アイ・ハヌム研究ノート
加 藤 九 詐
275 ア イ ・ハ ヌ ム 研 究 ノ ー ト
はじめに
O発見のいきさつと歴史地理
Oアイ・ハヌムの都市建設と建築
中央道路のプロピュライア
宮殿
宮殿のプロピュライア
多柱式大玄関
宝物庫
図書館
体育場(ギムナシオン)
噴水
劇場
図 地 版 図
公共的建物
武器庫
アイ・ハヌムの廟
二八本円柱の長方形の廟
キネアスのへーローオン
城壁外の廟
階段状壁寵のある神殿
日アイ・ハヌムの美術
主な彫刻その他
ゼウスの足
花冠をつけた競技者
男女の塑像
青年の石製レリーフ
噴水の樋口
青年のヘラクレス像
キベラ神のある銀盤
犬の図文のあるスカラベ
四アイ・ハヌムの碑銘
おわりに
はじめに
ア イ ・ハ ヌ ム 研 究 ノ ー ト 277
アフガニスタン北部︑アムダリヤ左岸にある有名なアイ・ハヌム遺跡は︑一九六五‑七八年︑考古学者ポール・ベル
ナール℃髭一切霞葛巳を長とするフランスの考古学調査団によって発掘された︒この遺跡が東方ヘレニズム研究史上画期
的なものであることは広く認められている︒
日本では︑樋口隆康︑桑山正進︑前田耕作ら現地を訪れた教授たちによって写真と短い報告が発表されている︒とくに
樋口教授はかつて︑今上天皇を現地に案内したことがあるとのことだった︒私は︑.アフガン戦争の前二度アフガニスタン
を旅行したが︑残念ながらアイ・ハヌムを訪れることはできなかった︒団長のベルナール博士にはパリと中央アジアでお
目にかかったことがある︒
アイ・ハヌムについては︑ベルナールをはじめとする発掘者たちによって︑すでに一〇冊にのぼる正式報告書国o邑一①ω
飢︑﹀一閑冨き§(アイ・ハヌムの発掘)のほか専門誌に多くの論文が発表されている︒しかしベルナール博士自身による総括
はまだ発表されていない︒
ロシア科学アカデミー東洋学研究所の上級研究員ピチキャン一均殉ざ眠ξきは一九九一年︑彼が自ら発掘したグレコ・
バクトリアの神殿遺跡タフティ・サンギン(タジキスタン)の調査成果のうえに有名なオクサス遺宝(大英博物館蔵)の研
究成果を加え︑さらにアイ・ハヌムを概観した論文を合わせて﹃バクトリアの文化︒アケメネス朝時代とヘレニズム時
代﹄国託︑ε霊しu鉾9一●﹀写︒目①三α︒・聾一①=一三︒・け一島$臨一窟ユ︒身を発表した︒本書は︑現代における内陸アジア考古学の先
端的テーマであるグレコ・バクトリァ文明を総括したものとして︑極めて貴重な労作であることは疑いない︒
私は以下において︑ピチキャン自身から贈られた彼の著書を導きの糸とし︑ロシア語で発表されたフランスの研究者た
ちの論文とフランス調査団の報告書の図版を参考にして︑﹁アイ・ハヌムとはいかなる遺跡か﹂について要約的に紹介し
782たいと思う︒いずれベルナール博士による総括がまとめられ︑それが邦訳される日がくるであろう︒また日本の研究者に
よるフランス語文献に基づいた本格的研究も発表されることだろう︒私のこの一文は︑担当する大学院生の︑アイ・ハヌ
ムを知りたいという要望にこたえた暫定的なものにすぎない︒つぎの機会には︑アイ・ハヌムとの関連の中で︑タフテ
ィ・サンギン遺跡を紹介したいと思っている︒
それにしても︑アジアの奥深く︑アムダリヤ川の上流部にかくも見事な古代ギリシア人の都市が建設されたことにたい
して︑ただ感嘆するばかりである︒人類の営みは︑はるかな古代においても︑孤立ではなく︑交流の方に働いたことを痛
感するものである︒
O発見のいきさつと歴史地理
アイ・ハヌム(ウズベク語で﹁月のお方さま︑女主人﹂の意)とは︑都城肚のアクロポリスの麓にある村の名によったもの
である︒この遺跡の事実上の発見者はかつてのアフガニスタン国王モハッメド・サヒル・シャーであると言われる︒国王
はこの地を訪れたとき︑アイ・ハヌム村にあったコリント式の柱頭と柱礎に注目し︑フランス考古学調査団にこの発見を
知らせた︒一九六四年︑D・シュリュムベルジェを長とするフランスの調査団は︑アフガン政府の許可を得てこの遺跡を
視察し︑翌年からベルナールを長として発掘が開始された︒ときのフランス首相ポンビドーは自らこの地を訪れ︑その場
で発掘の予算を約束したという(樋口隆康教授による)︒
ポリスアイ・ハヌムはアジアの奥地にあるギリシアの都市遺跡であるが︑この都市はピャンジ川(アムダリヤの上流部)の左岸︑
コクチャ川との合流点の小河谷部(一〇×三五キロ)に位置している︒バクトリァ(地域)東端にあるその位置から見て︑
ア イ ・ハ ヌ ム 研 究 ノ ー ト 279
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この都市がギリシア人征服者の支配下に移った古代潅瀧地と古来有名なバダフシャン山地のリャピス・ラズーリ産地をコ
802ントロールするために創建されたのであろうと考えられている︒またこの都市が︑バクトリアの東部を守る前進基地であ
る点も充分考慮に入れる必要があろう︒
ベルナールの見解によれば︑この都市は最初﹁オクサスのアレクサンドリア﹂(アレクサンドリア・オクシアーナ)とよば
れた︒ただし︑この都市名をつたえている古代著作家はプトレマイオスだけである︒ベルナールがこの仮説を提出したの
は一九六七年英国アカデミーでの報告であるが︑しかしプトレマイオスはこの都市の位置をバクトリアではなく︑ソグデ
ィアナにおいているので︑ベルナールの説を証明することには至っていない︒著名なヘレニズム研究家ターンはアレクサ
ンドリア・オクシアーナをテルメズとしている︒ターンは生前アイ・ハヌムの発見を知らなかったが︑しかしテルメズで
もたしかに古典古代期の文化層は発見されている︒プトレマイオスが明確な位置を示していない以上︑どの都市が真のア
レクサンドリア・オサシア!ナであるかは︑そこから発見される碑文によるしかないであろう︒今のところ︑この都市名
の候補はアイ・ハヌム︑タフティ・サンギン︑テルメズの三つである︒
ベルナールはアイ・ハヌムがユークラティデアという古代名であった可能性をも提起している︒ストラボンはバクトラ
のほかにユークラティデス王の名にちなむユークラティデアという都市名をあげている︒しかしプトレマ︑イオスはこの都
市がバクトラの北西方約五〇キロメートル(アイ・ハヌムのように東方ではなく)に位置しているとのべている︒この位置関
係はソ連の考古学者1・クルグリコワらの調査したバルブ北方のディルベルジン遺跡に相当する︒したがってベルナール
のこの説も充分証明されたとば言い難い︒しかしいずれにしても︑アイ・ハヌムがベルナールの言うように︑﹁行政の大
中心であり︑地域全体の首都﹂であったことは疑いをいれない︒
ロアイ・ハヌムの都市建設と建築
ア イ ・ハ ヌ ム 研 究 ノ ー ト 281
グレコ・マケドニァおよびグレコ・バクトリアの都市であるアイ・ハヌムは東方ヘレニズムの標準的遺跡として一般に
認められている︒すでにのべたように︑都城趾はピャンジ川とその左支流コクチャ川との合流点にある︒その規模と都市
計画はヘレニズム時代ギリシア世界の典型的な地方都市のそれであった︒その形は直角三角形に近く︑直角の部分は川の
合流点になっている(図参照)︒直角をはさむ長辺(約一八〇〇メートル)はピャンジ川に面し︑短辺(約一六〇〇メートル)
はコクチャ川に面している︒多くのヘレニズム都市と同様に︑アイ・ハヌムでは段丘が利用されている︒都市面積の約半
分は天然の断崖上の高い部分にある︒これは都城趾南側(直角三角形の斜辺とコクチャ川の側面との接点)の地面より約六〇
メートル高い︒アクロポリスは自然の地形に人工のものを加えた防壁にとりまかれている︒上段都市と下段都市の間の第
二段丘上に劇場がある︒同じ第二段丘上の劇場より南に武器庫がある︒都市の主要な建物は下段都市(いちばん低い段丘)
に位置している︒
中央道路は長さ約一七〇〇メートル︑南から北東へ︑ピャンジ川に平行に走り︑下段都市を︑上段および中段都市から
分けている︒下段都市の中央部には宮殿︑へーローオン(神祠・礼拝所)︑体育場など公共的施設が集中している︒
西側のピャンジ川沿いの都市境界は昔から今まで変っていない︒プールと体育場︑および北からこれに接する噴水があ
る︒噴水は動物とシーレーヌスの頭部の形をした樋口から︑川にじかに水が流れ出るようになっている︒
フランスの考古学調査団は︑大きな公共的施設のある下段都市を最もよく調査した︒ベルナールはこれをこの地方の支
配者の宮殿と考えている︒
宮殿と中央道路との間に︑側壁を道路側に向け︑宮殿側を正面にした大きな公共的建物(げ豊日︒暮宅げぎ)が発見された︒
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