変容的学習論と「個人性」をめぐる雑考
永 井 健 夫
1) 「個人偏重」への批判
習慣化された思考の在り方や認識の方法・枠組を省察的・批判的に検討し、それを 改めてゆく過程である「変容的学習(transformative learning)」(ex. Mezirow,1991)は、
ひとまずの人格形成や社会化を経験した後にこそ成り立つという点で、成人期に特有 の学習であると言える(永井,2007)。この学習過程を経て、人は経験の統合や意味解 釈の力に優れたパースペクティブへと至り、人間的成熟を深めることになる。その意 味で、このパースペクティブ変容の学習過程は「成人期における発達の中核」である される。
Mezirow は、この変容的学習の過程を支援することが成人教育者の基本使命だと 考える。その学習過程に彼が期待するのは、成人学習者が責任ある社会的存在として 自律的・主体的に判断し行動する力を高めることである。つまり彼は、自分自身の在 り方を能動的、積極的に決定しうる自己主導的な能力や経験解釈力を備えた状態を、
成人としての望ましい人間像として重視しているのである。
このように個人としての自律性に強調点を置く彼の主張は、その解放・変革を志向 する論調への共感も加わって、成人学習の意義・方向性を明確に提示する議論として 広範な支持を得てきた。その一方、Mezirow 自身が言及するように、教育を歪める 権力の問題や成人の学習や発達を妨げる社会的要因についての分析が不足したまま、
「個人としての変容(personal transformation)」に焦点を置きすぎると批判されること も多い(Mezirow,1991,p.206)。ここでは先ず、変容的学習論をめぐって生じてきた論 争のうち Inglis(1997,1998)と Mezirow(1998)の遣り取りについて瞥見して、「個人 性」をめぐる論点の具体例に触れておきたい。
Inglis(1997)は、既成のシステムや権力構造の範囲内における行為能力の高まり を意味する「エンパワメント(empowerment)」と、権力構造の批判的分析とシステ ム変革の実践による自由の獲得としての「解放(emancipation)」を区別して捉え、エ ンパワメント概念が権力に服従的な職業訓練や経営科学を構成する要素となっている 近年の現状について検討を試みている。その文脈のなかで Inglis は、Mezirow の主 張には次のような問題点が含まれていると指摘する(pp.6-10):
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①「変容的学習論は個人的な発達の次元に留まり、共同的社会行動に積極的でな い」という批判への反論として社会的行動の必要を掲げるものの、Mezirow は社会変革の主導力を社会運動ではなく個人に頼り過ぎている。
②「構造主義的な観点」(諸個人は権力構造の要素として機能する;諸個人の主体性に
より構造は再生産も変革もされる、という捉え方)が拒絶されている。
③認識枠組の変容に着目する Mezirow は、現実を命名し自らの声を得ることで 人は自由に至ると捉えるが、そこでは新たな社会実践は「非社会的で真実的な 自己」の発見をとおして創出されるかのようだ。
④Mezirow は「意識の哲学」を放棄し、コミュニケーション理論に依拠してい るようでありながら、人間の主体性や意識が社会存在(social being)を決定す ると捉え、客観的物質世界に対置される自律的な理性主体が成り立つかのよう に考えている。
⑤抑圧的権力を克服するためには権力の発見・分析が必要だが、Mezirow は権 力作用についての理解を促す既存の理論の導入に消極的であるように見える。
要するに、Inglis からすれば、Mezirow は「解放の教育」を謳うにもかかわらず、
「権力が生活の中でどのように作用しているか」を積極的に読み解かないまま、合理 的コミュニケーションの先に公正で自由な平等社会を楽観的に期待しているに過ぎな い。つまり、社会的な解放・変革を真剣に求める議論ではなく、個人レベルの「エン パワメント」の範囲に限定された心理主義的な学習論に終わっているとして、Inglis は Mezirow を批判するのである。
この批判に対して Mezirow(1998)は、Inglis は架空の議論を捏造しているだけで あると反駁する。そして、構造主義的な見解を否定しているとされるがそれは異な る;意識が社会存在によって決定されないと主張したことはなく、むしろ認識枠組は 文化コード、社会規範、イデオロギー等が同化された混合物であると説明してきた;
社会運動は変容的学習にとって潜在的に強力な推進力(agency)である;自らの声で 語れぬまま自由になれることはないはずだ;エンパワメントと解放には多くの次元が ある、等々の反論を試みている。
この反論に対する Inglis の再批判もあるが、この論争の詳しい検証は別の機会に試 みたい。ただ、両者の発想の違いを象徴する一例として、「批判的自己省察」の意味 づけに関する不一致が見られる部分に注目しておきたい。
Mezirow は、学習者が自らの内に潜む社会的・文化的な要素や条件を読み解くこ とから社会・文化の全体理解へと至る過程に重きを置こうとする。その学習論は、自 己意識の覚醒や自己理解を深めることだけでなく、社会・文化の構成主義的な理解を 目指すものであり、批判的自己省察はそうした認識の転換につながるものとして鍵的
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な意味がある。他方、認識を制約する社会的・文化的な前提や期待から解放される必 要性を Mezirow(ex.1981,pp. 6-9;1997,pp. 5-7)が主張するのと同様に、Inglis も 人々 が自由になることを学ぶためには、自らが個人として構成されてきたところの構造に 関する知識と理解を発達させなければならない と述べる(1998,p.73)。その際、
Inglis が求めるのは社会構造それ自体についての学習である。Inglis は、「解放」の契 機として Mezirow が着目する批判的自己省察とは「自己意識的になること」でしか なく、それでは現実的・批判的な社会理解には至らないだろうと批判するのである。
ここに見られるのは、以前から繰り返された対立の図式である。たとえば、Collard and Law(1989)や Hart(1990)は、Mezirow の主張が非政治的であること、あるい は権力・支配関係の問題を軽視していることを批判している。また、Clark and Wilson(1991)は、Mezirow の理論は個人本位であり、個人と社会文化的・政治的・
歴史的文脈との構成的な関係を見落としていると指摘している。つまり、変容的学習 論における個人的・人格的な次元と社会構造や社会運動との関係について、批判者た ちは「個人」の偏重と非社会性を強調してきた。それに応ずる Mezirow は、変容的 学習には制約的前提からの解放や社会的行動への取り組みも伴うと主張するなどし て、理論の非社会性を打ち消し続けてきたのである。
こうした対立は、立場の違い、つまり人間や社会についての関心の方向性の相違を 反映した必然的な展開である。たとえば、変容の意味を批判的社会理論と分析的深層 心理学の双方の観点に即して説明する Scott(1997,特に pp. 42-43)の議論が示唆すると おり、「社会」を重視する立場からすると、「個人」は社会的集合体に包含された存在 であり、社会の改革・変革は個人の努力ではなく、あくまで集団的・組織的な運動力 がもたらすものだ、ということになる。社会の全体構造やシステムの問題により強い 関心を置いて考えれば、個人の学習や人格的変容が社会変革の過程の中で生じる副産 物のようなものに見えても不思議ではない。そうした観点からすれば、「先ずは、個 人の認識を解放してから。いずれ社会変革に…」という変容論の展望は、遠回り過ぎ る非現実的な夢想のようにも映るだろう。
しかしながら、社会のシステムや権力構造の次元に集中しすぎれば、それも半面真 理的な主張に陥る恐れがある。社会的に構成される存在であると同時に、独自の内面 世界を備えた心理的存在でもあるのが人間である。だから、教育・学習の理論として は、「個 人」か「社 会」か と い う 対 立 的 な 発 想 は「誤 っ た 二 分 法」(Mezirow,1991,
p.208;cf.1995,p.68)であると言える。Mezirow が目指すのも両方の視点や論点を統 合しうる成人学習理論であろう。ただ、 もし、世界を変革すること、あるいは、変 革できるよう、世界の捉え方(assumptions)の変容に向けて学習者を支援すること、
いずれかを選択をせざるをえないなら、私は躊躇なく後者を選ぶ (1998,p.72)と明 言するように、彼はやはり個人の学習過程に関心の比重を置いている。その点に留意
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して言えば、Mezirow が展開しているのは、あくまで「個人」を基本としつつ「個 人」と「社会」の相互変革に至る学習の在り方について探る議論である、と記述する ことができる。
2)現代社会と「個人化」
ところで、立場や関心の問題とは別に、「個人」に注意を向けるよう迫る現代社会 の特質のような要因の存在に留意する必要がありそうだ。この点について、少し触れ ておきたい。
かつて Lindeman(1926)は、個人の人格・能力特性について次のように捉えた:
人格や能力は 知識が力となり、力が自己表現、自由、創造性に繋がり、創造的自由 が快い経験を呼ぶ世界へ、遂には専門分化した学問のもとで知識が進歩する世界へ
(p.147)と適応するなかで高まってゆくものの、それは社会的文脈の中にあってこそ 意味がある。ところが、個人主義者となってこの共同性から外れてしまうと 自然な 向上心が挫かれるだけでなく、自分自身が自らの目標の向上に対する抑制原因になっ てしまうのである (pp. 148-149)。
20世紀の初頭、Lindeman が当時の社会状況の中に見ていたものは、個人の意志以 前に作用する共同性の圧力や集団主義の支配であった。そのような当時、「個人」で あろうとすることには、言わば、哲学的・知的な態度表明という意味があったよう だ。やがて、彼が集団主義の源泉と見なした科学と産業技術(ibid., p.152)がさらに 発展し、今や時代は、経済・産業の拡大に伴う諸問題に対峙しながら進む「再帰的近 代化(Reflexive Modernisierung)」の過程にある。そして現代社会は、豊かさと裏腹の 関係で生じる制御困難な危険に溢れた「危険社会」として成り立っている(Beck,
1986)。
そのように推移する間に、「個人」であることには、Lindeman が捉えたのとは別 の意味が加わるようになった。Beck によると、第二次世界大戦後の福祉国家におい て、生活水準の向上と社会保障の整備が進むなか、人々は伝統的な階級や家族関係か ら解放され、個人としての自分の運命にいっそうの注意を払わざるをえない状況を迎 えた(S.116)。以前は、自らが属する集団の運命として生じてきたことが、諸個人に 横断的に降りかかるようになり、誰もが より多様で、より対立的で、亀裂が多く、
ずっと不確実な (S.149)人生を生きなければならなくなった。すなわち、共同性の 圧力に替わって、「個人化(individuation)」の圧力が現代人に作用しているのである。
この「個人化」という時代の傾向により、成人の教育・学習も様々な影響を被るこ とになる。その点について、Jansen and Van der Veen(1992)は「個人化の過程がも たらす教育的適応の陥穽(pitfall)」として4つの問題を挙げている(pp. 278-280)。以
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前に別のところでも少し触れたが(永井,2004)、その指摘するところを改めて整理し ておくと、以下のとおりである:
①合理的・伝統的基礎の欠如と商業主義の影響
社会的・イデオロギー的絆からの解放によって個人の選択が合理化されることの ないまま、社会的関係と物質的生産の双方において個人は「慣習の放棄」に至 る。たとえば、伝統的な生活の哲学とイデオロギーの影響は減衰し、人々は商業 主義(commercial interests)に絡め取られた消費中心の生活様式のなかにアイデ ンティティを求めるようになる。成人教育としては、風潮や流行への依存を克服 する「生活技法(savoir vivre)」へと生活様式を高めるよう、人々を支えること が課題となる。
②「人生の重要事」をめぐる個人の責任の増大
対処能力を超える状況について個人の責任が問われ、解放やエンパワメントでは なく、強制と屈辱を経験する。成人は、転職、別離、旅行などの「人生の重要事」
によって発達し、この「重要事」への対処が学習プロジェクトとなるが、「個人 化」のために重要な出来事に直面する機会が増え、自ら学習プロジェクトに取り 組む責任が増す。その場合、事実や実践的技能の習得よりも、責任や不安に関す る基本態度が学ばれるべき内容となる。
③人生の意味づけの私事化と移行期の危機化・長期化
成人期のアイデンティティ発達は目的、憧れ、価値によって方向づけられるが、
伝統的なイデオロギー制度(教会やコミュニティ)の弱体化により、それらの目 的、憧れ、価値も私事化される。年齢に対応した標準的な移行であれ、離婚や失 業などの非標準的な移行であれ、正しい方向性や規範的な解決法を見出すことが 難しく、人生の移行期は長期化し危機的となりがちである。そのため、成人教育 としても移行期のカウンセリングが主要な仕事となりつつある。
④社会的不平等をめぐる責任の個人化
初期の産業社会段階では労働市場の従属性は共同的・階級的なものとされていた が、今や失業と貧困は個人が負うべき責任とされ、「社会的不安定の民主化」と も呼ばれる状況にあり、新たな形の社会的不平等が深刻に拡大している。成人教 育は、特定の集団や立場(失業高齢者、女性、移民等々)ごとに集中する形で行わ れるなら、社会的不平等が暗黙裡に統合されてしまい、被雇用者と失業者の連帯 や失業者集団の部分集団どうしの連帯が損なわれる恐れがある。
いずれも、成人教育・学習のあり方を個人本位の方法や対応に向かわせるように作 用する問題である。今日、集団や組織を基礎単位とする効果的な教育実践が成り立ち
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にくくなっているとすれば、Jansen and Van der Veen の指摘はそうした傾向の背景 説明としても理解できよう。
他方、Jarvis(2007)も、生涯学習の考え方の出現につながった社会的変化につい て検証するなかで、個人化の問題について言及している。それによると、産業革命以 前の社会は、農業を中心とする地域本位の社会であった。そこでは、文化的に成り立 つ知識が聖職や王権を核とする社会構造を正統化し、翻って社会構造の側は文化的な 知識を正統化する、という関係が見られた。そして人々は、このように成り立つ社会 の中へと通過儀礼を経験しながら編入され、そこでの地位・役割を得てゆき、それと 共に社会の構造の方も再確立・再強化されていった。ところが、産業革命以降、社会 や人間関係の基本様式は静態的・人格的なコミュニティから開放的で柔軟な構造のア ソシエーションへと変わり、人々はコミュニティとともにある存在ではなく、個人と してある存在となった(pp. 36-39)。こうして、我々は次のような個人化の状況を生き るようになっているという:
この社会においては個人は世界の中で更に「孤独」である。結婚とか家族といっ た人間関係の最も深いところのものさえ、その構造はいっそう一時的になってい る。個人は人間関係に優先する――個人的権利が、時として、社会的要求よりも 重要に見えるようなこともある;個人の責任は個人的欠乏に服従するように見な されることもある;人々から得られる情報のほうが人々へ関わることよりも重要 である、等々だ。(p.38)
このように個人本位で振る舞うことが当たり前となった現代人であるが、そこには
「従順さ」という特質が備わっているという。Jarvis の指摘によると、個人化された 現代の我々は強靭な「個」として独立しているわけではなく、むしろ全く反対の傾向 にある。つまり、拠り所となるべきコミュニティを喪失しているがゆえに、「他者と 同じようでありたい」という共通性感覚を求め、「トレンド」に合流することに意を 注ぐようになっている。それは、ちょうど Riesman([1950]2001)が現代人の傾向に ついて「他者指向性」と呼んだ社会的性格に対応する現象である。このように個人化 が進む複雑な現代社会においては、他者と同じでありたいという人々の欲望は、権力 的なものに対する従順さとして機能する。ここに情報テクノロジーの発達が加わっ て、支配者は必ずしも露骨な強制力を行使することなく、社会を制御することができ るようになっている(Jarvis,2007,pp. 39-40)。つまり、我々現代人は、窮屈な「関係」
から解き放たれているといっても、個人としての自由を満喫できているわけではな く、むしろ互いに分断され、孤独で脆弱な「個」としての立場を強いられる危うい状 況に置かれているのである。
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3)個人と社会の相互性
社会・文化の急速な変化と多様化が進展し続ける今日、「生涯学習」の実践として であろうとなかろうと、我々は様々な知識、技能、情報を更新・習得し続けざるをえ ない。しかしながら、社会的な疎外を避けようとして技術的な変化や発展に追いつく 学習の努力を重ねれば重ねるほど、コミュニティ的な社会関係を経験する機会が損な われ、個人単位の生活パターンへと追いやられてしまう。つまり、その内容や方法に よ っ て は、学 習 は 個 人 化 と 疎 外 を 深 刻 化 さ せ る も の と な り か ね な い の で あ る
(Jarvis,2004,pp. 25-26)。
逆に、個としての力を得て、さらに社会的なつながりを回復できる学習があるとす れば、それはどのように可能か。「個人」と「社会」の相互変革に向かおうとする変 容的学習論は、そうした学習を支える主要な理論的支柱として意味づけることができ る。
たしかに、Inglis が Mezirow を批判するなかで言及するような発想による学習の
在り方(もっとも Mezirow はその指摘は誤りだと反論しているが)、つまり「真性の自己」
の発見を社会的な変革・解放の前段に求めることや、客観世界に対置される自律的・
合理的主体の確立に重きを置くことは、方法としては迂遠でり、方向としては自己中 心性の助長につながりかねない。しかし、変化の嵐に吹き飛ばされかかっている「孤 独な葦」のような存在が現代人であるなら、社会的次元に充分留意しつつも、個とし ての自律や能動性を促す学習の支援が優先されるべきだろう。その意味で、Mezirow が「学習者の変容を支援するほうを選ぶ」、あるいは 思考における一層の自律性を 育むことが成人教育者にとってのゴールであり方法である (2000,p.29)と主張する 点は肯ける。
ま た、こ れ ま で の Mezirow の 議 論 を 振 り 返 っ て み る と、「自 己 決 定 性(self- determination)」(1978,p.12)、「決定的な主体性感覚(a crucial sense of agency)」(1981,
p.20)、「自 己 主 導 型 学 習 者(self-directed learner)」(1985,特 に pp. 26-29)、「自 律 性
(autonomy)」あるいは「自律的思考(autonomous thinking)」(1997,pp. 8-9 ;2000,pp. 26- 31)など、彼が個人主義的な価値を帯びた能力・資質を成熟や学習の目的として掲げ てきたことは明らかである。かといって Mezirow は、他者とは無縁に自立しうる孤 高の人になることを学習者に望んでいるわけではない。自由な対論の場を創出し、学 習者がそこに十分に参加できるよう支える努力を成人教育者の中心的責務として繰り 返し提起してきた経緯(ex.1991,pp. 198-199;1997,pp. 9-11)に見て取れるとおり、
Mezirow が変容的学習論の土台に据えているのは「参加本位の民主制(participatory democracy)」(cf.1995,pp. 66-68)である。家庭、地域社会、職場組織などいずれであっ
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ても、人がその場に積極的に関与することで個人も全体集団も相互に変革され、それ ぞれの可能性が実現される、そのような個人と社会の相互関係を彼は希求しているよ うだ。
このように捉えると、変容的学習論における個人性をめぐる問題には、「組織的学 習(organizational learning)」や「学習する都市(learning city)」の議論にとっても示唆 的な論点が含まれていると言える。前者は、組織成員の学習経験が相互に効果的に作 用することで組織集団全体に継続的な自己改革力や機能変容が生じる可能性に着目す る考え方である(ex.Argyris,1992;Argyris and Schön,1996)。後者は、1990年代半ば以 降、特にヨーロッパでの生涯学習政策に関する議論の中で提起されてきた考え方で、
当該地域の諸資源を活用しながら市民の能力や可能性を引き出すこと、そして変化に 対する理解と積極的な対応力を市民に対して促すことを目指す地域政策の概念である
(Longworth,1999,p.110)。両者とも、集団としての活力、創造性、さらには文化的・
人間的な豊かさを回復することに向けて学習の協働化を企図している点で共通する。
いずれの場合も、チームや集団としての学習が最初から成り立つわけではなく、基本 的な出発点は個人の学びである。つまり、変容的学習の場合と同様、個人が自由に参 加できる集団環境や民主的な組織文化が成り立つかどうかがそれぞれの鍵となろう。
以上のとおり、変容的学習論の個人主義傾向に対する批判には関心の方向性の違い が影響していること、現代には「個人化」が進み個人が脆弱な形で放置されてしまう 社会状況があること、Mezirow は個人に比重を置きつつも個人と社会の相互変革を 志向していることなど、変容的学習論における「個人性」に関する諸問題を概観して みた。この小論では粗雑な検討を試みたに過ぎず、今後、ここで見出された論点に関 する考察を深めてゆきたい。
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