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小林 多喜二 伝 補 遺2

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(1)

小林 多喜二 伝 補 遺2

は じ め に

13568101214161820222426272830

ク ロ フ ォ ー ド 嶋 田 か ら

2西 丘 は くあ 4宮 沢 賢治 多 喜 二 の,佐 々 木 キ ヨ あ る い は キ ヌ との 恋 多喜 二 の好 きな もの

三 ・一五 前 後 蟹 と蟹缶 詰 多喜 二住 居 跡 反帝 同盟,太 宰 治 一労 働者 の記事 病院 へ

電報 香典 追悼 公演

791113151719212325

あ て葉書

辞 令 小樽 風景 系図

松 田の思 い 出1930年 1932年

志賀 直哉 自宅 で 解 剖拒 否

転換 時代 」=「党生 活者 」 中条 の大熊 あて手紙 市立 小樽 文学 館 の,多 喜二 遺体 写真 の撤 去

小樽 商科 大学 付属 図書 館 の所蔵 す る多喜 二 の出版 書物 フ ィー ル ド講 演29多 喜 二小説 論 訂正

は じ め に

これ は,「 小 林 多 喜 二 伝 補 遺1」(『 人 文 研 究 』第104輯 続 きで あ る 。 作 品 番 号 と し て は(24)で あ る。

2002年9月)の

(2)

1ジ ョ セ ブ ・ ユ ー リ ー ・ ク ロ フ オ ー ド

小 樽 の鉄 道 を作 っ た人 は,ク ロ フ ォー ドで あ る。ク ロ フ ォ ー ドは,1842年, 米 国 ペ ン シル ヴ ェ ニ ア 州 に生 ま れ た。 ペ ン シ ル ヴ ェ ニ ア大 学 と フ ィ ラ デ ル

フ ィア の 工 学 院 で 土 木 の 専 門 教 育 を う け た。 卒 業 後,コ ー ル ヒ炭 鉱 や ミ ドル ボ ー ル ド炭 鉱 に 炭 鉱 技 師 とし て,ま た 連 邦 陸 軍 の 土 木 技 師 に もな っ た 。 南 北 戦 争 で 北 軍 大 尉 と して土 塁 を築 い た 。 終 戦 後,ペ ン シ ル ヴ ェ ニ ア鉄 道 な どの 鉄 道 測 量 技 師,建 築 監 督 と な っ た 。1869(明 治2)年,ク ロ フ ォー ドは ア メ リカ大 陸 鉄 道 の 完 成 を した 。明 治11年12月,ク ロ フ ォー ドは来 日 し,「到 着 の 日か ら三 年 間,北 海 道 の 炭 山 の連 絡 す る鉄 道,な らび に車 道 建 設 兼 土 木 顧 問 」とな る 。 ク ロ フ ォー ドは,明 治12年2月 に札 幌 に来 た 。3月 か ら調 査 を 開 始 し,幌 内 か ら札 幌 を へ て 小 樽 に鉄 道 を し くの が 最 も善 い と結 論 づ け た。

難 所 は熊 碓 ・銭 函 問 の絶 壁 で あ っ た 。6月,開 拓 使 は ク ロ フ ォ ー ドを技 師 長 に任 命 し,彼 は 半 年 で 札 樽 馬 車 道 を 開 通 させ た 。 つ い で ア メ リカ へ戻 り,鉄 道 資 材 や 機 関 車 を購i入した 。 明 治13年11月28日,手 宮 ・札 幌 問 の鉄 道 が 開 通 した 。弁 慶 号 が 時速20キ ロで 走 っ た 。北 海 道 で初 め て の鉄 道 で あ っ た 。そ の 後,札 幌 ・幌 内 鉄 道 も開通 し,明 治14年11月,幌 内 炭 鉱 か ら小 樽 へ 石 炭 が 運 ば れ た 。 この 年,ク ロ フ ォー ドは ア メ リカ へ 帰 国 した 。 本 国 で も鉄 道 開 発 に腕 を振 る っ た 。 彼 は大 正13年 に亡 くな っ た。

2西 丘 は くあ あ て葉 書

多 喜 二 の 西 丘 は くあ あ て葉 書 が あ り,小 樽 市 文 学 館 に所 蔵 さ れ て い る。

これ は 『全 集 』 未 収 録 で あ る。

奥 沢 町 西 岡理 髪 店 内 西 丘 [あ て 多 喜 二 の 郵 便 は が き]

(大 正)11・4・5(消 印)

は くあ

小 樽築港駅付 近 にて

(3)

小 樽 倶 楽 部 で 貴 兄 の詩 を拝 読 して,た だ た だ 感 心 仕 りま した。

一 回 は素 描 で あ る作 品 を見 ま した けれ ど も,今 か ら権 威 あ る西 條 八 十 氏 の 手 で 一 等 で あ る とす る と,(人 間 心 理 の 弱 点 か)尚 あ の 時 よ りは秀 れ て思 わ れ る の で す 。

あ の 洗 練 さ れ た 用 語 と,気 分 が 一 致 して,物 静 か な,恰 も貴 兄 の 性 格 そ の も の ・や う な気 持 ち を うけ る あ の詩!西 條 八 十 が 評 さ れ た や う に, 物 さび し い 古 笛 の 音 の よ う な詩!

私 は幾 度 もそ の 詩 を か み わ け か み わ け て見 ま した 。 す る と,… … また 何 か し ら幽 玄 な 神 秘 的 な情 緒 が あ り ま した 。 あ る人 は 日本 語 は詩 に 適 しな い と言 ひ ま した が,私 が 貴 兄

の詩 を見 て そ の 論 に何 か し ら 反 対 した い気 持 に

な っ て き ま した 。

私 の 創 作 は 愚 作 で 自分 と し て も期 待 し な か っ た の で す が,せ め て名 前 で も

とい ふ や うな 気 持 ち に な りま した 。

× ×

貴 兄 は今 お 暇 ぢ ゃ あ り ませ ん か, い つ か 遊 び に 行 きた い と思 っ て ゐ ます が ど うで せ う。 今 度 私 も築 港 停 車 場 の す ぐ近 くに 移 り ま した か ら,い っ で も 遊 び に来 ませ ん か,但 し そ の前 に,

ち ょ っ と知 ら し て くれ な い と, 遊 び に行 っ て ゐ るか も知 れ

ませ ん か ら。

い つ か 行 き ます よ。

(4)

い ・で す か 。

西 丘 は くあ は,ペ ンネ ー ム で あ る。 紺 谷 政 雄 が 最 初 の 本 名 で あ る。 彼 は 明 治33年,石 川 県 金 沢 市 に,染 物 屋 の 次 男 と して 生 ま れ た 。金 沢 で,尋 常,高 等 小 学 校 を卒 業 し た。 そ の 間,母 が 亡 くな っ た 。 そ して 歌 を作 りは じ め る。

彼 は郵 便 局 員 とな っ た が,退 職 し,大 正7年 に父 と共 に小 樽 に来 た 。 そ こで 番 匠 家 の養 子 に な っ た 。 彼 は郵 便 局 の事 務 員 を し,夜,小 樽 稲 穂 商 業 補 修 学 校 に 通 った 。大 正8年 庁 商 に入 学 した 。短 歌 で 小 林 多 喜 二 ら と同 人 とな っ た 。 多 喜 二 は大 正5年 に庁 商 に入 学 して い る か ら,は くあ は,3年 お くれ て い た 。 もっ と もは くあ は多 喜 二 よ り も3歳 年 上 で あ る。 彼 は,大 正9年,養 家 と不 縁 とな り,8月 か ら小 樽市 奥 沢 町1丁 目,西 岡 徳 蔵 宅 に世 話 に な り,『群 像 』 に も歌 を 出 した 。 西 岡徳 蔵 は理 髪 店 の 息 子 で,彼 の 同級 生 だ っ た 。 多 喜 二 の 葉 書 は それ ゆ え こ の時 代 で あ る。 つ ま り多 喜 二 が 小 樽 高 商 に入 っ た ぼか りの 時 で あ った 。 大 正11年4月 号 の 『小 説 倶 楽 部 』に西 丘 の 詩 が 一 等 に入 選 した と,若 竹 町 に い た 小 林 多 喜 二 が 店 に来 た ω。一 方,当 時 の 多 喜 二 が 投 書 した詩 が 第1席 に入 選 し,は くあ が そ の詩 の 批 評 を した ら,返 事 の葉 書 が は くあ宛 に きた 。 ビ ッ シ リ と細 字 で きれ い に書 か れ て い る葉 書 だ った 。 西 丘 は後 に,

彼 の も の は も う これ 一 枚 しか な くな っ ち ゃ っ て ネ」 と大 事 に秘 蔵 し て い た(2)。これ が この葉 書 で あ ろ う。大 正12年9月,戸 塚 新 太 郎 が ま とめ役 の 『 樹 』 を西 丘 は発 行 し た。 片 岡 亮 一,小 林 多 喜 二,西 岡徳 蔵 らが 関係 した 。 ま た 『覇 王 樹 』 小 樽=支社 を 結 成 し,幹 事 とな っ た 。 大 正13年,庁 商 を卒 業 し, 山下 汽 船 鉱 業 に入 社 し,三 笠 へ 勤 め に行 った 。大 正15年 に伊 藤 家 と養 子 縁 組 を した 。 昭 和2年 に奈 良姓 とな る。 彼 は主 に 幾 春 別 に住 ん だ 。 鉱 山職 員 か ら 中学 校 の 教 師 にな っ た。 昭 和43年 に亡 くな った 。 そ の 死 後,『 西 丘 は くあ歌

ω 「西 丘 は くあ 年 譜 」(『西 丘 は くあ 歌 集 』 原 始 林 社 昭 和43年 ,所 収)よ り。

(2)金 坂 吉 晃 「西 丘 は くあ さ ん の こ と」(『北 線 』2,北 線 社 滝 川,昭 和43(1968) 年5月)11ペ ー ジ 。

(5)

集 』 が,原 始 林 社 か ら昭 和43年 に 出 た 。

3嶋 田 か ら

高 商 で 多 喜 二 は,大 熊 信 行 と武 者 小 路 実 篤 の 「そ の妹 」 に つ い て 話 合 っ た 事 が あ った 。 この 頃 の文 壇 は,菊 地 寛,里 見 弾,芥 川,武 者 小 路,志 賀 直 哉

らが活 躍 し て い て,嶋 田 や 多 喜 二 は よ く読 ん だ も の だ った 。

1922年 嶋 田 正 策 は,小 樽 へ 再 転 勤 とな っ た 。多 喜 二 の 小 説 「龍 介 と乞 食 」 が,こ の 年 の 『小 説 倶 楽 部 』3月 号 に発 表 さ れ て,皆 を驚 か せ た 。 彼 は嶋 田 に言 っ た 。「俺 は何 で も小 説 に して し ま う。学 校 の 試 験 で も非 常 に不 合 理 な所 が あ る 。 普 段 は 出 来 て い て も,試 験 当 日,身 体 の 調 子 が悪 くて,良 い 成 績 が 取 れ な か った 場 合 は,受 験 者 の本 当 の値 打 ち が 判 らな い 。それ を小 説 に した 。」

しか しそ の 小 説 は陽 の 目 を 見 なか っ た(3)。

4宮 沢 賢 治

宮 沢 賢 治 は,明 治29年 に,岩 手 県 花 巻 町 に生 まれ た 。北 海 道 へ は3回 来 た 。 初 め は大 正2年 で あ り,県 立 盛 岡 中 学 の生 徒 との時 代 に,北 海 道 修 学 旅 行 で 来 た 。二 度 目 は 大 正12年 で,樺 太 旅 行 を し,従 っ て北 海 道 を通 っ た 。彼 は 大 正10年12月 以 来,稗 貫 農 学 校 つ ま り花 巻 農 学 校 の教 諭 で あ っ た 。 三 度 目 は大 正13年5月 で あ り,花 巻 農 学 校 の教 諭 と し て,統 導 者 とし て農 学 校 生 徒 を引 率 して,北 海 道 修 学 旅 行 を した。 帰 着 後,「 修 学 旅 行 復 命 書 」を提 出 した の で あ る。 こ の復 命 書 は,大 正13年5月19日 か ら5月23日 と され,花 巻 農 学 校 の24行 用 原 稿 用 紙11枚 に書 か れ て い る 。復 命 書 の 冒頭 で あ る,小 樽 高 商 に つ い て の部 分 は,現 代 語 にす れ ば,こ うで あ る。

(3)嶋 田 正 策 「私 の 『自 画 像 』 を 書 い た 頃 」90ペ ー ジ 。

(6)

午 前9時 小 樽 駅 に着 い た 。 た だ ち に高 等 商 業 学 校 を参 観 した 。 案 内 に よ っ て各 室 を巡 覧 した 。 中 に タ イ プ ラ イ タ ー 練 習 室 と,取 引 実 習 室 の,諸 会 社 銀 行 税 関 等 の各 金 網 を め ぐ ら した 小 模 型 中 に お け る模 擬 紙 幣 に よ る取 引 な ど,

… …甚 だ 生 徒 の興 味 を喚 起 した。 商 品 標 本 室 で は粗 な る農 産 製 造 品 と精 製 商 品 の連 絡 に つ い て 参 考 に な るべ き もの 多 く,殊 に ドイ ツ の 馬 鈴 薯 を原 料 と し た 三 十 余 種 の商 品 標 本,米 国 の各 種 穀 物 を あ ぶ って 膨 張 させ た 食 品 な とに注 意 した 。 十 時 半 同 校 を辞 す 。

つ ま り彼 らは,計 算 す る と約1時 間,参 観 した 。 こ こ に出 て来 る取 引 実 習 室 は,初 代 渡 辺 龍 聖 校 長 が 考 え た もの で あ り,ま た 商 品標 本 室 の一 部 資 料 は 現 存 して い る。 この 頃,小 樽 高 商 は,第2代 の伴 房 次 郎 校 長 の時 代 で あ り, 有 名 な人 物 で 言 え ぼ,小 林 多 喜 二 が,一,ニ カ 月 前 に卒 業 して お り,伊 藤 整

は三 年 生 に な っ た ばか りで あ った 。 整 が 宮 沢 賢 治 と廊 下 で す れ 違 っ た か も し れ な い と想 像 す るの も,楽 し い こ とで あ る。

5多 喜 二 の,佐 々 木 キ ヨ あ る い は キ ヌ と の 恋

北 海 道 拓 殖 銀 行 の 時 代 に,多 喜 二 は,佐 々 木 キ ヨ,あ るい は キ ヌ が好 き に な った 。 彼 女 は,銀 行 の 同僚 で,初 め給 仕 で,後 に事 務 員 に な っ た。 彼 女 は きれ い で,男 を惹 きつ け る,派 手 ず きな 女 性 で あ っ た。 多 喜 二 は思 い 切 っ て 彼 女 の前 で す べ て を言 い切 る勇 気 が な く,「ち ょっ と実 は話 した い こ とが あ る が,何 処 か で 会 っ て くれ な い か 」とい う手 紙 を渡 した 。 彼 女 か ら は,「 何 処 か で 会 っ て,そ の た め に とん で も な い こ と を云 わ れ る こ とは お 互 い に不 利 だ と 思 い ます 。 も し書 け る こ とな ら書 い て下 さい 」 とい う返 事 を貰 っ た。 多 喜 二

は,1925年6月 の あ る夜 に,彼 女 を誘 っ て,新 富 町 の お 祭 り に,つ ま り龍 徳 寺 境 内 の 神 社 の祭 りに い っ た 。 当時 は 現 在 よ り も賑 わ っ て い た 。2人 で し め し合 わ せ て 会 っ た 。 そ して キ ス を交 わ した 。 しか し彼 女 が慎 み 深 い人 で もな く,教 会 の 男 と一 緒 にふ ざ け た りし た。 また 他 の 男 性 と と もに海 水 浴 に ゆ き, と これ は熊 碓 の海 岸 で あ るが,ふ ざ け ち ら し て男 に身 体 を もた せ か けて,媚

(7)

態 を 示 し た(4)。 あ る 時,多 喜 二 の 机 に 彼 女 が 寄 っ て き て,「 重 複 」 か 「重 箱 」 か,重 の 字 を 聞 い た 。 多 喜 二 が そ の 字 を 教 え て や っ た 時,「 あ あ,そ う,男 女 が 重 な る と い う あ の 字 」 と い い,多 喜 二 は 幻 滅 を 感 じ た(5)。 お 祭 り に 共 に 行 っ た 次 の 年,銀 行 で,佐 々 木 に,「 今 夜 は あ す こ の お 祭 り だ な ア 」と云 う と,

「さ よ う で ご ざ い ま す ね え 」と彼 女 は 応 じ た。 彼 女 は,後 に は ビ ア ホ ー ル の ウ エ イ ト レ ス,そ の 後,飲 み 屋 の お か み に な っ た 。 佐 々 木 の 名 は,多 喜 二 の 後 の 小 説 に 出 て 来 る 。 『党 生 活 者 』 の 主 人 公 で あ る 。

6多 喜 二 の 好 きな もの

多 喜 二 の 好 き な も の は,食 べ 物 と し て は,炊 き立 て の 白 米 に 塩 鮭 を 細 か く ち ぎ っ て ふ り か け た も の 。音 楽 で は,べ 一 トー ヴ ェ ン の バ イ オ リ ン ・コ ン チ ェ ル ト,ゲ ー テ の 詩 に よ る チ ャ イ コ フ ス キ ー の 作 曲 「た だ あ こ が れ を 知 る も の の み が 」 で あ る 。

7辞

北 海 道 拓 殖 銀 行 の大 正12年1月6日 か ら大 正12年12月31日 の 「辞 令 書 割 印簿 」 が あ る。 そ れ に は,小 林 多 喜 二 に対 し て 「書 記 を命 す 月 俸 七 拾 円 給 与 総 務 部 勤 務 を命 す 」(原 文 は 旧字 で カ タ カ ナ)と あ る。

8三 ・一 五 前 後

特 別 高 等 警 察(略 し て,特 高)は,1911年 に で きた 。 そ の 前 年1910年 に大

(4)佐 々 木 に つ い て 多 喜 二 は3つ の 小 説 を書 い た 。そ れ らか らの話 だが,本 人 は それ ら は 実 話 だ と し て い る か ら利 用 で き る。

(5)布 野 栄 一 『小 林 多 喜 二 の 人 と文 学 』 翰 林 書 房2002年 ,12ペ ー ジ 。

(8)

逆 事 件 が あ っ た の で あ る 。 治 安 維 持 法 制 定(1925年)の と き は,も め た 。 全 国 的 に は大 反 対 運 動 が 有 り,新 聞 もい っせ い に 反対 し,衆 議 院 で もめ て 修 正 も さ れ た 。

翌1926年3月5日 に,労 働 農 民 党 が 結 成 さ れ た 。 これ は戦 前 の運 動 に とっ て 重 要 で あ る。1927(昭 和2)年,金 融 恐 慌 が始 ま った 。 日本 軍 隊 は,中 国 の 漢 口,上 海 に侵 攻 し た。

1928年3月15日 の 事 件 で,特 高 が 大 拡 充 され た 。思 想 検 事 が 設 置 され,治 安 維 持 法 が 改 悪 さ れ た 。 三 ・一 五 事 件 は,約1カ 月 後,4月11日 に記 事 が 解 禁 され た もの で あ る。 この事 件 で は,捜 査 当 局 が持 っ て い た情 報 は莫 然 とし た 報 告 や 聞 込 み にす ぎ な く,見 込 み 捜 査,捜 査 の た め の 捜 査 の 面 が 強 か っ た(6)。約1600人 の検 挙 者 中,約450人 が 起 訴 され た 。 だ が 特 高 は,渡 辺 政 之 輔,三 田村,鍋 山,市 川,佐 野 学 らの幹 部 の逮 捕 に失 敗 した 。

1928年3月25日 に,ナ ップ が 成 立 し,5月 に 『戦 旗 』 創 刊 号 が で た。

多 喜 二 は,「 人 を殺 す 犬 」が 葉 山 の 「セ メ ン ト樽 か ら出 た 手 紙 」 と同 じ位 の 作 と思 う と,書 くの で あ っ た 。

蔵 原 論 文 「生 活 組 織 と して の芸 術 と無 産 階 級 」が,1928年4月 に 出 た 。5 月 号 の 『戦 旗 』 で,蔵 原 の 「プ ロ レ タ リア ・リ ア リズ ム へ の 道 」 が の っ た(7)。

多 喜 二 は,こ の1928年5月13日 こ ろ上 京 した 。 帰 っ て きた 多 喜 二 は,小 説F一 九 二 八 年 三 月 十 五 日」(以 下,「 三 ・一 五 」 と略)を,1928年5月26日

か ら書 は じめ,5月27日 に 「監 獄 部 屋 」 を書 き終 っ た。 小 説 「三 ・一 五 」 は, イ タ リア,フ ラ ン ス,ド イ ツ,イ ギ リス,ア メ リカ,ロ シ ア で 知 られ た 。

一 九 二 八 年 三 月 十 五 日』 は,雑 誌 『戦 旗 』 に発 表 され る時 か ら,相 当 の 伏 字 が さ れ た が,そ れ で も雑 誌 は 発 売 禁 止 に され,商 業 べ 一 ス以 外 の独 自 の 配 布 網 で8千 部 を売 っ た 。 翌 年 単 行 本 『蟹 工 船 』 の 中 に入 れ られ,発 売 禁 止 と

な った が,別 ル ー トで1万5千 部 を売 っ た 。 翌 年 改 訂 版 で 出版 され た単 行 本

(6)荻 野 富 士 夫 『特 高 警 察 体 制 史 』 せ き た 書 房1988年 増 補 版

,213ペ ー ジ 。

(7)蔵 原 「… … 「三 ・一 五 」 と 「 蟹 工 船 」 。

(9)

『一 九 二 八 年 三 月 十 五 日 』 は,た だ ち に 発 売 禁 止 と な っ た(8)。

翌1919年4月16日 事 件(四 ・一 六 事 件)で は,小 樽 で40人 が 検 挙 さ れ, 多 喜 二 も,4月20日 に 小 樽 署 に 拘 引 さ れ,家 宅 捜 索 を 受 け た 。 小 樽 の 町 で,

「赤 の 連 中 が 片 っ ぱ し か ら ぶ ち こ ま れ た … … 」 と

,ひ そ か な 話 題 と な っ た(9)。

実 際 は3・15事 件 よ り も,4・16事 件 の 方 が 運 動 の 側 で は 打 撃 が 大 き か っ た 。 昭 和4年 こ ろ は,『 戦 旗 』 を 読 ん で い る だ け で 特 高 に っ か ま っ た 。

9小 樽 風 景

蜂 谷 涼(10)『ち ぎ り屋 』(講 談 社2002年)で 大 正 時代 の 小 樽 を描 い て い る。

小 樽 は 北 前 船 の 寄 港 地 で も あ っ た 。榎 本 武 揚11)は,小 樽 に も農 園 や ら貸 し 地 を沢 山 も った 。 彼 は幕 軍 だ った が,新 政 府 に乗 り換 え て,北 海 道 開拓 使 や 駐 露 特 命 全 権 大 使 な ど政 府 高 官 の階 段 を あが っ て い っ た 。 榎 本 は小 樽 で 宅 地 造 成 を した 。 開 拓 使 が 廃 止 され,新 官 吏 は官 有 物 の 払 い下 げ を受 けた 。 そ れ

で 商 売 を 始 め,威 張 っ た。

日露 戦 争 で 樺 太(サ ハ リ ン)の 開 発 が 始 ま っ た 。1905年6月 ポ ー ツマ ス講i 話 会 議 に 先 だ っ て,日 本 は,あ わ よ くば樺 太 全 土 を手 に入 れ よ う と,樺 太 上 陸 作 戦 を 開 始 した(12)。

藤 山 要 吉 は,廻 船 問 屋 か ら海 運 業 に進 出 し,小 樽 と稚 内 へ 航 路,そ の 後, 北 陸,下 関,神 戸,大 阪,樺 太 と,航 路 を作 っ た 。 漁 場 を もち,樺 太 の 日本 海 側 の 多 くを もっ た 。 留 萌 線 を開 業 した 。 皇 太 子(=昭 和 天 皇)の 宿 泊 の た

め に宿(=屋 敷)を た て た 。

第1次 大 戦(WW1)で 欧 州 の 穀 倉 地 帯 で あ るル ー マ ニ ア,ハ ン ガ リー,オ

()太 田 ,稿,『 秋 田 と小 林 多喜二 』 か ら。

()石 井,8ペ ー ジ 。

(1)彼 に は 『海 明 け 』(講 談 社)も あ る。

(1)加 茂 儀 一 榎 本 武 揚 』 中 央 公 論1960年

(1)[琴 坂]『 ガ イ ドブ ッ ク 小 林 多 喜 二 と小 樽 』新 日本 出版1994年8ペ ー ジ 。

(10)

ラ ンダ は焦 土 と化 し,食 糧 を輸 入 に頼 っ て い た イ ギ リス は困 っ た 。 日本 は イ ギ リス の 同 盟 国 だ っ た 。 そ こで北 海 道 の澱 粉,雑 穀,豆 類 が輸 出 され,小 樽 は北 海 道 の集 積 地 だ っ た 。 「澱 粉 王 」は道 内 の 馬 鈴 薯 を買 占 め,イ ギ リス か ら 澱 粉 の 注 文 が殺 到 した 時,三 井,湯 浅,鈴 木 な ど大 商 社 か らの大 量 注 文 を一 手 に引 き受 けた 。 「小 豆 将 軍 」(=高 橋)は,小 豆 を 買 占 め,高 くな っ た所 で 売 っ た 。

輸 出 用 の豆 は,規 格 が 厳 し く定 め られ た た め,豆 撰 工 場 が 建 設 中 の運 河 の あ た りに30軒 近 く現 れ た。6千 人 を こ え る女 工 が働 い た 。日雇 い 男 が1日40 銭 の と こ ろ,70‑80銭 稼 ぐ人 もで た 。 ビル マ豆,小 豆,大 福,中 福,青 えん

ど う を乗 せ た船 が 小 樽 か ら欧 州 へ 向 か っ た 。 船 はた りず,藤 山汽 船,犬 上 汽 船,酒 井 汽 船,板 谷 商 船 が 儲 け た 。 豆 成 金,澱 粉 成 金,船 成 金 が 出 た 。 樺 太 開 発 の 基 地 小 樽 もWW1の 余 波 で 好 景 気 とな り,樺 太 貿 易 も盛 ん に な っ た 。 小 樽 は,横 浜,神 戸 に つ い で,船 主 や 廻 船 店 の 数 で,全 国3位 とな っ た。

10蟹 と蟹 缶 詰

日本 は漁 業 国 で あ る(13)。北 海 道 に も独 得 の 漁 業 が あ る(14)。そ の 中 で も蟹 漁 は特 異 で もあ る。 しか も全 水 産 高 に 占 め る蟹 生 産 高 の比 率 は低 く,最 も比 率 の上 昇 し た昭 和10年 で も3.8%で あ っ た 。 した が っ て 生 産 額 か ら見 る と,蟹 漁 業 は北 海 道 漁 業 に とっ て 余 り重 要 で は な い が,北 海 道 で 最 初 の 動 力 船 漁 業 で あ り,蟹 缶 詰 工 業 で特 殊 な性 格 を持 っ て い た 。

蟹 は魚 類 で な く甲殻 類 で あ る。北 海 道 で は,タ ラバ ガ ニ(別 名,イ バ ラ蟹), ズ ワ イ ガ ニ,花 咲(は な さ き)ガ ニ,毛 ガ ニ,が 食 べ られ て い る。 タ ラバ と 花 咲 は,ヤ ドカ リの仲 間 で あ る。 ズ ワ イが に,花 咲 が に,タ ラバ が に,毛 が に,は,蟹 の 四 天 王 とい わ れ る。 これ らは 明 治 時 代 か ら食 べ られ た 。 タ ラバ

(13)羽 原 又 吉 『日 本 漁 業 史 』 。

(14)『北 海 道 漁 業 史 』。

(11)

は,鱈 場 と書 き,鱈 の とれ る場 所 に い るか らで あ る。 北 海 道 の 他 で は,有 名 な もの で は,た か あ しが に,わ た りが に,松 葉 か に(ず わ い が に,の オ ス), 越 前 か に,な どが あ る。 上 海 カ ニ もあ る。

缶 詰 の 原 料 と され る の は,タ ラバ ガ ニ,ズ ワ イ ガ ニ,毛 蟹 で あ る。

ズ ワ イ蟹 は,日 本 海 沿 岸 と朝 鮮 半 島 に産 し,十 脚 目短 尾 亜 目イ ナ ック ス 科 に属 す る 。 特 に石 川 県,新 潟 県 で,多 数 漁 獲 さ れ,冬 か ら春 にか け て ゆ で て 販 売 さ れ て い る。毛 蟹 は,オ ホ ク リガ ニ と も呼 び,朝 鮮 東 海 岸,日 本 海 沿 岸, 北 海 道 釧 路 沿 岸 に分 布 し,十 脚 目短 尾 亜 目 ア テ レ シ ク ス科 に属 す る。 甲 が 栗

の 形 を して い る の で,オ ホ ク リガ ニ と呼 ばれ た。

タ ラバ ガ ニ は,甲 殻 綱 軟 甲 亜 綱 歪 十 脚 目 歪 尾 亜 目 リ トデ ス 科 に属 す る。

タ ラバ ガ ニ は,北 海 道,樺 太,朝 鮮,オ ホ ー ツ ク海 方 面 に分 布 し,前 二 者 と 全 く種 類 が 違 う。 特 に品 質,声 価 で,毛 か い,ず わ い 蟹 は,は るか に タ ラバ

ガ ニ に劣 る(15)とされ る。た だ しそ れ は缶 詰 の 場 合 で あ る。ゆ で て 食 べ た場 合 は,毛 蟹 の 方 が お い しい とい う人 もい る。 普 通,蟹 の 缶 詰 は タ ラバ ガ ニ の そ れ で あ る。 タ ラバ ガ ニ は,他 の 蟹 類 に比 較 し て,著 し く大 きい 。 雄 蟹 の大 き な もの は,甲 長22セ ン チ,甲 幅25セ ンチ,脚 を延 ぼ し て横 に145セ ンチ, 体 重4キ ロ の も の もあ る。 ハ サ ミ脚 は常 に右 が 大 き く,第5脚 は非 常 に小 さ

く,甲 の 内側 にか くされ て い る。

タ ラバ ガ ニ は,北 海 道,樺 太 の 沿 岸,オ ホ ー ツ ク海 の,寒 冷 な 深 海 に産 す る。 これ ら沿 岸 に は い つ も清 冷 な 寒 流 が 流 れ て,夏 期 で も水 温 は,摂 氏3度 を上 が らな い 。普 通 海 深20,30メ ー タ ー の所 に群 集 し,水 温 の 上 昇 と と も に 沖 合 い に去 る。 漁 業 の 時 期 は,地 方 に よ っ て は2月 頃 開 始 さ れ る と ころ もあ

るが,普 通3月 か ら11月 まで で,大 体4,5月 が 最 盛 期 で あ る。

た ら ぼ が に刺 網 漁 業 は,大 正4年3月,北 海 道 漁 業 取 締 規 則 が 公 布 さ れ て か ら,許 可 漁 業 とな っ た 。

(15)産 業 経 済 調 査 所 『蟹 罐 詰 の 話 』 昭 和6年,1ペ ー ジ。

(12)

大 正 以 降 の 蟹 漁 業 の 生 産 高 の 推 移 で は,昭 和 時代 の 方 が 多 い 。 ま た,生 産 地 帯 は,根 室,宗 谷 で あ っ た が,昭 和20年,南 千 島 を失 っ た の で,根 室 地 方 は生 産 高 は微 々 た る も の に な っ た(16)。

蟹 缶 詰 の 発 祥 に つ い て は,年 が 少 し違 うが,説 が あ る。

北 海 道 開拓 使 根 室 別 海 缶 詰 所 の 生 徒 ・松 村 文 四 郎 は,明 治14(1881)年 釧 路 に 出 張 し,蟹 缶 詰 を製 造 し,同 年 東 京 で 開 か れ た 第2回 内 国 勧 業 博 覧 会 に 同 缶2っ を出 品 した 。 これ が 日本 で 蟹 缶 詰 の 記 録 に初 め て残 って い る(17)。

明 治17年,福 井 市 の大 戸 與 三 兵 衛 は,ズ ワ イ ガ ニ 缶 詰 を 試 製 し,翌18年 成 功 した 。

北 海 道 で は,明 治20年 ころ,高 島郡 の 平 田孝 造,札 幌 の長 谷 川 源 之 助 ら に よ っ て タ ラバ ガ ニ 缶 詰 が 試 製 さ れ た が,事 業 化 で きな か った 。 そ の 後,西 貞 二 郎 が 小 樽 と高 島 で 着 業 した が,大 成 しな か っ た 。 事 業 と して の た らぼ が に缶 詰 は明 治 に北 海 道 小 樽 で 試 み られ,明 治33年 こ ろ北 上 して 利 尻 へ,明 治 38年 に は根 室 へ,明 治39年 に は樺 太 に ま で 伸 び た 。 蟹 缶 詰 は 明 治25,6

(1892,3)年 の こ ろ,西 川 貞 次 郎 が小 樽 付 近 で 創 り,試 作 品 が 明 治26(1893) 年,英 国 コ ー ウエ ル 州 で 開 催 さ れ た 漁 業 博 覧 会 に 出 品 され た 。 これ が 蟹 缶 詰 が 製 造 され た初 めで,海 外 に 出 た初 めで もあ った 。 そ の 後 中絶 して い た。

わ が 国 タ ラ バ 蟹 缶 詰 を初 め て事 業 化 した の は,小 樽 で あ る。 そ う越 崎 は書 く。 明 治 維 新 前,江 州 の 西 川 家 が 高 島 や 忍 路 漁 場 を請 け負 っ て い た が,請 制 廃 止 後,西 川 貞 二 郎 は,色 々 な事 業 を した 。 彼 は蟹 缶 詰 の先 駆 者 で,す に江 州 八 幡 町 で 缶 詰 製 造 を初 め て い た が,明 治23(1890)年 小 樽 堺 町 の西 川 支 店 裏 手 に分 工 場 を設 けて,蟹 缶 の 製 造 を 開 始 し た 。 当 時 川 崎 船 で 漁 獲 した タ ラ バ 蟹 は美 味 で,価 格 も雄 蟹1パ イ2銭5厘 で,1パ イ の 肉 は よ く1ボ ン

(16)『北 海 道 漁 業 史 』 北 海 道 水 産 部 漁 業 調 整 課 編 ・発 行 昭 和32年 ,820ペ ー ジ 。 (17)『北 海 道 に 於 け る た ら ば が に 漁 業 の 変 遷 』 財 団 法 人 北 海 道 水 産 会 昭 和32年

2ペ ー ジ 。

(13)

ド缶2つ を優 に み た せ た 。製 品 は,1ポ ン ド缶1ケ 売 価25銭 で,採 算 も とて も有 利 で あ っ た 。た だ し事 業 は成 功 す る にい た らな か った 。明 治28年 の 小 樽 大 火 で,彼 は小 樽 を引 き上 げた 。

西 川 の使 用 人 松 吉 直 兵 衛 は,後 に蟹 缶 業 を 引 き受 け,大 成 し なか っ た が, 硫 酸 紙 を蟹 缶 に利 用 し て缶 の 内 側 の変 色 を防 い だ 。(越 崎)

明 治37(1904)年 に,和 泉 庄 蔵 が 根 室 で 試 製 し,翌38年,千 島 ・国後(く な し り)島 で 開 業 し,同 時 に碓 氷 勝 三 郎 も同 島 で 従 事 した 。 明 治40年 に は米 国 へ の販 路 が 成 立 した 。明 治41年 に は市 場 が 好 況 とな り,北 海 道 の東 海 岸 は 国 後 島 を 中 心 と し,西 海 岸 は利 尻 島 鬼 脇 付 近,北 見,稚 内 方 面,樺 太 西 海 岸 に も同 業 者 が 出 た。

カ ラ フ トで も明 治39年 か ら大 戸 與 三 郎,戸 根 禰 市 らが,同42年 か ら北 千 島 で 渡 辺 藤 作 が 着 業 した 。 樺 太 で は群 小 蟹 缶 詰 業 者 が 多 く,乱 獲,競 争 の た め,取 締 り規 則 が 作 られ,北 海 道 で は 明 治43年 か ら許 可 制 に な った 。

北 見 地 方 で は,明 治37,8年 こ ろ,田 中 寅 蔵,斉 藤 熊 蔵 らが,利 尻 島 の 鬼 脇 に着 業 して か ら急激 に着 業 者 が 続 出 し,許 可 を う けた 工 場 は12あ った 。利 尻 に工 場 が10あ り,北 海 道 庁 の す す め で,そ の う ち7工 場 が 合 同 して,利 尻 缶 詰 株 式 会 社 を設 立 した が,大 正15年 解 散 した 。 北 見 利 尻 の17工 場 が 全 部 参 加 し て,昭 和3年 に北 海 道 漁 業 缶 詰 株 式 会 社 を設 立 し,こ れ が 隆 盛 を きわ

め た 。

根 室 方 面 で は,明 治37年 に和 泉 庄 蔵 が 根 室 で 蟹 缶 詰 を試 製 し,翌38年 は彼 と碓 氷 勝 三 郎 が 古 釜 市 で着 業 した。 そ の 後,着 業 者 が ふ え,他 の地 方 を 凌 駕 す る こ と に な っ た 。 だ が 統 合 問 題 が 起 き る。

太 平 洋 岸 で は,昭 和8年,埜 邑 直 次 が厚 岸 工 場 を譲 り うけ,翌 年 に は4工 場 と な り,昭 和10年 に は そ の うち3工 場 が 合 同 して 太 平 洋 合 同 缶 詰 株 式 会 社

とな っ た 。 昭 和13年 に は根 室 の14工 場 と太 平 洋 岸 の4工 場 が 合 同 して,蟹 缶 詰 合 同株 式 会 社 に な った 。同社 は太 平 洋 側 の12の 毛 蟹,花 咲 蟹 缶 詰 工 場 が 合 同 し て花 咲 蟹 合 同缶 詰 株 式 会 社 を,昭 和15年 に合 併 した 。

択 捉 島 で は,明 治43年,3工 場 が許 可 を う けた 。 大 正10年,東 海 岸 の5

(14)

工 場 が 合 同 して 北 海 缶 詰 合 資 会 社 が で き,そ の 後,小 熊 幸 一 郎 の 経 営 に な り, 東 択 捉 漁 業 株 式 会 社 に な った 。昭 和16年 に は全 合 同 とい わ れ,多 くの 工 場 が

日本 蟹 缶 詰 株 式 会 社 に 合 同 し た(18)。

蟹 缶 詰 は大 正6年 に は,北 海 道 と樺 太 で17万 函 で あ った が,蟹 工 船 の勃 興 と,カ ム チ ャ ッ カ方 面 で の 日魯 漁 業 株 式 会 社 の 進 出 で,生 産 額 が増 大 す る の で あ る。蟹 缶 詰 の生 産 額 は次 の 通 り。函 は,1ポ ン ド缶4ダ ー ス 換 算 で あ る(19)。

金 額(万 円)

大 正13年898 14年1173 15年1784 昭 和2年2140

3年1872 4年2094 5年1986

生 産 函 数 196601 260637 396331 523204 497081 538512 584252

う ち 輸 出 高(万 円) 489 1006 1252 1466 1857 1671 1448

輸 出 函 数 127125 217717 278381 381470 508912 399433 390100

蟹 缶 詰 は輸 出 の役 割 が 大 き い。 主 要 消 費 地 は ア メ リカ 合 衆 国 とイ ギ リス で あ る 。昭 和3年 に は輸 出 の う ち,ア メ リカ が56%,イ ギ リスが33%,昭 和4 年 に対 ア メ リカ が58%,イ ギ リス が30%,昭 和5年 に ア メ リカ が56%,イ

リス が26%と な っ た 。 日本 の蟹 輸 出 の競 争 相 手 は ソ連 で あ っ た 。 日本 の主 な 蟹 缶 詰 生 産 者 は次 で あ る。

露領 カム チ ャツカ半 島 日魯漁業株 式会社 株 式会社林 兼商店

資 本 金(万 円) (東 京)4000

(下 関)1000

(18)蟹 缶 詰 発 達 史 編 纂 委 員 会 編 蟹 缶 詰 発 達 史 』 霞 ケ 関 書 房 。 (19)産 業 経 済 調 査 所 『蟹 缶 罐 詰 の 話 』 昭 和6年

(15)

東和水産 株式会社 工船蟹漁業

日本工船 漁業株 式会社 昭和工船 漁業株式 会社 東工船株 式会社 株 式会社林 兼商店 樺 太

樺 太産業株 式会社 北海 道

北 海道漁業 缶詰株 式会社 株 式会社藤 野缶詰所 碓 氷合名会社 稲 垣龍(丸 三組) 加 隅良介

北 海道缶詰 合資会社 北千 島

千島漁業合 資会社 信一郎

(函館)

(東 京)600 (東 京)200 (東 京)190

(真 岡)(20)

(北 見) (根 室) (同) (同) (同) (同)

((

日本 の 製 品 はす べ て,蟹 缶 詰 生 産 業 者 全 部 の共 同販 売 機 関 と し て設 立 され た 日本 蟹 缶 詰 共 同販 売 株 式 会 社(東 京)の 手 を へ て,内 外 取 引 商 に 売 られ た。

11系

長 岡 臣 子 さ んか らの 手 紙 で,多 喜 二 の伯 父 方 の 系 図 が 知 ら され た 。

(20)ホ ル ム ス ク 。

(16)

は る

第106輯

慶 義=リ多吉郎

太郎 幸蔵

俊二

初子 宏 晋 太慶 太義

幸吉 慶三 セキ

ツ子 正俊

正 三 誠二 俊 平 俊子

俊 二 が 三 星 を継 い だ 。

12多 喜 二住 居 跡 標 識

小 林 多 喜 二 住 宅 の 跡 の記 念 碑 は,撤 去 され た ま ま,復 元 され て い な い 。 折 角,作 っ た の だ か ら,置 い て 置 くべ きで あ る。

多 喜 二 の 住 所 は,若 竹 町十 八 番 地 で あ るが,原 籍 は十 一 番 地 で あ る。

電 話 番 号 にっ い て は,昭 和3年(1928年)4月1日 現 在 で,当 時 の 「電 話 番 号 簿 」 に は こ う あ る。

小樽 郵便局

3448小 林 幸 蔵 新 富 町 五 一 パ ン製 造

(17)

3351小 林 多喜二 花 園町西 四の二五 小 林俊二 方 銀行員

幸 蔵 も俊 二 も伯 父 ・慶 義 の 息 子 た ち で あ る。 多 喜 二 は電 話 を従 兄 弟 の 所 に 置 い た こ とに な る。 当 時 人 々 は電 話 を ほ とん どひ い て い な か った 。

131930年,松 田 の 思 い 出

小 林 多 喜 二 が 上 京 した の で,そ の歓 迎 会 が 開 か れ た 。 省 線(今 のJR)新 宿 駅 か ら近 い 洋 風 喫 茶 店 「白 十 字 」,3月 末 こ ろ の午 後1時 こ ろで は な か っ た か と,松 田 は書 く。 明 るい 昼 こ ろだ っ た。 時 間 厳 守 で,満 席 とな った 。 す ぐに コー ヒー カ ッ プ と洋 菓 子 の皿 が 並 べ られ,会 が は じ ま っ た 。店 の 入 口 か らす ぐの,横 に長 くて奥 行 き は寸 づ ま り とい う感 じ の部 屋 だ っ た 。 そ の 右 端 の 席 に 江 口か ん が座 り,そ の す ぐ横 に多 喜 二 は座 った 。 江 口が 主 催 者 と して挨 拶 し,自 分 の横 の 多 喜 二 を一 同 に 紹 介 し,さ ら に一 同 の 名 な ど も言 っ た。 多 喜 二 は,紺 か す りの袷 と羽 織 と兵 古 帯 を して い た 。全 部 で20人 ほ どが参 加 した。

鹿 地 亙,森 山啓,上 野 壮 夫,松 田 解 子,そ の 他,若 い 書 き手 で あ った 。 会 は 短 い 時 間 で終 った(21)。

多 喜 二 は小 樽 か ら1人 上 京 して い た が,そ の 後,小 樽 に残 して きた 母 親 を 思 っ て,友 達 と道 を歩 い て い る 時,ふ と立 ち 止 ま っ て,「 今 頃,お っ母 さ ん は 何 を し て い るだ ろ う」 とい う人 だ った(22)。

1930年 秋9月,上 野 公 園 の 自治 会 館 で 「戦 旗 防 衛 大 演 説 会 」が 開 催 され た 。 プ ロ レ タ リア作 家 同盟 や そ の他 の 文 化 芸 術 団体 な ど共 催 し た もの ら し い。 こ の大 集 会 で の講 演 者 は,小 林 多 喜 二 を 中心 とす る指 導 的 メ ンバ ー で あ っ た 。

(21)松 田解 子 「小 林 多 喜 二 との 出 会 い と生 き方 か ら何 を 学 ん だ か 」(『民 主 文 学 』2003 年2月)135‑6ペ ー ジ 。

(22)「私 た ち働 く婦 人 と小 林 多 喜 二 」(『佐 多 稲 子 全 集 』第16巻 講i談社 昭 和55年) 31ペ ー ジ 。

(18)

関 鑑 子 の 指 揮 で,プ ロ レ タ リア音 楽 家 同 盟 の 女 性 た ち の合 唱 が な され た 。 く るめ く わ だ ち

走 る 火 花

鹿 地 亙 が 翻 訳 した 「ワ ル シ ャ ワ労 働 歌 」 を,河 野 テ ル子(鹿 地 亙 の 最 初 の 若 妻)を は じめ とす る女 性 同 盟 員 が う ち そ ろ っ て 熱 唱 した 。

この後,多 喜 二 は検 束 され た(23)。

松 田解 子 は,自 分 の書 い た 小 説 を徳 永 直 に み て も ら うた め に,当 時 の 豪 徳 寺 の宅 へ 行 っ た。徳 永 は多 喜 二 につ い て い った 。「あ の 小 林 とい う男,え らい 作 家 だ とい う こ と は無 論 だ が,同 時 に た ま ら な く愉 快 な男 で す よ,松 田 さ ん 。 じつ は,わ た しの と こ ろ で も,極 く親 し くし て い る元 の 印刷 工 そ の他 に来 て も ら っ て 一 と晩 くつ ろ い だ が る,彼,じ っ に漫 談 の う ま い 男 で ね 。来 た連 中, ひ と晩 じ ゅ う涙 が 出 る ほ ど笑 い 明 か した ん で す よ。 酒 は ち ょ っ と しか 入 らな か った の に あ の若 さで 。 あ の 小 林 とい う男,ち ょ っ と無 類 の 天 才 か知 れ な い で す よ」(24)。

1931年 の 秋 に,小 林 と宮 本 が,窪 川 鶴 次 郎,い ね 子 夫 妻 の 家 へ遊 び に きて, 文 学 論 を した(25)。

14反 帝 同 盟,太 宰 治

小 説 家 ・太 宰 治 は,昭 和6年 夏 ま で小 山 初 代 と と もに東 京 の 五 反 田1丁 に住 み,す で に共 産 党 シ ンパ に な り,連 絡 場 所 の提 供 を して い た 。 この 五 反 田 に は軍 需 工 場 が あ り,東 大 セ ツ ル メ ン トが あ り,多 喜 二 は,「 オ ル グ 」や 「

(23)松 田 解 子 「小 林 多 喜 二 との 出 会 い と生 き 方 か ら何 を学 ん だ か 」(『民 主 文 学 』2003 年2月)137ペ ー ジ。

(24)松 田 解 子 「小 林 多 喜 二 との 出 会 い と生 き 方 か ら何 を学 ん だ か 」(『民 主 文 学 』2003 年2月)138ペ ー ジ。

(25)詳 細 は,「あ る 日 の 同 志 小 林 多 喜 二 」(『佐 多 稲 子 全 集 』第16巻 講 談 社 昭 和55 年)62‑3ペ ー ジ 。

(19)

生 活 者 」 の取 材 の た め に,労 働 者 との会 合 を した 。 こ う な る と太 宰 の 住 居 と 多 喜 二 の活 動 場 所 が 非 常 に近 か っ た こ とに な る。 太 宰 は反 帝 同盟 に加 盟 し, 多 喜 二 は反 帝 同 盟 の執 行 委 員 に な った 。

反 帝 同 盟 と は,1927年 に ブ リ ュ ッセ ル で 開 か れ た 反 帝 国 主 義 ・民 族 独 立 支 持 同 盟 とい う国 際 組 織 で あ り,そ の 日本 支 部 は1929年11月7日 に結 成 さ れ た。

事 実 上,そ の 反 帝 同盟 の 書 記 長 で 共 産 党 グ ル ー プ の 責 任 者 で もあ った 谷 川 巌 は,日 本 プ ロ レ タ リア 作 家 同盟 選 出 の反 帝 同 盟 執行 委 員 の あ る人 と,会 議 で しば し ば顔 を あわ せ,ま た 定 期 的 に街 頭 で連 絡 して い た 。 以 下,谷 川 の 思 い 出 に よ る。

そ の人 は あ ま り目立 た な い が,会 議 や 連 絡 の 時 間 は じつ に正 確 で,お だ や か な な か に,ど こか シ ンの あ る不 屈 さ に,お 互 い に信 頼 し あ っ て い た 。 と こ ろが1933年2月20日 か そ の 直 後 か 記 憶 が た しか で な い が,か れ が 定 期 の連 絡 の場 所 に来 な か っ た。 不 吉 な予 感 にお そ わ れ な が ら,谷 川 は全 身 の 神 経 を 緊 張 させ て,予 備 の連 絡 場 所 へ 急 い だ が,と う と うそ こ に も姿 を 表 さ な か っ た 。 そ の 翌 朝 だ った か,新 聞 を ひ らい て み る と 「小 林 多 喜 二 築 地 署 で 急 死 」 とい う活 字 が とん び こん で きた 。 そ の 写 真 を み る と,い ま まで 会 って い た 人 に ま ぎ れ も な か っ た 。 あ れ は小 林 多 喜 二 さ ん だ った の か とい う お ど ろ き と, 貴 い 同 志 の 命 を う ば っ た敵 にた い す る怒 りが,全 身 に こみ あ げ て きた 。

多 喜 二 さ ん は,街 頭 連 絡 の と き に は,よ く和 服 を き て,黒 い 二 重 ま わ し に, ソ フ ト帽 をか ぶ っ て いた 。い つ だ った か,小 が らな か らだ に似 あ わ な い ス テ ッ キ を もっ て い た こ とが あ っ た 。 「イ ザ とい う とき に は,こ れ で,… …」とい っ に な く冗 談 め い て ス テ ッキ を し ごい て み せ た り した 。 「か え っ て 目立 つ よ」な ど注 意 した こ と を覚 え て い る。 た た か い の 中 で の 短 い つ き あ い だ っ た た が, 小 林 多 喜 二 と さ と られ る よ う な話 をつ い ぞ した こ とが な か った 。 そ ん な素 振

り も感 じ られ な か った 。 誠 実 そ の もの … … で した(26)。

(26)谷 川 巌 「多 喜 二 さ ん と反 帝 同 盟 」(『民 主 文 学 』 号 不 明84‑5ペ ー ジ)

(20)

151932年

宮 本 百 合 子 は 次 の 事 を書 い て い る 。 これ は小 説 で は な い の で 利 用 で き る。

1932年4月3日 の晩,小 林 多 喜 二 が 宮 本 夫 妻(=宮 本 顕 治 と百 合 子)の 家 に来 た 。 そ し て,中 野 重 治 が 戸 塚 署 へ連 行 さ れ た こ とを話 した 。 そ れ を作 家 同 盟 の事 務 所 で 多 喜 二 は 聞 い て き た 。 宮 本 百 合 子 は 「原 泉 子 は そ れ を知 っ て い る だ ろ うか?」 とき い た 。 中 野 の妻 ・原 は左 翼 劇 場 の女 優 と して働 い て い る。 「さ あ,ど うだ ろ う,ま だ知 ら な い ん で な い か」。 小 林 が 特 徴 あ る 目つ き と言 葉 つ きで 云 っ た 。 「電 話 を か けて や る とい い な 。」 百 合 子 は原 に電 話 をか け て戻 っ た 。 小 林 多 喜 二 は元 気 に しゃ べ っ て十 時 す ぎ帰 りが け に,玄 関 の格 子 の外 へ 立 っ た ま ま,内 か ら彼 を見 送 って い る宮 本 夫 妻 に 向 い,「 ど うだ ね, こ ん な風 は」 と,ち ょっ と肱 を張 る よ う なか っ こ う を して 見 せ た 。 彼 は中 折 帽 子 を か ぶ り,小 柄 な 着 流 しで風 呂敷 包 を下 げ て い る。宮 本 顕 治 が,「 なか な か い い よ。 非 常 に村 役 場 の書 記 め い て い て い い よ」と云 った 。 「つ ま り小 樽 む き とい う こ とだ ね,… … じ ゃ,失 敬 」。夜 気 に あ ふ れ る笑 声 にむ か っ て格 子 を し め,小 林 は下 駄 の 音 を敷 石 に ひ び か せ て 去 っ た(27)。

1932年,作 家 同盟 大 会 が 築 地 小 劇 場 で行 な わ れ た 。 この 時,多 喜 二 は ネ ク タ イ を結 ん だ 普 通 の 勤 め人 の 姿 だ っ た 。 こ の大 会 で,多 喜 二 は プ ロ レ タ リア 作 家 同 盟 の 書 記 長 とし て舞 台 で 報 告 した 。 そ の後 も,議 長 団 か な に か の 大 事 の 役 で壇 上 に い た ら し い。壇 上 か らす ぐの 臨 官(28)席に築 地 署 の 制 服 制 帽 の特 高 警 部 が 長 剣 片 手 に突 い て腰 掛 け て い た 。 多 喜 二 は声 高 く報 告 した り,討 論

(27)宮 本 百 合 子 「一 九 三 二 年 の 春 」(『宮 本 百 合 子 選 集 』 第3巻 ,新 日本 出 版 社1968 年)15‑16ペ ー ジ。

(28)臨 検 は ,特 定 の場 所 に立 ち入 っ て検 査 す る こ と。臨監 は,警 察官 が集 会 で席 を も う け て 監 視 す る こ と。 特 高 だ け で な く全 警 察 が や っ た 。

(21)

した 。 そ の 大 会 は 全 体 と して 活 気 に満 ち て い た。 多 喜 二 の 「報 告 中」 に も, い か に た び た び参 加 者 は,多 喜 二 の お の ず か らな るユ ー モ ア に さ そ わ れ て ふ

きだ し笑 い を した り,か と思 う と,シ ー ン と して 聞 き耳 を立 て て 熱 心 に 聞 き と った 。

中 条 百 合 子 も一 般 席 で 参 加 し て い た 。彼 女 は1930年 冬,湯 浅 芳 子 と と も に ソ連 か ら帰 朝 し て い た 。 同盟 に進 ん で参 加 した。 和 服 で あ っ た 。 壇 上 か らの 報 告 や 提 案 へ,て き ぱ き と補 足 意 見 な ど を出 した 。 一 方,自 由 労 働 者 出 身 の 堀 田 昇 一 とい う作 家 が,非 常 に怒 りっ ぽ く,感 情 的 な質 問 を壇 上 に む か って 繰 り返 した 。 会 の活 気 が つ の るた び に,臨 官 席 か ら 「弁 士 注 意 」 の威 嚇 の 声 が 発 せ られ た 。

大 会 が 終 る と,ど っ と場 外 に とび 出 した 参 加 者 は,固 く腕 を組 み。 デ モ さ な が らの列 とな っ て 築 地 街 頭 を う ね りだ した(29)。

松 田 解 子,窪 川 い ね 子 は,小 林 の馬 橋 の 家 を知 っ て い た 。 い ね 子 は,昭 和 7年3月 以 前,小 林 を尋 ね て 家 へ きた 。蔵 原 惟 廓 は書 く。 「小 林 さ ん と は,二 三 度,そ れ も惟 人 の 関 係 で お逢 ひ し た だ けで あ るが,大 変 愉 快 な,快 活 な, 天 真 らん ま ん な人 と思 った 。」

1932年 の 夏 か秋,作 家 同 盟 横 浜 支 部 か ら,多 喜 二 を 中心 とす る文 化 講 演 会 を 開 きた い,女 性 講 師 を含 め て も らい た い とい う申 し込 み が あ った 。 江 口た ち が 大 型 車 に の っ て 出 発 した 。 歌 舞 伎 座 の 真 裏 に あ る堀 割 り沿 い の地 点 で, 松 田 解 子 はか れ ら と落 ち合 っ て,そ の 自動 車 に乗 っ た 。多 喜 二 も乗 って い た 。 江 口 と大 宅 壮 一一が 後 部 の 席 に い た 。 赤 ん坊 を お ぶ った 松 田 は多 喜 二 の 後 に

(29)松 田 解 子 「小 林 多 喜 二 と の 出 会 い と生 き 方 か ら何 を学 ん だ か 」(『民 主 文 学 』2003 年2月)137‑8ペ ー ジ 。

(3。)蔵原 惟 廓 「民 衆 は 真 の 代 表 者 を 一 人 失 く し た 」(『大 衆 の 友 』号 外 昭 和8年3月 10日)4ペ ー ジ 。

(22)

座 っ た 。 大 宅 が 自分 の左 前 に座 っ て い る多 喜 二 に,前 以 て の 話 題 の続 き を し か け た 。

,さ,い ま の例 の 『工 場 細 胞 』の 女 工 の お 君 の こ とだ け どさ,あ の,川 っ ぶ ち で,同 志 で も あれ ば恋 人 で もあ る男 に,ま ず 自分 が,か りっ とか じ った リン ゴ を,そ の ま ま男 に 向 けて,ど う?と 差 し出 す ね。 あ ん な と こ ろ な ん か,ず い ぶ ん読 ませ る じゃ な い か 。 そ こで,お れ 改 め て き きた い ん だ が,例 の 『瀧 子 其 他 』 の瀧 子 と,君 自身 の馴 れ 染 め は ど うだ っ た ん だ 」

「ふ む 」

憤 然 そ の もの の表 情 で 多 喜 二 は大 宅 をふ りむ い て,「そ うい う こ と は読 んだ 本 人 が 本 人 の 想 像 力 や ら推 理 力,む し ろ作 品 の鑑 賞 力 そ の も の で慮 るべ き こ とで,何 も作 者 に,… …」 とい う論 理 で ち ょ うち ょ うは っ し対 して い た 。

横 浜 の会 場 に つ い た の は 日没 ころ で,横 浜 市 郊 外 の さ び し い く らい の 活 動 写 真 館 で あ った 。 松 田 は次 男 をお ぶ っ た ま ま壇 上 で 「前 座 」 をつ とめ た(31)。

16一 労 働 者 の 記 事

大 衆 の友 』昭 和8年3月10日 ,3ペ ー ジ に,「 一 労 働 者 」の筆 と して 「 ぬ 覚 悟 で小 説 を書 い た 同 志 小 林 多 喜 二 を憶 う」 とい う記 事 が あ る 。 これ は 手 塚 英 孝 だ ろ う と私 は推 測 す る。 そ れ に よ る と,略,こ うだ 。(文 中,た びた び 同 志 と出 て く るが,煩 雑 な た め に省 略 す る。)

私 が 彼 に初 め て会 った の は,一 年 ば か り前 で あ る。 実 を言 う と,私 は この 勝 れ た人 物 を想 像 して 何 か堂 々 と した紳 士(?)を 思 い浮 べ て い た 。 会 っ て み る と彼 は丸 切 り予 想 と違 っ た 小 男 だ った 。 私 は初 め は人 違 い で は な い か と 思 っ た が,直 ぐそ の 事 を話 して 大 笑 い を した 。

(31)松 田 解 子 「小 林 多 喜 二 と の 出 会 い と生 き 方 か ら何 を学 ん だ か 」(『民 主 文 学 』2003 年2月)139‑40ペ ー ジ。

(23)

彼 は非 常 に親 切 で寛 大 だ っ た が,仕 事 に は実 に厳 格 な,忠 実 な 同志 だ っ た。

彼 は 自 ら先 頭 に立 ち,範 を示 して,ど ん な 困 難 に も,い さ さ か も ひ る む こ と な く絶 え ず 前 進 して,同 志 を は げ ま し,げ きれ い して い っ た指 導 者 で あ る。

小 林 は蔵 原 の 最 も よ き後 継 者 の 一 人 で あ た 。 彼 ほ ど蔵 原 か ら愛 され,彼 ど蔵 原 を愛 して い た 人 は な い … … 。 彼 は絶 えず,蔵 原 の 偉 業 を発 展 させ な け れ ぼ な らな い と言 っ て い た が,彼 は実 践 を以 て りっ ぱ に果 た した 。 殊 に文 化 団 体 内 の 日和 見 主 義 との 闘 争 に 最 も果 敢 に 断 固 と して 先 頭 に立 った 。

小 林 ほ ど努 力 家 は稀 に思 わ れ る。 彼 は寸 時 の 暇 を惜 し ん で働 い た 。 彼 は非 合 法 に な っ て か ら,2つ の 勝 れ た作 が あ る 。 一 つ は,『 改 造 』に発 表 さ れ た 『地 区 の 人 々 』,一 つ は未 だ 発 表 さ れ て い な い 。 私 は あ れ ほ ど忙 しい 彼 が 何 時 の 問 に小 説 を書 き上 げ る の か 解 らな か った 。 彼 は 自分 の作 品 に対 して 非 常 に良 心 的 な 作 家 だ っ た 。 『地 区 の人 々 』は旧 作 に較 べ て 数 段 の 進 歩 を示 し て い る も の で あ るが,小 林 に は意 に満 た ぬ もの が あ っ た ら しい 。 時 々 彼 は,

そ の事 を 口 に して い た が,最 後 の 時 も忘 れ る こ とが 出 来 な か っ た ら しい。 彼 は常 に 「死 ぬ覚 悟 で 書 く者 は な い か 」 と言 っ て い た 。

17志 賀 直 哉

志 賀 直 哉 は 多 喜 二 が 勾 留 中 に,ど うや って 差 入 れ をす れ ば よい か を,『改 造 』 の編 集 長 に尋 ね て い る働 。 多 喜 二 が 虐 殺 され た 日 は,志 賀 の誕 生 日だ っ た 。 彼 は 日記 で,多 喜 二 事 件 へ の有 名 な 感 想 を書 い て い る。

18病 院 へ

作 家 同 盟 の大 宅 壮 一,貴 司 山治 が,真 っ先 に多 喜 二 の 死 を知 り,江 口漢, プvッ トの佐 々 木,親 戚 の小 林,母 な どが,前 田病 院 へ 行 き,21日 午 後9時

(32)沢 地 久 枝 講 演 ,小 樽,2002,2.20

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40分,多 喜 二 の遺 体 を引 き取 った 。 虐 殺 の 下 手 人 ・築 地 署 特 高 主 任 ・水 谷 は, この 時 親 戚 の 人 に言 っ た 。「格 闘 し て道 路 に倒 れ た の で,顔 に幾 分 ス リ傷 が あ る。捕 縄 をか け られ て来 た の で,首 と両 手 に ナ ハ の跡 が つ い て い る。死 班(紫 の ア ザ)が 幾 分 で て い るが 心 臓 マ ヒ とは 関係 な い か ら心 配 な く」 そ し て,な お,「イ ン テ リ とい う もの は興 奮 しや す い か ら興 奮 か ら心 臓 マ ヒ を起 こす 場 合 が あ る。 小 林 の 場 合 もそ れ で 捕 ま る時 に顔 色 が 変 わ っ た 。」 な ど。

小 林 は街 頭 で 格 闘 し倒 れ た とい うが,着 て い た イ ンバ ネ ス に は泥 一 つ つ い て い ず,着 衣 も裂 け て い なか っ た 。 遺 骸 の左 右 大 腿 部 は無 惨 な暗 紫 居 う に皮 下 出血 し て腫 れ 上 が り,急 所 で あ る左 右 の コメ カ ミ,後 頭 部 に傷 が あ る。

小 林 の 母 は顔 を見 な けれ ぼ信 じ る こ とが 出来 ぬ と,屍 を見 る まで3時 間一 言 も 口 を き か な か っ た。

19自 宅 で

1933年2月21日 。窪 川 い ね 子 ら6人 は,前 田 病 院 に 電 話 を か け る と,死 体 は 自宅 へ 帰 っ た と言 わ れ た 。 午 後11時,彼 女 らは小 林 の家 へ 急 い だ。

玄 関 を あ が る と,左 手 の 八 畳 の部 屋 が も との 小 林 の部 屋 で あ る。 江 口 か ん が 唐 紙 を開 け て う なず い た 。 床 の 間 の 前 に,布 団 の上 に横 た え られ た 姿,蒼

ざ め,冷 た く こ は ぼ っ て い る そ の顔 。 彼 女 ら は,そ ぼ へ よ った 。 安 田 博 士 が 丁 度 小 林 の衣 類 を脱 が せ て い る と こ ろだ っ た 。 人 々 の 目 は一 斉 に,そ の無 残 に皮 下 出 血 を した 大 腿 部 へ そ そが れ た 。み ん な 一 様 に あ あ!と 声 を あ げ た 。 蒼 白 くこ は ぼ っ た 両 脚 の太 も もは,す っか り暗 紫 色 に変 じて い る。

お つ母 さ ん が,あ あ ツ,お お ツ と う な る よ う に声 を あ げ,涙 を流 した ま ま 小 林 の シ ャ ツ を脱 が せ て い た 。中 条 は そ れ を手 伝 い な が ら,『お つ 母 さ ん,気

を丈 夫 に持 っ て い らっ し ゃい ね 』

『え え,大 丈 夫 で す 』お つ 母 さ ん は 握 り しめ て い るハ ンカ チ で,涙 を両 方 へ こす る よ うに拭 い て,は は つ,お お つ と声 を上 げた 。 『心臓 が 悪 い っ て,ど こ 心 臓 が わ る い 。 う ち の兄 ち ゃ は,ど こ も心 臓 わ る くね え で す 。 心 臓 が わ る け

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