上からの世論形成に対抗する生涯学習とは
――原発問題を契機として――
椎 名 愼太郎 はじめに
2 0 1 1年3月の福島第一原子力発電所の大事故を経験したわれわれにとって、とく に、生涯学習という、知的生産とその普及・伝達に関わる任務を負っている当セン ターにとって、この問題を避けて通ることはできないであろう。宮坂広作初代セン ター長の逝去をうけて急遽執筆陣に復帰した筆者は、こうした差し迫った課題に取り 組むことが宮坂先生から託された宿題であると考えている。1 9 9 7年に創刊された本誌 の第1号で、宮坂先生は神戸の震災被害に言及し、次のように述べておられる。
「1 9 9 5年1月、神戸で起きた大震災は、国民に大きな衝撃を与えた。経済的に繁栄 し、美しい景観をもち、文化ゆたかな国際都市として有名であり、全国の自治体から モデルとして羨望されてきたこの都市が、防災、市民生活の安全確保という、もっと も大切な点で無防備に近い状態におかれてきたことがはっきりした。神戸市は生涯学 習の内容という面でも、そうしたテーマに無関心だったのである」
(1)。ここでは、生 涯学習が本当に切実で重要な課題に取り組むべきことが語られている。
しかし、日本の生涯学習は、従来、ともすればこの種の 重い 課題から眼をそら し、耳障りのいい話題を追いかけることに熱心であったのではないか。
これに対して、原子力発電
(以下、「原発」と略す。)推進側は膨大な費用をついやし てマスコミをあやつり、歴代政府も極めて危険な原発を安全と偽り、いわゆる「原発 安全神話」を吹聴してきた。筆者は、この風潮にしばしば不満をいだき、憤ってきた が、福島での大事故が発生するまで、多くの日本国民は安全神話に乗せられてきた。
これに対抗して原発反対の声を上げる者は、ある時は「過激派」扱いされ、あるいは
「無知な大衆」と軽蔑され、原発の危険性を考えることそのものが回避されてきた。
その本質において各自の生命や健康の危険に直結する問題について、考える糸口を探 ることすら厭われてきた。その意味で、これまで自治体や民間事業主体が提供してき た生涯学習事業はこの点について無力であり、本来あるべき責任を果たして来なかっ たと言わなければならない。
その一方において、政府関係機関や電力会社、あるいは、豊富な財源をもつ電力業 界に支配されたマスコミが垂れ流す誤った安全神話に、疑問を持つための何の手掛か りもない市民はどうしたらよかったのだろうか。この行き詰まり状況を打ち破る手掛
−5−
かりはないのだろうか。拙論は、この疑問を解明する一つの試みである。なお、以下 の論述では、敬称を一切省略させていただく。
1 私が原子力問題について考えてきたこと
(1)私は何故原発に反対してきたか
私がここで反原発の立場を明かにして一文を草することについて、若干の弁明を試 みておきたい。私は1 9 7 0年代初頭から愛媛県西部の伊方原発に反対する訴訟の支援に 間接的に関与するようになり、その後も一貫して反原発の立場をとってきた。決して 2 0 1 1年3月以後、にわかに反原発を唱えるようになったのではない。本業である法律 学の立場では、この問題にこれまで取り組むことがなかったことを痛切に反省してい るが、 2 0 0 5年1 0月から始めた FM 甲府の「ごきげんな昼下がり」
(石部典子キャスター)の1コーナーである「教えて椎名先生」では、何回か原子力発電に関係する問題を取 り上げてきた
(2)。
2 0 1 1年3月以前に、このコーナーにおいて、原発関連で話した日時とテーマを示し てみよう。
* 2 0 0 5年1 0月1 8日「自然エネルギー」 この回では石油がエネルギー資源として尽 きかけていることから話を起こし、原子力が高レベル放射性廃棄物の処分方法がな いという点で代替にならないことにふれ、結論として、太陽光や風力、地熱などの 自然エネルギーを開発するしかないことを説明した。
* 2 0 0 6年4月1 1日「プルサーマル」 この回では、2 0 0 6年3月に佐賀県玄海原発で 導入の動きが開始したプルサーマル発電について取り上げた。これは、高速増殖炉 もんじゅの実験炉でナトリウム漏れ事故が起きて、核燃料サイクルの先行きが不透 明になったことから、通常の原子炉で、通常の燃料であるウラニウムに高レベル放 射性廃棄物を再処理したプルトニウムを混合して用いる発電方式であるが、経済性 及び安全性の両面から問題があるということを説明した。
* 2 0 0 7年8月1 4日「地震事故と原発の安全性」 これについては次節でその内容を 示すことにする。
* 2 0 1 0年6月1日「もんじゅ運転再開をめぐり」 この回では、 2 0 1 0年5月に、 1 9 9 5 年1 2月のナトリウム漏れ事故以来停止していた高速増殖炉もんじゅが運転再開した ということから、高速増殖炉の仕組み、通常の原発をはるかに上回る危険性、猛烈 な金食い虫であるのに実用化の見通しがないこと、世界各国ともこの計画を放棄し ていることなどを説明した。
私がいつも疑問に感じてきたのは、何よりも、高レベル放射性廃棄物の処分の方法 がないということであった。この疑問は、大事故が起きてみると、まさしく問題の核
−6−
心であったことが分かる。廃炉ひとつとってみても、高度に汚染された炉心その他の ガレキをどのように処理するか、汚染された冷却水を浄化する反面で溜まり続ける高 レベル汚染水をどこに始末するのか、解決方法はほとんど示されていない。実は、解 決がないというのが真実であろう。そして、この問題は、核燃料の原材料であるウラ ンの賦存量推計から、せいぜい1 0 0年程しか期待できない核燃料を利用した現代人の
「豊かな」生活のつけ、それも、とてつもない危険性に満ちた負の遺産を、後の世代 が長期にわたって管理しなければならないという、世代間倫理の問題を含んでいる。
(2)「地震事故と原発の安全性」
ここで、2 0 0 7年8月1 4日に放送された「教えて椎名先生」の内容を採録しておきた い。
石部
早いもので、7月1 6日の新潟県の中越沖地震かそろそろ1ヶ月……。先生は、
あの朝は何をしていらっしゃいましたか?
椎名
「海の日」の休日ですから、家で何気なく過ごしていたのですが、ユ〜ラユラ という長周期のゆれを感じて、 「大きいな」と直感しました。そうしたら、心配した とおり新潟県中越地方を中心に大きな被害が出ましたね。被災された方々には、心か らお見舞い申し上げたいですが。この地震で、前から不安を感じていた原子力発電 所、いわゆる原発の直下で地震が起きたらという不安が現実のものになってしまいま した。
石部
私はその時 FM 甲府にいまして、速報を入れる立場だったのですが、一番大事 な情報は、新潟ですから、原発が大丈夫かということだと、私も思いましたし、スタッ フにもそのことを伝えて、これを重点的に報道しようとは思いました。
椎名
あの時、割合早い段階で、 「柏崎刈羽原発での放射能漏れはなかった」という 関係者の談話が流れましたよね?
石部
それを真っ先に確かめて放送しなければならないと思ったので、自分の口でそ れを放送しました。もう、第一報の次ぐらいの段階でしたね。
椎名
だけど、本当は、放射能は漏れていたのですよね。
石部
そう、やがて、少しずつ、少しずつ、水は漏れていたから始まって……。
椎名
要するに誤報ですよね。原発は安全だから、あの程度の地震で放射能漏れは起 こるはずがないというタテマエで関係者は話したのだと思います。だが、放射能漏れ があったと分かったことで、これまで政府関係者や電力会社が言っていた、原発の安 全神話が完全に崩れてしまったことになります。
石部
テレビで炎が出た映像が報じられたので、あれは衝撃的でしたが、幾つか報道 される事故の中で先生が一番重要だと考えられる事故は何ですか?
−7−
椎名
とくに重大だと感じたのは、システム上、外部と遮断されていなければならな い放射線管理区域に海水2 4トンが流れ込んだ事故。これは冷却用海水を循環させるゴ ム製配管が破損したのが原因だと説明されていますが、ここは中と外が通じているこ とは絶対に許されない場所ですから、本来ありえない事故ですね。
石部
管理区域に海水が流れ込んだということは、中から放射能が外に漏れだしたと いうことですよね。
椎名
そうです。それと、もう一つ大きいのは、原子炉上のクレーンが破損したこ と、このために、炉心がどうなっているか緊急に確かめたいのだけど、それが出来な いでいる。今のところ、核分裂反応が起きている炉心での大きな異常はないようです が、本当のところどうだかよく分からない。
石部
IAEA
(国際原子力機関)の調査団が入りましたが、肝腎の部分は確かめられて いないということですか?
椎名
さて、どうなりますか。どうやら、秘密ベースの調査らしいので詳しい情報は 伝わりませんが、クレーンが壊れているので炉心の詳しい調査は出来ないでしょう ね。
石部
原発を建設するとき想定したより大きな揺れだったと盛んに言われますが、想 定はどうだったのですか?
椎名
マグニチュードは6・8、このくらいの揺れは日本のどこでもありうるレベル です。危険性をかねてから警告していた専門家は、この地震は決して想定外のもので はなく、当然あると考えねばならない規模のものだといっています。新潟では何回か 大きめの地震が起きています。石部さんはご存じないと思いますが、1 9 6 4年に新潟大 地震がありました。この時は、液状化現象で4階建ての鉄筋アパートがずぶずぶと傾 く、信濃川に架かった橋が落ちるなど大変な被害が出ました。この時の地震がマグニ チュード7・5だったのです。7月1 6日の朝、私が「これは大きいな」と感じたのは、
丁度その時と同じような揺れ方だったから。それで、もし震源域がもう少し南西寄り で、マグニチュードが1 9 6 4年新潟地震と同じ7・5レベルだったら、そしてこの柏崎 刈羽原発の原子炉7基が全部運転中だったら、震災と放射能災害が複合する破局的大 事故になっていただろうという指摘もあるのです。
石部
他の原発はどうなんだろうという心配がありますよね。
椎名
一番山梨に影響が大きいのが御前崎に近い浜岡原発。今回の中越沖地震は、活 断層が動いた直下型地震ですが、プレート境界で起きる大地震はマグニチュード8ク ラスになる。この浜岡原発は、プレートの跳ね上がりで起きる東海大地震の震源域に 近いのです。巨大地震はマグマの上をゆっくり移動するプレートの境目で発生しま す。日本は4つのプレートの境界に位置しているから、地震の巣といってよい。この 地震の巣に5 4基の原発が稼動している。今回の柏崎刈羽原発でも一応の立地調査はし
−8−
たのですが、今回このような事故が起きてみると、この調査がかなりいいかげん、十 分なものではないことがよく分かります。日本にある多くの原発は安全なのかと、世 界でも注目しています。
石部
今回の事故で、日本に来るはずだったイタリアの少年サッカー・チームが来日 を取りやめました。 「日本は放射能汚染されて、国民はどこかに避難している」とか で、親御さんが猛反対して止めさせたのです。日本人以上に外国では敏感に反応して いますね。
椎名
日本では地震がかなり頻繁にあります。阪神大震災以後でも人身被害の出た地 震が何回かありましたね。だから、われわれは慣れっこになっているのですが、地震 のない国もある。大陸の中央部だと地震が全くない。だから、例えば大学院で指導し ていた中国人留学生
(女性)に震度2程度の地震の後で訊いてみると、声をふるわせ て「怖かった〜」と答が返ってくる。
石部
そう、ほんのちょっとした揺れでも本当にびっくりするでしょうね。
椎名
情報量が十分でないことが、そういう「風評」のようなものにつながってい る。どうも日本は、今回の原発の被害を小さめに、小さめに扱おうとしている。そし て、情報を外に出さないように隠しているようですね。関係者からの情報は、本当に もどかしいほど少ないし、遅い。
石部
報道している私がそれを一番実感します。これなら、 「報道規制のある国と同 じではないか。出てくることしか報道できないのだから」と感じています。
椎名
それに、IAEA の調査団が来ましたが、これにも当初日本政府関係者は消極的 だったのです。忙しいから断るという姿勢だったが、風評などがあるので、仕方なし に受け入れることにしたのです。私たちは、日本の原発は安全だというタテマエの政 府関係者の情報よりは、国際機関のしっかりした調査で正確な情報を出して欲しいと 思いますがね。
石部
なにか、風評被害というと、まるで日本が被害を受けているようですが、地震 国であるのに、原発が沢山あるという日本に対する世界の見方のほうが正しくて、日 本の方が鈍感なのではないかと思います。
椎名
地震の巣のような日本国土にこれだけ沢山原発が稼動していて、 「本当に大丈 夫なの」って多分世界ではそう見ていますよ。私たちはその危険性を感じる必要性が あると思います。そうだとしたら、これからどうしたらよいのか。温暖化対策に有効 だということで原発を増やしていこうとしているけれど、私は逆じゃないかなと思い ます。他のエネルギーに出来るだけ早く転換して原発は止めるというのが、少なくと も日本では正しい選択だと思いますが。
わずか1 0分余りの放送だったので、言いたいことの半分程度しか語っていない。原
−9−
発稼動で後世
(最近の議論では、数百年から、本当の安心のためには10万年という、現代人 の祖先がまだアフリカにとどまっていた時代から現代までとほぼ同じような長い時間単位の問 題だとされる)に残される高レベル放射性廃棄物のこと、少なくとも原発の耐震安全 基準を大幅に厳しくすべきこと、原発が盛んに推進された1 9 6 0年代から3 0年ほどの間 は、日本列島周辺の地殻変動が比較的静穏だったが、阪神淡路大震災のあった1 9 9 5年 以後、活性期に入っていること、他の原発でさらに大規模災害が起きる可能性がある ことなど、予定のメモにはあったのだが、語りきれなかった。
ここでした話は、ほとんど今回の福島第一原発で起きた事故を見通していたと言っ てよいのではないだろうか。原子力工学には全く無縁の文系人間である筆者でさえ、
関係資料を読んでこの程度の話が出来るのであるから、原子力関係者は十分にこの危 険性を理解していたはずである。それにもかかわらず、今年3月に福島での事故が起 きるまで、日本人の多くは安全だと思い込まされてきた。このような切実で重要な課 題が上からの操作で隠されている場合に、私たちはどのようにその真実を「学習」す ればよいのだろうか。
2 闘いつつ学び、学びつつ闘う
以上のような素朴な疑問をもちつつ、論述の方向性を模索しているうちに、永井健 夫センター長から、 「それは沼津・三島コンビナート反対運動の中の市民たちの学習 を参考にしたらいいのでは」と助言をいただいた。たしかに、その通りである。言わ れてみれば、この地域における市民の学習に基づいた反対運動のことは、法学部行政 学科での「環境政策」や社会人大学院の「行政法特殊講義Ⅱ」 、現在も担当している 法科大学院の「環境法」の講義で繰り返し話してきたことである。
そして、このヒントから、筆者は、自由民権運動の中に相当高度の学習活動があっ たという、2 0年以上前に聴いた色川大吉の講演の中の言葉を思い出し、そしてさら に、拙著『歴史を保存する』
(1983年)で取り上げた小樽運河保存運動の中の小樽運河 講座や、私自身が裁判の証言者としてささやかな応援をした和歌の浦保存運動におけ る連続講座のことを思い出した。まさしく、これらの運動に関わった人々は、闘いつ つ学び、学びつつ闘う中で、強大な政府権力や一般社会の平俗な「常識や社会通念」
に負けない高度の認識を持つに至ったのである。
(1)自由民権運動の中での学び
A 復古の教化と上からの啓蒙
自由民権運動の中での学びを考える前に、明治前期という時代とそこにおける支配 的イデオロギーを概観しておく必要がある。そこには、やはり、圧倒的な上からの教
−10−
化と啓蒙という支配的思潮があり、それを実践の中で克服するものとして、民権運動 家たちの学びがあった。この時期の教化と啓蒙について、社会教育史の研究成果が語 るところを追ってみよう。
1 8 7 2年に「学制」が発布される以前に、先ず、1 8 7 0年3月に「大教宣布の詔勅」が 下された。これは、 「維新の変革にともなう民心の動揺や百姓一揆の激発に象徴され る政情不安を、天皇親政のイメージとその宗教的権威の宣伝によって切り抜けようと する国民教化運動であった
(3)。 」これは、神道を国教化して、神官や国学者を宣教使 として動員して、大がかかりに宣布運動を展開するものであった。しかし、この教化 策はほとんど成果を挙げ得ないままに終焉することになる。先ず、天皇崇拝中心の神 道布教による国民の信教の一元化に対しては、仏教側から強い反発があり、1 9 7 2年、
神祇官と宣教使が廃止され、教部省の下に神官と共に僧侶が「教導職」に任命され た。その数は全国で7, 2 4 7名。そして、1 8 7 2年3月2 8日、 「三条の教則」が教部省から 通達された。それは、次のようなものであった。
第1条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 第2条 天理人道ヲ明ニスベキ事
第3条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事
しかし、この教導職の説教活動に集まる人は少なく、所期の効果をあげないままに 数年でこの運動は終焉を迎えた
(4)。しかし、こうした神格化された天皇を教化の中心 にすえるという基本方針は明治中期以降の教育政策に受け継がれていく。元田永孚が 起草した「教育勅語」は、後に元老西園寺公望が国際感覚の観点から改訂を考えたほ ど旧弊であったが
(5)、これが十分に理解されたかどうかはともかく、一般に受け入れ られる社会的基盤は、長い封建支配の遺産として健在であった。
これに対して、西欧的価値観による開化思想もこの時代の一面であった。これを代 表するのが福沢諭吉の『学問のすすめ』
(1872〜76年)であり、 『文明論の概略』
(1875 年)である。福沢は当初民権思想に与するかのような主張を行い、その『通俗民権論』
(1877年)
は、1 8 8 0年に「国安ヲ妨害」する書籍として、集会条例で教科書とするこ とを禁止されたほどであった
(6)。しかし、1 8 7 7年ごろを境に福沢は民権と国権のバラ ンスを重視するようになり、上からの啓蒙という役割を多く担うようになる。1 8 8 9年 の『貧富智愚の説』にいたっては、 「最も恐れるべきは、貧にして智ある者なり」と 貧民に教育をすれば、ストライキや社会主義者になるとして、貧民への教育に警戒す る論を展開している
(7)。
B 自由民権運動家の学習活動
叙上のような時代背景の中で、日本各地で自由民権運動が勃興し、展開されていく のであるが、それは当時の大都市に限られず、今日では過疎の村になっているような 地域でも先進的学習者の覚醒が起きていた。
−11−
北田耕也が紹介するこの時期の学習サークルの例はかなり驚くべき内容をもってい る。板垣退助、植木枝盛らが1 8 7 4年に高知で設立した政治結社立志社は、設立と同時 に立志学舎を設けており、設立趣意書には、人民の権利を伸長するために、 「此学舎 ヲ開キ、以ッテ一般公共ノ幸福ヲ増長セントス」とある。1 8 7 5年8月に河野広中が福 島県石川村に設立した石陽館は、 「毎土曜日ノ夜ヲ以テ演説或イハ討論ノ会ヲ開キ、
一般学員ヲシテ出席し、弁論討議セシム」と定めていた
(8)。
越前民権運動の拠点となった杉田定一の自郷学舎
(坂井郡波寄村=現福井市)の設立
(1879年)
目的も、学習と運動の統一にあった。 「設立大意」には次のようにある。 「人 間真理ノ在ル所宇内公道ノ存スル所ヲ講究研磨シ以テ固有ノ知識気力ヲ開長シ天賦自 由ノ権利ヲ恢弘シ社会開明国家富強ノ一助トナサン」 。この自郷学舎の塾生は1 8 7 9年 から8 0年の間に2 9人から7 9人に増え、生徒は坂井郡4 9カ村にひろがったとされる。全 国各地に続々とこのような学習サークルが誕生したが、例えば高知の「夜学連」は「有 志運動家の「鼓舞誘導」によったものではなく、 「純然たる平民の自ら奮ふて組織せ しもの」であり、 「左氏伝」 、 「日本外史」 、ハーバート・スペンサーの原著「社会平等 論」等を購読したという
(9)。
東京都の西部、五日市での民権運動とそこにおける民衆の学習運動を掘り起こして 紹介したのは色川大吉である。これについては、余りにも有名であるから詳しく書く ことは控えるが
(10)、いわゆる「五日市憲法草案」は、運動の指導者であった深沢権 八の子孫が所有する蔵から色川らによって1 9 6 8年に発見された。
これを起草したのは東北に生まれた千葉卓三郎である。千葉は仙台で学んだ後、1 9 歳で上京、ロシア正教をニコライ堂で学ぶ。その後、五日市に豪農層が半ば民営で設 立した小学校である勧能学校の教員に迎えられ、やがて若くして2代目の校長になっ た。千葉は深沢名生
(なおまる)、権八父子の知遇を得て、同家の蔵書を中心に地元青 年有志と学芸講談会を結成して学習活動を行った
(11)。その成果の一部が「五日市憲 法草案」で、その内容は今見ても驚くほど先進的である。
このように、東京の郡部、三多摩の一部である五日市にこのような学習を成立させ た条件を、大串隆吉は色川の編纂した基礎資料
(12)から次の4点にまとめている。
①五日市とあるようにこの地方の経済の中心地であり、同時に多摩川の筏や、絹の 道によって文化摂取のルートがあったこと。および、市の開催権や木材の売買によっ て豪農層が豊かであったこと。
②寺子屋、家塾、郷学など、江戸時代末期から明治時代初期に掛けて、すなわち自 由民権運動以前に学習機会が作られていたこと。
③政治的関心が高く抵抗の精神をもち、百姓一揆の精神を受け継ごうとしていたこ と。深沢権八の父深沢名生は、日米、日蘭、日露、日英、日仏の和親条約・通商条約 をたんねんに写し取り、権八は、 「大塩平八郎の檄文」を手帳の裏に書き抜き、父子
−12−
で「佐倉宗五郎小伝」を2冊も写していた。
④地域での自治の経験があげられる。当時は旧体制がくずれ、未だ天皇制を支える 地方自治制度や学校制度が未確立の時期であった。この時期、深沢権八は公選によっ て村の総代になっている。また、地元の勧能学校は学務委員によって完全な自治が保 たれていた。
そして、五日市の深沢家の蔵書が学びの基礎となったように、各地の運動の学習活 動の中心に図書館
(書籍館)があったことは、日本の図書館史の中でも記述されてい る。彼らは、B・フランクリンたちのジャントー
(会員制読書・討論クラブ)に倣った 学習活動を運動と一体として行ったが、ジャントーが会員制図書館をつくったのと同 じく、民権運動の拠点各所に図書館がつくられていた。木下尚江が加盟していた信州 松本の報匡社は、規則第5条に「本社共有ノ書籍新聞紙ヲ無見料ニテ閲読スルコトヲ 得」と定めていた。京都宮津の天橋義塾は広く一般人にまで資料貸出しを認めてい た。さらに、福島自由党の河野広中を指導者とする三帥社は、青年教育のために三春 石陽館を設け、その「書籍館規則」では、村民がこの運営費を各戸で負担するように 定めていた
(13)。
民権運動を民衆運動とは別の政治運動と位置づける見解もある
(14)。たしかに、自 由民権運動の中心は中産階級であって、徴税反対運動などでは底辺民衆の攻撃の対象 となる層を含んでいた。しかし、権力の上からの教化に、これに対抗する論理を築い ていく学習であったことは間違いない。
(2)沼津・三島コンビナート反対運動の中での学習活動
A 深刻な公害の発生
沼津・三島コンビナート反対運動
(「沼津・三島」、あるいは、「三島・沼津」コンビナー トと通常呼ばれるが、両市の間に位置する清水町もふくめた2市1町にわたるコンビナート計 画であった)は、日本の公害史を語る上では必ず触れられる画期的な運動である。闘 われたのは1 9 6 3年から4年にかけてであるが、その前から深刻な公害は日本各地を汚 染しつつあった。前述の通り、私自身も講義の中では、公害問題が全国民的認識に広 がる契機をなした運動としてこれについて繰り返し語ってきた。
同じ頃、九州の西海岸、熊本と鹿児島の県境に位置する水俣では、水俣病が大きな 問題となっていたが、これが全国紙で報道されることはほとんどなかった。チッソは 地元経済の命運を握る大企業であり、被害者を多く出した漁民は地域社会から差別さ れ、声を上げることすら遠慮するような立場に閉じ込められていた。環境史の概説書 はこれについて次のように書いている。 「被害者にとって何よりも不運であったの は、彼らに健康被害をもたらした原因者が、地域社会において絶大な支配力を発揮す る企業だった点である。……ほとんどすべての地域社会構成員が、被害者である水俣
−13−
病患者を、その地域の経済的活力の源であり重要な存在である化学工場を困難な位置 に追いやった犯罪者であるかのごとくに遇し、水俣病患者は、まぎれもなく公害問題 の被害者であるのだが、ここでは反転して加害者視されてしまったのである」
(15)。 水俣の被害者がチッソに対峙するようになるのは、1 9 6 7年に新潟水俣病被害者が加害 者である昭和電工を訴えた後である。
B 沼津・三島地域のコンビナート計画
1 9 5 0年代から6 0年代は、水俣病を生み出したチッソが飛躍的な生産拡大をしていた 時期であり、日本全体が戦後復興から高度成長へ、限られた工業地帯を全国に拡大し ていく地域開発ラッシュの起きた時期である。1 9 6 2年に閣議決定された全国総合開発 計画の審議過程における焦点の一つは産業立地計画であった。当時、四大工業地帯で は工業用水の供給能力、港湾機能や道路整備の遅れ、地価上昇、そして産業公害の発 生などの行き詰まり状態があり、他方、それ以外の地域では根強い工業開発待望論が あった。しかし、高度成長期の入り口段階の限られた資金で効率的に社会資本を整備 するには、集中的・重点的に資金を用いて工業地帯を造成・誘導する必要があるとい う判断で、四大工業地帯をベルト状に連ねる太平洋ベルト地帯構想が採用されること になった。そして、1 9 6 4年に制定された工業整備特別地域整備促進法の下で、静岡県 内では東駿河湾地区が指定されることになった。
この指定に先立って、静岡県は1 9 6 1年からの第6次総合開発計画にあたり、 「石 油・石油化学工業立地の可能地は沼津・三島を措いてない」として、良質の水源、水 深の十分な良港、工場適地も豊富にあるこの地域に、富士石油
(アラビア石油)、住友 化学、東京電力の三社を基幹 に し た 石 油 化 学 コ ン ビ ナ ー ト の 建 設 計 画 を 策 定 し た
(16)。
こうした地域開発待望論は全国各地にあった。国としてはこれに反対する住民運動 が起きるとは全く考えていなかったし、静岡県知事も「地元住民が石油コンビナート が来なくてもよいと希望するなら話は別だ」と高姿勢であった
(17)。しかし、反対運 動は三島市民から開始し、やがて沼津市、清水町へと拡大して行った。
C コンビナート反対運動の中の学習
ここでの反対運動は、大会社の繊維工場が富士の湧き水を水源とする三島市の喉元 を抑える位置に設置され、大量の揚水を始めたことから水不足に悩まされていた三島 から起こった。それは、コンビナート計画とは別だとして県が進めていた2市1町合 併計画が、実はこの計画推進と不可分であることが1 9 6 3年1 2月1 4日の第3回東部地区 広域都市行政研究連絡会の席上明らかにされたことへの反発から開始した。反対運動 の立ち上がりは早く、その翌日には「石油コンビナート誘致と2市1町の早期合併反 対」の市民懇談会
(文化協会・湧水を守る会・地区労・愛市連盟・社共両党ほか)が発足し た
(18)。
−14−
1 9 6 4年2月3日に三島市内で県、進出予定3社による説明会が開かれた。この中 で、開発推進側からは予定される沼津火力発電所操業に伴う公害について次のような 説明がされた。 「冬の沼津の風は北風が多く、排煙は海に出てしまいます」 、 「もし三 島の方にくることがあっても、沼津と三島の途中に山があるので上昇してしまいま す」 、 「宇宙は無限大です。煙やガスはこの無限の宇宙に広がってしまいます」 、 「臭い 魚を食べても腹をこわしたという人のことを聞いていません」
(19)。
こうした、開発側のいい加減な説明がむしろ市民の学習意欲を促した。学習会は4
〜5人の小単位から隣組単位、職場集会、青年学級、自治会集会、婦人会、PTA、文 化団体、各種民主団体などさまざまなレベル、さまざまな場所で展開された
(同160 頁)。そのテーマも、 「公害」という言葉から、石油化学、火力発電所、亜硫酸ガス、
社会開発、逆転層、地下構造と地下水などさまざまであった。学習会の回数は数百回 に及んだ。専門的な話では県立工業高校の教師たちが講師を務めた。運動の発展と共 に、東京などから専門研究者が来て講師を務めるようにもなった。市民は机上の学習 にとどまらず、コンビナート公害先進地の千葉県や三重県四日市などの現地見学にも 積極的に出かけた。
問題発生のほぼ1 0年前に三島市と合併した旧中郷
(なかざと)村、三島市中郷地区 は市内南部の農村地帯であったが、ここでも積極的な学習活動が行われた。以前から 開発計画はあったが、このコンビナート計画では地域内の水田の3分の1が石油精製 工場用地に予定された。当初、これを離農の好機として歓迎していた地域住民も、三 島市民懇談会主催の四日市視察に5名が参加したことから、主婦も加わって、地元民 の説得、三島市民への地区としての意思表示、沼津や清水町への地区の態度表明とい う形で熱心に活動が展開された
(20)。
国側は地元の反対運動の展開に危機感をいだき、通産省は四日市公害特別調査会の 会長を務めた黒川真武を団長とする「沼津・三島地区産業公害調査団」を編成して進 出予定地で調査を始めた。住民側はこれに対抗して、三島市にある国立遺伝学研究所 の松村清二博士を中心に沼津工業高校の理科教師4名ほか地元医師などで市民の調査 団を組織した。5月の連休には、市民調査団は工業高校生の協力で全市にわたって鯉 のぼりで1 0日間にわたって風向調査を行った
(21)。これによって得られたデータは、
5万分の1地図上に精細な気流図となり、火力発電所の排煙による大気汚染はないと する政府・県の宣伝をくつがえした
(22)。黒川調査団は「コンビナート建設は必要な 措置を講ずれば、公害が発生する恐れはない」という報告書をまとめたが、住民の公 害問題に関する認識の不足を強調する内容であった。これに対して、市民側の松村調 査団は「コンビナートを誘致すれば公害の恐れがある」との報告書をまとめ、黒川調 査団報告書が余りにも楽観的であることを問題とした。1 9 6 4年8月に松村調査団メン バー代表と住民は上京して、黒川団長及び気象担当の伊東彊自らと対決した。市民側
−15−
は黒川調査団のデータの扱い方のあいまいさや計算・処理の誤りを多く指摘し、市民 側の質問に黒川調査団側はしばしば答えられなかった
(23)。市民側は科学論争でも 国・県側の科学者たちに勝利したのだ。
市民運動の学習を基礎とした盛り上がりに三島市に続いて沼津市、そして清水町が 自治体として誘致から撤退し、コンビナート計画は中止された。この運動が勝利を収 めたことは、東京に近い場所であったこともあってマスコミの注目を集め、やがて、
公害防止基本法から1 9 7 0年の公害国会につながる大きな流れの端緒となった。ただ し、この運動にとって、四日市などの残酷な先例があったことが、市民の理解を急速 に広げる役割を果したことには注意しておく必要がある。NHK が放送した四日市公 害の実情を伝える番組は学習の場で大いに活用されたという
(24)。
(3)小樽運河保存運動とその中での学習
小樽運河はいま小樽市の賑わいの中心にあり、北海道を代表する歴史的景観とし て、この町を道都札幌以上に魅力あるものとしている主役である。だが、ここを訪れ る若者のほとんどは、一度はこれが行政側の愚かな計画によって完全に姿を消す運命 にあったことを知らないのではあるまいか。
私は1 9 8 3年の拙著で次のようにここで起きた問題を語っている。 「小樽港はかつて 北海道開拓の門戸として、また道内一の流通センターとして繁栄した。道内の米、小 豆、ニシン、コンブなどの物産は運河沿いの倉庫に貯えられ、沖合いの船との間を艀
(はしけ)
がいそがしく往復した。市の中心部にはこの物流を背景として銀行が立ち ならび、 『北海道のウォール街』と称されたものだった。小樽運河は1 8 9 6年
(明治29 年)に計画され、大正年間に入って完成したもので、全長1, 3 2 4メートル、幅4 0メー トル、港に沿って弓形に作られている。両側の倉庫は『木骨石造』と呼ばれる珍しい 工法で建てられたもので、最盛期には1 6 6棟をかぞえた。現在でも明治期に建ったも の数棟をふくむ倉庫群が運河に影をおとし、独特の景観を形作っている。小林多喜 二、伊藤整、中村善策などの作家・画家に愛されたこの運河は、今も市民の憩いの場 として散策の道となり、画架を立ててスケッチする老人の姿も見られる。しかし、小 樽の町も時の流れのなかで変化した。札幌が道都として繁栄するのに反比例して町は さびれ、運河にそそいでいた小川も暗渠のドブとなり、運河の水を汚すようになっ た」 。埠頭岸壁ではなく、運河を掘り、艀により荷揚げするという港湾整備計画が小 樽に特有の景観を生み出したのだが、近代から現代へと効率を追求する流れが加速す る中で、運河はその機能を失ったのだった。
この汚れた運河を埋立てて6車線道路を建設するという計画が出てきたのは、ある 意味では「合理性」があった。 「公有水面である運河を埋立てれば用地取得の面倒は ないし、使命を終えた運河も倉庫も無用の長物だと考えられたのである。だが、そこ
−16−
には、運河について市民の感じている精神的価値への配慮が全く欠けていた」
(25)。 運河埋立計画が立てられたのは1 9 6 6年だったが、 「実際に工事にかかったのは7 2年 になってからであった。札幌よりの有幌地区の見事な倉庫群が運河部分2 0 0メートル とともに、またたく間に壊されてしまった。このままでは小樽運河が消えてしまう―
―危機感をもった一部市民によって『小樽運河を守る会』が結成されたのは、翌年の 1 2月であった。立ち上がりは遅かったが、運河の一歩手前のところで道路建設を止め
ることができた」
(26)。
しかし、小樽市は一貫して保存運動側との話し合いを拒否し、小樽商工会議所を中 心に「小樽臨港線整備促進会」が設立され、市の広報なども積極的にこの道路の必要 性を宣伝する。
危機に立たされた市民運動は間もなく、札幌に「小樽運河問題を考える会」
(道内 在住の学者・文化人が発起人となり、色川大吉、瀬戸内寂聴、吉田精一など道外文化人が加 入)、東京に「小樽運河を愛する会」
(小樽市出身の作家夏堀正元が会長で、船山馨、滝沢 修、山田洋次らが加入)など、全国的な広がりを持つようになる。これは、小樽運河と そこに並ぶ倉庫群の景観が、神戸、長崎とならぶ「三大景観地点」だという評価
(1970 年日本建築学会明治建築小委員会)が確立していたからであった
(27)。決して市民の主観 的愛着だけではない、文化遺産としての確固とした地位が全国に保存運動を広げたの であった。そして、この運動は単なる景観保存だけではない、広範な学習活動ととも に展開されたところにもう一つの特色がある。
私が『歴史を保存する』のために参考資料を収集したのは3 0年以上も前であるが、
この運動について強く印象に残っているのは、札幌や道外を含む講師陣をそろえた小 樽運河研究講座である。当時の運動報告
(28)によると、1 9 7 8年1 1月から1 9 7 9年2月ま での第1回の講座は次の1 0回で組み立てられている。
第1回「小樽の街の魅力」倉本聡(脚本家)ほか。
第2回「歴史的街並みの保存と再生」足達富士夫(北大教授)ほか。
第3回「小樽運河の形成とその背景」遠藤明久(北海道工大教授)ほか。
第4回「地域自立の、街づくり」重村久(神戸大講師)ほか。
第5回「地域での試み」小崎隆(編集者)ほか。
第6回「小樽の文学風土」小笠原克(藤女子大教授)ほか。
第7回「環境保全」 「水と緑の再生」神山桂一(北大教授)ほか。
第8回「小樽その将来像」市内経済人・文化人。
第9回「小樽への提言」西山卯三(京都大名誉教授)ほか。
第1 0回「小樽の街づくりと運河」竹山実(武蔵野美大教授) 。
この講座の講義録は1 9 7 9年7月に出版された。運河埋立が市議会で議決された3カ 月後の1 9 8 0年2月から4月まで、第2回の小樽運河研究講座が開催され、次の1 0回で
−17−
組まれている。
第1回「魅力あるまちづくりと交通」岡並木(交通問題研究家) 。
第2回「歴史的まちなみの再生とまちづくり」石川忠臣(全国町並保存連盟理事) 。 第3回「歴史的まちなみの再生と町づくり」木原啓吉(環境問題研究家) 。
第4回「魅力あるまちづくりと交通−旭川買物公園の例を通じて」五十嵐広三(旭 川市長) 。
第5回「小樽のまちづくりを考える①―小樽運河公園構想批判」重村久(神戸大講 師) 。
第6回「小樽のまちづくりを考える②―小樽復興の経済学」篠崎恒夫ほか。
第7回「小樽のまちづくりを考える③―水辺の活用・マリンスポーツセンター」北 海道外洋帆走協会ほか。
第8回「小樽のまちづくりを考える④―緑づくりの歴史・明治小樽林業史」渡辺惇
(北海道営林局) 。
第9回「文学に於ける風土」高野斗志美(旭大教授) 。 第1 0回「総括討論会」 。
第3回の小樽運河研究講座も企画され、1 9 8 1年に5回ほど実施されたようである が、資料的限界でその内容を記すことができない。しかし、この2 0回の講座の構成を 見るだけでも、この運動の全国的広がりと、学びの深さを知ることができる。小樽運 河保存運動は、これ以外にもさまざまな研究と学習の活動を伴って進行した。そこに は、小樽運河を守る会、都市遺産研究所、日本科学者会議道支部公害委員会、歴史的 環境調査研究委員会、北大建築史研究室、小樽経済史研究会の6団体が1 9 7 7年に刊行 した『小樽運河総合調査報告書』、財団法人観光資源保護財団が1 9 7 4年に西山卯三
(京 都大名誉教授)らがスタッフとなって完成した『小樽運河と石造倉庫群』などの刊行 物、1 9 7 8年に運河倉庫二階で開催された石造倉庫セミナー「歴史的環境」 、のべ5 1日 間上演された「運河紙芝居・ニャン太は運河が大すき」 、雑誌の小樽運河特集など、
実に多彩なものがある
(29)。
しかし、1 9 8 2年の年末段階で原稿を書いていた拙著の小樽運河の項の末尾には、
「しかし、今、この時点で、小樽運河の前途はきわめて暗い」と書いたように、計画 された道路は、運河を半分埋立てて1 9 8 5年に完成した。
私が小樽の街を初めて訪れたのは、運動が展開されていた頃から2 0年を経た2 0 0 1年 であったが、小樽運河とそれを前に立ち並ぶ倉庫群は、少なからぬ歴史的建造物が点 在する小樽の景観の要として、独特な存在感をもっていた。倉庫群前では幅4 0メート ルの運河の半分は埋立てられたが、倉庫の対岸に整備された遊歩道は市民の憩いの場 であり、観光客が運河と倉庫群の景観を眺める場として賑わっていた。倉庫も内部は お洒落なファッション売り場やビアホールに改造されて、うまく観光に利用されてい
−18−
る。運動関係者は運河の半分が埋立てられたことを敗北と受けとめたようであるが、
私は、かなりの成果を生み出した運動であったと感じた。道路建設後の新市長の方針 により、残された運河の北半分には手をつけず、4 0メートル幅のまま護岸や散策路が 整備された。
こうした市民の運動がなければ、今の小樽の姿はない。ただ、小樽運河と共に暮ら してきた方々にとって、半分残ったとはいえ、身を切られるような痛みがあったのだ とも思う。
歴史的文化遺産の保存に長年関わってきた私にとっては、苦労した運動の成果とし て、行政からある程度の譲歩を引き出した後、それが「整備」されていく姿に感じる なんとはなしの違和感を共有する思いである。
(4)原発反対運動の中での学習
話の順としては、ここで当然、原発反対運動の中での学習を取り上げなければなら ないのだが、資料の限界であまり詳しく述べることができない。当然ながら、闘う相 手が国と一体になった電力会社であり、有り余る資金力でマスコミを抱きこんでいる のだから、しっかりと学んで、理論武装をしていなければ闘いにならない。
ここでは、北海道岩内原発反対運動の中での住民らの学習を文献
(30)から紹介して おきたい。1 9 6 9年7月に北海道電力が岩内湾内に原発建設を計予定して発表される や、岩内漁協とこれを取り巻く住民たちが、反対運動のかたわら、先進地の見学や活 発な学習活動を展開し、その成果を『原子力公害と沿岸漁民』と題する1 0 6頁に及ぶ 充実した冊子にまとめた。この冊子の最後のまとめでは、次のように述べられている。
「いうまでもなく、私達は漁民であり、公害のこと、原子力発電所のことなどは 全くの素人です。資料一つを蒐集するにも素人なりの苦労がありました。そして集 まった資料の解説には、全く専門外の本との根気と努力の連続でした。原子力公害 は吾々漁民だけの問題ではなく、地域住民は勿論、日本国民の問題としてアプロー チしなければならない重要な課題です。この報告書では、放射能、温排水、安全の 問題等について沢山の疑問点を提出しました。これらの疑問について、われわれが 生活の場で考察し、納得したものでなければ賛成できません。良い環境の中で生き ること、漁業に従事することが最大の幸福であり、魚は自然のままの環境でなけれ ば住みつかないことをわれわれは身をもって体験しているからです」 。
これが1 9 7 0年に北海道の小さな町の漁民の手によることが何よりも驚きである。原 発反対運動も、多様な学習が支えていることが分かる。
1 9 8 8年に刊行された原発反対運動のガイドブックでは、第三章の「何をやればいい だろう」で、①本を読む、②新聞・雑誌を読む、③ビデオを見る、④講師を呼ぶ、⑤ クチコミで伝える、⑥ミニコミ誌を出す、⑦街頭へ出る、⑧芸術活動で伝える、⑨講
−19−
演会を持つ、という学習と運動の方法、そして、第4章の「抗議する」でも、現地へ でかけることが勧められている
(31)。
また、住民投票を含む長期にわたる反対運動で原発誘致を阻止した新潟県巻町での 闘いの中でも、 「学習し合う町民たち」として、市 民 の 学 習 活 動 が 紹 介 さ れ て い る
(32)。
そして、国民多数こそ政府・電力業界の根拠のない安全性論を信じさせられていた が、反対運動の起きた地域の意識ある住民は、上からの世論形成が偽りであることを 着実な学びあいの中で、また、推進側の主張が信ずるに足りないことを身体感覚で理 解し、少なからぬ地域で原発建設を阻止することに成功してきた。そして、福島第一 原発の事故の全容が次第に明らかにされていく中で、これ以上の報告に紙数を割くこ とはひかえたい。
3 自己をとりもどし、周囲を変えていく学習
(1)闘いの中での学習から地域再生の学習へ
前章では、自由民権運動、コンビナート反対運動、歴史的景観保存運動、そして原 発反対運動を取り上げて、いずれも権力に対抗する側の闘いと学習を概観してきた。
私自身が退職に際して、 「物言う大学人」
(2010年3月15日朝日新聞山梨版)、 「歯に衣着 せぬ物言いが名物」
(2011年3月30日山梨日日新聞)と評されたように、権力にすり寄る ことを嫌う性格であるから、どうしても運動側にシンパシーを感じて、やや図式的に 論述しすぎたかとも思う。
地域での運動の場合、その課題が重ければそれだけ、運動が終焉した段階での地域 社会の亀裂は深くなる。運動の目的を達成することは重要だが、それだけが全てでは ない。公害反対運動にも共通するが、反原発運動の場合、ともかくは降りかかる火の 粉を防ぐことが目標になる。しかし、どのような形であれ、運動が終息した後の地域 の人間関係を再生させることは不可欠の課題である。
2 0 1 1年夏に筆者は初めて水俣病の発生地である熊本県水俣市を訪れた。水俣湾には 陽光にあふれ、微風を受けてさざなみが岸辺を洗っている。しかし、その湾を囲む芝 生に覆われた運動公園が有機水銀を含むヘドロを浚渫して埋立てた跡地であることを 知ると、平和な光景の背後にある苛烈な歴史に言葉を失う。市立の「水俣病資料館」
見学の後、ここでは得られない原資料を求めて、患者が最もたくさん出た鹿児島県と の県境に近い場所にある財団法人水俣病センター相思社の設置している資料館を見学 させていただいた。
ここには実になまなましい患者さんの苦悩の跡がある。現在も患者さんたちの生活 支援を続けつつ、相思社に集う人たちは静かに水俣の再生を考え続け、活動し続けて
−20−
いる。同社が刊行している機関紙『ごんずい』1 2 3号
(2011年11月25日)の「特集:水 俣のマチ作りをどうするのか」の巻頭に同社の遠藤邦夫が書いている「リード」の一 部を引用してみたい。
「水俣病特措法のうち患者救済については、患者自身が声を上げ実施を迫った経 緯があり、チッソ救済についてはチッソばかりでなく、政府も利害を共通するもの として取り組んできた。その結果、患者救済策が2 1 0万円の一時金と被害者手帳と して実現され、チッソ救済が JNC 分社化として実現した。残る『地域社会の絆を 図るための事業、地域の振興等』はどうなのか? 現時点に至るまで、水俣の地域 住民が形になったと実感できる『地域社会の絆を図るための事業、地域の振興等』
は存在していない。水俣市が進めている環境円卓会議は、それを形にする努力の一 つではあろう。先日の環境円卓会議拡大推進委員会で、専門委員の水戸岡鋭治さん が『デザイナーとしての私は、地元から上がってくる意志を形にすることはできる が、それが漠然としている段階ではすべき仕事がない』
(大意)と述べた。水俣地 域にはさまざまな意見があり、一つの方向性を持たせるのがなかなか難しい状態 だ。さまざまな意見があることは良いことだが、意見を言い放しで終らせるのでは なく、もう一歩先に進めて『それを実現する具体案』にまで煮詰めることが必要な のだ。問題点の指摘、理想型の追求、あるべき正義の主張等々をそこに止めるので はなく、更にその先まで進めて何らかの実行提案にまで進めたい。そこに至る議論 の共有化、仕組み作り、資材の蓄積等を周到に準備して、好ましい結果を誰にでも 分かる形で実現することが、 『地域社会の絆』や『地域振興』の実例である」 。
(後略)ここにはまさに、チッソや水俣市などの抑圧から立ち上がった患者さんの闘いが、
新たな段階に入っていることが示されている。被害者側から呼びかける地域再生の言 葉は重いものと考えなければならない。
(2)抑圧をはね退ける主体形成
ここまで考えてきて、この問題が抑圧者対被抑圧者の関係であることに改めて気付 かされた。2 0 1 1年1 0月3日から朝日新聞夕刊に「原発とメディア」という長期に及ぶ 連載が掲載された。その5 3回目
(2011年12月19日)で、原子力船「むつ」の放射能漏れ が扱われ、当時『週刊朝日』
(1974年10月11日)に掲載された論調が紹介されている。
ここには原発が立地する過疎地域の人々への、差別的な視線がはっきり出ている。こ の記事は「原子炉の持つ潜在的な危険性を、だれが分担するかは、国民的な問題」だ として、次のように述べている。「工場の爆発、亜硫酸ガス、光化学スモッグ、悪臭、
汚水、騒音、交通事故……
(略)いなかの人たちは、
(都会の人たちが作る)工業製品の 恩恵にあずかっている」 、 「いなかの人たちは、ありえないほどの微小な
(放射線の)危険性を分担してもらおう、という考えは、不当だろうか」 。
−21−
筆者は当時の科学部デスクだとされている。ここにはリスクの分担という名の下 に、危険性を自分達から遠ざけたいという都市在住の知的職業人のエゴが、意図され ないままにはっきり描き出されている。そして、こうしたむきだしのエゴではないに しても、われわれ自身が、原発の直接の危険性から無縁な地域にあることに安住して いることに慣れ、そこから政府・電力業界の根拠のない安全性論を信じる心の傾きを 持ってしまったのではないだろうか。
原子力ムラに身をおく学者・技術者は、自分達の知識・技術の限界をよそに、原発 に反対する者を無知蒙昧と考えていた。1 9 5 6年原発導入が急がれていた頃、読売新聞 が掲載した座談会で、原子物理学者嵯峨根遼吉はこういう。 「放射能は確かにこわい ものですけど、よく研究すればこわがらなくてもよいことがわかる時期がきます ね」 。これに中曽根康弘は「こわがるのはバカですよ
(笑)」と推進派の本音をもら す
(33)。
こうして模索してきたものの実体がようやくおぼろげながら見えてきたように思 う。それは、学ぶもの自身が自分の置かれている状態をはっきり自覚的に捉え、学び の中できちんと自己を取り戻し、危険を一方的に押し付けられている状態、あるい は、危険そのものに気付かされていない状態から抜け出すことではないか。
最近、原語から新たに翻訳されたパウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』
(34)を手 にする機会があった。
フレイレはブラジル東北部の生まれで、当初弁護士として活動を開始したが、地域 の文字を読むことすら出来ない農民たちの境遇を目にして、自分達のくらしを意識的 に変えていく識字教育に専念するようになった。 『被抑圧者の教育学』はその実践の 中から生まれた著書であり、エンパワーメントという言葉を生み出した作品としても 知られている。改めて読んでみて、新しい感動があった。これまでの私自身の模索の 道筋を照らすような、心に残るいくつかの部分を引用してみたい。
「反―対話的な行動を理解するための第一の特徴は、それが必然的に征服という 形をもたらすことであろう。反―対話的な支配者は、自らの支配する相手との関係 において、とにかく征服するために、ありとあらゆるやり方を使う。手荒なやり方 から一見ソフトなやり方まで、より強権的なものから温情主義的な甘やかな
(マ マ)手口まで」
(35)。
「反―対話的な行動理論のもう一つの特徴は、いわゆる大衆操作である。すでに 述べた分割統治と同様、大衆操作も征服のための手段であり、実際、すべての反―
対話的な行動の理論は征服に資するものである。大衆操作を使って、支配エリート は自分たちの目標とするところに一般大衆を誘導しようとする。一般の人たちが政 治的に未熟であればあるほど
(彼らが地方に住んでいても都市に住んでいても同じであ る)、権力を失いたくない支配エリートたちが大衆操作するのは容易になる」
(36)。
−22−
「最後になるが、反―対話的な行動の理論には、最も基礎的で重要なもう一つの 特徴がある。それが文化侵略であり、前にあげた分割統治、大衆操作と共に征服に 資する方法である。文化侵略とは、支配の対象となる人々のもつ潜在能力をばかに しつつ、侵略される人たちの文化的な文脈に侵入し、浸潤し、侵略者の世界観を押 し付け、創造性を押さえ付けて成長を邪魔することである」
(37)。
上から与えられる、支配側の価値観を凝縮した教育
(フレイレはこれを「銀行型教育」と呼ぶ)
に対して、フレイレは対話型の教育とこれを通じた自己形成を強調してい る。このフレイレの言葉を理解する一助として、宮坂広作の次のような言葉を引用し ておきたい。
「自己形成というのは、社会や歴史によって規定される人生にあきたりず、自己 の意志、自己の選択と決定にもとづいて、自覚的にわが人生を創造して行こうとす ることである。伝統文化によって規制され、常識に支配されて他者と同じような行 動をするのではなく、創造的・個性的な人生を送ろうとする営みである。そもそも 人間というのは、さまざまな欲求とアイデアを生み出し、多様な生き方ができる存 在であり、自己を変化させることへの願望を持った存在である。環境に適応するた めに自己を変えるだけでなく、環境を変えるために自己の能力を高める。環境を変 えつつ、自己を変えて行く」
(38)。
おわりに
いま現在、実際に稼動している原発は以前より少なくなっているが、地震の巣と称 される日本列島の1 7箇所に5 4基の原発が存在している。稼動していなくとも、そこに は使用済み核燃料がプールに貯えられており、運転こそされていないが、核燃料が装 填されたままになっている原子炉が少なくない。国民が本当に安心を感じられるまで には、数世代を要するであろう。このような状態を現実化させてしまった責任は、こ こ数十年の日本社会を担ってきた筆者らを含む世代にある。その責任感から、小論を 綴ってきたが、もとより力不足であり、説得力にとぼしいことは否定できない。しか し、この作業が無駄でないことを信じている。
世論はいま、脱原発に大きく傾いているが、なおも巨大技術に依存しようとする声 も衰えていない。1 9 9 3年に宮坂広作は、地球温暖化に関連して次のように、安易な原 発依存への危機感を語っている。 「化石燃料を消費すれば大気をおかしくするから、
クリーンな原子力発電をふやしていこうなどと言う者がいる。科学者などで、ほんと うはそれがよいのだが、無知な民衆の中に原発にむやみに反対する輩がいてと、苦々 しげに語る者がいる。しかし、原発もまた人間のさかしらな科学技術によって、自然 をダメにし、人間生活を破壊する危険性にみちていることは、すでに実証されてい
−23−
る。自然に対する人間の優位、科学技術による自然条件の克服というのは、産業主義 の時代には進歩の思想であったが、いま、それは人間の存在を危うくしかねない保守 的イデオロギーとなった。人間と自然とのあいだのおだやかな共生、人間のエゴイズ ムを自制した地人の相関関係をつくりだすことこそ現代人の英知だといわねばならな い」
(39)。
2 0年近く前に語られたこの言葉に、もはや付け加えるべきものはない。 「現代人の 英知」を着実に形成する課題が、残されたわれわれに課せられていることを確認して 筆をおく。
注
1 『大学改革と生涯学習』創刊号、1997年、25頁。
2 なお、この放送の中から29本を選び出して2010年2月末に『教えて椎名先生―コミュニ ティー放送の知的冒険』(山梨新報社)とし刊行した。
3 北田耕也「明治啓蒙と社会教化」碓井正久編『日本社会教育発達史』亜紀書房刊『講座・
現代社会教育』Ⅱ、1980年、7頁。
4 藤田秀雄・大串隆吉『日本社会教育史』エイデル研究所、1984年、4〜5頁(藤田秀雄 執筆。
5 椎名「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習』5号、2001年3月、17頁。
6 石井敦編『図書館及び図書館史』1990年、雄山閣、164頁(石井敦執筆)。 7 藤田秀雄・大串隆吉『日本社会教育史』エイデル研究所、1984年、14〜15頁。
8 北田耕也・前掲論文、39頁。
9 同、39〜40頁。
10 色川大吉『民権百年―その思想と運動』1984年などを参照。
11 千葉卓三郎については、色川大吉『民衆史―その100年』(講談社学術文庫、1991年)に 収録された色川の講演「民衆憲法の創造者」に詳しい。
12 色川大吉編『三多摩自由民権史料集』(上・下)大和書房、1979年。
13 石川敦編『図書館及び図書館史』講座『図書館の理論と実務』10、163頁(石川敦執筆)。
14 稲田雅洋「自由民権運動」『岩波講座日本通史』17巻、81〜83頁。
15 飯島伸子『環境問題の社会史』有斐閣アルマ、2000年、147〜148頁。
16 西岡昭夫「三島・沼津・清水二市一町石油化学コンビナート反対運動」ジュリスト458 号、1970年、117頁。
17 奥田道大「マス・メデイアによる地域社会の発見―沼津・三島地区石油コンビナート反 対運動の事例分析」新聞評論16号、1967年、59頁。
18 西岡昭夫「三島・沼津・清水二市一町石油化学コンビナート反対運動」ジュリスト458 号、1970年、118頁。
19 西岡昭夫・吉沢徹「三島・沼津コンビナート反対運動のもたらしたもの」経済評論15巻 9号、1966年、159頁。
20 飯島伸子・西岡昭夫「公害防止運動」岩波講座『都市政策Ⅳ・都市と公害・災害』1973
−24−