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憲法解釈における二つのアプローチ( 2)

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(1)

原 意主義 の展 開 を中心 に

弘 貴

は じめ に

グレイ教授の解釈 的審査 と非解釈的審査

ブ レス ト教授の原意主義 と非原意主義 (以上本誌

4 7

1

号) ボーク元判事の原意主義 (以上本号)

ペ リー教授の原意主義 むすび

ボ ー ク元判 事の原意 主義

原意主義の主唱者 と目されているのは,ボーク元判事である。既に述べたよ うに,ボーク元判事 は, レーガン元大統領 によって連邦最高裁判事 に指名 され たが,政治的見解が保守的であること,またその立場が原意主義,さらには司 法消極主義であることが主な理由となって,上院における承認が拒否 されたの であった。 ボーク元判事 は,イェ‑ル ・ロー ・スクールの教授 時代 に, "

Ne ut r al Pr i nc i pl e saf l dSo meFi r s tAme ndme ntPy ob l e ms"

において,裁判官は,憲法 制定者達の意図に従 わなければならないことを主張 していた1)。その後,承認

1)Bo r k, Ne ut 7 1 alPr i n

c

i pl e sa ndSo meFi r s t Ame ndme ntPr o b l e ms ,4 7

IND.L.J.

1( 1 9 7 1 ).

〔 20

7

(2)

拒否問題 を経て, 自己の立場 を擁護する日的をも込めて,原意主義の主張 を強 力 に展 開 したのが,

1 9 9 0

年 出版 の THE TEMPTING OF AMERICA :THE PoLIT‑

ICALSEDUCTION OFTHELAW である。それでは,ボーク元判事の見解 を,アメ リカにおける原意主義の到達点 といえるこの書 に即 して,辿 ってみることにし よう

ボーク元判事 によると,憲法問題 を扱 う裁判所 の中心課題 は,「マデイソニ アン ・ジレンマ

( Ma di s o ni a nd i l e mma )

を解決することにある。すなわち, アメリカ合衆国はマデイソニアン ・システムという,相反す る二つの原理か ら 構成 されてお り, しか もこの二つは常に調整 され続けなければならない。第‑

の原理は,自己統治

( s e l トgo ve r nme nt )

であ り,生活の広範な領域 において, 多数者が,ただ多数者であることのみに基づいて,統治する資格があるという ことである。 もう一つの原理 は,第一の原理が存在するにもかかわ らず,多数 者が少数者に強制 してはならないい くつかのこと,すなわち,個人がマジ ョリ ティー ・ルールか ら解放 されていなければならない生活領域が存在するという ことである。この民主的支配 と個人の自由が妥当す るそれぞれの領域の決定を, 多数者 にも少数者にも一任で きない ところにジレンマが存在する。とい うのは, どちらかにその解決 を委ねると,多数者 による専制

( t yr a nny)

か,少数者に よる専制 に陥る危険が存在す るか らである ボーク元判事 によると,合衆国憲 法は, この間題 に対 して三つの方法 によって対処 している。すなわち,

連邦政府の権能を制限するということ,大統領,上院議員,および下院議員が, それぞれ異なる時期 に,異 なる有権者によって選挙 されるということ,さらに は権利章典 を設けるということである。 これ らのうちの最後の方法が,少数者 が保持すべ き自由を直接 に確保する,唯一の解決策である。合衆国人民は,多 数者の権能 と少数者の 自由 という相容れない原理 を画定する役割 を,非政治的 機関である連邦裁判所 に,最終的には連邦最高裁判所 に委ねているのである。

この調整作業は,一皮だけで完成 されるものではない。多数者の支配する自由 と,個人の支配 されない自由 とは,永久に緊張関係 に立たされるのである。 こ のジレンマを解決することは,あ らゆる事件 において,その都度達成 されなけ

(3)

ればならないのであ り,正 しい均衡の追求は果てることのない作業 として続 く のである。連邦最高裁判所が この役割を果すために,憲法理論が必要 とされる。

なぜ ならば, この問題に対する解答が存在 しないな らば,裁判所の判決が受け 入れ可能な範囲内の ものか どうか知ることがで きず, また理性的に話 し合 うこ ともで きないか らである。従って,ある程度 「正 しい」 と呼ぶことので きる, 多数者 と個人の領域 を画定する,憲法裁判の理論が必要 とされるのである 一の正解が存在 しない として も,少な くともある程度 「正 しいと呼び得 るも のが存在 していなければな らない。その際考慮 に値す る理論 は,裁判所の結論 について,それが受け入れ可能な範囲内の ものか どうかについて述べ, またそ れによって,裁判官の権能 を限定するものでなければならない。大統領,連邦 議会,州政府および地方 自治体の 自由を制限す ることと同様 に,裁判所の権能 を適切 な範囲内に限定することも重要なのである。それが とりわけ重要なのは, 裁判所 は,公衆に責任 を負 う機関ではないか らである。従 って, この理論 は,

どこに裁判官の正当な権能の限界が存在するかについて指 し示す ものでなけれ ばな らない。 このように,ボーク元判事 は述べ るのである2)

原意

( o r i g i na lund e r s t a nd i ng )

か らのアプローチのみが,憲法裁判の理論 として,その民主的正当性 を保持するために必要な基準 に適い,アメリカの共 和政体の構想 に一致する, とボーク元判事は述べ る。 この理論は,かつては支 配的であったが,今 日,意法学者の間で非常 に人気のない ものであ り,時代遅 れであるとか,反動的であるとか,さらには主流か ら外れていると見倣 されて いる3)0

それでは,原意か らのアプローチ とは, どの ようなものであろうか。ボーク 元判事 は,憲法 は法であることの確認か ら始める。「

( l a w)

と呼ぶ場合, それは定め られた手続 によるのでなければ,通常変 えることので きないルール を意味 している。 このことは,ルールは,われわれ 自身の願望か ら独立 した意 味を持 っていることを,その前提 としている。この ように考えるのでなければ,

2) Se e

R.BoRK,T HE T EMPTINGOF A MERICA

1 3 3 ‑ 41( 1 9 9 0 )

3) Se ei d. a t 1 4 3.

(4)

ルールを変更する手続 に同意 していることが無意味 となるか らである われわ れの同意 した ところに従って,制定法

( s t a t ut e )

は修正や廃止 によって,塞 法は第

5

条 に定め られた手続 に則 った修正によって,変更 されるのである。一 定の変更手続が存在することは,制定法 も憲法 も,裁判官 によって変更 される べ きではないことを,必然的に意味す るのである。それでは,裁判官によって 変更 されるべ きではないルール とは何か。それは,法の制定時に理解 された と ころの意味である 憲法 に別 して言えば,憲法の批准者達が理解 していた とこ ろの ものであ り,何 を制定 しようとしているのか批准者達が理解 していたとこ ろの ものは,すなわち当時の公衆が意味 していたところの もの と捉 えることが で きる しか も, ここで問題 となるのは,主観的意図

( s ub j e c t i vei nt e nt i o n)

ではない。法の制定者達が言語 を使用 し,その結果生 まれる法は, これ らの言 語が通常意味する ところの ものである 従 って,「秘密の留保や意図には価値 がない。考慮 に入れるべ きは,合衆国憲法において使用 されている言語が,当 時いかに理解 されていたかであ り,それがすべてである 従 って, もともとの 理解 とは,使用 されている言語, さらには憲法制定会議における討論,公衆の 会話,新聞記事,当時使用 されていた辞書等々の第二次的資料 に表明されてい るところの ものである。」 4)とりわけ,最高裁判所が憲法 を書 き変 えてな らな いのは,裁判官による制定法や上級裁判所の意見の書 き変えであれば,立法府 や上級裁判所 によって矯正することが しば しば可能であるのに対 して,書 き変 えられた憲法を立法府が矯正することは不可能だか らであるこの ように,憲 法が法であるならば,それが意味するものは,制定者達が意図 しようとしたと ころの ものであ り, これは,立法者や行政官 と同様,裁判官をも拘束するので ある5)

ボーク元判事は,連邦最高裁がむき出 しの権力機関 として存在すべ きでない

4)〟. a t 1 4 4.

5) Se ei d. a t 1 43 1 45.

(5)

な らば,ウェクス ラー教授が捷唱 した,中立原理

( ne ut r a lp r i nc i pl e s )

が注 目 されなければな らか 、とい う6)。 周知の ように,ウェクス ラー教授 は,ブラウ ン対教育委貞会事件判決7)に疑問を里 し,次のように述べ たのであった。す な わち,裁判所 は,中立的に適用 しようとす る原理の範囲内にあると考 えられる, あ らゆる事件 に適用 される,原理 を選択 しなければならない。そ してこのこと は,政治的判断に対す る防御手段 なのである, と ただ し,ボーク元判事は, 法原理 を中立的に適用す ることだけによっては,最高裁判所がむ き出 しの権力 機関であることを回避で きない とい う 最高裁判所 は,適用 される諸原理 を引 き出 し,限定する方法において もまた,中立的であっては じめて,政治的機 関 とい うよ り,法的機関 としてその役割 を果す ことがで きるのである。 もし中立 的に適用 される原理 を,最高裁判所が 自由に選択で きるな らば, まるで政治的 機関がするように, 自由に立法することを最高裁判所 に許す ことになるか らで ある また,最高裁判所が原理の範囲を自由に決定することがで きるならば, 原理の及び得 る範囲を振作することによって,最高裁判所 の欲す る結論 を引 き 出す道が開かれることになる 原意の哲学は, これ ら三つの場面すべてにおい て,す なわち,原理の導出

( d e r i va t i o n)

,限定

( d e 丘n i t i o n)

,適用

( a pp l i c a t i o n)

において,中立性 を確保す ることが要求 されるのであが )0

それでは,これ ら三場面における中立原理 を,順次,検討 してい くことに し よう

まず,原理の導出における中立性である この点 は,裁判官が合衆国憲法の 原意 に原理 を兄い出す ことによって解決 される。裁判官は,多数者の 自由 と少 数者の 自由が,それぞれ妥当す る領域 について,批准者達の決定 を受け入れる のである。マデイソニア ン ・ジレンマは,建 国の父祖達が解決 した方法 によっ て解決 されるのであ り,裁判官 はこれ を受 け入れるのである 裁判官は,彼 自 身の価値判断を必要 としない し, また価値判断をしてはな らないのである9)0

6) We c h s l e r ,To u ) a r dNe u i 7 1 a lPr i nc i z ・ l e s o fCo n s t i t ut i o n a lLa

u

7 , 7 3 HA R V . L. RE V . 1( 1 9 5 9 ).

7) Br o wn v. Bo a r do fEd u c . , 3 4 7U. S. 4 8 3( 1 9 5 4 ).

8) S e e R. Bo R K

,S

u P7 1 a n o t e 2 a t 1 4 5 ‑ 4 6.

9)S e ei d. a t 1 4 6 ‑ 4 7.

(6)

次 に重要 なのは,憲法か ら導出された原理の中立的限定である 合衆国憲法 は,その諸原理 を極めて一般的に述べているにす ぎないのであ り,字義通 り包 括的に受け止めることはで きない。修正第 1条は,「言論の 自由を制限す る・‑‑

いかなる法律 をも,連邦議会は制定 してはな らない」 と述べているが,連邦議 会はある種の言論 を不法 としてはならない,あるいは,一定の時に,一定の場 所 において,一定の状況の下で,言論 を違法 にすることがで きない, と考える 者はいないのである それでは,裁判官は, どのようにして原理 を限定するの であろうか。ボーク元判事 は,原意の哲学を支持する裁判官の役鞠は,抽象イヒ の レベルを選択することにあるのではないという。そ うではな く,テキス トの 意味を発見することにあるとい う多 くの法典の諸条項 においでは,それ らの 意味の一部である,一般化の レベルは,既 に明 らかにされている。厄介なのは, 包括的に述べ られている権利章典の諸条項の扱いであ り,以下,ボーク元判事

は, この間題に絞 って検討 を加 えている。裁判官は, このような諸条項 を扱 う において,テキス トと歴史的証拠 によって正当 とされる,一般化の程度 におい て原理 を語 るべ きなのである 平等保護条項 は,解放 された奴隷 を保護するた めに採択 された ものであるが,その言語の使 われ方は,一般的であ り,あ らゆ る人民 に適用 されている。平等保護条項において,黒人は白人 よりも法律 によっ て不利 に扱われてはならないことを批准者達は意図 し,黒人に対 して有利な差 別か ら白人が守 られることを意図 していたかは不明であるとしよう これ らの ことが,証拠 によって証明 されるならば,裁判官は黒人のみを差別か ら保護す べ きなのであって,アラン ・バ ッキの主張 には根拠が ない ことになる10)。 な ぜ ならば,黒人の平等の上 に くる上位の一般化の レベル,すなわち人種の平等 は,憲法上の原理であることが証明されていないのであ り,黒人に有利 な,今 日の立法府による多 くの決定を覆す根拠 とはな り得 ないか らである。合衆国憲 法が沈黙 している場合 には,民主的選択が,裁判官 によって受け入れ られなけ ればな らない。 これに対 して,人種の平等が原理である, と批准者達が理解 し

1 0 ) Re ge nt so ft heUni ve r s i t yo fCa l i f o r ni av. Ba kke , 4 3 8U. S.2 6 5( 1 9 7 8 ).

(7)

ていた とするな らば,バ ッキの主張 には根拠が存在す ることになる この条項 が一般的 な言語表現 を採用 していることに よって,性

( gender )

に関わる事 件 は,制定法の区別が合理的か どうかのテス トの対象 とな り続 ている しか し

なが ら, これは,批准者達の意図か らは,支持 され得 ないことである 平等保 護 において,合衆国憲法の文言,構造,お よび歴史についての正 しい解釈 によっ て支持 される, レベルを発見することによって, レベルの一般化の問題 を回避 す ることがで きるのである。 この ことは,歴史的証拠が存在す る,あ らゆる憲 法条項 に広 く適用可能な解決策である, とボーク元判事 は述べ る11)0

中立原理の第三の場面である,原理の中立的ない しは非政治的適用 について, ボーク元判事 は,次の ように述べ る。す なわち,適用 されるべ き原理 を導出 し, 限定 したな らば,裁判官は,それを一貫 して,彼 の眼前 にいる当事者 に対す る 同情,あるいは同情の欠如 とは関係 なしに適用 しなければな らない。 この こと は,裁判官が導出 し,限定 した原理 を,決 して変 えてはな らないことを意味す る ものではない。新 しい事件 によって新 しいパ ター ンが提供 されるのであ り, 原理は しば しば言い換 えられ,再定義 されるのである この ことは悪いことで はな く,大 い に望 ま しい ことなのであ る しか し,裁判官 は,彼 自身の推論

( r ea s oni ng)

と,字義上 の定式化

( ver balf or mul at i ons )

を明 らか に しなけ ればな らない し,合衆国憲法の外 に存在す る理由に基づいて,望 まれた結論 に 到達するために,装飾 を施 してはな らないのである ボーク元判事 は,原理が 非中立的に適用 された例 として

,1948

年の シェ リ対 クレーマ‑事件最高裁判決 を挙 げる12)。 シェ リ事件判決 に対す る批判 は,既述の

1971

年論文 においてな されていたのであったが,最高裁判事承認のための公聴会 において取上げ られ, い く人かの上院議員 によって激 しく非難 されたのであった13)。それでは,シェ

リ事件判決の どこが問題であったのであろうか。 シェ リ事件 とは,所有者は白 人 に限る との制 限約款

( r e s t r i ct i vec ovenant s )

に反 して,白人数人が黒人達

l l ) Se e R. Bo R K

,S

u Pr ano t e 2 a t 1 47 ‑51.

1 2 ) She l l e yv.Kr a e me r ,3 3 4 U. S. 1( 1 9 48 ).

1 3 ) Se e R. Bo R K , S u Pr a no t e 2 a t 1 5 2.

(8)

に土地 を売 ったところ,他の土地所有者達が約款の執行 を求めて州裁判所 に提 訴 し,州裁判所 は, コモ ン ・ロー上のルールを適用 し,黒人が土地 を所有する ことを禁 じたのであった。連邦最高裁判所 にとっての問題は,合衆国憲法は, 州の行為

( s t a t ea c t i o n)

のみを制約 し,私人の行為 は制約 しないことにあった。

人種 による制限条項が, もし州の立法府 によって定め られた ものであったなら ば,疑い もな く,修正第

1 4

条の平等保護条項違反 となる。 しか し,州裁判所は 黒人差別の原因を作 っているのではな く,私人問の合意を執行 しているにす ぎ ないのである。連邦最高裁 は,州裁判所の判決がステー ト・アクシ ョンを構成

し,従 って,合衆国憲法の諸要求 に服すべ きであるとしたのであった。ボーク 元判事 は,このシェリ事件判決において採用 されたステー ト・アクションの理 論 を,中立的な形 において適用す ることは不可能であるとい う なぜ ならば, 州裁判所が訴訟を却下 しょうが,本案の判断に進 もうが, シェリ判決に従 うな らば,いかなる判決 もステー ト・アクシ ョンであることにな り,憲法判断に服 す ことになるか らである。 このことが意味することは,私人の行為 はすべてス テー ト・アクションとな り得 るということであ り,その結果 として,何が私人 に許 され,あるいは許されないかの全般 にわたって,連邦最高裁がルールを作 ることになる これは,合衆国憲法の甚だ しい曲解であるに止 まらず,連邦最 高裁判所 を最高の立法府 にする ものであ り,シェリ事件判決は,原理の中立的 適用 とはいえない,政治的判決である,とボーク元判事 は述べ るのである14)0 ボーク元判事は, これ ら三場面 における中立原理を司法が守ることは,アメ リカの権力分立原理 にとって必要不可欠 なことであるとい う なぜ ならば,逮 邦最高裁が合衆国憲法を引 き合いに出す ことは,そこで最終であることを意味 するのであ り,通常の抑制 と均衡 に服 さない機関 として振 る舞 うことを許す こ

とになるか らである。従 って,連邦最高裁が憲法の意図に忠実であろうとする ならば,それ 自体 を抑制 しなければな らない。そ して,これまで述べて きたよ うに,司法の役割を限定す ることは,アメリカの共和政体 における,裁判所の

1 4 ) Se ei d. a t 1 5 1 ‑ 5 3.

(9)

地位 についての原意 に一致す るのである。建 国の父祖達が意図 した政府 の構造 として,裁判所 に政治的役割 を与 えることは,ほぼ確実 と言 っていい程,考 え られ て い な かっ た の で あ る ボー ク元 判 事 は, そ の 証 拠 と して,破 棄 院

( counci lofRevi s i on)

に立法 に対 しての拒否権 を与 え,その中 に連邦 の判事 を加 える構想が拒否 された こと, また, 『ザ ・フェデ ラ リス ト』 の中のハ ミル トンによって もの された第

78

15)を挙 げてい る。建 国の父祖達が司法 の役割 を どの ように考 えていたか,た とえ証拠 によって明 らかにされ得 ない として も, 合衆 国憲法 の文面上明 らかな,統治の構造か ら,十分推測 で きる, とボーク元 判事 は述べ る16)0

ボーク元判事 は,原意主義 に対す る異議 の うち,主要 な もの を取上 げ,反論 している。 これ らを検討す ることは,ボーク元判事 の原意主義 をよ り深 く理解 す る上での助 け となることであろう。

まず,原意 を知 ることは不可能である, とい う主張である

。2 0

世紀 の終 りに 生 きてい るわれわれは

, 18

世紀 の終 り、に合衆 国憲法 を制定 した者達が何 を意図 したのか,知 ることはで きない との主張である ボーク元判事 は, この ような 主張 をす る論者 は17),誤解 を してい る とい う す なわち,原意主義者 は,司 法審査 を正 当化 す るために,憲法制定者達 の意 図

( i nt ent i ons )

を適用す る と の誤解 である。確 かに,法 を制定 した者の特定の意図が何 であったのか,裁判 官が知 ることを要求 され るな らば,あ らゆる法の存続 を崩す結果 となるであろ なぜ な らば,裁判官 は,制定法,契約,あるいは他 の裁判官の意図 を詳細 に知 ることはで きないか らである 原意主義者が主張 しているのは,次の こと である

1 5 )

司法部は,その職能の性格上,憲法の認める政治的権利にとって最 も危険の少な いものであることは,だれの目にも明らかであろう というのは,司法部は,そう した権利を妨害した り侵害した りする力をもっことの最も少ない部門であるからで ある。」

A.

ハ ミ)I,トン,J.ジェィ

,J .

マデイソン (斎藤星 ・武則忠見訳)ザ ・フェ デラリス ト

( 1 991

年)

377

頁。

1 6 ) Se e R. Bo R K

,S

u P7 1 a no t e2a t1 5 3 ‑5 5.

17)そのような例として,ボーク元判事は,プレナン元最高裁判事を挙げている。

Se e

id.

a t1 6 2.

(10)

要するに,原意 を支持する裁判官が欲 していることのすべては,合衆国憲 法の文言,構造,そ して史実が,彼 に,結論ではな く,大前提 を捷供 して く れることである。 この大前提 とは,批准者達が,それに反する立法あるいは 行政の行為か ら保護することを欲 した原理,あるいは明白に規定 された価値 である。裁判官は,そこで,この原理あるいは価値が,彼の眼前 にある事件 において,異議を申し立て られた制定法あるいは行為 によって脅かされてい るか どうか,検証 しなければならない。 この問いに対する解答が裁判官の小 前提であ り,そ して結論 に到達するのである。」 18)

なお,憲法の歴史的意味を追求す る考 え方に対 して, さらにラディカルな異論 も存在 しているす なわち,建国の父祖達の意図を詳細 に知ることがで きない だけではな く,彼 らが意図 した諸原理さえも理解することがで きない との主張 である。 というのは,彼 らは全 く異なった社会 に生 きていたか らである。ボー ク元判事 は, このような主張は的はずれであるという なぜ ならば,モーゼの 十戒を想起 してみると,われわれの とは異なる言語で書かれ,全 く異なる文化 の下にある人々に与 えられ,

4

千年 も経過 しているにもかかわ らず,そこに述 べ られているものを,われわれは理解す ることがで きるのである。 これに比べ ると,多 くの状況が変化 した とはいえ,合衆国憲法はたった 2百年前 に,英語 で書かれ,われわれの文化の中か ら生 まれてきた ものである しか も,合乗国 憲法の諸条項 を理解す るための手掛か りとなるものは,ふんだんに残 されてい るとして,ボーク元判事 は,次の ように述べ る

忘れてな らないのは,われわれは,合衆国憲法典, フィラデルフィア憲法 会議の記録,憲法批准会議の記録,当時の新聞記事,ザ ・フェデラリス ト・

ペーパーズ,ザ ・アンチフェデラリス ト・ペーパーズ,憲法の起草および批 准に通 じている者達が代表 していた初期の連邦議会 によってなされた意法解 釈,さらに,憲法の成立に通 じていた行政官によって憲法 に加 えられた解釈, 裁判所初期の諸判決,ジ ョセフ ・ス ト‑ リのように,当時の思潮 によく通 じ

1 8 ) 〟. a t 1 6 2 ‑ 6 3.

(11)

ていた者 によって書かれた専門書 を持ち合 わせていることである。 また,裁 判官は,憲法お よび憲法が作 り出 した政府の構造か ら知識を得 ることがで き

る。 このような推測の方式は,ジ ョン ・マーシャル最高裁長官に遡 り,非常 に有益である。最後に,解釈 される文書が憲法であることも忘れてはならな い。憲法は,ス ト‑リが述べたように,有効な統治を作 るために考え出され た ものである。著 しく不都合 な結果は,それに反対の証拠が存在 しない限 り, 意図されなかったはずである。従って,合衆国憲法の大部分について,われ われは多 くを知 ってお り,その他の部分については僅かに知ってお り,そ し てい くつかの事例 については,極めて僅か,あるいは何 も知っていないので ある。」 19)

それでは,原意が不明 とな り,憲法の条項が意味す るものは何かを知 り得 ない, 希な状況において,裁判官はいかに行動すべ きなのか。 このような場合 には, 裁判官は憲法 を持 っていないの と同様 なのであ り,その条項は, まるでサ ンス クリッ ト語で書かれているか,インクの染みによって消 されているの と同 じ状 態にあるのである

裁判官には,その下に何かがあるに違いないとい う理由で,

イ ンクの染 みを解釈す る資格 はないのである。」20)そ して, このことは, ま さに合衆国憲法修正第

1 4

条の特権 ・免除条項 にあてはまることである。合衆国 憲法の意味が不明である場合 には,裁判官は,自ら憲法 を作文す るのではな く, 一歩退いて,民主的な多数決ルールに任せなければならない, とボーク元判事

は述べ るのである 21)。

異議の第二は,憲法は社会が変化す るにつれて変化 しなければならない, と の主張である。いわゆる 「生 きた憲法

( l i vi ngc o ns t i t ut i o n)

という考 え方で ある。ボーク元判事 は,流布 している知的 ・道徳的流行 に従って,憲法は成長 し続 けるという意味である限 りは,憲法は生 きているとい う考え方に抵抗 を感 じない とい う。原意の哲学は,硬直 した憲法学,あるいは機械的法学 を要求す

1 9 ) L d. a t 16 5.

2 0 ) 〟. a t 1 6 6.

2 1 ) Se ei d. a t 1 61 ‑ 6 7.

(12)

る ものではないか らである ただ し,憲法典 との関連性

( r e l e va nc e )

とその 完結性

( i nt e gr i t y)

を維持す ることによって,憲法原理 における成長のプロセ スを制約するのである 社会状況が変化 し,既存の原理の活力 を維持するため に,原理の発展が要求 されているとして も,裁判官が社会の価値が変化 した と 考 え,新たな憲法原理 を創出することが良いことではないのである 家で何が 話 されているのか,政府が電子装置で聞 くために,令状 を必要 とすることによ り,修正第

4

条 によって保障 されているプライバ シーを保護す ることと,避妊 具 を使 うことや買 うことの権利,中絶 をす る権利,同性愛行為 をする権利, さ

らには,マ リファナを吸 う権利や売春 をする権利 に,プライバ シーについての 限定 された保障を拡大することとの間には,違いが存在する, とボーク元判事 は述べ るのである22)

第三の異議は,現在生 きている者が死んだ者によって支配 されるいわれはな い, とい うものである このことと関連 して,合衆国憲法 を作成 し,提案 し, 批准 した者達は,社会全体 を代表 していなかった し,選挙権が飛躍的に拡大 し た現在,憲法制定者達 によって与えられた憲法に拘束 される理由はない, との 異議 も唱えられている なお,これ らの異議は,大統領,連邦議会,お よび司 法の権能,さらには選挙の時期や方法等に対 してではな く,個人の諸権利 を保 障 している修正条項 に向けられていることに注意 しなければな らない。 この よ うな異議 に対す る一つの解答 は,個人の権利についての修正条項に関 して,今 はなき,代表 されていない憲法制定者達が特定 した諸 自由を削減あるいは廃止 することを望み,そうすることによって,立法府 の単純多数によって統治 され ることを欲するのでない限 り,今 はなき,代表 されていない憲法制定者達によっ て統治 されているのではない, とい うことであるとはいえ,実は, この問い を発 している者の真意は他の ところにある すなわち,裁判所 は,民主過程か ら離れて,憲法上の自由を書 き加 えるべ きであるということである しか し, この命題 は,死 した者達によって支配 されるべ きではない との主張‑ た とえ

2 2 ) Se ei d. a t 1 6 7 ‑7 0.

(13)

これが有効だ として も‑ によって,支持 され得 る ものではない。異議 を申 し 立てている者の疑問は,裁判官が‑ 選挙民ではな く裁判官が‑ 民主的選択

に対抗す るにつ き,合衆国憲法 に述べ られている諸 自由のみに,なぜ に拘束 さ れなければな らないのか, とい うことにあるのである。従 って,真の狙いは, 社会の中で十分 には代表 されていない,死 した者 による支配に対 してではな く, 生 きている多数者 による支配 に対 して,異議 を申し立てることにある 代表 さ れていない ,死 した者 とい う議論は‑ 隠蔽 されているのであるが‑ ,実は生 きている者の代表者 による自治を妨げようとす る企てにす ぎないのである23)0

異議の第四は,合衆国憲法は法ではないことか ら,裁判官 は現実の憲法か ら 離れることがで きる とい うものである ボーク元判事 によるな らば, この よう な主張 は極めて驚 くべ きものであ り,まず当然 になされるべ き返答 は, この命 題 は司法審査制の基礎 を崩す ものであるとい うことである。裁判官が,法であ る制定法 を,法ではない合衆国憲法の名 において無効 にす ることが,いかにし て可能 となるのであろうか。憲法 は法ではない との主張 は,実は,合衆国憲法 の名 において,司法 による統治の劇的拡大 を欲 している者 によってなされてい ることに注 目しなければな らない。従 って,彼 らが言いたいのは,合衆国憲法 が司法権能 を授権 していないことではな く,この権能 を制約 しない ことなので ある‑ そ してこの ことは憲法が法だ として もそ うなのである‑ 。ボーク元 判事 は,そのような例 として,ブレス ト教授 の見解 を挙げているので,ここで,

ブレス ト教授 の見解 をいてみることに しよう

成文憲法 はわが国の憲法統治の体制 において, どの ような権威 を持 ってい るのであろうか。これは空虚 な質問ではない。‑‑第

6

条 は合衆国憲法が 『 の最高法規』であるとしているが,憲法文書 は,単 にそれ 自体の主張 によって, 法, ましてや最高法 としての地位 を獲得 し得 るものではない。

アメリカの伝統 に最 も深 く根差 した政治理論 に従 えば,憲法の権威 はその 制定者達の同意か ら引 き出される しか しなが ら,制定者達が 自由に憲法 に

2 3 ) Se ei d. a t 1 7 0 ‑1 7 1

.

(14)

同意 した として も, このことは,定立 している文書に対する継続的忠誠心の 基礎 となるには適 さない ものであるとい うのは,彼 らの同意は後の世代 を 拘束することがで きないか らであるわれわれが憲法 を採択 したのではない

し,彼 らは死亡 してお り,存在 しないのである ‑・

アメリカ合衆国憲法の権威 に疑問があることを前提 にするな ら‑‑‑継続的 同意や黙諾の歴史を通 じてのみ,憲法文書は法 となることがで きるのである

とはいえ,わが国の憲法伝統は,文書だけではな く,裁判所やその他の機関 の判決や実例 にも焦点 を当ててきたのである。そ して,この伝統は,非原意 主義の主要な諸要素 を含 んで きたのである ‑‑法典や原意の補足やそれ ら か らの逸脱の実践 は,それ自体,わが国の憲法伝統の一部なのである

」。

24)

ボーク元判事 は,死者 を持 ち出す議論 は,既 に述べたように,説得力がない と いう それでは,われわれが承認ない しは黙諾を与 えている範囲において,裁 判官が権利章典を無視で きるとする点はどうであろうか。この議論 においては, 裁判官が憲法 を変 えることに,誰が同意 しているのか という点が明確ではない。

また,政治共同体

( pol i t y)

が承認,あるいは黙諾 していることを,実際いか にして知ることがで きるのか不明である。ボーク元判事は,ブレス ト教授の議 論の問題点は,これ らだけに止 まるものではない という。た とえ有効な同意や 黙諾が存在するとしても,それは結局有権者の多数 ということになる。 このこ とは,合衆国憲法 を書 き直す権能を最高裁判所 に与 えるにしては,奇妙なこと である。なぜ ならば, もしアメリカ合衆国の国民の単純多数が憲法 を書 き直す 権能 を最高裁判所 に委任 したな ら,あるいは委任す ることに抵抗 しないなら, 合衆国憲法は修正 し得 ることになるか らである 合衆国憲法の要は,多数者の 投票 によっては修正 され得 ない,ましてや無言の承諾 によっては修正 され得 な い法である, とい うことにある。合衆国憲法 における自由の保障全体 に浸透 し ている反多数決主義によれば,たとえ一人で も憲法上の権利 を要求 したならば, その他の全国民がそれを否定 しようとも,最高裁判所 は彼 に正義 を与 えか ナれ

2 4 ) Br e s

t

,TheMl ' s c o nc e i v e dQue s t fo rt heOr i gi na lUnde r s t andi n g,6 0B.

U

.

L REV.

2 0 4,2 2 5( f oo t no t e so mi t t ed).

(15)

ばならないのである。合衆国憲法 を起草 し,提案 し,そ して批准 した者達は, それが法 となることを意図 したのであ り,第

6

条第

2

項 に 「この憲法 は・ の最高法規である」 と規定 したのである また同条第3項は次のように述べて いる 前 に規定 した上院議員お よび下院議員,州議会の議員,ならびに合衆 国および州のすべての行政官および司法官は,宣誓 または確約 によって, この 憲法 を支持す る義務 を負 う」25) もし連邦の裁判官 を除いて,すべての公 務員が等 しく憲法に拘束 され,連邦の裁判官は,すべての者が拘束 されるもの を変え続けることがで きるとするな らば, これは奇妙 なことになる。 とい うの は,意法典に反 して,連邦裁判所の判事は憲法に拘束 されず,そこに挙げ られ ている他 の者達は,「この憲法」ではな く,連邦裁判所の判事 に拘束 されるこ とになるか らである 結局,合衆国憲法は法ではない との主張は,矛盾 した も のであ り,大 きな混乱 を招 くことが一 目瞭然である。そ うではな く,憲法は法 であるな ら,司法による逸脱 は,決 して正当化 され得ないのである26)0

異議の五番 目として,「憲法 は裁判官がそ うだ と言 うところの ものである」

という, ヒューズ連邦最高裁長官の言葉 とされる表現 に代表 される, シニシズ ムが存在する この問題に答 えるためには,司法権の現実 と, この権能を使用 す るに際 しての正当性,ない しは道徳性 との区別 に留意することが必要不可欠 である。また,憲法は連邦最高裁判事がそうであると言った ところの ものであっ たことは,実際問題 として,なかったことは, 自明の理であることにも注意 し なければならない。 さらに,規範的意味に関わる一つの事実が存在 している

すなわち,それ 自体の意味を持つべ く制定 した者達によって理解 された,歴史 的憲法が存在す ることである この意図された意味は,裁判官が述べ得 る,い かなるものか らも独立 した存在である。 この意味 こそを,裁判官は発すべ きな のである もし法がむ き出 しの権力 を超 えた ものであるならば,この意味を連 邦最高裁判事は公言する義務 を持つ, とボーク元判事は述べ るのである27)0

25 )

樋口陽一 ・吉田善明編 ・解説世界憲法集

3

( 199 4

年)55頁。

26 ) Se e

R.BoRK,S

u Pr ano t e 2 a t 1 7ト7 6.

27 ) Se ei d. a t 1 7 6.

(16)

原意の哲学は,裁判官 を政治的選択 に巻 き込む という,第六の異議が存在す る。とりわけ注 目されるのは,次の ような ドウオーキン教授か らの主張である

すなわち,原意の支持者 による,政治的に中立であるとい う主張は見せかけで あ り, この哲学の選択 自体が政治的決定であるとい うものである28)。ボー ク 元判事 は, この主張には一理あるが, この政治的内容の選択は,裁判官によっ てなされるものではな く,合衆国憲法 を起草 し,制定 した者達によってはるか 以前 になされた ものであるとい う。政治選択が不可避であるとの主張の, もう 一つの見解 は,原意の哲学 を採用することは,政治的帰結 を生ず るとい うもの である この点について,ボーク元判事は,憲法に関わる哲学 は常 に政治的帰 結を生ずるが,決 して政治的意図を持つべ きではない とい う 適切 な問題提起 の仕方は,特定の哲学の政治的結果が何かではな く,この哲学の下で,誰が政 治的結果 を選択するかである。原意の哲学が意味することは,合衆国憲法の批 准者達および今 日の立法者達が政治的決定をするのであって,裁判所 はこれ ら の遂行 に最善を尽すべ きであるとい うことである。 これは保守の哲学で も, リ ベラルの哲学で もない,アメ リカ共和 国の構想なのである その結果が どちら に向いていようとも,裁判所 に政治的結果の選択 を許す理論は悪 なのである

ニューディール ・コー トが出現する以前,連邦最高裁判所が保守的司法積極主 義者 によって支配 されていた時, リベ ラルズは,原意 と司法の自己抑制 に徹す ることを主張 していた。連邦最高裁が,ここ数十年, リベ ラルズが好む憲法上 の権利 を創造する方向を見せてか ら, この主張は,保守主義者 によって支持 さ れる傾向にある。 このように,憲法哲学はあまりにもしば しば, どのような政 治的見解が連邦最高裁を支配 しているかによって左右 されてきたのである 治的裁判所 を追求 しているリベ ラルズは,近時,裁判官は選挙民 より,通常, よりリベラルであるとの信念 を持っているが,おそ らくこの点は正 しい,とボー ク元判事は述べ る。彼 らの差 し当た りの利益 との関係で,原意主義やそれを主 張す る者が裁判官に任命 されることに反対するのは,正 しいのである しか し

2 8 ) Se e Dwo r ki n ,TheFo r um o fPr i nc t il e ,5 6N.

Y

.

U.

L. REV. ,469,470( 1 9 81 ).

(17)

なが ら, この ような姿勢は,極めて反民主的なのであ り,長い 目で見れば,ア メリカ共和国の健全性 にとって危険なのである 合衆国憲法は,政府か ら自由 であることか らなる自由だけではな く, 自己統治の自由をもその前淀 としてい る。統治に対す る自由は,共同体 を作 ろうとする諸個人にとって極めて重要な ものである。 というのは,それは,彼 らお よび彼 らの住 む環境‑ 物質的,審 美的,そ して道徳約‑ を支配す る自由だか らである。新たな憲法上の権利 を 創造す ることによって,裁判所が合衆国憲法を書 き変 える,あるいは,正当な 理由な しに,既存の権利 を不当に拡大する時,裁判所 は自由を増大 しているの ではな く,大集団か ら小集団に自由を移動 しているにす ぎないのである この ことに利点はない, とボーク元判事 は述べ るのである29)0

異議の最後 として,「条項 に.拘束 された解釈主義 は不可能である」 とい う, イ リイ教授 によって提起 された有名 な主張 に30),ボーク元判事 は検討 を加 え ている。 イリイ教授は,解釈主義 を,法はいかに作用すべ きかについての通常 の見解 に, よ り適合 していることか ら魅力的であるとしつつ も,それを貴 くこ とはで きない としているその理由として,修正第1

4

条 と修正第

9

条の存在 を 挙 げる ただ し,注意 しなければならないのは,イリイ教授 は,裁判官は立法 者 より, より良い道徳哲学者であるか らとか,憲法は法ではない故 に,裁判官 は新たな憲法上の権利 を創造 し得 ると主張 しているのではないことである としての憲法が,憲法に特定 されていない諸権利 を発見することを命 じている, と主張 しているのである。修正第1

4

条は,デュー ・プロセス条項,平等保護条項, お よび特権 ・免除条項か らなる。イリイ教授は, このうち,デュー ・プロセス 条項 について,公正 な手続な しに人民 に一定の物事 をす ることを要求で きない 趣 旨であ り,新 しい権利 を創造することの,正当化根拠 とはな り得 ない とする。

一方,特権 ・免除条項 は,憲法典が挙げて もいなければ,発見するための方向 を も与 えていない,ある種 の権利 を,将来の憲法意思決定者

( c o ns t i t ut i o na l de c i s i o n‑ma ke r s )

に委託 したのである, とイリイ教授 は述べ てい る これに 29)

Se e R. Bo R K

,S

u Pr a no t e2a t 1 7 6 ‑ 7 8.

3 0 ) Se e J

.ELY,DEMOCRACY ANI)DISTRUSTll(1980)

(18)

対 して,ボーク元判事は, もしこのような,アメ リカ流の統治方法か らみれば 過激な逸脱が意図され,裁判所が立法府に取 って代 わることが意図されていた な らば,活発 な議論が展開されていたはずであるが,そのような証拠 は存在せ ず,特権 ・免除条項が,裁判官 に条項 に拘束 された解釈 を放棄す ることを命 じ ている,と捉 えることはで きない と述べ る。また,平等保護条項 について,イリイ 教授 は 「かな り包括的な命令であるとしているが,ボーク元判事は,黒人 を 差別的な法律や法執行か ら保護することを意図 した ものであ り,裁判所 に最終 的な統治を任せた ものではない, と反論 している イリイ教授が,憲法の諸裁 定の外 に新 しい権利 を兄い出すための,最後の切 り札 としているのが修正第

9

条である。そこには,「この憲法 に一定の権利 を列挙 した ことをもって,人民 の保有する他の諸権利 を否定 しまたは軽視 した ものと解釈 してはな らない」 と 規定 されている31)。 この規定 について,ボーク元判事 は,連邦憲法 に一定 の 権利 を列挙 したことによ り,州憲法や州法によって保障 されている諸権利が否 定 された り,軽視 された りすべ きではない とい う意味であるという32)。従って, 条項 に拘束 された憲法解釈 は可能であるとの結論になるのである33)

以上がボーク元判事の主張である。 このようなボーク元判事の主張の根底 に ある ものは何か。 これ までに も部分的にはふれて きたが,THE TEMPTINGOF AMERICAの序文 に基づいて,さらに検討 を加えてみることにしよう

ボーク元判事の主張の根底 にあるものは,あ らゆる専門分野において,近年 み られる,政治化 に対する危快である この政治化のプロセスは,分野によっ て異 なるが,法の分野において認め られる現象は,法文に具体化 されていない にもかかわ らず,裁判官が 「正義」 を強行す るとい うことであ り,このことは 結局,裁判官が立法者の役割 を果す ことになる ボーク元判事 によるな らば, 裁判官は,判決を下すにつ き,承認 された法原理 を手掛か りとして,政治的に

3 1 )

樋口・吉田編 ・同上 注

2 5・5 7

頁。

3 2 )Se eCa pl a n ,TheHi s t o r ya ndMe a ni n go ft h eNi n t hAme ndme nt,6 9V

A.L REV.

2 2 3( 1 9 8 3 ).

3 3 )S e e

R.BoRK,S

u Pr ano t e2a t1 7 8 1 8 5.

(19)

一貫 して中立的な方法で,判断を下 さなければならない。法 を政治化 しようと す る者 には,民主的な正当性が存在 していないのである このような法の政治 化 は,ここ半世紀の間,一貫 してアメリカを革新的な方向に導いたのであ り, これは多 くのアメリカ人民が望んだことではない。アメリカ人民は, これ らが 合衆国憲法の帰結だ という主張には編 されないのであ り,法の正当性の破壊現 象であ り,最高裁判所 を法の機関ではな く,政治の機関 と見倣す ようになって きている ボーク元判事は, 自身の最高裁判事承認拒否問題に言及 し,これを 法文化の支配をめ ぐる闘争であった としている すなわち,憲法お よび法律 は 法であ り,これ らの諸原理が裁判官 を拘束すべ きなのか,それ ともこれ らは柔 軟 なテキス トであ り,特定の集団や政治的主張が勝利すべ く,裁判官が書 き直 す ことがで きるものなのかの,.考え方をめ ぐる戦いだったのである。法を政治 化 しようとする勢力は,著名 なロー ・スクールにおいて幅をきかせてお り, こ の闘争の焦点は,裁判所 と合衆国憲法の支配権 をどち らが掌握するかに移行 し ている。とい うの も,憲法 はアメリカの政治における最後の切 り札 なのであ り, 連邦最高裁判所が憲法 を持ち出したならば,特定の問題 について,民主過程 に は終止符が打たされるか らである34)0

それでは,なぜ法の政治化 は正当化 され得 ないのか。 これは,すなわち,原 意主義はどのような理由によって正当なのか, ということの解答になるもので あるが,ボーク元判事 は,以下のような点 を挙げている まず,アメリカ的権 力分立原則 とで もいうべ きものである。ボーク元判事 によると,アメリカにお ける諸 自由の基礎 は,共和制体 という構造 にあるという この構造の特徴 は, 連邦政府の権力が分立 されていることと,諸州の自律 を大幅に維持するために, 連邦の権力 に限定を加 えていることであ り,この両者は合衆国憲法によって命

じられているのである これ ら権力の分散は,歴史的にみるならば,権利章典 と同様 に,おそ らくはそれ以上に,諸 自由を保障 してきたのである 合衆国憲 法の中には,司法権が立法権や行政権 をも共有することを示唆する,いかなる

3 4 ) Se ei d.at1 ‑3.

(20)

規定 も存在 していないのである。連邦裁判所 に委ね られた権能は,他の機関に よって作 られた法を適用することである 連邦裁判所の役割 は,連邦議会や大 統領の権能を,合衆国憲法 によって与え られた ものに限定 し,権利章典によっ て保障 されている諸 自由が侵害 されていないかを監視 し, これ らとともに重要 なことは,国民の民主的自律性 を,合衆国憲法 によって与えられている最大限 まで確保することである。次に,ボーク元判事が原意主義 を正当とする理由は, 代表民主制である すなわち,合衆国憲法 は,政策を形成す る権能 を与えられ

る者は,選挙 を通 じて責任 を負 うことによって,われわれの 自由を維持 しよう としている これに対 して,連邦の判事 は,終身職であ り,その結果,人民 に 責任 を負 うことはないのである 裁判官は選挙 されず,責任がな く,代表 され ていないのであ り,誰が裁判官の権能か らわれわれを守るのであろうか。いか にしてわれわれの番人か らわれわれを守るのであろうか。 これに対する唯一の 解答は,裁判官が,彼 自身が望 ましい と考 えるものか ら独立 した,法 によって 拘束 されることである。裁判官は,合衆国憲法,あるいは法律 に兄い出す こと のできない政策 を,策定ない しは適用 してはならないのである。 もちろん,裁 判官は事件 を解決するにつ き,常 に,ある程度,法 を作 らなければな らない

ことは事実であるが,それは極 くわずかな,隙間を埋めるだけの法形成なので ある。「合衆国憲法の批准者達が,壁や屋根や梁 を作 ったのである 裁判官は, 金線細工 を付加 し,建築物 の主要 な特徴 を維持す るのである。」35)原意主義が 正当な,第三の理由は,これが常識に適っていることである つ ま り,裁判官 が法によって拘束 されるとい う場合の 「法」によって,通常意味するものは何 か ということである 法 とは,憲法であれ法律であれ,制定時に一般的に理解 された もの としての,法典の原理 を意味 している。 これが,法 とは何かについ ての,普通の見解である。ボーク元判事が この点 を強調するのは, この常識的 見解が,憲法学者によって, とりわけロー ・スクールにおいて憲法 を教 えてい る者 によって,徹底的に否定 されているか らである。しか し,この点については,

35 ) 〟. a t 5.

(21)

常識が正 しいのであって,そ うであってのみ,司法の優越性

( S upr e ma c y)

は民 主的に正当化 され得 る, とボーク元判事 は述べ るのである36)0

さて,ボーク元判事 は,このような自己の主張を,アメリカの正統

( O r t hodo xy)

とし,裁判官が法 によって拘束 され ることを否定す る見解 を異端

( he r e s y)

と呼んでいる この異端派は,立憲的共和主義 とい うアメリカ的構想 を変質 さ せ,合衆国憲法の意味 しているものについての批准者達の原意は,重要ではな い とい うのである この ような見解 は, ロー ・ス クールにおいて, さらには, 連邦最高裁のい く人かの判事 によって支持 され, ます ます力 を得ている。裁判 官 は新たな原理 を創造 し,古い原理 を破棄 し,合衆国憲法 に現 に兄い出される 原理 を変 え得 るとい う信念 を生 じさせている その結果,裁判所 は,権力分立 制 と連邦制の両者 を侵害 し,連邦議会や州議会が有す る立法権 を共有するだけ ではな く,実際 には,いかなる立法府 にも勝 る立法権 を持つ ことになるのであ なぜ な らば, この ような革新 は,合衆国憲法の名 において‑ それ とはほ とん どあるいは全 く関係ないのだけれ ども‑ 発せ られ,それ故 に,最終的な もの とされるか らである。異端派は広 く受 け入れ られているので,新 しい正統 派 となっている 異端派は特有な政治的見解 を有 して きたわけではない。 もし それが彼 らの 目的に適合す るのであれば, リベ ラルズ同様保守主義者 もその誘 惑 に屈 して きたのであ り,場合 によっては,多 くの保守主義者 は再 び屈す るか もしれないのである しか し,今 日,原意主義 を呪っているのは,ここ50年間, 一貫 して裁判所か ら政治的勝利 を得,将来 において, より多 くの政治的勝利 を 得 ることを期待 しているリベ ラルズである。リベ ラルな文化 を代表する者達 は, 合衆国憲法 に兄い出され得 ない, また立法府が定めないであろう,彼 ら自身の 道徳的 ・政治的 目論見 を持 っているが故 に,アメ リカの正統派 を嫌 っているの である 合衆国憲法 を変質 させ ることによって,彼 らに勝利 をもた らすであろ う,裁判官 を望んでいるのである 従 って,正統派は時代遅れであ り,反動的 脅威 として警戒の 目で見 られるのである。 ここで も,ボーク元判事 は, 自身の

3 6 )Se ei d. a t 4 ‑ 6.

(22)

最高裁判事承認拒否問題にふれ,この間題の根底 に,裁判所の適切 な役割につ いての見方の相違が存在 していたという そ して,それは一人の判事 に対す る 戦いではな く,法文化の支配のために戦わされたのである

攻撃者 は,長年,著作 に原意の哲学 を表明 し, リベ ラルな文化の最 も重要 な勝利であった もののい くつかに対 して,憲法上の基礎 を欠 くことを示 して きた候補者 を,実際に,そ してそれ以上に重要なことは,象徴的に,敗北 さ せ なければならないことを知っていたのである。 リベ ラルな文化 に与する者

は,最高裁判所およびアメ リカ合衆国憲法の政治化 を維持 し, もし可能な ら ば, さらに強化 し,確実に正当化する必要があったのである

」。

37)

リベ ラル派 と保守派 との問には,常 に不一致が存在 して きたが, リベ ラルな思 考法を採 るものの うちの一部は,四半世紀前の リベラリズムとは全 く異なる も のに変化 した。今やわれわれは,法,政治,お よび文化 において,新 たなもの, すなわち,伝統的価値や前提 を共有せず,攻撃する,不断の,反 プラグマティッ クなラデイカリズムの一種 を経験 している. このように,ボーク元判事は述べ るのである38)o

ボーク元判事の主張 には,傾聴に値するものを含んでいるとはいえ,疑問点 もい くつか存在する。 ここでは,ボーク元判事の憲法解釈方法論に内在する問 題点を (今 日の最高裁の状況がボーク元判事が嘆いたの とはかな り違 った もの となって きていることを,先ず指摘 しなければな らないが,この点は本稿 にお いては扱わないことにする),二点指摘 してお きたい (ボーク元判事の法解釈 方法論 と密接 な関係 を有する保守思想 についてはふれないことにす る なぜ な らば,原意主義の解釈方法は,保守か リベ ラルか という問題 とは,一応切 り離 して考えることがで きるか らである もちろん,保守 とリベラル,司法積極主 義 と消極主義,原意主義 と非原意主義が,歴史の脈絡の中で,組み合 わせ を変 えなが ら主張 されて きた事実 を無視す るものではない)。 まず,憲法解釈 と法 津解釈 (事件 を解決するにつ き,憲法 を持ち出さず,憲法 より下位の法 レベル

3 7 ) 1 d. a t 9.

3 8 ) Se ei d. a t6 ‑l l.

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