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兄弟をめぐるニエドワードとジョージ・ハーバート

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Academic year: 2021

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(1)

兄 弟 をめ ぐるニ

エ ドワ ー ドと ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー ト

本 の オ レ ンジの 樹

山根 正 弘

はじめ に

17世 紀 イギ リス の 宗 教 詩 人 ジ ョー ジ ・ハ.̲̲.バー ト(GeorgeHerbert)は 、1593年 4月3日 ウ ェー ル ズ の モ ン トゴ メ リー で 、 ジ ェ ン トリー 階 級 の 五 男 と して こ の 世 に 生 を受 け た。 兄 の エ ドワー ド(Edward,LordHerbertofCherbury)は 長 子 相 続 制 の 恩 恵 を受 け、 男 爵 に叙 せ られ る な ど社 会 的 に 成 功 した が 、 そ れ とは 対 照 的 に、 弟 の ジ ョー ジ は そ の溢 れ ん ば か りの 天 賦 の 才 に もか か わ らず 、 田舎 の 聖 職 者 と して そ の 生 涯 を閉 じた。 彼 が 自 ら進 ん で 一 介 の 聖 職 者 に な っ た の か 、 あ る い は そ うな らざ る を得 なか っ た のか 、議 論 の 分 か れ る と ころで あ る。だ が 、同 時代 の伝 記作 家 ア イザ ッ ク ・ウ ォル トン(IzaakWalton)に よ る と、 ソー ル ズ ベ リー 近 郊 の 鄙 び た 村 ベ マ トン の教 区 牧 師 に就 任 す る まで に は、様 々 に精 神 的 な葛 藤 を経 験 した とい う1)。ハ ーバ ー トの死 後 出版 され た詩 集 「教 会 」"TheChurch"(1633年 刊 『聖 堂 』TheTempleの 体 部 分)に 、神 の召 命 を受 け 田舎 牧 師 に な る まで 、 身 に感 じた 不 安 や 苦 悩 が 投 影 さ れ て い る。 なか で も詩 人 の 自伝 的要 素 が 強 く反 映 され て い る 「苦 悩 」(1)と 題 す る詩 で は 、 生 まれ や 気 質 か らす る と、 出 世 して 宮 廷 に仕 える はず で あ っ た が 、 学 者 と し て 栄 誉 を与 え られ 自惚 れ て い る 間 に、 道 を誤 り行 き場 を失 っ て し まっ た と、 自嘲 を 込 め て 人 生 を 振 り返 り、 そ の あ と 「木 に な る こ とが で き れ ば い い の だ が 、/そ うす れ ば 、 きっ と生 い 茂 って/実 をつ け た り、 木 陰 が で きる。/少 な くとも鳥 が 信 頼 し て 巣 をか け て くれ る」(57‑60行)と ささや か な願 い を表 明 して い る2)。

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ハ ーバ ー トが 僧 職 禄 を得 て 生 活 の 基 盤 を確 立 す る まで 、彼 の 暮 ら しは長 兄 エ ドワー ドか ら支 給 され る30ポ ン ドの年 金 と、 大 学 の 職 で 得 られ る わず か な給 金 で 成 り立 っ て い た 。 ところ が 、 年 金 の方 は エ ドワー ドの 都 合 で 滞 る こ とが あ っ た。 また 、 長 子 相 続 制 の もと次 男 以 下 は婚 期 が 遅 れ る こ とが 多 か っ たが3)、 ハ ーバ ー トも ようや く 36歳 に な って 結 婚 した 。 彼 は そ れ まで 国 の 要 職 に就 くわ け で もな く、 家 族 ぐるみ で 付 き合 い の あ っ た先 輩 詩 人 ジ ョン ・ダ ン(JohnDonne)の よ うに高 位 聖 職 者 に な る わ け で もな く、 宙 ぶ ら りん の 状 態 が 続 い て い た 。 そ ん な彼 が 神 か ら召 命 を受 け る ま で、 不 安 を訴 え苦 悩 を表 明 す るの も無 理 の な い こ とで あ ろ う。 「仕 事 」(1)と 題 す る 詩 で も、 同 様 に 自身 の 不 甲斐 な さを嘆 い て い る。 「す べ ての も は働 き者 、 た だ 私 だ け が/ミ ッバ チ と密 を あ つ め る こ ともせ ず 、/そ の密 を生 み 出 す 花 を植 え る こ と もな く、 そ れ らの花 に/水 を与 え る こ ともな い」(17‑20行)。 この 世 で の使 命 をほ ん の 少 しで も果 たせ た ら との 願 望 はハ ー バ ー トを捉 え て放 さ な い 強 追 観 念 の 如 き もの で 、 続 く 「仕 事 」(II)に お い て も、 己 が 存 在 の 不 確 か さ を嘆 い た あ と、 オ レ ン ジ の樹 に 想 い を託 す 。

OhthatIwereanOrenge‑tree, Thatbusieplant!

ThenshouldIeverladenbe, Andneverwant

Somefruitforhimthatdressedme.("Employment"[H]21‑25)

(あ あ 、 オ レ ン ジ の 樹 に な り た い も の だ/あ の 働 き 者 の 樹 に/そ う す れ ば 、 常 に 実 を た わ わ に つ け て/差 し 出 す こ と が で き る/私 を 育 て 上 げ て く だ さ っ た 方 に 、

そ の 実 を 。)

こ の よ うに、 ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トは様 々 な心 的 葛 藤 を経 て、 田舎 牧 師 として 教 会 の 権 威 に 従 い 、 後 世 「ベ マ トン の 聖 人 」と讃 え られ る よ う な 、 信 仰 者 の 模 範 と な る 。

と ころ で 、 詩 人 に想 い を託 され た オ レ ン ジの樹 は、 そ の 果 実 は別 に して 、 イギ リ ス で は とて も珍 しい 果 樹 で あ っ た4)。 暖 地 性 の オ レ ン ジ は、 も とア ル プ ス 以 北 で は

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露 地 栽 培 が 不 可 能 で あ った。 イ ギ リス で もオ レ ンジ の樹 が 持 ち 込 まれ た 当初 は、 冬 は霜 ゆ え に枯 死 して しま った 。 だ が し ば ら くす る と、 防 寒 処 置 として 木 造 の覆 い を 施 し、 ス トー ヴ を入 れ越 冬 が 可 能 に な った。 ロ ン ドンの薬 種 商 ジ ョン ・パ ー キ ンソ ン (JohnParkinson)は1629年 に 出 版 し た 園 芸 書 『太 陽 の 中 の 楽 園 地 上 の 楽 園 』 (ParadisiinSoleParadisusTerrestris)で 、 未 熟 な が らイ ギ リス で 初 め て オ レ ン ジ の 栽 培 方 法 を紹 介 して い る。 そ れ に よる と、 オ レ ンジ を 夏 の 日射 しに さ らす た め 、 大 きめ の 四 角 の 箱 に入 れ丘 の斜 面 に鉄 の 鈎 でか け、 また冬 の 寒 さか ら守 るた め に は、

箱 の 下 に付 け た トロ ッコで 転 が し、屋 敷 内 か 閉 め切 った 回廊 に 入 れ る 者 もい た 。 あ るい は、 オ レ ンジ を レ ンガ の 壁 を背 に して地 面 に植 え、 冬 の 時期 に は麻 布 で 覆 った 板 張 りの 小 屋 で 保 護 し、 さ らに寒 い 時 期 に な る とス トー ヴ を た き暖 を取 らせ る者 も い た、 とい う5)。とこ ろが 、 人 々の 憧 れ の樹 オ レ ンジ に一 大 異 変 が 起 こる。 フ ラ ンス

な ど大 陸 で ガ ラス を用 い た オ レ ンジ栽 培 用 の 温 室 が16世 紀 に建 て られ 、鉢 植 え の技 術 とあ い まって 、 寒 さ に弱 い オ レ ン ジの 越 冬 が 容 易 に な った 。 黄 金 の林 檎 を連 想 さ せ る オ レ ンジ の生 る空 間 は、 さな が らヘ スペ リデ ス の 園 で あ り、 楽 園 とな っ た。

詩 人 の信 条 を象 徴 す る オ レ ン ジの樹 は、 兄 の エ ドワ.,..̲.ドの 著 作 に も見 る こ とが で き るが 、 兄 か ら弟 へ 情 報 の 伝 達 が あ っ た の か 、 あ るい は、 も し兄 の 直 接 的 な影 響 で な い と した ら、 当 時 イギ リス の ど こで そ の樹 を 目にす る こ とが で きた の か 、 そ の 可 能 性 を探 る ことが 本 稿 の 目的 で あ る。

1二 本の オレンジの樹

ハ ーバ ー ト家 の エ ドワー ドとジ ョー ジ はか な り気 質 の違 う兄 弟 で あ った 。 兄 はあ くまで も激 し く、弟 は召 命 を受 け た 後 は ひた す ら従 順 で穏 和 で あ った 。兄 の エ ドワ,..̲..

ドはル ネサ ンス 的 万 能 人 で あ る。 国 王 ジェ イム ズ ー 世 の宮 廷 で は外 交 官 と して 活 躍 し、 後 に そ の 功 労 な どで チ ャ ー ル ズ0世 よ り初 代 チ ャー ベ リー卿 に叙 任 され る。 哲 学 の 分 野 で は 、 『真 理 に つ い て 』(DeVeritate)の 著 者 で 「イ ギ リ ス 理 神 論 の 父 」 と 称

さ れ る。 歴 史 家 の 問 で は 『ヘ ン リー 八 世 の 生 涯 と治 世 』(TheLifeandReignof

HenryVIII)の 著 者 と して も知 られ 、 弟 ほ ど有 名 で は ない に して も詩 人 で 、 ジ ョン ・

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ダ ン風 の形 而 上 詩 を記 して い る。 しか も、 晩 年 には 、 『平 信 徒 の 宗 教 につ い て』(De ReligionLaici)で 、 キ リス ト教 会 の権 威 、 聖 書 と司祭 を痛 烈 に批 判 して い る。 そ の 兄 エ ドワー ドは弟 ジ ョー ジ を 「何 年 もの 問、 僧 禄 を も らい 暮 ら して い た ソ ー ル ズ ベ リー 界 隈 で は 聖 人 と崇 め られ るほ ど、 弟 の 人 生 は とて も清 く、 模 範 とな っ た 」と評 し て い る が6)、 他 の 兄 弟 、 例 え ば 、 海 軍 で 活 躍 した 末 男 トマ ス ・ハ ー バ ー トを描 く 際 の筆 致 に較 べ る と鈍 く、 分 量 に して も遠 く及 ば な い。 だ が 、 兄 エ ドワー ドの 波 乱 に満 ちた 生 涯 に 、弟 が 宗 教 的 な決 意 表 明 す るの に象 徴 と して用 い た オ レ ン ジが登 場 す る。

エ ドワ ー ド ・ハ ーバ ー トは14歳 の と き父 を 亡 くし、 家 督 存 続 の た め2年 後 、 年 上 の 資 産 家 と目 され て い た 女 性 と結 婚 させ られ る。 そ れ か ら10年 間 は 島 国 で我 慢 して い た が 、好 奇 心 を満 足 させ るた め 、子 供 と妊 婦 を置 き去 りに して フ ラ ンスへ 旅 立 つ 。 妻 とは0悶 着 あ った よ うだ が 、 一 度 解 き放 た れ た 好 奇 心 は さ らな る 冒険 を 求 め 、 帰 国 して1年 足 らず で低 地 国(LowCountries)で の 宗 教 戦 争 に志 願 して 出 か け て し ま

う。 戦 争 の 最 中、 オ ラ ンダの 指 揮 官 オ レ ン ジ公 に 出会 い 、 友 誼 を深 め る。 戦 争 の 発 端 は こ うで あ る。1609年3月 、神 聖 ロー マ 帝 国 内の ク レー フェ侯 ウ ィ リァム ・ジ ョン が 逝 去 す る。 そ れ に と もな い侯 爵 領 の 継 承 を め ぐっ て 、 プ ロ テ ス タ ン1'と カ トリ ッ クが 激 突 す る。 プ ロ テス タ ン ト系 の 選 帝 侯 とハ プ ス ブ ル グ家 出 身 の皇 帝 ル ドル フニ 世 の 命 を受 け た レオ ポ ル ド大 公 が 名 乗 りを挙 げ る。 プ ロ テ ス タ ン ト側 に フラ ンス 王 ア ンリ四 世(HenriIV)が 支 援 を表 明す れ ば、 オ ラ ンダ とイギ リス が そ れ に追 随 す る。

もち ろ ん、 カ トリック側 に は ス ペ イ ンが 援 助 をす る。 レオ ポ ル ド大 公 が ク レー フ ェ 侯 爵 領 の 主 要 都 市 の 一 つ ジ ュ リヤ ー ズ(ド イツ名 ユ ー リッ ヒ)を 占領 す る と、 オ ラ ン ダ軍 の 指 揮 官 オ レ ン ジ公 は ジ ュ リヤ ー ズ を包 囲 す る。 イギ リス 軍 はサ ー ・エ ドワー

ド・セ シル の指 揮 の 下 、オ ラ ンダ軍 と合 流 して包 囲 に加 担 す る。エ ドワー ド・ハ ー バ ー トは1610年6月 、 低 地 国 を経 由 して オ レ ン ジ公 率 い る軍 に志 願 兵 と して 参 加 す る。

8月22日 ジ ュ リヤ ー ズ は プ ロ テ ス タ ン ト側 に陥 落 す る。 エ ドワー ドは60歳 を越 えた 頃書 き始 め た 『自伝 』(TheLifeofEdward,LordHerbertofCherbury)で 、 当 時 の 経 緯 を回顧 して、 次 の よ うに述 べ て い る。

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私 が そ こ に行 くこ とに な った きっか け は こ うで あ る。 つ ま り、 ク レー フ ェ侯 領 、 ジ ュ リヤ ー ズ 及 び低 地 国 と ドイ ツの 問 に あ る そ の他 の諸 州 の称 号 を め ぐる戦 い が 、 そ の侯 位 要 求 者 た ち に よ っ て な され た こ と、 そ して フ ラ ンス 王 自身 が 大 軍 を率 い て そ の 地 域 に進 軍 す る こ と を聞 きつ けた か らで あ る。 時 は1610年 、 チ ャ ン ドス 卿 と私 は低 地 国へ 船 で 渡 り、 そ こか らジ ュ リヤ ー ズ に赴 く決 意 を固 め た 。 そ の 都 市 を オ レ ンジ公 が 包 囲 す る こ とに な っ て い た か ら。 大 急 ぎで そ こに行 っ て み る と、 包 囲 は 始 ま っ た ば か りで あ り、 低 地 国 軍 はサ ー ・エ ドワー ド ・セ シ ル 鷹 下 の 四 千 名 の イギ リス兵 で 補 強 さ れ て い た 。 ほ どな く、 悪 党 ラヴ ァリア ッ クに 暗 殺 され た ア ン リ四 世 の 名 代 と して、 フラ ンス 軍 元 帥 が 大 軍 を率 い て 到 着 した。(52‑53頁)

ち な み に、 『自伝 』 に 登 場 す る オ レ ン ジ 公 は ナ ッサ ウ 家 モ ー リ ス 伯(Count MauriceofNassau)の こ とで 、1618年 、 兄 フ ィ リ ップ ・ウ ィ リア ム の 逝 去 に ともな い 爵 位 を継 承 す る。 エ ドワ,...ドが 自伝 を書 き始 め た の は1643年 頃 か らで あ り、彼 を 後 の 称 号 で 登 場 させ て い る。 また、 ジ ョン ・ダ ンに は 「ジ ュ リヤ ー ズ に い るサ ー ・エ ドワー ド・ハ ーバ ー トに」("ToSirEdwardHerbert,atJuliers")と い う書 簡 詩 が あ る。

休 戦 の 後 、 フ ラ ンス や イ タ リアの 都 市 を遊 歴 し帰 英 した エ ドワー ドは、 フ ラ ンス で の 交 友 関 係 や 低 地 国 で の 武 勲 を 買 わ れ て 、 また 後 の バ ッキ ン ガ ム 公(George Villiers,DukeofBuckingham)の 推 挙 もあ り、1619年 に 駐 仏 特 命 大 使 に任 ぜ られ

る。 パ リで の 主 な職 務 は前 年 に勃 発 した ドイ ツ三 十 年 戦 争 の情 報 収 集 とフ ラ ンス 国 王 の動 向 の 分 析 で あ っ た。 そ れ ゆ え、 パ リ駐 在 の各 国 の 要 人 との付 き合 い も大 切 な 任 務 で あ り、 快 晴 の 日に は園 遊 会 に 出席 し、 雨 天 の 日に は舞 踏 会 な どに 参 加 して い た 。 あ る 晴 れ た 目、 チ ュ イ ル リー(Tuileries)の 庭 園 で の こ と。 仏 国 王 ル イ 十 三 世 (LouisXHI)の 王 妃 ア ン(AnneofAustria)が エ ドワー ドとの 散 策 を 求 め、 腕 に 手 を か け談 笑 して い た と き、 突 然 、 空 か らな に か 小 さな粒 が 降 って きた 。 運 悪 く二 人 と も帽 子 を 被 っ て い な か っ た の で 、じか に 頭 に 当 た っ た 。手 に 取 っ て み る と、弾 粒 で 、 近 くで 王 が 鳥 を狙 い 放 っ た銃 弾 で あ る こ とが 判 り、 二 人 は び っ く り仰 天 す る。 騒 ぎ

を聞 きつ け た廷 臣 た ちが 王 を残 して 駆 け 寄 っ て くる。 そ の 中 にエ ドワー ドの 恋 敵 が

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い て 、 ア ン王 妃 が 彼 とま だ親 し く寄 り添 っ て い るの が 憎 ら し くて、 王 妃 の背 後 に 忍 び よ り、 ポ ケ ッ トに 隠 し持 って い た砂 糖 菓 子 をそ っ と頭 に 降 り注 い だ 。 王 が 再 度 二 人 の 仲 を邪 推 して 故 意 に 空 砲 を放 った の で は と王 妃 は狼 狽 す る。 エ ドワー ドは貴 婦 人 を怖 が らせ る 以 外 に余 興 の 方 策 を考 案 で き な い とは 廷 臣 の風 上 に 置 け な いや つ だ、 と騎 士 道 精 神 を発 揮 して助 け船 を出 す 。 この 話 は彼 の 『自伝 』に紹 介 され て い るエ ピソ ー ドあ るが(102‑4頁)、 エ ドワー ドは話 を 導 入 す る まえ に 宣 誓 を して 信 愚 性 を保 証 して い る。 だ が 、 か え っ て 眉 唾 な 印象 を与 え、 思 わ ず 苦 笑 して しま う。 彼 は この 庭 園 に 「オ レ ンジの 樹 が 生 育 して い た 」と特 記 して い る。 お そ ら く、 王 妃 との 特 別 な思 い 出 が オ レ ンジ と結 び つ い た の で あ ろ う。 とい うの も、 チ ュ イ ル リー 庭 園 は も と、 先 王 ア ンリ四 世 が1600年 に結 婚 を し た マ リア(Mariade'Medici)に 故 郷 を偲 ばせ る た め造 園 させ た イ タ リア式 庭 園 で、オ ラ ンジ ェ リー(オ レ ンジ栽 培 用 温 室) が 併 設 され て い て、 前 述 の よ うに、 当 時 の イギ リス 人 に は珍 しか った 。 エ ドワー ド はそ の 間 の 事 情 を知 っ て い て 、 パ リの チ ュ イ ル リー で 見 つ け た オ レ ンジ を 自伝 に加 えた に相 違 ない 。20数 年 後 、 日記 作 家 の ジ ョン ・イー ヴ リ ン(JohnEvelyn)が チ ュ イ ル リー の庭 園 を訪 れ た ときの 印 象 を次 の よ うに記 して い る、 「オ ラ ンジ ェ リー、 貴

パラ ダイス

重 な灌 木 そ れ に珍 しい果 実 が あ り、 楽 園 の ようだ った 」と(1644年2月9日 付)7)。

そ れ で は 、 兄 エ ドワー ドの 詩 の 中 で は、 オ レ ン ジの樹 は どの よ うに扱 われ て い る で あ ろ うか 。 「私 は愛 した 最 初 の男 」(『詩 集 』の 編 者 ム ー ア ・ス ミス に よ る)と 題 す る 詩 で 、 イ ギ リス の オ レ ンジは 成 長 が 遅 い と述 べ て い る。

YepasinourNorthernClime

Rarefruits,thoughlate,appearatlast;

Aswemaysee,someyearsb'ingpast, OurOrenge‑treesgrowripewithtime.(11.25‑28)g}

(だ が 、 我 ら が 北 方 の 風 土 に/珍 し い 果 実 が 最 近 に な っ て よ う や く 現 れ た が 、 知 っ て と お り 、 何 年 も か か っ て/我 ら の オ レ ン ジ の 樹 は 成 熟 す る の で あ る)

こ の よ うに 兄 弟 二 人 は 、 とも に オ レ ンジ の 樹 を イ メー ジ とし て 詩 に 援 用 して い る。

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弟 の 詩 は先 に 紹 介 した よ うに、 神 の 栄 光 を 讃 え るた め 、 ほ ん の少 しで も尽 力 した い との 願 望 を披 潅 した 宗 教 詩 で あ る。 そ れ に対 して、 後 者 の 詩 は あ る意 中 の夫 人 に、

願 い を 聞 き入 れ て くれ る よ うに 切 に 訴 え る恋 愛 詩 で あ る。 弟 の 詩 で は 、 オ レ ンジの 樹 は豊 饒 性 を象 徴 して い た が 、 兄 の 詩 で は秘 め られ た恋 心 が 徐 々 に募 る様 子 が 、英 国 に移 植 され た オ レ ンジの 生 育 過 程 に喩 え られ る。 これ ら二 つ の 宗 教 詩 と恋 愛 詩 に お け る オ レ ンジ の用 い 方 を見 る限 りで は、 片 方 が も う一 方 に影 響 を 及 ぼ した と考 え る の は無 理 で あ ろ う9)。 しか し、 兄 弟 で あ る以 上 、 思 想 的 ・政 治 的 相 違 が あ る に も か か わ らず 、 二 人 が 草 稿 を見 せ 合 い 、 時 に は朗 唱 して い た 可 能 性 は否 定 で きず 、0 方 が他 方 に そ れ とな く知 らせ るキ ュ ウ とし て オ レ ンジ を用 い た と考 え られ な い だ ろ

うか 。

∬ イタリア式庭 園の果 実

イ タ リ ア ・ル ネ サ ン ス の 庭 に は オ レ ン ジ や レ モ ン な ど 柑 橘 系 の 果 樹 が 植 え ら れ 、 人 々 の 視 覚 や 嗅 覚 を 刺 激 し て い たio)。1350年 頃 、 ボ ッ カ チ オ(Boccaccio)が 『デ カ メ ロ ン 』(TheDecameron)第 三 日 の 序 で モ デ ル と し て 描 い た トス カ ー ナ 州 の ヴ ィ ッ

ラ ・パ ル ミエ リ(VillaPalmieri)が そ の 一 例 で あ る 。

この庭 園 の中央 に(中 略)何 千種 とい う草花が その草地 の中に咲 き、 またその

オ レ ン ジ レモ ン

周 囲 に は緑 した た る勢 い の よい柑 橘 の樹 や 檸 檬 の 樹 が 植 わ って い ま した。 そ れ らの樹 に は熟 した 実 、 未 熟 の実 また は花 な どが つ い て お り、 心 よい樹 陰 で 人 の 目を娯 しませ る ば か りで な くまた 嗅 覚 を も娯 し ませ るの で あ りま したll)。

女 王 エ リザ ベ ス の 治 世 、 ル ネサ ンス も凋 落 期 にあ っ た イ タ リア や そ の 影 響 を受 け た フ ラ ンス、 オ ラ ンダか ら、 旅 行 者 、 戦 争 の 志 願 兵 そ れ に大 使 や 公 使 な どが イ ギ リ ス に 戻 っ て くる 。 彼 ら は 文 化 と称 し て 盛 ん に新 奇 な も の を 持 ち 帰 り 自慢 し た 。 特 に 庭 園 は権 力 や 流 行 を誇 示 す る絶 好 の見 せ 場 で あ り、 珍 しい果 樹 は贅 を尽 くした装 飾 品 とな っ た。 チ ュダ ー嘲 の社 会 生 活 を克 明 に描 い た ウ ィリア ム ・ノ・リソ ン(William

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Harrison)は 「庭 と 果 樹 園 に つ い て 」("OfGardensandOrchards")の 中 で 、 実 に 様 々 な 外 来 種 の 珍 し い 果 樹 が こ の40年 の 間 に 貴 族 の 庭 園 な ど に 移 植 さ れ た も の だ と 感 嘆

し た あ と 、 オ レ ン ジ や レ モ ン の 樹 を 見 た し 、 オ リ ー ヴ が こ こ イ ギ リ ス で も 育 つ の を 聞 い た こ と が あ る 、 と 記 し て い る12)。 バ ー リ ー 卿 ウ ィ リ ア ム ・セ シ ル(Wiliam Cecil,LordBurghley)と と も に 、 イ ギ リ ス で 最 初 に オ レ ン ジ の 樹 を 植 樹 し た と 称 さ れ る フ ラ ン シ ス ・カ ル ー(SirFrancisCarew)は1562年 の 春 、 パ リ で オ レ ン ジ の 苗 木 を 購 入 し 、 サ リ ー 州 ベ デ ィ ン ト ン(Beddington)の 地 に 移 植 し た 。 日 記 作 家 の ジ ョ

ン ・イ ー ヴ リ ン に よ る と 、 そ の 栄 誉 を 浴 す る の は 、 ニ コ ラ ス ・カ ル ー(SirNicholas Carew)で あ る と い う 。

ベ デ ィ ン トン、 そ こは か つ て は ス ロ ックモ ー トン家 で 今 で は カル ー 家 の 座 で あ る。 そ の ス ロ ックモ ー トンが 最 初 に ス ペ イ ンか らオ レ ン ジの 樹 を持 ち 込 ん だ 。 彼 は そ こで 大 使 を務 め て い たが 、帰 国 後 、近 傍 に立 派 な庭 園 をつ くった 。 オ レ

ンジの 樹 は 鉢 植 え で は な く、 地 面 に 植 え られ て い た。 仮 の小 屋 とい うか 木 の覆 い が あ り、ス トー ヴ に火 を入 れ て、そ の場 にず っ と植 え られ た ま まで あ る。(1632 年10月21日 付)

ま た 、 イ ー ヴ リ ン の 未 完 の 大 著 『英 国 の 庭 園 』(ElysiumBritannicumorthe RoyalGardens)に よ る と 、

聞 い た とこ ろ に よ る と、 オ レ ン ジの 樹 が 最 初 に イギ リス に持 ち込 まれ 植 え られ た の は、 エ リザ ベ ス女 王 の 治 世 サ リー 州 ベ デ ィン トンで 、 あ らゆ る園 芸 の愛 好 家 サ ー ・ニ コ ラス ・カル ー に よる とい う。 そ の地 で は、 オ レ ンジが 今 で も植 え ら れ て い る…!3)

こ の ニ コ ラ ス ・カ ル ー が フ ラ ン シ ス ・カ ル ー の 甥 を 想 定 し て い た と す る と 、 お そ ら

き ょ うだ い

く イ ー ヴ リ ン の 誤 解 で あ ろ う。 フ ラ ン シ ス に は 姉 妹 に ア ン(AnneCarew)が い た 。

彼 女 は パ リ 駐 仏 大 使 の ニ コ ラ ス ・ス ロ ッ ク モ ー ト ン(SirNicholasThrockmorton)

(9)

に 嫁 い で い た 。 フ ラ ン シ ス は1611年81歳 で 亡 く な り、 ベ デ ィ ン ト ン を ア ン の 息 子 、 即 ち 甥 の ニ コ ラ ス ・ス ロ ッ ク モ ー ト ン(NicholasThrockmorton)に 譲 っ た 。 甥 は 内 乱 後 母 方 の 姓 に 改 名 し カ ル ー を 名 乗 る 。 こ の ニ コ ラ ス ・カ ル ー に は 同 姓 同 名 の 祖 父 が い る 。 だ が 、 そ の 祖 父 は1539年 に 亡 く な っ て い て 、 し か も ス ペ イ ン 大 使 で あ っ た と い う 事 実 は な い 。 イ ー ヴ リ ン が20数 年 後 再 び ベ デ ィ ン ト ン を 訪 れ た と き 、 ス ロ ッ ク モ ー ト ン の 名 は 省 略 さ れ る 。

カ ルー 家 の 古 よ りの座 、 ベ デ ィ ン トンに行 っ た 。(中 略)そ こは イギ リス で 最 初 の オ レ ンジの 庭 で有 名 で あ る。 今 で は樹 は成 長 し過 ぎ て い る。 そ れ らの樹 は地 面 に植 え られ て いて 、冬 は木 造 の 小 屋 とス トー ヴで 保 護 され て い る。(1658年9 月27日 付)

さ らに42年 後 、 イ ー ヴ リ ンが ベ デ ィ ン トンを訪 れ た とき、 屋 敷 や 庭 園 は朽 ち果 て て い るが 、 イギ リス で 最 初 の オ レ ンジ の樹 は今 で も実 を結 び 健 在 で あ る、 と 日記 に 記 して い る(1700年9月20日 付)。 イギ リス で 最 初 に オ レ ン ジ を持 ち 込 ん だ 栄 誉 に 浴 す るの が だ れ で あ れ 、 ベ デ ィ ン トンの 地 に イ ギ リス で 最 初 の オ レ ンジ と木 造 の オ

ラ ン ジェ リー の原 型 を 見 出 す こ とが で きる。

フ ラ ンス は ノル マ ンデ ィ出身 の 水 力 学 技 師 サ ロモ ン ・ド ・コー(SalomondeCaus)

が 英 国 王 ジ ェ イ ム ズ0世 の 王 妃 ア ン(AnneofDenmark)の た め に 設 計 した とされ るサ マ セ ッ ト・ハ ウ スの 作 業 報 告 書 に 「オ レ ンジの樹 の た め の建 物 」が あ る。サ マ セ ッ

ト ・ハ ウス は1609年 に造 園 が 始 ま るが 、 実 際 に この オ レ ンジの 建 物 が 建 設 され たか どうか 定 か で はな い 。 また、 ド ・コー は イ ング ラ ン ドに渡 る前 、16世 紀 の 終 わ り頃 、 実 施 設 計 集 とい うべ き 『動 力 の 原 理 』(LesRaisonsdesforcesmouvantes)を 著 して い るが 、 そ の 第11則 に は、 上 部 に貯 水 槽 を備 えた 人 口洞 窟 が 描 か れ て い る。 そ こに 至 る散 歩 道 に は 鉢 植 え され た オ レ ンジ と レモ ンの樹 が 並 べ られ て い た。 そ れ らの 樹 に は 円 蓋 が 懸 け ら れ 、 越 冬 で きる よ う工 夫 が な さ れ て い る 。 ド ・コ ー は イ ン グ ラ ン ド の 寒 い気 候 風 土 に合 わ せ て、 円蓋 の 工 夫 を さ らに発 展 させ オ レ ン ジ栽 培 温 室 を デザ

イ ン した の か も しれ な い14)。この よ うに イギ リス で オ レ ンジ熱 が 高 まる中 、ジ ョー ジ ・

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ハ ー バ ー トも知 己 の 庭 園 で 、 オ レ ンジの樹 を現 実 に見 た の だ ろ うか 。

政 治 家 ウ ィ リア ム ・テ ンプ ル(SirWilliam艶mple)は1666年 ブ リュ ッセ ル駐 在 公 使 の とき、仏 国 王 ル イ十 四 世 の 野 望 を打 ち砕 くた め イギ リス、 オ ラ ン ダ、 ス ウ ェー デ ンの プ ロ テ ス タ ン ト三 国 同 盟 の 調 印 に尽 力 した あ と、1674年 に は オ ラ ンダの オ レ ン ジ公 ウ ィリア ム とメア リー との結 婚 を お膳 立 てす る。1685年 に は 政 界 を 退 き、 故 郷 サ リー 州 シ ィー ン(Sheen)に 隠 遁 す る。 「古 代 と現 代 学 問 」や 「も ぐさに よる痛 風

の 治 療 」 な ど様 々 な エ ッセ イ を著 す 。 「エ ピ ク ロ ス の庭 園 」("UpontheGardensof

Epicurus,orOfGardening")も そ の 一 つ で 、古 代 か ら当 代 に至 る庭 園 通 史 で あ る と ともに 、 当 時庭 園が い か な る様 相 を呈 して い たか を伝 え る格 好 の エ ッセ イで もあ る。

そ の 中 で 彼 は育 て上 げ た 自慢 の果 樹 として 、 桃 、 無 花 果 、 葡 萄 の 他 、 オ レ ンジ の樹 を挙 げ て い る。

私 の オ レ ンジ の樹 は、 フ ォ ンテ ー ヌ ブ ロ ー や 低 地 国 で 見 た もの を除 き、 また オ レ ン ジ公 の 老 木 を 除 き、 若 い 頃 フ ラ ンス で 見 た もの と同 じ くらい の 大 き さに成 長 し、 咲 き うる 限 りの 花 が 咲 き、 望 み うる果 実 で 満 ち溢 れ て い る。 昧 の 方 も、

セ リヴ ィア や ポ ル トガ ル の 最 高 の 品 種 を除 き、 普 通 に 輸 入 され る もの と同 等 で あ る15)。

テ ンプ ル は イギ リス とい う寒 い気 候 風 土 で 暖 地 性 の 果 樹 を育 て る工 夫 も説 く。 適 した 土 壌 の 選 び方 、壁 の 方 角 に あ っ た果 樹 の選 び方 、 黒 色 の 害 虫 の 駆 除 法 な ど克 明 に記 して い る。 彼 が 精 魂 込 め て 造 園 した 庭 を イー ヴ リ ンが 見 た とき、 息 子 ジ ョ ン ・ テ ンプ ル 所 有 の もの で あ った が 、 そ の 印 象 を 日記 に 記 して い る。 「正 餐 後 、 近 傍 の サ ー ・ウ ィリアム ・テ ンプ ル に 会 い に行 った 。:...の 見 所 は、 彼 の オ ラ ンジェ リー と 庭 で 、 そ こ に は木 々 が とて も見 事 に壁 を覆 う よ うに固 定 され て い た 。 生 涯 で これ ほ ど立 派 な の もの は 見 た こ とが な い」(1688年3月29日 付)。 こ れ は壁 や垣 ぎわ に 木 を

エ ス パ リエ

植 え る 「果 樹 縞 」と呼 ば れ る栽 培 法 で 、 日射 しを最 大 限 に受 け 、 日没 後 も余 熱 を利 用 す る こ とが で きる。

1685年 に テ ンプ ル はハ ー トフ オー ドシャ ー の ムー ア ・パ ー ク を購 入 し、 翌 年11月

(11)

引 っ越 す 。 こ の ム...̲.ア・パ ー クの 庭 園 は 、1617年 か ら27年 にか け て造 営 され 、 テ ン プ ル は数 あ る名 園 の 中 で も美 し く完 壁 と称 賛 して い る。30年 ほ ど前 に訪 れ た と き、

印 象 に残 った もの と してオ レ ンジ の樹 を挙 げ てい る。

テ ラ スの 縁 に は標 準 の 月桂 樹 が 置 か れ 、 さ らに距 離 を置 い た ところ にオ レ ン ジ の樹 が 美 し く植 え られ て い た。 花 が しぼ み 、 実 が 生 って い た 。(中 略)南 に面 し た 回廊 は蔦 で 覆 わ れ て い て、 オ ーレンジ の建 物 に は 適 して い た こ とで あ ろ う。(3 巻235‑36頁)

テ ン プ ル が 訪 問 し た1650年 代 に は 、 ム ー ア ・パ ー ク に は オ ラ ン ジ ェ リ,̲̲̲.は 現 存 し て い な か っ た こ と が 窺 え る が 、 こ の 庭 園 は 構 成 が 前 述 の サ マ セ ッ ト ・ハ ウ ス 庭 園 に 類 似 し て い る こ と か ら 、 サ ロ モ ン ・ド ・コ ー の 設 計 が 疑 わ れ る 。 事 実 、 ジ ョ ン ・オ ー ブ リ ー(JohnAubrey)は サ ロ モ ン を 設 計 者 に 挙 げ て い る16)。 だ が 、 ド ・コ ー は1612 年11月 、 彼 が 庇 護 を 受 け て い た 英 国 ヘ ン リ ー 皇 太 子 の 急 逝 に と も な い 翌 年7月 、 イ ギ リ ス の 島 を 離 れ 大 陸 に 向 か い ヘ ン リ ー の 妹 エ リ ザ ベ ス 王 女 と そ の 夫 で プ フ ァ ル ツ 選 帝 侯 プ リ}ド リ ヒ 五 世 に 伺 候 し た あ と、1626年 没 す る 。 従 っ て 、 そ の 頃 イ ギ リ ス に 滞 在 し て い た 彼 の 弟 で や は り、 庭 園 技 師 で 『ウ ィ ル ト ン の 庭 』(Lesjardinde Wilton)のi著 者 イ サ ク ・ ド ・コ ー(IsaacdeCaus)の 手 に な る も の と 推 察 さ れ る 。 造 園 の 施 主 は 、 テ ン プ ル に よ る と 、 ベ ドブ オ,̲̲̲ド伯 爵 夫 人 ル ー シ.̲̲̲・ハ リ ン ト ン(Lucy Haxington,CountessofBedford)で あ り、 ジ ョ ン ・ダ ン も こ の 庭 を 称 賛 し た と い う(3 巻235頁)。 し か し 、1631年 の 売 買 契 約 書 に よ る と、 ル ー シ ー ・ハ リ ン ト ン の あ と 第 三 代 ペ ン ブ ル ッ ク 伯 ウ ィ リ ア ム ・ハ ー バ ー トが 所 有 し て い た と あ り、1627年 に ル ー一

シ ー ・ハ リ ン ト ン が 逝 去 し た あ と 、 ウ ィ リ ア ム ・ハ ー バ ー トが 譲 り受 け 、 庭 園 に 手 を 加 え た 可 能 性 が 高 い17)。27年 か ら31年 の 問 、ペ ン ブ ル ッ ク 伯 の 被 庇 護 者 で あ る ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トが な ん ら か の 機 会 に そ こ の パ ー ク を 訪 れ 、 オ レ ン ジ の 樹 に 花 と 実 が 同 時 に な る の を 見 た 可 能 性 が あ る 。

ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー ト は1629年 に 親 戚 の 娘 ジ ェ ー ン ・ダ ン ヴ ァ ー ズ と 結 婚 し た あ

と 、 先 に 述 べ た よ う に 、 翌 年4月 ソ ー ル ズ ベ リ ー 郊 外 の 小 邑 ベ マ ト ン の 教 区 牧 師 に

(12)

な る。 ベ マ トンの西2マ イ ル ほ どの 所 に は、 ウ ィル トシ ャー の名 家 ペ ンブ ル ック伯 爵 の居 城 ウ ィル トン ・ハ ウス が あ る。 ハ ー バ ー トの 庇 護 者 で あ る 第 三 代 ペ ンブ ル ック 伯 ウ ィ リア ム ・ハ ー バ ー トは1601年 ウ ィル トンの所 領 を相 続 し、 この 地 に庭 園 を造 営 す る。残 念 なが らこの庭 園 は30年 代 、弟 で 第 四代 ペ ンブ ル ック伯 フ ィリ ップ ・ハ ー バ ー トに よっ て大 改 造 され て しま うが 、1623年 に こ こを訪 れ た 「水 上 詩 人 」ジ ョン ・ テ イ ラー(JohnTaylor)の 描 写 か ら、 そ の 庭 園 の 面 影 を偲 ぶ こ とが で きる。 そ れ に

よる と、 庭 師 のエ イ ドリア ン ・ギ ル バ ー ト氏 が 果 樹 を選 ん で並 木 道 と四 阿 をつ く り、

感 覚 を楽 し ませ 、 うっ と りと させ るほ どで 、氏 はそ こ を 「楽 園 」と呼 ん で い た 、 とい う18)。柑 橘 系 の樹 とい う表 現 こそ 見 あ た らない が 、 オ レ ン ジが 植 わ っ て い た と想 像 した くな る。 とい うの も この 地 は、 伯 爵 夫 人 メ ア リー ・ハ ーバ ー トの兄 フ ィ リ ップ ・ シ ドニ ー(SirPhilipSidney)が(旧)『 ア ー ケ イ デ ィア 』(TheOldArcadia)を 記 し た ゆ か りの場 所 で あ り、 そ の 改 訂 版 に は、 「見 捨 て られ し騎 士 の 果 敢 な 味 方 二 人 … 0方 の 騎 士 は武 具 も馬 具 もす べ て緑 色 で、 そ れ は オ レ ン ジ実 る心 地 よい庭 園 の よ う

で した。 精 巧 に 金 箔 を貼 り刺 繍 をほ ど こ した 黄 金 の 果 物 は、 目に も快 い 緑 の 色 を豪 華 に見 せ て い た か らです 」(第3巻)と い う描 写 に 出会 うか らで あ る19)。

折 に触 れ て何 度 か 引 用 した 日記 か ら判 る とお り、 ジ ョン ・イー ヴ リン もオ レンジ に は 目ざ とか っ た。1642年 内 乱 が 勃 発 し議 会 軍 が 勝 利 を収 め る と、 そ の 忠 誠 を避 け る た め43年11月 に は フ ラ ンス を足 掛 か りに大 陸 旅 行 に 出 か け る。 翌 年10月 、 南 仏 か ら当 時 イ タ リア旅 行 の 出発 地 点 で あ っ た ジ ェ ノア に 入 る。 そ の地 で 勾 配 を利 用 した テ ラ ス式 の庭 を見 聞 し、 特 に 印 象 深 か っ た パ ラ ッツ オ ・ドリア(PalazzoDoria)で 見 た オ レン ジの樹 を 日記 に残 して い る20)。この あ とピサ 、フ ィ レ ンツェ、シエ ナ 、ロー マ を経 て、 ボ ロー ニ ャ、 ヴ ェニ ス に至 る。1645年6月 に は パ リに戻 り、 王 党 派 の逃 亡 者 達 と合 流 し、 リチ ャ ー ド ・ブ ラ ウ ン(SirRichardBrowne)と 親 睦 を深 め る。 翌 年6月 、 彼 が26歳 の とき、 ブ ラ ウ ンの 娘 で12歳 の メ ア リ.̲..と結 婚 す る 。花 嫁 をパ リ に残 して 一 旦 は 帰 英 す るが 、1649年1月30日 、 チ ャ ー ル ズ ー 世 処 刑 の悲 報 に接 し、

7月 パ リに 戻 る。52年2月 に は妻 を連 れ て 帰 国。54年 に夫 婦 で 国 内旅 行 に 出力}け、7 月20日 に ソー ル ズ ベ リー に着 く。ゴ シ ック調 の 大 聖 堂 に心 を奪 わ れ た あ と、午 後 ウ ィ ル トンに 出 か け る。 英 国 で 一 番 の気 品 の あ る庭 と讃 えて 、 印 象 に残 った 細 部 を描 く。

(13)

庭 に面 した ダ イニ ング ・ル ー ム、 庭 園 を横 切 り蛇 行 す る小 川(ナ ダ ー一川 の 支 流)、 人 工 洞 窟 、花 壇 そ れ に厩 舎 。 厩 舎 は ラ イム の散 歩 道 が あ るゆ え に正 面 の 前 景 が 素 敵 で

あ る("Thestables...yieldagracefulfront,byreasonoftheWaIksoflimetrees.")

とい う(1654年7月20日 付)。 こ こで い う 「ラ イ ム」(limetree)と は、 残 念 な が ら柑 橘 系 で は な く、 リ ンデ ン(linden)を 指 し、 和 名 で は 「しな の き」で あ る23)。 また 、

この ウ ィル トンは、 先 に触 れ た よ うに、 フ ィ リップ ・シ ドニ ー ゆか りの 地 で あ り、 そ の シ ドニ ー の 生 家 ケ ン ト州 のペ ンズハ ー ス ト・プ レイ ス の庭 園 に も 「ライ ムの並 木 道 」 が あ る。2年 ほ ど前 に このペ ンズハ ー ス トを訪 れ た イー ヴ リ ンは、 庭 と素 晴 ら しい果 実 で 有 名 で あ る、と記 して い る(1652年7月9日 付)。 つ ま り、ウ ィル トン とペ ンズハ ー ス トの庭 は 、 あ る程 度 造 園 主 の趣 味 が 共 通 に反 映 して い て 、 ペ ンズハ ー ス トに珍 し い 果 実 が あ っ た とす れ ば、 ウ ィル トンに も、 他 の果 樹 に混 じっ て オ レ ン ジが 植 わ っ て い た の で は ない か と、や は り想 像 した くな る。造 園 主 の 第 三 代 ペ ンブ ル ック伯 ウ ィ リア ム ・ハ ー バ ー トは1630年4月10日 、跡 継 ぎを残 さず 急 逝 す るが 、 ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トが 田舎 牧 師 に な る前 に頻 繁 に ウ ィル トンを訪 れ 、庇 護 者 と自慢 の庭 園 で語 ら いの 場 を楽 しんだ に相 違 な い。

ハ ー バ ー ト家 と は 親 戚 関 係 に あ っ た 伝 記 作 家 オ,̲̲̲ブリー は 『名 士 小 伝 』(Brief Lives)の 中 で、 第 四代 ペ ンブ ル ック伯 フ ィリ ップ ・ハ ー バ ー トに よっ て 大 幅 に 改 造 され た ウ ィル トン ・ハ ウ ス の庭 園 は、 彫 像 、 噴 水 や 人 工 洞 窟 な どの 創 意 で 知 られ る イギ リス で 第3番 目の イ タ リア 式 庭 園 で あ っ た伝 え て い る22)。こ の伯 爵 家 の 兄 弟 は そ の 母 に サ ー ・フ ィ リ ップ ・シ ドニ ー の 妹 メ ア リー ・シ ドニ ー を 持 つ だ け あ って 、 1623年 出版 され た シ ェイ クス ピ ア の 戯 曲集 フ ァー ス ト・フ ォ リオ を献 呈 さ れ るな ど

比 類 の な い兄 弟 」と して歴 史 に名 を止 どめ て い る。弟 フ ィリ ップ も見 か け とは違 い、

なか なか の審 美 眼 の持 ち 主 で あ った とい う。 だが 、 そ の庭 園 に は、2番 目の 妻 ア ン ・ ク リフ ォー ド夫 入(LadyAnneClifford)の 嗜 好 が か な りの 程 度 、 反 映 され て い る と もい う。 彼 女 の 家 庭 教 師 は、 サ ミュエ ル ・ダ ニ エ ルで あ っ た。 また、 彼 女 が 書 き残

した 日記 に よ る と、 結 婚 後 の 孤 独 な 時 間 を 癒 す 友 は オ ウ ィ デ ィ ウ ス 、 チ ョー サ ー や ス ペ ンサ ー な ど の文 学 作 品 で あ り、 また 聖 書 や ア ウ グ ス テ ィヌス な どで あ った 。 彼 女 自身 もか な りの 資 産 家 で ジ ョ ン ・ダ ンを家 に迎 え、 歓 待 も して い る。 ア ン ・ク リ

(14)

フ ォー一ド夫 人 は1630年6月 に 第 四 代 ペ ンブ ル ック伯 フ ィリ ップ ・ハ ー バ ー トと再 婚 す る。 互 い に 再 婚 同士 で あ る。 前 夫 ドー セ ッ ト伯 リチ ャー ド ・サ ック ヴ ィル との不 幸 な結 婚 生 活 の あ と、 痘 瘡 痕 ゆ え に二 度 と結 婚 す る まい と心 に誓 っ て い た ア ンで は あ っ たが 、 フ ィ リップ ・ハ ーバ ー トと結 婚 して み る と、 や は り不 幸 な結 婚 生 活 に な っ て し まった らしい23)。 ジ ョー ジ ・ハ ーバ ー トの 友 人 ア ー サ ー ・ウ ッ ドノス か らニ コラ ス ・フ ェ ラー に宛 て た1631年10月13日 付 けの 手 紙 に は、 「同 じ 日、 正 餐 の あ と、 私 は彼[ジ ョー ジ]と ウ ィル トンに行 っ た。 彼 が伯 爵 夫 人[ア ン]と い る 間、 一 人 で0 時 間過 ご した」 とあ る24)。地 理 的 に も、 ベ マ トンは大 聖 堂 の あ る ソー ル ズ ベ リー と 伯 爵 家 の居 城 ウ ィル トンの 中 間地 点 に あ り、ジ ョー ジは伯 爵 家 の チ ャプ レイ ンであ っ た とい う25)。そ の 頃 ベ マ トンの 教 区 牧 師 に叙 任 され た ば か りの ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トは、 も し伯 爵 夫 妻 が 不 仲 で あ っ た の な ら、 夫 人 の 心 の 支 え に な っ た に相 違 な い 。 また、 伯 爵 夫 人 と田 舎 牧 師 の 間柄 を示 す1631年12月10日 付 けの 手 紙 が 一 通 残 っ て い る26)。 ア ン ・ク リ フ ォー ド夫 人 が1646年 頃 か ら描 か せ た 一 族 の 肖像 画(ア ップ ル ビー城 の 三 面 画)、 い わ ゆ る 「グ レー ト ・ピ クチ ャー 」に は、 彼 女 が 読 ん だ と思 わ れ る書 物 の 数 々が 背 景 に描 か れ て い る。 そ の 中 に は、 ダ ンの説 教 集 の他 、 ハ ー バ ー ト の 『聖 堂 』や ジ ェラー ドの 『本 草 書 』が あ る27)。

ジェ ラー ドの 本 草 誌 は 出版 当 初 か ら、 オ ラ ンダ の ド ドエ ンズ(RembertDodoens) の 翻 案 で あ る とか 、 学 識 に 欠 け る とか 批 判 が 多 く、 トマ ス ・ジ ョ ンソ ン(Thomas Johnson)が1633年 に改 訂 版 を出 版 す る。1628年 に ロ ン ドン薬 種 商 組 合 の0員 とな っ

た トマ ス ・ジ ョンソ ンは組 合 の 命 を受 け、 翌 年 ロ ン ドン郊 外 のハ ム ス テ ッ ド ・ヒー ス や ケ ン ト州 に植 物 採 集 の旅 に出 か けた 。1639年 の 夏 に は、 ウ ェー ル ズ 地 方 に 数 人 の 薬 種 商 を引 き連 れ て 植 物 採 集 に 出か け た 。 そ の途 中 、 ジ ョンソ ン とそ の一 行 はモ ン

トゴメ リー城 でエ ドワー ド ・ハ ーバ ー トに歓 待 され る28)。そ の エ ドワー ドは、 『自伝 』 の 中 で 、植 物 学 は ジ ェ ン トル マ ンに必 須 で 、植 物 誌 か らイ ラス トと効 能 書 を切 り取 り、

薬 草 を採 集 す る とき常 に参 照 す べ きで あ る、 と述 べ て い る(23頁)。 弟 の ジ ョー ジ も、

田 舎 牧 師 』第23章 牧 師 の 鑑 」("TheParson'sCompletenesse")で 、 牧 師 は 医 術 の 心 得 もな くて は な らない と し、 フ ァー ネ リウス(フ ラ ンス王 ア ン リニ 世 の侍 医 で 、 兄 エ ドワー ドも 自伝 の 中 で 称 賛 して い る)の 本 草 書 を読 み 、 そ の 知 識 を得 る よ うに と

(15)

指 導 す る。 また 、 薬 草 の 知 識 が あ れ ば、 あ ま り裕福 で は ない 田舎 牧 師 で も、 裏 庭 が 薬 屋 に な る と述 べ て い る。 この よ うに植 物 学 に 多 大 な 関心 を寄 せ 、 時 に は薬 効 を実 地 に試 した ハ ーバ ー トが 、 ウ ィル トンの イ タ リア式 庭 園 で もオ レ ンジ の樹 を見 た 可 能 性 が あ る。

ジ ョン ・ダ ンや ア イザ ック ・ウ ォル トンに よっ て 聖女 とし て描 か れ る、 ジ ョー ジ ・ ハ ー バ ー トの 母 親 マ グ ダ レ ン ・ハ ー バ ー ト(MagdalenHerbert)1ま 、 夫 の 急 逝 の あ

と13年 間 寡 婦 を 通 し、 子 供 の 教 育 に 身 を捧 げ る。 しか し、40代 もか な り過 ぎた 頃、

1609年 の こ と、20歳 も年 下 の 青 年 ジ ョン ・ダ ンヴ ァー ズ(SirJohnDanvers)と 再 婚 す る。 テ ム ズ 川 沿 い の チ ェル シー に建 設 され た再 婚 相 手 の屋 敷 は、 イ タリア式 庭 園 として有 名 で あ った 。オ ー ブ リー に よる と、庭 園 内 に は彫 刻 ・彫 像 や 人 工 洞 窟 が あ り、

森 林 区 画 に は ス イー トブ ライ ア、 ライ ラ ック、 モ ックオ レ ン ジ、 西 洋 柊 や 杜 松 が 生 い 茂 り、 さ ら に4、5本 の林 檎 や 梨 とい った 果 樹 が 植 え られ て い た とい う29)。ダ ン ヴ ァー ズ は若 い 頃、 イ タ リア や フラ ンス に旅 行 した こ とが あ り、義 理 の 息 子 エ ドワー

ドもか つ て 訪 れ た こ との あ る ロー マ は テ ィヴ オ リの ヴ ィラ ・デ ス テ な ど、 王 侯 ・貴 族 の 大 庭 園 で披 露 され てい る創 意 ・工 夫 を取 り入 れ た に相 違 な い30)。

チ ェル シー の屋 敷 を訪 れ た文 人 は 多 いが 、そ の 中 に は、ジ ョン ・ダ ンや フ ラ ンシス ・ ベ イ コ ンが い た。 ベ イ コ ン は そ の 著 『随 想 集 』(Essays)の 「庭 園 に つ い て」("Of Gardens")で 、 庭 園 内 の 草 木 が 相 応 しい 時 期 に そ れ ぞ れ の 最 盛 期 を迎 え る ように 配 慮 しな け れ ば な らない と し、11月 後 半 、12月 、1月 の た め に は常 緑 性 ゆ え に オ レ ン

ジや レモ ンの樹 な どを選 ぶ よ う指 示 して い る31)。ベ イ コ ンが 理 想 の庭 を描 く際 、 ダ ンヴ ァー ズ家 の 庭 園 を一 部 参 考 に した可 能 性 は 否 定 で きず 、 チ ェ ル シー の 庭 園 にオ レ ン ジの 樹 が 植 え られ て い た の で は ない か と想 像 した くな る。 ジ ョー ジ は、 こ の継 父 の 庭 園 で、 オ レ ンジの樹 に巡 り会 い、 そ の実 が 生 るの を 目撃 した のか もしれ ない 。

さ らに、 ジ ョン ・ダ ンヴ ァー ズ の 最 初 の 妻 マ グ ダ レ ン ・ハ ー バ ー トは1627年 に逝 去 す るが 、 夫 は 翌 年 、 エ リザ ベ ス ・ダ ン トシー と再 婚 す る。 再 婚 相 手 の女 性 は ウ ィ ル トシ ャー の ラ ヴ ィ ン トンに遺 産 相 続 と して 土 地 を所 有 して い た 。 ダ ンヴ ァー ズ は そ の 地 にや は り、 オ ー ブ リー に よる と、 イギ リス で 第2番 目の イ タ リア式 の庭 を造 園 す る。 ラヴ ィ ン トンの 地 は、 ウ ィル トンの 南 東 数 マ イル に位 置 し、 ハ ー バ ー トは こ

(16)

れ ら継 父の イタリア式庭 園でオ レンジの樹 を見 た可 能性 が あろう。

むすび

これ まで 、 ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トの 「仕 事 」(II)で 援 用 され た 「オ レ ン ジの樹 」に つ い て 、 そ の樹 が 何 に 由来 す るの か を解 明 しよ う と努 め て きた 。富 と権 力 の 象 徴 と して、 当時 盛 ん に王 侯 ・貴 族 の庭 園 な どに 珍 しい 果 樹 が 栽 培 され る よ うに な り、ハ ー バ ー トも親 類 が 造 園 した庭 園 、 例 え ば 庇 護 者 ペ ンブ ル ック伯 爵 家 の館 ウ ィル トンや 継 父 ジ ョン ・ダ ン ヴ ァー ズ の チ ェ ル シー の 庭 園 で 、 オ レ ンジ の 樹 を 見 た の か も知 れ な い 。ハ ー バ ー ト家 に 限 定 す れ ば 、 兄 エ ドワー ドが パ リの チ ュ イル リー で観 察 した オ レ ン ジの 樹 や 、 恋 愛 詩 の 中 で 隠 喩 と して 用 い られ た オ レ ンジ を忘 れ る こ とは で き な い。

た とえ気 質 の 違 う兄 弟 で あ っ て も、 い や 、 多 くの 点 で違 い す ぎ る兄 弟 だか らこそ 、 兄 が 意 識 的 に 恋 愛 詩 に使 用 した 当 時 として は珍 しか った オ ーレン ジ を、 装 い を新 た に

して、 しか もそ れ と判 る よ うな形 で 自分 の 宗 教 詩 の 中 に援 用 した に相 違 ない 。 あ くまで も推 測 の域 を出 な いが 、駐 仏 大 使 とな って 社 会 的 に活 躍 して い た 兄 に対 す る 一 種 の 憧 れ と椰 楡 の 意 味 を込 め て 、 ハ ー バ ー トは 「あ の働 き者 の オ レ ン ジの 樹 に な りた い 」との願 望 を披 渥 した の で あ ろ う。 こ の 世 で の 使 命 を全 うして い な い と 少 し卑 屈 に な り、 ご くわず か で あ って も常 に そ の 成 果 を神 に捧 げ た い との気 持 ち を 表 す の に、 ハ ー バ ー トに と りそ の オ レ ンジ の特 性 ほ ど相 応 しい もの は他 に なか っ た の で あ る。

附 記:本 稿 は2003年ll月15日 に 行 な わ れ た17世 紀 英 文 学 会 東 京 支 部 例 会(於 明 治 学 院 大 学)で の 口 頭 発 表 に 基 づ い て い る 。な お 、筆 者 は か つ て 「ジ ョー ジ ・ハ ー バ ー トの 「 仕 事(皿)」

注 解 の 一 つ の 試 み:オ レ ン ジ の 木 は な ぜ 働 き もの な の か 一 」(創 価 大 学 英 文 学 会 編 『 英

語 英 文 学 研 究 』第41・42合 併 号[1998年3月]所 収 、ll7‑30頁)と 題 し て 論 じた こ とが あ る 。

一 部 引 用 に 重 複 が 見 られ る が 、 今 回 は 兄 弟 と庭 園 を中 心 に 据 え前 掲 拙 論 を補 完 す る もの で

あ る 。

(17)

)1 ) 2 ) 3 ) 4 ) 5 ) 6 ) 7 ) 8 ) 9

IzaakWalton,TheLivesofJohnDonne,SirHenryWotton,RichardHooker,GeorgeHerbert andRobertSanderson,ed.GeorgeSainsbury(London:OxfordUniversityPress,1.927)277.

ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー ト の 詩 及 び 散 文 の 引 用 は 、TheWorksofGeorgeHerbert,ed.F.E.Hutchinson

(1941;corr.rpt.Oxford:ClarendonPress,1945)に よ る 。 な お 、 詩 の 邦 訳 は 、 鬼 塚 敬 一 訳 『ジ ョ ー一

ジ ・ハ ー バ ー ト 詩 集 』(南 雲 堂1986年)、 『続 ジ ョ ー ジ ・ハ ー バ ー ト 詩 集 』(南 雲 堂X997年)を

し た 。,

LawrenceStone,TheFamily,SexandMarriageinEngland1500‑‑1800(1977;abr.edn.New York:HarperandRow,1979)40,42.

MayWoodsandAreteSwartzWararen,GlassHoacses:AHistoryofGreenhouses,Orangeries

andConservatories(NewYork:Rizzoli,*..)3‑2L松 平 圭 一 『イ ギ リ ス 式 庭 園 文 化16世

紀 か ら18世 紀 末 ま で に お け る 成 立 と 展 開 』(西 日 本 法 規 出 版2001年)80頁 参 照 。

JohnParkinson,ParadisiinSoleParadisusTerrestris(1629;rpt.Noorwood,N.工:WalterJ.

Johnson,1975)584.

TheLifeofEdward,FirstLordHerbertofCherbury,ed.J.M.Shuttleworth(London:Oxford UniversityPress,1976)S‑9.Cf.Walton319:"Thusheliv'd,andthushedy'dlikeaSaint, unspottedoftheWorld,fullofAlms‑deeds,fullofHumility,andalltheexamplesofavertuous life...鮪

ジ ョ ン ・イ ー ヴ リ ン の 日 記 の 引 用 はTheDiaryofJohnEvelyn,ed.E.S.deBeer,6vols.(Oxford:

ClarendonPress,1955)に よ る 。

EdwardHerbert,ThePoems,EnglishandLatin,ed.G.C.MooreSmith(1923;rpt.NewYork:

AMSPress,1980)28.

JeffreyPowersTBeck,WritingtheFlesh:TheHerbertFamilyDialogue{Pittsburg:Duquesne

UniversityPress,1998)120ff.な お 、 兄 弟 の 確 執 に つ い て は 、 次 の 論 考 が 参 考 に な っ た 。George Held,"Brother.Poets:TheRelationshipBetweenEdwardandGeorgeHerbert."inLikeSeason'd

Timber:NewEssaysonGeorgeHerbert,ed.EdmundMillerandRobertDiYanni(NewYork:

PeterLang,1987)19‑35.

10}May'Woods,4‑S.

ll)ボ ッ カ チ オ 『デ カ メ ロ ン 』 野 上 素 一 訳(岩 波 文 庫1957年)第3巻 、11‑12頁 12}WilliamHarrison,TheDescriptionofEngland,ed.GeorgesEdelen(1968;rpt.NewYork:

Dover,1994}269.

13)JohnEvelyn,ElysiumBritannicurn,ortheRoyalGardens,ed.JohnE.Ingram(Philadelphia:

UniversityofPennsy王vaniaPress,2001)323.

14}RoyStrong,TheRenaissanceGardeninEngland{1979;London:ThamesandHudson,199$}

87‑90.(ロ イ ・ス ト ロ ン グ 『イ ン グ ラ ン ド の ル ネ サ ン ス 庭 園 』 圓 月 勝 博 ・桑 木 野 幸 司 訳[あ り な 書 房2003年])

15}TheWorksofSirWilliamTemple{1814;Rpt.NewYork:Greenwood,1968}III,226‑27.

16}Aubrey'sNaturalHistoryofWiltshire,ed.30hnBatton(1847;rpt.Throwbridge,Witshire:

David&Chaeles,1969)83‑83,86‑87.

(18)

17}Strong,139‑46.

18)JohnTaylor,ANewDiscoverybySea,withaWherryfromLondontoSalisbury{London, 1623)inStrong,i22‑23.Cf.CristinaMaicolmson,Heart‑Work:GeorgeHerbertandthe ProtestantEthic{Stanford:StanfordUniversityPress,].999)193

19)MichaelG.Brennan,Litera」(London=Routledge,1988)44‑46;MargaretP.Hannay,Philip"sPhoenix(NewYbrk:Oxfbrdっ7、Patronageinthe、Eη8」'5乃Renaissance:The、PembrokeFamily

UniversityPress,1990)47‑50.な お 引 用 の 出 典 は 、 『ア ー ケ イ デ ィ ア 』 磯 部 初 枝 他 訳(九 州 大 学 出

版 会1999年)465頁

20)TheDiaryofJohnEvelynII,173‑75.Cf.JohnDixonHunt,GardenandGrove:Italian

RenaissanceGardenintheEnglishImagination1600‑1750(1986;rpt.Philadelphia:University ofPennsylvaniaPress,1996)7.

21)イ ー ヴ リ ン の 日 記 に 描 か れ る ラ イ ム(lime,orlime=tree)は 、 す べ て 「リ ン デ ン(し な の き)」 で あ る 。 彼 は オ ラ ン ダ や フ ラ ン ス で 、 リ ン デ ン が 植 え ら れ た 見 事 な 散 歩 道 や 並 木 道 に 出 会 い 、 印 象 深 く記 し て い る 。 日 記 の 編 者E.S.deBeerも 索 引 で 、"lime"を"1inden"に 分 類 し て い る 。 イ ー

ヴ リ ン 著 『英 国 の 庭 園 』 や 『森 』(Sylva,orADiscourseofForest‑TreesandthePropagationof Timber)で も 、 ラ イ ム は リ ン デ ン を 指 し て い る 。

22)Aubrey'sBriefLives,ed.OliverLawsonDick(1949;rpt.Jaffrey,NewHampshire:DavidR.

Godine,1999}145;Malcolmson,193‑5;andStrong,122‑24,147‑61.

23)TheDiariesofLadyAnneClifford,ed.D.J.H.Clifford(PhoenixMill,Gloucetershire:

Sutton,1990)88‑91.Cf.TreshamLever,η 把 旋rわ 飢 ∫6ゾ 剛 ∫oη(London:JohnMurray,1967) 97‑9;.MarkinHolmes,Proud1>orthernLady:LadyAnneClifford1590‑1676(Chichester,

WestSussex:Phillimore,1975}126‑28;andGrahamParry,TheSeventeenthCentury:The IntellectualandCulturalContextofEnglish.Literature16031700{London:Longman,1989}

':i

24)TheFerranPapers,ed.B.Blackstone(Cambridge:CambridgeUniversityPress,1938)267 25)Aubrey'sBriefLives,137.

26}Hutchinson,376‑77.

27}RichardT.Spence,LadyAnneClifford:CountessofPembroke,DorsetandMontgomery

(PhoenixMi1.1,Gloucetershxre:Sutton,1997)190‑91;BarbaraKeiferLewalski,WritingWomen inJacobeanEngland(Cambridge,Mass.:HarvardUniversityPress,1993)137‑38.

28)SineyLee,ed.,TheAutobiographyofEdward,LordHerbertofCherbury.2nded.(London:

Routledge,1906)31n;M.Bottrall,EverymanaPhoenix:StudiesinSeventeenth‑Century Autobiography{London:JohnMurray,1.958)72;J.S.L.Gilmour,ed.,ThomasJohnson:

JourneysinKentandHampstead(Pittsburg:TheHuntBotanicalLibrary,1972}1‑2.

29)AmyM.Charles,ALifeofGeorgeHerbert(Ithaca=CornellUniversityPress,1977)61‑65.Cf Malcolmson,185‑92;Strong,176‑86;andHunt,126‑30.

3Q}Aubrey'sBriefLives,81.Cf.F.N.Macnamara,MemorialsoftheDanversFamily{London:

HardyandPage,1895)293‑94.EdwardHerbert,TheLife74.Cf.JohnButler,LordHerbert ofChirbury(1582‑1648:AnIntellectualBiography(Lewiston,NewYork:TheEdwinMellen Press,1990)102.

参照

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