小野田光雄先生上代文献学談話記録
著者名(日) 服部 旦
雑誌名 大妻国文
巻 38
ページ 25‑45
発行年 2007‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001336/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
小野田光雄先生上代文献学談話記録
~Ii
音
B日
;
は じ
め に
11
こ う ゆ う
︐野田光雄先生︵明治必︿ 1 ﹀年9月お日生︒以下︑先生︶が︑平成時︵叫︶年
5月
3日︑満四歳で逝去せられた︒先生に直
接御教示を受けることが出来たのは︑一般に古事記学会での研究発表と大会・月例研究会に於ける公的談話に殆ど限られ
ていた︒幸いにして︑私は先生の私的談話を一時期拝聴する機会に恵まれた︒
本稿は︑私の書き留めた先生の私的談話︵一部電話によるお話を含む︶の記録である︒談話の文字化という性格上︑
明瞭な点や︑私の聴き違い・書き誤りがあることを憧れるが︑学問上の一資料として︑ここに紹介する︒ 文意不
︵1 注
︶ 先 生 の 学 業 に つ い て は ︑ 追 悼 文 中 村 啓 信 ﹁ 小 野 田 光 雄 と い う 人 ﹂
﹃ 風 土 記 研 究
﹂ 第 初 号
︵ 風 土 記 研 究 会 編
・ 刊
︑ 平 成 団
︿ 羽
﹀ 年
3月
氾
日 ︑
名 張
市 ︶
を 参
照 さ
れ た
い ︒
小 野 田 光 雄 先 生 上 代 文 献 学 談 話 記 録
五
一 一 ム ハ
︵2 ︶
先 生 は ︑ 横 須 賀 市 立 第 二 高 等 女 学 校
・ 群 馬 県 立 桐 生 高 等 女 学 校
・ 神 奈 川 県 立 横 須 賀 工 業 高 等 学 校 教 諭 を 歴 任 さ れ
︑ 晩 年 昭 和 女 子 大 学 非 常 勤 講 師 と な ら れ た 以 外 に は
︑ 大 学 で 教 鞭 を お 執 り に な る こ と は な か っ た
︒
︵3 ︶
こ の 点 を 含 め て ︑ 嵐 義 人 氏 よ り 種 々 御 教 示 を 受 け た ︒ ま た
︑ 書 誌 の 確 認 に つ い て は ︑ 沖 縄 県 立 図 書 館 ・ 那 覇 市 立 中 央 図 書 館 ・ 青 山 学 院 大 学 図 書 館 の お 世 話 に な っ た
︒ そ れ ぞ れ ︑ 記 し て 謝 意 を 表 す る ︒
本談話記録の経緯
︵1︶
昭和臼︵宵︶年頃︑古事記学会の熱心な会員であられた故黒川光氏と私は︑﹁上代文学を学ぶ者として漢字・漢文の知
識が乏しいのは甚だ心許無いことだから︑小野田先生を囲む研究会を作り︑御指導を受けることができないものだろうか﹂
と何度か話し合った︒そこで︑昭和田年
6月同日の古事記学会大会の折に二人でこのことのお願いをしたところ︑先生は
その場で御快諾下さった︒しかし︑その年の夏御病気で入院し︑結局研究会は実現しなかった︒
御回復後お招きを受け︑昭和白︵叩︶年
4月却日︑横須賀市のお宅で黒川氏と共に先生の研究歴・上代文献学・研究者達
との交流等々のお話を承った︒この時︑私は研究用カ
lドに先生の談話を記録しつつ拝聴した︒
その後︑黒川氏の亡くなる前年の昭和田︵回︶年まで︑年に一度の割合で一緒に拝聴した︒黒川氏の逝去後の昭和 ω
︵ 出 ︶
一人で時折参上し︑また︑お電話で御指導を受けることもあった︒
年 か ら は
︑
ここでは︑その時の記録カ
lドと電話メモを︑年月日順に配列して活字化する︒
2 1
注
昭 和
2
︶
9年
7 月
お 日 生 ・ 昭 和 田 ︵ 官 ︶ 年 目 月
8
日
逝 去
︒
昭 和
日 ︵
判 ︶
年
6 月
口 日
−
m目 ︑ 於 東 京 医 科 歯 科 大 学 教 養 部
︵ 千 葉 県 市 川 市 国 府 台
︶
0
本談話記録の意義
先生の研究手法は︑文献の原本・複写写真・写真複製本に就いて資料蒐集した上で︑
一 つ 一 つ 確 認
︵ 文 献 の 書 体 も 忠 実 に 筆
写︶しつつ手堅い立論を展開するのが常であったから︑考察が固まる以前に臆測や思いつきを活字化されることはなかった︒
しかし︑本談話では︑論文になる以前の研究の見通しゃ直感という︑研究者の大切にしていることも︑お話しになってお
ら れ
る ︒
先生の御研究は︑その領域に関心を持たないとなかなか親しみにくい面があるけれども︑ここでは︑それまでの御研究
の成果の一端を平易に説明して下さっている︒その点で︑この方面を学ぼうとする者にとっての手引きになるのではない
か と
思 う
︒
倉野憲司編︵代表︶﹁︵阪本古事記﹄の記質的作成者が小野田先生であることは周知の事実である︒こうした学問的事情も︑
研究者にとっては重要な情報である︒この談話の中でも︑その種の言及のあることが注目される︒その他︑研究者達の消
息も含めて︑本記録は﹃古事記﹂研究史上の一資料となるものと思う︒
この記録の中で︑私が特に重視するのは︑﹁嶋字の研究﹂である︒即ち︑羽ペ
lジに及ぶ遺稿﹁瓦代人の用いた嶋字につ
いて﹂は︑資料篇として書かれたものであって︑残念ながら︑研究篇を執筆されることなく︑先生は逝かれた︒幸いにも︑
この談話に於て︑その資料からどのようなことを明らかにし得るか︑見通しを原稿の完成以前に語っておられる︒中でも︑
嶋字に基く﹃常陸国風土記﹂偽書説の構想をお持ちであったのは︑注目に値する︒これは︑余程の確証を得た上でなけれ
ば御発表にならなかった筈である︒
小 野 田 光 雄 先 生 上 代 文 献 学 談 話 記 録
七
J¥
︵I︶翻刻本は根本︵一級︶史︵資︶料としては用いられなかった︒ 注
︵2︶編者代表者倉野憲司・蔵版者古事記学会﹃校本古事記﹂︑続群書類従完成会発行︑昭和却︵百︶年︑東京︒
︵3
︶こ
のこ
とを
私は
中村
啓信
氏よ
りお
教え
頂い
た︵
中村
氏の
古事
記学
会研
究発
表司
会時
の公
的談
話︿
年月
日を
記憶
しな
い﹀
︶︒
同書
の倉
野氏
序文
に
も﹁︵前略︑服部︶小野田氏と相談して真福寺本を底本として校本を作り直すことにし︑爾来同氏の献身的努力によって見事に完成
を見るに至ったのである︵後略︑服部ことある︒
ほか
に︑
﹃諸
本集
成古
事記
﹄は
︑当
初の
版︵
昭和
辺︿
?・
お︿
羽﹀
年刊
︶で
は︑
古事
記学
会編
・著
・出
版と
なっ
てい
る︒
しか
し︑
その
後の勉誠社の複製本︵昭和白訓告﹀年刊︶では︑小野田光雄編となっている︒この変更が︑先生の御意思によるものであることを︑再
刊時に承った︒これら︑先生のお名前が表立って出ない理由についてお尋ねしたことはないが︑右の倉野氏序文を参照すると︑研
究助成金︵倉野氏代表︶の問題であったかと推測される︒いずれにせよ︑先生のお人柄の偲ばれる話で︑﹁学問の進歩のためならば自分は下積みでも構わない﹂というのが︑先生の生き方であったかと拝察される︒︒
︵
4
︶﹃古事記年報﹄第必号︵平成げ年度︶︑古事記学会編集発行︑平成胞も︶年1月︑東京︒彪大な手書き原稿の校正を︑編集担当理事の青木周平氏が一手に引き受けられた︒この年報では︑先生の原稿の嶋字の箇所のみを写真製版し︑その他の部分は全部活字化している︒この写真製版の文字が小さいため︑判読に苦労する読者もいるかと思う︒刊行後この原稿︵但し︑電子複写︒原本は先生の
書斎
内に
ある
らし
いが
︑御
遺族
によ
れば
︑探
索で
きな
い状
態に
ある
とい
う︶
を先
生の
母校
の園
拳院
大学
に寄
贈し
てく
ださ
るよ
う︑
青木
氏︵
同
大学教授︶に平成げ︵官︶年ロ月下旬にお願いしたから︑不審点の確認は可能であろう︒
先生が︑﹁嶋﹂と﹁島﹂の字の区別に関心を持たれた理由を語られたことはないが︑時期的に見て︑拙稿﹁﹃出雲間風土記﹂島根
郡の
長見
川と
大鳥
川﹂
︵﹃
大妻
女子
大学
文学
部紀
要﹂
第辺
号︑
平成
2
︽W
V年
︑東
京︶
の第
1
章﹁諸本の異同と本文校訂﹂中の︑左記の部分︵特に傍線部︶に異論をお持ちになったことが︑原因の一つにあるのではないかと推測する︒即ち︑細川
家本
の﹁
鳥﹂
・﹁
島﹂
・﹁
嶋﹂
の用
例を
調べ
ると
︑烏
口例
︑島
2例︑嶋m例である︒細川家本の﹁嶋﹂の箇所を︑林崎文庫本・万葉緯本・解本がほとんど総て﹁島﹂としている︒これらの諸本は細川家本と反対に﹁島L
に統
一し
よう
とす
る態
度で
ある
︒︵
中略
︶
右の如く細川家本では島よりも嶋が圧倒的に多く︑烏と島の混同がないという傾向から判断する限りでは︑細川家本においては本
来 ﹁
大 鳥
川 ﹂
と あ
っ た
可 能
性 は
高 い
︒ ︵
中 略
︶ し
か し
︑ ﹁
出 雲
風 土
記 ﹄
の 写
本 と
て も
慶 長
2 年
以 前 に 遡 る も の は な い 訳 で あ る か ら
︑ た
と え
ば ﹁
大 島
川
L
の 如 き 可 能 性 は 完 全 に な い
︑ と ま で は 断 定 で き な い と 思 う け れ ど も
︑ 現 存 写 本 の 傾 向 と 細 川 家 本 内 部 の 傾 向 に よ っ て ︑ 目 下 の と こ ろ は ﹁ 大 鳥 川 ﹂ と 校 訂 す る 既 説 に 従 う
︒ ︵
3
ベ
下 段
1
4
ベ
上 段
︒ 傍
点 は
原 文
︒ 傍
線 は
本 引
用 に
際 し
引 い
た ︶
︵ 5
︶ 注
︵ 4
︶ 遺
稿 序
文 末
尾 に
︑ ﹁
二
000 年十二月︑八十九才三ヶ月︒小野田光雄
L︵ 四
ベ ︶
と あ
る ︒
小野田光雄先生談話記録
活字化に当つては︑談話内容により見出しを立て︑必要に応じて注を談話毎に附す︒文章がより通るように︑︹︺内に
さ な い
適宜語句を補う︒先生の用いておられる語句に私の理解で補った語句を︑︵︶内に
1ポイント落して示す︒ポイントを落
︵︶は︑先生による補足説明である︒その他︑個人についての話題は学問的に語られたものであり︑先生のお人柄
を知るよすがともなるから︑﹁談話七﹂中の私に関する一部分を除き︑削除しなかった︒
談
琵昭 和
弘 ︿
宵 ﹀
年 4
月 却
日
同席者
黒 川
光 氏
︶
﹁古事記﹄研究の動機・古事記学会での活動
私は︑﹁日本書紀﹄の研究から出発した︒﹃日本書紀﹂を
やるには﹃古事記﹄をやらねばならない︑と﹃古事記﹂を
細 か く 調 べ 始 め た と こ ろ で 召 集 さ れ て し ま っ た ︒
︹ 軍 隊 に は ︺ 日 本 古 典 全 集
︹ 本
︺
の﹁古事記﹄を持って行った︒結核に
な っ て 陸 軍 病 院 に 居 た 時 に
︑ ︹
﹃ 古 事 記
﹂ の
︺ 漢 字 索 引 を 作 つ 小 野 田 光 雄 先 生 上 代 文 献 学 談 話 記 録
この索引により﹃古事記﹄︹の研究︺をやろうとしたら︑ た
諸本の異同があるため︑その校訂の仕事を始めた︒
軍︹隊︺から帰ったら︑植松茂先生の︹﹃古事記﹄︺漢字
索引のあることを知った︒︹この索引に︺ガリ版刷りにして
数枚分の脱字のあることを知り︑これを植松先生に送った
ことから︑交際が始まった︒藤井信男先生が︵昭和お︿臼﹀
年に︶古事記研究会を作った時に︑私は︑倉野憲司先生の紹
九
介 で 入 会 し た
︒ こ の 時
︑ ︹
﹁ 古 事 記
﹂
の︺校本を私が作って
いたので︑藤井先生が﹁見せてくれ﹂など言った︒最初に
大会を聞いたのが︑東大法文学部教室﹇である﹈ 0
︵ 本
郷 の
東
京学芸大学附属︶追分小学校で例会を聞いたのは︑昭和沼
︵
1︶
︵ 百 ︶ ・ お 年 頃 ︒ 黒 田 ︵ 正 夫 ︶ 氏 ︹ の 入 会 ︺ も 早 か っ た ︒
中西光雲氏のこと
中西光雲氏は祝詞の研究書を書いて︑園撃院︹大学︺
学長に持ち込んだ︒学長は古事記学会を紹介した︒中西氏
は︑その頃水戸市に住んでおり︑後︑浦和市に住んだ︒奥
さんは︑霊が降りる︹シャ
lマ ン だ っ た ︺ ︒ 朝 ︑ 祝 調 の 一 節
を氏が諦み︹上げ︺︑奥さんが神想りで言ったのを︑︹中西
氏が文字に︺写した︒これの浄書を私に依頼し︑︹その仕事
を︺私がやっている問︵期間︶に︑︹中西氏は︺死んだ︒
︹その文章は︺全く日本語の構文でないので︑何度も何度
も判ろうと努力し︑︹何とか︺日本語らしい文章に変えよう
とした︒読後︑何とも言えない︑﹁祝詞﹄や﹃古事記﹄
﹁光﹂のようなものを感じた︒不思議な体験であった︒はつ
きりとは判らぬが︑上代の書にそうした精神が流れている
。
こ と を 知 っ た
︒
中西氏の奥さんは︑昔で言えば﹁口寄せ﹂である︒岐路
に立った時︑会社の運命などを知ろうとする気風が実業界
にある︒そうした信者が沢山いる︒奥さんにも弟子がいて︑
献金する組織を持っていたから︑実業家から金がふんだん
に入った︒浦和市に住んでいた時︹に︺は広壮な邸宅を持
ち︑︵中に︶奥さんの神殿があり︑別の一角に中西氏の家が
の
あって︑宗教書を多量に持っていた︒
書写から得るもの
手 で 本 を 写 す と ︑ そ れ が 偽 書 か ど う か 判 っ て 来 る
︒ ︹ 著 者
︺
その人︹自身︺の書いた字か︑︹書写者が︺判らないのをそ
の人なりに解釈して写しているのか︑判って来る︒
注
の
︵
1︶ 黒 田 正 男 氏
︒ 古 事 記 学 会 の 名 物 会 員 ︒
﹁ 冶 金 学 が 専 門 で
︑ 夫 人 が 著 名 な 女 流 登 山 家 で あ る
L と黒川光氏より教えら
れ た
︒ ア マ チ ュ ア で あ る こ と を 自 認 し ︑ 古 事 記 学 会 で は
﹁ 私 は 素 人 で す が
﹂ と 前 置 き し て か ら ︑ 意 見 を 述 べ た
︒ そ
の説は奔放で︑出席者を困惑させることが多かった︒あ る 時
︑ 沼 河 比 責 歌 謡 の
﹁ た
た き
ま な が り
﹂ の 語 釈 で ︑
﹁ ﹃ ま
たがり﹄ではいけないんでしょうか?﹂と質問し︑一同 を 苦 笑 さ せ た 場 面 が 一 番 印 象 に 残 っ て い る ︒ 初期の古事記学会は︑現在の研究職・大学院生を中心 とする純学問的な雰囲気とは少し異なり︑アマチュアタ
イ プ の 会 員 が 持 論 を 披
漉 す
る こ と が よ く あ っ た ︒ 例 え ば ︑ 広 島 県 の 会 員 下 引 地 一 一 一 氏 ︵ 農 業
︶ は
︑ ﹃ 古 事 記 ﹄ の 内 容
は全部農事によって解釈できるというのが持論で︑自身 の手による多量の謄写版本を作成された︒その頃︑古事
記 学 会 の 公 的 な 席 で ︑ 太 田 善 磨 氏 が
︑ ﹁ ア マ チ ュ ア が 私 家 版 で で も 著 書 を 刊 行 し よ う と す る の は ︑
﹁ 古 事 記
﹄ だ け の 現 象 で ︑
﹃ 源 氏 物 語 ﹄ な ど 他 の 作 品 に は な い
︒ こ れ は
︑ ﹁ 古 事 記
﹄ に そ う さ せ る と こ ろ が あ る か ら だ ろ う
﹂ と い う 趣 旨
のことを何度か語られたのには︑こうした背景がある︒ ︵
2︶古事記学会会員︒昭和却︵似︶年
6月お日古事記学会
*大会研究発表会︵於京都市北野天満宮︶で︑中西光雲氏 の発表﹁古事記及び古典の解明と言霊学﹂を聴いた︒こ げ ん れ い が ︿ の中で︑氏は﹁言霊学﹂という独自の立場から︑﹁古事 記﹂の神名解釈をされた︒例えば︑日本語のアイウエオ
等 総 て ︵
? ︶ の 音 に は
︑ そ れ ぞ れ 独 得 仰 一 言
− 霊 初 働 き が あ
るとして︑天之御中主の﹁ア﹂には﹁遍く巡る﹂の意
︵ 働 き ︶ が あ る ︑ と い う 風 で あ っ た
︒ 氏 の 発 表 に 対 す る 会 場 か ら の 反 応
は 殆
ど な か っ た ︒ 小 野 田 光 雄 先 生 上 代 文 献 学 談 話 記 録
**
昭 和 必 ︵ 刊 ︶
6
年
月 日
日 −
U
日に︑古事記学会大会が
ー 由 宇
* 也 事
三重県鈴鹿市の椿大社で開催された︒中西氏も夫人と共 に出席しておられた︒この時私は︑椿大社が現在地に建 てられたのは︑中西夫人の﹁お告げ﹂によるものである
と 知
っ た
︵ ア
ト ラ
ク シ
ョ ン
で 上
映 し
た 椿
大 社
制 作
の 映
画 の
中 に
中 西
夫 人
の 活
躍 振
り が
映 っ
て い
た か
ら ︑
こ の
映 画
に よ
っ て
か も
し れ
な い
︶ ︒
厳格な学風の先生が中西氏の仕事をお引き受けになっ たお話は︑全く意外であったが︑お人柄の一面を知った
思 い
が し
た ︒
*この時先生︵満霊威︶は︑﹁現伝古事記諸本の原本﹂と いう御発表をされた︒その学問に初めて接し︑私は深く 感動した︒その時の謄写版プリントは︑今も﹃校本古事
記 ﹄ に 挟 ん で あ る
︒
**先生は
6
月日日に﹁開会の辞﹂を勤められ︑翌口日に
は ︑
﹁ 通 俗 字 混 用 時 代 の 用 字 秩 序 に つ い て ﹂ と い う 御 発 表
を さ
れ た
︒
***当時大会が神社で開催されることに批判的な雰囲気が あるように私には感じられた︒今日のように大学を会場 とするのが主流となったのは︑この頃以降と記憶する︒
議 草
︵ 昭
和 的
︿ 山
由 ﹀
月 年
55日
上代文献に於ける漢字の判定
﹁員
﹂と
﹁貞
﹂︑
﹁沼
﹂と
﹁昭
﹂等 は筆
︵書
︶体 が同 じで あ るため︑文字そのものからは判定できない︒全体の文脈か ら決 定す べき もの であ る︒
談
︵昭
和印
︿川
町﹀
年7
月凶
日︶
伝本の種類 話
昔の
本に
は︹
同一
の本
が︺
︑
2
部あることがある︒清書したも の︵ 本︶ と︑ それ 元が にし た本 とで ある
︒ 議
話
︵平
成元
︿
W
﹀月 4
年5
日四
漢字の編年研究の必要性
﹁本﹂の字は中国では﹁本﹂の意味はないが︑日本では
﹁本
﹂の 意味 に使 って いる
︒﹃ 古事 記﹄ でも 古い 宮本 では
﹁本
﹂
の意
味
文Z日二
字 と の
帽 を整 担
完てZ
新
雪ぷ
~ ~
t 用
T
川 " '
ぷ
3十 、
4
キユ~ ~
る 悩
だか
ら︑
と元の字体に戻らないから︑字体は偽書の判断の手掛りに
九
HO?
Q︒
一 一
正体字と誤字
﹃古
事記
﹄で
は﹁
鍛﹂
の意
味で
﹁鍛
﹂︵
シコ
ロ︶
の︷
壬乞
用い
日体字と違うものを︑総てる例が非常に多い︒だから︑
﹁誤 字﹂ とし ては なら ない
︒ 今日の我々は︑清朝の﹁康照字典﹂等によって﹁正体﹂
の意識を持っているが︑昔には昔の﹁正体﹂があったので
ある
︒真
福寺
本︹
﹁古
事記
﹄︺
の文字には誤字は少ない︒今
日の 正体 でな い文
︷壬 乞︑ 当時 の︹ 人々 とし ては
︺正 体︹
︷主
として︵の意識で︶使っていたの︹だから︑これ︺を︑今日
の目 で誤 り︵ 字︶ と見
︹な し︺
ては
いけ
ない
︒
麻日と麿
﹁麻 目﹂ が﹁ 麿﹂ とな った のは
︑官 位姓 名を
1行で書く公
式文 書の 制約
︵文 書様 式︶ があ った から であ る︒
校訂上の心得
誤字でも丁寧に見れば︑その人がどういうことを考えて 誤っ たの か︑ 推定 でき るこ とが ある
︒
小野田先生﹃古事記註稗﹄について 昭和 田︿
W
﹀年
U
月に解説原稿を完成し︑平成元︿羽﹀年
3
月までに校正を済ませた︒これは︑黒川︵光︶先生と︹一緒に︺やろうと思った仕事である︒この月報に︑梅沢伊
勢三先生・石井庄司先生・青木紀元氏に︹原稿を︺頼んだ
が︑梅沢先生は御入院で駄目になった︒︹﹃註稗﹂の︺内容 は﹁ 古事 記裏 書注 之﹄
︵︹ 今回
︺調 べ直 した
︶︑
﹁竜 頭古 事記
﹄
︵三 巻︒
﹃古 事記
﹄研 究の 発出 点︶
︑回 安宗 武﹃ 古事 記詳 説﹄
︵徳 川家
︵田 安徳 川家
︶の 宝で 実際 に見 るこ とは でき なか った
︒ 無窮 会神 習文 庫本 を使 用︶
︑内 山真 竜︵ 真測 と仲 悪が かっ た︒
事 庄
記 屋謡 で 歌 プ
」 イ
註 ラ
議 E
望 詰
稀く、
妻 富
豪
;
塾
T且~ EB
受石
年 竺
官
τぃ
蚕)夫
と )
は の
毒古
︹の 仲︺
︶﹃ 古事 記標 注﹂ を柱 とし
︑春 満・ 真湖
・宣 長は
︹既 に︺ ある から
︑省 いた
︒こ れで
︑﹃ 古事 記﹄ 注釈 史は 大体 判る
︒
︵1
注
︶先 生は
︑仮 名に 対す る漢 字の 意味 で﹁ 文字
﹂ いて おら れる
︒以 下同 じ︒
の語
を用
小野 田光 雄先 生上 代文 献学 談話 記録
︵2
︶先 生は
﹁正 字﹂ なで く︑
﹁正 体字
﹂と いう 語を 用い られ た ︒
︵3
︶小 野田 光雄
﹃古 事記 註稗
﹄︵ 神道 大系 古典 註稼 編ニ
︑神 道大 系編 纂会
︑平 成
2
︵羽
︶年
︑東
京︒
︵4︶宣長の学説に対して大いに批判的の意︒両者は時代が
隔た
る︒
議
︵平
成5
︿羽
﹀年
6月
辺日
︶
話
五小野田先生﹁艇土記の﹃套と﹃恭﹄について﹂
このような数字︵大字︶の書き分けのある文献が奈良時代 のもの︵成立︶であるとは断言できぬが︑﹇少なくとも﹈奈 良時代の文献が︵では︶正統に書き分けている︑と言える︒
﹁審﹂を﹁参﹂と校訂しないのは現代の文字観から見ると
無謀な校訂と見える︹かもしれない︺が︑奈良時代の文献
の殆どは公文書であるため︑このような書き分けをするの
が正 統な ので ある
︒ 本論文での﹁審﹂と﹁参﹂以外にも︑私は全部の文字︵数 字︶ に一 応当 たっ てい る︒ 私の 梶道 系大
﹃古 事記
﹄に 於て は︑
﹃古 事記
﹄の 字数 に全 部言 及し た︒
一 一
一
﹃古事記﹄の︵文︶字だけでも︑当時の用字法の見当がつ
く︒現代人は︑中国の後代の小学類の整理された︵文︶字を
見て︑それに慣れた目で﹃古事記﹄や上代の文献を見るか
ら︑それらの︵文︶字が逆に誤っていたり︑崩れたものと誤
解し がち であ る︒ この
﹃風 土記 研究
﹄論 文で は︑
﹁数
︵字
︶﹂ の︷ 蚕義 につ いて
触れていないため判りにくいが︑︵養老令︶公式令だけでは
﹁数︵字この定義は判りにくい︒実際の︹古︺文書に当たる
とそれが判る︒戸籍の場合は年齢が大切だからこれを大字
にして︑他と間違えないようにしている︒計会帳も合計が
大字で︑内訳が小字︹である︺︒合計が大切で︑内訳は説明
に当たる︒だから﹃出雲国風土記﹄
の﹁
意字
郡郷
査拾
里品
川﹂
︿ カ
l
ドのマ マ﹀ とい う書 き分 けは
︑正 しい
︵正 統な
︶の であ る︒
︵l
注
︶小 野田 光雄
﹁風 土記 の﹁ 套﹄ と﹁ 恭﹂ につ いて
﹂﹃ 風土 記研 究﹂ 第日 号︑ 風土 記研 究会
︑平 成
5
︵幻
︶年
6月
︑大
阪 市
︒
︵2
︶小 野田 光雄 校注
﹁古 事記
﹄︵ 神道 大系 古典 編二
︑神 道大
四 系編 纂会
︑昭 和白
︵打
︶年
︑東 京︒
談
平成
5
︿ 川 町
﹀ 年
9
月口
日
話
.......
,
、
漢字の字体の時代性と校訂上の注意
今日 の﹁ 穏﹂
︵オ ダヤ カ︶ とい う字 は︑ 奈良 時代 には
﹁隠
﹂
と書くのが一般的で︑これは中国に於ても同じ﹇である﹈︒
だから︑﹁隠﹂を﹁穏﹂の誤りと校訂してはいけない︒
﹁賛
﹂︵ スノ コ︶ の字 も︑
﹁筈
﹂と 書く のが 奈良 時代
︹で
︺は
一般的︒これは︑カブラ︵ナ︶の著︵脊︶とも似るが︑両者
を文脈によって判断していた︒だから︑﹁害﹂を﹁費﹂に校
訂したり︑﹁賛﹂の誤りと︹校訂︺してはいけない︒
中国の一時期のある使用法が︑日本にも伝わっている︒
同じ意味を表わす文字が︑時代によって使われ方を異にし
ているので︑これらをごっちゃにしてはいけない︒
談
平成
6
︿ 川 出
﹀
月
年7
3日
話 七
卜部兼永筆本﹃古事記﹄閲覧のことなど
兼永筆本﹃古事記﹄には︑本の途中で兼永書写以前の書
写に変っていることを示す文言が︑綴じ代の箇所にある
︹︒ その
︺こ とは 以前 から 写真 で判 って いた が︑ そこ に何 が
書いてあるか︑実物を見せて貰った時に確かめることがで
きな かっ た︒ そう いう こと がで きる
︵所 有者 の︶ 雰囲 気で は
なか
った
︒
私は︑戦後一般が写真に撮った最初のものである︑古賀
精一氏︵撮影は写真屋︶の焼増してくれたものを持ってい
る︒
︹複 製本 のな かっ た兼 永筆 本﹃ 古事 記﹄ とは 異な り︑
︺ 山田 孝雄 氏の 真福 寺本
﹁古 事記
﹄の 複製 本は
︑︵ 敗︶ 戦後 古 本屋 に沢 山出 た︒ 西国 長男 先生 と昭 和田
︵剖
︶年 頃京 都の 両足 院で 両足 院本
﹁日 本書 紀﹄
を見
せて 貰っ た時
︑西 田先 生が
︑﹁ こう いう 所
は収入がないから︑本など見せて生活の足しにしている︒
だから︑お礼を沢山包まねば駄目だ﹂と言って︑事前に用
意し た
5万円を渡した︒すると︑次々に沢山の本を見せて
くれた︒私は︑こういう心得を知らなかったから︑兼永筆
本﹁古事記﹄を鈴鹿家で見せて貰った時にしなかった︒だ
から
︑
2固
まで は見 せて くれ たが
︑
3回
目か ら断 わら れた
︒
小野
田光
雄先
生上
代文
献学
談話
記録
上代文献に於ける漢字の使用法
﹃風 土記 研究
﹂に 発表 した
﹁奉
﹂と
﹁恭
﹂の 違い につ いて は︑ 神道 大系
﹃古
事記
﹂の
︵最 初の 方に 書い てあ る︒
﹁古 京遺 文注 釈﹂ を初 め︑ 上代 の︵ に於 ける
︶文 字の 扱い
︹方
︺に 関
して
︑ 一般
﹇的
﹈に ルー ズで ある
︒例 えば
︑﹁ 締論
﹂を
﹁糸
論﹂に翻字したのはいけない︒偏・冠に関する上の字と下
の字 のバ ラン スに
︑中 国で は神 経を 使っ てい
た︒
﹁万 侶﹂ で
︹は
︺な く︑
﹁高 侶﹂ と書 くの が︑ 当時 の人 々の
感覚
︹で あ る︺
︒﹁ 万葉
﹂で なく
﹁高 葉﹂ が当 時と して は正 規の 表記
︹で
ある
︺︒
﹁害
﹂は
﹁費
﹂と 通用 する
︒﹁ 筈・ 費﹂ と﹁ 普﹂ との 区別 は︑ 竹冠 の存 在に よっ てい る︒
﹁穏
﹂︵ オダ ヤカ
︶と
﹁隠
﹂ の区 別も 一般 の研 究者 はル ーズ に扱 って いる
︒﹁ 穏﹂ はも と
︵古 く︶ は﹁ 隠﹂ で︑ 中国 でも 日本 でも
﹁穏
﹂は ほと んど 使 わな かっ た︒
﹁隠
﹂を 単に
﹁穏
﹂の 異体 字と する のは
︑用 字 法の 区別
︵ル
lル︶がはっきりしていることを判っていな
い︹ から だ︺
︒こ うい うこ とを 現在 本と して 纏め たい のが 希 望だ が︑ 家内 の病 気で でき ない
︒
二 五