陶冶に展開するま では、廣義に規範の代表者としての白点者、或は肚會生活における理念の代表者としての教育 者の嚴重な指導、つまり義務論的方法が施行せられねばならなv・とv・う事になる。故に Das Leben は實にこの様な切点としてとらえられねばならなv・。ナ下ルプが、家庭劇育における 意志指導の場合、通俗的には愛情と併び用いられる所の父母の権威を特に強調し たり(VgL,
Soz. pa., s.252.)、又學校教育における意志指導の第:一命令として、 Sei selbst加dig! と
いう命題を掲げて更に、
一Welche Regel sich aber sofort durch die andre erganzt:Hast du. dei夏Selbst gewonnen, so verliere es fr6hlich wieder, d. h. setze es ohne zu viel Besinnen ein f亘r d容s erkennte Gute. Dies MQment der Lebensverneinung ist als Nerv・
eioer echten Tugend nicht zu entbehren.(Vg1., a. a.0. s.255.)
と述べているのは、特に注意せらるべきであろう。面心「生活」を通して「生活否定」にま で、 とはしかし叙上の理念への確信なくしては話せられぬ命題である。以上の如き義務論的段 階を経て、今や意志指導は徳論的方法としての自己「陶冶」の段階に入る事、いうまでもな い。しかしこの段階とても、異った様相におv・て、理念の問題を包含する。それは、それ自 身の内部精血における規範的なるものと存在的なるものとの葛藤として。意志陶冶乃至指導の 問題は、こうして始めて眞の「道徳」の領域に進入するのである。それはナ.トルプによれば、
大凡青年期以後の問題である。爾この理念の詳細な導出の問題は、次の「b.Theorie−1dee−
Wiぐklichkeitの展開」におv》て更に具体的に述べるであろう。次の第二の反ヘルバルトの問 題は、既に屡汝述べて來た所であるから、直接それに鰻れる事は.こ、では省略するが、しかし 何故に二者の見解がかくも相違ぜるものであるかの理由を、第三の思想界の攣遷と關聯して、
爾者の學論の生れた境位を次に考察する事にしよう。(註1参照)
5
ヘルバル㍗とナ塾ルプの出生の差は78年、死亡の差は83年であり、前者は65歳、後者は70歳 の高齢で世を去った。ではこの長い生涯におv・て、爾者はそれぞれ如何なる思想と事件とを経 験したであろうか。
17世紀末から18世紀の中葉にかけて、敏州はかの啓i蒙(Aufk1議rung)の眞血中に在った。
しかし1770年項を境として、特にドイツは、あの18世紀末から19世紀にかけて全隊を風廃した浪 漫主義の先駆的現象である,,Sturm und Drang の時代に入る。啓蒙的合理性の形式主義と 外面性の六四からドイツ的生命と個性とを解放し、主観の感情と出歯とを自由ならしめんとし たのが、當時の若v・思想家の欲求で、しかも彼等はこの様な旺盗せる情熱と生活:力とを以て全 世界を塵倒せすんぱ止まざるの慨を示したのであった。1776年といえば、正にこうした時代の 起り、ヘルバルトは實にこの様な時代に生れたのである。當出面にヵγトに52歳、ペスタロツ チーは30歳の高年で、この様な時代の動きを多感な眼を以て凝覗していたのである。他方かの ブイヒテは14歳の少年であり、ヘーゲルは僅か6歳であった。幼時虚弱であった彼は就學せす、
專ら家庭に在って、ヴオルフ哲學者であったエルチエγなる家庭教師について哲學及び詠出等 を學ぶ一方、クルーぜの私塾へ通った。始めて生地オルデγスブルヒのギム才ジウムに入學 したのは1789年(13歳)で、璽90年〜=〜でカ・ント哲學の洗禮を受けてv・る。かのカ・ントの
,,Kritik der reinen Vernunft (1781)が現われて9年目、,,Kritik der praktischen Ver一
一12一
nunεt (1788)の後2年目で、 Krit1k der Urteilskraft は實にこの年に:稜表されている。
この間、啓蒙の波は途に最高潮に達し、1776年にはアメリカの猫立宣言となり、1789年(13 歳)ブラγス革命が二二したが、その過激が世人批制の的となり、特にドイツではその民族的 反動として、復古的な浪漫主義時代に入る。次V・で列記はピツ下の首唱によって 三二大同盟を 組織して革命派を威嚇したがこれは不成功に二つた。彼が17歳の時であった。
1794年(18品目キケロ及びカγトの實三哲學の研究を以てギムナジユウムを卒えると共に、
彼は進んでイエナ大學に入學し、本格的にカγ下話學に親しむと共に、一方ブイヒテに就いて Wissenschaftslehre の講義を聞き、彼から可成りの影響を受けた。しかもこの前後はド イツ浪漫主義の多彩な時代で、ブイヒテの上掲著書の現れたのは1794年であり、シユライエル マツヒヤーの Uber die Religion .カミ獲表されたのは1799年、シェリングの,,Vom lch als Prinzip der philosophie oder tLber das Unbedingte im menschlichen Wissen. は1795
年、又 System des transzendentalen Idealismu3 は1800年に出版されてv・るが、特に この中でシエリγグの前著を取上げ、1796年(20歳)の時、 Uber Schellingsschrift:vom Ich oder dem Unbedingten im menschlichen Wissen なる論文を畿表し、次》・でエレア 及び:パルメニデスの研究に向ってV・る。同時にこの時代、籔學研究に没頭してV・る事を忘れて
はならないであろう。
この期の密話研究は彼の哲學に次の様な性格を與へてV・る。即ちヘルバルトの哲學は、カγあ によって哲學問題が認識論的方向に進んだのを非とし.本体論の概念的思弁を採用し、概念の 修整(Bearbeitung der Begri鉦e)によって形而上學的方向に向うを富盛の任とし、その爲に は形式論理學的手段を以て十分なりとした。かくてこの目的の爲に用いた關係の方法(Metho−
de der Beziehung)は、 v・わばフィヒテの知識學と共通なる本質を有するに拘らす、結論か らいえば、本質的にシエリγグ及びヘーゲル的弁論法の反謝であった。
詳言すれば、同一哲學の出嚢点は實に作用概念に在り、その限り一般に Sein はか》る永 遠の理性的生成の産物であるとせられたが、之に話してヘルバルトは古き形而上學的習慣に從 って實体形成における Sein を以て彼の出嚢点とした。この結果力γトが本質と解したも の、即ち性質の雑多が物の一体に綜合される事を矛盾とし、経験的な一物の各性質は、常に他 物に封ずる關係を意味するに止り、かくて雑多をこの温品の多に記せしめんとした。かくて同 一哲學の一元論に記し多元論を主張し、彼にとって世界の一体は、途に不可解の問題となった のである。爾こ、で附加しておかねばならぬ事は、彼がこの實体を Reale と呼んだ事か5 往汝彼の形而上學を二二論(Realismus)と呼ぶ事は何等の意味もなV・ということである。む しろ彼の,,Reale は非物質的で、現象の性質がこの,,Reale 相互の二二から読明せられるの ● ● ● ○
で本質的には時代の傾向に從v・温く観念論的なのである。しかも我汝は Reale そのものの 性質は全く知る事は出來ない、といういわば一種の不可知論的傾向が、その技巧的なる概念形成
の精緻にも拘らす、七三に三時の思想界に回して何等有効な三二を結び得なかったとv・う事に 注意しなければならない。以上の如くに見て回るならば、彼の二二はV・わば啓蒙的な個人主義 的・合理主義的傾向の現れと見る事は出來なv・であろうか。かくその形而上學においては、一 山反力γト的であったにも拘らす、倫理學におV・てはカγトの三二を一層徹底せしめ、道徳の 封i象は存在の判断ではなく存在の贋値に回する判断であり、それが直証的な形になるまでに實 際の嘉名判断を概念的に修整する所の一般美學の中心感せしめた。就申異色あるもめはその心 理學である。:先の形而上面的前提は、賓は表i象 (Vorstellung) を心的實体の自己保存とし た。既述の如く、この表象読は主知的極印を彼に與へたものであるが、同時に他面、』カγトに:
反して凡近の鷹用を心理學に許したものであり、特に自然科病的思想に影響された以後は、こ の心理學を物理面的或は化砂面學読に封立せしめんとさえした程の特色を示したものであるb この様な決定論的性格が、實はヘルバルト肝内學の形而上學的・先験的自由概念の排斥となっ た事、改めていうまでもなV・であろう。
扱て大証卒業の1797年から3年聞家庭教師として教育を實地に経験し、99年(23才)ペスタ ロチをブルグドルフに訪れ、爾後自己の体系確立に至るまでペスタロチ研究に從溢してv・る。
この間1803年(27才)には壷網の化學者ダル下ンによって分子読が唱えられ・更に後1807年
(31才)にはやγグによって、物理學に始めてエネルギー概念が導入せられるという出忌事が 併起している事を忘れてはならなV・。勿論これ等の嚢表が、直に彼の心理學に影響を與えたと は断じ難いが、特に自然科學に興味を持っていた彼であるから、全く無關係であったとは云え ないであろう6彼の名著 Allgemeine P2dagogik は1806年(30才)に出版された。〜二の年 はプ耳シヤにとっては忘れられぬ年であり、それは璽7年チルヂツトの屈辱となって淺ってv・
る。1809年若冠33才にしてゲツチンゲ・ン大學からク・一一ニツヒスベルビ大學に轄じ、榮響あるカγ 干の講莚を澹細し、哲學・教育面教授となり、世界で最初の試みたる輪編學校を設立し、彼のヘル バル下派隆盛の因を開v・た。爾後1833年(57才)迄順調な研究と著作の年を経、この年に再び ゲツチγゲγに泊り、翌欧35年、彼をして科學的教育學の父たらしめた不朽め名著,,Umriss der頭dagogischen Vorlesungen を著し、語いて41年(65才)改訂版,,Umriss der allge・
meinen p記agogik を途って、同年8.月14日この世を去っている。
所が時代はこの頃から大きく韓回した事を忘れてはならなv・。かの至上を風廃したカγト以 後のドイツ観念論の両統も、途に1831年ヘーゲルの死と共に分裂を生じ、彼等の懸命の構築に
よる市民哲學の高縷も今や崩壌の危機に直面したのがそれである。歴更はこの頃から現代に入 る。所で現代前期の特色は、次の様な事實の申に見ることが出來よう。1843年、この年は:眞 に意味深v・年である。實存の開拓者キエルケゴールの Entweder−oder. 及び:へ菌ゲル左派 の面面フォイエルバッハの Grund3atze der Philosophie der Zukunft. が嚢表された年で ある。績V・てこれと前後して、ブラγスでぽブルードγ及びルイ・ブラγによる肚會主義が唱
一14_
:えられ、、そしてこれ,等は凝うて1845年、かの,,Deutsche Ideologie とな・り冠払いて1848年 Manifest der Kommunistischen Partei. となって現われた。
この様な時代、詳言すれば、ドイツ観念論の崩壊期、杜倉主義思想の虚心期、そして更に唯 物論・實証主義思想の全盛期一1854年ナトルプはこの世に弧六の聲を上げたのである。ナ下ル プの生地D鵬seldorfは、彼の生涯を一貫した熱烈な眞理の追求、崇高なる人生観を培うに 足る文化豊かな土地であった。
演述の如く、彼の出生の前後は唯物論・賢証主義の発盛期で、これが直に幼いナ下ルプに患 想的影響を與へたとは考えられなV・が、この出定事を無試しては同時に能力γト派・一マールブ ルヒ學派の斗將としての後年の彼を理解する事も出直ないであろう。扱て有名なダーウィγめ
Origin of Species by means bf Natural Selection、 が著わされたのは1859年(5才)、
績v・てスペγサーの綜合塞出体系第一巻 First Principle3 7が出たのは翌60年(6才)であ
・つた。そしてこの様な傾向は、1830年頃から70年頃にかけて Real ismus と呼ばれる時代思 潮の先端として受:取る事が出帆るであろう。かsる實証主義的傾向と共に、更に見逃すべからざ る出來事は、産業革命の生んだ肚取的矛盾が漸く世人の關心を惹き始めたとv・う事である。ア メリカにおける1861年(7才)の南北職分は、v・わばその事實面における一つの具現であるが・
更に矛盾の激化は途に資本主義自体の原理的研究を惹起し、こ、に1867年(13才),,Der Kapi・
talism廿S. ・:第一巻の出現を見るに至ったのである。このこ:大潮流は、實に戸ツツエとハルト マγを顕起せめ、最後にり一プマγをして「:カγトに還れ」と叫ばしめ、ご、にラγゲの
Geschichte des Materialismus (1866年)となって、無力γト派勃興の動因となったの である。彼の終生の師コ晶出γは、この頃24才の學徒として將來の大成をその着棄な研究の中 に期していた。ナトルプ12才の頃であった。
鐵血宰相ビスマルクの登用後、プロシャは統唖指導権把握の爲に巧妙な外交職と武力職との 提携の下に、1864年デγマルクと、66年前ーストリアと、最後に70年フラγスと職い、璽71年 中イツ帝國の建設とウィルヘルム隔世の皇帝即位が宣言されたが、この年17才位ナトルプはベ ルリ7大學に入亡した。聞もなくボン大學を経てシユトラスブルヒ大學に移りたが、はしなく も彼はこ、でコーエγと相識るに至ったのである。爾彼はこ、でラースによって英國経験論の、
既述のラ7ゲによって不可知論的批制論(Agnostischer Kritizismus)の刺戦を受けたが、共 にコーエ7のそれには及ぶべくもなかった。1874年彼が:大蒲を卒えた年、コーエγはマールブ ルヒ大意に就任したが、爾後信書によって彼の思想を感激と共に受入れて行った。
一方ド・イツ國内のその後の情勢はどうであったか。近代的統一の点れが國内市場の分割を結 果し、大陸で最も怖れて産業革命に入ったドイツも、先の統一と剰えアルサス・ローレンズの 入手は一墾にこの速度を倍加し、飛躍的に鐵工業の時代に進入した。その爲に1850年頃の國内 主要都市の人口は僅か全人口の4%にすぎなかったのが、近欧23〜30年闇に實に20%、即ち全
人自の五分の一にまで激増した。 Die Mode卑e の作品は、1880年以來のベルリγの細民生 活の三三を如實に描窟したものが多v・。か、る傾向は途に1875年の「言忌主義勢働者党」の結 成となったが、しかしビスマルクの官僚保守政策は、78年「就禽主義者弾歴法」となって現れ、
代りに國二三愈主義を提唱するに至ったのである。所でこの様な資本主義にからむ種汝の二二 問題が、20才から24才に至る;期聞のナ}ルプに何等の影響も與えなかったとは考えられなv・で あろう。後年の二二主義思想えの關心は、多かれ少かれこうした所に胚胎していたと考える事 は出來なv・であろうか。こうした三二・事情を反映して、1880年(26才)エγゲルスによって科 學的肚會主義の理論が完威した。所で翌81年(27才)、彼はコーエγの三山によってマールブ ルビ大學の私講師となり、輝かしV・一歩を踏出す事を得たのである。
爾後豪者の親交は、1912年コーエqンが70才を以てベルリγに赴くまで、實に30年間に:わたる 長年月、影の物に即するが如く密接一体の關係に在った。
彼の論文著作は大小合せて約70篇の民訴に上りこ、に一六掲げるを得なv・。今は:敏育學に点 して重要なるもののみを、著作年代によってその思想攣遷を跡づける程度に掲げるに止める。
1881年(27才)から正教授に任ぜられた1892年(38才)まで、彼は實に忠實なコーエγ學徒 として、古代哲學吏の研究とカント研究に没頭した。がこの頃から彼の思想は、時代の動きと 共に漸次肚會的教育學の方向に向つたのである。即ち1894年(40才) ,Religion innerhalb
der Grenzen der Humanit批. Ein Kapitel zur Grundlegung der Sozia1P註dagogik.
を著すと共に、次で Uber Sokrates 1』,,CohdOrcets Ideen zur Nationalerziehung Pestalozzis Ideen aber Arbeiterbildung, ulld sgziale Frage. を同年申に、 i翌95年(41
才),,Platos Staat und die Idee der Sozialradagogik 亀を獲表し差汝とその心的基礎を堅め て行った。心血も國内では年少二面のウィルヘルムニ世はビスマルクを台閣から追い(189C年)
國家島會主義を更に一歩前進せしめて世界政策を呼号し、更にドイツ資本主義の成熱はこの傾 向を助長し、反面社會民主党は漸次記紀の勢忙在った。他方國外では1889年第ニイγターナシ ヨナルの成立を見、92年にはフラγスで無政府主義者の暴動あり、95年ロシヤではペテルスブ ルク勢高階級解放斗争同盟が創立されて正に祉會主義浬動の興隆期にあったのである。
以上の如き多端な情i勢の中に、1899年(45才)彼は ,Herbart, Pestalozzi und die heu・
tigen Aufgaben der ErziehUngslehre. ,Kant oder H:erbart?Eine Gegenkritik. の二 書を通して徹底的にヘルバルトの個人主義を駁し、途に同年老朽の名著 ,Sozia1P飼agogik を完成しこ、に二品的教育學の体系を完成した。19⊃5年(51才)上掲書の縮旧版,,AllgemeiDe
padagogik. 全7年(53才)には1900年以後のペスタロツチ研究を一括し、 Gesammelte Abhandluロgen zur Sozia1P飼agogik. として磯表した。この闇ドイツでは肚會民主党の躍 進は一二目畳ましく、更にロシヤではボルシェヴィキの成立を見た(1903年)
その後彼の研究は二つの時期に分れる。一一は枇會的教育學の哲學的基確付けで、大凡1geg年 一16_
(55才)から12年頃迄で、主要著書ぱ Rhilosophie und padagogik. (1909),PhilOsophie,
ihr Problem ulld ihre Probleme. (1911),,Volkskultur dnd Pers6nlicbkeitskultur.
(1911)等である◎二は大凡1913年(59才)から第一次大戦を経て死超までで、この期の特色 は、從來の批判主義的色彩から山主形而上學に入ると共に、他面大渓によって生じた租國の危 機を眞の民族山雨國の情熱によって救船せんとする出生的偵臥一言に理想主義的色彩を以て む表現する事が出熱るであちう。藪育の主要著作は Die Einheitsschule・・(1919)げ Sozial.
1dealismus (1920) ,,Genossenschaftliche ErziehuDg. (1920) , IndividuumLund Gemeinschaft. (1921)等であるが、尚超後に出肢された遺稿 ,,Vorlesungen 廿ber praktische phiユosophie (1925)は必見の書であると云われてv・る。今以丘の出版年度と歴 史的事件とを照合しながら著書の内容を考える時、この闇に極めて深v・聯毒性が存在する事 を、人は必ずや讃取る事が出來るであろう。(註2参照)
6
論ずるに足りぬ程の粗雑さではあったが最後に時代考証を附加した理由は、緒言に述べた 卜者の歴皮意識の摘出と學詮相違の時代的背景を見る爲の手懸りを得る爲であった。この短V・
叙述からさえ、隅棚は次の粋な諸点を知る事が出戸た。1.學論は多かれ少なかれ時代を背景と している。2.指導性の有無は半平と時代i攣遷との積極的な聯關交渉に存する。3.(具体的な問
題になるが)ナトルプのヘルバルト批判は時代無覗Q一方的である。4.從ってヘルバルト薪究
(彼の形而上學は確かに時代錯誤の護を滞れなかったが。)はこの清艶面の積極面への轄再考 に重点をおくこと。こ、に歴皮意識の解繹の課題が潜在する。5.総じて學読研究は存在措定の ● ●
面に限定せす、消極・積極共に現代的課題に緊縛する面をも持つべきこと。それが過去性の現 實化であろう。勿論これは、事實を事實自体として再生的に把握せんとする歴史學の場合に は、必ずしも安廉しなV・。
出てカぬる諸点と以上の論究とを通して、我汝はナトルプのこの部分の全体的結論を述べよ う。ナトルプの als Ganzes の意味は實は軍に面的基礎付けの問題に止ら一鰍むしろ Die Philosophie als Ganzes. が Die ldee als Ganzes. に包撮せられながら、逆に云えば、
それらが理念という背後のものに支持されていたからこそ、哲學全体として確信を以て、學の 基礎付けを可能ならしめたのであり、從りて薫育自体の問題としては、むしろ理念に重点をお いて、基礎付けの問題を超えた人間形成的規範乃至は:理念として把握せられねばならなV・。ナ
トルプではこれが具体的實践面では,,Das Leben. 嚴密には Das Gemeinschaftsleben als Ganzes. として把えられていたのである。それ故に.,Erziehung は飽迄も形成として考察 され、意志陶冶では規範的な義務論が前景に立たねばならなかったのである。確かにナトルプ は學面的には陶冶教育學の流れを汲むものであるが、その彼が何故にか、る流れから超出せね
ばならなかったのであるか、正しくいわばナトルプのその一つの矛盾は、實はこの檬な所にそ